山中 律雄(やまなか りつゆう、1958年3月22日 - )… 山中 律雄(やまなか りつゆう、1958年3月22日 - )は日本の歌人、曹洞宗の僧侶。日本文藝家協会会員。現代歌人協会会員。日本歌人クラブ秋田県代表幹事。秋田魁新報読者文芸「短歌」選者。秋田県歌人懇話会会長。短歌結社「運河」所属。 秋田県にかほ市出身・在住。駒澤大学仏教学科時代に短歌を始め、1983年に「運河」に入会した。川島喜代詩に師事し、後に代表となる。 1996年、歌集『無窮より』(川島書店)を出版した。1997年、「現代短歌の新しい風」(ながらみ書房)に参加する。 2000年、歌集『刻ゆるやかに』(角川書店)を出版。同歌集にて「秋田県芸術選奨」「日本歌人クラブ東北地域ブロック優良歌集賞」を受賞した。
小嵐 九八郎(こあらし くはちろう、1944年7月31日 -… 小嵐 九八郎(こあらし くはちろう、1944年7月31日 -)は、日本の小説家、歌人。 本名、工藤永人。 秋田県能代市出身。神奈川県立川崎高等学校、早稲田大学政治経済学部卒業。大学在学中から新左翼運動に身を投じ、社青同解放派で活動し、通算5年の服役経験を持つ。歌人としての筆名は米山信介だったが、現在は小嵐九八郎に統一。「未来」短歌会にて岡井隆に師事。秋田方言を大胆に取り入れた軽快な作風を、小説においても短歌においても統一している。日本ペンクラブ会員。
安井 浩司(やすい こうじ、1936年2月29日 - 202… 安井 浩司(やすい こうじ、1936年2月29日 - 2022年1月14日)は、俳人。秋田県能代市出身。秋田県立能代高等学校、日本歯科大学卒業。 1954年上京、1969年より4年間飛騨高山に住んだのち秋田に帰郷。10代のとき寺山修司編集の「牧羊神」に参加。1958年ころから永田耕衣の「琴座」に投句、のち同人。また1964年より高柳重信の「俳句評論」同人。1968年に加藤郁乎、大岡頌司らと「ユニコーン」を創刊するが、4号で廃刊。1984年「騎」創刊に参加。歯科医師のかたわら句作を行った。しばしばエロティックなイメージを伴う土俗的・秘教的な句風で、俳壇からも距離を置いて句作を続けた。代表句に「ひるすぎの小屋を壊せばみなすすき」など。
穂積 生萩(ほづみ なまはぎ、1926年1月4日 - 没年不… 穂積 生萩(ほづみ なまはぎ、1926年1月4日 - 没年不明)は、日本の女流歌人。本名澤木 数枝。 山林大地主で資産家の澤木再吉の末娘として秋田県男鹿に生まれる。1928年、東京府荏原郡田園調布(東京都大田区田園調布)に移住。1943年、高等女学校を卒えて鈴木亨のもとで古事記を学ぶ。叔父澤木四方吉(慶應義塾大学部文学科教授)が折口信夫の旧友だった影響により、折口に傾倒。1944年4月、戦災を避けて秋田に帰郷。 1948年、折口の媒酌により、酒類評論家で技術士の穂積忠彦(俳優穂積隆信の兄)と結婚。1952年、折口から「生萩」の号を受ける(故郷秋田のナマハゲに由来)。 1975年4月、穂積と離婚。
松澤 昭(まつざわ あきら、1925年3月6日- 2010年… 松澤 昭(まつざわ あきら、1925年3月6日- 2010年8月13日)は、東京出身の俳人。東京府滝野川町(現北区)生。父は「雲母」同人の松澤鍬江。少年時代より萩原朔太郎、三好達治に憧れて詩作を試み、また10代の頃より松澤家の常連来客である松村蒼石らを知り俳句に興味を持つ。1944年、学徒動員時代に句作を開始。1946年、法政大学経済学部を卒業。この年に飯田蛇笏に会い師事する。1953年、「雲母」同人。1956年より現代俳句協会会員。1961年、石原八束、文挾夫佐恵、柴田白葉女らとともに「秋」を創刊。主宰を務める。1962年、「秋」主宰を辞し、1964年「四季」を創刊・主宰。2000年、現代俳句協会会長に就任。
後藤 弘(ごとう ひろし、1919年6月6日 - 2001年… 後藤 弘(ごとう ひろし、1919年6月6日 - 2001年6月26日)は、日本の公認会計士、税理士、俳人。 秋田県秋田市生まれ。別名・岡野等。秋田師範学校卒、1943年土浦海軍航空隊に入り、少尉に任官して大分、博多、谷田部で訓練し特攻隊を志願するが敗戦を迎える。1949年東北大学文学部卒。日本興業銀行ほか数社を経て、1957年日本能率協会に入り、経理部長、常務理事、監事、のち顧問。1980年文教大学情報学部教授、92年定年退職。日本能率協会の経営コンサルタントとして数100社に及ぶ一流企業のバランスシートを分析した。 文学に親しみ、学生時代、東北学生俳句連盟の「赤外線」の創刊に参加、1945年新俳句人連盟に入り投句。
松井 如流(まつい じょりゅう、1900年〈明治33年〉3月… 松井 如流(まつい じょりゅう、1900年〈明治33年〉3月31日 - 1988年〈昭和63年〉1月16日)は、歌人、書家。 秋田県平鹿郡横手町(現・横手市)出身。旧姓は猿田。本名は郁次郎。橋田東聲に師事し、歌誌『覇王樹』に入り、1954年から同誌主宰。吉田苞竹に書を学び、隷書「杜少陵詩」で64年日本藝術院賞受賞。日展理事、大東文化大学教授。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
大黒 富治(おおぐろ とみじ、1893年11月15日 - 1… 大黒 富治(おおぐろ とみじ、1893年11月15日 - 1965年12月18日)は、秋田県出身の歌人、農業研究家。旧姓丹波。(昭和28年、仁別務沢、植物園にて撮影) 1893年(明治26年)11月15日、仙北郡大川西根村(現・大仙市)において丹波常吉とフミの間に六男三女の末っ子として生まれる。 秋田農業学校(現・秋田県立大曲農業高等学校)を卒業後、1909年(明治45年)に鹿角郡の曙尋常高等小学校の代用教員となり、1915年(大正4年)から仙北郡花館村(現・大仙市)の農商務省農事試験場陸羽支場にて農学博士の寺尾博の助手として作物育種事業に従事する。同僚の仁部富之助らとともに冷害に強い米の品種改良に取り組み、陸羽132号、秋田1号、秋田7号などの育種に尽力した。
草皆 五沼(くさかい ごしょう、1891年6月2日 - 1… 草皆 五沼(くさかい ごしょう、1891年6月2日 - 1964年11月11日)は、日本の俳人、医師である。俳句結社「黛吟社」を興した。 秋田県山本郡浅内村(後の能代市浅内)の小川末蔵の四男として生まれる。本名は■太(ちょうた ■はウ冠に甾丁)。後、「茂作」に改名している。 旧制・秋田県立大館中学校1年生のときに地元の俳人・山崎五風から俳句の手ほどきを受け、すぐに才能を現す。のちに秋田を代表する俳誌となる『俳星』に参加し、生涯『俳星』に所属した。 中学校4年のときに脚気を患い自宅療養し、家の近くの沼の周りを散策しながら句作を続けた。沼の数が五つあったことから、このころから号を五沼と名乗り、のちに秋田県南秋田郡馬場目村(現在の五城目町馬場目)の草皆家に養子に入ったことから、後半生は草皆五沼と名乗った。
安成 二郎 (やすなり じろう、1886年9月19日 - 1… 安成 二郎 (やすなり じろう、1886年9月19日 - 1974年4月30日)は、日本の歌人、小説家。 秋田県北秋田郡(現・北秋田市)出身。父正治は元長府藩士で阿仁鉱山の高級機械工だった。兄は評論家安成貞雄、弟は福原信三の秘書だった安成三郎。 秋田縣立大舘中學校を中退した後に上京し、徳田秋声の門下生になった。土岐善麿編集の「生活と藝術」などで生活派の短歌を発表する一方で、金尾文淵堂を振り出しに、実業之世界社や複数の新聞社の編集記者として長く勤めた。平民社に出入りしていた兄貞雄の影響で、大正初期から内田魯庵、大杉栄らと交流を持った。大杉や荒畑寒村が創刊した「近代思想」の編集の手伝いを兄とともに行った。
柴田 政太郎(しばた まさたろう、1884年(明治17年)1… 柴田 政太郎(しばた まさたろう、1884年(明治17年)11月10日 - 1953年(昭和28年)3月12日)は、日本の素封家、篆刻家、刀工、俳人。上記以外にも書、画、謡曲、大皷、鼓などで活動した。号は果(か)、紫陽花、木鶏。第二次世界大戦頃、一部の刀には光興と銘すると昭和町の歯科医である菅原鶴太郎は言及している。 印は犬養毅、張学良たちに愛用された。刀工としては国工の称号を持つ。日本刀鍛錬練習所所長の栗原彦三郎によって「聖代刀の暫定委列と標準価格」の中では神品の列に挙げられている。刀剣研究家の得能一男によって柴田は昭和元年から20年までの主要な刀工として、息子の清太郎は昭和の主要な刀工として挙げられている。
菅 礼之助(すが れいのすけ、1883年11月25日 - 1… 菅 礼之助(すが れいのすけ、1883年11月25日 - 1971年2月18日)は、日本の実業家、俳人。秋田県生まれ。旧制秋田中学、日本中学(現:日本学園)、東京高等商業学校(現:一橋大学)出身。古河鉱業(現古河機械金属)を経て、石炭庁長官、同和鉱業(現DOWAホールディングス)会長、昭和鉱業(現昭和KDE)会長、東京電力会長、経済団体連合会評議会議長等を務めた。1970年勲一等瑞宝章、1971年従三位勲一等。第九代、十代、十三代如水会理事長。初代日本相撲協会運営審議会会長。俳人としては裸馬と号し、俳誌「同人」を主宰した。 菅礼之助(菅裸馬)は明治16年(1883年)に秋田県南秋田郡土崎港町に生まれ(本籍は雄勝郡秋ノ宮)、東京高等商業学校(現:一橋大学)を卒業後、明治38年(1905年)に古河鉱業へ入社、古河グループの三代目古河虎之助をビジネスで支える一人となった。
石井 露月(いしい ろげつ、1873年(明治6年)5月17日… 石井 露月(いしい ろげつ、1873年(明治6年)5月17日) - 1928年(昭和3年)9月18日)は、日本の俳人。本名は祐治。 秋田県河辺郡女米木(めめき)の農家石井常吉の二男として生まれる。幼時に祖父与惣右衛門から実語教を口伝で習って覚えた。祖父はまた発句もよくしたので、それも覚えた。少年時代はとにかく読書欲旺盛で、川向かいの村落に小舟で渡り本を借りてきて読んでいたという。高麓小学校では成績優秀で、文部省から賞品に論語の本を贈られるほどであった。また、12歳頃から既に盤虎・李花園・雲城・芥郎などと号して文筆に親しんでいた。 1888年(明治21年)秋田中学校に入学。中学時代は江帾澹園に漢詩漢籍を習い創作の添削指導も受けるなどしていたが、脚気を患い3年で退学。
安藤 和風(あんどう はるかぜ、慶応2年1月12日(1866… 安藤 和風(あんどう はるかぜ、慶応2年1月12日(1866年2月26日) - 昭和11年(1936年)12月26日)は、日本のジャーナリスト、マスメディア経営者、俳人、郷土史研究家。通名および俳号は「和風」をそのまま音読みして「わふう」。秋田県の地方紙「秋田魁新報」の事業拡大に貢献し、秋田魁新報社三大柱石の一人と称された。「魁の安藤か、安藤の魁か」と言われるほど、新聞記者としての名声を全国にとどろかせた。 俳号・雅号として他に、柳外、夢蝶、時雨庵、大蕗軒、白松子、太平山人、城南陰士、自適庵、布々木園、蝶々、松陰舎、松庵など十数以上を用いていた。 秋田藩士安藤和亭(通名は和市)、イクの長男として生まれる。