男鹿 和雄(おが かずお、1952年2月29日 - )は、ア… 男鹿 和雄(おが かずお、1952年2月29日 - )は、アニメーション美術監督、挿絵画家。株式会社でほぎゃらりーアドバイザー。宮崎駿、高畑勲、川尻善昭らの作品を支えてきた日本を代表する美術監督である。 1952年、秋田県仙北郡太田町(現:大仙市)三本扇に生まれる。秋田県立角館高等学校卒業後、デザイン系専門学校を一年で中退。学校に通う途中、アニメーションの広告を見かけて背景を描くようになる。1972年、小林プロダクションに入社、代表の小林七郎に師事する。1975年に看板製作の仕事に転職するも、1977年に『家なき子』制作の為に同プロダクションに復帰。その後はマッドハウスに移籍し、椋尾篁の下で『幻魔大戦』『カムイの剣』などのアニメに参加。
友川 カズキ(ともかわ かずき、1950年2月16日 - )… 友川 カズキ(ともかわ かずき、1950年2月16日 - )は、日本の歌手、競輪評論家、画家である。本名:及位 典司(のぞき てんじ)。2004年に「友川かずき」から現在の表記へと改めている。
佐々木 ひでお(ささき ひでお、1949年8月27日 - 、… 佐々木 ひでお(ささき ひでお、1949年8月27日 - 、本名: 佐々木秀雄)は、秋田県由利本荘市出身の詩画家。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
藤井 勉(ふじい つとむ、1948年5月8日 - 2017年… 藤井 勉(ふじい つとむ、1948年5月8日 - 2017年9月12日)は、日本の洋画家。自身の娘3人の成長を細密な描写により描いた油彩作品で知られている。 1948年(昭和23年)5月秋田県仙北郡飯詰村天神堂、または仙南村(現美郷町)に藤井吉五郎の次男として生まれる。六郷町立六郷中学校、秋田県立六郷高等学校を経て岩手大学教育学部特設美術科に進み、以後岩手県盛岡市を拠点として創作活動に入った。代表作は「風」「剣」「寂」。 2017年(平成29年)9月12日、心不全のため、盛岡市内の病院で死去、69歳。
佐々木 巌(ささき いわお、1939年〈昭和14年〉8月23… 佐々木 巌(ささき いわお、1939年〈昭和14年〉8月23日 - 1999年〈平成11年〉3月30日)は、日本人正教徒でありイコン画家。秋田県大館市に生まれ、北麓ハリストス正教会で洗礼を受ける。聖名はペトル。フィンランドにおけるローマ字表記は"Petros Sasaki"(ペトロス ササキ)。 秋田県立大館鳳鳴高等学校を卒業後、ニコライ堂境内にある日本正教会が運営する神学校を1962年に卒業。教団で伝教者として働き、『正教時報』の編集に携わった。1963年7月、大阪ハリストス正教会に赴任し、日曜学校の指導、指導者の養成を行う。ギリシアで正教神学と正教伝統のビザンティン・イコンを学ぶため、1964年8月伝教者としての職を辞し、9月にギリシアに渡り、アテネ大学、工芸大学などで学んだ。
戸嶋 靖昌(としま やすまさ, Yasumasa TOSHI… 戸嶋 靖昌(としま やすまさ, Yasumasa TOSHIMA, 1934年 – 2006年7月20日)は、栃木県出身の画家。武蔵野美術学校(現・武蔵野美術大学)卒業。 1934年、栃木県塩谷郡船生村(現・塩谷町)に生まれた。1939年に父親が肺結核で病死したため、親の故郷である秋田県北秋田郡坊沢村(現・北秋田市)に引っ越し、母子家庭(母、靖昌、弟、妹)で育った。実家は大地主の富農であり、代々坊沢村長を務める名家だった。なお、出生地が鷹巣町坊沢であるとされることもあるが、生涯にわたって戸嶋の作品を取り扱った清澄画廊は戸嶋の出生地を栃木県であるとしている。坊沢村立尋常小学校、坊沢村立小学校、秋田県立大館中学校(旧制中学/現・秋田県立大館鳳鳴高校)に進学し、大館中学校美術部では部長を務めた。
高橋宏幸(たかはし ひろゆき、1923年-2010年)は、児… 高橋宏幸(たかはし ひろゆき、1923年-2010年)は、児童文学者、挿絵画家。 秋田県由利本荘市東由利老方に生まれる。旧下郷村立老方小学校、旧制秋田中学校(現秋田県立秋田高等学校)卒業。在校中、全国中等柔道大会で準優勝。柔道は講道館五段。旧秋田鉱山学校(現秋田大学工学資源学部)卒業後、入隊。1943年から45年にかけ満州・千島に転戦。1946年小峰書店取締役初代編集長。退任後、日本初の出版プロダクションを設立。1972年「チロヌップのきつね」を機に作家となる。1990年の「オオカミ王ぎん星」で日本児童文芸家協会賞受賞。日本児童文芸家協会理事長、日本児童文芸家協会顧問、産経児童出版文化賞選考委員を務め、実作指導も行った。
池田 修三(いけだ しゅうぞう、1922年(大正11年)4月… 池田 修三(いけだ しゅうぞう、1922年(大正11年)4月30日 - 2004年(平成16年)11月10日)は、秋田県由利郡象潟町(現在のにかほ市象潟)生まれの版画家。 父は開業医で、姉のほか男4人兄弟の3男として生まれる。 秋田県立本荘中学校(現:秋田県立本荘高等学校)を卒業後、1942年に東京高等師範学校(現:筑波大学)芸能科に入学。学業途中で陸軍工兵学校に入隊するが、敗戦で東京高等師範を繰り上げ卒業した。 1946年、秋田県立由利高等学校に美術科教諭として赴任し、1952年には聖霊高等学校(現:聖霊女子短期大学付属高等学校)に移る。たまたま秋田を訪れていた画家の近藤良悦夫妻の知遇を得て、1955年同校を退職。
佐々木 宗一郎(ささき そういちろう、1910年 - 199… 佐々木 宗一郎(ささき そういちろう、1910年 - 1997年12月20日)は秋田県横手市出身の洋画家。
柴田 安子(しばた やすこ、1907年9月26日 - 194… 柴田 安子(しばた やすこ、1907年9月26日 - 1946年7月27日)は、日本の画家。旧姓最上。最上広胖の娘。 1907年、秋田県大曲市で生まれる。但し、父広胖は1900年より貴族院議員になってすでに東京麹町に邸宅を構えていたので東京生まれの可能性が高い。母か禰。幼名義枝。父の帰省に伴い、度々秋田県角間川の尋常高等小学校に一時編入した。 1919年、安子に改名。 1921年、鎌倉女学校入学。 1923年、震災後東京にもどり、千代田高等女学校に編入、在学中から松岡映丘に師事。 1931年に由利本荘市出身の東洋史学者柴田宜勝と結婚。 1938年には新美術人協会を設立。しかしその同年、甲状腺の異常が見つかり手術を行った。
伊勢 正義(いせ まさよし、1907年2月28日 - 198… 伊勢 正義(いせ まさよし、1907年2月28日 - 1985年11月18日)は、日本の洋画家。 秋田県鹿角郡小坂町出身。1931年東京美術学校西洋画科卒。藤島武二に師事した。1933年の第20回光風会展でK夫人賞を受け、1934年に光風会会員となった。1934年の第15回帝展に出品した「カルトン」が初入選した。1935年の第22回光風会展で初の光風特賞を受賞した。同年、第二部会展で特選、文化賞を受賞した。 1936年に猪熊弦一郎などとともに新制作派協会(後の新制作協会)を結成した。その後は、同協会の中心会員として活躍した。 1936年ベルリンオリンピックの芸術競技の絵画種目に「フットボール」という作品を出品した。
勝平 得之(かつひら とくし、1904年4月6日 - 197… 勝平 得之(かつひら とくし、1904年4月6日 - 1971年1月4日)は、秋田県秋田市本町(現在の大町)生まれの版画家。本名・勝平徳治。 家業である紙漉き業、左官業の傍ら絵を書いていたところ、竹久夢二の絵に惹かれ浮世絵版画を始める。このとき、色刷版画の研究をし、1928年に自画、自刻、自刷の彩色抜法を完成させる。以後、故郷秋田の情景を描き続ける。1929年には日本版画協会展に「外濠夜景」、「八橋街道」が入選。その後、1931年の第12回帝展で第2部初入選など、数々の展覧会に多数入選し国内に名を轟かせた。1935年、秋田県を訪れたブルーノ・タウトと知り合いになり、作品が世界に紹介された。ケルン東洋美術館には代表作およそ70点が保存されている。
田口秋魚(たぐち しゅうぎょ、1903年(明治36年)-19… 田口秋魚(たぐち しゅうぎょ、1903年(明治36年)-1988年(昭和63年)1月24日)は、現在の秋田県仙北市角館町上新町生まれの画家。本名は田口徳蔵。 1926年(大正15年)荒川青亭に師事、1927年には上京して同郷の平福百穂の門に入り、1932年(昭和7年)には川端画学校に入学して日本画を学んだ。1933年10月30日の平福百穂の死に会した唯一の門人。百穂没後は吉田秋光に師事した。戦前在京中は童画を好み、三越百貨店で毎年ひらかれる童宝展に出品した。1937年(昭和12年)9月の日中戦争に応召したのち、満州・中国で約600枚の戦線スケッチをのこした。戦後は郷里角館に帰り、高等学校での美術指導や創作活動にたずさわった。
栗盛 吉蔵(くりもり きちぞう、1897年(明治30年)2月… 栗盛 吉蔵(くりもり きちぞう、1897年(明治30年)2月 - 1974年(昭和49年))は、昭和時代に活躍した日本画家、美術教師。号は大地。 奈良県奈良市高畑町にウィリアム・メレル・ヴォーリズ設計の自宅兼アトリエを構え、志賀直哉の高畑サロンに参加した。後に故郷の秋田県大館市で美術教師として教育に従事し、同地の美術界に大きな影響を与えた。 1897年(明治30年)2月、秋田県大館町に、父栗盛倉松、母ヤエの三男として生まれる。生家の栗盛家は、曾祖父栗盛吉右衛門が一代で財を築いた北秋田郡有数の資産家で、吉右衛門は奨学金の貸し付けなどの育英事業を行う栗盛教育団を設立している。 大正年間に京都市立芸術大学の前身である京都市立美術工芸学校本科を卒業した。
今田 敬一(こんだ けいいち、1896年11月8日 - 19… 今田 敬一(こんだ けいいち、1896年11月8日 - 1981年5月5日)は、日本の画家、童話作家、美術史家、林学者。北海道大学名誉教授。北海道大学では森林気象学関連の研究の他、新島善直の森林美学を継承したと評されている。 画家としては「道展」に創立当時から関わり、1974年には北海道美術協会会長もつとめ、北海道美術界の発展に寄与した。 秋田市で第二子(上に姉があり、長男)として生まれる。父の今田佐吉は養蚕指導者で、父の仕事の都合により1900年から札幌に定住した。北海道師範学校付属小学校(現・北海道教育大学附属札幌小学校)に入学し、水彩画好きな教員の影響を受けて、4-5年生の頃には父に買ってもらった画材により絵を描き始めた。
金沢 秀之助(かなざわ ひでのすけ、1894年 - 1967… 金沢 秀之助(かなざわ ひでのすけ、1894年 - 1967年)は、日本の洋画家。 秋田県横手市出身。1920年に東京美術学校を卒業した。1922年にフランスのパリのアカデミー・ランソンに留学し、1924年に帰国した。1926年に二科展に初入選した。 1952年に日展に出品した「肉屋の店」が特選を受ける。1957年に日展審査員となり、1958年に十柯会を結成した。 二科展、日展の他、春台会(岡田三郎助が主宰していた)や帝展、二部会にも作品を出品していた。十柯会の他、光風会、白岬会の会員でもあった。
伊藤 弥太(いとう やた、1892年(明治25年)4月6日 … 伊藤 弥太(いとう やた、1892年(明治25年)4月6日 - 1975年(昭和50年)5月31日)は、日本の洋画家。 秋田県大館市部垂町出身。1910年に旧制大舘中学校(現・秋田県立大館鳳鳴高等学校)を卒業し、翌年の1911年に上京して美術雑誌「美の廃墟」を友人らと発行したのち岸田劉生に師事した。1912年に国民新聞社の記者として活動した。1914年の第1回二科展に入選した。 この頃に家財道具一切の盗難に遭い、これが原因で岸田劉生との間に誤解が生じ、絵画を放棄して静岡県三島市に隠棲した。 1927年に若山牧水らの勧めで再起し国分寺村に上京した。1929年には千葉県に転居し、翌年の1930年には秋田市に転居した。
牧野 昌広(まきの まさひろ、1883年‐1939年)は、明… 牧野 昌広(まきの まさひろ、1883年‐1939年)は、明治時代から昭和時代にかけての日本画家。 小林清親及び寺崎広業の門人。1883年に本荘県(現・秋田県)本荘市(現・由利本荘市)中横町に、お抱え絵師の牧野雪僊の孫として生まれる。本名は昌造。1897年頃、清親に入門したといわれ、1900年、昌広18歳の時に東京へ上京する。この頃、浮世絵は衰退期にあたり、後に郷里の先輩であった寺崎広業に師事した。昌広は身体が病弱であったため、実力を発揮することができなかった。1939年に東京で没す。
小場恒吉(おば つねきち、1878年〈明治11年〉1月25日… 小場恒吉(おば つねきち、1878年〈明治11年〉1月25日 - 1958年〈昭和33年〉5月29日)は、日本の紋様学者、美術史家、画家。東京美術学校および東京芸術大学で工芸史・紋様史を講じ、日本・中国・朝鮮の古美術に見られる紋様の比較研究と、高句麗古墳壁画や朝鮮古蹟の調査・模写に従事した。研究の一部をなす「日本紋様の研究」により、1950年(昭和25年)に恩賜賞を受賞した。 秋田藩主佐竹家の一族である小場家の分家にあたる小場新吾の長男として、秋田県秋田町亀ノ丁堀反町に生まれた。 13歳のとき、親戚の画人小室怡々斎(こむろ いいさい)に師事して狩野派の日本画を学んだ。上京後は、荒木寛畝に日本画を、岡本椿所に篆刻を学んだ。
小西 正太郎(こにし しょうたろう、1876年7月12日 -… 小西 正太郎(こにし しょうたろう、1876年7月12日 - 1956年4月26日)は、日本の洋画家。秋田県出身。 秋田県仙北郡六郷町(現美郷町)の素封家の家に生まれる。小西忠兵衛(5代。幼名は正治。号は交和)の長男。弟は六郷町郵便局長の宗吉。正太郎が生まれた当時の小西家の主な資産は、小作米500俵、町内に3,300平方メートルの敷地、山林5ヘクタールと記録され、六郷町下では第二の資産家であった。六郷小学校から秋田県立秋田中学校を経て1895年(明治28年)東京美術学校予科に進んだ。翌年日本画の本科に進んだが、このころ洋行を終えて帰国した黒田清輝が西洋画科の初代教授として美術学校に赴任するとたちまちその影響を受け、西洋画に転じて黒田に師事した。
泉川 白水(いずみかわ はくすい、1872年(明治5年)10… 泉川 白水(いずみかわ はくすい、1872年(明治5年)10月18日 - 1965年(昭和40年)2月4日)は秋田県出身の俳人で南画家。短歌や書道にも優れた。本名は良之助。 秋田県平鹿郡横手町(現:横手市)四日町下丁に生まれる。幼時に尾崎行雄邸に預けられた。早稲田大学政治科を中退。郡会議員、郡参事員、町会議員を歴任した。1925年(大正14年)に武者小路実篤らと日本画の「煙雲倶楽部」を結成した。翌1926年には新南画を提唱、東京髙島屋で個展をひらく。総理大臣賞受賞。県の国宝重要美術調査委員でもあった。一方で吉川五明の系統をひく俳人でもあり、湯沢市鷹の湯に、高さ10mの巨大な句碑が建っている。横手市文化功労賞、県の文化功労賞を受けた。
福田 笑迎(ふくだ しょうげい、1869年10月18日 - … 福田 笑迎(ふくだ しょうげい、1869年10月18日 - 1909年)は、日本の画家、著作家である。 出羽国五十目村(後の秋田県五城目町)の甚助・いへの第二子で長男として生まれる。生家は肝煎などの村役人を務めてきた旧家で、代々薬種商を営み、地主でもあった。幼名は貞助。幼少の頃より文才・画才に秀でて、当初は「瑞稲(ずいとう)」の号を用いて絵を描いていた。12歳のころに名を禎輔と改め、14歳ころからは笑迎の号を名乗っている。 生家が裕福な旧家であったため多くの書画を所有しており、就学前からそれらに親しんだ笑迎は、みずからも絵筆を走らせるようになっていた。師匠はなく、生家所蔵の書画を手本にした独学であったことから、作風には文人画、狩野派、浮世絵の画風が入り交じった独特のものになっている。
寺崎 広業(てらさき こうぎょう、慶応2年2月25日(186… 寺崎 広業(てらさき こうぎょう、慶応2年2月25日(1866年4月10日) - 1919年2月21日)は、秋田県出身の日本画家。 放浪の画家といわれた寺崎広業は慶応2年(1866年)久保田古川堀反(秋田市千秋明徳町)の母の実家久保田藩疋田家老邸で生まれた。寺崎家も藩の重臣であった。父の職業上の失敗もあって横手市に移って祖母に育てられた。幼児から絵を好みすぐれていたというが貧しく、明治10年(1877年)には太平学校変則中学科(現秋田県立秋田高等学校)に入学するも一年足らずで退学。10代半ば独り秋田に帰り牛島で素麺業をやったりしたという。秋田医学校にも入ったが学費が続かなかった。結局好きな絵の道を選び、16歳で手形谷地町の秋田藩御用絵師だった狩野派の小室秀俊(怡々斎)に入門、19歳で阿仁鉱山に遊歴の画家第一歩を印したが、鹿角に至った時戸村郡長の配慮で登記所雇書記になった。
平福 穂庵(ひらふく すいあん、1844年11月27日(天保… 平福 穂庵(ひらふく すいあん、1844年11月27日(天保15年10月18日) - 1890年(明治23年)12月11日)は、日本の幕末から明治時代前期に活動した日本画家。同じく画家の平福百穂の父。名は芸(うん)、通称は順蔵。別号に文池。 羽後国角館横町(現在の秋田県仙北市)で、父・平福太治右衛門(徳蔵)と母・キクの一人息子として生まれる。平福家は元々米や乾物を扱う商人だったが、父の代で染物屋に転向した。太治右衛門は文浪の画号を持つ郷土画家でもあり、祭りの人形や押絵なども手掛け、今も郷土にその作品が残っている。穂庵は初めは地元の絵師で父も入門していた武村文海に円山四条派の絵を学び、地元秋田の四条派絵師・長山孔寅の絵手本で自習する。
佐々木 久実(ささき くみ)は秋田県仙北郡美郷町(旧六郷町)… 佐々木 久実(ささき くみ)は秋田県仙北郡美郷町(旧六郷町)出身の日本画家。秋田県立横手高等学校・多摩美術大学絵画科卒業。
戎谷 南山(えびすや なんざん、1866年(慶應2年)- 1… 戎谷 南山(えびすや なんざん、1866年(慶應2年)- 1949年(昭和24年)は、明治~昭和初期の画家。本業は菓子屋。秋田県秋田市土崎港生まれ。本名は戎谷亀吉。「後三年合戦絵詞」の模写をライフワークとした。 出羽国秋田郡土崎湊町(現在の秋田市)に生まれる。1886年(明治19年)、一家で仙北郡金沢本町村(のちの金沢町、現在の横手市)に移住し、菓子屋を営み、南山も家業に従事した。 絵画の趣味が高じて画家として活動した。金沢の歴史に感銘し、かつて金沢で起こった戦役である後三年の役を描いた「後三年合戦絵詞」の模写を始める。1901年(明治34年)より度々上京し、帝室博物館に通い所蔵の絵巻を記憶し、博物館の便所で書き写した。
加瀬谷東嶺(かせや とうれい、1789年-1837年1月28… 加瀬谷東嶺(かせや とうれい、1789年-1837年1月28日(天保7年12月22日))は、出羽国(現在の秋田県)の江戸時代後期の円山・四条派の日本画家。本名は加瀬谷正右衛門。東嶺は雅号。 秋田藩領・出羽国雄勝郡狙半内村(後の秋田県平鹿郡増田町、現在の横手市)の親郷肝煎・10代加瀬谷正右衛門の長男として生まれた東嶺は、幼名は正七といった。幼いころから絵に興味があり、家も裕福で父親の理解もあって、若年のころ秋田藩の絵師・渡辺洞昌について絵を学んだ。その後、帰郷して父親の跡を襲い11代加瀬谷正右衛門を名乗る。1825年、飢饉に悩まされて寒村であった狙半内村を活性化しようと、村を通る仙北街道の手倉越えの道を拡張することを郡役所に願い出た。