佐久間 隆章(さくま たかあき、1974年 - )は、日本の… 佐久間 隆章(さくま たかあき、1974年 - )は、日本の歯科医師、歯学博士。福島県福島市に所在する医療法人腎済会佐久間デンタルクリニック院長。東北JIADSの副支部長、JIADS Club 会員、JIADSスタディクラブ講師を務めている。 1974年、福島県福島市に生まれる。2001年に奥羽大学歯学部を卒業し、卒業後は東京医科大学病院口腔外科に在籍した。その後、東京都内の歯科医院勤務を経て、2004年に福島市で医療法人腎済会佐久間デンタルクリニックを開院した。 2006年には奥羽大学歯学部補綴学第二講座専攻生課程に進学し、補綴学およびインプラント領域の研究に従事した。2015年、歯学博士号を取得した。
佐柄 英人(さがら ひでと、1967年6月17日 - )は、… 佐柄 英人(さがら ひでと、1967年6月17日 - )は、日本の眼科医。福島県南相馬市出身。福島県南相馬市在住。 マルイ眼科の院長である佐柄英人は、東京電力福島第一原子力発電所事故の影響で医療現場が混乱する中、ふみとどまって、当時必要とされていた精神科の処方箋書きを休まず続けてきた。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
星 北斗(ほし ほくと、1964年3月18日 - )は、日本… 星 北斗(ほし ほくと、1964年3月18日 - )は、日本の政治家、医師、病院理事長。自由民主党所属の参議院議員(1期)、自由民主党福島県支部連合会会長。 福島県郡山市出身。福島県立安積高等学校、東邦大学医学部卒業。大学卒業後の1989年4月に厚生省の医系技官になり、秋田県保健福祉部技術吏員、労働省労働基準局安全衛生部化学物質調査課係長を歴任した後、1995年には阪神・淡路大震災の現地対策班に参加した。1996年にハーバード大学公衆衛生大学院の客員研究員を1年間務め、1998年に郡山市の星総合病院の副理事長、1999年にポラリス保健看護学院の学院長を務めた。 2000年から2004年3月までは日本医師会常任理事。
渡部 恒雄(わたなべ つねお、1963年〈昭和38年〉11月… 渡部 恒雄(わたなべ つねお、1963年〈昭和38年〉11月13日 - )は、日本の政治学者、歯科医師、笹川平和財団特任研究員を経て上席研究員(元東京財団上席研究員)。戦略国際問題研究所非常勤研究員、沖縄平和協力センター上席研究員。父親は元衆議院議員の渡部恒三。 1963年(昭和38年)11月13日、政治家渡部恒三の長男として福島県に生まれる。 1982年(昭和57年)福島県立会津高等学校を卒業(高34回)、1988年(昭和63年)東北大学歯学部を卒業。歯科医師となるが、社会科学を学ぶため米国留学。1995年(平成7年)ニュースクール・フォー・ソーシャルリサーチ政治学修士課程を修了する。その後、戦略国際問題研究所に入所し、客員研究員、研究員などを務めた。
冨永 悌二(とみなが ていじ、1957年7月3日 - )は… 冨永 悌二(とみなが ていじ、1957年7月3日 - )は、日本の医師、医学者で、医学博士。 2024年4月から東北大学の第23代総長を務める。専門は脳神経外科。 福島県西白河郡矢吹町出身。福島県立安積高等学校を経て、1982年に東北大学医学部を卒業し、鈴木次郎が主催する脳神経外科教室に入局した。1987年からフィラデルフィア大学都市科学センター生体膜研究所にて脳虚血の研究をおこない、1993年には半年間バロー神経学研究所で臨床経験を積む。この間、1989年に論文「局所脳虚血ラットにおける脳浮腫,運動障害および記憶障害の相関」で東北大学より医学博士号を取得した。 2003年より、東北大学医学系研究科神経外科学分野教授に就任。
土屋 繁裕(つちや しげひろ、1956年7月6日 - 200… 土屋 繁裕(つちや しげひろ、1956年7月6日 - 2005年10月8日)は福島県出身の外科医。外科医である父の影響で、医師を目指す。医師が無神経な言動で患者を傷つける行為を「ドクターハラスメント」と呼び批判するなどメディアで積極的に発言、歯に衣着せぬ茶髪の外科医として知られた。
上田 善彦(うえだ よしひこ 、1954年(昭和29年)- … 上田 善彦(うえだ よしひこ 、1954年(昭和29年)- )は、日本の医師。獨協中学・高等学校校長、獨協医科大学名誉教授を務めた。 1954年福島県双葉郡浪江町生まれ。1972年に獨協高等学校を卒業。 1979年に獨協医科大学医学部を卒業し、1985年に獨協医科大学医学部の講師になる。2000年には獨協医科大学の教授、そして2019年には名誉教授に就任した。 2021年4月に第23代獨協中学・高等学校校長に就任し、2025年3月に退任した。 1954年 - 福島県双葉郡浪江町にて誕生する。 1972年 - 獨協高等学校を卒業する。 1979年 - 獨協医科大学医学部を卒業する。 1985年 - 獨協医科大学医学部 講師に就任。
熊坂 義裕(くまさか よしひろ、1952年〈昭和27年〉1月… 熊坂 義裕(くまさか よしひろ、1952年〈昭和27年〉1月10日 - )は、日本の内科医師、医学博士、元政治家。元岩手県宮古市長(旧市時代も含め、3期)。盛岡大学客員教授(元栄養科学部学部長、栄養科学科教授)、京都大学医学部非常勤講師。弘前大学医学部学部長講師。日本糖尿病学会専門医。 福島県福島市生まれ。福島市立野田小学校、福島市立野田中学校、福島県立福島高等学校を経て、東北大学工学部中退、弘前大学医学部卒業。 市長を経験した医師として、社会保障や災害復興、地方行政等について活発な提言を行っている。 1978年(昭和53年)に弘前大学医学部を卒業後、同大学医学部第三内科に入局し、同大学付属病院内科医師、同大学医学部助手となった。
立谷 秀淸(たちや ひできよ、1951年(昭和26年)6月9… 立谷 秀淸(たちや ひできよ、1951年(昭和26年)6月9日 - )は、日本の医師、政治家。元福島県相馬市長(6期)。全国市長会会長(第30代)。元福島県議会議員(1期)。医療法人社団茶畑会 相馬中央病院理事長。 福島県相馬郡中村町(現・相馬市)出身。生家は味噌醤油醸造業を営んでいる。父は、相馬市議会議長を務めた立谷純一。高校は宮城県の宮城県仙台第一高等学校へ進み、福島県立医科大学に進学して内科学を学ぶ。 1977年に福島県立医科大学を卒業する際に医師免許を取得。公立気仙沼総合病院で初期研修を行い、東北大学医学部附属病院、公立相馬病院にて、内科の内勤医師として患者の診療に当たる。 1983年、相馬へ戻ると同時に立谷内科医院(有床診療所)を開業。
山口 隆美(やまぐち たかみ、1948年5月 - ) は、日… 山口 隆美(やまぐち たかみ、1948年5月 - ) は、日本の生体工学者、外科医。東北大学名誉教授。 元日本機械学会バイオエンジニアリング部門長。文部科学大臣表彰科学技術賞受賞。 1948年、福島県出身。 1967年、福島県立会津高等学校卒業。 1973年に東北大学医学部卒業後、財団法人・竹田綜合病院外科で外科医となった。その後、心臓外科医になることを志して上京。 1976年、東京女子医科大学附属第2病院循環器外科助手。 1977年東京女子医科大学附属日本心臓血圧研究所理論外科助手。 1980年、東京女子医科大学医学博士。 1981年、東京大学工学博士、ロンドン大学インペリアル・カレッジ・ロンドン留学。
影山 任佐(かげやま じんすけ、1948年2月3日 - )は… 影山 任佐(かげやま じんすけ、1948年2月3日 - )は、日本の医学者、精神科医。専門は、犯罪精神医学・犯罪精神病理学・臨床犯罪学・精神医学史・臨床精神医学・精神保健学。東京工業大学名誉教授。医学博士。福島県出身。2011年の国際犯罪学会以降、「総合犯罪学」(Comprehensive Criminology) と「統合犯罪学」(Integrative Criminology <Integrated Criminology>) を提唱している。 1948年、福島県郡山市に生まれる。1966年、福島県立安積高等学校卒業。1972年、東京医科歯科大学医学部医学科卒業、東京医科歯科大学神経精神科入局。
星野 仁彦(ほしの よしひこ、1947年6月24日 - )は… 星野 仁彦(ほしの よしひこ、1947年6月24日 - )は、福島県会津若松市生まれの日本の医学者、精神科医。専門は児童精神医学、精神薬理学。福島学院大学教授、副学長。医学博士。 注意欠陥・多動性障害(ADHD)、アスペルガー障害、学習障害などの発達障害に詳しい児童精神医学の第一人者である。その豊富な臨床経験から摂食障害、境界性パーソナリティ障害などのパーソナリティ障害の治療でも知られる。また自身がADHDであることを公表している。 1990年3月に大腸癌と診断され、手術を行い、闘病生活を送ることとなった。同年8月にがんは肝臓に転移し、本人は「国立がん研究センターの統計では5年生存率は0%であった」と語っている。
山崎 章郎(やまざき ふみお、1947年 - )は、日本の医… 山崎 章郎(やまざき ふみお、1947年 - )は、日本の医師、文筆家。 福島県生まれ。1975年、千葉大学医学部卒業、同大学病院第一外科勤務。1984年、千葉県八日市場市(現匝瑳市)市民病院消化器科医長。1991年、聖ヨハネ会桜町病院ホスピス科部長。2005年、在宅診療専門診療所ケアタウン小平クリニック院長。1991年、『病院で死ぬということ』で日本エッセイストクラブ賞受賞。同作は1993年に市川準監督で映画化された。
原中 勝征(はらなか かつゆき、1940年4月15日 - 2… 原中 勝征(はらなか かつゆき、1940年4月15日 - 2025年7月11日)は、日本の医師。医学博士(東京大学、1975年)。医療法人杏仁会大圃病院(きょうじんかい おおはたびょういん)会長。第18代日本医師会会長。 1940年、茨城県生まれ。福島県浪江町出身。『日本医師会 平成三十年の歩み』にある経歴中で茨城県生まれと記載されているが、『浪江町くらしのガイドブック』には郷土出身者の一人として掲載されている。 1966年に日本大学医学部卒業。1967年に東京大学医学部に入局。1980年に東京大学医科学研究所内科医局長、1990年に東京大学助教授に就任。この間、TNF-αの研究で世界的な業績を挙げる。
坪井 榮孝(つぼい えいたか、1929年3月22日 - 20… 坪井 榮孝(つぼい えいたか、1929年3月22日 - 2016年2月9日)は日本の医師。元日本医師会会長、元世界医師会会長。郡山市名誉市民。専門は呼吸器内科(呼吸器がん全般)。叙正三位。 福島県郡山市生まれ。旧制安積中学校(現福島県立安積高等学校)を経て、1952年、日本医科大学卒業。1953年に医籍登録。国立がんセンター病院放射線部医長を経て、1970年、福島県郡山市にて坪井診療所を開設する。1974年、慈山会医学研究所を設立し、理事長に就任。同研究所付属坪井病院において地域医療に従事する。2011年6月より財団法人慈山会医学研究所付属坪井病院名誉理事長。 医師会の活動としては福島県医師会役員を経て、1988年より日本医師会常任理事。
屋形 稔(やかた みのる、1925年2月21日 - 2015… 屋形 稔(やかた みのる、1925年2月21日 - 2015年11月24日)は、日本の医学者、医師。新潟大学名誉教授。専門は、検査診断学。
菅波 茂(すがなみ しげる、1913年〈大正2年〉2月25日… 菅波 茂(すがなみ しげる、1913年〈大正2年〉2月25日 - 1982年〈昭和57年〉12月23日)は、日本の政治家、医師。自由民主党衆議院議員。 福島県いわき市生まれ。磐城中学校(現・福島県立磐城高等学校)、昭和医学専門学校(現・昭和大学医学部)を卒業後、千葉医科大学第二内科研究室を経て、四倉町にて家業の病院を継ぐ。 1963年(昭和38年)、福島県議会議員に石城郡から自民党公認で立候補して初当選を果たした。1967年(昭和42年)1月8日に県議を辞職した。同月、第31回衆議院議員総選挙で旧福島3区から自民党公認で立候補し初当選(当選同期に塩川正十郎・加藤六月・河野洋平・中尾栄一・藤波孝生・武藤嘉文・坂本三十次・塩谷一夫・水野清など)。
今泉 亀撤(いまいずみ きてつ、1907年3月15日 - 2… 今泉 亀撤(いまいずみ きてつ、1907年3月15日 - 2009年12月29日)は、日本の眼科医、医学博士。岩手医科大学名誉教授。福島県郡山市出身。 旧制安積中学校(現福島県立安積高等学校)、旧東北帝国大学(現東北大学)医学部卒。東北大学助教授を経て岩手医科大学に教授として赴任。1949年11月、日本で最初の事例として角膜移植の手術を行った。その後1956年3月、日本最初のアイバンクとなる『目の銀行』を岩手医科大学内に設立した。
鈴木 勝(すずき まさる、1903年〈明治36年〉 - 19… 鈴木 勝(すずき まさる、1903年〈明治36年〉 - 1987年〈昭和62年〉)は、日本の歯学者(医学博士)。第六代日本大学総長、第四代、第五代日本歯科医学会会長。 会津路の峰、博士山の登山口である福島県河沼郡柳津町大成沢に生まれる。 1921年(大正11年)に旧制福島県立会津中学校(現・福島県立会津高等学校)を卒業し、日本大学専門部歯科へ進む。在学中に馬術部の創設に関わり、選手として京都若草大会(学生の部)で3位となる。卒業後、専門部歯科助教授となり、放射線学教室を担当。教授に1943年(昭和18年)4月就任したが、より高度の知識と医学学位の取得を求め、1948年(昭和23年)には東京医学歯学専門学校(現・東京医科歯科大学)医学科を卒業した その後、日大に戻り、歯学部教授兼学監、歯学部長、理事、総長を歴任。
木村 守江(きむら もりえ、1900年4月6日 - 1996… 木村 守江(きむら もりえ、1900年4月6日 - 1996年11月3日)は、日本の政治家、医師。福島県知事(公選第6-9代)、衆議院議員(3期)、参議院議員(1期)を務めた。男性。 現在の福島県いわき市四倉生まれ。旧制磐城中学(現福島県立磐城高等学校)、慶應義塾大学医学部を経て医学博士、開業医となる。1938年1月、歩兵第65連隊の軍医として南京での捕虜の扱いについて『磐城時報』に軍事郵便で報告を寄せている。第二次世界大戦でも軍医でニューギニアなどで従軍。 1950年の第2回参議院議員通常選挙に福島県選挙区からで自由党から立候補し、当選。参議院議員を1期務めた後、衆議院に鞍替えし、1958年の第28回衆議院議員総選挙で旧福島3区から出馬して初当選(自民党)、以後3期連続当選を果たす。
國府 尽平(こうの じんぺい、1885年(明治18年) - … 國府 尽平(こうの じんぺい、1885年(明治18年) - 1956年(昭和31年)4月30日)は、日本の海軍軍人、医師。海軍中佐で予備役となったのち、医学博士号を取得した。 海軍兵学校35期。福島県北会津郡湊村(現・会津若松市)出身。 國府は二度改名しており、旧名は横倉房吉と穴澤房吉である。会津中学から府立一中に転校し、海兵の席次は172中名123番であった。同期生に近藤信竹、高須四郎、野村直邦などがいる。海兵35期の遠洋航海は「松島」が火災沈没事故を起こし、乗組んでいた國府は救助されたが、同期生30名以上が犠牲となっている。海軍将校として装甲巡洋艦・常磐、戦艦・富士、特務艦・朝日、呉海兵団、横須賀防備隊などで勤務した。
松本 信一(まつもと しんいち、1884年11月7日 - 1… 松本 信一(まつもと しんいち、1884年11月7日 - 1984年8月1日)は、日本の医学者、皮膚科医。京都帝国大学名誉教授、元大阪医科大学学長。福島県会津若松市生まれ。 再感染免疫をスピロヘータを使用した実験等、病理組織学や細胞免疫学の各方面から梅毒の研究を行う。1917年5月14日、医学博士の学位を受けた。1966年文化功労者、1976年勲一等瑞宝章。主著に『皮膚病学』等。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
佐瀬 熊鉄(佐瀨 熊鐵、さぜ / させ くまてつ、1866年… 佐瀬 熊鉄(佐瀨 熊鐵、さぜ / させ くまてつ、1866年1月31日(慶応元年12月15日)- 1929年(昭和4年)9月5日)は、日本の医師、政治家。衆議院議員。旧姓・一瀬。 陸奥国会津郡若松城下(現福島県会津若松市)で、会津藩家老・一瀬要人の二男として生まれる。15歳で上京し山川浩の世話を受けて苦学し、1887年(明治20年)海軍医学校を卒業し海軍少軍医候補生となるが、2年ほどで退官した。その後帰郷して、河沼郡金上村の豪農・佐瀬家を継いだ。 1893年(明治26年)に再度上京し、同盟倶楽部の理事に就任し、また立憲革新党の運営に加わった。1894年(明治27年)大韓帝国に渡り、朴泳孝内務大臣の知遇を得て、同国の警務庁・監獄署医務、訓練隊衛生事務、裁判医事の顧問となった。
鈴木 万次郎(萬次郎、すずき まんじろう、1860年3月24… 鈴木 万次郎(萬次郎、すずき まんじろう、1860年3月24日(万延元年3月3日)- 1930年(昭和5年)2月26日)は、明治から昭和初期の医師、政治家、実業家。衆議院議員。愛国生命保険創立者。 陸奥国岩瀬郡、のちの福島県岩瀬郡須賀川町 (現須賀川市)で、医師、自由民権家・鈴木俊安の長男として生まれる。会津藩の儒者・橋爪信次郎に漢学を、二本松藩・堀江半峯に詩文を師事した。福島県師範学校予科を経て、1879年(明治12年)に上京し 岡鹿門から詩文を学んだ。訓蒙学舎や外国語学校でドイツ語を学び、さらに東亜医学校で医学を修め、1886年(明治19年)開業試験に合格し医師となった。その後、東京府神田区に神保病院を開設した。
赤城 信一(あかぎ しんいち、1839年11月11日(天保1… 赤城 信一(あかぎ しんいち、1839年11月11日(天保10年10月6日) - 1896年(明治29年)2月1日)は戊辰戦争の時の会津藩の医師、後に北海道開拓使に出仕した人物である。 1839年(天保10年)会津藩の医者阿部昌信の第3子として会津に生まれる。その後、叔父の赤城家の家督を継ぐ。1868年(慶応4年)藩令により長崎遊学をしている時に鳥羽・伏見の戦いに巻き込まれ、敗走する会津歩兵隊付軍医になり会津に帰還した。 会津戦争にも軍医として参加するが、鶴ヶ城が降伏すると、負傷兵を伴って仙台藩に落ち延びる。その後、榎本武揚らの旧幕府軍に参加した。医官高松凌雲の元で、佐々城本支(伊東友賢)らと函館病院でも軍医として働く。
佐藤 元萇(さとう げんちょう、文政元年(1818年)- 明… 佐藤 元萇(さとう げんちょう、文政元年(1818年)- 明治30年(1897年)8月7日)は、日本の医師。江戸幕府医学館教授。森鷗外の漢詩、漢文の師である。号は応渠。 父は佐藤重俊である。陸奥国会津に生まれ、会津藩藩主松平容保の侍講を務めた高津淄川に学んだ。江戸詰御医師として五人扶持を給され、藩邸を拠点に多紀元堅(多紀茝庭)から医学を学ぶ。佐藤は多紀塾の塾頭に進んだ。黒船来航後に種痘を学び、郷里で施術を行っている。安政4年(1857年)に幕命によって医学館医書校正となり、講師を経て教授に進んだ。文久3年(1863年)には征夷大将軍徳川家茂に拝謁し、袋杖登城を許された。藩命により幕末の京へも赴いている。