志村 立美(しむら たつみ、1907年2月17日 - 198… 志村 立美(しむら たつみ、1907年2月17日 - 1980年5月4日)は、日本画家、挿絵画家、美人画家。群馬県高崎市生まれ。本名 仙太郎。 群馬県高崎市新町甲百番地の有馬屋質店の長男として生まれ、その後横浜市中区へ移住する。神奈川県立神奈川工業高等学校図案科を中退して、1924年(大正13年)山川秀峰に入門美人画を修める。当時、山川秀峰は鏑木清方同門であった伊東深水と共に、挿絵での活動もしていた。岩田専太郎、志村立美と小林秀恒は、挿絵界の「三羽烏」。山川秀峰の推薦を受け、立美も挿絵での活動を行うようになる。また、金田信武の株式会社金田商店から、新版画と呼ばれている木版画も描いている。 肉筆画も鏑木清方主宰の郷土会、師である山川秀峰、伊東深水らの主宰する青衿会等へ出品をする。
徳田 進(とくだ すすむ、1907年〈明治40年〉1月7日 … 徳田 進(とくだ すすむ、1907年〈明治40年〉1月7日 - 1998年〈平成10年〉4月23日)は、日本の国文学者。高崎経済大学第4代学長、同名誉教授。 群馬県高崎市宮元町生まれ。高崎中学校(群馬県立高崎高等学校の前身)卒、群馬師範学校専攻科卒。 1939年(昭和14年)東京女子高等師範学校助教授。1941年(昭和16年)、東京文理科大学国文科選科修了。1945年(昭和20年)9月、群馬師範学校教授。1953年(昭和28年)、高崎市立短期大学教授。 1956年(昭和31年)、「二十四孝の研究 特に近古近世の日本文学との交渉を中心として」で、東洋大学より文学博士。1957年(昭和32年)、高崎市立短期大学からの改組により高崎経済大学教授。
正田 満三郎(しょうだ まんさぶろう 1907年 - 没年不… 正田 満三郎(しょうだ まんさぶろう 1907年 - 没年不明)は、日本の裁判官、法学者。
伊藤 信吉(いとう しんきち、1906年〈明治39年〉11月… 伊藤 信吉(いとう しんきち、1906年〈明治39年〉11月30日 - 2002年〈平成14年〉8月3日)は、日本の詩人、近代文学研究者。 萩原朔太郎、室生犀星、草野心平の知遇を得て、詩人として活動を開始する。戦前にはプロレタリア文学運動に参加していた。最初の詩集『故郷』刊行後に詩作を止め、詩人論や現代詩鑑賞などの評論著述に専念、萩原や室生などの詩人全集の編集に携わった。 70歳で第二詩集『上州』を刊行して詩作を再開。群馬県立土屋文明記念近代文学館初代館長をつとめ、郷土出版で『群馬文学全集』の編纂にも携わった。 1906年(明治39年)11月30日、群馬県群馬郡元総社村大字元総社(現・前橋市元総社町)の農家に父実太郎・母みねの長男として生まれる。
川端 清策(かわばた せいさく、1906年〈明治39年〉8月… 川端 清策(かわばた せいさく、1906年〈明治39年〉8月31日 - 1985年〈昭和60年〉4月11日)は、日本の植物学者。高崎経済大学学長、同教授、北海道学芸大学教授、道都大学副学長、同教授、理学博士(北海道大学)。 群馬県伊勢崎市出身。1924年茨城県立太田中学校(現・茨城県立太田第一高等学校・附属中学校)卒。1924年群馬県佐波郡豊受尋常高等小学校代用教員、1926年北海道空知郡岩見沢町志文尋常小学校代用教員。軍隊に入隊を経て、1931年第二高等学校 (旧制)卒、1935年北海道帝国大学理学部卒業(恩師:山田幸男)。 1935年東海高等女学校(現茨城県立第二日立第二高等学校)教諭、1937年茨城県師範学校教諭。
高瀬 侍郎(たかせ じろう、1906年〈明治39年〉8月2日… 高瀬 侍郎(たかせ じろう、1906年〈明治39年〉8月2日 - 1992年〈平成4年〉5月27日)は、日本の外交官。第14代拓殖大学総長。正四位勲二等旭日重光章。群馬県出身。 日独伊三国同盟を推進した責任から、終戦とともに外務省を辞職。戦後は東京都外務室長として勤務。
佐々木 清野(ささき きよの、1906年〈明治39年〉5月2… 佐々木 清野(ささき きよの、1906年〈明治39年〉5月27日 - 没年不明)は、大正・昭和戦前期の日本の映画女優。群馬県藤岡市出身。 声優の野沢雅子は姪。女優引退後、佐々木は子役時代の野沢のマネージャーをしていたとされる。 1906年(明治39年)群馬県多野郡藤岡町(現・藤岡市)に生まれる。1924年(大正13年)、日本女子大学附属女学校を卒業し、同年松竹蒲田撮影所へ入社。1927年(昭和2年)、準幹部に昇格するが、翌1928年(昭和3年)に松竹蒲田撮影所を退社する。 1931年(昭和6年)、キヨノ教育映画社を設立し、教育・宣伝映画などの製作に取り組む。 1939年(昭和14年)、新興キネマに入社し、数本の映画に助演したのち引退。
広田 達雄(ひろた たつお、1906年〈明治39年〉1月21… 広田 達雄(ひろた たつお、1906年〈明治39年〉1月21日 - 没年不明)は、埼玉県蕨市の第3代市長(1963年6月-1967年6月)。勲五等瑞宝章受章。 生家は前橋市で、父曽田軍平が酒造業を営む。日本酒名:東之井(あずまのい) 長兄曽田新十郎は、実家の新潟県中頸城郡柿崎村大字東谷内(現・新潟県上越市柿崎区東谷内)にて、家を継ぐ。新潟県中頸城郡の柿崎村、吉川村は、頸城杜氏を多く輩出し、冬場の出稼ぎ先として全国の酒造業に展開した。その中には、新たな酒造業を興すものも輩出した。達雄が次男として父・曽田軍平と共に、前橋市にて事業を営む。 現在、大正時代に新築したレンガの酒蔵は、前橋市の歴史建造物として、市民の多目的施設として利用されている。
小渕 千代(おぶち ちよ、1906年 - 1996年2月2日… 小渕 千代(おぶち ちよ、1906年 - 1996年2月2日)は、日本の実業家・政治運動家。吾妻三女傑の異名をとった。群馬県吾妻郡名久田村(現在の中之条町)出身。旧姓・関。「小渕ちよ」と称することもある。 佐藤裁縫専門学校(現在の高崎商科大学附属高等学校)卒業。鐘紡に入社、新町工場に勤務する。その後、小渕製糸所に入社する。1929年、小渕光平(のち衆議院議員)と結婚する。光山社役員として業務に従事する。1949年、夫の第24回衆議院議員総選挙出馬に伴い、運動員として奔走した。1952年の第25回衆議院議員総選挙で、公職選挙法違反により逮捕される。1958年の第28回衆議院議員総選挙でも公職選挙法違反で逮捕され、1か月間勾留された。
群司 次郎正(ぐんじ じろうまさ、1905年11月27日 -… 群司 次郎正(ぐんじ じろうまさ、1905年11月27日 - 1973年1月10日)は、日本の小説家、作詞家である。郡司 次郎正(ぐんじ じろまさ)とも表記する。代表作として1931年(昭和6年)に発表された『侍ニッポン』があり、同作は多数映画化・リメイクされた。同作の主題歌(作詞:西條八十、作曲:松平信博)もヒットしたが、同作を除く、自らの「小説主題歌」を作詞した。本名:郡司 次郎(ぐんじ じろう)。 1905年(明治38年)11月27日、群馬県佐波郡伊勢崎町(現在の伊勢崎市)に生まれる。やがて茨城県東茨城郡大貫町舟渡(現在の大洗町大貫町舟渡)に移り育つ。旧制・茨城県立水戸中学校(現在の茨城県立水戸第一高等学校)を卒業する。
牛久保 海平(うしくぼ かいへい、1905年〈明治38年〉7… 牛久保 海平(うしくぼ かいへい、1905年〈明治38年〉7月26日 - 1999年〈平成11年〉11月20日)は、日本の実業家。サンデン創業者。群馬県出身。伊勢崎市議会議員(1期)。群馬県名誉県民。位階は正五位。 1905年(明治38年)7月26日、群馬県佐波郡豊受村長沼(現・伊勢崎市長沼町)に、父・鋭、母・つねの次男として生まれる。1922年(大正11年)に高崎商業学校を卒業後、1年間伊勢崎工業学校に学ぶ。 家業の染色業を継いだが、太平洋戦争下の1943年(昭和18年)に機械の供出により廃業、同年三共電器株式会社を設立し社長となった。 戦時中はコンデンサーの製造などを行っていたが、1948年(昭和23年)に自転車用発電ランプの製造販売を開始し、「ふくろうマーク」で広く知られるようになった。
秋元 順朝(あきもと なおとも、1905年3月13日 - 1… 秋元 順朝(あきもと なおとも、1905年3月13日 - 1967年9月18日)は、日本の経営者、銀行家。埼玉銀行頭取を務めた。群馬県館林市出身。 秋元春朝子爵の長男として生まれる。1928年に東京帝国大学経済学部商業学科を卒業し、同年に高文行政科に合格し、1929年には大蔵省に入省。 1932年に茨木税務署長、大阪税務監督局管内茨木税務署所轄内相続税審査委員。1933年に淀川税務署長、大阪税務監督局轄内淀川税務署所轄内相続税審査委員。1934年に北税務署長、大阪税務監督局管内北税務署所轄内相続税審査委員。 1940年に関税等不服審査会幹事、阿片委員会幹事、台湾関税等不服審査会委員、不当廉売委員会幹事。
福田 赳夫(ふくだ たけお、1905年〈明治38年〉1月14… 福田 赳夫(ふくだ たけお、1905年〈明治38年〉1月14日 - 1995年〈平成7年〉7月5日)は、日本の政治家、大蔵官僚。位階は正二位。勲等は大勲位。 大蔵省主計局長、衆議院議員(14期)、農林大臣(第2次岸改造内閣)、大蔵大臣(第1次佐藤第1次改造内閣・第1次佐藤第2次内閣・第2次佐藤第2次改造内閣・第3次佐藤内閣・第2次田中角栄第1次改造内閣)、外務大臣(第3次佐藤改造内閣)、行政管理庁長官(第2次田中角栄内閣)、経済企画庁長官(三木内閣)、自由民主党総裁(第8代)、内閣総理大臣(福田赳夫内閣)を歴任した。 東京帝国大学法学部から大蔵省入り。1947年主計局長となるが、翌年昭電疑獄に連座して退官。
長谷川 四郎(はせがわ しろう、1905年〈明治38年〉1月… 長谷川 四郎(はせがわ しろう、1905年〈明治38年〉1月7日 - 1986年〈昭和61年〉8月7日)は、日本の政治家。位階は正三位。衆議院議員(自由民主党所属、14期)、建設大臣、農林大臣。魚屋から衆議院副議長にまで上り詰めた立志伝中の人物として知られる。群馬県名誉県民第1号。 群馬県山田郡大間々町大字桐原(現・みどり市大間々町桐原)に、父・辰之助、母・テルの三男として生まれる。父は養蚕指導員だったが、幼少期に死去。大正7年(1918年)大間々尋常高等小学校を卒業し、地元の「いも寅」商店に奉公。1931年(昭和6年)に魚店「魚丈」を開業し、1936年(昭和11年)に株式会社長谷川商店に改組。
丸山 武夫(まるやま たけお、1904年〈明治37年〉7月1… 丸山 武夫(まるやま たけお、1904年〈明治37年〉7月19日 - 1997年〈平成9年〉10月29日)は、日本のドイツ文学者。獨協大学名誉教授。 群馬県吾妻郡中之条町生まれ。旧制中之条農学校、旧制静岡高等学校文科乙類を経て、東京帝国大学文学部独文科卒。旧制第五高等学校講師、旧制松本高等学校教授を経て、1950年東京大学助教授、1953年には教授に就任。1965年に定年退官し、獨協大学教授となる。1969年文学博士。外国語学部長を経て1975年定年退任、名誉教授。 1997年、呼吸不全のため死去。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
細谷 喜一(ほそや きいち、1904年〈明治37年〉4月23… 細谷 喜一(ほそや きいち、1904年〈明治37年〉4月23日 - 1980年〈昭和55年〉11月3日)は、日本の内務官僚。内閣官房副長官。 群馬県山田郡桐生町横山(現・桐生市横山町)出身。細谷信次郎の長男として生まれる。旧制群馬県立前橋中学校(現・群馬県立前橋高等学校)を経て、第一高等学校を卒業。1931年10月、高等試験行政科試験に合格。1932年3月、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。同年、内務省に入省し警視庁警部補となる。 以後、警視庁警務課教養係長、大塚警察署長、渋谷警察署長、地方警視・静岡県警察部刑事課長、岡山県警察部特別高等警察課長、興亜院事務官・政務部第三課勤務、警視庁警視・労働課長、兼警視庁事務官・調停官、地方警視・京都府警察部特別高等警察課長、千葉県官房長、四国地方総監府副参事官、香川県部長・警察部長などを歴任。
新井 耕吉郎(あらい こうきちろう、1904年〈明治37年〉… 新井 耕吉郎(あらい こうきちろう、1904年〈明治37年〉2月26日 - 1946年〈昭和21年〉6月19日)は、日本の農業技師。群馬県利根郡東村園原(現在の沼田市利根町園原)出身(昭和42年に勲五等瑞宝章叙勲)。 日本統治下の台湾において紅茶の栽培に尽力したことで知られる。その紅茶各種の研究・普及活動で台湾紅茶産業の発展に大きく寄与したことから「台湾紅茶の父」または「台湾紅茶の祖」と呼ばれている。 1921年、旧制沼田中学校(現在の群馬県立沼田高等学校)を卒業後、1925年、北海道帝国大学農学部農学実科を卒業。一年志願兵(幹部候補生)として歩兵第59連隊(宇都宮)で軍隊生活を送る。満期除隊後の1926年に台湾に渡り台湾総督府中央研究所平鎮茶業試験支所に助手として赴任。
小渕 光平(小淵 光平、おぶち みつへい、1904年〈明治3… 小渕 光平(小淵 光平、おぶち みつへい、1904年〈明治37年〉2月26日 - 1958年〈昭和33年〉8月26日)は、日本の政治家、実業家。衆議院議員(2期)。長男は群馬県中之条町長の二代目小渕光平、次男は第84代内閣総理大臣の小渕恵三。 1904年(明治37年)、群馬県吾妻郡伊参村(現・中之条町)に農業兼糸繭商を営む小渕新平・きち夫婦の長男として生まれる。父が病弱であったことから少年時代から家計を助けた。1921年(大正10年)中之条実業補習学校卒。 1923年(大正12年)に父が死去。1925年(大正14年)に東村に所在した碓氷社の工場を手に入れ、製糸工場の経営を始める。1928年(昭和3年)に中之条町伊勢町に工場を移転、光山社小渕製糸所を設立した。
大竹 平八郎(おおたけ へいはちろう、1904年〈明治37年… 大竹 平八郎(おおたけ へいはちろう、1904年〈明治37年〉2月8日 - 1985年〈昭和60年〉5月17日) は、大正から昭和期のジャーナリスト、政治家。参議院議員。 群馬県群馬郡渋川町(北群馬郡渋川町を経て現渋川市下之町)で、呉服商・大竹直四郎(なおしろう)、タミ夫妻の四男として生まれた。1918年(大正7年)渋川尋常高等小学校高等科(8年制)を卒業し、上京して 独学。 1926年(大正15年)帝国通信社に入社し無産政党、労働問題の担当記者となる。その後、同社政治部長、大阪帝国通信社東京支社長などを歴任。1934年(昭和9年)文部省嘱託に転じた。長江産業貿易開発協会(のち日華経済協会)を成立し常任理事に就任し、1945年(昭和20年)理事長となる。
米倉 大謙(よねくら たいけん、1904年〈明治37年〉2月… 米倉 大謙(よねくら たいけん、1904年〈明治37年〉2月1日 - 1994年〈平成6年〉10月22日)は、日本の書道家。元群馬大学教授。群馬県沼田市(旧利根郡白沢村)生まれ。白沢村名誉村民。 1904年(明治37年)、群馬県利根郡白沢村平出(現・沼田市白沢町平出)に生まれる。父は正眼寺住職・米倉謙龍。幼名・文二。 旧制沼田中学(現・群馬県立沼田高等学校)を経て東洋大学倫理学東洋文学科卒。長野原小学校や川場小学校への勤務を経て、旧制前橋中学校(現・群馬県立前橋高等学校)教諭となる。1940年(昭和15年)群馬師範学校兼女子師範学校教諭となり、1949年(昭和24年)より群馬大学助教授。 書道は鈴木翠軒に師事。
石井 繁丸(いしい しげまる、1904年〈明治37年〉1月1… 石井 繁丸(いしい しげまる、1904年〈明治37年〉1月1日 - 1983年〈昭和58年〉10月8日)は、日本の政治家、弁護士。衆議院議員(3期)、前橋市長(5期)。前橋市立工業短期大学学長。大日本帝国陸軍軍人(陸軍曹長)[要出典]。 群馬県勢多郡木瀬村大字野中(現・前橋市野中町)出身。永明尋常高等小学校を経て、1922年(大正11年)県立前橋中学校卒業。警視庁麻布警察署書記として勤務の後、日本大学に学ぶ。1926年(大正15年)司法試験合格。1927年(昭和2年)に日本大学法科を卒業し、同年法律評論社の編集記者として勤める。1928年(昭和3年)弁護士となる。須永好による強戸村農民運動に協力した。
塩谷 太郎(しおや たろう、旧字体: 鹽谷 太郞、1903年… 塩谷 太郎(しおや たろう、旧字体: 鹽谷 太郞、1903年〈明治36年〉11月8日 - 1996年〈平成8年〉)は、日本の翻訳家、児童文学者。本名・相馬 一正(そうま かずまさ)。 群馬県桐生市生まれ。群馬県立桐生中学校出身。東京外国語学校(現・東京外国語大学)ドイツ語科を卒業。商社勤務を経て翻訳家になる。ドイツ語圏、英語圏の児童文学・ノンフィクションなどを日本語に翻訳した。最初の訳書はおそらく1941年のテオドル・シュトルム『少女ローレ』(改造社)。(ヴィツキー・バウムの長篇 Das große Enimaleins を訳出したが、出版に至っていない。)1962年、『ハウフ童話全集』でサンケイ児童出版文学賞を受賞。
毛利 菊枝(もうり きくえ、1903年〈明治36年〉11月3… 毛利 菊枝(もうり きくえ、1903年〈明治36年〉11月3日 - 2001年〈平成13年〉8月20日)は、日本の女優。本名は森 キク(旧姓:小林)。夫は美術史家の森暢。 杉村春子、山本安英らと同世代の新劇女優であり、岸田國士に師事。幾つかの劇団を経て、京都市に劇団くるみ座を創設し、長く代表をつとめた。戦後は映画やテレビドラマにも多く出演し、老け役で活躍した。 1903年(明治36年)、群馬県利根郡沼田町(現沼田市)に生まれる。群馬県立高崎高等女学校(現群馬県立高崎女子高等学校)中退。 1925年(大正14年)、岸田國士主宰の新劇研究所に第1期生として入る。1929年(昭和4年)、喜劇座『御意に任せて』で初舞台を踏む。
田口 ツギ(たぐち ツギ、1903年〈明治36年〉10月19… 田口 ツギ(たぐち ツギ、1903年〈明治36年〉10月19日 - 1934年〈昭和9年〉8月19日、女性)は、昭和初期の日本の社会運動家、治安維持法の下で非合法政党であった時期の日本共産党の党員。 群馬県群馬郡滝川村(後の高崎市の一部)に生まれる。生家は、半農半商の穀屋であったが、1920年の戦後恐慌の際に破産した。 上級学校へは進学しなかったが、養蚕や農業に従事しながら、下田歌子の実践女学校における講義録を読み、独学青年の集まる「詩と歌の会」に参加するなどしていた 1925年1月、姉である田口マチ(後の梶並マチ)とともに、前橋市で開かれた講演会で、東京合同労働組合の活動家であった丹野セツの講演に触れる。
正田 英三郎(しょうだ ひでさぶろう、1903年9月21日 … 正田 英三郎(しょうだ ひでさぶろう、1903年9月21日 - 1999年6月18日)は日本の実業家。群馬県邑楽郡館林町(現・館林市)出身。
柳沢 米吉(柳澤、やなぎさわ よねきち、1903年〈明治36… 柳沢 米吉(柳澤、やなぎさわ よねきち、1903年〈明治36年〉9月12日 - 1995年〈平成7年〉1月31日)は、昭和時代の土木工学者。内務官僚。実業家。海上保安庁長官。群馬県安中市出身。 群馬県碓氷郡安中町上野尻(現・安中市安中)に生まれる。旧制群馬県立高崎中学校、旧制第八高等学校を経て、1927年(昭和2年)に東京帝国大学工学部土木工学科を卒業後、内務省に入る。 1943年(昭和18年)運輸通信省港湾局建設課長、1946年(昭和21年)港湾局計画課長、1948年(昭和23年)中国海運局長兼広島海上保安本部長、1951年(昭和26年)海上保安庁長官に就任。同年、不正入出国に関する件で衆議院行政監察特別委員会に証人喚問された。
久保田 円次(くぼた えんじ、1903年〈明治36年〉8月2… 久保田 円次(くぼた えんじ、1903年〈明治36年〉8月23日 - 1998年〈平成10年〉2月1日)は、日本の政治家、実業家。衆議院議員(8期)、防衛庁長官、群馬県議会議員、伊勢崎市議会議員・同議長を務めた。群馬県出身。伊勢崎市名誉市民。 1903年(明治36年)、群馬県新田郡笠懸村大字阿左美(現・みどり市笠懸町阿左美)に、和三郎・ひでの三男として生まれる。生家は果樹の栽培などを行う農家だった。兄・茂一郎は後に伊勢崎商工会議所会頭を務めた。 笠懸村尋常高等小学校を経て、1923年(大正12年)栃木県立足利工業学校(現・栃木県立足利工業高等学校)を卒業。同年兄・茂一郎とともに久保田兄弟鉄工所を設立し、副社長に就任。
関牧翁(せき ぼくおう、1903年〈明治36年〉4月15日 … 関牧翁(せき ぼくおう、1903年〈明治36年〉4月15日 - 1991年〈平成3年〉2月13日)は、日本臨済宗の僧侶。 臨済宗天龍寺派管長。天龍寺二百四十一世。俗姓は岩井のち関。諱は巍宗。号は叱咤室また集瑞軒。天龍寺規則・宗制の改正を断行し、自由奔放な禅者として知られた。主な弟子には大森曹玄、加藤隆芳、平田精耕、荒金天倫がいる。 群馬県甘楽郡下仁田町に生まれる。初名は岩井 敏夫。旧制富岡中学校を卒業し、慶応義塾大学医学部予科に進学するが、中退。武者小路実篤の提唱した「新しき村」の思想に感化され、伊吹山麗の「愛の村」で青年を指導。 1928年(昭和3年)岐阜県揖斐郡揖斐川町の瑞巌寺の岡部洪宗和尚について得度。
諸田 幸一(もろだ/もろた こういち、1903年〈明治36年… 諸田 幸一(もろだ/もろた こういち、1903年〈明治36年〉4月15日 - 1986年〈昭和61年〉7月30日 )は、日本の経営者。群馬銀行頭取、群馬テレビ社長を務めた。位階は従四位。 群馬県勢多郡横野村(現・渋川市)出身。1923年に刀川実業補習学校を卒業し、1929年に上毛銀行(現・群馬銀行)に入行した。1953年10月に取締役に就任し、1959年に常務、1968年10月に専務を経て、1970年11月に副頭取に就任し、1971年5月には頭取に昇格した。1977年に会長、1981年5月に取締役相談役を経て、1984年5月には相談役に就任。群馬テレビ社長、全国地方銀行協会会長なども歴任。全国銀行協会連合会理事、日本経済団体連合会常任理事。
片岡 千恵蔵(かたおか ちえぞう、旧字体:千惠藏、1903年… 片岡 千恵蔵(かたおか ちえぞう、旧字体:千惠藏、1903年〈明治36年〉3月30日 - 1983年〈昭和58年〉3月31日)は、日本の俳優。本名︰植木 正義(うえき まさよし)。 戦前・戦後期にわたって活躍した時代劇スターで、同時代の阪東妻三郎、大河内傳次郎、嵐寛寿郎、市川右太衛門、長谷川一夫とともに「時代劇六大スタア」と呼ばれた(これに月形龍之介を含めて「七剣聖」と呼ぶ場合もある)。出演作品は300本を超える。戦前は片岡千恵蔵プロダクションを設立し、稲垣浩、伊丹万作の両監督とコンビを組んで傑作時代劇を多く生み出した。戦後は東映の重役スターとなり、亡くなるまで第一線のスターで在り続けた。終戦直後のGHQ占領時代には、金田一耕助や多羅尾伴内などを演じ現代劇でも人気を得て、両シリーズはその後も長く続いた。
塚本 茂(つかもと しげる、1903年〈明治36年〉3月14… 塚本 茂(つかもと しげる、1903年〈明治36年〉3月14日 - 1983年〈昭和58年〉1月25日)は、昭和期の洋画家である。 1903年(明治36年)、群馬県多野郡美土里村(現・藤岡市)に生まれる。旧制前橋中学校に学び、雑誌で見た中村彝「エロシェンコ氏の像」に感動し、美術教師・曽根末次郎の影響もあり画家を志す。東京美術学校図画師範科に入学し、藤島武二に教えを受け、学外で中村彝、牧野虎雄にも師事する。在学中の1924年(大正13年)に第5回帝展に『緑蔭』を出品し初入選する。1925年(大正14年)同校を卒業。 卒業後は神奈川県立湘南中学校(現・湘南高等学校)教諭となり、1946年(昭和21年)まで勤務。
金井 幸佐久(かない こうさく、1903年1月19日 - 没… 金井 幸佐久(かない こうさく、1903年1月19日 - 没年不明)は、日本の郷土史家。群馬県吾妻郡中之条町出身。民俗学・教育史・宗教史に造詣が深く、多くの著書があり、100歳を超えてなお執筆活動に取り組んでいることでも話題を呼んだ。 1936年 群馬県師範学校専攻科を卒業。坂上村坂上小学校に就職し同校教頭をへて、群馬県立吾妻高等学校教頭を勤める。中之条町誌編集委員、群馬県文書館調査委員、群馬県地域文化研究協議会評議員などを歴任した。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
千明 康(ちぎら やすし、1903年1月1日 - 1986年… 千明 康(ちぎら やすし、1903年1月1日 - 1986年7月19日)は、日本の実業家、馬主、競走馬生産者。株式会社丸沼温泉ホテル会長、千明牧場代表を務めた。 1903年1月1日、群馬県利根郡片品村出身。千明賢治の長男。旧制沼田中学校、旧制新潟高等学校を経て東京帝国大学農学部林学科に進学し、1930年に卒業。大学院で2年間学んだのち南満洲鉄道に入社し、1937年退社。この間1936年に日光華厳滝エレベーター株式会社、株式会社丸沼温泉ホテル各社長に就任。また1949年6月より日光国立公園観光株式会社社長に就任し、1950年8月に辞任するまで同職に在任。このほか群馬官材事業協会、国有林材生産組合、群馬県養鱒漁業協同組合などで要職を務めた。
桑原 鶴(くわばら つる、1902年〈明治35年〉12月25… 桑原 鶴(くわばら つる、1902年〈明治35年〉12月25日 - 1969年〈昭和44年〉7月28日)は、日本の外交官・文筆家。外交官としてはエジプト王国代理公使などを勤めた。外務省内にあって日独防共協定締結に反対し、太平洋戦争の無条件降伏による敗戦を予見して講和による終結を唱えたことで知られる。戦後は外務省を退官し在野で著述活動を行った。 群馬県利根郡川場村門前に生まれる。川場村尋常小学校を経て、旧制沼田中学校(現在の群馬県立沼田高等学校)から第一高等学校に進み、東京帝国大学法学部に入学。1924年高等文官試験外交科、翌1925年同行政科に合格。 1926年に外務省入省。イタリアや青島で在勤の後、1936年に公使館三等書記官としてアフガニスタンに赴任。
岡田 刀水士(おかだ とみし、1902年〈明治35年〉11月… 岡田 刀水士(おかだ とみし、1902年〈明治35年〉11月6日 - 1970年〈昭和45年〉9月30日)は、大正・昭和時代に活躍した日本の詩人、教員。 1902年(明治35年)群馬県前橋市大字才川(現・若宮町)に生まれる。群馬郡久留馬小高等科を経て、1925年(大正14年)群馬師範学校本科第一部(現・群馬大学教育学部)を卒業。 倉賀野尋常高等小学校を振り出しに、高崎北尋常高等小学校、高崎中央尋常高等小学校で勤務。1930年(昭和5年)ごろからは自由教育の実践に取り組んだ。1936年(昭和11年)退職して上京、東京府八王子第二小学校に代用教員として勤めるが間もなく退職し、1937年(昭和12年)より高崎市片岡尋常高等小学校に勤務。
吉野 秀雄(よしの ひでお、1902年〈明治35年〉7月3日… 吉野 秀雄(よしの ひでお、1902年〈明治35年〉7月3日 - 1967年〈昭和42年〉7月13日)は、近代日本の歌人・書家・文人墨客。号は艸心。多病に苦しみながら独自の詠風で境涯の歌を詠んだ。多数の美術鑑賞や随筆を残し、書家としても知られている。 『南京新唱』を読み、会津八一にひかれて師事。生涯を病とたたかいつつ、良寛を愛し、万葉調を基調にした、純粋な人間への愛憐を詠む。『寒蟬集』(1947年)、『晴陰集』(1950年)などの歌集がある。 群馬県高崎市に次男として生まれる。家は織物問屋の株式会社吉野藤であった。 1909年(明治42年)身体が病弱であったため富岡上町の祖父母のもとに移り住み、富岡小学校に入学。
佐田 一郎(さた いちろう、1902年〈明治35年〉6月9日… 佐田 一郎(さた いちろう、1902年〈明治35年〉6月9日 - 1991年〈平成3年〉9月1日)は、日本の実業家、政治家。佐田建設社長、参議院議員(2期)。元衆議院議員・佐田玄一郎は孫。 1902年(明治35年)6月9日、群馬県勢多郡桂萱村(現・前橋市三俣町)に小作農の父徳蔵・母はつの長男として生まれる。勢多郡桂萱尋常小学校(現・前橋市立桂萱小学校)から高等科に進むが1年で退学。 1920年(大正9年)徳蔵が土木請負業「佐田組」を創業。同年一郎は藤岡の私立高山社蚕業学校別科を卒業して養蚕教師となるが、1926年(大正15年)養蚕教師を辞め佐田組に入社。 1930年(昭和5年)桂萱村村会議員となり、3期13年務める。
正田 建次郎(しょうだ けんじろう、1902年〈明治35年〉… 正田 建次郎(しょうだ けんじろう、1902年〈明治35年〉2月25日 - 1977年〈昭和52年〉3月20日)は、日本の数学者(代数学)。第6代大阪大学総長、武蔵大学学長、初代大阪大学基礎工学部長。群馬県邑楽郡館林町(現・群馬県館林市)出身。勲一等瑞宝章、文化勲章受章。 1902年(明治35年)、群馬県邑楽郡館林町(現・館林市)に、日清製粉創業者・正田貞一郎の次男として生まれる。小日向台町小学校を経て、1919年(大正8年)に東京府立第四中学校を卒業。1922年(大正11年)に旧制第八高等学校卒業して東京帝国大学理学部数学科に進学し、1925年(大正14年)3月卒業。大学院で高木貞治の指導を受けた。
西山 市三(にしやま いちぞう、1902年〈明治35年〉2月… 西山 市三(にしやま いちぞう、1902年〈明治35年〉2月19日 - 1999年〈平成11年〉7月16日)は、日本の遺伝学者。京都大学名誉教授・農学博士。専門は細胞遺伝学。位階は正四位。 群馬県利根郡沼田町(現在の沼田市)町田町に生まれる。旧制沼田中学校(現・群馬県立沼田高等学校)を経て、京都帝国大学農学部農林生物学科に入学、木原均に就いて学び、1927年に卒業。 卒業後は同大学でカラスムギの細胞遺伝の研究に取り組む。1937年に助教授、1946年には教授となり、同大食糧科学研究所に勤務。1956年、京都大学農学部に配置替えとなる。1965年定年により退官、同大学名誉教授となる。 退官後も1965年から67年まで米国ウィスコンシン大学客員教授、1967年から68年までミズーリ大学客員教授、帰国後の1971年から84年まで財団法人木原研究所評議員、1972年から74年まで名城大学教授を務めた。
五十嵐 吉蔵(吉藏、いがらし きちぞう、1901年〈明治34… 五十嵐 吉蔵(吉藏、いがらし きちぞう、1901年〈明治34年〉10月1日 - 1959年〈昭和34年〉6月24日)は、大正・昭和期の実業家、政治家。衆議院議員(5期)。蚕糸の第一人者。 群馬県佐波郡豊受村大字上蓮沼(現・伊勢崎市上蓮町)で、農業・五十嵐栄三郎の長男として生まれる。1918年(大正7年)群馬県立安中蚕糸学校(現・群馬県立安中総合学園高等学校)を卒業し、明治大学に進んだが中退。 組合製糸群馬社副社長、同代表理事、全国共栄蚕糸組合副理事長、日本蚕糸業会理事、刀洋織物社長、群馬県蚕種協同組合長などを務め、蚕糸行政に尽くした。 政界では、1933年(昭和8年)群馬県会議員に当選し3期在任。
佐藤 雪夫(さとう ゆきお、1901年5月7日 - 1931… 佐藤 雪夫(さとう ゆきお、1901年5月7日 - 1931年12月21日)は、日本の翻訳家、雑誌記者。群馬県室田町(現高崎市)出身。 東京神田の順天中学校を卒業後、1924年に東京外国語学校イタリア語科卒業。同年5月に発行された文芸雑誌「南歐文學」の編集人を務め、イタリア文学紹介、翻訳などで活躍した。同誌の発行元は三田書房、発行人は甲斐田イヨ。南ヨーロッパの文学を紹介・研究することを目的とし、原語からの翻訳やエッセイなどが掲載された。全2冊で、1号は同年5月に発行され、巻頭にポール・クローデルの肖像と題字「水に聴く」を掲載。2号は翌6月の発行。 翌1925年にキネマ旬報社に編集部員として入社し、映画評論、脚色等で活躍した。
羽仁 五郎(はに ごろう、男性、1901年(明治34年)3月… 羽仁 五郎(はに ごろう、男性、1901年(明治34年)3月29日 - 1983年(昭和58年)6月8日)は、日本の歴史家(マルクス主義歴史学・歴史哲学・現代史)。参議院議員。日本学術会議議員。
久保 一雄(くぼ かずお、1901年2月16日 - 1974… 久保 一雄(くぼ かずお、1901年2月16日 - 1974年1月26日)は、日本の映画美術監督、洋画家。 群馬県藤岡市生まれ。 日本映画美術監督協会の創立者の一人。独立美術協会会員。 川端画学校洋画部で学んだ後、日活撮影所に入所。 撮影所の労働運動に関わり、「三・一五事件」で検挙される。転向しないままに奈良刑務所を出所後、PCLに入社。『人情紙風船』(山中貞雄監督)では岩田専太郎の美術考証にもとづいて、装置を担当。戦中・戦後にかけて、成瀬巳喜男、木村荘十二、山本嘉次郎、マキノ雅弘、黒澤明ら有力な監督の下で美術を担当。フリーとなってからは、山本薩夫、今井正の独立プロの映画制作に協力した。 戦前戦後の映画関連の労働運動経験者としても、山本薩夫『私の映画人生』(新日本出版社、1984年)、井上雅雄『文化と闘争――東宝争議1946-1948』(新曜社、2007年)で言及されている。
金子 与重郎(旧字体: 金子 與重郞、かねこ よじゅうろう、… 金子 与重郎(旧字体: 金子 與重郞、かねこ よじゅうろう、1901年(明治34年)1月27日 - 1954年(昭和29年)10月9日)は、大正から昭和期の農業経営者、政治家。衆議院議員(3期)。 群馬県勢多郡粕川村大字室沢(現・前橋市粕川町室沢)で、金子新作の長男として生まれる。群馬県立勢多農林学校(現・群馬県立勢多農林高等学校)を経て、1919年(大正8年)盛岡高等農林学校農学科別科を卒業した。 帰郷して農業を営む。また、県下の産業組合の組織化に尽力し、組合厚生病院を設けて農村の保健衛生の向上に尽くした。群馬蚕糸会社の設立に参画し、蚕糸業の振興を図った。その他、粕川村会議員、粕川信用販売利用組合長、群馬県購買販売利用組合専務理事、同購買販売利用組合連合会総務部長、群馬蚕糸製造監査役などを務めた。
静田 錦波(しずた きんぱ、本名:高岸 近治、1900年〈明… 静田 錦波(しずた きんぱ、本名:高岸 近治、1900年〈明治33年〉12月20日 - 1976年〈昭和51年〉8月10日)は、活動弁士。 群馬県佐波郡宮郷村(現・伊勢崎市)出身。大正時代に石井春波の弟子となり、弁士の技術を学ぶ。 デビュー後は、浅草の電気館や帝国館といった松竹系の直営館に出演。帝国館では現代劇の主席弁士を勤めている。主に松竹蒲田撮影所の作品を解説し、美声と名調子で観客(特に女性)を魅了した。 映画がトーキーの時代を迎えた1935年(昭和10年)には、弁士・楽士の全員解雇を通知する松竹側に対し、争議委員長として交渉するも決裂。3月19日から28日にかけてストライキを指揮した。その後は、主に歌謡曲のナレーションを務めた。
金子 尚一(かねこ ひさかず、1900年〈明治33年〉12月… 金子 尚一(かねこ ひさかず、1900年〈明治33年〉12月12日 - 1997年〈平成9年〉)は、日本の英米文学者、教育者、立教大学名誉教授、立教大学文学部教授・予科教授・学生部長。立教大学オーケストラ部長を務めたほか、立教大学英語会(ESS)の支援も行うなど、学生らの活動にも深く携わった。 群馬県前橋市出身。1919年旧制前橋中学校卒。 1925年に立教大学文学部英文学科を卒業し、ただちに立教大学文学部助教授に就任。同年よりアメリカに留学してケニオン大学で文学修士(MA)を取得する。 1929年に立教大学予科教授に就任し、その後文学部教授も兼任し、予科では英作文と英訳を、文学部では英文学を講じた。
井田 文夫(いだ ふみお、1900年12月4日 - 1975… 井田 文夫(いだ ふみお、1900年12月4日 - 1975年10月23日)は、日本の実業家。サンヨー食品の創業者。群馬県佐波郡玉村町出身。 1917年に群馬県立高崎中学校を卒業。 家業の井田酒造に参画し、1933年に泉屋酒店として独立し、前橋市に開業。1955年に富士製麺(現在のサンヨー食品)を創業し、社長に就任。 1975年4月に紺綬褒章を受章。 1975年10月23日福岡市で出張中に脳卒中のために死去。74歳没。
高木 翔之助(たかぎ しょうのすけ、1900年〈明治33年〉… 高木 翔之助(たかぎ しょうのすけ、1900年〈明治33年〉11月9日 – 1980年〈昭和55年〉)は、昭和のジャーナリスト・文筆家・出版業者。満洲・華北でジャーナリストとして活動し、日本による満洲国・冀東防共自治政府の樹立などを擁護した。その一方で、関東軍による出版弾圧にも激しく抵抗したことで知られる。戦後は地元・群馬県の地方ジャーナリストとして活動した。 群馬県佐波郡采女村(現・伊勢崎市)に生まれる。1923年(大正12年)、早稲田大学専門部政治経済科を中退。1925年(大正14年)5月、横浜市で週刊新聞『日本実業新報』を創刊・主宰した。1927年(昭和2年)9月に同紙を廃刊すると満洲に渡り、雑誌『海外之日本』大連支局主任となる。
塚越 賢爾(つかこし けんじ、1900年11月8日 - 19… 塚越 賢爾(つかこし けんじ、1900年11月8日 - 1943年7月7日以降)は日英ハーフの飛行家、航空機関士。1937年に朝日新聞社主催の神風号訪欧飛行により、同僚の飯沼正明操縦士とともに一躍日本の空の英雄となったが、太平洋戦争で軍務中に消息を絶った。 賢爾は群馬県碓氷郡烏淵村(後の高崎市)出身の弁護士・検事、塚越金次郎と英国人のエミリー・セイラ・ボールドウィンの長男。1900年(明治33年)11月3日、東京市麹町区で生まれた。父は倉渕村から上京し、明治法律学校卒業を経て弁護士資格を取得。1898年からイギリスに留学し、その最中に看護婦をしていたエミリーと知り合い結婚した。 2人は帰国後、賢爾が産まれる直前に婚姻届を提出。
飯島 祐之(いいじま すけゆき、1900年〈明治33年〉10… 飯島 祐之(いいじま すけゆき、1900年〈明治33年〉10月25日 - 1970年〈昭和45年〉8月29日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)、群馬県邑楽郡多々良村長。 群馬県邑楽郡多々良村大字木戸(現・館林市)で、飯島忠四郎の二男として生まれる。1920年(大正9年)旧制太田中学校(現・群馬県立太田高等学校)を卒業。 その後は農業に従事して1933年(昭和8年)多々良村助役、1939年(昭和14年)同村長に就任した。群馬県町村会副会長、邑楽郡農会議員、多々良村産業組合長、同農業会長、群馬県購買販売利用組合連合会理事、同製粉精米加工組合理事長、同食糧営団理事、邑楽郡煙草耕作連合組合長となる。