岩﨑 哲也(いわさき てつや、1982年10月13日 - )… 岩﨑 哲也(いわさき てつや、1982年10月13日 - )は、埼玉県深谷市出身の元プロ野球選手(投手)。
埼玉県:259人
岩﨑 哲也(いわさき てつや、1982年10月13日 - )… 岩﨑 哲也(いわさき てつや、1982年10月13日 - )は、埼玉県深谷市出身の元プロ野球選手(投手)。
中里 篤史(なかざと あつし、1982年9月12日 - )は… 中里 篤史(なかざと あつし、1982年9月12日 - )は、埼玉県朝霞市出身の元プロ野球選手(投手)。右投左打。現在は読売ジャイアンツのスコアラー。 朝霞市立朝霞第二小学校2年生の時に野球を始め、朝霞市立朝霞第二中学校時代から投手を務めるようになった。 春日部共栄高等学校入学時は体重60kgの痩せた体格だった。当時の本多監督が直球だけで三振を奪える投手を目指して徹底的な体力強化を行なわせ、変化球はカーブのみを練習させた。その結果、ストレートに磨きがかかり、2年生の時には140km/hを記録。秋季大会の初戦では北川辺高校を相手に5回コールドゲーム、すべてのアウトを三振で取る15奪三振の完全試合(参考記録)を達成した。
新井 智(あらい さとし、1982年7月25日 - )は、埼… 新井 智(あらい さとし、1982年7月25日 - )は、埼玉県秩父郡小鹿野町出身の元プロ野球選手(投手)、高校野球指導者。 花咲徳栄高等学校への在学中は春夏とも甲子園球場での全国大会と無縁で、3年時(2000年)夏の全国高等学校野球選手権埼玉大会では、準決勝で坂元弥太郎擁する浦和学院高等学校に敗れた。硬式野球部での1学年後輩に、根元俊一がいる。 高校卒業後の2001年にローソンへ入社すると、当時社会人野球に参加していた硬式野球部でプレーを続けていた。しかし、翌2002年のNPBドラフト会議で阪神タイガースから9位で指名。高校から社会人野球へ進んだ選手は原則として2年目まで指名できないが、ローソンが硬式野球部を同年限りで廃部することに伴う特例措置で指名に至った。
西谷 尚徳(にしたに ひさのり、1982年5月6日 - )は… 西谷 尚徳(にしたに ひさのり、1982年5月6日 - )は、埼玉県久喜市出身の元プロ野球選手(内野手)。現在は立正大学法学部特任専任講師。
黒川 春樹(くろかわ はるき、1982年4月7日 - )は、… 黒川 春樹(くろかわ はるき、1982年4月7日 - )は、日本の野球指導者。埼玉西武ライオンズS&Cスタッフ。 トロント・ブルージェイズ1Aのストレングスコーチを務めたのち、2011年まで埼玉西武ライオンズの通訳兼トレーニングコーチ補佐を務め、2012年より一軍トレーニングコーチを務める。2019年からはコーチという枠組みではなくなり、二軍のS&C(ストレングス&コンディショニング)スタッフとして在籍している。2025年時点の役職はハイパフォーマンスディレクター。
大島 裕行(おおしま ひろゆき、1981年6月15日 - )… 大島 裕行(おおしま ひろゆき、1981年6月15日 - )は、埼玉県出身の元プロ野球選手(外野手)、コーチ。 埼玉栄高校時代から注目を集めていた長打力が持ち味。1998年第80回全国高等学校野球選手権大会に出場、1回戦沖縄水産高戦で新垣渚投手から逆転本塁打を放つ(2回戦敗退)。彼は2年生だったがこの活躍で一躍注目される存在となる。直後の第3回AAAアジア野球選手権大会日本代表にも選出された。3年時は鳥谷敬のいる聖望学園に敗れて甲子園出場はならなかった。 高校時代は通算本塁打86本(歴代6位)を記録(2007年に中田翔に破られるまでの歴代最多記録)。早くから注目を集め、埼玉の怪物と呼ばれたほどである。
矢口 哲朗(やぐち てつお、1981年2月18日 - )は、… 矢口 哲朗(やぐち てつお、1981年2月18日 - )は、埼玉県川越市出身の元プロ野球選手(投手)。 大宮東高(同級生高地系治と現在も親友)では1年上の投手に酒井泰志がいた。3年夏は東埼玉大会準決勝で優勝した埼玉栄に敗れた。1998年にドラフト6位で中日ドラゴンズに入団。 1年目は体力づくりに励み、2年目に二軍で10勝を挙げウエスタン・リーグ制覇に貢献しファーム日本選手権で先発勝利した。一軍初登板も経験し、将来の先発の柱として期待された。二軍でのエース級の活躍、川上憲伸のような力強いフォームや容姿端麗であることから、人気が高かった。 だが、一軍では登板機会を与えられず結果を残すことができなかった。
久保田 智之(くぼた ともゆき、1981年1月30日 - )… 久保田 智之(くぼた ともゆき、1981年1月30日 - )は、埼玉県比企郡吉見町出身の元プロ野球選手(投手)、コーチ。 日本プロ野球におけるシーズン最多登板数記録保持者(90登板)。 小学3年生から野球を始め、小学5年生秋の新チームから主に5番・捕手としてレギュラー定着。 その後進学した滑川高校でも捕手を務めていたが、監督に投手をしたいと申し出ると「エースと違う投げ方をするなら試合で使ってやる」と言われ、監督が練習中にトルネード投法で投げていたのを真似て投手も兼任するようになった。この際に野茂英雄を参考にしたことは一切なかった。 高校3年時の1998年に正捕手・4番打者・2番手投手として第80回全国高等学校野球選手権大会に同校初となる出場を果たした。
河野 友軌(こうの ゆうき、1980年11月1日 - )は、… 河野 友軌(こうの ゆうき、1980年11月1日 - )は、埼玉県狭山市出身の元プロ野球選手(外野手)。 小学3年生の時、地元の軟式少年野球チームに入り、中学でも軟式野球部に入った後、強豪校からの誘いがあったが埼玉県立狭山清陵高等学校へ進む。1年秋から三塁手で出場し、2年秋に正捕手が負傷して代役になると地区予選でサイクル安打を記録。主将で4番の3年夏に埼玉県大会で4回戦まで勝ち残り鳥谷敬のいた聖望学園に惜敗。大学関係者の目にとまり、法政大学野球部のセレクションの受験権利を得て合格する。 大学入学後は1年上に浅井良らがいて、外野へ回る。その後、打撃を活かして出場機会を得ると3年春にベストナイン獲得。
松比良 平太(まつひら へいた、1980年7月13日 - )… 松比良 平太(まつひら へいた、1980年7月13日 - )は、埼玉県所沢市出身の元プロ野球選手(捕手)。 習志野市立習志野高等学校(同級生に玉田圭司・吉野智行ら)から、1998年のドラフト7位で大阪近鉄バファローズに指名され入団。 一軍での試合出場がないまま、4年目の2002年オフに戦力外通告を受け、現役を引退した。 引退後の2003年からは近鉄でブルペン捕手を務めていたが、2004年限りで球団が消滅。 翌2005年、新規参入を果たした東北楽天ゴールデンイーグルスに入り、2014年までブルペン捕手を務めた。その間、2008年には北京オリンピック野球日本代表のチームスタッフも務めた。 2015年から二軍用具係に異動となり、2016年からは二軍マネージャーを務めた。
板倉 康弘(いたくら やすひろ、1980年2月21日 - )… 板倉 康弘(いたくら やすひろ、1980年2月21日 - )は、埼玉県秩父郡小鹿野町出身の元プロ野球選手(外野手)。 秩父農工高では通算24本塁打。北海道学生野球連盟に加盟する東農大生物産業学部へ進み、大学選手権に出場。4年秋はリーグ優秀選手、ベストナイン。2001年のプロ野球ドラフト会議でオリックス・ブルーウェーブに12巡目で指名され、契約金ゼロで入団した。 2年間プレーするが、ファームでも結果を残すことができず2003年に戦力外通告を受けた。のちに12球団合同トライアウトを受けるも、獲得する球団は無く現役を引退した。学生時代からイップスの傾向があり、課題であった。運動能力は長けており、大学時代には社会人ラグビーの強豪チームからも声が掛かったという。
岩渕 有美(いわぶち ゆみ、1979年9月10日 - )は、… 岩渕 有美(いわぶち ゆみ、1979年9月10日 - )は、埼玉県出身の女子ソフトボール選手(外野手)・指導者。 星野女子高等学校卒業。1998年、日立高崎(当時)に入団。2004年、アテネオリンピックに出場し、銅メダルを獲得。同年、彩の国スポーツ功労賞を受賞。 2013年に現役引退して指導者に転じた。2014年、ルネサスエレクトロニクス高崎(当時)のコーチに就任。2015年・2016年はビックカメラ高崎のヘッドコーチを務めた。 2017年、ビックカメラ高崎ビークイーンの監督に就任。 2026年、宇津木麗華の監督就任に伴い、チームディレクター兼コーチとなる。
酒井 泰志(さかい やすし、1979年4月25日 - )は、… 酒井 泰志(さかい やすし、1979年4月25日 - )は、埼玉県出身の元プロ野球選手(投手)。 大宮東高では2年夏の県大会準優勝も控え。専修大学に進学。2年春までの3季は1部で、東都大学1部リーグ通算16試合に登板、4勝6敗、防御率3.07、40奪三振を記録。4年時はエースで主将を務めて春秋優勝、秋は最優秀投手となり入替戦も初戦は完封勝利するがチームは2連敗。2部では通算20勝。1年下に江草仁貴がいた。卒業後は、いすゞ自動車に入社。 2002年には、いすゞ自動車入社1年目に第73回都市対抗野球大会で優勝に貢献し、若獅子賞を獲得。いすゞ自動車は同年限りでの活動休止が決まっており、この年のオフにドラフト7巡目で千葉ロッテマリーンズに入団。
金剛 弘樹(こんごう ひろき、1979年2月12日 - )は… 金剛 弘樹(こんごう ひろき、1979年2月12日 - )は、埼玉県入間市出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ。現在は立正大学硬式野球部で監督を務めている。 帝京高では、1995年夏の第77回全国高等学校野球選手権大会優勝も含めて3度出場。ただし控え投手のため試合出場は2試合で、途中から外野守備に就いたのみで登板機会はなかった。 立正大学に進学し、東都大学野球に加盟する同校野球部に入部すると150km/hをマークして一躍スカウトから注目されたが、2年生の時に右肘を故障して手術するなど戦列を離れると以降は救援に回ってプロ入りの機会を逃す。大学では3学年上に広田庄司がいて武田勝、吉見宏明と同期であった。
小川 将俊(おがわ まさとし、1979年1月18日 - )は… 小川 将俊(おがわ まさとし、1979年1月18日 - )は、埼玉県大宮市(現:さいたま市北区)出身の元プロ野球選手(捕手)、野球指導者。 浦和学院高等学校では、高校3年時に春夏の甲子園に出場。三浦貴とバッテリーを組んだ。その後、東洋大学でも1年から三浦とのコンビで出場。4年秋には正捕手として11季ぶりのリーグ優勝に貢献。卒業後は日本通運へ進む。3年目に正捕手に定着して、第74回都市対抗野球大会では初戦で本塁打を放つ。 その後、2003年のドラフトで中日ドラゴンズから8位指名を受けて入団。指名に至った経緯として、就任直後の落合博満監督からの「即戦力捕手獲得」という強い要望で獲得が決まったと言われている。
大野 貴洋(おおの たかひろ、1978年10月18日 - )… 大野 貴洋(おおの たかひろ、1978年10月18日 - )は、埼玉県飯能市出身の元プロ野球選手(内野手)。右投左打。 中学時代は日高ボーイズでプレー。所沢商高野球部では1年生から三塁手のレギュラーとなり、高校通算71本塁打を記録。これは当時歴代13位の記録であり、高校時代は正真正銘のスラッガーであった。 1996年のドラフト会議で横浜ベイスターズから3位指名され入団。左の長距離砲候補として期待されたが、二軍でも5年間で通算7本塁打とプロの壁に苦しみ、一軍出場のないまま2001年限りで退団。 2002年からは社会人野球の東京ガスに加入してプレーを継続。2008年限りで退部し現役を引退した。 その後はプロ・アマの経験や人脈を基に多くの理論・理論を収集して学童野球指導に携わり、少年学童野球チームの「世田谷SKバッグス」で監督を務めた。
石井 義人(いしい よしひと、1978年7月12日 - )は… 石井 義人(いしい よしひと、1978年7月12日 - )は、埼玉県川口市出身の元プロ野球選手(内野手、右投左打)・コーチ。愛称は「ジャッキー」。 小学生で前川バンビーズ、中学時代は越谷リトルシニアに在籍。浦和学院高等学校時代の1994年に第76回全国高等学校野球選手権大会(2回戦敗退)、1996年に第68回選抜高等学校野球大会(2回戦敗退)、第78回全国高等学校野球選手権大会(初戦敗退)と3度甲子園出場を果たした。三浦貴は高校時代の同級生で、当時は三浦がエースを務め、石井が4番を打っていた。1年上に木塚敦士がいた。 1996年のドラフト会議にて横浜ベイスターズから4位指名を受け入団。 1999年は5月にジュニア月間MVPを獲得したが、7月に右足の腫瘍を手術し、残りは治療に専念した。
小林 宏之(こばやし ひろゆき、1978年6月4日 - )は… 小林 宏之(こばやし ひろゆき、1978年6月4日 - )は、埼玉県草加市出身の元プロ野球選手(投手)。愛称は「コバヒロ」。 2010年から2012年および2014年の登録名は、姓名の区切りがない小林宏(こばやしひろ)。 春日部共栄高校では3年春の県大会優勝、夏はベスト8と活躍。1996年のドラフト会議で千葉ロッテマリーンズより4位指名を受けて入団。同校はプロ野球選手を多数輩出しているが、大学や社会人を経ずに直接プロ入りしたのは小林が初めてだった。 プロ1年目はジュニアオールスターに出場し、翌1998年、一軍初登板を含む2試合に登板したが、2試合ともチームがプロ野球記録となる18連敗中を喫している中での敗戦処理としての登板であった。
三浦 貴(みうら たか、1978年5月21日 - 2023年… 三浦 貴(みうら たか、1978年5月21日 - 2023年7月24日)は、埼玉県出身の元プロ野球選手(外野手、内野手、投手)。 浦和学院高では3年生の時に春夏連続で甲子園出場を果たすなどエースとして活躍。バッテリーを組んだ小川将俊(大学でも同様)、石井義人は同期。その後東洋大学へ進学、1年春から投げて東都大学1部リーグ通算46試合登板、13勝19敗、防御率2.47、218奪三振(2年春秋は2部)。4年で主将を務め、2000年秋季のリーグは7勝2敗で最高殊勲選手、最優秀投手、ベストナインを受賞し優勝に貢献。大学時代から打撃も良く、東都大学野球リーグは指名打者制でありながら投手で打順に入ったり、登板しない際も打者での出場があった。
渡邉 恒樹(わたなべ こうき、1978年5月17日 - )は… 渡邉 恒樹(わたなべ こうき、1978年5月17日 - )は、埼玉県所沢市出身の元プロ野球選手(投手)。左投左打。東京ヤクルトスワローズ時代の登録名は「渡辺 恒樹」(読み同じ)だった。2013年よりヤクルトの打撃投手を務める。 幼稚園の時に熱烈な読売ジャイアンツファンだった父親の影響で野球(キャッチボール)を始める。所沢市立若松小学校2年生では少年野球チーム「若松サンダズ」に入団し、所沢市立中央中学校では市の運営する硬式中学野球クラブ「所沢ボーイズ」に入部して2番手投手となる。卒業後は相洋高等学校に進学し、投手として3年春に県大会で準優勝を果たす。東京農業大学では、4年秋に東都大学リーグ2部で優勝し、最優秀投手賞。
猪爪 義治(いのつめ よしはる、1978年5月11日 - )… 猪爪 義治(いのつめ よしはる、1978年5月11日 - )は、埼玉県行田市出身の元プロ野球選手(投手)、少年野球指導者。 埼玉工業大学深谷高等学校時代は控え投手。130km/h程度の直球を横手と上手とで投げ分ける変則右腕として、2年秋、3年春と県大会ベスト4。3年夏の県大会初戦の対狭山経済戦で1失点完投(5回コールド)。同大会の5回戦でチームは敗退したが、同試合でも先発登板していた。 高校2年の秋に父親が死去、卒業後は土木関係の仕事をしていたが、高卒3年目に入る前に「野球に未練があるならウチに来い」と会社社長に誘われ、うどん屋でアルバイトをしながら、知人のスポーツインストラクターが組んだ練習メニューをもとに実家近くの公園でトレーニングを積んだ。
神田 大介(かんだ だいすけ、1978年4月30日 - )は… 神田 大介(かんだ だいすけ、1978年4月30日 - )は、埼玉県越谷市出身の元プロ野球選手(投手、右投両打)、現在はプロゴルファー。 小学5年の時に野球を始める。 花咲徳栄高校では投手育成に定評のある稲垣人司監督の指導を受けて、速球派投手として注目された。高校3年の夏はベスト8止まり。1996年のドラフト5位指名で横浜ベイスターズに入団。下位指名ながら、140km/h代後半のストレートと切れのいいスライダーを武器に、2000年・2001年にはそれぞれ一軍で2勝ずつあげる。球種は他にもナックルボールを持っていた。しかし、2001年のシーズン開始前に肩を故障し、更には呼吸器系の病気を患ったことで、同年の復帰時には球速が130m/h台に落ちていた。
佐藤 充(さとう みつる、1978年4月29日 - )は、日… 佐藤 充(さとう みつる、1978年4月29日 - )は、日本の元プロ野球選手(投手)。東京都西東京市出身。妻は、中部日本放送の社員で元アナウンサーの占部沙矢香。 現在は、中日ドラゴンズのスコアラーを務める。 10歳より埼玉県坂戸市に移り住む。埼玉県立坂戸西高等学校では、3年夏の県大会五回戦で敗退。高校卒業後は当時の監督の母校で指導者養成で定評のある首都大学連盟加盟の古豪日本体育大学に進む。1年秋からベンチ入り、2年秋のリーグ戦で完封初勝利。野球部ではアマチュア日本代表に選ばれた。1999年春の首都大学野球リーグベストナイン(投手)に選出され受賞。通算成績は38試合登板し18勝4敗、防御率1.41。
吉野 誠(よしの まこと、1977年11月19日 - )は、… 吉野 誠(よしの まこと、1977年11月19日 - )は、埼玉県大宮市(現:さいたま市見沼区)出身の元プロ野球選手(投手)。左投左打。 2014年からは阪神タイガースのスカウトを務めている。 埼玉県さいたま市見沼区出身。大宮東高では投手の2本柱として2年秋の県大会優勝で関東大会では準々決勝で先発したが途中降板してコールド負け。3年夏の埼玉大会では準決勝で延長10回完投勝利で決勝は登板せずに惜敗で準優勝。高校卒業後は日本大学に進学。東都大学リーグでは2年秋にエースとして2部リーグで2試合さらには3試合連続先発などの活躍で優勝すると入替戦では東洋大を相手に先発3連投して勝利、1部リーグ昇格に貢献して2部リーグMVP、最優秀投手。
木塚 敦志(きづか あつし、本名:木塚 敦士(読み同じ)、1… 木塚 敦志(きづか あつし、本名:木塚 敦士(読み同じ)、1977年7月19日 - )は、埼玉県浦和市(現:さいたま市南区)出身の元プロ野球選手(投手)、野球指導者。 1977年に埼玉県で生まれる。小学2年生の時に野球を始め、さいたま市立内谷中学校を経て地元の浦和学院高に進学して野球部に入部。森士の勧めで投げ方をサイドスローに改造すると頭角を現し、1年秋は県大会決勝で夏の甲子園準優勝の春日部共栄高を相手に救援したが土肥義弘の前に敗れて準優勝、関東大会へ進むが初戦で救援登板も敗退。1994年の夏県大会は決勝で先発して再度、春日部共栄高・土肥と投げ合って勝つと第76回全国高等学校野球選手権大会に出場。
久保田 智(くぼた さとし、1977年5月16日 - )は、… 久保田 智(くぼた さとし、1977年5月16日 - )は、埼玉県出身の元プロ野球選手(外野手)。 高校時代は2年時(1994年)に夏の甲子園出場するも2回戦敗退。高校通算42本塁打。同期に木塚敦志、1年下に石井義人や大学でも後輩の三浦貴、小川将俊がいる。 東洋大に進学。2年春からレギュラーで4番を打つが秋の入替戦では吉野誠(日大)の前に最後の打者となって2部降格。3年春は左膝の手術で欠場。4年春からチームが1部に復帰すると吉野から本塁打で雪辱。東都大学1部リーグ通算58試合出場、204打数52安打、打率.255、6本塁打、31打点。1999年春季リーグで首位打者になりベストナイン受賞。 川崎製鉄千葉時代は2000年から2002年まで3年連続都市対抗に出場した。
高橋 和幸(たかはし かずゆき、1977年4月27日 - )… 高橋 和幸(たかはし かずゆき、1977年4月27日 - )は、埼玉県ふじみ野市出身の元プロ野球選手(外野手)。 所沢商高では投手兼外野手として高校通算37本塁打を記録した。 1995年のドラフト5位で福岡ダイエーホークスに入団。投手としてドラフト指名されるも、入団後すぐに外野手に専念。 2002年にプロ入り7年目にして初めて一軍に昇格した。8月27日には一軍初出場を果たす。9月にはスタメン出場する機会も得て、シーズン最終戦であった10月12日の対近鉄戦では、延長11回裏に岡本晃からサヨナラ安打を放った。この年は21試合に出場し、打率.339のハイアベレージを叩き出した。 2003年は村松有人・ペドロ・バルデス・柴原洋ら外野陣が軒並み好調であり、なかなか出番が得られなかった。
本柳 和也(もとやなぎ かずや、1976年11月5日 - )… 本柳 和也(もとやなぎ かずや、1976年11月5日 - )は、埼玉県越谷市出身の元プロ野球選手(投手)。 江川卓のファンだった父親の影響で野球を始めた。運動神経抜群で、少年野球チームでは遊撃手と投手兼任、越谷市立富士中学校では中堅手で先頭打者を務めたが、本人は投手を希望していた。[要出典] 中学3年時、甲子園で春日部共栄高校の小柄な投手が好投する姿を見て同校への進学を決意した。高校時代は、土肥義弘の控え投手。2年時にチームは甲子園で準優勝するがベンチ入りならず、3年夏はベンチ入りして埼玉大会の準決勝では先発、決勝で浦和学院高等学校に0-7で敗れこの試合は登板なく甲子園出場を逃した。[要出典] その後、城西大学では3年春に1年上のエース・礒恒之と初優勝に貢献。
土肥 義弘(どい よしひろ、1976年9月1日 - )は、埼… 土肥 義弘(どい よしひろ、1976年9月1日 - )は、埼玉県鳩ヶ谷市(現・川口市)出身の元プロ野球選手(投手)、野球解説者。元東京ヤクルトスワローズの土肥寛昌投手とは、再従弟にあたる。 春日部共栄高等学校2年時の1993年(平成5年)夏に甲子園でエースとして準優勝を経験。2年秋は県大会優勝で関東大会へ進むが初戦で延長12回1失点でサヨナラ負け。3年の1994年夏は4番も打って県大会決勝で浦和学院の木塚敦士と投げ合うも敗れた。控え投手に本柳和也がいた。 高校3年生だった1994年にはプロ野球ドラフト会議で指名候補に挙がっていたが、どの球団からも指名されず、卒業後にプリンスホテルに入社。当時活動していた硬式野球部の投手として、1996年(平成8年)には都市対抗野球に出場。
日里 正義(ひざと まさよし、1976年7月29日 - )は… 日里 正義(ひざと まさよし、1976年7月29日 - )は、埼玉県出身の元プロ野球選手(外野手)。 春日部工業高校では投手。野球部では山崎弘也(アンタッチャブル)の1年後輩。2年夏は県大会準決勝まで進出するが、甲子園で準優勝する春日部共栄高相手に投げるもコールド負け(この時、山崎はスタンドで応援団だった)。 卒業後、佐藤工務店、全三郷クラブへと進む。社会人時代に会社の倒産という不幸に見舞われながら、家業を手伝い、クラブチームで練習を続けたという苦労人であった。 入団テストを経て、1997年のドラフト会議で日本ハムファイターズから6位指名を受け外野手として入団するも、2000年に戦力外通告を通知され、現役から引退する。
遠藤 良平(えんどう りょうへい、1976年6月28日 - … 遠藤 良平(えんどう りょうへい、1976年6月28日 - )は、埼玉県川口市出身の元プロ野球選手(投手)。左投左打。北海道日本ハムファイターズ執行役員。兄はオートレース選手の遠藤誠(25期、浜松オートレース場所属)。 小学1年でリトルリーグ入りし、投手兼外野手としてプレー。中学時代に軟式野球で外野手に専念。筑波大学附属高校では2年秋からエースも3年夏は遠藤竜志がいた修徳高校に敗れた。その後、自分が神宮でプレーできるとすれば東大だけだ、と野球のために東大を受け、一浪の末合格。きっかけは高校時代に神宮第二球場でプレーしたときに神宮でプレーをしたいと強く思ったことから。なお、大学では教育学部でスポーツ科学や運動生理学などを学ぶ身体教育学コースを専攻した。
遠藤 竜志(えんどう りゅうじ、1976年4月17日 - )… 遠藤 竜志(えんどう りゅうじ、1976年4月17日 - )は、埼玉県八潮市出身の元プロ野球選手(投手)。 修徳高校では2年夏に高橋尚成の控え投手として選手権大会に出場。チームはベスト8に進出したが、自身の登板はなかった。2年秋からはチームのエースとして140km/hの速球を武器に活躍。一方で同年から右肩に痛みを感じ、さらに3年になった1994年の6月には右肘に炎症を起こし、医師から登板を禁止されている。このため夏の都大会では四番・中堅手として出場し、安田学園との4回戦では登板を直訴したが監督に止められ、この試合でチームは敗れた。 卒業後はNTT関東に進み、3年目の1997年にはリリーフとして頭角を現した。
品田 寛介(しなだ かんすけ、1976年3月15日 - )は… 品田 寛介(しなだ かんすけ、1976年3月15日 - )は、埼玉県浦和市(現さいたま市)出身の元プロ野球選手(投手)。 兄は、元プロ野球選手の品田操士。 花咲徳栄高時代は2年まで野手、3年時から投手に転向も夏の甲子園埼玉県予選では3回戦敗退。 1993年のプロ野球ドラフト会議で広島東洋カープから6位で指名され、入団。契約金は2000万円、入団時の年俸は400万円。同校からは2学年上の兄・操士、前年度に同じく広島入りした池田郁夫に続き3年連続投手のプロ入り。 しかし、プロでは一軍だけでなく二軍でも登板できないまま、1996年に自由契約となり引退した。
平尾 博嗣(ひらお ひろし、本名:平尾 博司(読み同じ)、1… 平尾 博嗣(ひらお ひろし、本名:平尾 博司(読み同じ)、1975年12月31日 - )は、埼玉県浦和市(現:さいたま市緑区)出身の元プロ野球選手(内野手)、元コーチ。右投右打。プロ入団時から2001年までと、コーチ時代は本名を登録名にしていた。 埼玉県立大宮東高等学校時代は通算68本塁打を放った。2年夏の県大会では1試合3本塁打の県内タイ記録、2年秋は県大会優勝で関東大会は準々決勝で市立船橋高の小笠原孝に完投負け。1993年春の第65回選抜高等学校野球大会ではトップバッターに起用され、初戦で先頭打者本塁打を放ちチームに勢いをつけ、またセンス溢れる走塁でチームの準優勝に貢献した。さらに春の県大会も制すると、関東大会では準決勝で矢野英司(横浜高)が9回まで無失点を続けるなかでサヨナラ本塁打を放ち、決勝戦でも本塁打を記録して優勝。
中山 光久(なかやま みつひさ、1975年10月16日 - … 中山 光久(なかやま みつひさ、1975年10月16日 - )は、埼玉県入間市出身の元プロ野球選手(捕手)。右投右打。現役引退後は日本ハム球団でブルペン捕手を務め、2018年より球団スタッフに配属された。 所沢商業高では当初捕手ながらも2年から投手となり秋の県大会準決勝で延長13回を投げるが敗退、3年夏は県大会4試合で3本塁打を放つ。1993年のプロ野球ドラフト会議で日本ハムに指名された。高校では途中から投手兼四番打者であったが、入団後に捕手に転向したというプロではあまり見られない選手。 プロでは、二軍でもほとんど試合出場のないまま、2001年オフに任意引退扱いで現役生活を終えた。 引退後はそのまま日本ハムのブルペン捕手となったが、2002年の日本ハムは田口昌徳の移籍や、当時の正捕手・野口寿浩などの故障によって二軍の捕手が足りなくなったため、中山の現役復帰が検討された。
塚本 洋(つかもと ひろし、1975年7月14日 - )は、… 塚本 洋(つかもと ひろし、1975年7月14日 - )は、中日ドラゴンズに所属するアスレティックトレーナー、プロ野球コーチ。埼玉県出身。プロ野球選手としての経験はない。 小学生の頃から野球を続け、プロ野球選手を目指していたものの、西武台千葉高校入学後に周囲との能力差から厳しさを感じる。このとき、なぜ能力差が生まれたのか疑問を覚えたことから人間の体の仕組みに興味を示すようになり、大阪体育大学の体育学部に進学。大学では硬式野球部監督のアドバイスで1年生のときから学生トレーニングコーチに就任し、指導に専念する道を選んだ。大学時代は上原浩治の教育係だった。 大学卒業後、松下電器野球部(現・パナソニック野球部)のコンディショニングコーチとなる。
白鳥 正樹(しらとり まさき、1975年5月10日 - )は… 白鳥 正樹(しらとり まさき、1975年5月10日 - )は、埼玉県出身の元プロ野球選手(投手)。血液型はA型。 小2から野球を始め、埼工大深谷高校ではエースとして3年春夏ともに県大会ベスト8。城西大学では4年生の時に大学選手権に出場して登板、1997年のドラフト7位で同僚の礒恒之とともに千葉ロッテマリーンズに入団。変則サイドスローで、即戦力投手として期待されていた。 しかし、1年目は肩の故障に悩まされ、1軍の試合はおろか2軍の試合にさえも1試合も登板出来なかった。 2年目も肩が完治せず、結局2軍の試合にわずか1試合、2/3イニングを投げただけに留まり、一度も1軍に上がる事も無いまま戦力外通告を受け、引退した。
進藤 実(しんどう みのる、1974年12月10日 - )は… 進藤 実(しんどう みのる、1974年12月10日 - )は、埼玉県熊谷市出身の元プロ野球選手(投手)。右投右打。 実弟は東北楽天ゴールデンイーグルスコーチの小野寺力。 埼玉県熊谷市立新堀小学校、玉井中学校から、埼玉県立鴻巣高等学校へ進学。 その後、常磐大学では4年春に5勝。NTT東北では1年目に都市対抗野球で先発、1998年度ドラフト会議にて読売ジャイアンツから7位指名を受け、入団。 プロ入り後は右肩の故障に悩まされ、後に西武ライオンズに入団し守護神へと成長することとなる弟とは対照的に、一軍出場のないままプロ生活わずか3年で戦力外通告を受けた。 2003年には野村克也が監督として率いていた社会人野球のシダックスに転じたが、故障の影響もあってほとんど登板機会がないまま1シーズン限りで退団し、現役を引退。
橿渕 聡(かしぶち さとし、1974年9月22日 - )は、… 橿渕 聡(かしぶち さとし、1974年9月22日 - )は、埼玉県八潮市の元プロ野球選手(外野手)。2003年の登録名は橿渕 智士(読み同じ)。 八潮第二中学校(現:八潮市立大原中学校)時代はボーイズリーグで投手を務めた。春日部共栄高では外野手兼投手として2年時に春夏連続で甲子園に出場。1学年上の主将が城石憲之。 明治大学では2年春から外野手のレギュラー。1996年に主将に就任し、秋はベストナインで明治神宮大会は連覇。リーグ通算76試合出場、241打数63安打、打率.261、2本塁打、31打点。同期に筒井壮、1学年上に野村克則、中村豊、1学年下に川上憲伸がいた。 1997年に日立製作所に入社し、1998年の都市対抗ではベスト8に進み、また全日本選抜にも選ばれるなどの実績を残した。
品田 操士(しなだ あやひと、1973年10月3日 - )は… 品田 操士(しなだ あやひと、1973年10月3日 - )は、埼玉県さいたま市出身の元プロ野球選手(投手)。 弟は元プロ野球選手の品田寛介。 小学4年の時に浦和リトルに入り、中学時代は一塁手だった。 花咲徳栄高では2年春に関東大会出場。3年春は県大会準々決勝で聖望学園の門倉健と最後まで投げあうも惜敗。夏の県大会は全試合を投げ切って防御率0.00ながら5回戦敗退。1年後輩に池田郁夫、2年下に弟の寛介(ともに広島)の両投手がいた。 1991年のプロ野球ドラフト会議で近鉄バファローズから3位指名を受け入団。 1年目の1992年から一軍に昇格し、同年9月1日の西武戦で7-0と大量リードを奪われた5回裏1死で3番手として初登板。
熊澤 とおる(くまざわ とおる、1973年9月7日 - )は… 熊澤 とおる(くまざわ とおる、1973年9月7日 - )は、埼玉県新座市出身の元プロ野球選手(外野手)。 戸籍上の名前は平仮名の「とおる」であったが、ドラフト会議直前に「熊澤 当緒琉」の字を当て、選手時代はその名前を名乗った。 所沢商高時代に通算52本塁打を記録。「超高校級」と騒がれ、1991年度ドラフト会議にて西武ライオンズから3位指名を受けて入団するも、1998年に現役を引退するまでの7年間で一軍出場はなかった。 高校の同期生には小畑幸司がいた。 引退後は同球団の二軍の用具係兼サブマネージャーを担当。独学の運動動作やトレーニング方法を松井稼頭央に教えた。その結果松井に本塁打が飛び出し、二人の関係はより密になっていった。
三好 正晴(みよし まさはる、1973年8月30日 - )は… 三好 正晴(みよし まさはる、1973年8月30日 - )は、埼玉県新座市出身の元プロ野球選手(投手)。 埼玉県立川口工業高等学校では1年夏の県大会準決勝で2学年上のエース・北原泰二の後を受けて登板した。2年秋の県大会決勝で2番手として登板するが延長15回の末に敗れる。3年夏は県大会の武南高戦でノーヒットノーランを達成。1991年のドラフト5位で読売ジャイアンツに入団。 一軍公式戦出場のないまま、内野手に転向した1993年限りで引退。 引退後は川口リトルシニアでコーチを務める。
広池 浩司(ひろいけ こうじ、1973年8月29日 - )は… 広池 浩司(ひろいけ こうじ、1973年8月29日 - )は、埼玉県越谷市出身の元プロ野球選手(投手)、埼玉西武ライオンズ取締役。球団本部長。 小学生時代に「西武ライオンズ友の会」会員として、足繁く西武ライオンズ球場で試合観戦した。 越谷リトルリーグで硬式野球を始める。リトルリーグ時代は投手であったが、中学校の野球部(軟式野球)とシニアリーグ(硬式野球)を掛け持ちしていたため、肩・肘を痛めてしまった。その後立教高校(現・立教新座高校)からは外野手に転向し、立教大学に進学。 大学4年の秋、プロ入りを熱望しこの年のドラフトで指名を待っていたが、指名は無かった。 卒業後は野球から離れ、就職の内定していた全日空に入社し、入社式で総代に抜擢された。
門倉 健(かどくら けん、1973年7月29日 - )は、埼… 門倉 健(かどくら けん、1973年7月29日 - )は、埼玉県入間市出身の元プロ野球選手(投手)・元コーチ、野球解説者。愛称は「カド」「アゴクラ」。 入間市立藤沢東小学校・入間市立藤沢中学校出身。中学3年生の時点で身長190 cmに達していたが、中学時代は無名の選手だった。子供のころは原辰徳のファンだった。 高校は県内の聖望学園高校に進学し、野球部のエースとして頭角を表す。城石憲之が主将の春日部共栄高校に対して相性が悪く、高校3年生時の1991年には春季県大会、春季関東大会、夏の県大会のいずれも、決勝戦で対戦すると夏は城石にも本塁打を打たれるなど春日部共栄高に敗れ、甲子園出場はなかった。特に1991年の夏にはエースとして県大会準決勝で延長13回を完投するなどチームを埼玉大会の決勝戦まで導いたが、惜しくも甲子園出場はならなかった。
小畑 幸司(おばた こうじ、1973年7月23日 - )は、… 小畑 幸司(おばた こうじ、1973年7月23日 - )は、埼玉県新座市出身の元プロ野球選手(捕手)。 所沢商業高時代は高校通算35本塁打を放つ。1991年夏の埼玉大会は4回戦で敗退。高校の同期には熊澤とおるがいた。 1991年のプロ野球ドラフト会議で広島東洋カープから7位指名を受け入団。 1993年に一軍初出場を果たし、さらに同年に10代にして初のスタメン出場を果たす。広島球団では磯村嘉孝まで10代捕手のスタメン出場が19年程度もなかった。達川光男の後継者として期待されるが、その後は西山秀二や瀬戸輝信などの台頭でスタメンを確保できなかった。 1997年にはフルシーズンで一軍ベンチ入りができていたが、出場試合数は僅か17だった。
杉本 友(すぎもと ゆう、1973年6月19日 - )は、埼… 杉本 友(すぎもと ゆう、1973年6月19日 - )は、埼玉県所沢市出身の元プロ野球選手(投手)。 小学3年の時に野球を始める。中学時代は捕手、埼玉県立川越高等学校では一塁手だった。卒業後は高校野球の監督を目指すために一浪し、筑波大学第三学群基礎工学類に入学。変換工学を専攻したという経歴を持つ。3年次からエースとなり首都大学リーグの大東文化大学戦でノーヒットノーランを達成し、脚光を浴びる。4年秋にはエースとしてリーグ戦優勝に貢献し、明治神宮野球大会に出場。初戦で完投するも延長サヨナラ負け。大学時代のニックネームは、「首都リーグのドクターK」。大学通算18勝11敗、246奪三振、防御率2.42、最優秀投手2回、ベストナイン1回。
銭場 一浩(せんば かずひろ、1972年11月7日 - )は… 銭場 一浩(せんば かずひろ、1972年11月7日 - )は、元社会人野球の選手、コーチ(投手)。 伊奈学園総合高3年生の時に選抜高等学校野球大会に出場。 1991年、東洋大に進学し硬式野球部に所属。同学年のチームメイトに岡崎淳二(その後鷺宮製作所)がいる。大学入学後すぐに公式戦のマウンドを任され、91年春のリーグ戦では3年和田孝志投手らと東都大学リーグ1部優勝の原動力となり、MVPと最優秀投手賞を獲得。その後一時停滞期を迎えるが、順調な成長ぶりを見せる。リーグ通算50試合、15勝9敗、防御率2.29、175奪三振。 大学卒業時にプロの誘いがなく、東芝に入社。東芝でもすぐに公式戦のマウンドを踏むこととなる。
中川 隆治(なかがわ たかはる、1972年10月12日 - … 中川 隆治(なかがわ たかはる、1972年10月12日 - )は、 埼玉県入間郡毛呂山町出身の元プロ野球選手(投手)。 越生高(現在の武蔵越生高)を経て、青山学院大へ進学。3年春に小久保裕紀主将の下、全日本大学野球選手権の決勝戦ではドラフト上位候補であった河原隆一を擁する関東学院大を相手に12奪三振の好投で優勝に導いたほか、4年時の1994年には日本代表として日米大学野球選手権大会で登板した。4年秋のリーグ戦では、7勝2敗という好成績でリーグ優勝に貢献するとともに、最優秀投手のタイトルを獲得したほか、ベストナインに選出された。明治神宮大会では2勝を挙げるも準優勝に終わった。東都大学野球リーグでの通算成績は19勝6敗。
厚澤 和幸(あつざわ かずゆき、1972年8月11日 - )… 厚澤 和幸(あつざわ かずゆき、1972年8月11日 - )は、埼玉県浦和市(現:さいたま市桜区)出身の元プロ野球選手(投手、左投左打)、コーチ。 2001年までの登録名表記は厚沢 和幸。 浦和市立上大久保中学校(現:さいたま市立上大久保中学校)で野球を始め、大宮工業高校では2年秋からエースとなる。3年夏の県大会は4回戦で敗退した。東都大学野球の国士舘大学に進み、1年春からベンチ入り。4年春に2部でMVPとなり、入替戦では初戦で西口文也と投げ合って勝利し、東都大学野球リーグ1部昇格の原動力となる。東都1部通算9試合に登板、3勝3敗、防御率1.88。また2部通算37試合に登板、10勝8敗、防御率2.85。
小関 しおり(こせき しおり、1972年6月30日 - )は… 小関 しおり(こせき しおり、1972年6月30日 - )は、埼玉県出身の女子ソフトボール選手(外野手)。シドニーオリンピック銀メダリスト。 星野女子高等学校卒業後、日立高崎に入団。 日本リーグでは1996年、1999年の2度に亘ってベストナインに選出された。 シドニーオリンピックでは6番レフトで起用される機会が多かった。アメリカとの決勝戦では延長8回ウラ、小関の後方を襲う飛球に追いついて見せた。しかし、仰向けに転倒したはずみでグラブから球が零れ落ち、サヨナラ負けに繋がってしまった。 試合後、チームメイト達がサヨナラエラーを喫した小関を慰める中、監督の宇津木妙子は「いつまで泣いてるんだ!お前のエラーで負けたんだ!」と小関を叱責したが、チームメイト達は「あのエラーはみんなのエラーです!」と怒る宇津木に言い返していた。