河野 常吉(こうの つねきち、1863年1月11日(文久2年… 河野 常吉(こうの つねきち、1863年1月11日(文久2年11月22日) - 1930年(昭和5年)9月3日)は、明治大正期の北海道史研究者。河野齢蔵は実弟、アイヌ研究者として名高い河野広道は子、また二女の道子は動物学者犬飼哲夫に嫁ぎ、河野本道は孫に当たる。 信濃国安曇郡犬飼新田村(現・長野県松本市)に河野通重の次男として生まれる。長野県師範学校松本支校を卒業後、1881年に上京し慶應義塾(現・慶應義塾大学)で2年間学んだ後、秋田県の小真木鉱山の分析主任となる。 郷里へもどって養蚕業に従事、『信陽日報』客員として活動、またこのころ自由民権運動にも関係していたといわれる。その後、長野県庁や東京中央気象台に勤務、この間の学歴・職歴のなかで、人文・自然科学の広範な教養を身につけている。
木内 信(きうち しん、文久3年(1863年) - 大正15… 木内 信(きうち しん、文久3年(1863年) - 大正15年(1926年)8月18日)は、日本の政治家。衆議院議員。号は澄堂、晩翠。 信濃国佐久郡岸野村(現長野県佐久市)生まれ。長野県師範学校卒業後、明治10年(1877年)同郡八幡村の彰蔵学校教員となり、自由民権運動家として活動する。同18年(1885年)には早川権弥、立川雲平らと東信友誼会を結成し、同20年(1887年)に上京して条約改正反対、地租軽減、言論集会の自由を求めた三大建白書を元老院に提出した。 同22年(1889年)に岸野村会議員から長野県会議員に当選、同26年(1893年)には岸野村長に就任。翌年(1874年)第3回衆議院議員総選挙に初当選し、予算委員を務める。
小山 久左衛門(こやま きゅうざえもん、1862年5月30日… 小山 久左衛門(こやま きゅうざえもん、1862年5月30日〈文久2年5月2日〉- 1918年〈大正7年〉7月21日)は、日本の実業家、政治家、篤志家。小山家23代当主。諱は正友、幼名は邦太郎。信濃国佐久郡出身。政治家小山邦太郎・画家小山敬三の父。 出自には諸説あるが、源義光の曾孫である安田義定を祖とする説が小諸市内の小山姓において存在する。義定は甲斐源氏の一族であったため、その勢力を警戒した源頼朝により粛清されるが、子孫の安田義知が武田信虎に仕え、村上義清に備えて信濃国佐久郡に与良城を築城し、安田氏から与良氏へ改称したという。その後、その庶流の一族が同国高井郡小山郷を所領とし、与良氏から小山氏に改称したといわれている。
森山 儀文治(もりやま ぎぶんじ、1862年4月15日(文久… 森山 儀文治(もりやま ぎぶんじ、1862年4月15日(文久2年3月17日) - 1945年(昭和20年)2月9日)は、日本の政治家、弁護士、衆議院議員(1期)。 文久2年(1862年)、信濃国筑摩郡郷原宿(現在の長野県塩尻市広丘郷原)にて赤羽弥一(あかはねやいち)の三男として出生。生家の赤羽家は郷原宿の問屋場で、郵便制度発足後問屋業を継承して郵便物取扱所その後五等郵便局、三等郵便局となり現在は郷原簡易郵便局となっている。現在も問屋の屋号で呼ばれている。明治期のジャーナリスト、社会主義思想家の赤羽一(巌穴)は、問屋(上問屋)の赤羽家とともに郷原宿で交代で問屋をつとめた下問屋の出身で、儀文治の14歳年下の甥にあたる。
豊島 恕平(とよしま じょへい、1862年〈文久2年〉 - … 豊島 恕平(とよしま じょへい、1862年〈文久2年〉 - 1920年〈大正9年〉9月29日)は、信濃国伊那郡高遠(現・長野県伊那市高遠町)出身の医師・実業家・政治家。高遠電灯社長、高遠電気軌道創立者。立憲政友会所属。長野県会議員(2期)。 文久2年(1862年)、信濃国伊那郡高遠(現・長野県伊那市高遠町)に生まれた。父親は高遠藩士の亀井則義であり、恕平は九男だった。親戚の豊島篤次は長崎県で官吏(裁判所刑事部)を勤めており、亀井恕平は豊島家に養子に入った。1878年(明治11年)4月には長崎中学校を卒業して長崎医学校に入学した。 1884年(明治17年)には医術開業試験に合格して医師開業免許を受け、三菱会社の高島炭鉱病院に勤務した。
細川 吉次郎(ほそかわ きちじろう、1861年10月6日〈文… 細川 吉次郎(ほそかわ きちじろう、1861年10月6日〈文久元年9月3日〉 - 1924年〈大正13年〉5月25日)は、明治から大正時代の政治家、蚕種業者。長野県小県郡城下村長、上田市長。 信濃国小県郡諏訪形村(現・上田市諏訪形)で吉兵衛の二男として生まれた。生家は代々庄屋を務め酒造業などを営んでいた。松平(しょうへい)学校を卒業。家業の酒造業から蚕種製造業に転じ、1873年(明治6年)上田初の製糸場を設立する。その後、蚕種製造のみとし小県郡蚕種検査所主事を務めた。ついで、1890年(明治23年)城下村会議員に選ばれ、1893年(明治26年)同村長に就任し、小学校の増築や高等科新設などに尽力した。
早川 権弥(はやかわ ごんや、文久元年6月18日(1861年… 早川 権弥(はやかわ ごんや、文久元年6月18日(1861年7月25日) - 大正10年(1921年)8月10日)は、日本の政治家。衆議院議員、本名は早川義親。 信濃国佐久郡前山村(現長野県佐久市)生まれ。父親の早川重衛門は後に第十九国立銀行初代頭取を務めた。長野県師範学校を卒業後、明治14年(1881年)自由党に加盟し、党勢の拡張に奔走する。同17年(1884年)の飯田事件に関係したとして検挙されたが証拠不十分として免訴となった。同18年(1885年)には立川雲平、木内信らと東信友誼会を結成し、同20年(1887年)に長野県下の有志を代表して上京し、条約改正反対、地租軽減、言論集会の自由を求めた三大建白書を元老院に提出したが、保安条例によって東京から追放される。
飯島 正治(いいじま まさじ / しょうじ、文久元年5月22… 飯島 正治(いいじま まさじ / しょうじ、文久元年5月22日〈1861年6月29日〉 - 1922年〈大正11年〉7月24日)は、明治から大正時代にかけての日本の政治家・実業家である。政治家としては長野県会議員(1期)や衆議院議員(2期)を歴任、実業家としては六十三銀行頭取を長く務めた。号は雪州。 子に六十三銀行の後身にあたる八十二銀行で頭取を務めた飯島正一がいる。 飯島正治は、文久元年5月22日(新暦:1861年6月29日)、飯島新左衛門の長男として生まれた。飯島家は信濃国更級郡今井村(後の長野県更級郡中津村、現・長野市)の素封家。300年を越える旧家であり、先祖は上野国館林から移り住んできたと伝わる。
牧野 元(まきの はじめ、文久元年3月12日(1861年4月… 牧野 元(まきの はじめ、文久元年3月12日(1861年4月21日) - 大正10年(1921年)1月25日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、長野市長。 信濃国伊那郡鼎村(現在の長野県飯田市)出身。漢学を学び、1882年(明治15年)に下伊那郡全部町村聯合会議員に、1884年(明治15年)に鼎村戸長に就任した。1890年(明治23年)より長野県会議員を務め、1893年(明治26年)には県参事会員に、1899年(明治32年)に県会副議長に選出された。 1902年(明治35年)、第7回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、第8回、第9回と連続当選を果たした。 1910年(明治43年)、長野市助役に就任。
赤羽 萬次郎(あかばね まんじろう、1861年 - 1898… 赤羽 萬次郎(あかばね まんじろう、1861年 - 1898年)は、日本の新聞記者・自由民権派ジャーナリスト。北國新聞社初代社長・主筆。雅号は「痩鶴(そうかく)」。 1861年、信濃国松本にて、商家の次男として誕生。 18歳の時に地元の自由民権運動の政治結社「奨匡社」の設立に加わり、新聞・雑誌に政論を発表する。 1881年に上京、日本最初の日刊新聞である「東京横浜毎日新聞」の記者となる。社主が主催する演説団体「嚶鳴社」同人として各地を遊説。大隈重信の立憲改進党にも参加した。 1886年、金沢の改進党系の新聞「北陸新報」に主筆として招かれるも、5年後に社長が自由党系に身売りしたことに反発し退社。 1893年8月5日に「北國新聞社」を興し自ら社長・主筆となる。
小林 重威(こばやし しげたけ、万延元年9月23日(1860… 小林 重威(こばやし しげたけ、万延元年9月23日(1860年11月5日) – 1917年(大正6年)2月6日)は、日本の内務官僚。山口県下関市長。 信濃国佐久郡小諸(現在の長野県小諸市)出身。1890年(明治23年)、内務属となり、県治局市町村課長、大分県参事官、福岡県参事官・内務部第一課長、同事務官・第三部長、京都府事務官・第三部長、徳島県事務官・第二部長を歴任した。1908年(明治41年)、韓国政府の応聘により全羅南道書記官に就任。 韓国併合後は下関市長に転じた。退任後、大阪市助役・港湾部長を務めた。
尾澤 福太郞(おざわ ふくたろう、1860年3月4日〈万延元… 尾澤 福太郞(おざわ ふくたろう、1860年3月4日〈万延元年2月12日〉 - 1937年9月17日)は、日本の実業家。姓の「澤」は「沢」の旧字体、名の「福」は「福」の旧字体、「郞」はJIS X 0208では「郎」と同一の区点が割り当てられていることから、尾澤 福太郞(おざわ ふくたろう)、尾澤 福太郎(おざわ ふくたろう)、尾沢 福太郎(おざわ ふくたろう)とも表記される。 尾澤組組長(第2代)、諏訪電気株式会社社長(第3代)、株式会社尾澤組社長(初代)、片倉製糸紡績株式会社常務取締役、朝鮮生糸株式会社社長、京浜電力株式会社取締役、片倉殖産株式会社取締役、第二京浜電力株式会社取締役、諏訪工材株式会社取締役、武州製糸株式会社取締役、片倉生命保険株式会社監査役、富国火災海上保険株式会社監査役、千曲電気株式会社代表取締役、日本相互電気株式会社取締役、岩手県是製糸株式会社取締役、尾澤組合名会社代表社員などを歴任した。
今井 五介(いまい ごすけ、安政6年11月15日(1859年… 今井 五介(いまい ごすけ、安政6年11月15日(1859年12月8日) - 昭和21年(1946年)7月9日)は、日本の実業家、政治家。片倉財閥家出身。片倉兼太郎の実弟。 信濃国諏訪郡三沢村(現長野県岡谷市)の片倉市助の三男に生まれる。藤森桂谷、武居用拙らに学び、1877年(明治10年)今井太郎の養子となる。1886年(明治19年)農商務省の蚕病試験場に入り、一時渡米を経て、片倉組松本製糸所長となる。 1909年(明治42年)松本商業会議所初代会頭、松本電灯社長に就任。1914年(大正3年)には信濃鉄道(現・JR大糸線)の社長に就任し、信濃大町駅-松本駅間を開通させる。また経営難に陥っていた私塾「松本戊戌学校」を支援し、「松本商業学校」として再出発させた。
伊藤 松宇(いとう しょうう、安政6年10月18日(1859… 伊藤 松宇(いとう しょうう、安政6年10月18日(1859年11月12日) - 昭和18年(1943年)3月25日)は俳人、古俳書収集家である。本名は半次郎、俳号は松宇・雪操居。 伊藤洗児の長男として、信濃国小県郡上丸子村(現長野県上田市)に生まれた。10代頃から俳句を作り、加部琴堂に師事する。1882年、家業の藍取引を通じて知遇を得た渋沢栄一に認められて、第一国立銀行横浜支店の調査職につき、王子製紙、渋沢倉庫などの渋沢財閥の幹部社員となった。1897年、静岡に転勤し、のちに東京に戻った。 旧来の宗匠の指導をうける句会の形にあきたらず、1890年、一高学寮舎監の片山桃雨、郵便局員の森猿男らと「椎の友社」を結成した。
小島 大治郎(こじま だいじろう、安政6年2月28日〈185… 小島 大治郎(こじま だいじろう、安政6年2月28日〈1859年4月1日〉 - 1929年〈昭和4年〉8月26日)は、明治から昭和初頭にかけて活動した日本の実業家・政治家である。長野県上田市の人物で、家業の鋳物製造業を営みつつ会社経営にも関わり上田温泉電軌(現・上田交通)初代社長を務めた。長野県会議員を務めた時期もある。 小島大治郎は、安政6年2月28日(新暦:1859年4月1日)、小島佐門太の長男として生まれた。出身は信濃国小県郡常入村(のちの長野県小県郡上田町、現・上田市)。小島家は代々勅許鋳物師として神社仏閣の御用をつとめてきた旧家であり、父・佐門太は幕末に生きた人物ということもあり上田藩・松代藩の大砲・銃器をも製作し名を知られた。
小山 久之助(こやま ひさのすけ、安政6年2月5日(1859… 小山 久之助(こやま ひさのすけ、安政6年2月5日(1859年3月9日) - 明治34年(1901年)10月3日)は、日本の政治家。衆議院議員。号は騁斉。 信濃国佐久郡小諸城下与良町に小山敬義の次男として生まれる。小諸藩士の山本杏園に漢学を学び、明治5年(1872年)、私塾を開いて「孟子」を論ずる。同11年(1878年)新潟県師範学校に入学したが中退し、上京して興法学舎や、 中江兆民の仏学塾に学び、幸徳秋水とともに両高弟と称された。明治15年(1882年)、自由民権の雑誌「政理叢談」の発刊に加わり、欧米の憲法論を紹介した。 明治20年(1887年)の保安条例で兆民らが「皇居三里外」に追放され、仏学塾が解散したため、後藤象二郎や大石正巳らと全国を遊説した。
伊藤 大八(いとう だいはち、1858年12月19日(安政5… 伊藤 大八(いとう だいはち、1858年12月19日(安政5年11月15日) - 1927年(昭和2年)9月10日)は、日本の政治家・実業家。帝国議会衆議院議員(5期)。 信濃国伊那郡、のちの長野県下伊那郡上殿岡村(伊賀良村を経て現在の飯田市上殿岡)出身。上京し中江兆民の仏学塾で学び陸軍幼年学校の通訳などを経験した後、1890年(明治23年)の第1回衆議院議員総選挙で初当選。自由党→憲政党→政友会と籍を置きつつ通算5期衆院議員を務め、この間逓信省鉄道局長(1898年/明治31年)・政友会幹事長(1910年/明治43年)を歴任。1913年(大正2年)に政友会総裁の原敬の意向によって南満州鉄道株式会社(満鉄)の副総裁に就任するも、創設以来行なわれていた合議制を廃止しようとして犬塚信太郎理事らの激しい抵抗を受け、野村龍太郎総裁・犬塚理事ともども罷免に追い込まれた。
小早川 潔(こばやかわ きよし、安政5年5月2日(1858年… 小早川 潔(こばやかわ きよし、安政5年5月2日(1858年6月12日) - 昭和2年(1927年)3月19日)は、日本の教育者。 信濃国上田城下(現長野県上田市)に上田藩士小早川維祺の次男として生まれる。明治11年(1878年)上田町常入学校首席訓導となり、上京して同人社で英学、原要義塾で数学を学び、同17年(1884年)東京高等師範学校中学師範科を卒業。長野県上水内中学校(長野県長野高等学校)校長に任命される。この頃、教育職能団体である「長野教育談会」が創設され、組織を改正し、長野教育会(信濃教育会の前身)となると、会長に選ばれた。同19年(1886年)長野県師範学校教諭に転任し、校長浅岡一を補佐し、新校舎の建築や付属小学校の開校に尽力した。
神津 善之助(こうづ ぜんのすけ、1858年5月19日(安政… 神津 善之助(こうづ ぜんのすけ、1858年5月19日(安政5年4月7日) - 没年不明)は、日本の実業家。志賀銀行頭取。北佐久肥料社長。佐久鉄道取締役。族籍は長野県平民。 信濃国佐久郡志賀村(現・長野県佐久市志賀)出身。神津重三郎の長男。1883年、家督を相続する。銀行会社の重役である。住所は長野県北佐久郡志賀村。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
小沢 豁郎(おざわ かつろう、安政5年3月12日(1858年… 小沢 豁郎(おざわ かつろう、安政5年3月12日(1858年4月25日) - 明治34年(1901年)3月19日)は、日本の陸軍軍人、国粋主義者。清仏戦争に乗じて清国改造の革命を起こそうとした。東邦協会設立発起人。 信濃国上諏訪宿(現長野県諏訪市)に生まれる。年少時に江戸に出てフランス語を学び、次いで陸軍幼年学校を経て陸軍士官学校に入り、1879年(明治12年)に陸軍工兵少尉に任ぜられる。1883年(明治16年)に参謀本部出仕となり、翌年清国に派遣され、福州に駐在して諜報任務に当たる。 清国の地下組織「哥老会」と結んで清朝転覆を企て、山口五郎太、鈴木恭堅、松本亀太郎、中野二郎、樽井藤吉と連絡を取り合い策謀するところにあったが、本国より柴五郎が駆けつけ、計画は中止となった。
工藤 善助(くどう ぜんすけ、安政5年1月5日〈1858年2… 工藤 善助(くどう ぜんすけ、安政5年1月5日〈1858年2月18日〉 - 1938年〈昭和13年〉1月20日)は、明治から昭和戦前期にかけての日本の政治家・実業家。長野県小県郡丸子町(現・上田市)の人物で、政界では長野県会議員や衆議院議員(当選2回)などを歴任し、実業界では蚕種業・製糸業を営み銀行・鉄道会社にも関係した。 工藤善助は、安政5年1月5日(新暦:1858年2月18日)、信濃国小県郡上丸子村(後の小県郡丸子町、現・上田市)に工藤伝五郎の次男として生まれた。1874年(明治7年)12月に分家。1876年(明治9年)より宗家にならって蚕種の製造・販売業を始めた。蚕の繭を得る養蚕業ではなく蚕の卵(蚕卵紙)を製造・販売する蚕種業は幕末以降丸子地区で盛んであった。
川上 源一(かわかみ げんいち、1858年〈安政5年1月〉 … 川上 源一(かわかみ げんいち、1858年〈安政5年1月〉 - 1926年〈大正15年〉4月13日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 信濃国筑摩郡苅谷原村(現長野県松本市)生まれ。中山道塩尻宿(同県塩尻市)の脇本陣川上家の養子となる。慶應義塾で学んだ。1885年(明治18年)に塩尻町ほか11ヶ村の戸長に任命され、1891年(明治24年)長野県会議員となった。同年12月に発足した鉄道期成同盟会では評議員となり、篠ノ井線、中央本線敷設問題に尽力した。1892年(明治25年)の第2回衆議院議員総選挙に長野第4区から立候補したが、この時は落選している。1894年(明治27年)の第3回総選挙に再び長野第4区から立候補して当選した。
堀内 賢郎(ほりうち かしくろう、安政5年10月(1858年… 堀内 賢郎(ほりうち かしくろう、安政5年10月(1858年)- 大正8年(1919年)8月25日)は、衆議院議員(自由党)。号は如風。 信濃国埴科郡粟佐村(現長野県千曲市)生まれ。明治維新後、上京して 中江兆民の仏学塾に学ぶ。明治17年(1884年)自由党に入党し、同21年(1888年)長野県会議員となり、翌22年(1889年)第1回衆議院議員総選挙で初当選した。条約改正中止の建白書を政府に提出したほか、地元で埴科郡自由党を結成した。自由党中央委員となり、同31年(1898年)、党合同により憲政党が発足すると、北海道庁事務官に就任し、高等官二等、正五位に叙せられた。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
正木 直太郎(まさき なおたろう、安政3年11月9日(185… 正木 直太郎(まさき なおたろう、安政3年11月9日(1856年12月6日) - 昭和9年(1934年)4月20日)は日本の教育者。 信濃国上田藩士、正木六郎左衛門の長男として上田城下(長野県上田市)に生まれる。1864年藩校明倫堂に学ぶ。1874年上京して同人社で英学を学び、1882年東京師範学校中等科を卒業。1884年旧制郡立小県中学校(長野県上田高等学校)校長に就任、1886年長野師範学校教諭となり、1893年同校長に就任し、信濃教育会長も務める。1899年埼玉師範学校長、1901年香川師範学校長を歴任するが、教科書裁判に連座し休職となった(のちに無罪)。 1904年弘文学院教授、のち清国安慶高等師範学堂に招かれ、1913年帰国。
世良田 亮(せらた たすく、安政3年10月3日〈1856年1… 世良田 亮(せらた たすく、安政3年10月3日〈1856年10月31日〉- 明治33年〈1900年〉8月1日)は、日本の海軍軍人。アナポリス海軍兵学校 1881年次卒業。最終階級は海軍少将。 海軍省主事、海軍省軍務局軍事課長、戦艦「富士」艦長、戦艦「三笠」回航委員長などの要職を歴任したが、現役の海軍少将のまま、満43歳の若さで病死した。 ※ 本節の出典は、特記ない限り、秦 2005, p. 222, 第1部 主要陸海軍人の履歴:海軍:世良田亮。 信濃国・上田藩の上田城下に出生。父は、上田藩士で弓術師範を務めた山本義隆。幼名は山本源之丞で、廃藩の際に本姓に復し、世良田亮と名乗った。 世良田は神童の評判が高く、9歳の時から上田藩の藩校に学んだ。
湯本 武比古(ゆもと たけひこ、1856年1月8日(安政2年… 湯本 武比古(ゆもと たけひこ、1856年1月8日(安政2年12月1日) - 1925年(大正14年)9月27日)は明治時代から大正時代にかけての日本の教育者。
西郷 吉義(さいごう よしみち、1855年12月15日(安政… 西郷 吉義(さいごう よしみち、1855年12月15日(安政2年11月7日) - 1927年(昭和2年)9月3日)は、明治期から大正期の医師、医学博士、陸軍軍医学校長、宮内省侍医・宮中顧問官を歴任する。正三位勲一等功四級。 信濃国松本城下に松本藩士・西郷眞諒の次男として生まれ幼名を早苗と称し、後に叔父の西郷元善の養子となる。祖先は松平康長に仕えた三河西郷氏。1882年(明治15年)東京大学医学部を卒業し、同期には青山胤通・猪子止戈之助・田代正等がいる。 卒業後、医学部准助教授(内科学)となった後、日本陸軍軍医となり陸軍一等軍医に任官し軍医学校教官(内科学担当)となった。1896年(明治29年)12月16日『明治二十七八年役陸軍衛生事蹟』編纂委員に任命され、また陸軍衛生会議議員に選ばれた。
中村 弥六(なかむら やろく、安政元年12月8日〔1855年… 中村 弥六(なかむら やろく、安政元年12月8日〔1855年1月25日〕 - 昭和4年〔1929年〕7月7日)は日本の林学者・農商務官僚・政治家(代議士)。号は「背水」または「背山」で、通称「背水将軍」。 日本初の林学博士の一人で、原敬首相暗殺犯中岡艮一の大叔父(中岡の父・精の叔父)にあたる。歴史学者の中山久四郎元東京文理科大学教授は養子で、その長女二三子は、南洋拓殖社長を務めた下田文一の妻。 信濃国伊那郡高遠城下(現在の長野県伊那市)に儒学者・中村元起(黒水と号す)の二男として生まれる。中村家は代々高遠藩の藩儒の家柄。明治2年(1869年)上京し安井息軒に学んだのち、翌年貢進生として開成学校に入学する。
石塚 重平(いしづか じゅうへい、安政2年10月10日(18… 石塚 重平(いしづか じゅうへい、安政2年10月10日(1855年11月19日) - 明治40年(1907年)8月12日)は、日本の衆議院議員(自由党→立憲政友会→甲辰倶楽部→大同倶楽部)。 信濃国佐久郡小諸城下(長野県佐久郡小諸町、北佐久郡小諸町を経て現在の小諸市)の商家に生まれる。1877年(明治10年)に盤鴻社という政社を結成して、政談会や討論会を開催して自由民権運動を推進した。また小諸町会議員や北佐久郡会議員に選出され、布施銀行や小諸銀行の設立にも関わった。 1881年(明治14年)、自由党の創設に加わったが、1884年(明治17年)に自由党は大阪で解党を決定した。大阪からの帰途、内乱陰謀の嫌疑で逮捕されるが程なく釈放された。
依田 仙右衛門(よだ せんえもん、安政2年6月27日〈185… 依田 仙右衛門(よだ せんえもん、安政2年6月27日〈1855年8月9日〉 - 1923年〈大正12年〉)は、明治から大正時代の政治家、貴族院多額納税者議員。長野県北佐久郡南御牧村長。幼名は亀太郎直温。 中山道八幡宿の大地主・依田七郎兵衛の長男として生まれ、1874年(明治7年)1月、家督を相続する。御牧原の開発を進め、1889年(明治22年)町村制の施行に伴い、八幡村・蓬田村・桑山村・矢島村が合併し南御牧村が成立すると初代村長に就任し、1893年(明治26年)3月まで務めた。 1911年(明治44年)長野県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日から1918年(大正7年)9月28日まで1期在任した。
松沢 求策(まつざわ きゅうさく、安政2年6月15日(185… 松沢 求策(まつざわ きゅうさく、安政2年6月15日(1855年7月28日) - 明治20年(1887年)6月25日)は、現在の長野県安曇野市出身の自由民権家。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
小里 頼永(おり よりなが、安政2年5月1日(1855年6月… 小里 頼永(おり よりなが、安政2年5月1日(1855年6月14日) - 昭和16年(1941年)7月3日)は、長野県松本市出身の政治家。衆議院議員(自由党)、北海道空知支庁長、初代松本市長。号は雪洲、市隠。 松本藩士小里新五兵衛頼命の長男として江戸呉服橋の松本藩邸(松平丹波守の上屋敷。現在跡地は東京駅構内)で生まれる。9歳の時に松本に帰り、藩校崇教館で漢学を学んだ。廃藩置県後は開智学校英学課に学び、1875年(明治8年)8月30日、筑摩県師範学校を卒業。卒業後は筑摩県、のちに山梨県で訓導(小学校教員)を務めた。1878年(明治11年)3月27日、教職を辞する。自由民権運動が盛んになると、1879年(明治12年)に「要新聞」を発刊して自由民権を説いた。
上條 謹一郎(かみじょう きんいちろう、安政元年11月28日… 上條 謹一郎(かみじょう きんいちろう、安政元年11月28日(1855年1月16日) - 明治43年(1910年)9月19日)は、日本の政治家。 信濃国筑摩郡南新村(現長野県松本市)に、代々松本藩主戸田氏の御殿医(眼科)を務めた庄屋の長男として生まれ、漢学を武居用拙に学んだ。1875年上京して小石川同人社や学農社で英語や農学を修め、1879年帰郷した。 1889年町村制施行により東筑摩郡新村の初代村長となる。その後は郡会議員、長野県会議員を経て、1898年第5回衆議院議員総選挙に初当選、衆議院議員(立憲政友会)を2期務めた。 1899年には信濃民報社創設に尽力し、新村銀行を創設。1907年長野農工銀行取締役に就任した。
滝沢菊太郎/瀧澤菊太郞(たきざわ きくたろう、1854年12… 滝沢菊太郎/瀧澤菊太郞(たきざわ きくたろう、1854年12月4日(嘉永7年10月15日) - 1933年(昭和8年)1月12日)は明治時代から大正時代にかけての日本の教育者。府県師範学校長。 信濃国埴科郡福井村(現・長野県千曲市)生まれ。14歳で寺子屋に学び私塾で漢学を修める。1874年に上京、日本橋の私塾日章堂、次いで慶應義塾に入塾し英学を学ぶ。1876年東京師範学校に入学。師範教育取調を目的とする米国留学から帰国した伊沢修二・高嶺秀夫が、ペスタロッチ主義教育(開発教授)の本格的導入を開始した時期であったため、卒業取消を願って3年の履修課程を6年かけ、1882年2月に同校中学師範学科を卒業した。
安東 貞美(あんどう さだよし/ていび/さだみ、1853年9… 安東 貞美(あんどう さだよし/ていび/さだみ、1853年9月21日〈嘉永6年8月19日〉- 1932年〈昭和7年〉8月29日)は、日本の陸軍軍人。朝鮮駐剳軍司令官、第10師団長、第12師団長、第6代台湾総督などを歴任した。階級は陸軍大将従二位勲一等功二級。勲功により男爵に叙爵された。 信濃国伊那郡南部の飯田藩槍術師範・安東辰武の三男として生まれる。父の辰武は松本藩槍術師範・菅沼政治の子で、飯田藩士・安東辰置の養子となり、辰置の長女志記と結婚。長男欽一郎を儲けたが、志記が早世したため、貞美の生母である島地菊子を娶った。貞美の同母兄には後に大審院判事となる柳田直平(柳田家に養子、柳田國男の義父)が、弟には中学校教師となる安東武雄がいる。
小坂 善之助(こさか ぜんのすけ、嘉永6年7月15日〈185… 小坂 善之助(こさか ぜんのすけ、嘉永6年7月15日〈1853年8月19日〉 - 大正2年〈1913年〉12月21日)は、日本の政治家、実業家。長野県会議員、衆議院議員を務めた。 明治23年(1890年)の帝国議会開設以来、4回衆議院議員に当選、中央政界に活躍するかたわら、信濃銀行(現みずほ銀行)を興し、山国長野県の豊富な水資源に着眼して長野電灯を創業、県下で最初の水力発電所をつくった。また信濃毎日新聞の基礎を固めた。 信濃国水内郡里村山村(1881年村山村に改称、現長野市)出身。父は3代目善之助(隠居名善三)。善之助の家は3代前に分家したもので、本家は代々名主を務めた豪家だった。 善之助は、少年時代から村の大将格で、村芝居ではつねに主役をつとめた。
南条 吉左衛門(なんじょう きちざえもん、嘉永6年5月9日(… 南条 吉左衛門(なんじょう きちざえもん、嘉永6年5月9日(1853年6月15日) - 昭和11年(1936年)5月6日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 信濃国小県郡別所村(現長野県上田市)生まれ。幼名は豊太郎。横浜開港に伴う養蚕業の隆盛により、蚕種の国内需要が増大したのを受けて蚕種製造業を始める。明治31年(1898年)から小県蚕種同業組合長を務めた。 明治12年(1879年)村戸長となり、自由民権運動に共鳴して嚶鳴社に参加し、同14年(1881年)大隈重信の知遇を得て、千曲川沿いの一帯に立憲改進党の支部を組織した。[翌年(1882年)長野県会議員となり、同22年(1889年)上田に改進党系の結社「已丑倶楽部」を結成して会長となった。
桜井 平吉(さくらい へいきち、嘉永6年3月12日(1853… 桜井 平吉(さくらい へいきち、嘉永6年3月12日(1853年4月19日) - 大正9年(1920年)8月18日)は明治時代の自由民権運動家。 諱は武貞。飯田事件の首謀者の一人。 信濃国佐久郡東長倉村(現長野県北佐久郡軽井沢町)の柳沢家に生まれ、19歳で姉の嫁ぎ先である桜井家に相続入籍した。 幕末、横浜に出て勝海舟に師事するとともに写真技術を修め、1882年に飯田の憲兵屯所跡地に写真店を開業し、売薬の行商も営む。1883年、自由民権運動の政治結社「愛国正理社」を設立。愛知県の村松愛蔵、八木重治らと政府転覆のための挙兵を計画するが、事前に発覚して逮捕される。禁固3年半の実刑となり、のち大日本帝国憲法発布の大赦で出獄した。
6代 色部 義太夫(いろべ ぎだゆう、嘉永5年9月9日(18… 6代 色部 義太夫(いろべ ぎだゆう、嘉永5年9月9日(1852年10月21日) - 1915年(大正4年)3月14日)は、明治時代の政治家、大地主。貴族院多額納税者議員。幼名・吉郎治、本名・義智(よしとも)。 信濃国埴科郡杭瀬下村(長野県埴科郡埴生町、更埴市を経て現千曲市)で、大地主・豪農の5代色部義太夫義祐(よしすけ)、義江子夫妻の長男として生まれる。山寺常山に師事し漢学を修めた。後に6代義太夫を襲名し、正式名には義太夫を用いた。 1873年(明治6年)5月、長野県の地券取調所出仕となり出納課附属となる。1876年(明治9年)2月、地租鑑定を命ぜられ、同年12月に長野県を辞した。1884年(明治17年)2月の補選で長野県会議員となり、同年10月、埴科郡連合町村会議員となる。
金井 清志(かない きよし、1852年9月12日〈嘉永5年7… 金井 清志(かない きよし、1852年9月12日〈嘉永5年7月29日〉 - 1933年〈昭和8年〉4月18日)は日本の政治家、実業家。位階は正七位。 信濃国安曇郡杏村(現長野県松本市)出身。金井磯衛の長男。1873年(明治6年)に梓村の副戸長に任命される。1880年(明治13年)4月、長野県会議員に南安曇郡選挙区の補欠として当選した。1882年(明治15年)12月から1884年(明治17年)1月まで第4代同県会副議長を務めた。その後、県内道路7路線を選定し開削工事を起工した。1883年(明治16年)下伊那郡長となり、翌1884年(明治17年)には激化事件の飯田事件が起きたが、暴発を未然に防いだ。
神津 専三郎(こうづ せんざぶろう、1852年4月23日(嘉… 神津 専三郎(こうづ せんざぶろう、1852年4月23日(嘉永5年3月5日) - 1897年(明治30年)8月18日)は、明治時代の日本の音楽教育者。名は仙三郎とも書かれる。 信濃国小県郡芝生田村(現・長野県小諸市)に生まれ、のちに神津家の養子となる。旧姓は小林。小諸藩儒の中山仙に学んだのち上京し、箕作秋坪の三叉学舎、中村正直の同人社で英語を学び、キリスト教に入信した。 1875年、伊沢修二、高嶺秀夫と共に文部省からアメリカ合衆国派遣を命ぜられ、ニューヨーク州オルバニーの州立師範学校に2年間留学。1878年に帰国すると東京女子師範学校訓導兼監事となり、次いで伊沢の元で音楽取調掛監事に就任し、西洋音楽史の講義や教材の日本語訳に努めた。
井上 信八(いのうえ しんぱち、1852年3月17日〈嘉永5… 井上 信八(いのうえ しんぱち、1852年3月17日〈嘉永5年2月21日〉 - 1922年〈大正11年〉7月9日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 信濃国筑摩郡笹賀村(のち東筑摩郡笹賀村、現・長野県松本市)出身。材木商を営み、町会議員、所得税調査委員、学務委員、高等小学校組合会議員等を務める。また、野口(合)業務担当社員、愛知農工銀行、熱田銀行、愛知燐寸各(株)取締役、愛知木材、中央煉瓦各(株)専務取締役、(株)鉄道車輪製造所取締役となる。 1898年3月の第5回衆議院議員総選挙において愛知2区から無所属で立候補したが落選する。8月の第6回衆議院議員総選挙では日吉倶楽部から立候補して当選する。
中川 元(なかがわ はじめ、1852年1月7日(嘉永4年12… 中川 元(なかがわ はじめ、1852年1月7日(嘉永4年12月16日) - 1913年9月28日)は明治時代の日本の教育者、文部官僚。第四高等中学校(金沢大学の前身の一つ)、第五高等学校(熊本大学の前身の一つ)、第二高等学校(東北大学の前身の一つ)、仙台高等工業学校(東北大学工学部の前身の一つ)の校長を歴任した。旧名・孫一郎、号は槐陰。 信濃国飯田城下に信濃飯田藩士中川逸山の長男として生まれる。1871年藩の貢進生に選ばれ大学南校に進み、フランス語を学ぶ。文部省より出向の同校職員九鬼隆一と知遇を得る。1874年文部省に出仕し、外国語学校教授に任じらた。1878年1月にフランスに留学を命じられる。
皆川 四郎(みながわ しろう、1852年 - 1911年)は… 皆川 四郎(みながわ しろう、1852年 - 1911年)は日本の実業家。旧姓は岩崎。幼名は馬之助。 信濃国伊那郡中村(現長野県飯田市)に生まれ、飯田城下の皆川家の養子となる。維新後に上京し、安井息軒に師事した後、代言人となったが実業界に転身する。 代言人時代は、明治12年に植木鋼二郎と京橋区銀座四丁目十五番地に法律事務所を開き、その翌年明治13年、司法省附属代言人 星亨の組合加入に対し、楠木鋼二郎、田村成義などと反対運動を展開した。また、明治11年、幕末の豪商伊藤八兵衛の八女信子と結婚する。信子の姉は渋沢栄一の妻兼子で、この結婚により渋沢ファミリーの団体竜門社の一員となった。 その後明治15年4月 長野県警部兼典獄(警部長に次ぎ監獄係としては最高責任者)として長野県警に入り、6月に警部長となる。
鹿野 勇之進(かの ゆうのしん、1851年10月8日(嘉永4… 鹿野 勇之進(かの ゆうのしん、1851年10月8日(嘉永4年9月14日) - 1914年(大正3年)4月7日)は、日本の海軍軍人、政治家、華族。海軍中将正四位勲二等功三級男爵。貴族院議員。 信濃国松代藩士鹿野外守泰敬の子。明治4年(1871年)9月、海軍兵学寮(5期)に入学。1879年(明治12年)9月、海軍少尉任官。1885年(明治18年)9月、「筑波」分隊長となり、海軍兵学校教授兼生徒分隊長、「扶桑」分隊長、海軍大学校副官、海軍参謀部第1課員などを経て、1890年(明治23年)10月、海軍少佐に昇進。 1891年(明治24年)4月、「松島」回航事務取扱委員、同副長、練習船「干珠」艦長、横須賀水雷隊攻撃部司令などを歴任し、日清戦争では「西京丸」艦長として出征した。
伊沢 修二(いさわ しゅうじ、旧字体:伊澤、1851年7月2… 伊沢 修二(いさわ しゅうじ、旧字体:伊澤、1851年7月27日(嘉永4年6月29日) - 1917年(大正6年)5月3日)は、日本の教育者、文部官僚。近代日本の音楽教育、吃音矯正の第一人者である。号は楽石。 信濃国高遠城下(現在の長野県伊那市高遠町)に高遠藩士の父・勝三郎、母・多計の子として生まれる。幼名は八弥。父は20俵2人扶持の低禄の下級武士のため極端な貧乏暮らしだった(事実上1年4人で分け与えなけければならないこととなっている)。 1861年(文久1年)から藩校進徳館で学び、1867年(慶応3年)に江戸へ出府。ジョン万次郎に英語を学ぶ。万次郎が欧米に出張すると、1869年(明治2年)に築地に転居したアメリカ合衆国長老教会の宣教師カラゾルスから英語を学ぶ。
遠山 品右衛門(とおやま しなえもん、1851年6月17日(… 遠山 品右衛門(とおやま しなえもん、1851年6月17日(嘉永4年5月18日) - 1920年(大正9年)8月28日)は、黒部で猟師をしていた人物。山人(やまうど)。明治期日本アルプスの登山者の案内をしたことで有名。 信濃国安曇郡野口村(現・長野県大町市)生まれ。戸籍上の名前(本名)は遠山里吉。父の名は新三郎、母はりせ。1869年(明治2年)10月、北安曇郡常盤村(現・長野県大町市常盤)の荒井弥吾吉の次女・きさと結婚。 明治維新で加賀藩による奥山廻りが終わり御締山の禁が解かれた頃、20歳頃から山に入り、黒部川畔、黒部川本流と針ノ木谷の合流点に小屋(平の小屋)を建て、ときおり里に下りる猟生活に入る。
12代 山田 荘左衛門(やまだ しょうざえもん / そうざえ… 12代 山田 荘左衛門(やまだ しょうざえもん / そうざえもん、嘉永4年4月6日〈1851年5月6日〉 - 1917年〈大正6年〉10月1日)は、明治時代の政治家、明治・大正時代の実業家である。長野県下高井郡平野村(現・中野市)の地主で、長野県会議員・貴族院多額納税者議員・衆議院議員を歴任するとともに銀行・会社経営にも関わった。晩年は山田 荘哉(やまだ しょうさい)を名乗った。 山田荘左衛門は、嘉永4年4月6日(新暦:1851年5月6日)、山田董平の長男として生まれた。初名は熊太郎。1881年(明治14年)に先代荘左衛門の養子となり、1885年(明治18年)12月に家を継いで荘左衛門を襲名した。
寺田 祐之(てらだ すけゆき、1851年1月27日(嘉永3年… 寺田 祐之(てらだ すけゆき、1851年1月27日(嘉永3年12月26日) - 1917年(大正6年)3月14日)は、日本の内務官僚。鳥取・岡山・宮城・広島の各県知事を歴任した。特に広島県知事在任中、県物産陳列館(現在の原爆ドーム)の設立に関わったことで知られる。 信濃国水内郡飯山に後の旧飯山藩士(長野県士族)寺田覚の長男として生まれ、慶応3年、寺田勘兵衛の養子となり家督を相続。1871年、飯山県文学助教兼学監となり、司法省十二等出仕警視属四等警視に転じた。その後、警察は内務省に移り、兵庫・山梨・香川・広島の各県警部長、新潟県内務部長などを経て1901年(明治34年)4月2日、鳥取県知事に就任。
浅井 洌(あさい れつ / きよし、嘉永2年10月10日(1… 浅井 洌(あさい れつ / きよし、嘉永2年10月10日(1849年11月24日) - 昭和13年(1938年)2月27日)は幕末期日本の武士(松本藩士)、明治から昭和初期にかけての教育者。若い時代には自由民権運動家としての活動があった。また、現在でも長野県で広く歌われている県歌「信濃の国」の作詞者として知られる。 旧制中学教員などをへて、1886年(明治19年)長野師範学校教諭となる。1899年(明治32年)『信濃教育会雑誌』に「信濃の国」を発表、北村季晴の作曲により県下で広く歌われるようになる。1918年(大正7年)に70歳で退職するまで長野師範教諭を務め、さらに嘱託として1926年(大正15年)6月まで40年間にわたって師範教育に尽くした。