足利 真貴(あしかが まき、1971年3月29日 - )は、… 足利 真貴(あしかが まき、1971年3月29日 - )は、岐阜県岐阜市出身の日本の声楽家(オペラ・ソプラノ歌手)、音楽教育者。音楽教室「森のおと音楽院」院長として声楽を教える。学校法人上楽学園長森幼稚園・ながもり第二幼稚園の副園長を務め、園内での幼児への指導や教諭への指導を行うほか、岐阜県主催の園児向けミュージカルへの出演、岐阜県教育文化財団主催の子ども音楽会を企画・出演するなど、幼児音楽教育に携わる。 佐々木学園鶯谷高等学校音楽科、大阪音楽大学の音楽学部声楽科を卒業し、同音楽学部音楽専攻科を修了。 1998年、岐阜市主催のオペラ「トロイアの女」(作曲:堀江幹雄)の主役・王妃ヘカベ役でデビュー。
稲垣 勝巳(いながき かつみ、1948年-)は日本の教育者、… 稲垣 勝巳(いながき かつみ、1948年-)は日本の教育者、学校心理士、臨床催眠実践者、SAM前世療法()の創始者であり、稲垣勝巳メンタルヘルス研究室主宰。日本教育催眠学会理事。日本教育催眠学会研修委員長(稲垣勝巳 2010)。 超心理学におけるサバイバル仮説を裏付ける応答型真性異言発現事例・ラタラジューの事例におけるセラピストである。 幼少の頃より、催眠の施療を行う祖父を見て育つ。岐阜県立岐阜高等学校を卒業後、国立岐阜大学教育学部に進学、教員として岐阜市立加納中学校などに勤務。35歳で、現職のまま上越教育大学大学院に研修派遣され、マズローの研究から、教育催眠の可能性に目覚め、その実践を志す。 教育催眠としての児童生徒を対象とした催眠面接は、教員在職期間中だけで1200名、のべ3000回を超え、児童生徒とその保護者が希望した場合のみ、面接記録を逐一カルテに残す形式で実施。
末松 安晴(すえまつ やすはる、Yasuharu Suema… 末松 安晴(すえまつ やすはる、Yasuharu Suematsu、1932年9月22日 - )は、日本の電子工学者・通信工学者・計算機科学者・教育者。光通信用半導体レーザの先駆的研究により大容量長距離光ファイバ通信の実現と発展に貢献した。岐阜県中津川市坂下出身。 1963年6月26日には、東京工業大学で世界初の光ファイバ通信実験を行って公開した。その後、本格的な光ファイバ通信の実現を目指して研究した末松は1981年に動的単一モードレーザ(その一つの位相シフト分布反射器レーザ)を発明し、この分野の学術基盤を開拓した。位相シフト分布反射器レーザは、現在大容量長距離光ファイバ通信用の標準レーザとして広く世界で用いられている。
高橋 重信(たかはし しげのぶ / じゅうしん、1918年〈… 高橋 重信(たかはし しげのぶ / じゅうしん、1918年〈大正7年〉4月9日 - 1980年〈昭和55年〉7月30日)は、日本の教育者、政治家。衆議院議員。 岐阜県岐阜市出身。1938年(昭和13年)岐阜県師範学校を卒業し、1944年(昭和19年)同研究科を卒業した。 小学校訓導、陸軍伍長、岐阜県下国民学校訓導、中学校教諭、岐阜市教育委員会副委員長、日本社会党岐阜県本部書記長などを務めた。1955年(昭和30年)の岐阜県議会議員選挙に岐阜市選挙区から左派社会党公認で立候補して当選した。1959年(昭和34年)、1963年(昭和38年)は社会党公認で当選している。衆議院議員補欠選挙に立候補するため、1964年(昭和39年)12月6日付で県議を辞職した。
中村 好明(なかむら よしあき、1917年(大正6年)9月2… 中村 好明(なかむら よしあき、1917年(大正6年)9月28日 - 2019年(平成31年)2月[要出典])は、日本の音楽教育者。名前は「こうめい」と通称された。ふしづくりの音楽教育を山本弘、下通進平らと確立した。旧姓・飯島。 1917年、岐阜県大野郡高山町上三之町(現・高山市)に生まれる。東尋常小学校を卒業後、特進で岐阜県師範学校(現・岐阜大学教育学部)に入学。このとき高山から同時に入学したのが山本弘・下通進平だった。 1937年(昭和12年)、岐阜県師範学校を卒業し、音楽教諭となる。高山市立西小学校在勤中、『国民学校音楽教育』(1942年)、『音楽教育基本指導』(1948年)、『基底カリキュラム 音楽編』(1950年)といった音楽教育指導書を執筆し、1954年には『音楽のおけいこ』を上梓する。
森 桂一(もり けいいち、1904年8月10日 - 1988… 森 桂一(もり けいいち、1904年8月10日 - 1988年3月16日)は、洋画家、美術教育者。 岐阜県恵那市生まれ。号・林人子。1928年東京美術学校卒。同年帝展初入選。1952年千葉大学教育学部教授、1970年定年退官、名誉教授。1975年千葉明徳短期大学学長、81年退任、名誉学長。1974年勲三等旭日中綬章受勲。
島戸 繁(しまと しげる、1902年〈明治35年〉 - 19… 島戸 繁(しまと しげる、1902年〈明治35年〉 - 1998年〈平成10年〉3月14日)は、日本の洋画家、教育者。位階は従四位。勲等は勲三等。静岡女子大学名誉教授。 滋賀県立彦根高等女学校教諭、彦根工業専門学校助教授、滋賀県立短期大学教授、静岡女子短期大学教授などを歴任した。 岐阜県出身。滋賀県の彦根城城下町にアトリエを構え、城や琵琶湖の風景、人々の生活などを描いた。また、フランス・パリに滞在し描くなど、当時かなり珍しかった海外での先進的な芸術活動も行った。西洋美術の模倣ではない独自の洋画を追求し、関西洋画壇で活躍した。作品に対しては複数の受賞歴があり、当人も勲三等旭日中綬章を受章した。彦根を代表する和菓子の老舗、いと重の代表銘菓「埋れ木」のパッケージに描かれている彦根城の絵や、多賀大社御田植祭のうちわ絵など、墨絵や水彩画も多く描いている。
野村 芳兵衛(のむら よしべえ、1896年3月26日 - 1… 野村 芳兵衛(のむら よしべえ、1896年3月26日 - 1986年11月4日)は、日本の教育者。岐阜県洞戸村(現在の関市洞戸地区)の農家に長男として生まれる。家は浄土真宗で特に親鸞に信仰しており、精神形成に大きな影響を残した。真宗の活動家梅原真隆(しんりゅう)に傾倒し、その言葉「純に生きる」を生涯を通じてのモットーとした。 農家を継ぐことになっていたが、高等小学校を終えた後、校長から代用教員にと嘱望され、准教員を経て岐阜師範学校卒業。地元の小学校、岐阜女子師範学校付属小学校を経て、1924年上京、野口援太郎が自由主義教育の模範校として創立した池袋児童の村小学校の訓導となる。農村の教育に従事してきたため、東京の知識人階層の新思想には馴染めないものを感じ、親鸞の同行二人の思想を借りて、生活を基礎にし共生協力、あるいは協同自治の精神で、みんなが共に学んでいくことのできる場を作っていくことを教師の役割と捉えた。
伊藤 恭一(いとう きょういち、1888年(明治21年)4月… 伊藤 恭一(いとう きょういち、1888年(明治21年)4月15日 - 1950年(昭和25年)3月16日)は、明治末から昭和前期の教育者、政治家。衆議院議員。 岐阜県恵那郡付知村(付知町を経て現中津川市付知町)で、伊藤文弥の三男として生まれる。付知小学校卒業後、検定試験で准教員の資格を得て郷里の学校で教員を務め、1910年(明治43年)3月、岐阜県師範学校を卒業した。 加納小学校訓導に就任。以後、付知小学校訓導、同校長、岐阜県視学、岐阜市白山小学校長、同市徹明小学校長などを歴任。さらに、白山商工実修学校長、徹明商業青年学校長、岐阜県教員購買組合監事、同県国民学校長会副会長、大日本教育会岐阜県支部参与などを務めた。
平生 釟三郎(ひらお はちさぶろう、1866年7月4日〈慶応… 平生 釟三郎(ひらお はちさぶろう、1866年7月4日〈慶応2年5月22日〉- 1945年〈昭和20年〉11月27日)は、日本の実業家・教育者(甲南学園創立者)・政治家(廣田内閣で文部大臣・貴族院勅選議員・枢密顧問官)。甲南病院(現在の甲南医療センター)の設置者。住吉村に住まい、その跡地は自ら創立した甲南大学の平生記念セミナーハウスとして活用されている。 明治、大正、及び昭和初期に活躍。1934年(昭和9年)、移民制限を始めたブラジルに対し経済的貢献により移住を確保しようと海外移住組合連合会長だった平生が、訪伯経済使節団長としてブラジルを訪問。ブラジル産綿花を日本に輸出する橋渡しをするなどの貢献を行った。
棚橋 一郎(たなはし いちろう、文久2年11月12日(186… 棚橋 一郎(たなはし いちろう、文久2年11月12日(1863年1月1日) - 昭和17年(1942年)2月7日)は、岐阜県出身の教育者、漢学者(今でいう倫理学者)。衆議院議員、東京市会議員。
下田 歌子(しもだ うたこ、出生名:平尾 鉐〈ひらお せき〉… 下田 歌子(しもだ うたこ、出生名:平尾 鉐〈ひらお せき〉、1854年9月29日〈嘉永7/安政元年8月8日 - 1936年〈昭和11年〉10月8日)は、日本の明治から大正期にかけて活躍した教育者、歌人(号は香雪)。女子教育の先覚者で、生涯を女子教育の振興にささげ、実践女子学園の基礎も築いた。祖父は儒学者東条琴台。 美濃国恵那郡岩村(現在の岐阜県恵那市)にて、岩村藩士平尾鍒蔵と房子(挙母藩武久氏)の長女として生まれる。実弟は平尾鍗蔵。 祖父東条琴台は江戸の医家から平尾家に婿入したが、鍒蔵が生まれた後、藩内学閥との確執から離縁。鉐の幼少期、父鍒蔵(1818–1898)は尊王攘夷論を説いたため、安政4年と明治元年に2度謹慎処分を受け、計10年の蟄居を強いられた。
可児 徳 は、日本の体育指導者・教育者。東京高等師範学校(現… 可児 徳 は、日本の体育指導者・教育者。東京高等師範学校(現・筑波大学)の教師として校長の嘉納治五郎とともにスポーツの普及に尽力した。また、坪井玄道とともにドッジボールを日本に初めて伝えた人物である。
西 義一(にし ぎいち)は、日本の声楽家(バリトン)、音楽教… 西 義一(にし ぎいち)は、日本の声楽家(バリトン)、音楽教育者。合唱指揮者。文教大学名誉教授。 東京都生まれ。岐阜県岐阜市出身。岐阜県立加納高等学校音楽科卒業。1965年(昭和40年)9月東京芸術大学音楽学部声楽科卒業芸術学士。1966年(昭和41年)9月尚美高等音楽学院専任講師(1981年(昭和56年)3月まで)。1970年(昭和45年)9月ウィーン国立音楽大学リート・オラトリオ科入学。1972年(昭和47年)9月同科“最優秀”修了。 畑中良輔、リリー・コラー、エリック・ヴェルバ、荘智世恵に師事。 1981年(昭和56年)4月尚美音楽短期大学音楽学科専任講師。1983年(昭和58年)4月同助教授。
宮地 文一(みやち ぶんいち)は、戦前岐阜県の教育者、政治家… 宮地 文一(みやち ぶんいち)は、戦前岐阜県の教育者、政治家。土岐郡日吉尋常高等小学校長、可児郡御嵩小学校長、日吉村長。 慶応元年(1865年)10月25日美濃国土岐郡半原村庄屋宮地家に生まれた。地元の寺子屋で土屋理助に学び、明治4年(1871年)の廃校まで残った。1873年(明治6年)学制に基づき開校した勧学義校に入学し、南垣外の寺子屋師匠大江密成の子小川玄寿に学んだ。1880年(明治13年)12月第4代木村甚之助が辞職すると、1881年(明治14年)1月半原学校第5代となり、1882年(明治15年)3月まで訓導を務めた。 1882年(明治15年)岐阜県師範研修学校に入学し、1885年(明治18年)6月高等師範学科を卒業した。