角替 武(つのがえ たけし、1922年(大正11年)2月9日… 角替 武(つのがえ たけし、1922年(大正11年)2月9日 - 2006年(平成18年)1月3日)は、日本の元陸軍軍人および実業家。陸士55期次席。日本航空常務取締役、日本アジア航空代表取締役社長および名誉顧問。 静岡県掛川市出身。1936年(昭和11年)4月、掛川中学校(現:静岡県立掛川西高等学校)より東京陸軍幼年学校に転学。1941年(昭和16年)に陸軍士官学校卒業後、満州・東安駐屯の歩兵第22連隊に配属される。大戦末期、内地の陸軍士官学校区隊長(58期・60期担当)に発令され、陸軍大尉で終戦を迎える。 戦後は公職追放を受ける。1952年9月、東京大学法学部卒。1953年に日本航空に入社、経理課長、ロンドン支店長、運送本部管理部長、経営管理室長を経て1979年6月より常務取締役。
松田 靖彦(まつだ やすひこ、1913年〈大正2年〉7月26… 松田 靖彦(まつだ やすひこ、1913年〈大正2年〉7月26日 - 1979年〈昭和54年〉12月24日)は、日本の元陸軍軍人及び陸上自衛官。最終階級は少佐、2等陸佐。第3代秋田駐屯地司令、第3代山梨地方連絡部長を務めた。 静岡県五和村出身。陸軍中将松田巻平の長男。1934年3月17日、予科卒業(12期、第2中隊第5区隊)歩兵第79連隊に配属され、本科48期卒(第2中隊第3区隊)。日中戦争に従軍し、本部作戦主任を経て1939年6月、第1大隊第1中隊長。 中隊長在任中の部下にのち韓国陸軍中将・駐日大使の崔慶禄がおり、士官学校への入学を推薦したほか、演習を視察で訪れた小野武雄中佐とも引き合わせた。 久留米第一予備士官学校歩兵生徒隊中隊長、西部軍教育隊中隊長を経て、郷里静岡で編成された第143師団(長:鈴木貞次中将)参謀として終戦を迎える。
吉岡 忠一(よしおか ただかず、1908年5月14日 - 2… 吉岡 忠一(よしおか ただかず、1908年5月14日 - 2000年9月5日)は、日本の海軍軍人。海軍兵学校57期。海軍大学校卒。横須賀海軍航空隊で爆撃雷撃の研究、高雄海軍航空隊隊長、第一航空艦隊、第三艦隊航空参謀を経て第26航空戦隊司令部先任参謀として終戦。最終階級は海軍中佐。旧姓は大杉。 真珠湾攻撃に、第一航空艦隊航空参謀として参加。その奇襲成功を伝える暗号電文「トラトラトラ」(我れ奇襲に成功せり)を小野寛治郎通信参謀と二人で発案した。 ちなみに、実際にこれを打電した突撃飛行隊長の淵田美津雄は、当時誰もが奇襲攻撃を危ぶんでいた中で、その成功電文が「虎」の連打と知り、縁起が最高だと喜んだと言う。
有泉 龍之助(ありいずみ たつのすけ、1904年〈明治37年… 有泉 龍之助(ありいずみ たつのすけ、1904年〈明治37年〉4月16日 - 1945年〈昭和20年〉8月31日)は、日本の海軍軍人(海兵51期卒)。最終階級は海軍大佐。 東京都出身。旧幕臣で日本海海戦に参戦した海軍主計中佐・有泉庚午の長男として生まれる。静岡中学校を経て、1923年(大正12年)7月、海軍兵学校(51期)を卒業。1924年(大正13年)12月、海軍少尉に任官。海軍水雷学校高等科、海軍潜水学校(乙種学生)で学ぶ。 1931年(昭和6年)4月、「呂号第六十四潜水艦」乗組となり、装甲巡洋艦「浅間」分隊長、「伊号第五十一潜水艦」「伊号第百五十六潜水艦」「伊号第七十潜水艦」の各水雷長を経て、1937年(昭和12年)7月、海軍大学校(甲種35期)を卒業。
大村 純毅(おおむら すみたけ、1903年(明治36年)4月… 大村 純毅(おおむら すみたけ、1903年(明治36年)4月11日 - 1974年(昭和49年)4月17日)は、日本の昭和時代の華族、陸軍軍人、政治家(第5代〜第8代大村市長)。大村家第33代当主。大村市名誉市民。 父大村純英が陸軍軍人として赴任中の静岡県静岡市で誕生、ほどなく東京へ移る。 学習院初等科で院長であった乃木希典の薫陶を受け、学習院中等科を経て陸軍中央幼年学校へ入り、1924年(大正13年)7月に陸軍士官学校本科卒業(第36期)。同年10月に砲兵少尉任官。以後、砲兵部隊中心に軍歴を重ねる。最終的には野戦重砲第八連隊付を経て中佐に昇進した。1933年(昭和8年)6月、父の死没に伴い伯爵を襲爵。
池谷 半二郎(いけたに はんじろう、1900年(明治33年)… 池谷 半二郎(いけたに はんじろう、1900年(明治33年)1月25日 - 1984年(昭和59年)3月17日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 静岡県出身。池谷幸作の二男として生まれる。静岡中学校(現静岡県立静岡高等学校)、名古屋陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1921年(大正10年)7月、陸軍士官学校(33期)を卒業。同年10月、工兵少尉に任官し工兵第9大隊付となる。1924年(大正13年)12月、陸軍砲工学校高等科(30期)を卒業し、1929年(昭和4年)11月、陸軍大学校(41期)を優等で卒業した。 1930年(昭和5年)8月、工兵大尉に昇進。1932年(昭和7年)2月、参謀本部員(船舶班)に就任。
鈴木 敬司(すずき けいじ、1897年〈明治30年〉2月6日… 鈴木 敬司(すずき けいじ、1897年〈明治30年〉2月6日 - 1967年〈昭和42年〉9月20日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。1941年から1942年にかけて存在したビルマ(現在のミャンマー)の独立運動の支援を任務とする日本軍の特務機関「南機関」の機関長。この経歴から「日本版アラビアのロレンス」と称される。 静岡県出身。鈴木房蔵の長男として生まれる。浜松中学校(現在の静岡県立浜松北高等学校)を経て、1918年(大正7年)5月、陸軍士官学校(30期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し近衛歩兵第4連隊付となる。1929年(昭和4年)11月、陸軍大学校(41期)を卒業し、翌月、近衛歩兵第4連隊中隊長に就任。
山家 亨(やまが とおる、1897年(明治30年)- 195… 山家 亨(やまが とおる、1897年(明治30年)- 1950年(昭和25年)1月)は、日本陸軍の軍人、大佐。宣撫工作「山家機関」の責任者。中国名、王嘉亨(ワンチアホン)。川島芳子の初恋の相手としても知られる。 1897年(明治30年)、静岡市生まれ。1916年、静岡県立静岡中学校卒業、静岡中学時代は野球部(現在の静岡高校野球部)に所属した。1921年(大正10年)、陸軍士官学校(33期)卒業後、陸軍士官学校の委託生として東京外国語学校に入学、中国語、蒙古語、ロシア語を学んだ。松本第五十連隊機関銃隊付少尉(一説に中尉)のころ、満蒙ロビーの川島浪速への接近がきっかけで川島芳子と知り合って恋仲となり、中国語の手ほどきを受けた。
松浦 永次郎(まつうら えいじろう、1889年(明治22年)… 松浦 永次郎(まつうら えいじろう、1889年(明治22年)3月5日 - 1976年(昭和51年)11月8日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。静岡県小笠郡掛川町(現掛川市)出身。漫画家の所十三は曾孫(ひ孫)。 1936年、戦艦金剛艦長に抜擢され、1937年まで務めた。 その後川棚海軍工廠長・佐世保軍工廠長などの要職を歴任し、1943年12月20日に予備役に編入される。予備役編入後は大谷重工業副社長に就任した。 終戦後の1947年11月、公職追放の仮指定を受けた。
熊岡 譲(くまおか ゆずる、1887年(明治20年) - 1… 熊岡 譲(くまおか ゆずる、1887年(明治20年) - 1945年(昭和20年)6月16日)は、日本の海軍軍人。海軍潜水学校校長。潜水戦隊司令官を歴任。最終階級は海軍中将。 静岡県出身。静岡中学校を経て、1908年(明治41年)11月、海軍兵学校(36期)卒業。1910年1月、海軍少尉任官。1911年(明治44年)12月、海軍中尉、1913年(大正2年)12月、海軍大学校乙種学生、1914年(大正3年)12月、海軍大尉、1917年(大正6年)12月、海軍大学校入学(甲種学生)、1919年(大正8年)12月、海軍大学校甲種17期卒業・呂号第十三潜水艦艦長。1920年(大正9年)12月、海軍少佐、1924年(大正13年)12月、海軍中佐・第十四潜水隊司令、1929年(昭和4年)11月、海軍大佐、1935年(昭和10年)11月、海軍少将・海軍艦政本部第六部長、1936年(昭和11年)8月、第3潜水戦隊司令官、1937年(昭和12年)12月、第1潜水戦隊司令官、1938年(昭和13年)11月、海軍潜水学校校長。
熊谷 敬一(くまがい けいいち、1886年7月8日 - 19… 熊谷 敬一(くまがい けいいち、1886年7月8日 - 1962年1月17日)は、日本の陸軍軍人。第15師団長、留守第4師団長を歴任する。階級は陸軍中将。勲一等。 静岡県出身。静岡県立静岡中学校を経、1907年(明治40年)5月31日、陸軍士官学校を卒業。同年12月26日、陸軍歩兵少尉に任官 。1917年(大正6年)、陸軍大学校(29期)卒業。1922年(大正11年)12月12日、大尉の時、アメリカ大使館付武官補佐官に就任し、1924年(大正13年)10月14日までこの職に在る。以後歩兵将校として累進し、1931年(昭和6年)8月1日、陸軍大佐・陸軍歩兵学校教官を命ぜられる。翌年8月8日鳥取連隊区司令官に移る。
池田 平作(いけだ へいさく、1885年(明治18年)4月1… 池田 平作(いけだ へいさく、1885年(明治18年)4月12日 - 1935年(昭和10年)9月21日)は、大正・昭和期の日本海軍の軍人。連合艦隊主計長、海軍経理学校教官、横須賀鎮守府軍需部長などを歴任した。最終階級は海軍主計少将。 静岡県出身。静岡県立静岡中学校に学ぶ。静岡中学時代は野球部に所属した。東京帝国大学法科大学卒業。 1911年7月、中主計任官、経理学校乙種学生。1912年3月、浪速乗員、7月、横須賀水雷団付、10月、第2駆逐隊付、12月、横須賀水雷団付。1913年4月、第1駆逐隊付、8月、主計長心得。12月、大主計、嵯峨主計長。1915年2月、佐世保経理部第1兼第2課員。1917年2月、第2特務艦隊司令部付。
今井 信夫(いまい のぶお、1879年〈明治12年〉10月2… 今井 信夫(いまい のぶお、1879年〈明治12年〉10月26日 - 1957年〈昭和32年〉12月3日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。功四級。 福岡県出身。静岡県静岡尋常中学校に学んだ。中学では野球部に所属した。。 1899年(明治32年)12月1日、陸軍士官学校入校。1900年(明治33年)、陸軍士官学校第12期卒業。1901年(明治34年)6月25日、陸軍歩兵少尉に任官し歩兵第11連隊付となった。 1924年(大正13年)12月に陸軍歩兵大佐・浜松連隊区司令官、1925年(大正14年)5月に静岡連隊区司令官、1928年(昭和3年)3月に歩兵第36連隊長を経て、1930年(昭和5年)8月1日に陸軍少将に昇進と同時に待命、同月29日に予備役に編入した。
小倉 嘉明(おぐら よしあき、1878年(明治11年9月2日… 小倉 嘉明(おぐら よしあき、1878年(明治11年9月2日)[出典無効] - 1949年(昭和24年)11月23日)は、日露戦争から戦間期にかけて活躍した大日本帝国海軍軍人。海兵27期、海大甲種7期。 水雷畑を歩み、海軍大学校教官、海軍水雷学校教頭など教育に携わり、軍令部参謀、海軍艦政本部部長、横須賀海軍工廠長などを歴任した。最終階級は海軍中将。1905年(明治38年)の日本海海戦では第二艦隊浅間分隊長。 神奈川県出身。静岡県尋常中学校を経て、1896年(明治29年)、海軍兵学校(27期)入校[出典無効]、1899年(明治32年)12月16日卒業[出典無効]。同日、海軍少尉候補生、比叡乗組。1900年(明治33年)、千代田乗組[出典無効]。
篠田 次助 (1877年9月17日 - 没年不詳) は、日本… 篠田 次助 (1877年9月17日 - 没年不詳) は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 この項目は、軍事上の人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:軍事、プロジェクト:軍事史/Portal:軍事)。
吉江 石之助(よしえ いしのすけ、1866年7月24日(慶応… 吉江 石之助(よしえ いしのすけ、1866年7月24日(慶応2年6月13日) - 1935年(昭和10年)3月8日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。位階勲等功級は正四位勲二等功四級。 福井藩士・吉江徳衛の長男として越前国(現・福井県)に生まれ、1894年(明治27年)家督を相続する。本籍は東京府、のち静岡県。 1891年(明治24年)陸軍士官学校第2期卒業。翌年、陸軍歩兵少尉に任官。1902年(明治35年)陸軍大学校第16期卒業。 東京防禦総督部副官、近衛師団副官、第13師団参謀、歩兵第31連隊附、第14師団参謀、歩兵第59連隊附を経て、1912年(明治45年)4月に陸軍歩兵大佐・関東都督府高級参謀に任官。
井口 省吾(いぐち しょうご、1855年9月20日〈安政2年… 井口 省吾(いぐち しょうご、1855年9月20日〈安政2年8月10日〉- 1925年〈大正14年〉3月4日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将 従二位勲一等功二級。日清戦争、日露戦争期を代表する軍人の一人である。駿河国出身。 歩兵第九聯隊大津分営に兵卒として入営し、翌年、陸軍士官学校を受験している。 陸軍士官学校(旧2期)、陸軍大学校(1期)を経て1887年(明治20年)にドイツ留学。日露戦争時には満州軍総司令部参謀となり、奉天会戦などの作戦指揮にあたった。児玉源太郎は口癖のように、「俺には普賢菩薩と文殊菩薩がついている。」と井口と松川敏胤の両名を頼りにしていたという。またドイツ留学の経験を生かし、いろいろな訳書を行った。
足立 寛(あだち かん、1842年6月14日(天保13年5月… 足立 寛(あだち かん、1842年6月14日(天保13年5月6日) - 1917年(大正6年)7月7日)は、幕末から明治にかけての医師、医学者、日本陸軍軍医、陸軍軍医学校校長。最終階級は陸軍軍医総監。字は士得。号は菊径、欲堂。妻は坪井信道の娘。 遠江国山名郡国本村(現・静岡県袋井市)生まれ。木村軍太郎に師事した後、緒方洪庵の適塾、福沢諭吉の書生として慶應義塾で学び、のちに塾長も務める。幕府の西洋医学校塾頭となる。1887年(明治20年)陸軍軍医学舎長となり、一等軍医正まで昇格する。陸軍省に出仕し、軍医総監、陸軍軍医学校長、慶應義塾医学所の設立に携わる。文部省医術開業試験委員長、文部省薬剤師開業試験委員長をつとめ、多忙を極める中、衛生学教程本を多数記す。
栗原 幸衛(くりはら ゆきえ、生年不明 - 1920年(大正… 栗原 幸衛(くりはら ゆきえ、生年不明 - 1920年(大正9年)1月7日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は騎兵大佐。日露戦争では秋山支隊 騎兵第一旅団司令部に所属。奉天会戦などに参戦した。 静岡県田方郡韮山町(現伊豆の国市)出身。1895年(明治28年)、静岡県尋常中学校卒業。1898年(明治31年)11月25日、陸軍士官学校10期卒業。1899年(明治32年)、6月27日任官。 1903年(明治36年)8月3日、陸軍大学校入校。1904年(明治37年)2月9日中退、日露戦争を戦った後、1906年(明治39年)3月20日に陸大に復校。1908年(明治41年)11月30日、陸大20期卒業。大尉。