松下 繁二(まつした しげじ、1916年8月16日 - 戦死… 松下 繁二(まつした しげじ、1916年8月16日 - 戦死(年月不明))は、昭和時代前期に活躍したプロ野球選手。
兵庫県:4,798人
松下 繁二(まつした しげじ、1916年8月16日 - 戦死… 松下 繁二(まつした しげじ、1916年8月16日 - 戦死(年月不明))は、昭和時代前期に活躍したプロ野球選手。
永田 禎彌(ながた よしひろ、1916年4月24日 - 20… 永田 禎彌(ながた よしひろ、1916年4月24日 - 2008年6月24日)は、洋画家。兵庫県尼崎市出身。兵庫県三木市にて死去。
亀井 正夫(かめい まさお、1916年4月20日 - 200… 亀井 正夫(かめい まさお、1916年4月20日 - 2002年6月23日)は、日本の実業家。住友電気工業元社長、会長。関西国際空港株式会社元会長。住友老壮会会長。社会経済生産性本部元会長。国鉄再建監理委員会委員長。政治改革推進協議会会長。「新しい歴史教科書をつくる会」の賛同者。新しい日本をつくる国民会議元会長。勲一等旭日大綬章受章。 1916年兵庫県神戸市生まれ。旧制第一神戸中学校から岡山の旧制第六高等学校を経て1939年東京帝国大学法学部卒業。同年住友本社入社。1946年住友電気工業入社。1973年社長、1982年会長を経て1991年相談役に就任。1992年日本生産性本部会長。2001年より住友老壮会会長となる。
岩谷 時子(いわたに ときこ、1916年(大正5年)3月28… 岩谷 時子(いわたに ときこ、1916年(大正5年)3月28日 - 2013年(平成25年)10月25日)は、日本の作詞家、詩人、翻訳家。本名:岩谷 トキ子(読み同じ)。歌手・越路吹雪のマネージャーを務めたことでも知られる。
木村 三四吾(きむら みよご、1916年3月24日 - 20… 木村 三四吾(きむら みよご、1916年3月24日 - 2008年4月)は、日本の近世文学研究者。大阪樟蔭女子大学名誉教授。「餘二稿」「餘二庵」「佐保之不貞祢」と号した。 兵庫県姫路市生まれ。1933年、姫路高等学校入学。1939年、京都帝国大学国文科卒業、同大学院に進学。1945年、天理図書館司書研究員。天理図書館の名物司書として名声が高かった。1976年、天理図書館を停年退職し、同年大阪樟蔭女子大学教授に就任。同大学図書館長を勤め、1986年定年退職、同大学名誉教授。 若い頃は俳諧関係の研究を中心に行い、晩年は曲亭馬琴を中心に研究した。『木村三四吾著作集』全4巻がある。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
加古 三枝子(かこ みえこ、1916年3月22日 - 200… 加古 三枝子(かこ みえこ、1916年3月22日 - 2002年12月17日)は、日本の声楽家。本名・小泉三枝子。兵庫県高砂市生まれ。東京音楽学校声楽料卒業。 1940年から1971年までお茶の水女子大学講師、1957年から1972年まで東京芸術大学講師を務めた。1957年、ヒンデミット「マリアの生涯」を日本初演。30代の時、11歳年下の音楽学者・小泉文夫と恋におち、周囲の反対を押し切って結婚し、小泉が50代で死んだ後その思い出を刊行した。自身の詩「碧い部屋」に柴田南雄らが曲をつけ、自作自演を行っており、CDも製作された。墓所は渋谷区法雲寺 この項目は、クラシック音楽に関連した書きかけの項目です。
波部 忠重(はべ ただしげ、1916年3月21日 - 200… 波部 忠重(はべ ただしげ、1916年3月21日 - 2001年12月29日)は、日本の貝類学者。日本貝類学会名誉会長、日本動物分類学会名誉会員、勲三等瑞宝章受章者。 20世紀後半の日本における代表的貝類学者の一人として知られ、日本産の貝類の分類学的研究を主に手がけ、1600以上の分類群(科、属、種など)を記載した。また専門の研究者だけではなく、アマチュアの研究者や愛好家への指導も広く行って後進の育成に力を注いだ。また、昭和天皇が相模湾で収集した貝類コレクションを『相模湾産貝類』(1971年)として黒田徳米・大山桂らと共にまとめたことでも知られる。 1916年(大正5年)3月21日、兵庫県多紀郡日置村(現:丹波篠山市)に生まれる。
藤井 重夫(ふじい しげお、1916年(大正5年)2月10日… 藤井 重夫(ふじい しげお、1916年(大正5年)2月10日 - 1979年(昭和54年)1月17日)は、兵庫県生まれの作家。 兵庫県豊岡市生まれ。豊岡商業学校卒(現兵庫県立豊岡総合高等学校)。 21歳で応召し、4年間を中国大陸の戦火の中で過ごした。1941年、25歳の時に朝日新聞に入社(姫路通信局専属通信員)。第二次世界大戦中は陸軍報道班員としてフィリピンやマレーなどに派遣され、約2年間を南方の地で従軍した。戦後の1951年、大阪本社から東京本社へ転勤。雑誌編集などに携わる傍ら、執筆した「佳人」(同人誌『作家』所収)が川端康成に激賞され、芥川賞候補となる。同作が1958年に日活で映画化されたことを機に、翌年朝日新聞社を退社し、作家業に専念する。
下畑 卓(しもはた たく、1916年1月30日 - 1944… 下畑 卓(しもはた たく、1916年1月30日 - 1944年4月10日)は、日本の児童文学作家。
橋本 純次(はしもと じゅんじ、1916年(大正5年)1月2… 橋本 純次(はしもと じゅんじ、1916年(大正5年)1月27日 - 1983年(昭和58年)4月18日)は、日本の数学者。専門は一般代数学、束論(特に分配束)。神戸大学理学部長。勲五等瑞宝章。兵庫県明石市出身。一般には数学教育分野、特に参考書であるチャート式数学の著者として知られる。 1916年父橋本久一、母ぬいの長男として兵庫県明石市に生まれる。県立明石中学、東京高師、文理大を卒業後山梨県等で教職に携わった後、戦後神戸工専から神戸大学文理学部創設とともに同大学助教授、教授、理学部長。
木下 忠良(きのした ただよし、1916年〈大正5年〉1月1… 木下 忠良(きのした ただよし、1916年〈大正5年〉1月15日 - 1991年〈平成3年〉8月17日)は、日本の裁判官。最高裁判所判事。兵庫県姫路市出身。 1934年(昭和9年)旧制姫路高等学校文科乙類卒業[要出典]。1937年(昭和12年)東京帝国大学法科を卒業。同年に司法官試補。裁判官生活は浦和、福岡、水戸、東京、大阪と各地に及び、大阪高裁判事、旭川地・家裁所長を経て、1970年(昭和45年)に大阪地裁所長に就任。その後、1975年(昭和50年)10月に仙台高裁長官、1977年(昭和52年)9月に大阪高裁長官に就任。 1979年(昭和54年)3月1日に最高裁判所判事に就任。裁判官出身の最高裁判事としては珍しく最高裁事務総局勤務が無かった。
白木 一二(しらき かずじ、1915年11月3日 - 194… 白木 一二(しらき かずじ、1915年11月3日 - 1944年?)は、兵庫県出身のプロ野球選手(外野手)。
殿山 泰司(、1915年10月17日 - 1989年4月30… 殿山 泰司(、1915年10月17日 - 1989年4月30日)は、日本の俳優、エッセイスト。 兵庫県神戸市出身。中央区立泰明小学校、東京府立第三商業学校中退。終戦後の日本映画界において独特の風貌で名脇役として活躍した。ジャズとミステリーをこよなく愛し、趣味を綴った著書も多数残している。また、波乱万丈なその人生は、映画化もされている。 神戸の生糸商の長男として生まれる。幼名は殿山泰爾()である。父親は広島県生口島出身。6歳の頃に父親の事業が破綻して両親は別居。父とその愛人(泰司の義母となる)について上京し、東京府東京市中央区銀座で少年時代を過ごす。このとき父と義母が出したおでん屋が、銀座五丁目から移転し今も日本橋で営業をつづける「お多幸本店」である。
浅野 勝三郎 (あさの かつさぶろう、1915年10月1日 … 浅野 勝三郎 (あさの かつさぶろう、1915年10月1日 - 没年不明)は、阪急軍に在籍したプロ野球選手(投手)。旧名・山田勝三郎。
毛利 圭太郎(もうり けいたろう、1915年9月29日 - … 毛利 圭太郎(もうり けいたろう、1915年9月29日 - 2009年5月19日)は、日本の気象技官。気象庁長官を務めた。 兵庫県神戸市出身。1938年に東京帝国大学理学部天文学科を卒業し、同年に気象庁に入庁。1970年に札幌管区気象台長、1973年に予報部長を経て、1974年から1976年までに長官を務めた。1976年には国立国会図書館専門調査員に就任。 2009年5月19日に老衰のために死去。93歳没。
高橋 孝吉(たかはし こうきち、1915年9月20日 - 1… 高橋 孝吉(たかはし こうきち、1915年9月20日 - 1987年1月24日)は、日本の実業家、工学博士。神戸製鋼所社長、会長を務めた。兵庫県神戸市出身。 1915年9月20日熊本県で生まれる。1938年に大阪帝国大学理学部を卒業し、同年に神戸製鋼所に入社した。1966年に取締役に就任し、常務、専務、副社長を経て、1977年10月から社長に就任した。1983年6月から会長に就任した。 日本溶接棒工業会、日本伸銅協会、日本産業用ロボット工業会、軽金属溶接構造協会の各会長、中東協力センター、造水促進センターの各理事長なども歴任した。 1977年11月に藍綬褒章を受章し、1985年に製鉄功労賞を受章した。
竹中 宏平(たけなか こうへい、1915年8月24日 - 1… 竹中 宏平(たけなか こうへい、1915年8月24日 - 1977年8月24日)は、日本の経営者。兵庫県神戸市出身。 1938年に早稲田大学理工学部建築学科を卒業し、同年に竹中工務店に入社。取締役を経て、1945年2月に副社長に就任し、1977年3月には社長に就任。 1977年8月24日肝硬変のために社長在任中に死去。62歳没。
坂上 隆祥(さかがみ りゅうしょう、1915年(大正4年)4… 坂上 隆祥(さかがみ りゅうしょう、1915年(大正4年)4月13日 - 1993年(平成5年)12月28日)は、日本の武道家。段位は空手道範士九段、剣道範士七段、居合道範士八段、杖道教士七段。空手家の摩文仁賢和の高弟で、糸洲派正統第三世を継承した。本名、坂上博一(ひろかず)。 1915年兵庫県川西市生まれ、8歳より剣道を伊丹市の修武館道場で学び、後に富山円、志賀矩両範士に師事する。14歳の時に、地元在住、沖縄県出身の玉城より、松茂浪派(泊手)の空手を学ぶ。1933年より居合道無双直伝英信流を穂岐山波雄、福井春政両範士に学ぶ。 1935年4月、国士舘剣道科(現・国士舘大学)に入学。在学中に、沖縄県出身で同期の石川春善と共に、当時笹塚に住んでいた屋比久孟伝より空手道並びに琉球古武道を学ぶ。
岡部 桂一郎(おかべ けいいちろう、1915年(大正4年)4… 岡部 桂一郎(おかべ けいいちろう、1915年(大正4年)4月3日 - 2012年(平成24年)11月28日)は歌人。 兵庫県神戸市生まれ。神戸尋常小学校、関西学院中等部を経て、熊本薬学専門学校(現熊本大学薬学部)卒業。 1937年(昭和12年)、山下陸奥の歌誌「一路」入会。1941年(昭和16年)から1945年(昭和20年)にかけて、作歌を中断。1947年(昭和22年)、上京し国立習志野病院の薬局長として勤務。1948年(昭和23年)、「一路」を退会し、山形義雄、芝山永治らと「工人」を創刊。1950年(昭和25年)、金子一秋、葛原繁、三木あや、山崎一郎らとともに「泥の会」の活動を開始。1954年(昭和29年)、山崎方代らと同人誌「黄」を創刊。
直井 潔(なおい きよし、1915年4月1日 - 1997年… 直井 潔(なおい きよし、1915年4月1日 - 1997年11月23日)は日本の小説家。 広島県広島市に生れ、兵庫県滝川中学卒業後は区役所に勤める。応召により中国戦線に出征して病を得、本土に送還のうえ入院する。全身が「石地蔵のように」硬直する奇病で、現地の風土病に罹患したらしい。以降身体の自由を欠き、寝たきりの生活となって、老母の看護を受けながら療養を余儀なくされる。 病床でつれづれのあまり手に取った『暗夜行路』に感激し、これを暗唱するまで読みこみ、著者志賀直哉に師事せんことを願う。文通によって志賀もその境遇に同情し、読書をはげましながらしきりと小説の執筆をすすめたが、1943年小説『清流』の原稿が手元に送られるに至ってその出来栄えを称揚し、これが直井の文壇へのデビューとなった。
中西 一郎(なかにし いちろう、1915年3月29日 - 1… 中西 一郎(なかにし いちろう、1915年3月29日 - 1992年11月18日)は、日本の政治家、農林官僚。参議院議員(4期)。総理府総務長官、沖縄開発庁長官、危機管理担当大臣などを務めてきた。 兵庫県神戸市生まれ。兵庫県立第一神戸中学校、第三高等学校を経て、東京帝国大学法学部法律学科卒業後、農林省に入省。短期現役海軍主計科士官(7期)を志願し、1941年8月、海軍経理学校に入校し海軍主計中尉に任官。同年12月、経理学校を卒業。陸奥に配属。1942年10月、特設巡洋艦りおん丸主計長となりラボールに赴任し、航空用ガソリン輸送に従事。1943年(昭和18年)6月、主計大尉に進む。1944年1月、ラボールで戦傷を受け、同年5月、海軍病院を退院し、海軍省兵備局第3課兼運輸総局船員局に転じて終戦を迎えた。
楠瀬 正太郎(くすのせ まさたろう、1915年 <大正4年>… 楠瀬 正太郎(くすのせ まさたろう、1915年 <大正4年> 3月 - 1992年 <平成4年> 2月13日)は、日本の都市計画研究者。位階は従四位。 高知県出身。旧制第一神戸中学校(現・兵庫県立神戸高等学校)から第三高等学校を経て1940年に東京帝国大学工学部卒業。1961年工学博士(東京大学)。 建設省計画局、首都圏整備委員会事務局計画第一部第一調整官、新都市センター開発顧問、日本都市計画学会会長等を歴任し、戦災復興都市計画や筑波研究学園都市、多摩ニュータウンなどの計画に携わる。1992年死去。死没日付をもって従七位から従四位に進階。
村田 知栄子(むらた ちえこ、1915年2月28日 - 19… 村田 知栄子(むらた ちえこ、1915年2月28日 - 1995年11月)は、日本の女優である。本名は村田 美代子(むらた みよこ)。兵庫県神戸市出身。元夫は俳優の見明凡太朗。姉の嘉寿代は「村田扶実子」の芸名で、芸術座や大映で活躍した女優。 旧芸名→村田智栄子→村田千栄子→村田千英子→村田知栄子→村田知英子。特技は三味線。 兵庫県御影師範学校附属小学校(現:神戸大学附属住吉小学校)、および松蔭高等女学校(現:松蔭中学校・高等学校)卒業。 1933年に日活太秦に入社。伊奈精一監督の現代劇映画『大東京曇後晴れ』にデビューする。明朗な娘役として売り出し、『夢に見る母』、『嫁ぐ日』などの作品に主演。1936年日活多摩川撮影所に移り、『人生劇場』で小杉勇と共演し、『恋は雨に濡れて』では岡譲二、時代劇『裸の町』では島耕二の相手役を務めた。
大井 際断(おおい さいだん、1915年(大正4年)2月26… 大井 際断(おおい さいだん、1915年(大正4年)2月26日 - 2018年(平成30年)2月27日)は昭和・平成時代の日本の禅僧。 兵庫県西宮市出身。室号は大隠窟、道号は際断。法諱は令碩、俗姓は大井。1990年(平成2年)に臨済宗方広寺派管長ならびに方広僧堂師家に就任、1990年より2018年まで務めた。2018年(平成30年2月27日)遷化。世寿104。 1915年(大正4年)、兵庫県西宮市に生まれる。6歳のとき、西宮市の臨済宗東福寺派茂松寺和尚、かつ実父の大井洞雲について得度した。 1940年(昭和15年)京都帝国大学文学部哲学科を卒業後、1940年(昭和15年)に家永一道のいる京都の東福僧堂に掛搭。
野間 宏(のま ひろし、1915年(大正4年)2月23日 -… 野間 宏(のま ひろし、1915年(大正4年)2月23日 - 1991年(平成3年)1月2日)は、日本の小説家・評論家・詩人。 大学時代の左翼運動と出征経験から、戦後『暗い絵』を書いて第一次戦後派の先頭に立ち、特に『真空地帯』は大きな反響を呼んで戦後文学の記念碑的名作となった。その後は社会全体の構造をとらえる全体小説を志向し、次々と大作を発表。文学の国際交流にも尽力し、また最晩年まで社会的な発言を多く行った。部落外の出身者だが部落解放同盟中央委員となった
小島 二男(こじま おとお、1915年2月20日 - 没年不… 小島 二男(こじま おとお、1915年2月20日 - 没年不詳)は、兵庫県出身のプロ野球選手。 豊岡実業から白木屋を経て1936年に東京セネタースへ入団。1941年は大洋軍に所属し同年退団。
吉川 勇次(よしかわ ゆうじ、1915年1月20日 - 19… 吉川 勇次(よしかわ ゆうじ、1915年1月20日 - 1977年2月6日)は、日本のヤクザ。暴力団三代目山口組若頭補佐、初代吉川組組長。三重県度会郡出身。 大正4年(1915年)三重県度会郡に生まれた。 大正8年(1919年)、兵庫県神戸市に移住した。 昭和6年(1931年)、神戸二中(後の兵庫県立兵庫高等学校)に入学した。田岡一雄(後の三代目山口組組長)らと喧嘩を繰り返した。その後、父親の病死で神戸二中を中退した 昭和20年(1945年)終戦後、田岡一雄と再会した。 同年、田岡が神戸市兵庫区下沢通りで田岡組を作った。吉川勇次も田岡組に参加した。戦後の混乱で警察力は弱体化していた。田岡は、街や闇市の警備のために、神戸市新開地の「花月劇場を本拠地に「自警団」を結成し、闇市への不良在日外国人の干渉を排除した。
佐々木 良作(ささき りょうさく、1915年(大正4年)1月… 佐々木 良作(ささき りょうさく、1915年(大正4年)1月8日 - 2000年(平成12年)3月9日)は、日本の政治家。位階は正三位。雅号は良素。 民社党委員長(第4代)、衆議院議員(12期)、参議院議員(1期)を歴任。 元鹿島建設副社長鹿島新吉は岳父に当たり元中央大学総長の升本喜兵衛は実兄、甥に初代養父市長の佐々木憲二がいる。 兵庫県養父郡伊佐村浅間(八鹿町を経て現養父市八鹿町浅間)生まれ。旧制豊岡中学、旧制松本高校文科乙類を経て、1939年(昭和14年)京都帝国大学法学部を卒業。創立間もない日本発送電に入社し、1946年に日本電気産業労働組合協議会(翌年電産労組として単一化される)が結成されると、初代書記長兼副闘争委員長となる。
播磨 幸太郎(はりま こうたろう、1915年 - 1953年… 播磨 幸太郎(はりま こうたろう、1915年 - 1953年7月19日)は、日本のサッカー選手、サッカー指導者。ポジションはフォワード。兵庫県神戸市出身。 兵庫県御影師範学校附属小学校を経て、兵庫県立第一神戸中学校(神戸一中、現:兵庫県立神戸高等学校)に入学し、サッカー部に所属。右近徳太郎が2年先輩に、直木和、津田幸男および二宮洋一が1年後輩に当たる。1933年1月に開催された第15回全国中等学校蹴球選手権大会での優勝に貢献した。 1933年に神戸一中を卒業して、慶應義塾大学予科に入学。慶應入学後よりソッカー部に所属して予科1年次よりレギュラー選手となった。また、在学中には慶應BRBで1度(1936年)、慶應義塾大学として1度(1937年)の計2回全日本選手権(現在の天皇杯全日本サッカー選手権大会)で優勝した。
中田 武雄(なかた たけお、1915年(大正4年) - 19… 中田 武雄(なかた たけお、1915年(大正4年) - 1943年(昭和18年)7月22日)は、昭和初期の中等学校野球及び大学野球で活躍した野球選手。1933年(昭和8年)の第19回全国中等学校優勝野球大会準決勝において、兵庫県立明石中学校の投手として中京商業学校との延長25回の試合を投げきったことで著名。左投げ左打ち。
畑江 五郎(はたえ ごろう、1915年 - 1980年11月… 畑江 五郎(はたえ ごろう、1915年 - 1980年11月9日)は、日本の競走馬生産者、馬主。 兵庫県神戸市出身。慶應義塾大学法学部卒業後の1941年、北海道・日高に渡り、牧場を開設して学生時代から思い描いていた競走馬生産を始める。牧場を開設するにあたり、当時の馬産牧場の最大手であり名門でもあった小岩井農場からフロラヴァースを譲り受けるなどして自身の理想を実現しようと力を入れていた。 第二次世界大戦末期の1944年、赤紙が届く。出征前、牧場所有の繁殖牝馬を保存しておくように家族に命じていたという。 畑江は中国大陸での戦闘に従事。1945年の第二次世界大戦終結後、ソ連軍の捕虜となり、シベリア抑留を経験することとなる。
楠本 保(くすもと たもつ、1914年(大正3年)12月19… 楠本 保(くすもと たもつ、1914年(大正3年)12月19日 - 1943年(昭和18年)7月23日)は、昭和初期の中等学校野球及び大学野球で活躍した野球選手(投手)。
磯村 哲(いそむら てつ、1914年12月9日 - 1997… 磯村 哲(いそむら てつ、1914年12月9日 - 1997年8月23日)は、日本の法学者。学位は、法学博士(京都大学・論文博士・1976年)(学位論文「市民法学-社会法学の展開と構造-」)。京都大学名誉教授。兵庫県出身。 息子は、神戸大学名誉教授・早稲田大学大学院法務研究科教授の磯村保。
福冨 芳美(ふくとみ よしみ、1914年11月23日 - 1… 福冨 芳美(ふくとみ よしみ、1914年11月23日 - 1992年4月22日)は、昭和~平成初期のファッションデザイナー、教育者。旧姓は小田。 岡山県生まれ。兵庫県立第一神戸高等女学校を卒業後、婦人服の仕立て職人に弟子入り。その後上京して杉野学園ドレスメーカー女学院で学び、1937年に神戸ドレスメーカー女学院(現・神戸ファッション専門学校)開校。戦後は大丸神戸店の顧問デザイナーに招聘され、パリやニューヨークへ出かける機会を得る。また、神戸在住のまま飛行機で日本大学芸術学部美術学科に通い、1961年に卒業した。 1967年に明石女子短期大学を創立し、学長兼教授となる。日本家政学会、人間工学会、日本デザイナークラブ、ザ・ファッション・グループ(本部ニューヨーク)等の会員。
戸田 藤一郎(とだ とういちろう、1914年11月22日 -… 戸田 藤一郎(とだ とういちろう、1914年11月22日 - 1984年7月11日)は、兵庫県神戸市出身の元プロゴルファー。本名「阪野 藤一郎」。 戦前、戦後を通じ「トイチ」のニックネームで天才プロと謳われた。 実家の近くに日本で2番目に出来たゴルフコース「横屋ゴルフ・アソシエーション」があり、近所に住んでいた日本プロ第1号の福井覚治にゴルフを教えてもらった。小学生の時からキャディを始め、客のプレーを盗み見しながらゴルフを覚える。 1933年に出来たばかりの廣野ゴルフ倶楽部にプロ助手として入社し、この頃は200ヤード先にある松を目標に、毎日何百発、何千発とアイアンで打ち込み、ついに松を枯らしてしまったことがあった。
曽野 明(その あきら、1914年10月19日 - 1995… 曽野 明(その あきら、1914年10月19日 - 1995年9月22日)は、日本の外交官、外交評論家。位階は正三位。 兵庫県芦屋市出身。1937年東京帝国大学法学部政治学科中退。同年外務省に入り、調査局第二課長、情報文化局第一課長、ソ連課長、在ドイツ大使館参事官、在シカゴ、在ベルリン総領事を歴任し、1961年情報文化局長、1966年駐ユーゴスラビア大使、1969年駐パキスタン大使を経て、1972年駐西ドイツ大使に就任。1975年退官し、評論家となる。1995年叙正三位。
大上 司(おおかみ つかさ、1914年10月2日 - 199… 大上 司(おおかみ つかさ、1914年10月2日 - 1993年5月)は、日本の政治家。衆議院議員(5期)。兵庫県上郡町出身。 1932年兵庫県上郡農学校(現・兵庫県立上郡高等学校)卒業、1935年関西大学経済学部卒業、1942年立命館大学法経学部経済学科卒業。 1937年に大蔵省官吏(阪神地区税務署近畿財務局)となった後、1941年産経新聞社入社。内外財務研究所理事長などを経て、1947年の第23回衆議院議員総選挙にて、民主党公認で兵庫県第4区(姫路市、相生市、飾磨郡、神崎郡、揖保郡、赤穂郡、佐用郡、宍粟郡)より出馬し初当選。 以後、民主自由党、自由党、自由民主党と変遷し、通算当選5回。その間、1958年の第28回衆議院議員総選挙では当選したものの、公職選挙法違反を問われた。
吉利 一雄(よしとし かずお、1914年8月26日 - 19… 吉利 一雄(よしとし かずお、1914年8月26日 - 1992年10月17日)は、日本の経営者。塩野義製薬社長を務めた。兵庫県神戸市出身。 1937年に神戸商業大学を卒業し、同年に塩野義製薬に入社した。取締役、常務、専務を経て、1983年2月に社長に就任。社長在任時には研究開発体制の強化に力を入れた。1992年6月に会長に就任した。 1992年10月17日、急性心不全のために死去。78歳没。
井上 増吉(いのうえ ますきち、1914年〈大正3年〉8月2… 井上 増吉(いのうえ ますきち、1914年〈大正3年〉8月21日 - 2010年〈平成22年〉10月24日)は、昭和から平成時代の政治家。兵庫県小野市長。位階は従五位。 兵庫県小野市出身。旧制小野中学校(現在の兵庫県立小野高等学校)を卒業。1939年(昭和14年)日本大学商経学部経済科卒業。同年日本放送協会に入った。その後、1946年(昭和21年)、山陽利器に入社した。さらに、1951年(昭和26年)、小野町立病院に入った。そして、1952年(昭和27年)明石市役所に奉職し収入役を務めた。 1976年(昭和51年)の小野市長選挙に立候補して、保守・革新双方の推薦を得て、共産党が支持する新人を破って初当選を果たした。
室井 綽(むろい ひろし、1914年7月11日 - 2012… 室井 綽(むろい ひろし、1914年7月11日 - 2012年10月5日)は、植物学者。専門は竹の分類、植物の生態。「日本竹笹の会」の会長として研究をリードし、「竹博士」と呼ばれた。 兵庫県赤穂市生まれ。1938年、盛岡高等農林学校農学部(現岩手大学農学部)卒業。1948年、第二神戸中学校(現兵庫県立兵庫高等学校)の教諭となり、1956年、富士竹類植物園(静岡県駿東郡長泉町)の初代園長となる。1962年「有用竹類の形態学的特性とその利用に関する研究」で北海道大学農学博士。1973年、県立兵庫高等学校を退職し、姫路学院女子短期大学教授。同年、兵庫県生物学会長。2012年10月5日、肺炎のため死去。
八木 好美(やぎ よしみ、1914年(大正3年)3月24日 … 八木 好美(やぎ よしみ、1914年(大正3年)3月24日 - 1996年(平成8年)5月17日)は、兵庫県揖保郡越部村觜崎(現たつの市新宮町觜崎)出身の詩人。 1914年(大正3年)、警察官であった父肔哉の長男として、越部村觜崎に生まれる。本名美衛。尋常小学校の頃、父の仕事のため一時姫路に住むが、後に帰郷し兵庫県立龍野中学校に入学。龍野中学校時代、作文を先生に褒められた事が文学を志すきっかけとなった。この頃から『愛誦』『若草』『山脈』『昭和詩人』等に詩を投稿するようになり、『山陰詩人』『詩創元』『ばく』等の同人に参加の他、自らも『火虹』『深苑』等の同人誌を主宰した。生涯の友である大塚徹、植原繁市らと出会ったのもこの頃である。
堀尾 青史(ほりお せいし、1914年3月22日〈大正3年〉… 堀尾 青史(ほりお せいし、1914年3月22日〈大正3年〉 - 1991年〈平成3年〉11月6日)は、日本の紙芝居作家・児童文学作家。宮沢賢治の伝記研究でも知られる。 兵庫県加古郡高砂町(現・高砂市)生まれ。1935年明治大学中退、松永健哉と出会い、紙芝居に関わる。その前年、東北大冷害の取材のために岩手県を訪れ、宮沢賢治とその前年の死去を知る。その後、賢治の実弟である宮沢清六の知遇を得て、賢治の事績について研究を始める。戦後は1948年民主紙芝居集団、1968年子どもの文化研究所に参加。また、農山漁村文化協会や全日本社会教育連合会に勤務した。 1966年、宮沢賢治の編年体伝記『年譜宮澤賢治伝』(図書新聞社)を刊行する。
牧野 耕二(まきの こうじ、1914年3月7日 - 2003… 牧野 耕二(まきの こうじ、1914年3月7日 - 2003年4月17日)は、日本の経営者。住友信託銀行社長を務めた。兵庫県神戸市出身。 1939年に東京帝国大学経済学部商業学科を卒業し、同年に住友信託銀行に入行。1960年5月に取締役に就任し、1963年11月に常務、1969年5月に専務、1972年5月に副社長を経て、1976年9月には社長に就任。1979年9月に会長に就任し、1984年6月に取締役相談役を経て、1990年6月には相談役に就任。 関西経済同友会幹事、南海電気鉄道、江崎グリコ、読売テレビ放送で各取締役なども歴任。 2003年4月17日に膵臓癌のために死去。89歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
植村 光雄(うえむら みつお、1914年1月1日- 2006… 植村 光雄(うえむら みつお、1914年1月1日- 2006年1月21日)は、日本の経営者。住友商事社長、会長を務めた。 兵庫県出身。旧制姫路中学、旧制姫路高等学校文科乙類を経て、1936年京都帝国大学法学部を卒業。住友合資入社、住友商事に転じ、1961年5月に取締役に就任。常務、専務を経て、1971年11月に副社長に就任し、1977年6月に社長に昇格し、1983年6月に会長に就任し、1987年6月から相談役を務めた。。 1978年11月に藍綬褒章を受章し、1984年6月には貿易功労者に選ばれ、1989年11月に勲二等旭日重光章を受章した。 2006年1月21日、肺炎のために死去。92歳没。
今村 泰二(いまむら たいじ、1913年12月4日 - 20… 今村 泰二(いまむら たいじ、1913年12月4日 - 2004年12月28日)は、日本の動物学者で、ミズダニ研究の世界的権威。兵庫県出身。 1946年から1971年に国内外で収集されたミズダニ類の標本1,541点が、本人の生前からの希望もあり茨城大学理学部森野浩教授および茨城大学広域水圏科学教育研究センター菊地義昭教授ならびに日本大学大学院生物資源科学研究科安倍弘教授の尽力により、2005年に遺族からミュージアムパーク茨城県自然博物館(館長:菅谷博)へ寄贈された。 標本の中には、28科59属154種10亜種のホロタイプ(正基準標本)が含まれており、学術的に大変貴重なものである。寄贈された標本は、「今村泰二ミズダニ類コレクション」として同博物館で保管されている。
保田 清(やすだ きよし、1913年 <大正2年> 11月1… 保田 清(やすだ きよし、1913年 <大正2年> 11月19日 - 1999年 <平成11年> 3月23日)は、日本の倫理学者。京都大学名誉教授。位階は正四位。 兵庫県神戸市生まれ。1937年京都帝国大学文学部卒業、大学院に進む。1943年大学院特別研究生。1950年京大教養部専任講師、1951年助教授、1962年教授、1977年定年退官、名誉教授。 1987年、勲三等旭日中綬章を受章。1993年「道徳哲学の基本」で、80歳にして文学博士。1999年死去。死没日付をもって正四位に叙された。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
杉本 俊朗(すぎもと としろう、1913年10月1日 - 2… 杉本 俊朗(すぎもと としろう、1913年10月1日 - 2012年9月27日)は、マルクス経済学者。横浜国立大学名誉教授。専門は国際経済学、経済書誌学。経済学者の平田喜彦は娘婿。 神戸市生まれ。1934年武蔵高等学校高等科文科乙類卒業。東京帝国大学経済学部に入学。大内兵衛ゼミで学ぶ。東京学生消費組合赤門支部の委員として活動。1937年に大学を卒業し、東洋経済新報社編集局に勤務。1940年に東洋経済記者の禰屋不二夫が石橋湛山主幹の京城支局への転勤命令を断り、9月9日付で退社。同僚若手記者らは石橋のワンマンぶりに反発し、杉本俊朗、細野宰男(のち細野武男に改名)、遊部久蔵、中野正の4名が9月13日付で退社した(のちに国松藤一も退社。
黒岩 一郎(くろいわ いちろう、1913年8月14日 - 1… 黒岩 一郎(くろいわ いちろう、1913年8月14日 - 1995年6月7日)は、日本の国文学者、保守思想家。 兵庫県姫路市生まれ。東京帝国大学国文科卒。修齊女学院講師。大陸に出征。帰国後姫路高等学校(旧制)教授、戦後合併により神戸大学助教授、教授。1962年、「香川景樹の研究」で東大文学博士。1977年、定年退官。棠舟の号をもつ、反共思想家。1995年6月7日、肺癌のため死去。
本儀 静(もとぎ しずか、旧姓:高橋、1913年(大正2年)… 本儀 静(もとぎ しずか、旧姓:高橋、1913年(大正2年)7月16日 - 没年不明)は、日本のピアニスト。元徳島文理大学音楽学部教授。元甲南大学文学部講師。 東京音楽学校ピアノ科卒業。兵庫県神戸市出身。 兵庫県神戸市出身。1935年(昭和10年)に東京音楽学校ピアノ科(現:東京芸術大学音楽学部)を卒業し、ピアノを高折宮次、レオ・シロタ、森昭子に師事する。 1951年(昭和26年)から1974年(昭和49年)まで甲南大学文学部で講師を務め、徳島女子大学音楽学部で講師・教授となり、同大学が改称した徳島文理大学音楽学部で教授を務めた。 この項目は、クラシック音楽に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル クラシック音楽/ウィキプロジェクト クラシック音楽)。
堀江 史朗(ほりえ しろう、1913年6月24日 - 200… 堀江 史朗(ほりえ しろう、1913年6月24日 - 2009年5月14日)は、脚本家、ラジオドラマの製作者、映画プロデューサー。元・博報堂代表取締役副社長。ペンネームは龍野 敏。 兵庫県西宮市生まれ。1934年に大阪商科大学(現、大阪市立大学)を卒業と同時にNHKに入局。1937年よりラジオドラマの放送にたずさわる。戦後のラジオ全盛期には、制作、脚本両面で放送界の中心的役割を果たした。1950年に脚本部長。 東宝撮影所に移籍して文芸部長。1955年に契約者となり、1962年に博報堂に移籍、テレビ・ラジオ局長、1974年に代表取締役副社長となる。のち、シナリオ・センター最高顧問。 2009年5月14日、肺炎のため95歳で死去。