山根 一彦(やまね かずひこ、1982年10月19日 - )… 山根 一彦(やまね かずひこ、1982年10月19日 - )は、鳥取県出身の日本の医学者・医学博士。一般社団法人認知症協会(通称:認知症協会)の代表理事。認知症予防分野での著述活動も行う。 専門は神経変性疾患、生体防御、感染症代謝。製薬企業での共同研究開発や大学での研究論文執筆の経歴を持つ。認知症予防に関する一般向けの書籍を複数執筆し、講演やメディアを通じて活動を行っている。 徳島大学大学院医科学教育部(医学専攻)を修了し、2014年に医学博士号を取得した。博士課程ではインフルエンザ重症化に関する代謝研究に取り組み、新規のピルビン酸デヒドロゲナーゼキナーゼ4(PDK4)阻害薬の効果を検証する研究論文を発表。
岸本 寛史(きしもと のりふみ、1966年 - )は、日本の… 岸本 寛史(きしもと のりふみ、1966年 - )は、日本の内科医。 鳥取市生まれ。1991年京都大学医学部卒業。2004年富山大学保健管理センター助教授。2007年京都大学医学部附属病院准教授。2012年高槻赤十字病院緩和ケア診療科部長。 山中康裕にユング心理学を学び、緩和ケアを専門とする。
里見 清一(さとみ せいいち、1961年 - )は、日本の内… 里見 清一(さとみ せいいち、1961年 - )は、日本の内科医、評論家。 鳥取県生まれ。本名・國頭英夫。1980年、鳥取県立米子東高等学校卒業。1986年、東京大学医学部医学科卒業。大学病院内科および公立病院救命救急センターなどでの研修を経て、1991年から呼吸器内科とくに肺癌の診療に専門に従事。2001年、東京大学博士(医学)。三井記念病院呼吸器内科科長、国立がん研究センター中央病院内科、日本赤十字社医療センター化学療法科部長。専門は呼吸器内科学・臨床腫瘍学。 筆名は山崎豊子『白い巨塔』の登場人物から。テレビドラマ「白い巨塔」のアドバイザリーも務める。
板見 智(いたみ さとし、1952年8月3日 - )は、日本… 板見 智(いたみ さとし、1952年8月3日 - )は、日本の医学者、皮膚科医。元大阪大学教授、大分大学客員教授、日本臨床毛髪学会顧問。鳥取県米子市出身。毛髪研究の第一人者である。日本テレビ系教養バラエティ番組世界一受けたい授業に出演。 鳥取県立米子東高等学校校長、米子市教育長などを務めた板見甲子夫の二男。
小林 隆児(こばやし りゅうじ、1949年〈昭和24年〉- … 小林 隆児(こばやし りゅうじ、1949年〈昭和24年〉- )は、日本の発達心理学者、児童精神科医。 鳥取県米子市生まれ。鳥取県立米子東高等学校を経て、1975年に九州大学医学部を卒業。福岡大学医学部精神医学教室に入局、力動精神医学および児童精神医学を研修。助手、講師を経て、1985年に「自閉症児の精神発達と経過に関する臨床的研究」で福岡大学医学博士。1988年、大分大学教育学部助教授(養護学校教員養成課程)。1994年、東海大学健康科学部社会福祉学科教授となり、1999年に健康科学研究科教授。2002年、松前重義賞受賞。2008年、大正大学教授、2012年より西南学院大学教授。70歳で定年退職後は、感性教育臨床研究所代表として、定期的にオンライン形式での講座を開催。
徳永 進(とくなが すすむ、1948年 - )は、日本の医師… 徳永 進(とくなが すすむ、1948年 - )は、日本の医師、ノンフィクション作家。鳥取県生まれ。鳥取県立鳥取西高等学校、京都大学医学部卒業。鳥取赤十字病院の内科医。1982年、『死の中の笑み』で講談社ノンフィクション賞受賞。83年同作品はNHKドラマ人間模様で「愛と砂丘の町」として放送された。2001年、鳥取市内にホスピスケアのある「野の花診療所」を開設。
田中 雄三(たなか ゆうぞう、1942年(昭和17年)4月2… 田中 雄三(たなか ゆうぞう、1942年(昭和17年)4月2日 - )は、日本の医学者、精神科医。前鳴門教育大学学長。専門は臨床精神医学。鳥取県鳥取市出身。 1971年に鳥取大学医学部医学科卒業。1975年に鳥取大学医学部附属病院助手、1987年に同大学医学部講師に就任。 1991年に鳴門教育大学教授に就任。2010年に同大学の学長に就任。2016年に同大学の学長を退任。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
森田 隆朝(もりた たかとも、1925年(大正14年)9月2… 森田 隆朝(もりた たかとも、1925年(大正14年)9月28日 - 2007年(平成19年)5月13日)は、日本の医師、政治家。産婦人科森田医院院長。鳥取県医師会常任理事。鳥大医学部同窓会名誉会長。日本・ネパール人づくり協力会会長。日野郡人会会長。米子市長。旧姓新出(にいで)。位階は従五位。 大正14年(1925年)、鳥取県日南町の寺院の3男として生まれた。同年、一家で現在の境港市に移住。父は托鉢をして集めた浄財で託児所を作り、孤児や恵まれない子どもを養育した。昭和18年(1943年)鳥取県立米子中学校(現・鳥取県立米子東高等学校)卒業。昭和29年(1954年)米子医科大学(現・鳥取大学医学部)卒業、産婦人科教室に入局。
天満 和人(てんまん かずと、1911年〈明治44年〉11月… 天満 和人(てんまん かずと、1911年〈明治44年〉11月3日 - 没年不明)は、日本の実業家、医師。産婦人科、天満医院長。米子ゴルフ倶楽部社長。 鳥取県米子市出身。山内定次郎の二男。9歳の頃に天満徳次郎の養嗣子となる。米子中学校(現・米子東高校)在学中に養父が亡くなり、養母により育成される。 松山高等学校理科乙類を卒業。1937年、大阪帝国大学を卒業。大阪帝国大学講師として8年間在職し、1943年に徳島医学専門学校教授、産婦人科を担当し、医育の傍ら教育に専念する。 1945年に大戦に応召、軍医少尉に任官、鳥取陸軍病院に勤務する。その間養母の死、徳島大空襲羅災等重なる災厄のため帰郷する。1946年に現地において産婦人科医院を開業する。
伊藤 宝城(いとう ほうじょう、本名:伊藤 博、1909年6… 伊藤 宝城(いとう ほうじょう、本名:伊藤 博、1909年6月28日 - 1961年12月27日)は、日本の医師、詩人、版画家、彫刻家。 俳号は鉄庵。別名:ジョージ・ウーラン。戦後日本の抽象彫刻の先駆者の一人である。 弟に洋画家の伊藤彰、染色家の吉田たすくがいる。 1909年、鳥取県倉吉市広瀬町で病院を開業している伊藤琢郎・久代の子として八人兄弟の長男として大連で生まれる。1921年3月、明倫小学校卒業。1927年3月、県立倉吉中学校 (現在の鳥取県立倉吉東高等学校)卒業。1936年3月、私立岩手医学専門学校 (現・岩手医科大学)を卒業。同年4月、京都府立医科大学付属病院外科教室に入る。1940年2月に京都府立医大を退職し、中津川町立中津川病院(現・総合病院中津川市民病院)外科主任となる。
中谷 隼男(なかたに はやお、明治35年(1902年)1月 … 中谷 隼男(なかたに はやお、明治35年(1902年)1月 - 没年不明)は日本の医師。田園調布中央病院分院長。医学博士。日本外科学会。胸部外科学会評議員。 鳥取県八頭郡佐治村高山(現鳥取市佐治町)出身。農業・中谷龜治の二男。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
稲賀 幸(いなが こう、1894年(明治27年)12月13日… 稲賀 幸(いなが こう、1894年(明治27年)12月13日 - 1974年(昭和49年)10月)は日本の医師。元稲賀外科医院長。元鳥取県会議長稲賀龍二の孫。妹しげのは元郵政大臣手島栄の妻。鳥取県済生会境港総合病院院長稲賀潔の祖父。 鳥取県境港市上道町出身。 米子中学(現米子東高校)、京都の第三高等学校を経て大正10年(1921年)東大医学部卒業。東大外科教室勤務。 大正11年(1922年)順天堂医院レントゲン科兼務。 大正14年(1925年)米子病院外科部長。 昭和20年(1945年)米子医専教授。昭和23年(1948年)退官し上道に稲賀外科医院を開業。 西伯郡医師会長及び鳥取県医師会副会長、鳥取県西部医師会副会長、上道公民館長も歴職した。
西 恒次郎(にし こうじろう、1889年(明治22年)11月… 西 恒次郎(にし こうじろう、1889年(明治22年)11月 - 1971年(昭和46年)2月)は、日本の医師。倫理哲学者西晋一郎の弟。 鳥取県鳥取市出身。士族西昇蔵の二男。 第七高等学校造士館を経て、1915年(大正4年)に東京帝国大学医科大学医学科を卒業、副手となって母校で研修し、その傍ら駒込病院に3年間勤務した。 1918年(大正7年)5月、新潟県吉田病院長として赴任した。 1926年(大正15年)5月、京都府綾部町の郡是製糸の郡是病院長となり、1948年(昭和23年)まで勤務した。
中村 徳吉(なかむら とくきち、明治19年(1886年)- … 中村 徳吉(なかむら とくきち、明治19年(1886年)- 昭和49年(1974年))は、日本の医師(外科医)。旧姓西村。医学博士。臨床外科医学会の権威。 検事、弁護士西村卯の実弟。鳥取県士族西村佐司衛(質商・金銭貸付)の二男、中村安五郎の養子。 鳥取県米子市内町出身。 米子中学(現在の米子東高校)、一高を経て1912年東京帝国大学医科大学を卒業。病理学、外科を3年間母校で研修し聖路加病院に勤務したが、1918年シベリア出兵にあたり米国赤十字病院外科部長として従軍する。 1922年米国ミネソタ州のメイヨー・クリニックにおいて外科および細菌学を研究して帰国、再び聖路加病院に勤務し外科医長となる。墓所は多磨霊園の聖路加国際病院禮拝堂附属墓碑。
斎藤 干城(さいとう かんじょう、明治18年(1885年)1… 斎藤 干城(さいとう かんじょう、明治18年(1885年)12月13日 - 昭和23年(1948年)5月18日)は、日本の医師、陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍軍医中将。鳥取県米子市長。正四位勲一等瑞宝章。 鳥取県米子市尾高町に生まれた。開業医斎藤勇夫の長男。 米子中学(現在の米子東高校)を経て大正元年(1912年)九州帝国大学医学部卒業後、熊本歩兵第13連隊軍医に任官。昭和3年(1928年)、浜田陸軍病院長に就任。昭和5年(1930年)3月、一等軍医正(大佐相当官)に昇進し豊橋陸軍病院長となる。昭和6年(1931年)8月、名古屋陸軍病院長に異動。昭和7年(1932年)12月、第12師団軍医部長となり、第3師団軍医部長に転じた。
下田 光造(しもだ みつぞう、明治18年(1885年)3月1… 下田 光造(しもだ みつぞう、明治18年(1885年)3月14日 - 昭和53年(1978年)8月25日)は、日本の医学者、精神科医。鳥取大学・九州大学名誉教授。俳号鳥城。 1885年、鳥取県八頭郡佐貫村和奈見(現・鳥取市河原町和奈見)に生まれた。下田彌平の二男、同勘次の弟。 旧制鳥取中学校(現・鳥取県立鳥取西高等学校)、旧制第四高等学校を経て、明治44年(1911年)東京帝国大学医科大学を卒業し、母校の精神科教室に入局。大正8年(1919年)兄勘次方より分家する。 大正10年(1921年)慶應義塾大学医学部の創立に尽力して教授となり、同年医学博士の学位を得る。ドイツほか西欧に留学。大正14年(1925年)九州帝国大学医学部の精神病学教室の主任教授となり、昭和16年(1941年)同医学部長となる。
伊藤 隼三(いとう はやぞう、1864年6月12日(元治元年… 伊藤 隼三(いとう はやぞう、1864年6月12日(元治元年5月9日) - 1929年(昭和4年)5月14日)は鳥取県出身の医師。因幡病院(現:鳥取県立中央病院)初代院長。京都帝国大学名誉教授。 京都帝国大学医科大学外科学第二講座初代教授、京大付属病院長などを歴任した。特に外科医術を発展させ、数千の門下を育て、日本の医学に多大な貢献をする。さらに鳥取県の医療に多大な貢献をする。 伊藤隼三は、1864年に因幡国邑美郡御弓町(現:鳥取市御弓町)の鳥取藩士小林辰蔵の三男として生まれた。「鳥取藩史」第二巻に「御武器預并製造掛 小林辰三」と出てくるのが父である。1874年鳥取変則中学(鳥取県立鳥取西高等学校の前身)に遊学し頭脳明晰で、この頃から伊藤健蔵に認められ援助を受け、1878年中学4年生(15歳)で、東京大学予備門に入学するほどの秀才であった。
臼井 幾蔵(うすい いくぞう、安政4年(1857年) - 昭… 臼井 幾蔵(うすい いくぞう、安政4年(1857年) - 昭和10年(1935年)1月)は、日本の医師。旧姓田淵。 二男・宗の妻は元鳥取県知事石破二朗(政治家石破茂の父)の姉。 鳥取県八上郡本角村(現鳥取市河原町)の医師・田淵養玄の二男。 幼時より学問もよく出来、佐貫の円浄寺の住職に漢書を学び、長じて鳥取川端一丁目で外科を開業していた黒川樹平について医学を学んだ。 明治17年(1884年)医師開業試験に合格。はじめ小畑で開業していたが臼井宗順の家を継いでからは市場で開業した。幾蔵は性格は厳格であったが常に西洋医学を学び新しい医療器具や技術を取入れて診療していたという。 外科が得意で、開業して間もない頃壊疽の患者の大腿切断術を施して村人達を驚服させたと伝えられている。
井田 武雄(いだ たけお、嘉永4年10月8日(1851年11… 井田 武雄(いだ たけお、嘉永4年10月8日(1851年11月1日) - 昭和8年(1933年)5月22日)は、日本の医師、実業家、政治運動家。号は陸舟。鳥取県西伯郡中浜村(現在の境港市)出身。四谷病院、後楽堂医院長。東京府平民。 井田義枝の次男として生まれた。 慶応元年(1865年)長崎に出て長崎養生所(現・長崎大学医学部)に学び、蘭方医学を修めた。 明治7年(1874年)長崎養生所を出た。明治10年(1877年)の西南戦争に警視庁医員として従軍し功をたてる。明治11年(1878年)海軍軍医に転じ、軍艦「鳳翔号」軍医として朝鮮に派遣され、朝鮮人の診療に活躍した。 帰国後海軍を辞し、養神病院長となり、明教生命保険の設立計画をした。
原 澄斎(はら ちょうさい、嘉永3年(1850年)- 明治3… 原 澄斎(はら ちょうさい、嘉永3年(1850年)- 明治36年(1903年))は、日本の医師。旧姓大淵。 元長崎医専教授原正の養父。 伯耆日野郡印賀村(現鳥取県日南町)に大淵一馬の子として生まれた。母里藩の藩医であった原順庵の養子に入って医術を学んだ。 明治7年(1874年)、適塾に入った。養父順庵は廃藩後間もなく、鳥取県会見郡彦名村(現米子市彦名町)に移って医業をしたと伝えられ、澄斎も帰郷後彦名村で、その医業を継いだ。原家には明治十年陸軍軍医総監の押印のある医師免許状が残されているので、或は西南戦争に従軍していたのかもしれない。 明治19年(1886年)、会見郡医師組合の設立に努力しており、その地方で医術が優れているので評判であったという。
村上 麗碩(むらかみ れい(らい)せき、文政6年(1823年… 村上 麗碩(むらかみ れい(らい)せき、文政6年(1823年)- 明治12年(1879年))は日本の医師。名は仁。通称は弥太郎。医号を麗碩と称し、別に翹楚堂のち岳翁ともいった。 会見郡上道村(現在の鳥取県境港市上道町)に南清蔵の次男として生まれる。天保12年(1841年)中野村の景山粛の塾に入り学問と漢蘭の医術を学び、次いで大坂に出て弘化3年(1846年)7月小山玄庵に雑科を修行し、儒者篠崎小竹に師事して経史を学んだ。更に嘉永元年(1848年)から同4年5月まで備前の難波立愿に内科産科を学んで帰郷した。郷里上道村で分家し、先祖の姓“村上”を名乗った。新しい医術と人望もあって評判高く、幕末より明治にかけて、弓浜米子地方に医名を馳せた。
渡部 卓郎(わたなべ たくろう、生年不明 - 昭和11年(1… 渡部 卓郎(わたなべ たくろう、生年不明 - 昭和11年(1936年)4月)は、日本の医師。医学博士。元博愛病院院長。 島根県能義郡山佐村(現在の安来市)に生まれ、鳥取県米子の渡部家に入婿、米子中学校(現在の米子東高校)、第六高等学校を経て京都帝国大学医学部に進んだ。大正14年(1925年)9月博愛病院の院長に迎えられ昭和11年(1936年)4月悪性盲腸炎で急逝するまでの10年余、米子市民の医療に大きな貢献を果した。