平田 陽一郎(ひらた よういちろう、1908年11月1日 -… 平田 陽一郎(ひらた よういちろう、1908年11月1日 - 1988年10月10日)は、日本のジャーナリスト、実業家。 愛媛県八幡浜市生まれ。松山中学校 (旧制)に入学。松山高等学校 (旧制)在学時、のちの日本共産党議長宮本顕治や憲法学者大野盛直らと同人雑誌『白堊紀』を発行するなどの親交があった。 京都帝国大学卒業。大阪毎日新聞記者を経て、1942年愛媛合同新聞社(現愛媛新聞社)編集局長。1946年愛媛新聞社社長。1947年日本で初めて新聞週間行事を実施した。1953年南海放送開局、社長に就任。 1963年1月の第5回愛媛県知事選挙に「県政刷新県民の会」より出馬、自由民主党公認の現職知事久松定武に接戦の末惜敗した。
大西 弘(おおにし ひろむ、1908年(明治41年)6月18… 大西 弘(おおにし ひろむ、1908年(明治41年)6月18日 ‐ 1975年(昭和50年)1月17日) は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員、松山市議会議長。 愛媛県松山市山越で生まれた。除虫菊製造業を営み、大西土地建物を設立して社長に就任し、四国畜産 (株) 重役、松山市御幸農業会長なども務めた。 1947年(昭和22年)4月、松山市議会議員、愛媛県議会議員に選出され、松山市議会議長を務め、県議会では愛媛民主党に所属して活動した。1949年(昭和24年)1月の第24回衆議院議員総選挙に愛媛県第1区から民主自由党所属で出馬して当選し、その後、自由党に所属して衆議院議員に1期在任した。この間、自由党総務などを務めた。
田坂輝敬(たさか てるよし、1908年(明治41年)5月27… 田坂輝敬(たさか てるよし、1908年(明治41年)5月27日 - 1977年(昭和52年)1月18日)は新日本製鐵株式會社の第三代目の社長。
日野 開三郎(ひの かいざぶろう、1908年 <明治41年>… 日野 開三郎(ひの かいざぶろう、1908年 <明治41年> 5月11日 - 1989年 <平成元年> 9月29日)は、昭和期の東洋史学者。文学博士(学位論文『小高句麗国の研究』、1958年)。位階は正四位。 1909年、愛媛県伊予郡(現在の伊予市)で生まれた。愛媛県立松山中学校、官立松山高等学校を経て、1928年に東京帝国大学文学部東洋史学科に入学。池内宏・和田清・加藤繁らのもとで学んだ。1931年に卒業。 その後は府立第九中学教諭を経て、1935年に九州帝国大学法文学部で勤務。昭和10年代より社会経済史的方法を東洋史分野に導入して、中世中国の社会史・経済史の研究で知られるようになった。 1946年に九州帝国大学(1947年九州大学に改称)教授に昇格。
高橋 吉隆(たかはし よしたか、1908年4月11日 - 1… 高橋 吉隆(たかはし よしたか、1908年4月11日 - 1993年4月20日)は、日本の経営者。アサヒビール社長、会長を務めた。高橋龍太郎の長男。 愛媛県喜多郡内子町出身。1930年に東京帝国大学法学部法律学科を卒業し、同年に住友銀行に入行。京都支店長、取締役、常務、専務などを歴任し、1967年3月に副頭取に就任した。1971年2月に朝日麦酒社長に就任し、1976年2月から1980年3月までに会長を務めた。金蘭会学園理事長も務めた。 1978年11月に勲三等旭日中綬章を受章した。 1993年4月20日急性呼吸不全のために死去。85歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
久世 竜(くぜ りゅう、1908年〈明治41年〉1月19日 … 久世 竜(くぜ りゅう、1908年〈明治41年〉1月19日 - 1985年1月5日)は、日本の殺陣師・俳優。俳優活動時の旧芸名は岬 弦太郎(みさきげんたろう)。 1908年(明治41年)1月、愛媛県東宇和郡野村町高瀬に生まれる。 叔父の経営する神戸の久保田商会で襦子()の裁縫箱を輸出する業務を見習っていたが、1922年(大正11年)ぐらいの頃に「いやなことがあって」辞め、京都へ出る。これが14歳だか15歳だか、久世本人の記憶にも定かでないという。 尾上松之助の忍術映画や外国の連続ものの活動写真を休みのたびに観ていて、「役者になろう」と決心。まず長谷川伸を訪ね、牧野省三に紹介を受ける。が、牧野は「やめとけ、役者になる顔じゃない」とぴしゃりと言い、「仕事の世話をしてやるから、当分俺のところで飯食って遊んどけ」と久世を居候させてくれた。
土居 真俊(どい まさとし、1907年10月24日 - 19… 土居 真俊(どい まさとし、1907年10月24日 - 1988年12月7日)は、日本の神学者、宗教学者。同志社大学名誉教授。 愛媛県西宇和郡双岩村(現・八幡浜市)生まれ。同志社大学文学部神学科卒、シカゴ神学校(英語版)、ハートフォード神学校(英語版)でPh.D.。1956年同志社大神学部教授。1973年紫綬褒章受章。1978年定年退任、名誉教授。1979年勲三等瑞宝章受章。
白川 渥(しらかわ あつし、1907年(明治40年)7月27… 白川 渥(しらかわ あつし、1907年(明治40年)7月27日 - 1986年(昭和61年)2月9日)は、小説家。明石短期大学名誉教授。 愛媛県新居浜市出身。本名は正美。東京高等師範学校卒。横光利一に師事、『日暦』『文芸首都』などに参加。1940年「崖」が芥川賞候補。戦後は中間小説を書き、54年「野猿の言葉」が直木賞候補。兵庫師範学校教師、神戸市教育委員長、明石短期大学教授。神戸在住。しばしば映画化された。
周 襄吉(しゅう じょうきち 1907年5月12日 - 19… 周 襄吉(しゅう じょうきち 1907年5月12日 - 1978年4月25日)日本の西洋画家、モダンアート作家。映画美術作家。教育者。 1907年、愛媛県今治市に生まれる。1924年に上京、川端画学校で学んだ後、1925年に東京美術学校西洋画科に入学。1927年、在学中に第14回二科展で『草花の園』が初入選した。1931年に松竹映画に入社し美術を担当、1938年に退社。1951年にはモダン・アート協会創立に参加し、毎年、モダンアート展に出品するとともに協会の発展に尽力した。1958年から1973年まで文化学院美術科講師を勤めた。 1978年4月25日、肺がんのため神奈川県川崎市の関東労災病院にて死去。
藤田 真照(ふじた しんしょう、1907年(明治40年)4月… 藤田 真照(ふじた しんしょう、1907年(明治40年)4月1日 - 1966年(昭和41年)1月6日)は、日本の宗教家。天光教教祖。愛媛県四国中央市出身。本名は照見。 愛媛県宇摩郡土居町(現:四国中央市)で農家の三男として生まれた。1928年(昭和3年)京都帝国大学法学部を卒業後、外交官試験に合格して外務省に入り、上海領事館、漢口領事館に勤務した後、1935年(昭和10年)に退官、その後は満洲にて事業を営んだ。 19歳のときに大祖神からの神示を受けたとし、1938年(昭和13年)に「道照明神」の神号を名乗った。1948年(昭和23年)に東京都大田区大森で信修会教団を設立。1958年(昭和33年)に天光教と改称し、本部が大阪市天王寺区堂ヶ芝へ移る。
河上 君榮(かわかみ きみえ、1907年1月30日 - 没年… 河上 君榮(かわかみ きみえ、1907年1月30日 - 没年不詳)は、日本の女優である。新漢字表記河上 君栄。本名川上 高江(かわかみ たかえ)、旧芸名光村 貴美子(みつむら きみこ、光村 きみ子とも)、河上 君江、河上 君枝と表記されることもある。 1907年(明治40年)1月30日、愛媛県松山市に生まれる。 同市内にある旧制・松山市裁縫女学校を卒業するとともに京都に移り、満17歳となった1924年(大正13年)7月、日活大将軍撮影所に置かれた関根達発の研究所の研究生として入社する。「光村 貴美子」の名で脇役出演を始め、満18歳になった1925年(大正14年)11月12日に公開された『愛国の血刃』(監督高橋寿康)に出演して、認められるようになり、1926年(大正15年)4月1日に公開された『実録忠臣蔵 天の巻 地の巻 人の巻』(監督池田富保)では大野群右衛門の妻に抜擢されたが、端役が続き、同年9月には同社を退社、同年10月1日、関根達発の紹介により牧野省三のマキノ・プロダクションに移籍、「河上 君榮」と改名し、関根主演の『勝てば官軍』(監督富沢進郎)で相手役に抜擢されて再デビューを果たした。
猪野 俊平(いの しゅんぺい、1907年(明治40年) - … 猪野 俊平(いの しゅんぺい、1907年(明治40年) - 1981年(昭和56年)7月4日)は、日本の植物形態学者。愛媛県生まれ。松山中学校(現・愛媛県立松山東高等学校)、松山高等学校卒、東京帝国大学理学部生物学科卒。1946年「ネジモクの胚発生について」で東北帝国大学理学博士。北海道帝国大学理学部講師、岡山大学助教授、教授。1970年定年退官、名誉教授。
久保 喬(くぼ たかし、本名:久保 隆一郎、1906年11月… 久保 喬(くぼ たかし、本名:久保 隆一郎、1906年11月13日 - 1998年10月23日)は、日本の児童文学作家。 愛媛県宇和島市出身。愛媛県立松山商業学校卒業後、窪田空穂が主宰する短歌雑誌『国民文学』の同人となる。上京して東洋大学専門部東洋文科に進学。太宰治、檀一雄と出会い、同人誌「青い花」に参加。中退後、川端康成の紹介で創元社編集部の手伝いを経て、1939年に児童図書出版社の教養社へ入社したのを機に児童文学創作を志す。1942年に評論「童話の本質」を発表。1946年に日本児童文学者協会設立と同時に会員となる。 『ビルの山ねこ』で小学館文学賞、『赤い舟の帆』で日本児童文学者協会賞をそれぞれ受賞。
横山 東六(よこやま とうろく、本名:横山 登二、1906年… 横山 東六(よこやま とうろく、本名:横山 登二、1906年11月11日 - 1980年11月6日)は、昭和期に活躍した漫才師、横山ホットブラザーズ創始者。 映画の楽士出身で、一家を従え楽器を用いた破天荒な漫才を行なった。賑やかで朗らかな芸風は息子達によって受け継がれている。 横山は本名由来で、横山エンタツ一門とは無関係。 愛媛県新居浜市の生まれ、19歳で来阪し桜ノ宮音楽学院で学んで映画の楽士になる 。1928年より関西交響楽団(現在の大阪フィルハーモニー交響楽団の前身とは別の団体。こちらは戦後の設立)に入団。傍ら楽士をしていたが映画のトーキー化で仕事が激減する。 1933年より陽気屋東六の名で音曲漫才に転向し、落語家出身の笑福亭福之助(後の鹿島洋々)とコンビを組み、新世界アシベ劇場で漫才初舞台。
森 茂雄(もり しげお 、1906年3月18日 - 1977… 森 茂雄(もり しげお 、1906年3月18日 - 1977年6月24日)は、愛媛県松山市出身のプロ野球選手・監督・実業家。
射水川 成吉(いみずがわしげきち、1906年2月10日 - … 射水川 成吉(いみずがわしげきち、1906年2月10日 - 1945年3月10日)は、愛媛県温泉郡(現:愛媛県松山市)出身で高砂部屋に所属した大相撲力士。本名は八木 成吉(やぎ しげきち)。 1906年2月10日に愛媛県温泉郡(現:愛媛県松山市)で生まれる。地元の土地相撲で大関を務め、その経歴を買われて高砂部屋へ入門し、1924年5月場所において幕下付け出しで初土俵を踏んだが、その場所を負け越してしまい、翌場所は一気に序二段まで降格された。1932年1月に勃発した春秋園事件の影響で十両を飛び越えて新入幕を果たすが、1938年5月場所において二度目となる十両降格を味わい、1939年1月場所を最後に現役を引退、年寄・大山を襲名した後、岩友・西岩の順に変更した。
茂木 史朗(しげき しろう、1905年〈明治38年〉11月1… 茂木 史朗(しげき しろう、1905年〈明治38年〉11月1日 - 1945年〈昭和20年〉4月7日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大佐。戦艦「大和」 航海長。愛媛県出身。海軍兵学校53期。重巡「鳥海」や戦艦「榛名」などで航海長を歴任し、巧みな操艦技術で知られた。沖縄水上特攻作戦直前に戦艦「大和」の航海長に着任。最期は艦橋で主羅針儀に身を括り、艦と運命を共にした。 1905年(明治38年)、松山市河原町に父・木和村利平、母・ツネヨの四男として生まれた。版画家の木和村正次郎(創爾郎)は次兄である。幼くして両親と死別し、1914年(大正3年)3月24日にツネヨの実弟である茂木氏男・トヨ夫妻の養子となる。
小山 久二郎(おやま ひさじろう、1905年9月7日 - 1… 小山 久二郎(おやま ひさじろう、1905年9月7日 - 1984年1月12日)は、日本の出版人、実業家。出版社・小山書店の設立者で、安倍能成の甥。チャタレー事件の被告となったことでも知られる。 愛媛県松山市生まれ、温泉郡南吉井村(現東温市)出身。法政大学中退。岩波書店を経て、1933年に小山書店を設立する。1941年に下村湖人『次郎物語』がベストセラーとなる。 戦後、三木清『読書と人生』、出隆『哲学以前』などを出版し、1950年に発行した伊藤整訳『チャタレイ夫人の恋人』がわいせつ文書として告発される(チャタレー事件)。1957年、最高裁判決で有罪とされ罰金刑を受ける。のち、赤ちゃんとママ社を設立する。
藤本 定義(ふじもと さだよし、1904年12月20日 - … 藤本 定義(ふじもと さだよし、1904年12月20日 - 1981年2月18日)は、愛媛県松山市生まれのプロ野球監督。東京巨人軍初代監督。
曽根 定丸(そね さだまる、1904年12月4日 - 没年不… 曽根 定丸(そね さだまる、1904年12月4日 - 没年不詳)は愛媛県出身の民間飛行家。1925年、愛媛県下初の認可飛行場を開設し、後に南米ペルーへ移民として渡った。 1904年(明治37年)12月4日、愛媛県喜多郡宇和川村で生まれる。1922年(大正11年)には東京蒲田駅前にある日本自動車学校航空科へ入学し、機体及び発動機に関して学ぶと同年卒業。続いて同年12月に千葉市寒川海岸で飛行練習場を開いていた白戸栄之助の門下となり、練習部及び研究科で研鑚を積む。1923年(大正12年)9月、関東大震災の影響で同所が閉鎖となると、定丸は白戸により同県津田沼の伊藤音次郎に委託された。同年11月に三等飛行機操縦士の試験を受け、12月付けで航空局より免状を得る。
関谷 勝利(せきや かつとし、1904年〈明治37年〉10月… 関谷 勝利(せきや かつとし、1904年〈明治37年〉10月20日 - 1987年〈昭和62年〉7月6日)は、日本の実業家、政治家。自由民主党・衆議院議員(11期)。元参議院議員関谷勝嗣の父。 1922年(大正11年)松山中学校卒業。海運業、土木建築請負業に従事。 伊予運送、松山商興、伊予造船各取締役。柳瀬座興行、松山港湾荷役作業、松山港運、勝山土建各社長。愛媛機帆船海運組合理事長。三津浜町会議員、愛媛県会議員、日本進歩党幹事を歴任。 1946年(昭和21年)初当選以来11期30年間衆議院議員を務め1976年(昭和51年)引退。党交通部会長、衆院内閣委員長などを歴任。運輸族として活躍、「陰の運輸大臣」といわれた。
森川鹿次(もりかわ しかじ、1904年10月7日 - 198… 森川鹿次(もりかわ しかじ、1904年10月7日 - 1981年2月20日)は、日本のヤクザ。森川組初代。四代目山口組舎弟・矢嶋長次は、娘婿。愛媛県川之江町(現:四国中央市)出身。 明治37年(1904年)10月7日、愛媛県川之江町(現:川之江市)で生まれた。生家は士族の旧家だったが、すでに没落していた。幼少期には、メンコに熱中した。 その後、森川鹿次は、松山市に出て、呉服屋に丁稚奉公した。 大正14年(1925年)、森川鹿次は、妹・悦子と妹婿の檜垣信太郎とともに、満州大連に移り住んだ。森川鹿次と檜垣信太郎は、クリーニング屋を隠れ蓑にして、大連で拳銃を買い集め、大阪に密輸した。森川鹿次は、税関吏・宮内を買収していた。
菅 太郎(かん たろう、1904年(明治37年)5月30日 … 菅 太郎(かん たろう、1904年(明治37年)5月30日 - 1980年(昭和55年)1月11日)は、日本の内務官僚、政治家。衆議院議員(5期)。 愛媛県松山市出身、東京帝国大学法学部卒業。戦前は内務省の革新官僚の一人で、内務事務官や企画院調査官を務めた他、1936年12月より一時期は満洲国総務庁に配属されている。また1941年に発足した大日本翼賛壮年団の訓練部長や理事に就任した(1943年まで)。 戦後、公職追放となり、1952年に追放解除。同年の第25回衆議院議員総選挙で改進党から愛媛県第1区より初当選。1953年の第26回衆議院議員総選挙では落選した。その後も当選と落選を繰り返し、1955年の第27回衆議院議員総選挙で日本民主党から2度目の当選を果たし、同年の保守合同(自由民主党結党)に参加。
愛ノ花 初義(あいのはな はつよし、1904年1月13日 -… 愛ノ花 初義(あいのはな はつよし、1904年1月13日 - 1944年11月11日)は、愛媛県宇和島市出身で押尾川部屋に所属した元大相撲力士。本名は宮川 初義。最高位は十両2枚目。 大阪相撲の押尾川部屋に入門。東西合併により、1927年5月三段目に付出され、その場所で三段目優勝を果たす。1931年5月十両に昇進したが、2場所続けて負け越し、1932年1月場所の番付では幕下に落ちた。ところが、番付発表直後に起きた春秋園事件により、大量の幕内十両の脱退者が出たため、一転して十両残留となった。以後6場所連続十両の地位にあった。1934年1月に幕下に落ち、翌5月三段目まで陥落したところで廃業した。1944年死去。
中平 解(なかひら さとる、1904年〈明治37年〉1月12… 中平 解(なかひら さとる、1904年〈明治37年〉1月12日 - 2001年〈平成13年〉11月12日)は、日本のフランス語学研究者。日本民俗語学者。 1904年(明治37年)1月12日、愛媛県南宇和郡一本松村広見(現・愛南町)に生まれる。父・中平幾男、母・栄。「わたしの家は三万石の〔伊予〕吉田藩〔宇和島藩の支藩〕の小船頭の役をしていて、祖父は殿様が参勤交代のときに大阪まで行ったようである」。「祖父は四万十川が氾濫したとき、政府(県かもしれない)が呉れた米を、御上のくれた物は食べないと言って頑張った、という話を聞いたこともあるが、わたしのアマノジャクも、この祖父の性質を受けているのかもしれない」。
冲永 荘兵衛(おきなが しょうべい、1903年12月8日 -… 冲永 荘兵衛(おきなが しょうべい、1903年12月8日 - 1981年2月21日)は、日本の政治家、教育者。
中野 好夫(なかの よしお、1903年〈明治36年〉8月2日… 中野 好夫(なかの よしお、1903年〈明治36年〉8月2日 - 1985年〈昭和60年〉2月20日)は、日本の英文学者・評論家。英米文学翻訳者の泰斗であり、訳文の闊達さでも知られている。東京大学教授・中央大学教授を歴任。 愛媛県松山市生まれ。旧制徳島中学校(現在の徳島県立城南高等学校)在学中、スパルタ教育に反発して退学。のち旧制第三高等学校へ入学。旧制第三高等学校では野球部に入っており、野球部の1年先輩には戦前最後の沖縄県知事を務めた島田叡がいた。 第三高等学校卒業後に入学した東京帝国大学文学部英文学科で斎藤勇に師事。同じ斎藤勇の弟子に平井正穂がいる。 1926年に卒業後、新聞社入社に失敗して千葉県の私立成田中学校に英語教師として赴任。
井原 岸高(いはら きしたか、1903年〈明治36年〉4月2… 井原 岸高(いはら きしたか、1903年〈明治36年〉4月23日 - 1992年〈平成4年〉9月25日)は、日本の政治家。衆議院議員(8期)。 愛媛県、のちの伊予三島市(現四国中央市)で生まれた。1916年(大正5年)三島尋常高等小学校(現四国中央市立三島小学校)卒業後、土建業を営み、丸和商事、井原建設工業(株)を創立、社長、会長となる。 政界では、三島町会議員となり、1947年(昭和22年)に愛媛県議会議員に当選して2期在任し、県政クラブ会長、同副議長、同議長を歴任 1958年(昭和33年)2月9日に行われた第27回衆議院議員総選挙愛媛2区補欠選挙で自由民主党から出馬して初当選し、以後補欠選挙での当選2回を含めて通算8期務める。
芝 不器男(しば ふきお、1903年(明治36年)4月18日… 芝 不器男(しば ふきお、1903年(明治36年)4月18日 - 1930年(昭和5年)2月24日)は、日本の俳人。「天の川」の代表作家として活躍、「ホトトギス」でも四S以降の新人として注目されたが、句歴四年、26歳で夭折した。愛媛県出身。 愛媛県北宇和郡明治村(現・松野町)で生まれる。父・来三郎、母・キチの四男。父は教員や村長を歴任し俳句も作った。「不器男」の命名は『論語』の「子曰、君子不器」(子曰く、君子は器ならず)による。1920年(大正9年)、宇和島中学校(一級上に富澤赤黄男がいた)を卒業し、松山高等学校に入学。 高校では山岳部に所属、日本アルプスを踏破した。 1923年(大正12年)、東京帝国大学農学部林学科に入学。
友近 晋(ともちか すすむ、1903年4月11日 - 196… 友近 晋(ともちか すすむ、1903年4月11日 - 1964年12月9日)は、日本の機械工学・物理学者。理学博士(東京帝国大学)。京都大学元理学部部長および大阪帝国大学理学部元教授。日本物理学会第14代会長。日本学術会議会員(1期)。国際理論応用力学連合日本代表。流体力学・航空物理学の第一人者の一人。 専門は、流体力学・流体機械、航空物理学。 愛媛県松山市生まれ。1926年東京帝国大学理学部物理学科卒業(指導教授は、理論物理学者の第一人者の一人で東京帝国大学航空研究所所長を務めた寺沢寛一)。同大学助手を経て、1929年同大学理学部助教授。1932年理学博士(東京帝国大学)。同大学航空研究所所員も務める。
赤岩 栄(あかいわ さかえ、1903年4月6日 - 1966… 赤岩 栄(あかいわ さかえ、1903年4月6日 - 1966年11月28日)は、日本基督教団の牧師。牧師をしながら共産党入党宣言をしたことが教団内の大きな問題になった。椎名麟三に洗礼を授けた牧師としても知られる。 愛媛県喜多郡肱川村の牧師の家に生まれた。広陵中学中退後、神戸神学校に入学する。その後、大阪神学院に転校したが、キリスト教に懐疑を抱き中退する。 さらに、東京神学社で学び校長高倉徳太郎の神学に傾倒し、回心を経験する。卒業後、日本基督教会佐渡伝道所に赴任する。 高倉の要請で『福音と現代』の編集のために上京する。1931年(昭和6年)中原伝道所を開き、翌1932年に上原教会(現:日本基督教団代々木上原教会)を設立する。
佐伯 勇(さえき いさむ、1903年〈明治36年〉3月25日… 佐伯 勇(さえき いさむ、1903年〈明治36年〉3月25日 - 1989年〈平成元年〉10月5日)は、日本の実業家。近畿日本鉄道(近鉄)の元社長、会長、名誉会長で、近鉄グループの総帥。プロ野球・近鉄バファローズのオーナーでもあった。アメリカの大陸横断鉄道の2階建てドームカーを参考にした、世界で初めての2階建電車による特急車のビスタカーの生みの親でもある。位階は正三位。 愛媛県周桑郡丹原町(現・西条市)で、佐伯源三郎の三男として生まれる。丹原小学校、松山中学(現・愛媛県立松山東高等学校)と進むが、父親の方針で京都一中(現・京都府立洛北高等学校・附属中学校)へ転校、さらに第三高等学校(旧制・三高)を経て東京帝国大学法学部を卒業した。
羽藤 栄市(羽藤 榮市、はとう えいいち、1903年3月25… 羽藤 栄市(羽藤 榮市、はとう えいいち、1903年3月25日 - 1985年11月22日)は、日本の政治家。愛媛県副知事・衆議院議員(1期)・愛媛県今治市長(5期)などを歴任した。 愛媛県越智郡桜井村(現:今治市)生まれ。 逓信官吏練習所を卒業後、高等文官試験に合格し逓信省東京逓信局に勤務。青島電信局長などを務めた。1942年には南方総軍司政官に就く。1949年には初代の四国電気通信局長に就任した。 保守分裂となった1951年愛媛県知事選挙で、日本社会党・民主党推薦の久松定武が愛媛県知事に当選すると、久松は社会党が推す羽藤を副知事に抜擢した。副知事となった羽藤は郵政研修所の誘致を実現し、松山郵政局の高松市移転の動きを抑え込んだ。
出口 宇知麿(でぐち うちまる、1903年(明治36年)1月… 出口 宇知麿(でぐち うちまる、1903年(明治36年)1月15日 - 1973年(昭和48年)5月6日)は、日本の宗教家。大本教主補佐。教祖の出口王仁三郎の第三女・八重野の夫。本名は伊佐男で、「宇知麿」は王仁三郎に命名された宗教名。 愛媛県喜多郡大洲村(現・大洲市)の佐賀家に生まれる。1918年(大正7年)8月23日、綾部の皇道大本へ初参拝。10月に愛媛県立八幡浜商業学校(現愛媛県立八幡浜高等学校)本科1年を中退して、綾部へ移住し、大本で奉仕生活に入る。 1922年(大正11年)、王仁三郎の近侍となる。 1924年(大正13年)2月、八重野と結婚して出口家に婿入りする。同年4月、大本教主補佐に任命される。
増原 惠吉(ますはら けいきち、1903年〈明治36年〉1月… 増原 惠吉(ますはら けいきち、1903年〈明治36年〉1月13日 - 1985年〈昭和60年〉10月11日)は、日本の内務及び防衛官僚、政治家。香川県知事(官選第37代、公選初代)、参議院議員(4期、自由民主党)、行政管理庁長官(第25-26代)、北海道開発庁長官(第23-24代)、防衛庁長官(第26・29-30代)。 愛媛県北宇和郡宇和島町(現宇和島市)で増原定蔵の次男として生まれる。 宇和島中学校、第一高等学校を経て1928年(昭和3年)東京帝国大学法学部政治学科を卒業。高等試験に合格して内務省に入省。京都属。 和歌山県保安課長、特高課長、北海道庁警視保安課長、兵庫県警務課長、山形県警務部長など警察畑を歩いたのち1946年(昭和21年)6月、香川県知事に就任した。
重松 鶴之助(しげまつ つるのすけ、1903年 - 1938… 重松 鶴之助(しげまつ つるのすけ、1903年 - 1938年11月30日)は、日本の画家で、左翼運動家。愛媛県松山市生まれ。 旧制松山中学校に入学。松山時代、雑誌『白樺』の影響を受けて芸術家志望の若者らと文芸や絵画の回覧雑誌『楽天』を発行。伊丹万作、伊藤大輔、中村草田男らと同志であった。また、後に映画監督となる山本薩夫の実兄でのちの建築家・山本勝巳もメンバーで、大学中退後の山本を伊藤に推薦し松竹に入れたのは重松であった。 松山中を中退して上京。岸田劉生に心酔、影響を受け、春陽会、国画会に入選。1926年、東京府美術館での同館開館記念「第1回聖徳太子奉賛美術展」に、代表作となる「閑々亭肖像」を招待出品するなど活躍した。
畦地 梅太郎(あぜち うめたろう、1902年12月28日 -… 畦地 梅太郎(あぜち うめたろう、1902年12月28日 - 1999年4月12日)は、日本の版画家。平塚運一らに師事した。山岳風景を題材とした木版画作品を多数発表し、「山の版画家」として知られる。画文集の出版や装丁、挿画などの分野でも活躍した。愛媛県北宇和郡二名村(現・宇和島市三間町)出身。 1937年夏に軽井沢へ出かけ浅間山に魅せられ、山を制作の主題に定めて山の風景を描いた作品を多数発表した。戦争中の満州への単身赴任などを経て、第二次世界大戦後は「山男」シリーズを発表していく。右手親指のけが、大やけどの後は家族をテーマにした作品を多く制作した。 1902年12月28日、愛媛県北宇和郡二名村(現・宇和島市三間町)に生まれた。
玉井 浅一(たまい あさいち、1902年12月25日 - 1… 玉井 浅一(たまい あさいち、1902年12月25日 - 1964年12月10日)は、日本の海軍軍人。海兵52期。最終階級は海軍大佐。 1902年12月25日愛媛県で玉井熊太郎の息子として生まれる。松山中学卒業後、1921年海軍兵学校52期に入学、1924年(大正13年)7月24日、海軍兵学校卒業、少尉候補生。1925年(大正14年)12月、海軍少尉任官。1927年12月中尉。1929年(昭和4年)11月飛行学生第19期生卒業、大村航空隊付。 1930年11月空母「赤城」乗組。1930年12月海軍大尉。1931年10月空母「加賀」乗組。1932年11月横須賀航空隊付。1934年2月空母赤城分隊長。
山岡 榮(やまおか さかえ、1902年(明治35年)10月2… 山岡 榮(やまおか さかえ、1902年(明治35年)10月23日 - 1930年(昭和5年)5月9日)は、日本の教員。 日本統治時代の台湾台中州東勢街二庄組合立農林国民学校(現・台中市立新社高等学校)の教員を務め、9人の台湾人(うち7人は小学生)を救うために殉職した。現在、台中市新社区食水嵙渓に記念碑が建立されている。また、出身地である愛媛県伊予市にも記念碑がある。 山岡は愛媛県伊予郡出淵村(現・伊予市中山町出渕)に生まれた。伊予実業学校(現・愛媛県立伊予農業高等学校)を卒業し、地元の中山町技術員や中山町青年団長、伊予郡連合青年団長などを歴任した。 1930年4月、山岡は東勢農林学校の教師として台湾に赴任した。
飯塚 盈延(いいづか みつのぶ、1902年10月4日 - 1… 飯塚 盈延(いいづか みつのぶ、1902年10月4日 - 1965年9月4日)は、日本共産党党員で特別高等警察のスパイ。「スパイM」とも呼ばれる。変名は松村昇、峰原暁助、天野煕、高瀬正敬。愛媛県出身。 1902年に愛媛県周桑郡小松町(現西条市)に生まれ、1909年尋常小学校に入学。成績が良く天才と呼ばれた。米騒動などをきっかけに日本共産党最初の労働者党員になり、渡辺政之輔が率いていた東京合同組合に身を投じることで労働運動にかかわっていった。その後、若手の労働運動活動家として日本共産党(第二次)の派遣により、モスクワの東方勤労者共産大学(クートヴェ)に留学した(留学中の変名は「フョードロフ」)。しかし留学中共産党に幻滅し、帰国後に検挙され転向したうえで警察のスパイになったとされる。
穂積文雄(ほづみ ふみお、1902年9月2日 - 1979年… 穂積文雄(ほづみ ふみお、1902年9月2日 - 1979年11月26日)は、日本の経済史学者。京都大学名誉教授。 愛媛県生まれ。愛媛県立宇和島中学校(現・愛媛県立宇和島東高等学校)、長崎高等商業学校(現・長崎大学)卒、1926年京都帝国大学経済学部卒。1927年東亜同文書院教授、1932-1934年ドイツに学ぶ。1939年京都帝大講師、1939年助教授、1945年3月教授、1952-1954年京都大学経済学部長。1957年「英国産業革命史の一断面 ラダイツの研究」で経済学博士。1966年定年退官、名誉教授、名古屋学院大学教授。1977年大阪工業大学教授。
富澤 赤黄男(とみざわ かきお、1902年(明治35年)7月… 富澤 赤黄男(とみざわ かきお、1902年(明治35年)7月14日 - 1962年(昭和37年)3月7日)は愛媛県出身の俳人。本名富澤正三(とみざわ しょうぞう)。新興俳句の担い手として、現代詩の一分野としてのモダニズム俳句を追求した。代表句に「蝶墜ちて大音響の結氷期」がある。 1902年、愛媛県西宇和郡川之石村(現八幡浜市保内町琴平)に開業医の長男として生まれる。 1920年宇和島中学校卒、1926年早稲田大学政経学部を卒業。在学中、松根東洋城の門人に勧められ松根の主宰誌「渋柿」に投句するも、熱心に打ち込むことはなかった。同4月、国際通運(現在の日本通運)東京本社に入社、1928年国際通運大阪支社に転勤。
田中 英吉(たなか えいきち、1902年6月6日 - 198… 田中 英吉(たなか えいきち、1902年6月6日 - 1983年5月20日)は、カトリック教会の司教。洗礼名は「フランシスコ・ザビエル」。カトリック高松司教区の初代司教を務めた。愛媛県戸島出身で、カトリック京都司教区の田中健一名誉司教の叔父にあたる。 1902年6月6日に愛媛県の戸島村(現在の宇和島市)に生まれる。1935年12月21日に司祭に叙階された。その後は高松教区の教区司祭として働き、1955年には新設されたばかりの桜町教会(香川県高松市)の初代主任司祭となった。聖堂の建設に尽力し、1957年(昭和32年)3月17日に聖堂の献堂式が行われた。その後1963年9月に桜町教会は司教座聖堂に指定され、同年10月20日に田中は教皇パウロ6世から司教に叙階された。
上甲 米太郎(じょうこう よねたろう、1902年(明治35年… 上甲 米太郎(じょうこう よねたろう、1902年(明治35年)4月16日 - 1987年(昭和62年)3月21日)は、大正・昭和期の朝鮮における公立普通学校教員、社会活動家。 慶尚南道泗川郡昆明公立普通学校に勤務して朝鮮人の生活の苦しさをみるうち日本による朝鮮の植民地支配に疑問をもち朝鮮の独立を支持する考えになっていった。朝鮮人の苦しさを解消するための方法を考え、教え子と教育労働者組合の勉強会を自発的に行うなどしていたところ、1930年12月5日、教育労働者組合の結成を画策したとして治安維持法違反で逮捕された。 愛媛県西宇和郡千丈大村川之内(現在の愛媛県八幡浜市川之内)で、父・景吉(けいきち)、母・淑(きよ)の長男として誕生した。
渡部 喜十郎(わたなべ きじゅうろう、1902年(明治35年… 渡部 喜十郎(わたなべ きじゅうろう、1902年(明治35年)3月20日 – 2004年(平成16年)10月11日)は、日本の弁護士、第22代日本弁護士連合会会長。 1902年、愛媛県温泉郡難波村(現・松山市)にて出生。 1920年、北予中学卒業後、上京し働きながら明治大学にて学ぶ。 1929年、高等試験司法科に合格。弁護士となる。 1966年、東京弁護士連合会会長に就任。 1968年、東京都弁護士協同組合の設立を提唱し、初代理事長に就任。 1971年、日本弁護士連合会会長に就任。 1984年、全国弁護士協同組合連合会の初代理事長に就任。 2004年、死去。102歳。
深川 正一郎(ふかがわ しょういちろう、1902年3月6日 … 深川 正一郎(ふかがわ しょういちろう、1902年3月6日 - 1987年8月12日)は、愛媛県出身の俳人。 宇摩郡上山村(現・四国中央市)に生まれる。11歳で両親と死別し祖父母に育てられる。川之江二洲学舎(戦後は愛媛県立川之江高等学校定時制に引き継がれる)を卒業。在学中より俳句・短歌をたしなむ。 1924年、文藝春秋に入社。1930年、日本コロムビア編集長に就任。翌年、俳句朗読の録音で高浜虚子と知り合い師事する。のち「ホトトギス」同人。1949年「冬扇」を創刊・主宰。1973年、妻の健康のため「冬扇」を終刊。 1987年、「ホトトギス」同人会長となり、また日本伝統俳句協会設立に伴い初代副会長に就任。
馬越 晃(うまごし / うまこし あきら、1902年(明治3… 馬越 晃(うまごし / うまこし あきら、1902年(明治35年)3月6日 - 1971年(昭和46年)7月19日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員(2期)。旧姓は山口。 愛媛県北宇和郡岩松村(岩松町、津島町を経て現宇和島市)の山口家に生まれ、越智郡今治町今治(現今治市)の馬越大吉の養子となる。1924年(大正13年)愛媛県立弓削商船学校(現弓削商船高等専門学校)を卒業し、1930年(昭和5年)甲種船長に合格した。 その後、家業の魚問屋を継承して会社組織に変更。1932年(昭和7年)今治市会議員に当選。1933年(昭和8年)11月の補欠選挙で愛媛県会議員に選出され、1946年(昭和21年)まで3期在任し、同参事会員、同副議長を務めた。
村瀬 宣親(むらせ のぶちか、1902年(明治35年)1月2… 村瀬 宣親(むらせ のぶちか、1902年(明治35年)1月25日 - 1966年(昭和41年)12月13日)は、昭和期の政治家。衆議院議員、愛媛県越智郡乃万村長。位階は従四位。勲二等瑞宝章。 愛媛県越智郡乃万村延喜(現今治市)で生まれる。今治中学校(現愛媛県立今治西高等学校)を経て、神戸高等商業学校(のち神戸商業大学)で学んだが中退。今治市役所に入り、産業課長、土木課長などを務めた。その後、中華民国に赴き興亜院嘱託、山東省青島港建設事務所会計課長、青島埠頭 (株) 総務課長などを歴任した。 戦後、今治に引揚げ、乃万村長を務めた。1947年(昭和22年)4月の第23回衆議院議員総選挙に愛媛県第2区から民主党公認で出馬して初当選。
白川 晴一(しらかわ せいいち、1902年 - 1952年7… 白川 晴一(しらかわ せいいち、1902年 - 1952年7月28日)は、昭和時代の労働運動家。日本共産党中央委員。 愛媛県温泉郡和気村(現松山市)生まれ。愛媛県立松山中学校(現愛媛県立松山東高校)在学時に重松鶴之助(画家)、伊丹万作(映画監督)、伊藤大輔(映画監督)、中村草田男(俳人)らと同人雑誌『楽天』を発行。5年生のとき中退し、重松と京都・東京を放浪後、東京の感化院で働く。1923年の関東大震災直前に結核のため帰郷、左翼運動に関わる。回復後に再び上京するが、1926年に画業に行き詰った伊丹を援けるため、重松と3人で松山市三番町におでん屋・瓢太郎を開業。この時期に同郷の岩田義道と出会い、その影響で労働運動の世界に入る。
青野寿郎(靑野壽郎、あおの ひさお、1901年11月25日 … 青野寿郎(靑野壽郎、あおの ひさお、1901年11月25日 - 1991年7月16日)は、人文地理学者。東京教育大学名誉教授。 愛媛県越智郡桜井村(現・今治市)出身。1932年、東京文理科大学卒(第1回卒業生)。1947年東京文理大助教授、1949年「本邦鰹釣遠洋漁村の地理学的研究」で東京大学理学博士、東京教育大学教授。1965年定年退官・名誉教授、立正大学教授、1976年退職。日本の漁村・漁業地理学を研究、日本地誌研究所を創設し『日本地誌』全21巻を日本全国から460名を動員して編集。日本地理学会会長(在任:1962年 - 1963年)、名誉会員。 日本における水産地理学の開拓者であり、青野自身、「地誌学的研究の論文が多いのはオリジナルな研究の結果によるものが多いため当然のことではあるが,これらの研究成果から漁村水産地理学の科学的体系を樹立したいという意欲が強められたことも,ここで述べておきたい.」と著書の冒頭で述べている。