井手 三郎(いで さぶろう、文久3年5月15日(1863年6… 井手 三郎(いで さぶろう、文久3年5月15日(1863年6月30日) - 昭和6年(1931年)11月16日)は、衆議院議員(中央倶楽部→立憲同志会→憲政会)、ジャーナリスト。 肥後国飽田郡中島村(現在の熊本県熊本市西区)出身。1887年(明治20年)、済々黌を卒業。中国語を学び、漢口や北京を巡った。日清戦争の際には大本営附となり、第一軍民政庁通訳官を務めた。戦後、海軍軍令部嘱託として北京・天津を視察した。 1897年(明治30年)、福州にて「漢字新報」を創刊。翌年、貴族院議長・公爵近衛篤麿が東亜同文会を創設すると、それに参加し、上海支部長に任命された。上海租界では漢字新聞「同文滬報」を発行、1904年(明治37年)7月には邦字新聞「上海日報」の経営を引き継いだ。
梅田 ミト(うめだ ミト、1863年5月14日 (文久3年3… 梅田 ミト(うめだ ミト、1863年5月14日 (文久3年3月27日)- 1975年5月31日)は、長寿日本一及び長寿世界一であった熊本県託麻郡供合村生まれの女性。 1863年、熊本県託麻郡供合村の農家の長女として生まれる。1900年、3回目の結婚を梅田弥次郎と行い、一男一女をもうける。梅田自身には3回の結婚で合計5人の子供がいた。 1973年10月31日、110歳235日だったイギリスのエリザベス・ワトキンスの死去により、長寿世界一となった。 長寿世界一を1年以上に渡って守った後、1975年5月31日に老衰のため死去。112歳17日没。梅田の死去に伴い、河本にわが長寿日本一および世界一の座を引き継いだ。
徳富 蘇峰(とくとみ そほう、1863年3月14日(文久3年… 徳富 蘇峰(とくとみ そほう、1863年3月14日(文久3年1月25日) - 1957年(昭和32年)11月2日)は、明治から昭和にかけての日本のジャーナリスト、思想家、歴史家、評論家。『國民新聞』を主宰し、大著『近世日本国民史』を著したことで知られる。
海老名 みや(えびな みや、1862年12月26日(文久2年… 海老名 みや(えびな みや、1862年12月26日(文久2年11月6日) - 1952年(昭和27年)3月4日)は、海老名弾正の妻で、キリスト教会の婦人活動家である。 横井小楠と後妻つせ子の娘として、熊本郊外の沼山津(現・熊本市東区沼山津)に生まれる。戸籍上は熊本県士族・伊勢平四郎の長女。1869年に小楠が暗殺されると熊本に転居し、リロイ・ランシング・ジェーンズの妻から英語を学ぶ。1875年に母方のいとこ徳富初子と共に洋学校への編入を認められる。 1876年、兄時雄や海老名喜三郎(弾正)らと一緒にキリスト教への入信を誓う。1877年に京都に移り、同志社に入学する。1882年、新島襄から洗礼を受ける。
則元 由庸(のりもと なおつね、1862年3月21日〈文久2… 則元 由庸(のりもと なおつね、1862年3月21日〈文久2年2月21日〉 – 1931年〈昭和6年〉8月6日)は、日本の政治家、弁護士。勲等は勲三等。位階は従五位。 熊本市生まれ。明治法律学校(現・明治大学)中退。 長崎県で弁護士を開業し、1899年(明治32年)長崎市会議員となった。1901年(明治34年)3月11日から1908年(明治41年)1月14日までと、1909年(明治42年)1月21日から1910年(明治43年)4月8日までの2度に亘り、市会議長を務める。 また、国政にも進出し、1912年(明治45年)に衆議院議員となり、以後、立憲民政党などから計7回当選する。 1917年(大正6年)に長崎日日新聞社長に就任した。
蔵原 惟郭(くらはら これひろ、文久元年7月6日〈1861年… 蔵原 惟郭(くらはら これひろ、文久元年7月6日〈1861年8月11日〉 - 昭和24年〈1949年〉1月8日)は肥後国(熊本県)出身の政治家、教育家。衆議院議員(立憲同志会)、熊本英学校校長。Ph.D. 肥後国阿蘇郡黒川村(現在の熊本県阿蘇市)にて、阿蘇神社の直系として生まれる。幼名は三治兵衛。 熊本洋学校と同志社英学校を卒業後、1884年に渡米、留学。次いで1890年に渡英し、1891年に帰国。熊本英学校および熊本女学校の校長を歴任。 1896年、岐阜県で旧制中学校の校長に就任したが、1897年に辞職して上京。帝国教育会主幹として図書館の普及に尽力した。 1900年、政友会創立に参加。日露戦争後は立憲国民党や立憲同志会に所属。
徳丸 作蔵(とくまる さくぞう、1861年1月20日(万延元… 徳丸 作蔵(とくまる さくぞう、1861年1月20日(万延元年12月10日) - 1913年(大正2年)12月10日)は、日本の外交官。在重慶領事、在汕頭領事などを務めた。 肥後国鹿本郡六郷村で、熊本藩士・徳丸庄三郎の子として生まれる。1867年(慶応3年)、7歳で鳩野茂庵の門に学ぶ。1874年(明治7年)、熊本県玉名郡肥猪町の福田義塾に入った。1880年(明治13年)、郷里の小学校で教鞭を執るが、1年余りで辞した。 1882年(明治15年)、22歳の時、中国大陸への志を抱き興亜会の会員となり、同会附属の支那語学校で学び、同年に同校が外国語学校に吸収されると、小田切万寿之助、宮島詠士、七里恭三郎らとともに移った。
家永 エイ(いえなが エイ、万延元年(1860年)2月18日… 家永 エイ(いえなが エイ、万延元年(1860年)2月18日 - 1927年(昭和2年)5月12日)は、長崎県長崎市稲佐にあったロシア人向けのホテル・ヴェスナーなどを経営した女性実業家。洋妾・からゆきさん。長崎では稲佐お栄の通称と共に日露親善に尽力した女性として知られ、楠本イネ・大浦慶と共に長崎三女傑に数えられる。以下、本記事ではお栄と表記し、特記のない年齢は数え年とする。 お栄は当時ロシア人の居留地になっていた長崎市稲佐のロシア将校クラブで洋妾として働いたのち、ロシア艦隊旗艦の艦長に気に入られて22歳で渡露。ウラジオストクに滞在したのち、31歳で帰国した。 翌年の1891年にお忍びで長崎に上陸したロシア皇太子ニコライらをもてなし、一説には寝室を共にしたとされる。
湯浅 初子(ゆあさ はつこ、安政7年1月23日〈1860年2… 湯浅 初子(ゆあさ はつこ、安政7年1月23日〈1860年2月14日〉 - 1935年〈昭和10年〉3月13日)は、明治時代の社会事業家。徳富蘇峰・蘆花の姉で、衆議院議員・湯浅治郎の後妻となった。同志社総長や国際基督教大学初代学長を務めた湯浅八郎は息子。 徳富一敬・久子の四女として、安政7年1月23日(1860年2月14日)肥後国水俣(現・熊本県水俣市)に生まれる。姉が3人いる上、夫妻は姪も養女としており、5人目には男子の誕生を望んでいたが女子であったため、失意の一敬はどういうわけか初と名づけた。その後に生まれた男子が猪一郎(蘇峰)と健次郎(蘆花)である。 12歳の時、熊本に住む叔母・横井つせ子(横井小楠の未亡人)のもとへ預けられることとなり、いとこの時雄・みやと一緒に暮らし始めた。
浅井 栄凞(あさい えいき、安政6年10月28日(1859年… 浅井 栄凞(あさい えいき、安政6年10月28日(1859年11月22日) - 1931年(昭和6年)9月30日)は明治時代の日本の教育者。福井県福井中学校助教諭、済々黌教師、熊本英語学会主幹、文部省総務局詰、第五高等学校学寮掛、細川家家扶。五高時代に夏目漱石と同僚だった。 安政6年(1859年)10月28日肥後国熊本安巳橋通2丁目に浅井鼎泉の長男として生まれた。明治4年(1871年)3月古照軒国友昌に入門して漢学を学んだ。1875年(明治8年)熊本県立熊本中学校に入学し、普通学を学んだ。 1878年(明治11年)4月上京して箕作秋坪に入門し、英語を学んだ。1879年(明治12年)6月中村正直の同人社に転学し、1881年(明治14年)12月普通英語学科を卒業した。
森田 久萬人(もりた くまんど、1858年8月26日(安政5… 森田 久萬人(もりた くまんど、1858年8月26日(安政5年7月18日) - 1899年(明治32年)2月23日)は熊本バンドの一人である。 1858年肥後国山鹿郡上永野村(現山鹿市)の熊本藩士の鈴木家に生まれ、森田家の養子になる。 藩校時習館で和漢の学問を修め、1871年熊本洋学校に入学。卒業後に洋学校の教師になる。1876年熊本バンドの盟友と共に、同志社英学校に入学する。卒業と同時に、同志社の教師になる。教師業の傍ら、『六合雑誌』に哲学と理学の論文を発表する。 イェール大学に留学し、ジョージ・トランブル・ラッドに師事する。ヘルマン・ロッツェの哲学の研究をし、ロッツェの形而上学と仏教の教義の比較研究で哲学博士号を取得する。
渋江 公寧(澁江、しぶえ きみやす、1858年(安政5年11… 渋江 公寧(澁江、しぶえ きみやす、1858年(安政5年11月)- 1896年(明治29年)11月30日)は、明治期の教育者、政治家。衆議院議員。字・子静、号・龍伏。 肥後国菊池郡、のちの熊本県菊池郡隈府町(菊池町を経て現菊池市)で、儒学者渋江公木の息子として生まれた。父から学び、1876年(明治9年)熊本県師範学校を卒業。漢学塾・遜志堂を開き子弟の教育を行った。 政界では熊本県会議員に就任。1894年(明治27年)9月、第4回衆議院議員総選挙(熊本県第3区、国民協会)で当選し、衆議院議員に1期在任した。議員在任中の1896年11月に死去した。
加藤 勇次郎(かとう ゆうじろう、1857年11月26日(安… 加藤 勇次郎(かとう ゆうじろう、1857年11月26日(安政4年10月10日) - 1934年(昭和9年)1月16日)は、熊本バンドの一人である。 1857年肥後国菊池郡広瀬村(現・菊池市)に生まれる。1872年熊本洋学校に入学し、1876年(明治9年)1月30日に花岡山で奉教趣意書に署名する。L.L.ジェーンズから洗礼を受ける。 1876年9月に同志社英学校に入学する。海老名弾正、小崎弘道、森田久万人らと西京第三公会に転入会する。 1879年(明治12年)、同志社英学校を第1期生として卒業する。同志社の同志社女学校、予備学校、普通学校の教員になり、英語、数学、物理を教えた。 1883年(明治16年)熊本バンドの海老名弾正、宮川経輝、横井時雄、金森通倫、上原方立らと一緒に、東京の新栄教会で開催された、第三回全国基督教信徒大親睦会に幹部として出席する。
金森 通倫(かなもり みちとも / つうりん、安政4年8月1… 金森 通倫(かなもり みちとも / つうりん、安政4年8月15日〈1857年10月2日〉 - 昭和20年〈1945年〉3月4日)は、日本の牧師、伝道者、宗教家。別名はポール・カナモリ。明治初期の日本のプロテスタント派の3つの源流の1つである熊本バンドの中心メンバーの一人であった。晩年は湘南の嶺山に隠居し、原始的な洞窟生活をして「今仙人」といわれた。 第102代内閣総理大臣・石破茂の母方の曾祖父である。 肥後国玉名郡小天村(現・玉名市天水町小天)に郷士・金森繁蔵の次男として生まれた。その後、理由は分からないが一家は託麻郡本山村(現・熊本市中央区本山)に移り住んでいる。 明治4年(1871年)、日新堂に入塾。
松岡 長康(まつおか ながやす、1856年9月6日(安政3年… 松岡 長康(まつおか ながやす、1856年9月6日(安政3年8月8日) - 1908年(明治41年)4月26日)は、日本の政治家、衆議院議員(2期)。 肥後国八代郡高田村(現・熊本県八代市)の地主の家に生まれる。漢学を学ぶ。農業と商業を営み、学区取締、熊本県会議員、熊本県御用掛、県収税属、八代郡所得税調査委員となる。日清戦争後の1895年、台湾総督府雲林支庁長、同法院雲林支部審判官、台中県支庁書記官となり、従七位に叙せられる。 1898年3月の第5回衆議院議員総選挙において熊本5区から自由党公認で立候補して当選する。同年8月の第6回衆議院議員総選挙で再選。衆議院議員を2期務め、1902年の第7回衆議院議員総選挙は不出馬。
有吉 平吉(ありよし へいきち、1855年(安政2年9月) … 有吉 平吉(ありよし へいきち、1855年(安政2年9月) - 1904年(明治37年)4月5日)は、日本の政治家、衆議院議員(2期)。 肥後国熊本(のち熊本県熊本区、現・熊本市)生まれ。熊本藩黌で学ぶ。熊本藩家老職となる。 1892年の第2回衆議院議員総選挙において熊本1区から中央交渉会で立候補して当選した。1894年3月の第3回衆議院議員総選挙では国民協会から立候補して再選した。衆議院議員を2期務め、同年9月の第4回衆議院議員総選挙は不出馬。1904年に死去した。
大畑 純次(おおはた じゅんじ、1854年6月30日(安政元… 大畑 純次(おおはた じゅんじ、1854年6月30日(安政元年6月6日)- 1936年(昭和11年)5月24日)は、明治から昭和前期の弁護士、政治家。衆議院議員、熊本県会議長。 肥後国、現在の熊本県熊本市で生まれた。漢学、法律学を修めた。 弁護士を開業し、熊本県弁護士会長、熊本商業会議所特別議員などを務めた。 政界では、熊本市会議員、同参事会員、熊本県会議員、同参事会員、同議長などに在任。 1904年(明治37年)3月、第9回衆議院議員総選挙(熊本県熊本市、帝国党)で当選し、その後、大同倶楽部に所属して衆議院議員に1期在任した。
犬飼 真平(眞平、いぬかい しんぺい、1854年(嘉永7年1… 犬飼 真平(眞平、いぬかい しんぺい、1854年(嘉永7年10月) - 1924年(大正13年)8月20日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 肥後国阿蘇郡宮地村(のち熊本県阿蘇郡宮地町→一の宮町、現・阿蘇市)生まれ。漢籍を修め、巡査、消防夫、宮地村戸長、同村長、学務取締、村会議員、阿蘇郡会議員、熊本県会議員、同常置委員、同参事会員となる。また、熊本軌道(株)取締役を務めた。 1899年、古荘嘉門の辞職による熊本3区の補欠選挙に立候補して当選する。衆議院議員を1期務め、1902年の第7回衆議院議員総選挙は不出馬。1924年死去。
岡 次郎太郎(おか じろうたろう、1854年(安政元年2月)… 岡 次郎太郎(おか じろうたろう、1854年(安政元年2月) - 1929年(昭和4年)9月5日)は、明治から大正時代の政治家、実業家、銀行家。鉱山経営者。衆議院議員(1期)。 岡権内の第二子として熊本城下内坪井町(現熊本市中央区内坪井町)に生まれる。藩校に入ったのち岡松甕谷の門に入る。第百五十一国立銀行の創立に尽くし、観光社などの重役を務め、鉱山業を営んだ。1884年(明治17年)大蔵省御用掛となり、翌年、秋田県収税長を任ぜられ1889年(明治22年)10月まで務めた。 1890年(明治23年)7月の第1回衆議院議員総選挙では熊本県第4区から出馬し当選。大成会に所属し衆議院議員を1期務めた。
松尾 又雄(まつお またお、1852年(嘉永5年11月)- … 松尾 又雄(まつお またお、1852年(嘉永5年11月)- 1901年(明治34年)8月9日)は、明治期の銀行家、政治家。衆議院議員。 肥後国玉名郡、のちの熊本県玉名郡伊倉村(伊倉町を経て現玉名市)で、豪族、熊本藩士の家に生まれた。 熊本県警部となる。熊本県会議員に選出された。1895年(明治28年)玉名銀行が設立され頭取に就任。また、肥後農工銀行取締役も務めた。 1898年(明治31年)8月、第6回衆議院議員総選挙(熊本県第2区、無所属)で当選し、衆議院議員に1期在任した。議員在任中の1901年8月に死去した。
松永 正敏(まつなが まさとし、嘉永4年6月1日(1851年… 松永 正敏(まつなが まさとし、嘉永4年6月1日(1851年6月29日) - 明治45年(1912年)2月18日)は、日本の陸軍軍人。陸軍中将正三位勲一等功二級男爵。幼名・山平。 熊本藩士、郡吏・松永和吉の二男として山鹿郡中富村に生まれる。明治4年(1871年)、伏見青年学舎を経て伏見教導隊に入る。二等伍長、二等軍曹、権曹長、曹長と昇進し、明治6年(1873年)5月、陸軍少尉に任官し歩兵第19大隊付となる。明治7年(1874年)5月から10月まで台湾出兵に従軍。歩兵第14連隊付、近衛歩兵第2連隊付などを経て、陸軍戸山学校で学んだ。明治10年(1877年)3月から10月まで西南戦争に出征した。 近衛局参謀、東部監軍部参謀、歩兵第4連隊大隊長、広島鎮台参謀、監軍部参謀、近衛歩兵第4連隊大隊長、対馬警備隊司令官、広島大本営付等を歴任し、日清戦争には歩兵第2連隊長として出征し、田庄台や営口での戦闘に参加した。
岩男 三郎(いわお さぶろう、1851年6月8日(嘉永4年5… 岩男 三郎(いわお さぶろう、1851年6月8日(嘉永4年5月9日) - 1909年(明治42年)7月15日)は、幕末期の肥後熊本藩士、維新後は官吏、各県知事などを歴任した。 熊本城下坪井で、熊本藩士・岩男伝之允の三男として生まれる。藩校時習館で学ぶ。横井小楠の高弟で、幕末期には野々口為志、鵜殿豊之進、横井左平太、横井忠平らと交わり、勝海舟の神戸海軍操練所で航海術を学び、長崎に遊学、熊本藩の洋学所管術となる。 維新後は福澤諭吉に師事して慶應義塾に入学、卒業後の明治3年(1870年)、民部省監督権正となり東北に派遣される。山形県大参事となったが罷免される。明治5年(1872年)、熊本藩主細川護久の弟・長岡護美の従者としてアメリカに留学。
清浦 奎吾(きようら けいご、旧字体: 淸浦 奎吾、1850… 清浦 奎吾(きようら けいご、旧字体: 淸浦 奎吾、1850年3月27日〈嘉永3年2月14日〉- 1942年〈昭和17年〉11月5日)は、日本の官僚、政治家。位階勲等爵位は従一位大勲位伯爵。幼名は普寂(ふじゃく)。旧姓大久保(おおくぼ)。 肥後(現在の熊本県)出身。司法・内務官僚として活躍した後に貴族院議員となり、官界や貴族院に大きな影響力を持った。その後、司法大臣、農商務大臣、内務大臣、枢密顧問官、枢密院副議長、枢密院議長を歴任。 1924年(大正13年)に第23代内閣総理大臣として組閣したが、超然主義との批判を受け、選挙に大敗したため5か月で総辞職した。その後は重臣として国事に関与した。 嘉永3年(1850年)2月14日、肥後国山鹿郡上御宇田村(現:山鹿市鹿本町来民)の明照寺(浄土真宗本願寺派)住職・大久保了思の五男に生まれ、後に清浦の姓を名乗った。
大塚 貢(おおつか みつぐ、1850年1月18日(嘉永2年1… 大塚 貢(おおつか みつぐ、1850年1月18日(嘉永2年12月6日) - 没年不詳)は、明治期の大蔵・内務官僚。官選茨城県知事(未赴任)。旧姓・池上。 肥後国熊本で熊本藩士・池上貞雄の三男として生まれ、大塚郁太郎の養子となる。 明治5年(1872年)、白川県十五等出仕に任官。以後、福岡県第三課長、山口県収税長、東京府収税長などを歴任。1896年11月1日、司税官・東京税務管理局長(初代)に就任。その後、名古屋税務管理局長を経て、1898年11月28日、内務省に転じ北海道庁事務官・内務部長に就任。1905年4月19日、北海道庁官制の改正に伴い、内務部長が第一部長に改称された。 上司の園田安賢長官と関係を深め、園田と進退を共にして同時に辞表を提出。
渋谷 礼(澁谷 禮、しぶや れい、1847年1月20日(弘化… 渋谷 礼(澁谷 禮、しぶや れい、1847年1月20日(弘化3年12月4日)- 1912年(大正元年)12月6日)は、幕末の武士(人吉藩士)、明治期の政治家。衆議院議員、熊本県球磨郡一武村長。幼名・練助。 肥後国球磨郡人吉麓町(熊本県球磨郡人吉麓町、人吉町字麓を経て現人吉市麓)で、人吉藩家老・渋谷巴山の息子として生れた。藩校時習館で学び、田代自養に師事し朱子学を修めた。槍術も習った。1862年3月7日(文久2年2月7日)人吉で大火(寅助火事)が発生し、その後、犬童権左衛門とともに薩摩藩に復興資金5千両借財の依頼に赴き目的を果たした。また、薩摩藩士・中原尚介に西洋兵法、英国式砲術を学び、藩兵分隊長、小隊長を務めた。
小崎 義明(こざき よしあき、1846年9月2日(弘化3年7… 小崎 義明(こざき よしあき、1846年9月2日(弘化3年7月12日)- 1904年(明治37年)4月20日)は、明治期の地主、政治家。衆議院議員。幼名・律五郎、のちに清、義明。号・篠州(じょうしゅう)。 肥後国天草郡大浦村(熊本県天草郡大浦村、有明村、有明町を経て現天草市有明町)で、大庄屋・小崎武一郎重謙(しげかね)、清の息子として生まれる。漢籍を値賀盛純、高尾道一郎に、書を城野静軒に学び、広瀬淡窓の咸宜園にも入塾した。 1858(安政5年2月)職務見習勤務を命ぜられ、1864年(文久3年12月)父の死去に伴い天草郡栖本組大庄屋を世襲した。1865年(慶応元年)九品寺閻魔堂に寺子屋を開設。1869年11月(明治2年10月)から1870年1月(明治2年12月)まで長崎県掌郡方刑法掛勤務を務めた。
池松 豊記(豐記、いけまつ とよき、1846年7月23日(弘… 池松 豊記(豐記、いけまつ とよき、1846年7月23日(弘化3年6月1日)- 1921年(大正10年)9月13日)は、明治期のジャーナリスト、農業経営者、政治家。衆議院議員、熊本県球磨郡上村長。 肥後国玉名郡上小田村(熊本県玉名郡上小田村、小田村を経て現玉名市上小田)で、医師・池松玄操の二男として生まれた。 明治の初めころに東京に出て自由民権運動に加わる。1875年(明治8年)評論新聞が創刊され、記者となる。西南戦争後に帰郷し、民権活動家に呼びかけ1878年(明治11年)5月、民権結社・相愛社を組織し社長に就任。1881年(明治14年)7月、その機関紙「東肥新報」発刊して民権思想を広めた。1882年(明治15年)2月、相愛社は実学党と公議政党を形成し、その後、九州改進党となった。
井上 毅(いのうえ こわし、天保14年12月18日〈1844… 井上 毅(いのうえ こわし、天保14年12月18日〈1844年2月6日〉- 明治28年〈1895年〉3月17日)は、明治期の日本の官僚、政治家。大日本帝国憲法起草者の一人。栄典は正三位勲一等子爵。 肥後国熊本藩家老・長岡是容(監物)の家臣・飯田家に生まれ井上茂三郎の養子になる。必由堂、藩校時習館で学び、江戸や長崎へ遊学。明治維新後は大学南校で学び明治政府の司法省に仕官、1年かけた西欧視察におもむく。帰国後に大久保利通に登用され、その死後は岩倉具視に重用される。明治十四年の政変では岩倉具視、伊藤博文派に属する。 安定政権を作れる政府与党が出来る環境にない現在の日本で議院内閣制を導入することの不可を説いて、ドイツ式の国家体制樹立を説き、国学等にも通じ、伊藤と共に大日本帝国憲法や皇室典範、教育勅語、軍人勅諭などの起草に参加した。
竹添 進一郎(たけぞえ しんいちろう、1842年4月25日〈… 竹添 進一郎(たけぞえ しんいちろう、1842年4月25日〈天保13年3月15日〉- 1917年〈大正6年〉3月31日)は、日本の外交官、漢学者。名は漸、字は光鴻(こうこう、みつあき)、号は井井(せいせい)と称した。甲申政変時の朝鮮弁理公使であり、後に漢学者として活躍した。日本学士院賞受賞。熊本県近代文化功労者。 肥後国天草(現・熊本県上天草市大矢野町)生まれ。父である小田順左衛門(竹添筍園)は、肥前国島原出身の医者(熊本藩医)で、天草大矢野島に移り住み、上八幡宮の宮司二上出雲の娘である美加と結婚した。順左衛門は儒学者広瀬淡窓門下十八傑の一人でもあり、進一郎が幼い頃より儒学を教えた。 1855年(安政2年)15歳の時、天草より熊本に出て儒学者木下韡村の門下生となった。
松枝 顕勝(顯勝、まつえ けんしょう、1842年(天保13年… 松枝 顕勝(顯勝、まつえ けんしょう、1842年(天保13年3月) - 1909年(明治42年)3月1日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 肥後国宇土郡郡浦村(のち熊本県宇土郡郡浦村、三角町を経て現・宇城市)生まれ。農業を営む。郡浦村会議員、宇土郡会議員、同議長、熊本県会議員、同副議長となる。 1898年3月の第5回衆議院議員総選挙において熊本1区から国民協会公認で立候補して当選した。衆議院議員を1期務め、同年8月の第6回衆議院議員総選挙は不出馬。1909年に死去した。
中西 新作(なかにし しんさく、1841年5月9日(天保11… 中西 新作(なかにし しんさく、1841年5月9日(天保11年4月8日) - 1911年(明治44年)11月17日)は、日本の政治家、衆議院議員(2期)。 肥後国天草郡宮地岳村(熊本県天草郡宮地岳村、本渡市を経て現天草市宮地岳町)出身。漢学を学ぶ。庄屋の家に生まれ、跡を継いだ。大阪府に出仕し、司法省に転じる。のち帰郷し、熊本裁判所判事補、宮地岳村長、同村会議員、天草郡連合町村会議員、熊本県会議員、所得税調査委員、天草郡会議員となる。 1898年8月の第6回衆議院議員総選挙において熊本6区から憲政党公認で立候補して落選。1902年の第7回衆議院議員総選挙は不出馬。1903年の第8回衆議院議員総選挙において熊本県郡部から無所属で立候補して初当選。
内田 雄蔵(雄藏、うちだ ゆうぞう、1840年1月6日(天保… 内田 雄蔵(雄藏、うちだ ゆうぞう、1840年1月6日(天保10年12月2日) - 1909年(明治42年)1月4日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 肥後国下益城郡河江村(のち益南村、小川町を経て現宇城市)生まれ。戸長、下益城郡会議員、学務委員、熊本県会議員、同常置委員、郡所得税調査委員、地方衛生委員、郡参事会員、地方委員となる。 1898年(明治31年)8月の第6回衆議院議員総選挙において熊本4区から国民協会所属で立候補して当選する。衆議院議員を1期務め、1902年(明治35年)第7回衆議院議員総選挙は不出馬。1909年に死去した。
池辺 吉十郎(いけべ きちじゅうろう、旧字体:池邊 吉十郎、… 池辺 吉十郎(いけべ きちじゅうろう、旧字体:池邊 吉十郎、1838年2月5日(天保9年1月11日) - 1877年(明治10年)10月26日)は幕末から明治前期の武士、士族、志士、教育家。本名は重章。熊本藩士の子として宇土に生まれる。武士や志士として活動していたが、西南戦争では、西郷隆盛軍の下で、熊本隊の隊長として奮戦するも捕らわれ長崎で処刑された。 天保9年1月11日(1838年2月5日)に熊本藩士の子として生まれる。本名は重章(しげあき)。また、藩校で学ぶ。翌年には世話役や組役なども任せられた。その後、家督を継ぎ、また、京都守護も命じられる。 26歳になると、第二次長州征伐の際に小倉出兵に従った。
嘉悦 氏房(かえつ うじふさ、天保5年(1834年)1月 -… 嘉悦 氏房(かえつ うじふさ、天保5年(1834年)1月 - 明治41年(1908年)10月30日)は、日本の政治家。 熊本藩士の子として肥後国託麻郡本山村(現在の熊本県熊本市)に生まれ、横井小楠に師事した。その後、宮部鼎蔵に従って尊王運動に参加。たびたび上京して、橋本左内・坂本龍馬・西郷隆盛らと交わった。 明治維新後、熊本藩は新政府に反旗を翻そうとしているとの嫌疑をかけられたが、氏房が長崎に赴いて知事の澤宣嘉に釈明して事なきを得た。明治3年(1870年)5月、民部省に出仕し、7月に大蔵省に移った。9月に胆沢県大参事に就任し、その後、熊本県少参事、八代県権参事を歴任した。明治6年(1873年)、白川県権参事となるが、権令の安岡良亮と対立し、野に下った。
高木 元右衛門(たかぎ もとえもん、天保4年(1833年) … 高木 元右衛門(たかぎ もとえもん、天保4年(1833年) - 元治元年7月19日(1864年8月20日))は、江戸時代後期から幕末にかけての肥後国菊池郡深川村(現熊本県菊池市深川)の肥後藩士。深川村の郷士・高木甚之助の次男。諱は直久。変名は深川策助。 武芸に優れ、成童の頃に父・甚之介の剣術仲間であった荒尾村の郷士・宮崎政賢の養子となる。宮部鼎蔵に山鹿流兵法を学び、地元の学者、高山蘭痴からも教えを受けた。宮崎家からは家督相続人として迎えられていたが、国事を志して宮崎家を飛び出し、武者修行の旅へ出る。 尊王攘夷派と親交を深め、肥後勤王党に加わる。文久2年(1862年)、肥後藩親兵隊として上洛。文久3年(1863年)、八月十八日の政変による七卿落ちの際には、七卿を護衛して長州に赴いた。
前田 案山子(まえだ かがし、文政11年2月23日(1828… 前田 案山子(まえだ かがし、文政11年2月23日(1828年4月7日) - 明治37年(1904年)7月20日)は、日本の政治家。自由民権運動家。衆議院議員(1期)。 夏目漱石の『草枕』に登場する「志保田の隠居」のモデルである。 肥後国玉名郡小天村(現熊本県玉名市)の豪族・前田惟鑑の第三子として生まれる。 幼名を一角、長じて覚之助を名乗る。武術に優れ、槍の名手と言われ、25歳で肥後藩士となり、細川家の槍術指南を務める。 1877年(明治10年)富岡敬明県令から熊本県第七大区(玉名郡南半分)区長に任命。小天村の男子を集めて人民保護隊と名付け、西南戦争に際しては、中立党を設けた。1878年(明治11年)に小天の山麓に温泉を発見し、別荘を建設、犬養木堂、植木枝盛、中江兆民、頭山満など、多くの活動家が訪れた(のちに夏目漱石が投宿し、ここを舞台に小説『草枕』を執筆した)。
藤岡 覚音(ふじおか がくおん、文政6年10月3日(1823… 藤岡 覚音(ふじおか がくおん、文政6年10月3日(1823年11月5日) - 明治40年(1907年)8月23日)は、日本の宗教家。幕末から明治時代の僧。 文政6年(1823年)10月3日、肥後国宇土郡網津村浄蓮寺(現・熊本県宇土市)生まれ。家は代々浄蓮寺の住職。7歳より6年間漢文を学び、13歳より10年間、上益城郡六嘉村(現・同上益城郡嘉島町)の司教門生師、及び筑前国西郷村の勧学玄雄師に宗学を学ぶ。嘉永6年(1853年)、熊本県宇城市小川町西海東の正覚寺(浄土真宗本願寺派)、第13世住職となる。 浄土真宗の宗学のかたわら、自坊に龍水学館と称する学寮を起こし、数多くの子弟を教えた。明治36年(1903年)勧学に。
徳富 一敬(とくとみ かずたか、いっけい、文政5年9月24… 徳富 一敬(とくとみ かずたか、いっけい、文政5年9月24日(1822年11月7日) - 大正3年(1914年)5月26日)は、幕末から明治にかけての日本の儒学者(朱子学者)、官僚、教育者。徳富蘇峰、徳富蘆花の父。淇水(きすい)と号した。 肥後国葦北郡水俣郷(後の熊本県水俣市)に、惣庄屋の長男として生まれ、幼児には万熊、後には太多助、太多七などと称した。一敬の父は辛島塩井の高弟で、津奈木手永惣庄屋の徳富美信。美信は鶴眠と号し、肥後を訪れた頼山陽に会っている。 一敬は1837年から、近藤英助の私塾で教えを受けつつ藩校時習館に学ぶが、1842年に父の死去により惣庄屋の務めのため帰郷した。1845年に横井小楠の門下となった。
宮崎 政賢(みやざき まさかた、文化15年2月20日(181… 宮崎 政賢(みやざき まさかた、文化15年2月20日(1818年3月26日) - 明治12年(1879年)10月10日)江戸時代後期から明治時代初期にかけての肥後国玉名郡荒尾村(現熊本県荒尾市)の郷士。自由民権運動や辛亥革命支援で知られる宮崎兄弟の父。長蔵、長兵衛とも。 郷士・宮崎政明の子として肥後国玉名郡荒尾村に生まれる。初名は長兵衛。宮崎家は遠祖を菅原道真とする荒尾村随一の地主であり、寛文7年(1667年)頃、肥後藩に一領一疋で召し抱えられて以降、郡内の諸役を務める郷士として代々世襲し、長兵衛が9代目となる。 武人として学問・剣術・居合・砲術・軍学などを学ぶ。嘉永元年(1848年)頃、隣村・長洲の士族・永屋清次の長女・佐喜(サキ)と結婚。
原口 針水(はらぐち しんすい、文化5年8月3日〈1808年… 原口 針水(はらぐち しんすい、文化5年8月3日〈1808年9月22日〉 - 1893年〈明治26年〉6月12日)は、幕末から明治時代の浄土真宗の僧である。 肥後の山鹿郡内田村(現在の熊本県山鹿市)光照寺の密道の子として生まれ、幼年期から筑前の博多にある万行寺の住職だった曇龍の門人となる。後に彼から真宗学を学んだが、その後の1862年(文久2年)には本願寺の命令によりキリシタンの隆盛地だった長崎へ赴き、1863年(文久3年)には宣教師のチャニング・ウィリアムズ(立教大学創設者)とグイド・フルベッキからキリスト教の教義を学んだ。 しかし明治維新後の1872年(明治5年)に大教院の教導職にあたったことで、自身が学んだ経験のあるキリスト教を排撃する。
不知火 諾右衛門(しらぬい だくえもん(なぎえもん)、180… 不知火 諾右衛門(しらぬい だくえもん(なぎえもん)、1801年(享和元年) - 1854年8月20日(嘉永7年7月27日))は、肥後国宇土郡轟村栗崎(現・熊本県宇土市栗崎)出身の元大相撲力士。第8代横綱。本名は近久 信次(ちかひさ しんじ)。 歴代横綱の中で、下位番付へ陥落したことのある唯一の力士である。 1801年に肥後国宇土郡で生まれる。幼い頃から郷里で平穏な生活を送っていたが、ある日巻き込まれた傷害事件によって妻子を残したまま大坂・堺へ出ることとなり、1822年に大坂相撲へ加入、大関まで昇進した。その後、1830年に江戸相撲・浦風門下へ加入し、江戸相撲で再スタートを切る。江戸相撲では黒雲 龍之介・濃錦里 諾右衛門と改名し、1837年春場所で新入幕を果たす。
函岬 誉(はこさき ほまれ、12月6日 - )は、日本の漫画… 函岬 誉(はこさき ほまれ、12月6日 - )は、日本の漫画家。熊本県出身。女性。 代表作は『嫁姑の拳』。主婦向けの雑誌をメインに活動し、読み切り形式のギャグ漫画作品の他、ミステリー作品などを執筆。作中には格闘技、バイクなどが多く描写されている。
神山 裕紀(こうやま ゆき、11月13日 - )は、日本の女… 神山 裕紀(こうやま ゆき、11月13日 - )は、日本の女性声優。熊本県出身。マウスプロモーション所属。 主な代表作に『アキの奏で』(須藤美園)がある。 2011年、青二プロダクション附属俳優養成所東京校 入所。2012年、青二プロダクション所属。 2017年、マウスプロモーションに移籍。 方言は熊本弁。趣味・特技は写真を撮ること、紅茶を飲むこと、バスケットボール。 高校時代に友人の前で披露していたイラストは独特である。『崖の上のポニョ』が上映されて間もない頃に描いたイラストがボニョっと、ブニョっとしていたことから、一部の友人からボブと呼ばれていた。
赤池 優(あかいけ ゆう、10月18日生)は、日本の声楽家。… 赤池 優(あかいけ ゆう、10月18日生)は、日本の声楽家。ソプラノ歌手。熊本県熊本市出身。東京藝術大学音楽学部声楽科卒業。日本声楽アカデミー会員。日本声楽家協会 声楽講師。2018年から平成音楽大学講師。2025年4月から平成音楽大学教授。
久遠 麻耶(くおん まや、本名:平澤 麻耶(ひらさわ まや)… 久遠 麻耶(くおん まや、本名:平澤 麻耶(ひらさわ まや)、8月27日 - )は、元宝塚歌劇団・宙組男役。 熊本県下益城郡、九州女学院中学出身。身長170cm。愛称はマヤ。
天草 ヤスヲ(あまくさ やすを、8月12日 - )は、日本の… 天草 ヤスヲ(あまくさ やすを、8月12日 - )は、日本の漫画家。熊本県天草市出身。愛称は「ヤッさん」である。ご本人曰く「漫画も描けるパチスロ系何でも屋」との事。
際田 まみ(きわだ まみ、7月10日 - )は熊本県出身で、… 際田 まみ(きわだ まみ、7月10日 - )は熊本県出身で、同県を拠点に活動するシンガーソングライター。
港家 小ゆき(みなとや こゆき、5月4日 - )は女流の浪曲… 港家 小ゆき(みなとや こゆき、5月4日 - )は女流の浪曲師。2016年3月、名披露目。 熊本県山鹿市出身。幼少期より合唱団に所属、ピアノや声楽などを学び、真和高等学校卒業、早稲田大学第二文学部中退。大学時代よりロックを愛するバンドマン。思いつきで入った浅草木馬亭にて、師匠となる港家小柳の舞台に惚れ込み、押し入るように入門。2012年2月に木馬亭デビュー。2016年3月、名披露目。2017年より、田中芳樹原作の銀河英雄伝説の浪曲化をはじめ、クラシック作曲家の生涯を語る「クラシカ浪曲」、主婦の日常をドラマチックに描いたオリジナル作品「最強主婦伝説」、浪曲の部活を存続させるというストーリーの女子高生物語「浪花節ガールズ!」などの新作を自作自演している。
中ノ尾 恵(なかのお けい、3月19日 - )は、日本の漫画… 中ノ尾 恵(なかのお けい、3月19日 - )は、日本の漫画家。熊本県天草市出身。主に成人向け漫画を描く。 デビュー当初は、男性向けショタコン漫画を描きたかったそうだが、編集部から一蹴され、SM、レズ、近親相姦物の(主に母子相姦、姉弟相姦、兄妹相姦)作品を描くようになる。ショタ物を描けるようになったのは、つい最近。シリーズもののアンソロジーで特定キャラによる連作ストーリー物も描くため、1巻から読んでないと何故こうなったのか分からない場合がある。同人活動も活発。 この項目は、漫画家・漫画原作者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:漫画/PJ漫画家)。
木原 稔 は、日本の政治家。自由民主党所属の衆議院議員(7期… 木原 稔 は、日本の政治家。自由民主党所属の衆議院議員(7期)、内閣官房長官 、沖縄基地負担軽減担当大臣、拉致問題担当大臣。内閣総理大臣臨時代理就任順位第1位。