烏屋茶房(からすやさぼう、1990年9月19日 - )は、日… 烏屋茶房(からすやさぼう、1990年9月19日 - )は、日本の作曲家、作詞家、編曲家、映像作家。TOKYO LOGIC所属。片仮名表記のカラスヤサボウ名義で、ボカロPとしても活動。 宮崎市出身。12歳の頃にギターを始め、次いでMTRによる音源作成をたしなむ。友人の勧めで同人音楽活動を開始するにあたって、ニコニコ動画が活動の場となる。初期は東方アレンジを中心に投稿していたが、2010年6月の「wonder wander」を処女作としてボカロPに転向する。 2014年3月に発売されたコンセプト・アルバム『goodnight, wonderend』でdueよりメジャーデビュー。2015年、TVアニメ「VALKYRIE DRIVE -MERMAID-」のEDテーマを作詞・作曲したのを皮切りにアニメソングの分野にも進出した。
石原 有輝香(いしはら ゆきか、本名・旧芸名:石原 彩(いし… 石原 有輝香(いしはら ゆきか、本名・旧芸名:石原 彩(いしはら あや)、1987年6月25日 - )は、日本の女性シンガーソングライター、作詞家。宮崎県小林市出身。血液型A型。白百合女子大学卒業。結婚後、4人の母となっている。
小渕 健太郎(こぶち けんたろう、1977年3月13日 - … 小渕 健太郎(こぶち けんたろう、1977年3月13日 - )は、宮崎県宮崎市出身のミュージシャン・シンガーソングライター・作詞家・作曲家。コブクロのメンバーであり、ボーカル・ギターを担当している。愛称は「コビィ」・「主任」・「こぶちん」など。血液型O型。身長168cm。既婚。 コブクロの楽曲の大半を作詞・作曲しており、特にシングルやアルバムに収録された楽曲のうち黒田が作詞・作曲した12曲(2018年現在)を除く全ての曲において、小渕が作詞・作曲に関わっている(「桜」など共作も幾つか存在するが、大半が小渕の単独作品)。 ギターは小学校5年の時に始めた。きっかけは、ユニコーン(当時)のギタリスト奥田民生に憧れたこと。
HAKUEI(ハクエイ、1970年12月16日 - )は、日… HAKUEI(ハクエイ、1970年12月16日 - )は、日本のミュージシャン、歌手、作詞家、タレント、実業家。PENICILLINおよびmachine、ライチ☆光クラブ、The Brow Beatのボーカリスト。宮崎県串間市生まれの青森県弘前市育ち。身長183センチ。血液型O型。本名は田中 博英。
佐藤 晃(さとう あきら、1965年5月20日 - 、AB型… 佐藤 晃(さとう あきら、1965年5月20日 - 、AB型)は歌手、作詞家、作曲家、アレンジャーである。宮崎県高千穂町出身。二人組男性ロックユニット「infix(インフィクス)」のギタリストとして知られる。 久留米大学経済学部卒。大学在学中より音楽活動をはじめ、卒業後長友仍世らと共にinfixの前身となるロックバンド「THE NEWS」を結成。1992年、アポロンよりメジャーデビューを果たす。近年は他アーティストへの楽曲提供やアイドル、アニメ音楽のサウンドプロデュース、自身のソロ活動、高橋広樹との「平成ギター兄弟 (仮)」、湖月わたる、宮城伸一郎(TULIP)などのライヴサポート活動も行っている。
銀色 夏生(ぎんいろ なつを、1960年3月12日 - )は… 銀色 夏生(ぎんいろ なつを、1960年3月12日 - )は、日本の女性詩人、随筆家、作詞家、写真家。 1960年、宮崎県えびの市に生まれる。えびの市立真幸小学校、えびの市立真幸中学校、宮崎県立小林高等学校、埼玉大学教養学部を卒業。 1982年に作詞家として活動を開始し、翌1983年に沢田研二の「晴れのちBLUE BOY」を作詞した。その後も大沢誉志幸の「そして僕は途方に暮れる」「ゴーゴーヘブン」や、2011年度NHK全国学校音楽コンクール課題曲「僕が守る」 などを作詞した。また、山本みき子・山元みき子(やまもと みきこ)名義で太田裕美に歌詞を提供している。 1985年に第1詩集『黄昏国』を河出書房新社より刊行。
青江ひとみ(あおえひとみ、本名:八反英一、1951年9月8日… 青江ひとみ(あおえひとみ、本名:八反英一、1951年9月8日 - )は、日本の作詞家・作曲家。宮崎県小林市出身。 歌謡同人誌「新歌謡界」の会員として高校生の頃から本格的に作詞を学んだ。卒業後は、音楽大学への進学を志していたが中学三年生で始めたピアノの技量がその実技試験のレベルに遠く及ばぬ現実に直面し断念せざるを得なかった。その後、昼間は大手芸能プロで新人歌手のレッスン担当教師、夜間は主に銀座や新宿のナイトクラブでピアノの弾き語りなどのアルバイトで生活費を稼ぎながら、合間に作品を作り、コロムビアレコード、テイチクレコード、日本クラウン、CBS・ソニー等、各レコード会社へ売り込みに通う日々を過ごした。
山田 孝雄(やまだ たかお、1946年3月7日 - )は日本… 山田 孝雄(やまだ たかお、1946年3月7日 - )は日本の作詞家。宮崎県・三股町出身。 宮崎県立都城泉ヶ丘高等学校卒、工学院大学電子工学科中退。 星野哲郎に師事。1972年、牧村三枝子「恋人形」で作詩家デビュー。1973年、『昭和枯れすすき』がTBSの人気ドラマ「時間ですよ」の挿入歌として話題となり、ミリオンセラーを記録。1982年、女優で歌手の松原愛と結婚。 日本音楽著作権協会理事、日本作詩家協会常務理事 2018年、12月より筆名を「波たかし」として新しい境地の作風を模索しながら、活動する。 JRAの元調教師・橋口弘次郎と親交があったこともあり、10曲以上の競馬に関連する楽曲の作詞を手がけている。
中山 大三郎(なかやま だいざぶろう、1941年2月15日 … 中山 大三郎(なかやま だいざぶろう、1941年2月15日 - 2005年4月7日)は、日本の作詞家、作曲家。 主に演歌、歌謡曲を中心に作詞、作曲を行っていた。 宮崎県北諸県郡高崎町(現・都城市)出身。1995年に結婚した三佐子夫人は、アナウンサー小川宏の次女。 宮崎県立都城泉ヶ丘高等学校卒業。法政大学在学中、作詞家の星野哲郎に師事、作曲家としての活動を始める。 クラウンレコードの専属作曲家を経て、尾形大作の『無錫(むしゃく)旅情』、島倉千代子の『人生いろいろ』、天童よしみの『珍島(ちんど)物語』などの大ヒット曲を作詞、作曲した。 また、別名義に水沢圭吾・なかやま和郎・山下孝一郎がある。 テレビのワイドショーのコメンテーター(TBSテレビ『3時にあいましょう』『スーパーワイド』など)としても活躍する一方で、1989年から日本作詩家協会の常務理事を務めていたが、1999年に癌であることを公表した。
酒井 祐春(さかい すけはる、1928年 - 1998年10… 酒井 祐春(さかい すけはる、1928年 - 1998年10月15日)は、日本の作詞家。宮崎県出身。 宮崎県南那珂郡吾田村(現在の日南市)一里松出身。旧制飫肥中学校を卒業後、小学校教員を経て書店兼文具店を開業する。店舗は後に酒販業へ転換したが、この頃から文学に興味を持ち1964年(昭和38年)に県が再置80周年記念事業として懸賞募集した2代目「宮崎県民歌」に応募作が一等入選で採用された。 その後は主に標語の分野で活動していたが、作詞分野では都城市茶業協議会の選定で作成され都はるみの歌唱で日本コロムビアからレコードが発売された「都城茶音頭」で入選したのをはじめ、大分県立大分工業高等学校の校歌を手掛けている。
八反 ふじを(はったん ふじを、1925年1月14日 - 1… 八反 ふじを(はったん ふじを、1925年1月14日 - 1975年4月7日)は、宮崎県小林市出身の作詞家。 宮崎県小林市内にある老舗金物問屋「八反金物店」の長男として生まれる。幼いころ母を亡くし寂しい少年時代を過ごした。地元の小林高校を卒業後、父・留男の奨めもあり、医師を目指し上京、日本大学医学部に進んだ。太平洋戦争の最中ではあったが、医学生のため徴兵が猶予されていた。1945年3月10日の東京大空襲では医学生として負傷者の手当および遺体の収容作業に動員され、悲惨な光景を目の当たりにしている。終戦直前に召集令状が届き、本土決戦に備え満州から小林町に移駐してきていた山砲連隊に軍医として入営するも程なく終戦となり、部隊が連合軍と交戦することはなかった。
富松 良夫(とみまつ よしお、1903年3月 - 1954年… 富松 良夫(とみまつ よしお、1903年3月 - 1954年11月)は、日本の詩人、作詞家、文芸評論家。 教育家富松柏の長男として宮崎県都城市姫城町に生まれる。母方の親戚に有馬馨がいる。 6歳のとき脊髄カリエスにかかり身体障害者となる。翌年には生母を亡くし、伯母に背負われて小学校に通った。1917年に高等小学校を卒業、1919年にキリスト教の洗礼を受ける。1925年に文芸誌「盆地」を刊行し、1929年に詩誌「白」を主宰。いずれもガリ版刷りであった。1930年に友人坂元彦太郎の助力により第一詩集『寂しき候鳥』を出版。1938年、黒木清次らと「竜舌蘭」を創刊。 独学で美術論、音楽論、宗教論を書き、またフランス語を学び訳詩もした。
桑原 節次(くわはら せつじ、1872年10月26日 - 1… 桑原 節次(くわはら せつじ、1872年10月26日 - 1954年2月26日)は、日本の地方公務員、作詞家、郷土史家。現在の宮崎県出身。 明治5年9月24日(西暦1872年10月26日)、美々津県那珂郡広瀬村(現在の宮崎市佐土原町)で佐土原藩士族の家に生まれる。東京の共立学校を卒業した後、宮崎へ帰郷し尋常小学校校長を経て宮崎県庁に入庁、西臼杵郡、児湯郡、南那珂郡、北諸県郡の郡長を務める。西臼杵郡長在職時には県立高千穂実業学校の校長を兼務し、同校の後身に当たる宮崎県立高千穂高等学校へ引き継がれた校歌(作曲:陸軍戸山学校)を作詞している。定年退職後は日本赤十字社宮崎県支部主事を経て、日本生命保険宮崎支社に勤めながら財団法人旧佐土原藩教育会の会長の職に在った。