菅付雅信(すがつけ まさのぶ、1964年- )は、日本の評論… 菅付雅信(すがつけ まさのぶ、1964年- )は、日本の評論家、編集者、東北芸術工科大学教授。 宮崎県宮崎市生まれ。宮崎県立宮崎西高等学校卒業、法政大学経済学部中退。大学在学中から「宝島」編集部でアルバイトを始め、「月刊カドカワ」「Cut」「エスクァイア日本版」編集部を経て独立。「コンポジット」「インビテーション」「エココロ」の編集長を歴任する。株式会社グーテンベルクオーケストラ代表取締役。東北芸術工科大学教授。
西山 利佳(にしやま りか、1961年 - )は、日本の児童… 西山 利佳(にしやま りか、1961年 - )は、日本の児童文学評論家。児童文学研究者。青山学院大学コミュニティ人間科学部准教授。宮崎県高千穂町生まれ。 1980年に宮崎県立日南高等学校を卒業後、都留文科大学国文学科に学ぶ。大学3年時に日本児童文学者協会主催「夏のゼミナール」に参加し、以降、日本児童文学者協会有志による「児童文学評論研究会」に参加。1986年、東京学芸大学大学院教育学研究科国語教育専攻修士課程修了。1987年から城西大学附属城西中学校・高等学校、翌1988年からは日本児童教育専門学校で教鞭をとる。 青山学院女子短期大学子ども学科准教授を経て、2022年青山学院大学コミュニティ人間科学部コミュニティ人間科学科准教授。
西村 徳文(にしむら のりふみ、1960年1月9日 - )は… 西村 徳文(にしむら のりふみ、1960年1月9日 - )は、宮崎県串間市出身の元プロ野球選手(外野手・内野手、右投両打)・監督・コーチ、野球解説者・評論家。吉本興業所属。 千葉ロッテマリーンズとオリックス・バファローズの両球団で監督とコーチを務めた。現役時代のニックネームは「走る将軍」。 幼少期の西村は、地元・串間の方言で「おちゃかろ」と言われるほどのイタズラ好きな子供だったという。串間市立有明小学校には野球部が存在しなかったため、兄とキャッチボールで遊び、串間市立福島中学校に進学してから本格的に野球を始めている。中学まではそれほど俊足ではなかったが、走り幅跳びでは裸足で6m以上跳んだ。 中学生から野球の練習に励み、1974年には主将を務めて、当時宮崎県中学校体育連盟主催の県大会の会場となる完成直後の宮崎市営球場のこけら落としの試合に逆転勝利したのを皮切りに5勝してこの大会で優勝している。
尾崎 真理子(おざき まりこ、1959年10月18日- )は… 尾崎 真理子(おざき まりこ、1959年10月18日- )は、日本の文芸評論家、元読売新聞文化部記者、元早稲田大学文化構想学部教授。 宮崎県宮崎市生まれ。青山学院大学文学部卒業後、文芸担当を志して読売新聞に入社。1992年より文化部記者として「文芸時評」欄をおよそ10年担当。作家へのインタビューにも定評がある。読売新聞東京本社文化部長(2016~17年)、2011年編集委員。2015年、『ひみつの王国 評伝石井桃子』で芸術選奨文部科学大臣賞受賞、第34回新田次郎文学賞受賞、平成27年度宮崎県文化賞(芸術部門)受賞、2016年度日本記者クラブ賞受賞、第46回大宅壮一ノンフィクション賞候補。2020年読売新聞を退社し、早稲田大学文化構想学部教授。
池田 親興(いけだ ちかふさ、1959年5月17日 - )は… 池田 親興(いけだ ちかふさ、1959年5月17日 - )は、宮崎県宮崎市出身の元プロ野球選手(投手、右投右打)、野球解説者、野球評論家、YouTuber。 愛称はチカドン、チカ、チカさん。 高鍋高等学校入学時より野球を始める。 1976年、2年生の時にエースとして夏の甲子園県予選準決勝に進出するが、日南高に敗退。翌年も県予選で敗れ、甲子園には出場できなかった。 1977年のドラフト会議では阪神タイガースに4位指名されるが、進学を理由に入団拒否し、スポーツ推薦入学で法政大学に進学。2年上に住友一哉、2年下に和田護(日産自動車)と好投手がおり、東京六大学野球リーグでは4年次の秋季リーグで2勝するにとどまった。
水谷 実雄(みずたに じつお、1947年11月19日 - )… 水谷 実雄(みずたに じつお、1947年11月19日 - )は、宮崎県串間市出身の元プロ野球選手(外野手、内野手)・コーチ、解説者・評論家。
山崎 哲(やまざき てつ、1946年6月21日 - )は、日… 山崎 哲(やまざき てつ、1946年6月21日 - )は、日本の劇作家、時事評論家。本名は渡辺康徳。 宮崎県宮崎市生まれ。宮崎県立宮崎大宮高等学校時代から演劇活動を始める。1970年、広島大学文学部中退。上京し、唐十郎の状況劇場に入団。 1971年、劇団「つんぼさじき」を旗揚げ。1979年にこれを解散し、流山児祥の「演劇団」を経て、1980年に藤井びん、竹内一郎らと劇団「転位・21」を旗揚げ。 1981年、『うお伝説』『漂流家族』で第26回岸田國士戯曲賞受賞。1987年、『エリアンの手記』『ジロさんの憂鬱』『まことむすびの事件』で紀伊國屋演劇賞受賞。 1994年、水戸芸術館運営委員に就任。「転位・21」の活動を休止。
大崎 昭一(おおさき しょういち、1945年1月15日 - … 大崎 昭一(おおさき しょういち、1945年1月15日 - )は、宮崎県延岡市出身の元騎手・評論家。 記者の質問に対して弱気のコメントをすることが多く「泣きの昭ちゃん」と言われ、レースでは激しく大胆な騎乗ぶりで名手として活躍。 実子の大竹正博は美浦所属の調教師。 父がアングロアラブの生産を行っていたため、七人兄弟の末っ子で幼少期から馬に親しみ、11歳の時には馬に乗っていた。中学の先輩にはメジロボサツ・イナボレスなどに騎乗した矢野一博に田島日出雄、同級生には安田伊佐夫がいた。そうした環境で育った大崎は体が小さかったため、迷うことなく騎手を目指した。 中学卒業後は安田と同じ列車に乗って上京し、馬事公苑騎手養成長期課程に入り、高橋隆・清水出美・簗田善則・久保敏文・領家政蔵・鹿戸明・久保田秀次郎・笹倉武久と同期になった。
武上 四郎(たけがみ しろう、1941年4月8日 - 200… 武上 四郎(たけがみ しろう、1941年4月8日 - 2002年8月23日)は、宮崎県宮崎市出身のプロ野球選手(内野手)・コーチ・監督、解説者・評論家。 中学時代から子分を40人も持つガキ大将で、進学校の宮崎大宮高校では100m走を10秒9で走る俊足であった。1年次の1957年に夏の甲子園に出場しているが、自身の出場はなかった。 高校卒業後は1961年に中央大学へ進学し、東都大学野球リーグでは3年次の1963年秋季リーグ、4年次の1964年秋季リーグと2度の優勝を経験。3年時のエースは三浦宏(北海道拓殖銀行)であった。1964年10月には東京五輪デモンストレーションゲームとして開催された日米大学野球選抜試合に二塁手として出場している。
池江 泰郎(いけえ やすお、1941年3月1日 - )は、日… 池江 泰郎(いけえ やすお、1941年3月1日 - )は、日本中央競馬会(JRA)の元調教師、元騎手で現在は競馬評論家、馬主である。 騎手時代には「逃げの池江」の異名を取り、通算3275戦368勝、うち重賞で17勝を挙げた。代表的騎乗馬にはヤマピットがいる。1979年に調教師へ転身、メジロデュレンによる菊花賞を始めとして数々のGI級競走を制し、1994年にJRA顕彰馬に選出されたメジロマックイーン、日本生産馬として初めて国外の国際GI競走を制したステイゴールド、2005年に中央競馬史上6頭目のクラシック三冠を達成したディープインパクト(JRA顕彰馬)など、数々の活躍馬を手掛けた。2011年に調教師引退。
秋村 功(あきむら いさお、1932年7月24日 - 199… 秋村 功(あきむら いさお、1932年7月24日 - 1990年7月4日)は、日本の歌人・短歌評論家、環境問題を専門とする国際公務員(元国際連合環境計画(UNEP)支援措置部長)。一橋大学商学部卒。本名崎村久夫。宮崎県宮崎市出身。 未来短歌会の同人で、我妻泰(田井安曇)の「未来手帖」のあとを継ぎ、洗練された文章を記していた。その我妻泰と歌誌『河』を編む。岡井隆が吉本隆明と定型論争を繰り広げた際は、アメリカ社会学や社会心理学の知識を授けてブレーンとなった。 1958年、「短歌散文化の性格」で第3回現代短歌評論賞受賞。 晩年は環境問題に取り組み、国際湖沼委員会などの設立に尽力した。 野村総合研究所上席研究員の崎村夏彦は長男。
宗 左近(そう さこん、1919年5月1日 - 2006年6… 宗 左近(そう さこん、1919年5月1日 - 2006年6月20日)は、日本の詩人・評論家・仏文学者・翻訳家。本名は古賀 照一(こが てるいち)。法政大学名誉教授。文芸誌『同時代』同人。 福岡県遠賀郡戸畑町(後の北九州市戸畑区)に生まれる。天籟寺小学校、戸畑小学校、宮崎第二小学校、宮崎中学(現・宮崎県立宮崎大宮高等学校)、小倉中学(現・福岡県立小倉高等学校)を経て上京。旧制一高を卒業後、1942年、東京帝国大学哲学科に入学した。1945年4月、召集により横須賀海兵隊に入隊したが、精神錯乱を装い除隊というエピソードもある。 同年5月25日の東京大空襲により、母を亡くす。母と一緒に逃げ込んだ墓地の中で炎に取り囲まれた彼が「炎の一本道」(『絆――ドキュメント・わが母』)を通って脱出しようと走り去った時、母が転倒。
富松 良夫(とみまつ よしお、1903年3月 - 1954年… 富松 良夫(とみまつ よしお、1903年3月 - 1954年11月)は、日本の詩人、作詞家、文芸評論家。 教育家富松柏の長男として宮崎県都城市姫城町に生まれる。母方の親戚に有馬馨がいる。 6歳のとき脊髄カリエスにかかり身体障害者となる。翌年には生母を亡くし、伯母に背負われて小学校に通った。1917年に高等小学校を卒業、1919年にキリスト教の洗礼を受ける。1925年に文芸誌「盆地」を刊行し、1929年に詩誌「白」を主宰。いずれもガリ版刷りであった。1930年に友人坂元彦太郎の助力により第一詩集『寂しき候鳥』を出版。1938年、黒木清次らと「竜舌蘭」を創刊。 独学で美術論、音楽論、宗教論を書き、またフランス語を学び訳詩もした。