浜田 到(はまだ いたる、1918年6月19日 - 1968… 浜田 到(はまだ いたる、1918年6月19日 - 1968年4月30日)は、日本の歌人、詩人、医師。ロサンゼルス出身。 1912年、農園を経営していた両親が移住していたロサンゼルスに生まれ、4歳のとき帰国。両親の出身地である鹿児島県国分市(現・霧島市)に育つ。鹿児島県立第一中学校(現鹿児島県立鶴丸高等学校)在学中に短歌を始め、旧制姫路高等学校、旧制岡山医科大学を卒業。 1935年に、一中の教員であった安田尚義が主宰する潮音系短歌雑誌『山茶花』に短歌作品を発表。異色ある作品として注目される。以後、『歌宴』『工人』を経由。 1944年に岡山医科大学卒業後、鹿児島市内の済生会病院に勤務(内科医)。 1951年、中井英夫に見出され『短歌研究』8月号の「モダニズム短歌特集」に塚本邦雄らとともに寄稿、1960年には塚本邦雄、寺山修司、山中智恵子、菱川善夫らとともに同人誌「極」に参加。
古川 哲史(ふるかわ てつし、1912年5月8日 - 201… 古川 哲史(ふるかわ てつし、1912年5月8日 - 2011年8月22日)は、日本の倫理学者、歌人。東京大学名誉教授、国際武道大学名誉教授。日本弘道会元副会長。
西村 数(にしむら かず、1911年8月24日 - 2006… 西村 数(にしむら かず、1911年8月24日 - 2006年7月1日)は、日本の俳人。「ホトトギス」同人。本名は西村 一意(かずおき)。教育者でもあり、鹿児島県の公立高等学校の教頭や校長等を歴任。 鹿児島県谷山村麓(現・鹿児島市谷山中央)にて、教育者の藤太郎とトミの嫡子として生まれ、少年期は清渓学舎で郷中教育を受ける。1929年(昭和4年)に鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)を卒業した後、神宮皇學館で学び卒業。 1929年(昭和4年)に17歳で句作を始め、1932年(昭和7年)に「ホトトギス」九月号で初入選。数年後、関西ホトトギス大会で虚子特選を得て、虚子を生涯師と仰ぐ。1935年(昭和10年)、佐賀県伊万里町で教員となり、当地で森永杉洞に師事。
坂口 利雄(さかぐち としお、1910年 - 1979年5月… 坂口 利雄(さかぐち としお、1910年 - 1979年5月9日)は、日本の昭和時代に活動した作詞家、歌人。 鹿児島県出身。名前の表記を「利夫」とする資料もある。 1910年(明治43年)、鹿児島県川辺郡西加世田村(現在の南さつま市笠沙町)片浦に生まれる。鹿児島県第一師範学校を卒業後、川辺実科高等女学校他で教鞭を執る。この時期より『多磨』への投稿を通じて北原白秋に師事し、1938年(昭和13年)刊の『多磨第一歌集』に短歌4首が採録されている。第二次世界大戦下では中国大陸へ渡り、大同の国民学校で教頭となった。 終戦を経て日本に引き揚げ、万世町立益山中学校の教務主任在職時に鹿児島県が南日本新聞社と合同で開催した県民歌の懸賞募集で応募作が入選する。
藤後 左右(とうご さゆう、1908年1月21日 - 199… 藤後 左右(とうご さゆう、1908年1月21日 - 1991年6月11日)は、鹿児島県出身の俳人、医師(医学博士)。本名惣兵衛。 東志布志村(現志布志町)生。志布志尋常高等小学校尋常科、旧制鹿児島県立志布志中学校(現鹿児島県立志布志高等学校)、旧制第七高等学校造士館理科を経て、1928年京都帝国大学医学部に入学し、京大三高俳句会に入会。『ホトトギス』に投句を始め、高浜虚子に師事。在学中の1930年に『ホトトギス』巻頭。1931年、「噴火口近くて霧が霧雨が」により『日本新名勝俳句』の帝国風景院賞(高浜虚子選)を獲得。1932年京大医学部卒業。1933年、平畑静塔らと「京大俳句」創刊。 大学卒業後は松尾内科を経て京都市立病院に勤務。
篠原鳳作(しのはら ほうさく、1906年1月7日 - 193… 篠原鳳作(しのはら ほうさく、1906年1月7日 - 1936年9月11日)は、日本の俳人。本名は篠原国堅(くにかた)。旧号は未踏、雲彦。鹿児島県出身。無季俳句で有名。 1906年(明治39年)、鹿児島市で生まれる。1923年(大正12年)鹿児島県立第二鹿児島中学校(旧制鹿児島二中、現鹿児島県立甲南高等学校)を卒業。1926年(大正15年)第七高等学校造士館(現鹿児島大学)文科卒業。1929年(昭和2年)東京帝国大学法学部を卒業。不景気のため就職口がなく、また病弱のため都会での就職を避け郷里で句作に没頭。1928年(昭和3年)、「ホトトギス」に初入選。「ホトトギス」、「京鹿子」、「馬酔木」など、初学時代は多くの俳誌に投句した 1931年(昭和6年)より沖縄県立宮古中学校 (旧制)の英語教諭を務める。
山下 秀之助(やました ひでのすけ、1897年11月29日 … 山下 秀之助(やました ひでのすけ、1897年11月29日 - 1974年4月4日)は、日本の医師・歌人。短歌雑誌『創作』の若山牧水、『潮音』の太田水穂に師事し、吉植庄亮主宰の『橄欖』を経て、1946年『原始林』(第2次)を札幌市で創刊。北海道の歌壇の基礎を築いた一人と評価され、戦前・戦後の北海道文壇・歌壇の指導的な存在であった。 1897年(明治30年)11月29日、鹿児島県鹿児島市東千石町に生まれる。鹿児島第一中学校、第七高等学校造士館を経て、1922年(大正11年)東京帝国大学医学部を卒業。同年5月、北海道帝国大学医学部助手として北海道に移る。北大医学部講師、小樽病院を経て、移住四年後の1926年(大正15年)から国鉄傘下の札幌鉄道病院(現在のJR札幌病院)に勤務。
杉田 久女(すぎた ひさじょ、1890年(明治23年)5月3… 杉田 久女(すぎた ひさじょ、1890年(明治23年)5月30日 - 1946年(昭和21年)1月21日)は、鹿児島県出身の日本の俳人。本名は杉田 久(すぎた ひさ)。高浜虚子に師事。長谷川かな女、竹下しづの女とともに、近代俳句における最初期の女性俳人で、男性に劣らぬ格調の高さと華やかさのある句で知られた。家庭内の不和、師である虚子との確執など、その悲劇的な人生はたびたび小説の素材になった。 大蔵省書記官・赤堀廉蔵と妻・さよの三女として鹿児島県鹿児島市で生まれる。父の転勤に伴い、12歳になるまで沖縄県那覇市、台湾嘉義県、ついで台北市と移住して過ごす。1908年(明治41年)、東京女子高等師範学校附属高等女学校(現・お茶の水女子大学附属中学校・お茶の水女子大学附属高等学校)を卒業。
岩谷 莫哀(いわや ばくあい、本名:岩谷 禎次、1888年(… 岩谷 莫哀(いわや ばくあい、本名:岩谷 禎次、1888年(明治21年)4月18日 - 1927年(昭和2年)11月20日)は、日本の歌人、編集者。鹿児島県生まれ。 鹿児島県薩摩郡宮之城村湯田(現在のさつま町)に生まれる。川内中学校(現在の鹿児島県立川内高等学校)に進学、今井白楊と同窓となり文学を志し、「秀才文壇」などに投稿。第七高等学校造士館(現在の鹿児島大学)を経て、東京帝国大学法科大学経済学科を卒業。東大では尾上柴舟に学んだ。 短歌雑誌『車前草』を創刊。編集者として『桜草』や、橋田東聲主宰の『珊瑚礁』など、他の短歌雑誌でも活躍、のちに『水甕』を創刊し、同誌に専念する。 1916年、出版社「莫哀社」を起こすも事業に失敗し、翌年には明治製糖に入社して台湾に渡る。
萬造寺 齊(まんぞうじ ひとし、1886年(明治19年)7月… 萬造寺 齊(まんぞうじ ひとし、1886年(明治19年)7月29日 - 1957年(昭和32年)7月9日)は、日本の歌人、小説家、英文学者。鹿児島県生まれ。 鹿児島県日置郡串木野町羽島(現在のいちき串木野市)の裕福な地主の家に生まれる。旧制川内中学から旧制第七高等学校を経て東京帝国大学英文科卒業。東京で与謝野鉄幹に師事し、「明星」、「スバル」に参加、堀口大學から「短編実作者の第一人者」と評された。また石川啄木、高村光太郎、北原白秋、森鷗外らと親交し、東大卒業後は愛媛県西条中学校などで教鞭をとった。 28歳の時、加世田の私有地を売った資金で「我等」を創刊するも下宿の火事により原稿が消失、廃刊。京都に移り住み、「街道」を発行して再起を図るも1944年、戦時統制による紙不足でまたも廃刊、戦後は農地改革により地主としての地位を失い、故郷に戻る願いも叶わず1957年、京都で70年の生涯を終えた。