三輪 桓一郎(みわ かんいちろう、1861年4月21日(文久… 三輪 桓一郎(みわ かんいちろう、1861年4月21日(文久元年3月12日) - 1920年(大正9年)2月1日)は、理学博士。東京物理学講習所(後の東京物理学校、現在の東京理科大学)の創立者の一人である。 墓標は、谷中霊園内の寛永寺霊園に所在。
東京大学:5,428人
三輪 桓一郎(みわ かんいちろう、1861年4月21日(文久… 三輪 桓一郎(みわ かんいちろう、1861年4月21日(文久元年3月12日) - 1920年(大正9年)2月1日)は、理学博士。東京物理学講習所(後の東京物理学校、現在の東京理科大学)の創立者の一人である。 墓標は、谷中霊園内の寛永寺霊園に所在。
天野 為之(あまの ためゆき、1861年2月6日(万延元年1… 天野 為之(あまの ためゆき、1861年2月6日(万延元年12月27日) - 1938年(昭和13年)3月26日)は、明治・大正・昭和期の経済学者、ジャーナリスト、政治家、教育者、法学博士。衆議院議員、東洋経済新報社主幹、早稲田大学学長、早稲田実業学校校長を歴任した。勲三等瑞宝章受章。
有賀 長雄(ありが ながお、万延元年10月1日(1860年1… 有賀 長雄(ありが ながお、万延元年10月1日(1860年11月13日) - 大正10年(1921年)5月17日)は、日本の法学者、社会学者。法学博士。文学博士。姓はあるがとも。
高橋 鉉太郎(たかはし げんたろう、1860年9月29日〈万… 高橋 鉉太郎(たかはし げんたろう、1860年9月29日〈万延元年8月15日〉 - 1949年〈昭和24年〉2月28日)は、日本の化学者、教育者。香川県尋常中学校校長、第三高等学校(現・京都大学)教授等を歴任。第三高等学校名誉教授。 旗本永井左門の代官であった河内国大和田庄野口村(現・門真市)在住の漢学者・高橋俊太郞篤敬の長男として生まれる。父篤敬は柔術剣術の目録を取り、囲碁の才に長け、江戸で近藤真琴に就いて算術・代数学を、明治維新後は敷田年治の門人として国学を学び、明治4年(1871年)より堺県に出仕、新暦1874年(明治7年)より奈良県学校掛となり、一時は奈良師範学校長を務めた博学多芸の人物であった。
奥田 義人(おくだ よしと / よしんど / ぎじん、186… 奥田 義人(おくだ よしと / よしんど / ぎじん、1860年7月31日〈万延元年6月14日〉- 1917年〈大正6年〉8月21日)は、明治時代から大正時代にかけての日本の官僚・政治家・法学者。学位は、法学博士。従二位勲一等。男爵。号は秋軒。 衆議院議員(当選2回)、貴族院議員(勅選)、第1次山本内閣で文部大臣兼司法大臣を歴任したほか、晩年には請われて東京市長も務めている。また中央大学の創設者の一人で、第2代学長。 因幡国邑美郡栗谷町(現在の鳥取市栗谷町)に生まれる。幼名は留三郎。父の奥田鉄蔵は禄高300石の鳥取藩士で、作事組頭、武術師範を務めた。 7歳のとき藩の儒者坂田順蔵の門弟となり、藩校・尚徳館に入学。
隈本 有尚(くまもと ありたか、1860年7月24日(万延元… 隈本 有尚(くまもと ありたか、1860年7月24日(万延元年6月7日) - 1943年(昭和18年)11月26日)は、日本の教育者、天文学者、数学者、心理学者、占星術師。福岡県立中学修猷館初代館長、長崎高等商業学校初代校長、朝鮮総督府中学校初代校長。 久留米藩士の子として後の久留米市螢川町に生まれる。幼名は井上木六郎。生後まもなく隈本家の養子となる。1872年(明治5年)11歳で久留米藩の藩校である好生館(洋学所、同年11月柳河藩の洋学校と合併し宮本中学校となる)に入学し、柘植善吾や英人宣教師ジョージ・オーウェンから、英語、幾何学、地理、博物学を学ぶ。 1875年(明治8年)官立東京英語学校、1876年(明治9年)官立東京開成学校予科(1877年(明治10年)に官立東京英語学校と統合して東京大学予備門となる)理科を経て、1878年(明治11年)9月東京大学理学部に第一期生として入学し、星学を専攻する。
横山 又次郎(よこやま またじろう、万延元年4月25日(18… 横山 又次郎(よこやま またじろう、万延元年4月25日(1860年6月14日) - 昭和17年(1942年)1月20日)は、日本の古生物学者。「dinosaur」を恐竜(恐龍)と和訳し、最初に日本で恐竜を紹介した人物でもある。 長崎県出身。オランダ通詞(通訳)横山家の分家、7代又次右衛門の次男として生まれる。幕末維新期の長崎の英語学校で学んだ。 1882年(明治15年)、東京大学理学部地質学科を卒業。農商務省御用掛となり、1886年(明治19年)からドイツに留学し、古生物学を専攻した。1889年(明治22年)に帰国し、東京帝国大学理科大学教授に任命された。1891年(明治24年)に理学博士の学位を得た。
高田 早苗(たかた さなえ、1860年4月4日(安政7年3月… 高田 早苗(たかた さなえ、1860年4月4日(安政7年3月14日) - 1938年(昭和13年)12月3日)は、明治時代から昭和初期にかけての日本の政治家・政治学者・教育者・文芸批評家。学位は、法学博士。号は半峰。 衆議院議員、貴族院議員、文部大臣、早稲田大学総長などを歴任した。 1860年4月4日(安政7年3月14日)、江戸・深川(現在の東京都江東区)に生まれる。神田の共立学校(現・開成中学校・高等学校)や官立の東京英語学校(のちの一高)などで英語を学び、大学予備門を経て、1882年(明治15年)に東京大学文学部哲学政治学及理財学科を卒業。文学部の授業では外山正一、中村敬宇、信夫恕軒の授業に感化され、黒川真頼の授業が一番役に立ったという。
山川 義太郎(やまかわ ぎたろう、安政7年3月14日(186… 山川 義太郎(やまかわ ぎたろう、安政7年3月14日(1860年4月4日) - 昭和8年(1933年)1月27日)は日本の電気学者。 武蔵国高麗郡下赤工村(現・埼玉県飯能市下赤工)の山川辰蔵(埼玉県令)の長男。1875年、工部大学校(現・東京大学工学部)で電信学を学び卒業、工学士となる。1887年には工科大学校助教授に任ぜられ、1896年、官命で欧米諸国に留学し主に電気学を研究した。3年後の1899年に帰国すると東京帝国大学(現・東京大学)教授に昇進し、工学博士の学位を受けた。 1914年から1916年まで電気学会の会長をつとめ、電気学の権威として知られた。1919年に海外派遣を命じられ、再度欧米諸国を研究視察した。
山田 直矢(やまだ なおや、1860年4月1日(万延元年3月… 山田 直矢(やまだ なおや、1860年4月1日(万延元年3月11日) - 1939年(昭和14年)1月9日)は、明治から昭和初期にかけての日本の鉱山学者、実業家。大久保利世の孫、大久保利通の甥。 薩摩藩士の山田有庸とスマ(大久保利世三女)の次男として鹿児島城下で生まれる。 1874年に上京し、伯父の大久保利通宅に寄宿。東京英語学校に入学する。1877年に大学予備門、1885年に旧東京大学を卒業し、理学士を授与される。 1886年、正八位となる。翌年依願免官後、ドイツへ留学。1889年の帰国後、大島高任の娘である大島ヒサと結婚。 1894年に帝国大学工科教授に就任。1897年、三井鉱山(現・日本コークス工業)に入社し、同年5月に分家する。
穂積 八束(ほづみ やつか、1860年3月20日〈安政7年2… 穂積 八束(ほづみ やつか、1860年3月20日〈安政7年2月28日〉 - 1912年〈大正元年〉10月5日)は、日本の法学者。東京帝国大学法科大学長。貴族院議員。法典調査会査定委員。 伊予宇和島藩士の穂積家に生まれる。鈴木(穂積)重樹の三男。長兄の穂積重頴は第二十国立銀行頭取。東京帝国大学法学部教授、民法起草者の一人である穂積陳重は次兄。正三位勲一等。前妻は伊達宗城家令・西園寺公成の長女さと(早世)、後妻は浅野総一郎(初代)(浅野財閥創始者)の長女まつ。 明治22年から始まった民法典論争に際し発表した論文「民法出テゝ忠孝亡フ」(法学新報第5号、明治25年8月25日)で非常に有名だが、本文中に登場する文言ではなく、穂積陳重によると題名は江木衷の発案。
石川 千代松(いしかわ ちよまつ、1860年1月30日(万延… 石川 千代松(いしかわ ちよまつ、1860年1月30日(万延元年1月8日) - 1935年(昭和10年)1月17日)は、日本の動物学者。進化論を日本に紹介したことで知られる。 1909年には、琵琶湖岸の滋賀県水産試験場の池でコアユの飼育に成功し [リンク切れ]、全国の河川に放流する道を開いた。 遡って、ドイツ留学から帰国した1889年(明治22年)秋、帝国博物館学芸委員を兼務し、1900年からは天産部長、動物園監督になり、各国と動物を交換して飼育種目を増やした。1907年頃、石川はハーゲンベックから上野動物園にじらふ(きりん)を求め、日本で初めて見られるようにした。後に、列車での輸送許可を得てなかったとされ、解雇された。
斎田 功太郎(さいた/さいだ こうたろう、1859年12月2… 斎田 功太郎(さいた/さいだ こうたろう、1859年12月28日(安政6年12月5日)- 1924年(大正13年)1月22日)は、日本の植物学者である。 信濃松代藩士の斎田虎尾の長男として生まれる。10代前の斎田仁右衛門が真田信幸に仕えてからの家柄であった。儒学者竹内錫鳴や藩校の文武学校で漢籍や和算を学ぶ。その傍らで家計のために樵夫と共に田野の耕しに携わり、木版彫刻も習得した。明治維新後の1874年(明治7年)に上京し、訓蒙学舎で学んだ後に同人社に入る。その後は東京大学予備門の前身である官立東京英語学校に入学し、1881年(明治14年)に卒業した後に旧制東京大学(後の東京帝国大学)地質学科に入学した。
和田 雄治(わだ ゆうじ、1859年9月29日(安政6年9月… 和田 雄治(わだ ゆうじ、1859年9月29日(安政6年9月4日) - 1918年(大正7年)1月5日)は日本の気象学者、海洋学者。東京大学理科大学物理学科を卒業し中央気象台の前身である内務省地理局測量課気象掛に勤め、気象事業の統轄と気象の調査研究に一生をささげた。暴風警報や天気予報の創始者である。主な業績は1880年の富士山頂での気象観測、日本近海の海流調査、及び研究。また東京物理学講習所(現東京理科大学)の設立者の一人でもある。 1893年農商務省水産調査所の水産調査委員会会員として海流瓶による日本近海の海流調査を提唱し、1893,94,95年に海流瓶を放って親潮、黒潮の状況を調査した。科学的に日本近海の海流が調査されたのは初めての事だった。
木場 貞長(こば さだたけ、1859年9月28日(安政6年9… 木場 貞長(こば さだたけ、1859年9月28日(安政6年9月3日) - 1944年(昭和19年)6月3日)は明治時代から昭和初期にかけての日本の官僚、法学者。正三位勲一等、法学博士。 文部次官、行政裁判所評定官、貴族院議員を歴任した。 薩摩藩士で、判事や神職を務めた木場清生(きよなり、木場伝内)の子。 東京大学卒。文部省に入り、伊藤博文政府団の一行に留学生として抜擢され、ドイツに留学、大日本帝国憲法作成に貢献する。ドイツではハイデルベルク大学にて、心理学、法学、政治学の博士課程を修了する。帰国後は文部大臣森有礼の下で、文部参事官として、近代国家としての教育制度の確立に尽力。高等教育会議、臨時教育会議の委員も務め、教育行政、学制改革にも携わる。
河本 重次郎(こうもと じゅうじろう、安政6年8月16日(1… 河本 重次郎(こうもと じゅうじろう、安政6年8月16日(1859年9月12日) - 昭和13年(1938年)4月4日)は、日本の医学者、眼科医。帝国大学名誉教授、医学博士。日本近代眼科の父。号は光堂。 但馬国豊岡(現・兵庫県豊岡市)出身。藩校稽古堂で池田草庵に学ぶ。13歳の時、和田垣謙三らと共に郷土の先輩の吉村寅太郎に連れられ上京。横浜在住の叔父・中江種造方からドイツ語の学校へ通う。 東京大学医学部入学。首席で卒業。卒業後は同学部外科学教室の助手を務める。 明治18年(1885年)にドイツ・ベルリン大学に留学。明治22年(1889年)東京大学医学部眼科学教室主任教授に着任。明治24年(1891年)、医学博士の学位を初めて眼科で受けた。
青山 胤通(あおやま たねみち、安政6年5月15日(1859… 青山 胤通(あおやま たねみち、安政6年5月15日(1859年6月15日) - 大正6年(1917年)12月23日)は、日本の医学者。専門は内科学。医学博士。1906年、帝国学士院会員・勲三等瑞宝章、1916年、勲一等瑞宝章、1917年12月14日、男爵叙爵。 江戸の麻布広尾の苗木藩下屋敷で藩士・青山景通の三男として生まれ、美濃国恵那郡苗木(現在の岐阜県中津川市苗木)にて育つ。幼名は捨松、助松。 1869年、平田信胤(平田鐵胤の子)の養子となり胤道と改名するが、1871年に養父の信胤が亡くなったため青山家へ戻る。 1882年(明治15年) 東京大学医学部卒業後、東京大学医学部病理学教室助手に就任。
難波 正(なんば まさし、1859年5月14日(安政6年4月… 難波 正(なんば まさし、1859年5月14日(安政6年4月12日) - 1920年(大正9年)12月22日)は、元電気学会会長の工学博士。東京物理学講習所(後の東京物理学校、現在の東京理科大学)の創立者の一人である。京都の疏水を利用した発電法の考案のほか、蓄電池の研究・開発を行った。 長男の難波幸一は九州帝国大学電気工学科卒、同大学名誉教授、次男の難波勝二は京都帝国大学法学部卒業後、横浜正金銀行を経て東洋大学名誉教授、五男の難波捷吾は国際電気通信技師、次女・春江の夫は住友原子力工業取締役・高州紀雄、三女・環の夫は京福電気鉄道専務・石川敬介(同社会長石川芳次郎長男)。
中川 久知(なかがわ ひさとも、1859年4月23日(安政6… 中川 久知(なかがわ ひさとも、1859年4月23日(安政6年3月21日)- 1921年(大正10年)11月12日)は、明治から大正期の博物学者、政治家。衆議院議員、九州博物学会終身会長。青年期に一時、板倉久知を名乗る。熊本県近世博物学の開拓者。 岡藩主・中川久昭の二男として生まれる。藩校・由学館で漢籍を学んだ。1871年(明治4年)上京し、丹羽家塾、逢坂学舎、東京英語学校、開成学校で学んだ。1877年(明治10年)東京大学理学部に入学。同年10月13日、旧安中藩主板倉家当主・板倉種子(板倉勝殷四女)の入夫となり家督を相続したため東大を中退。しかし、1880年(明治13年)1月17日に隠居し、同月19日に離縁となり中川家に復籍した。
浅野 応輔(あさの おうすけ、1859年4月10日(安政6年… 浅野 応輔(あさの おうすけ、1859年4月10日(安政6年3月8日) - 1940年(昭和15年)9月23日)は、明治から昭和時代前期の電気工学者、通信技術者。 備中国都宇郡茶屋町(現・岡山県倉敷市)に生まれる。浅口郡船穂村の医師浅野意俊の三男。 1881年(明治14年)工部大学校電気工学科(現:東京大学)を卒業し、同年工部大学校教官となる。同校助教授、東京電信学校長兼幹事、逓信省電務局電気試験所(現:電子技術総合研究所)初代所長、逓信技師、電気試験所所長を経て、1899年(明治32年)東京帝国大学工科大学(現:東京大学工学部)教授となる。その後、早稲田大学教授、早稲田大学工科長を経て1920年(大正9年)早稲田大学理工学部学部長となる。
土方 寧(ひじかた やすし、安政6年2月12日(1859年3… 土方 寧(ひじかた やすし、安政6年2月12日(1859年3月16日)– 昭和14年(1939年)5月18日)は、貴族院勅選議員、法学者。専門は民法学。帝国学士院会員。弟子に石坂音四郎、末延三次など。 土佐国高岡郡佐川村(現在の高知県高岡郡佐川町)に、土佐藩士土方直行の子として生まれる。1873年(明治6年)より、東京英語学校、開成学校、大学予備門で学んだ。1878年(明治11年)、東京大学法学部に入り、1882年(明治15年)に卒業した。 卒業後、文部省御用掛となり、翌年に東京大学法学部(のち東京帝国大学法科大学)助教授に任命された。また英吉利法律学校の創設発起人に名を連ね、講師も務めた。1887年(明治20年)よりイギリスのミドル・テンプルに留学した。
吉田 彦六郎(よしだ ひころくろう、安政6年1月23日〈18… 吉田 彦六郎(よしだ ひころくろう、安政6年1月23日〈1859年2月25日〉- 昭和4年〈1929年〉3月3日)は日本の化学者。京都帝国大学理工科大学教授。 安政6年(1859年)、福山藩の家老吉田豊辰の四男として現在の広島県福山市西町に生まれる。 明治4年(1871年)、大学南校に入学し、明治10年(1877年)に東京帝国大学理学部化学科でロバート・ウィリアム・アトキンソンに師事、メントールの研究を行う。 明治11年(1878年)、日本化学会の前身となる化学会の初代会員となった。明治13年(1880年)卒業して農商務省に入り漆の研究を始める。生漆の成分を分画して主成分を漆酸と名付けた。さらに他のたんぱく質成分が含まれていることを突き止め、漆の硬化作用は漆酸が酵素の作用によって空気中の酸素と化合することによるとした。
中野 初子(なかの はつね、安政6年1月5日(1859年2月… 中野 初子(なかの はつね、安政6年1月5日(1859年2月7日) - 1914年(大正3年)2月16日)は、明治時代の電気工学者。男性。佐賀県出身。 佐賀藩士中野卜斉の二男として肥前小城郡にて生まれる。1873年(明治6年)、工部省電信寮に出仕していた長兄の中野宗宏(後に外信局次長)を頼って上京し、佐賀出身の初代電信頭石丸安世の塾に入った。翌年工部省工部寮小学校に入学する。のち工部大学校(現:東京大学工学部)に進み、イギリスの電気工学者ウィリアム・エドワード・エアトンに師事し、在学中の1878年(明治11年)3月25日、藤岡市助、浅野応輔らと共に中央電信局開局祝宴にて日本初のアーク燈を灯した。
小柴 保人(こしば やすと、安政6年1月2日(1859年2月… 小柴 保人(こしば やすと、安政6年1月2日(1859年2月4日) - 大正13年(1924年)5月9日)は日本の工学博士。第二高等中学校(現東北大学教養部)教授。旧制鹿山中学校(現在の千葉県立佐倉高等学校)を経て東京大学理学部(土木科)卒。土木学会会員。
隈川 宗雄(くまがわ むねお、安政5年10月13日(1858… 隈川 宗雄(くまがわ むねお、安政5年10月13日(1858年11月18日) - 1918年(大正7年)4月7日)は、日本の医学者。土木工学者(工学博士)の原龍太は実兄。 福島藩出身。藩医の原有隣の二男として生まれ、隈川宗悦の養子となった。1883年(明治16年)、東京大学医学部を卒業し、東京大学医学部第一医院当直医・東京大学御用掛となった。1884年(明治17年)から1889年(明治22年)までドイツに留学し、ベルリン大学で学んた。帰国後、駒込病院医長を経て、1891年(明治24年)に東京帝国大学医科大学教授に就任し、医化学講座を担当した。また同年に医学博士の学位を得、1908年(明治41年)に帝国学士院会員にえらばれた。
江木 衷(えぎ まこと/ちゅう、1858年10月25日(安政… 江木 衷(えぎ まこと/ちゅう、1858年10月25日(安政5年9月19日) - 1925年(大正14年)4月8日)は、日本の法学者。弁護士。
高木 友枝(たかぎ ともえ、1858年9月8日(安政5年8月… 高木 友枝(たかぎ ともえ、1858年9月8日(安政5年8月2日) - 1943年(昭和18年)12月23日)は、陸奥国泉藩(福島県)出身の医学者、細菌学者。日本統治時代の台湾で台湾総督府医学校第2代校長、台湾電力(台電)初代社長を務め、ペスト撲滅や電力開発などに貢献。後藤新平による台湾近代化政策のもとで医学教育と医療行政の礎を築いたことから『台湾医学・衛生の父』として知られているほか、戦前台湾の民主化運動(zh:臺灣民主化)を支持し、活動家に転じた門下生にも影響を与えた。 陸奥国菊多郡泉藩松小屋村(現在の福島県いわき市泉地区・渡辺町松小屋)で出生。 東京大学医学部(現・東京大学大学院医学系研究科・医学部)在学時に高木は先輩の北里柴三郎(1853-1931)と交流もあった。
安井 小太郎(やすい こたろう、1858年7月29日〈安政5… 安井 小太郎(やすい こたろう、1858年7月29日〈安政5年6月19日〉 - 1938年〈昭和13年〉4月2日)は、日本の漢学者。名は朝康、号は朴堂(安井朴堂)。安井息軒の外孫。著作に『日本儒学史』など。 1858年、江戸出身。母親は安井息軒の長女の須磨子。父親は息軒の門人で攘夷志士の中村貞太郎(北有馬太郎)。 1862年、小太郎が幼少の頃、貞太郎が清河八郎をかくまった罪で逮捕され獄死する。貞太郎は逮捕前に家族に罪が及ぶのを避けて離婚したため、小太郎は息軒に引き取られて育つ。とくに9歳から14歳の間、息軒の故郷の日向国宮崎郡(現在の宮崎県)で暮らす。 1871年、宮崎から東京に出て息軒の三計塾に入る。
中沢 岩太(なかざわ いわた、1858年5月12日(安政5年… 中沢 岩太(なかざわ いわた、1858年5月12日(安政5年3月29日) - 1943年(昭和18年)10月12日)は、明治から大正時代の日本の応用化学者。帝国学士院会員。工学博士。京都帝国大学理工科大学初代学長、京都高等工芸学校初代校長を務めた。大学教授のほか、官庁の役職や民間企業の顧問も務め、官民学で黎明期の日本の無機化学工業(主に酸・アルカリ工業やガラス工業)を指導し、発展に寄与した。また、日本の近代窯業の育ての親であるワグネルのもとで陶芸の染料研究に従事したほか、自らも趣味で日本画を描き美術展の審査員を務めるなど、化学者である一方美術工芸にも深い関わりを持ち、日本の美術工芸の近代化・発展に功績を残した。
山根 正次(やまね まさつぐ、安政4年12月23日 (185… 山根 正次(やまね まさつぐ、安政4年12月23日 (1858年2月6日) - 大正14年(1925年)8月29日)は、日本の衆議院議員(中正倶楽部→大同倶楽部→立憲同志会)、医学者。 長門国阿武郡椿郷東分村(現在の山口県萩市)出身。長州藩の医学館であった好生堂で蘭学を、中学校でドイツ人教師からドイツ語を学んだ。東京大学医学部を卒業し、長崎医学校一等教諭に任じられた。1885年(明治18年)、長崎でコレラが大流行すると、検疫委員として防疫に尽力した。 1887年(明治20年)よりドイツ・オーストリアに留学し、法医学を学んだ。帰国後は、警察医長、医務局長、警視庁第三部長を歴任した。 1902年(明治35年)、第7回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。
野呂 景義(のろ かげよし、1858年 - 1923年)は愛… 野呂 景義(のろ かげよし、1858年 - 1923年)は愛知県出身の冶金学者。東京帝国大学の教授として多くの後進を育て、日本近代製鉄の礎を築いた田中製鉄所や八幡製鉄所に技術指導を行う。日本鉄鋼協会の初代会長も務め「日本の冶金学の父」と呼ばれる。 旧尾張藩士、野呂伊三郎の二男。1858年(安政5年)に後の名古屋市橦木町で生まれる。1874年(明治7年)に愛知英語学校へ入り、1877年(明治10年)上京し開成学校予科を経て1882年(明治15年)帝国大学理学部採鉱冶金学科を卒業。卒業後直ちに母校の助教授に任ぜられ、ドイツ人の採鉱冶金教授のクルト・ネットーの下で学生を指導する傍ら冶金学の研究を続けた。
尾澤 主一(おざわ しゅいち、1858年 - 1889年6月… 尾澤 主一(おざわ しゅいち、1858年 - 1889年6月21日)は、日本の医師、医学者(小児科学)。学位は医学士(東京大学・1883年)。姓の「澤」は「沢」の旧字体のため、新字体で尾沢 主一(おざわ しゅいち)とも表記される。旧姓は陣ノ內(じんのうち)。旧姓の「內」は「内」の旧字体のため、新字体で陣ノ内(じんのうち)とも表記される。 帝国大学医科大学助手などを歴任した。 武蔵国出身の医師である。東京大学医学部で学び、帝国大学医科大学にて小児科を担当した。また、ドイツ国の医学者であるカール・シュローダーの著作の翻訳を手掛けるなど、西洋の進んだ医療を紹介し、大日本帝国の医学の発展に尽力した。ドイツ国に留学したものの病にかかり、帰国途上に清で客死した。
白石 直治(しらいし なおじ、安政4年10月29日(1857… 白石 直治(しらいし なおじ、安政4年10月29日(1857年12月15日) - 1919年(大正8年)2月17日)は、明治から大正時代の土木技術者、土木工学者、東京帝国大学教授、衆議院議員、実業家。旧姓は久家。 土佐藩儒で漢学者の久家種平(忘斎)、峰の長男として土佐国長岡郡十市村(現・高知県南国市十市)に生まれ、1874年(明治7年)白石栄の養嗣子となる。13歳の時、土佐藩校・致道館に学ぶ。母の弟・中島信行の影響により勤王論に刺激され、長州に走ったこともあったが、維新後上京し後藤象二郎家に寄寓する。 1881年(明治14年)東京帝国大学工科大学土木学科卒業。農商務省を経て、東京府勤務となる。1882年(明治15年)竹内綱の二女・菊と結婚。
清水 郁太郎(しみず いくたろう、安政4年10月13日〈18… 清水 郁太郎(しみず いくたろう、安政4年10月13日〈1857年11月29日〉 - 明治18年2月26日〈1885年〉)は、日本の医学者、産婦人科医。医学博士第1号。初代の東京大学医学部産婦人科学教授。広島県吉津村(現・福山市)生まれ。 慶応元年(1865年)、藩校誠之館(現・広島県立福山誠之館高等学校)に入学、早くからその穎才を認められ明治2年(1869年)には、全国各藩の俊才数十名が選抜された東京遊学に、16歳から20歳という年齢制限が有るにもかかわらず12歳にして選ばれる。 明治4年(1871年)、大学南校(現・東京大学)入学、独学を専攻。翌明治5年(1872年)、大学東校(現・東京大学医学部)に転入。
阪田 貞一(さかた ていいち、1857年10月14日(安政4… 阪田 貞一(さかた ていいち、1857年10月14日(安政4年8月27日) - 1920年(大正9年)12月1日)は、明治-大正期の日本の工学者。 江戸(後の東京府東京市、現・東京都区部)生まれ。阪田長十郎の二男、阪田貞明の叔父。工部大学校(東京大学工学部の前身の1つ)卒業。1890年、欧米に留学し機械工学を研究。帰国後、東京工業学校教授。のち同校の校長や後身の東京高等工業学校(現: 東京工業大学)校長などを務めた。 日本機械学会の第3、15、18、20、23期幹事長を務めた。 1920年12月1日、胃潰瘍の療養中に心臓麻痺で死去、享年63歳。
巌谷 立太郎(いわや りゅうたろう、1857年10月2日(安… 巌谷 立太郎(いわや りゅうたろう、1857年10月2日(安政4年8月15日) - 1891年(明治24年)1月24日)は、明治期の鉱山学者、日本新聞社創立発起人。東京大学理学部教授・農商務省鉱山局技師として採鉱冶金術の改良に貢献した。滋賀県出身者で初の工学博士(博士登録番号10番)。 旧暦安政4年8月15日(1857年10月2日)、近江国水口で生まれる。巌谷家は代々水口藩典医を務め、祖父は巌谷玄通、父は明治維新後太政官一等書記・貴族院議員を務めた漢学者の巖谷一六(本名は修、明治の三筆の一人)。立太郎は長男として誕生した。 6歳より水口にて藩儒中村栗園に学び神童と称され、明治元年(1868年)京都で神山鳳陽に師事して漢学を学んだ。
平賀 義美(ひらが よしみ、安政4年8月6日(1857年9月… 平賀 義美(ひらが よしみ、安政4年8月6日(1857年9月23日) - 昭和18年(1943年)3月2日)は、日本の応用化学者。初名は石松决(いしまつ さだむ)。 筑前国(現・福岡県)出身。福岡藩の貢進生として1870年に大学南校入学。ロバート・ウィリアム・アトキンソンに師事して理化学を学び、1878年東京大学化学科卒業。その後、イギリス・オーエンス大学に留学し、有機化学と染色を学んだほか、現地の縫製会社で働いて実地研修をした。 帰国後の1881年に東京職工学校教諭。1882年に親戚の判事・平賀義質の死去の際、その娘婿となり、名前を平賀義美に改名。1890年、農商務省技師となる。商工局第三課長時代に、新しく農商務大臣に就任した後藤象二郎が局長人事に不満をもったことから1893年に退職し無職となったが、1894年に大阪府立商品陳列所長となり、大阪府の工業顧問にも就任した。
渡辺 渡(わたなべ わたる、安政4年7月27日(1857年9… 渡辺 渡(わたなべ わたる、安政4年7月27日(1857年9月15日) - 大正8年(1919年)6月29日)は、日本の冶金学者。 長崎県出身。大学南校を経て、1879年(明治12年)、東京大学理学部を卒業し、東京大学校助教授となった。1882年(明治15年)から1885年(明治18年)まで冶金鉱山学研究のためドイツに留学し、フライベルク鉱山大学に学ぶ。1886年(明治19年)、東京帝国大学工科大学教授に就任し、農商務省技師を兼ね佐渡鉱山局に勤務した。また宮内省で御料鉱山設置の構想が進むと、御料局技師・理事・佐渡支庁長に任命された。1891年(明治24年)には工学博士の学位を得た。しかし1896年(明治29年)に御料鉱山構想が中止になると退官した。
中浜東一郎(なかはま とういちろう、安政4年7月7日(185… 中浜東一郎(なかはま とういちろう、安政4年7月7日(1857年8月26日)- 1937年(昭和12年)4月11日)は、日本の医師、医学者。ジョン万次郎の子。 中浜万次郎の長男として江戸土佐藩邸中屋敷にて出生。明治5年(1872年)、横浜十全医院に入り医学を研修、翌6年(1873年)に大学東校に入り、明治14年(1881年)に(旧)東京大学医学部を卒業。 1881年(明治14年)に福島県医学校校長に任命され、その後、岡山・金沢各医学校教授兼病院長を歴任。1885年(明治18年)10月、内務省の命により、衛生学に属する部分の研究のためドイツへ留学差遣される。1886年(明治19年)1月、ライプツィヒ大学衛生試験所の衛生学ホフマン教授に師事する。
三浦 守治(みうら もりはる、安政4年5月11日〈1857年… 三浦 守治(みうら もりはる、安政4年5月11日〈1857年6月2日〉 - 大正5年〈1916年〉2月2日)は明治・大正期の病理学者。帝国大学医科大学の初代病理学教授、帝国学士院会員などをつとめた。東京帝国大学名誉教授、従二位勲二等瑞宝章受章。 磐城国田村郡御木沢村(現福島県田村郡三春町)に、三春藩士・村田七郎兵衛の次男として生まれ、幼いとき三浦義純の養子となった。 明治2年(1869年)藩校の講文堂に入る。寄宿舎の同期に加藤木重教がいる。明治5年(1872年)東京に出て岡千仭の門に入り漢学を修めた。明治6年(1873年)大学東校に入り、明治14年(1881年)東京大学医学部を首席で卒業し、内科助手となった。
前田 元敏(まえだ もととし、安政4年5月4日(1857年5… 前田 元敏(まえだ もととし、安政4年5月4日(1857年5月26日) - 1927年(昭和2年)1月24日)は戦前日本の英学者。土佐藩出身。岐阜県立岐阜県尋常中学校大垣分校初代校長、日本中学校教頭、郁文館中学校教頭。 安政4年(1857年)5月4日土佐国高知城下(高知県高知市廿代町11番地)に土佐藩槍指南前田元幸の嫡男として生まれた。文久3年(1863年)寺子屋に学び、慶応3年(1867年)5月15日祖父及と藩主山内豊範に御目見した。 明治2年(1869年)藩校致道館に入学して漢学を学び、明治5年(1872年)7月から英学を学び、廃館後、明治6年(1873年)5月共立学舎英語学校に入学して引き続き英学を学んだ。
佐藤 佐(さとう たすく、1857年3月6日〈安政4年2月1… 佐藤 佐(さとう たすく、1857年3月6日〈安政4年2月11日〉 - 1919年〈大正8年〉3月3日)は、明治期の医師、医学者、順天堂医院副院長。大日本薬局方調査會委員。 佐倉藩士井上信利の三男井上虎三として生まれ、11歳で藩医佐藤尚中に入塾する。大学東校に入り、1878年夏、脚気の再発で足腰が立たないまでの症状に陥ったが翌年から復学、1881年3月、東京大学医学部を卒業。卒業が確定となった事で佐藤尚中の三女:楽との婚姻を結び、佐藤家へ養嗣子となる。 同期は三浦守治、高橋順太郎、中濱東一郎、森林太郎、賀古鶴所であった。 明治15年(1882年)2月4日、佐藤佐と同じく明治14年度派遣留学生、三浦守治、榊俶、高橋順太郎とフランス客船メンザリー号で横浜港を出発、3月23日にベルリンに到着、ドイツ及びオーストリアに私費留学、1886年(明治19年)に帰朝し、順天堂医院の内科医療に従事する。
的場 中(まとば なか、安政3年10月12日(1856年11… 的場 中(まとば なか、安政3年10月12日(1856年11月9日) - 1933年(昭和8年)4月20日)は、日本の冶金学者、工学博士。工部大学校(現・東京大学工学部)卒業、冶金鉱山学研究のためドイツに留学、東京帝国大学工科大学教授、東京帝国大学名誉教授の称号を得た。 伊勢国山田(現在の三重県伊勢市)出身。1882年(明治15年)、工部大学校鉱山学科を卒業。工部大学校助教授、東京帝国大学工科大学助教授を歴任した。1890年(明治23年)から1893年(明治26年)まで冶金鉱山学研究のためドイツに留学した。1894年(明治27年)、東京帝国大学工科大学教授となり、1899年(明治32年)に工学博士の学位を得た。
藤田 隆三郎(ふじた たかさぶろう、1856年6月4日(安政… 藤田 隆三郎(ふじた たかさぶろう、1856年6月4日(安政3年5月2日) - 1930年(昭和5年)12月27日)は、日本の法律家。東京大学法学部卒業(1878年)。英吉利法律学校(中央大学の前身)の創立者の一人。名古屋控訴院長、中京法律専門学校初代校長等を務めた。位階および勲等は正三位・勲二等。父は宇和島藩士・藤田敏興。 宇和島藩伊達家に代々仕える中堅武士の家に生まれ、早くに母をコレラで亡くし、父と兄は藩の仕事のため宇和島を離れていたため、姉と二人で暮らし、藩内演武場に設けられた英蘭学稽古場で三瀬周三に英語を学んだほか、山鹿流の兵学も学ぶ。 維新後、本格的に英語を習うため1869年に父に連れられ大阪に出て、大阪運上所長だった同郷出身の土居通夫を介して英国領事館通訳の蔡慎吾宅に寄寓し、同じく通訳官であったウィリアム・ジョージ・アストンから英語を習いはじめ、アストンの東京英国公使館転勤に伴って上京。
瀬川 昌耆(せがわ まさとし、安政3年4月17日〈1856年… 瀬川 昌耆(せがわ まさとし、安政3年4月17日〈1856年5月20日〉- 1920年(大正9年)12月21日)は、日本の医学者、小児科医。医学博士。瀬川小児病院初代院長。
高橋 順太郎(たかはし じゅんたろう、安政3年3月28日(1… 高橋 順太郎(たかはし じゅんたろう、安政3年3月28日(1856年5月2日) - 大正9年(1920年)6月4日)は明治・大正期の、医師、医学博士、薬理学者。東京帝国大学医科大学、初代薬物学教授。医術開業試験医員、日本薬局方調査委員、理学文書目録委員会委員、東京帝国大学評議委員などをつとめた。正三位勲一等瑞宝章。通称:順太郎、諱:信之(もりゆき)。石川県金沢市出身。著作に「河豚之毒」「肝油ノ効果ヲ論ス」「『ファゴール』二就テ」など 安政3年3月28日(1856年5月2日)、加賀藩知行御算用者小頭高橋荘兵衛(110石・通称:荘兵衛、諱:作善)・石橋鈴(御算用者:石橋良蔵・長女)の嫡男として、金澤勘解由町(金沢市瓢箪町)に生まれる。
丹羽 藤吉郎(にわ とうきちろう、1856年3月8日(安政3… 丹羽 藤吉郎(にわ とうきちろう、1856年3月8日(安政3年2月2日)- 1930年(昭和5年)3月12日)は、日本の薬学者である。 佐賀藩士だった丹羽与左衛門の次男として生まれる。佐賀藩校を経て、廃藩置県により1871年(明治4年)に大学校に入学し、当時お雇い外国人として来日していたドイツ人のヤーコプ・カデルリー(カドリーとも、1827年 - 1874年)からドイツ語を学んだ。その後同学校は東京帝国大学(現在の東京大学)に名称変更し、1873年(明治6年)に初めドイツ語学科に入学にし、フグ毒に関する研究に携わる田原良純らが所属した製薬学科に移る。この頃に同じくお雇い外国人として来日していたドイツ人のアレクサンダー・ランガルトに師事し、製薬化学の研究に携わった。
田中 稲城(たなか いなぎ、1856年2月11日(安政3年1… 田中 稲城(たなか いなぎ、1856年2月11日(安政3年1月6日) - 1925年(大正14年)2月22日)は明治時代から大正時代にかけての日本の官僚、図書館学者。 帝国図書館(国立国会図書館の前身)初代館長、日本文庫協会(日本図書館協会の前身)初代会長。「図書館の父」と称される。 幕末に周防国で岩国藩士末永家の三男として生まれた。幼名は辰之助。田中家の養子に入って田中林蔵、のち稲城と改名する。藩校で漢学、英語学校で英語を学んだのち、1875年に東京開成学校に入学。1881年に東京大学文学部(帝国大学文科大学の前身)和漢文学科を卒業するとともに、東京大学文学部・法学部准講師に任ぜられた。1882年には助教授に昇進するが、1886年に文部一等属に任命され、文部省の本省に転属。
井上 哲次郎(いのうえ てつじろう、1856年2月1日(安政… 井上 哲次郎(いのうえ てつじろう、1856年2月1日(安政2年12月25日) - 1944年(昭和19年)12月7日)は、明治時代の日本の哲学者・詩人。号は巽軒(そんけん)。通称「井の哲(イノテツ)」。 西洋哲学を日本に紹介し、東京大学で日本人初の哲学の教授となった。また東洋哲学研究の開拓者でもあり、保守派・体制派のイデオローグでもあり、新体詩運動の先駆者でもある。大東文化学院第2代総長、貴族院議員なども務めた。 旧姓・船越。筑前太宰府(現在の福岡県太宰府市)に医師船越俊達の三男として生まれる。少年時代、地元の儒者に四書五経を学ぶ。明治元年、博多に出て英語を学び、1871年に長崎の英学塾広運館に入学。
久原 躬弦(くはら みつる、1856年1月5日〈安政2年11… 久原 躬弦(くはら みつる、1856年1月5日〈安政2年11月28日〉 - 1919年〈大正8年〉11月21日)は明治時代から大正時代にかけての日本の化学者。理学博士。 東京大学理学部・医学部教授、第一高等学校校長、東京化学会(後の日本化学会)会長、京都帝国大学理工科大学長、京都帝国大学総長。帝国学士院会員。専門は有機化学。業績にベックマン転位の研究など。 1855年(安政2年)、代々津山藩の藩医を勤める久原家の9代・宗甫の息子として現在の津山市に生まれた。なお躬弦は化学者になったが、弟が医師となって父の後を継いでいる。津山藩の藩校で漢文や数学を、1868年(明治元年)からは箕作麟祥の塾で英語を学んだ後、1870年(明治3年)に全国から集められた貢進生の一人として大学南校(後の東京大学)に入学した。