渡辺 佳英(わたなべ よしふさ、1915年(大正4年)6月1… 渡辺 佳英(わたなべ よしふさ、1915年(大正4年)6月1日 - 1993年(平成5年)4月28日)は、日本の実業家。東洋パルプ元社長。中小企業金融公庫元総裁。元通産省官僚。 妻は、帝国海軍史上屈指の英才と評される、堀悌吉 海軍中将の次女。 星野嘉一の次男として愛知県に生まれ、外祖母・渡辺縫子の養子となる。 1937年(昭和12年)高等文官試験の行政科と司法科をとり、翌年1938年(昭和13年)3月東京帝国大学法学部法律学科を卒業。同年4月に商工省に入省。入省後間もなく、内閣法制局参事官に転じ、新憲法にも貢献した。 1948年(昭和23年)通産省に復帰。その後、繊維局化学繊維課長、資源長石炭生産局生産課長、工業技術庁調整課長、公益事業委員会審査課長、企業局企業第一課長を歴任し、1952年(昭和27年)退官。
仁杉 巌(にすぎ いわお、1915年〈大正4年〉5月7日 -… 仁杉 巌(にすぎ いわお、1915年〈大正4年〉5月7日 - 2015年〈平成27年〉12月25日)は、日本の鉄道技術者、実業家。第9代日本国有鉄道総裁(在任1983–1985年)。 東京市牛込区(現在の新宿区西五軒町)生まれ、静岡県駿東郡清水町で育った。1938年4月東京帝国大学工学部土木工学科を卒業、鉄道省入省。国鉄技師として長年勤め、1965年4月15日常務理事に就任した。この間1954年には信楽線の第一大戸川橋梁復旧の際、日本初の本格的なプレストレスト・コンクリート橋を採用し橋梁技術に革新を起こした。1966年には新幹線建設の功績より、紫綬褒章を受章、1968年4月に一旦国鉄を退く。 1971年6月1日顧問として西武鉄道に入社、同年11月1日取締役に選任され、専務取締役に就任、その後副社長となる。
山内 隆博(やまうち たかひろ、1915年3月3日 - 19… 山内 隆博(やまうち たかひろ、1915年3月3日 - 1990年10月6日)は、日本の経営者。大和証券社長を務めた。 静岡県磐田市出身。3歳で新宿区大久保に移る。少年期は野球に打ち込んだ。1938年に東京帝国大学経済学部を卒業し、同年に住友銀行に入行し、名古屋支店に勤務するもわずか半年で応召。近衛歩兵第1連隊に入営して間もなく甲種幹部候補生に合格し、盛岡陸軍予備士官学校に入学。原隊復帰後、初年兵教育を担当したのち防衛総司令部参謀附に転属。これで戦地に赴くことはないと思い1941年10月に結婚するも間もなく、11月3日に第16軍編成人員に転属、南方へと派遣される。移動中、乗船していた神州丸が雷撃で大破しながらも船にとどまり、2000ギルダーの軍資金を肌身離さず守り抜いた。
石塚 庸三(いしづか ようぞう、1915年2月19日 - 1… 石塚 庸三(いしづか ようぞう、1915年2月19日 - 1982年4月24日)は、山形県米沢市出身の実業家。東京帝国大学法学部政治学科卒。パイオニア2代目社長としてレーザーディスク事業を推進した。父は山形県立米沢興譲館高等学校教頭の石塚澄[要出典]。 1937年に東芝入社。東芝から1955年に日本電子機械工業会へ業務部長として出向。輸出問題で手腕を発揮。その後、ミツミ電機を経てスカウトされパイオニアに入社。常務、専務などを経て昭和46年社長に就任。パイオニアでは技術開発力の向上や無借金経営など財務体質の強化を図る傍ら、人材拡充にも注力。当時一介の中小企業であったパイオニアをオーディオのトップメーカーとして一流企業にまで発展させた。
吉崎 秀(よしざき ひいず、1915年 <大正4年> 1月2… 吉崎 秀(よしざき ひいず、1915年 <大正4年> 1月23日 - 1991年 <平成3年> 4月30日)は、日本の経営者。トピー工業社長を務めた。東京都出身。位階は正五位。 1939年に東京帝国大学法学部を卒業し、同年に東京シャリングに入社。日本金属取締役、東都製鋼常務、トピー工業専務を経て、1970年5月にトピー工業副社長に就任し、1977年5月には社長に昇格。1983年6月に会長を経て、1985年6月から相談役兼名誉会長を務めた。 1978年11月に藍綬褒章を受章し、1985年4月に勲三等瑞宝章を受章した。 1991年4月30日心不全のために死去。76歳没。死没日付をもって正五位に叙された。
村松 敏雄(むらまつ としお、1915年1月15日 - 19… 村松 敏雄(むらまつ としお、1915年1月15日 - 1995年5月2日)は、日本の経営者。近畿車輛社長を務めた。静岡県出身。 1939年に東京帝国大学法学部法科を卒業し。鉄道省、日本国有鉄道での勤務を経て、1964年5月に近畿車輛常務に就任し、1970年5月に専務を経て、1977年6月に副社長に就任し、1978年6月には社長に昇格。1986年6月には相談役に就任。 1995年5月2日心筋梗塞のために死去。80歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
玉井 祐吉(たまい ゆうきち、1915年(大正4年)1月11… 玉井 祐吉(たまい ゆうきち、1915年(大正4年)1月11日 - 2002年(平成14年)2月24日)は、昭和期の農民運動家、実業家、政治家。衆議院議員。 新潟県出身。1941年(昭和16年)東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業した。 日本曹達社員、日本鋼管(現JFEスチール、JFEエンジニアリング)社員を経て東山炭礦所長に就任。その後、農民運動、労働運動に加わり日本農民組合青年部、同新潟県連執行委員長、日本社会党新潟支部青年部長を務めた。 1947年(昭和22年)4月の第23回衆議院議員総選挙で新潟県第2区に日本社会党公認で出馬して初当選。1949年(昭和24年)1月の第24回総選挙で労働者農民党公認で出馬して再選されたが、選挙区内の中蒲原郡七谷村での選挙が無効となり、1950年(昭和25年)10月に再選挙が行われ改めて当選が確定し、衆議院議員に連続2期在任した。
下田 謙治(しもだ けんじ、1915年1月2日 - 1985… 下田 謙治(しもだ けんじ、1915年1月2日 - 1985年1月17日)は、日本の経営者。 東京都出身。1937年に東京帝国大学法学部法律学科を卒業し、同年に日本銀行に入行。金沢支店長、計理局長、国庫局長を歴任。1965年5月に退職し、積水化学工業専務に就任した。1969年5月に副社長に就任し、1971年5月には社長に昇格した。1973年5月に取締役相談役に就任し、1979年6月から相談役を務めた。 1985年1月17日結腸がんのために死去。70歳没。
今井 正雄(いまい まさお、1914年12月17日 - 没年… 今井 正雄(いまい まさお、1914年12月17日 - 没年不明)は、日本の経営者。明電舎社長、会長を務めた。京都府出身。 1939年に東京帝国大学経済学科を卒業し、同年に住友電気工業に入社。1962年11月に東海ゴム工業常務、1964年11月に同社専務、1965年5月に明電舎常務、1967年11月に住友電気工業取締役、1968年5月に同社常務、1972年11月に明電舎専務を経て、1974年11月には明電舎副社長に就任し、1977年6月には社長に昇格。1984年6月には会長に就任し、1991年6月から相談役を務めた。 1982年4月に藍綬褒章を受章し、1987年11月に勲三等旭日中綬章を受章。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
守屋 明男(もりや あきお、大正3年(1914年)11月26… 守屋 明男(もりや あきお、大正3年(1914年)11月26日 - 昭和59年(1984年)5月6日)は、日本の海軍軍人、商工官僚、実業家。東京計器販売(株)社長。元海軍主計少佐で通産省を経て防衛庁に精密測定機器を納入する会社を経営した。 父は元衆議院議員、元宮城県塩竈市長守屋栄夫。弟は元防衛事務次官守屋武昌。叔父は外交官守屋和郎。 宮城県人栄夫の三男。 昭和12年(1937年)高文行政科合格。翌年東京帝大政治学科卒業。商工省に入り短期現役士官(1期生)として海軍に勤務。海軍主計少佐となり昭和22年(1947年)6月通産省に復帰機械局勤務より公正取引委員会事務局会社課長に転出。昭和23年(1948年)12月退任。
若狭 得治(わかさ とくじ、1914年〈大正3年〉11月19… 若狭 得治(わかさ とくじ、1914年〈大正3年〉11月19日 - 2005年〈平成17年〉12月27日)は、日本の運輸官僚、実業家。運輸事務次官、全日本空輸社長・会長・名誉会長を歴任した。親族に若狭和朋(甥)がいる。 富山県出身。富山県立砺波中学校、旧制富山高校を経て、東京帝国大学に入学した。 1937年(昭和12年)9月、東京帝大法学部政治学科在学中に高等試験行政科に3500人中の32番目で合格した。官庁訪問に際し、若狭は同郷で内務省地方局に所属していた片岡清一に尋ねていた。片岡は若狭に対し、「内務省は、警保局(警察行政全般を指揮していた警察庁の前身)の連中が日ごとに軍人気取りで威張り出してきた。
上田 克郎(うえだ かつろう、1914年11月6日 - 20… 上田 克郎(うえだ かつろう、1914年11月6日 - 2004年9月20日)は、日本の官僚、経営者。昭和石油(後の昭和シェル石油)社長を務めた。熊本県出身。 1939年に東京帝国大学法学部を卒業し、同年に大蔵省に入省。 1956年に参事官、1959年に国税庁名古屋国税局長、1960年に関税部長、1962年に防衛庁経理局長を歴任。1964年5月に昭和石油副社長に就任し、同年11月から1968年2月までに社長を務め、在任時には、新潟地震の影響により、経営不振に陥っていた同社の再建に尽力し、経営基盤も確立させた。 2004年9月20日肝不全のために死去。89歳没。
岩崎 勝太郎(いわさき かつたろう、1914年10月8日 -… 岩崎 勝太郎(いわさき かつたろう、1914年10月8日 - 1991年5月10日)は、日本の実業家・経営コンサルタントで、元岩崎勝商事社長。三菱財閥の創始者・岩崎弥太郎の孫として東京都に生まれた。学歴は東京帝国大学法学部政治学科卒業。称号(現学位)は法学士(東京大学)。岩崎勝太郎の父・岩崎豊弥は郷純造の四男として生まれ、数え2歳で弥太郎の養子となった。 祖父の弥太郎に似て事業旺盛な人物として知られ、勝太郎が社長を務めた岩崎勝商事(のちに岩崎商事と改称)は三菱商事の契約の代行をする企業として隆盛をきわめた。だが資金難に陥ったため1979年に岩崎商事を清算し、勝太郎は経営コンサルタントに転身した。
茂木 佐平治(もぎ さへいじ、1914年 <大正3年> 9月… 茂木 佐平治(もぎ さへいじ、1914年 <大正3年> 9月28日 - 1990年 <平成2年> 6月5日)は、日本の経営者。キッコーマン社長、会長を務めた。同社創業家の茂木家(野田の醤油醸造#茂木一族)出身で10代目茂木佐平治。旧名・茂木資一郞。千葉県出身。位階は従四位。 9代目茂木佐平治の長男・資一郞として生まれる。母親の淑江も茂木一族で茂木房五郎 (5代)の妹。1938年に東京帝国大学経済学部商業学科を卒業し、同年に野田醤油(のちのキッコーマン)に入社。1952年に取締役に就任し、1974年には社長に就任。1980年3月に取締役に就任。 1979年11月に藍綬褒章を受章し、1984年11月に勲三等旭日中綬章を受章。
東條 輝雄(とうじょう てるお、1914年(大正3年)9月2… 東條 輝雄(とうじょう てるお、1914年(大正3年)9月23日 - 2012年(平成24年)11月9日)は、昭和期の日本の航空技術者、実業家。 陸軍大将・第40代内閣総理大臣:東條英機の次男として東京府東京市(現東京都)にて出生。東京府立第六中学校、旧制福岡高等学校を卒業。当初は数学が好きなので数学の先生になることを考え、大学受験時に父に相談すると、飛行機を勧められ、航空学科を選択した。1937年(昭和12年)3月、東京帝国大学工学部航空学科を卒業。同期は高山捷一、内藤子生、渋谷巌などで「花の十二年組」と呼ばれた。三菱重工業に入社し、名古屋航空機製作所に勤務。ゼロ戦の設計チームに配属され、強度計算を担当した。
飯田 良一(いいだ りょういち、1914年9月10日 - 1… 飯田 良一(いいだ りょういち、1914年9月10日 - 1979年2月6日)は、日本の経営者、銀行家。武蔵野銀行頭取を務めた。新潟県出身。 1937年に高等文官試験行政科司法科に合格、1938年に東京帝国大学法学部を卒業し、同年大蔵省に入省。1963年5月から1966年9月までに国民金融公庫理事を務めた。1966年11月に武蔵野銀行専務に就任し、1968年11月に副頭取を経て、1977年6月には頭取に就任。 1979年2月6日、がん性腹膜炎のため在任中に死去。64歳没。
平岩 外四(ひらいわ がいし、1914年(大正3年)8月31… 平岩 外四(ひらいわ がいし、1914年(大正3年)8月31日 - 2007年(平成19年)5月22日)は、愛知県常滑市出身の財界人、経営者。東京電力会長、第7代日本経済団体連合会(経団連)会長(在任、1990年(平成2年)12月21日 - 1994年(平成6年)5月27日)。 1987年(昭和62年)に名誉大英帝国勲章KBE受勲[要出典]。1997年(平成9年)、レジオンドヌール勲章受勲[要出典]。2006年(平成18年)秋の叙勲にて桐花大綬章を受章。 6歳で父親を亡くし、母親に育てられる。愛知県立第七中学校(現・愛知県立半田高等学校)の入学祝いに母親から夏目漱石全集を贈られる。一族から大学進学を反対されるが、母親が反対を押し切り、旧制第八高等学校を経て東京帝国大学法学部法律学科へと進学させた。
栃内 一彦(とちない かずひこ、1914年(大正3年)8月2… 栃内 一彦(とちない かずひこ、1914年(大正3年)8月28日 - 2009年(平成21年)11月8日)は、昭和期の官僚、実業家。第10代海上保安庁長官。 東京府(現東京都)出身。第一高等学校を経て、1940年(昭和15年)東京帝国大学経済学部を卒業。1939年(昭和14年)10月、高等試験行政科に合格。大学卒業後、逓信省に入省し管船局に配属された。 1940年、短期現役海軍主計科士官(4期)を志願。同年5月、海軍経理学校に入学し海軍主計中尉に任官。同年9月に経理学校を卒業。摩耶に配属。佐世保海軍航空隊、佐世保鎮守府第一特別陸戦隊をへて、1942年(昭和17年)3月、主計大尉に昇進し、同年10月、セレベス島(現・スラウェシ島)のケンダリで第753海軍航空隊の主計長として勤務。
釜井 章二(かまい しょうじ、1914年8月25日 - 19… 釜井 章二(かまい しょうじ、1914年8月25日 - 1997年7月20日)は、日本の経営者。安田信託銀行社長、会長を務めた。栃木県出身。 1939年に東京帝国大学法学部を卒業し、同年に安田信託(のちの安田信託銀行)に入社した。1962年5月に取締役に就任し、1966年5月に常務、1973年1月に専務を経て、1976年6月に社長に就任。1980年6月に会長に就任し、1986年6月に相談役に就任した。 1980年11月に藍綬褒章を受章し、1986年4月に勲二等瑞宝章を受章。 1997年7月20日尿管癌のために死去。82歳没。
新井 真一(あらい しんいち、1914年8月23日 - 20… 新井 真一(あらい しんいち、1914年8月23日 - 2012年1月9日)は日本の官僚、実業家。 大阪府堺市生まれ。日本万国博覧会協会の初代常任理事事務総長だったことで知られる。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
村上 素男(むらかみ もとお、1914年8月6日 - 200… 村上 素男(むらかみ もとお、1914年8月6日 - 2004年5月11日)は、日本の経営者、銀行家。東京都民銀行頭取を務めた。 東京都出身。1938年に東京帝国大学法学部法律学科を卒業し、同年に日本興業銀行に入行。1962年に取締役、1965年に常務を経て、1972年2月に東京都民銀行専務に就任し、1973年5月に副頭取を経て、1976年8月には頭取に就任。1979年6月から1982年6月までに会長を務めた。1983年3月から1988年3月に日本銀行政策委員を務めた。 1980年11月に藍綬褒章を受章。 2004年5月11日心不全のために死去。89歳没。
明石 孝(あかし たかし、1914年〔大正3年〕7月26日 … 明石 孝(あかし たかし、1914年〔大正3年〕7月26日 - 1997年〔平成9年〕5月29日 )は、近畿日本ツーリスト元社長、日本国有鉄道(国鉄)元常務理事である。 東京都出身。1938年〔昭和13年〕に東京帝国大学工学部を卒業した後に鉄道省に入省した。東京鉄道局新橋運輸部運転課長、同運転部電車課長、大阪鉄道管理局運転部長、東京鉄道管理局運転部長、運転局列車課長、名古屋鉄道管理局長、副技術長兼安全企画部長、運転局長など様々な要職での歴任を経て、1965年から1968年には国鉄常務理事東北支社長を務めた。 1968年4月に国鉄を退職し、同6月に近畿日本ツーリストに入社。顧問、専務取締役を経て、1973年から副社長を務めた。
鈴木 正雄(すずき まさお、1914年(大正3年)6月28日… 鈴木 正雄(すずき まさお、1914年(大正3年)6月28日 - 2006年(平成18年)11月7日)は、日本の実業家。三菱銀行入行を皮切りに、三菱グループで三菱重工業副社長や三菱自動車販売(現三菱自動車工業)社長・会長などを歴任した。 鈴木商店(現味の素)第2代社長鈴木忠治の六男。鈴木商店創業者の2代目鈴木三郎助は伯父。長兄に三楽オーシャン(現メルシャン)社長・会長を務めた鈴木三千代、次兄に工学博士で昭和電線電纜会長を務めた鈴木松雄、三兄に鈴木竹雄(東京大学名誉教授)、四兄に通商産業省重工業局長等や日揮会長を務めた鈴木義雄、五兄に経済同友会副代表幹事や昭和電工社長・会長を務めた鈴木治雄、弟に大蔵省国際金融局長や国際通貨基金理事などを務めた鈴木秀雄、多摩電気工業(現・真田KOA)会長を務めた鈴木泰雄がいる。
雨宮 恒之(あまみや つねゆき 1914年6月25日 - 2… 雨宮 恒之(あまみや つねゆき 1914年6月25日 - 2001年1月7日)は日本の映画プロデューサー、実業家。ペンネームは福 閑太郎(フク カンタロウ)。山梨県出身。 松本高等学校文科乙類を経て、1939年に東京帝国大学文学部美術科を卒業、東宝に入社した。 1941年の太平洋戦争中は将校となり、ジャワ島に派遣された。1945年10月から12月頃、クマヨラン(英語版)飛行場作業隊副官陸軍大尉だった彼はジャカルタ治移動演芸隊の演技指導も行った。 戦後、1949年12月28日に東宝取締役として復帰した。1952年1月25日に交通事故で亡くなった森田信義に変わって東宝撮影所所長となる。1955年9月20日に支配人制となり辞任。
松岡 謙一郎(まつおか けんいちろう、1914年(大正3年)… 松岡 謙一郎(まつおか けんいちろう、1914年(大正3年)6月13日 - 1994年(平成6年)12月23日)は、日本の実業家。日本教育テレビ(NET、現:テレビ朝日)副社長、日本ケーブルテレビジョン社長を務めた。 松岡洋右の長男としてワシントンで生まれる。東京帝国大学法学部政治学科を卒業。同盟通信に入社。短期現役海軍主計科士官(7期)を志願し、1941年8月、海軍経理学校に入校し海軍主計中尉に任官。同年12月、経理学校を卒業。第一南遣艦隊司令部付となりカムラン湾に赴任。第11根拠地隊付(サイゴン)、第2海軍航空工廠会計部勤務(木更津)を歴任。1943年(昭和18年)6月、主計大尉に進む。同年、海軍省軍務局第4課(大本営報道部)に転じ終戦を迎えた。
右近 保太郎(うこん やすたろう、1914年6月8日 - 1… 右近 保太郎(うこん やすたろう、1914年6月8日 - 1997年9月8日)は、日本の経営者。日本火災海上保険社長、会長を務めた。福井県出身。 1938年に東京帝国大学経済学部商学科を卒業し、同年に東京海上火災保険に入社。。 1946年に日本火災海上保険に転じ、1957年に常務に就任し、1958年6月には副社長に就任し、1963年7月には社長に昇格。1981年7月に会長に就任し、1984年に取締役相談役に就任。 1975年10月に藍綬褒章を受章し、1984年11月に勲三等瑞宝章を受章。。 1997年9月8日呼吸不全のために死去。83歳没。
山崎 完(やまざき ひろし、1914年 <大正3年> 4月2… 山崎 完(やまざき ひろし、1914年 <大正3年> 4月28日 - 2003年 <平成15年> 3月2日)は、日本の経営者。住友林業社長を務めた。位階は従四位。 東京都出身。1939年に東京帝国大学法学部法律学科を卒業し、同年に住友鉱業(のちの住友金属鉱山)に入社。1965年11月に取締役、1969年6月には常務を歴任。 1972年に住友林業に転じ、専務を経て、1974年11月に社長に就任し、1984年12月に会長、1993年6月に取締役相談役、1994年6月に取締役を歴任した。日本木造住宅産業協会会長も務めた。 1990年11月に勲二等瑞宝章を受章。 2003年3月2日、がん性悪液質のために死去。
末永 聡一郎(すえなが そういちろう、1914年4月21日 … 末永 聡一郎(すえなが そういちろう、1914年4月21日 - 1985年8月14日)は、日本の経営者。三菱重工業社長を務めた。福岡県出身。 1947年に東京帝国大学工学部を卒業し、三菱重工業に入社。長崎造船所長を務め、1970年5月に取締役に就任した。常務を経て、1977年6月に副社長に就任し、1981年6月に社長に昇格した。 1983年から日本航空宇宙工業会会長を務め、経済団体連合会常任理事も務めた。 1985年8月14日腎不全のために死去。79歳没。
種田 孝一(おいた こういち、1914年4月9日 - 199… 種田 孝一(おいた こういち、1914年4月9日 - 1996年9月11日)は、東京府出身の実業家。また、サッカー選手としてもハーフバック、フルバックのポジションでプレーした。叔父は種田虎雄。 東京府立五中(現・小石川高校)、旧制水戸高校を経て、東京帝国大学に入学しア式蹴球部に所属。 在学中の1936年にベルリンオリンピックのサッカー日本代表に選出された。 本来のポジションはハーフバック(現在の守備的MFに相当)だが、1936年のベルリンオリンピックでは、ドイツ到着後に現地指導者から指導を受けた日本代表が従来の2-3-5システムから3-2-5システムに変更したため、長身で守備的な種田が3バックの中央のフルバック(現在のスイーパーに相当)にコンバートされた。
牧野 耕二(まきの こうじ、1914年3月7日 - 2003… 牧野 耕二(まきの こうじ、1914年3月7日 - 2003年4月17日)は、日本の経営者。住友信託銀行社長を務めた。兵庫県神戸市出身。 1939年に東京帝国大学経済学部商業学科を卒業し、同年に住友信託銀行に入行。1960年5月に取締役に就任し、1963年11月に常務、1969年5月に専務、1972年5月に副社長を経て、1976年9月には社長に就任。1979年9月に会長に就任し、1984年6月に取締役相談役を経て、1990年6月には相談役に就任。 関西経済同友会幹事、南海電気鉄道、江崎グリコ、読売テレビ放送で各取締役なども歴任。 2003年4月17日に膵臓癌のために死去。89歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
生田 幸夫(いくた ゆきお、1914年2月11日 - 198… 生田 幸夫(いくた ゆきお、1914年2月11日 - 1989年9月18日)は、日本の経営者。富士紡績社長、会長を務めた。山口県出身。 1936年に東京帝国大学経済学部を卒業し、同年に三菱銀行に入行。1963年6月に富士紡績常務に就任し、1968年4月に専務を経て、1970年7月に社長に就任した。1980年7月に会長に就任し、1984年7月に相談役を務めた。 1989年9月18日、急性呼吸不全のために死去。75歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
堀口 定義(ほりぐち さだよし、1914年2月1日 - 20… 堀口 定義(ほりぐち さだよし、1914年2月1日 - 2005年5月11日)は、日本の詩人、官僚、実業家。 埼玉県熊谷市生まれ。国鉄御徒町駅に勤めながら苦学して専門学校入学資格検定試験(専検)に合格し1934年 第一高等学校に入る。1940年、高等試験に合格。1941年、東京帝国大学法学部政治学科卒業。大蔵省入省。管財局属。1959年、東京国税局総務部長。1960年、熊本国税局長。1961年、国税庁徴収部長。1962年調査査察部長、1964年、直税部長。1965年、原子燃料公団理事。1967年、動力炉核燃料事業団理事。1969年、忠勇社長。1975年、相談役。1976年、大阪証券金融社長。社業の傍ら、詩を書き、1978年「弾道」で日本詩人クラブ賞受賞。
武田 豊(たけだ ゆたか、1914年1月6日 - 2004年… 武田 豊(たけだ ゆたか、1914年1月6日 - 2004年2月15日)は、日本の実業家。宮城県高清水町出身。新日本製鐵(新日鉄)代表取締役会長、経済団体連合会(経団連)副会長、日本鉄鋼連盟会長などを歴任した。東京帝国大学法学部政治学科卒業。 宮城県仙台第一中学校 (現: 宮城県仙台第一高等学校 )、山形高等学校(現:山形大学)を経て1939年に東京帝国大学法学部政治学科(現:東京大学法学部政治学科)卒業後、同年4月日本製鐵(日鉄)入社。1950年同社解体により富士製鐵に移り、社長室秘書課長、人事部長などを経て、1970年3月八幡製鐵と合併し新日鉄が発足するとともに専務となり、1977年には副社長、1981年社長に昇格。
藤田 一郎(ふじた いちろう、旧姓・藪原、前名・榮、1914… 藤田 一郎(ふじた いちろう、旧姓・藪原、前名・榮、1914年〈大正3年〉1月4日 - 没年不明)は、日本の政治家、実業家。衆議院議員(広島県第一区選出)。 福岡県、藪原武彦の三男。1936年3月、東京帝国大学法学部法律学科を卒業。鉄道省に勤務する。1946年4月、第22回衆議院議員総選挙に無所属で出馬し、衆議院議員に当選。同年11月、藤田組(現フジタ)取締役副社長に就任。 藤田組副社長、広島バス会長、藤栄工業、藤栄林業各社長などをつとめる。1947年4月、第23回衆議院議員総選挙に日本社会党から出馬し、衆議院議員に当選。社会革新党に所属。1948年5月、竹中工務店に関する融資問題で衆議院不当財産取引調査特別委員会に証人喚問された。
門田 正三(かどだ まさみ、1914年(大正3年)1月1日 … 門田 正三(かどだ まさみ、1914年(大正3年)1月1日 - 2000年(平成12年)5月25日)は、昭和から平成時代の実業家。電源開発総裁。原子力委員会、海外電力調査会会長、日本電力調査委員会委員長。 熊本県出身。1938年(昭和13年)東京帝国大学法学部法律学科卒業。1951年(昭和26年)東京電力に入社し、江戸川支社長、営業部次長、同部長代理、群馬支店長を経て、1968年(昭和43年)5月に取締役営業部長となる。ついで常務、副社長を経て、1983年(昭和58年)6月には電源開発総裁に就任した。1986年(昭和61年)10月、同社顧問に転じた。 ほか、原子力委員会、海外電力調査会会長、日本電力調査委員会委員長、日本原子力産業会議顧問、同常任理事などを歴任した。
吉本 弘次(よしもと ひろつぐ、1913年12月24日 - … 吉本 弘次(よしもと ひろつぐ、1913年12月24日 - 1990年11月13日)は、日本の実業家で、西日本鉄道社長、会長を務めた。 福岡県築上郡吉富町出身。旧制福岡高等学校文科甲類を経て、1937年に東京帝国大学経済学部を卒業し、同年に西日本鉄道の前身である九州電気軌道に入社した。 経理部長、取締役、常務、専務を経て、1970年から社長に就任した。社長在任中は、1973年に九州で初めて高速バス(福岡~熊本間)を運行する一方で、1975年に路面電車の福岡市内線の主な路線を廃止し(全廃は1979年)、1972年に西鉄ライオンズを太平洋クラブに売却し、経営の合理化を進めた。 1981年から福岡商工会議所会頭を務め、国際交流にも力を入れた。
小室 恒夫(こむろ つねお、1913年10月17日 - 20… 小室 恒夫(こむろ つねお、1913年10月17日 - 2001年11月1日)は、日本の官僚、経営者。茨城県出身。 1936年に東京帝国大学経済学部経済学科を卒業し、同年に商工省に入省。貿易庁、通商産業省での勤務を経て、1958年に公益事業局長に就任し、1960年には通商局長に就任し、1961年までに務めた。 1961年に八幡化学工業(のちの新日鉄化学)副社長に就任し、1965年には社長に昇格。1979年に会長を経て、1984年から相談役を務めた。 1981年に藍綬褒章を受章し、1986年に勲二等瑞宝章を受章した。 2001年11月1日肺炎のために死去。88歳没。
柴田 健三(しばた けんぞう、1913年10月17日 - 2… 柴田 健三(しばた けんぞう、1913年10月17日 - 2004年6月27日)は、日本の経営者。 大阪府大阪市出身。1935年に東京帝国大学工学部応用化学科を卒業し、同年に日本窒素肥料に入社した。1959年5月に取締役に就任し、1964年5月から1967年5月までに常務を務めた。 1966年5月に積水化学工業専務に就任し、1971年5月に副社長に就任し、1973年5月には社長に昇格した。1979年1月に取締役相談役に就任し、1982年6月から相談役を務めた。 1980年5月に藍綬褒章を受章し、1985年11月に勲二等瑞宝章を受章した。 2004年6月27日肺炎のために死去。90歳没。
星埜 保夫(ほしの やすお、1913年9月28日 - 199… 星埜 保夫(ほしの やすお、1913年9月28日 - 1992年12月6日)は、日本の実業家。日本長期信用銀行専務取締役、高千穂商科大学第6代学長。 広島県出身。東京府立第一中学校を経て東京帝国大学法学部卒業。1936年、日本勧業銀行に入行。1952年、日本長期信用銀行に入行し専務取締役を歴任。 その他、渋沢国際学園学園長、日本ランディック社長を歴任。 1983年11月から1987年11月まで高千穂商科大学の学長を務めた。
生野 専吉(しょうの せんきち、1913年9月22日 - 1… 生野 専吉(しょうの せんきち、1913年9月22日 - 1989年6月6日)は、日本の経営者。三井信託銀行社長を務めた。東京都出身。 1937年に東京帝国大学法学部法律学科を卒業し、三井信託銀行に入行した。1971年5月から1979年6月までに社長を務め、1979年6月に相談役に就任。 1983年に勲二等瑞宝章を受章。 1989年6月6日心不全のために死去。75歳没。
小川 義男(おがわ よしお、1913年9月8日 - 2011… 小川 義男(おがわ よしお、1913年9月8日 - 2011年11月10日)は、日本の実業家。元住友軽金属工業(現・UACJ)社長・会長、名誉相談役、住軽アルミニウム工業社長、日本アルミニウム連盟会長。 北海道小樽市出身。1937年に東京帝国大学法学部を卒業し、住友金属工業に入社。企画課長、商務部長、東京支社長などを経て、1961年取締役、1962年支配人、1964年常務、1967年専務、1971年副社長。日向方斎社長の有力な後継者候補と言われたが、1974年に経営危機に陥っていた住友軽金属工業社長に転出。同社の再建に尽くした。1977年に住軽アルミニウム工業社長を兼任。1980年に住友軽金属工業会長となり、1986年に相談役となった。
高橋 政知(たかはし まさとも、1913年〈大正2年〉9月4… 高橋 政知(たかはし まさとも、1913年〈大正2年〉9月4日 - 2000年〈平成12年〉1月31日)は、日本の実業家。オリエンタルランドの元社長であり、東京ディズニーランドの誘致に関わった。太田政弘の二男。 福島県福島市出身。1961年にオリエンタルランドに専務として入社し、1978年8月に第2代社長に就任した。千葉県浦安沖の漁業権放棄に向けた補償交渉を地元漁業協同組合などと進めた後、東京ディズニーランドの建設に向けてディズニー社との交渉を担当した。 その後、世界初の「海」をテーマにしたディズニーパークである東京ディズニーシーーを含む「東京ディズニーリゾート」の実現に大きく貢献した。 東京ディズニーシーの完成を目前にした2000年1月31日午後0時38分、心不全のため東京都港区の病院で死去。
岩松 茂輔(いわまつ もすけ、1913年8月2日 - 200… 岩松 茂輔(いわまつ もすけ、1913年8月2日 - 2008年2月26日)は、日本の経営者。日立運輸、東京モノレール各社長を務めた。愛知県出身。 1937年に東京帝国大学法学部を卒業し、同年に日立製作所に入社した。常務、専務を経て、1979年に日立運輸東京モノレール副社長に就任し、翌年に社長に昇格した。1981年に子会社として東京モノレールが設立した際には、日立運輸、東京モノレール各社長に就任した。 2008年2月26日死去。94歳没。
渡辺 淳(わたなべ じゅん、1913年7月13日 - 199… 渡辺 淳(わたなべ じゅん、1913年7月13日 - 1995年4月2日)は、日本の経営者、銀行家。日本債券信用銀行頭取を務めた。愛知県名古屋市出身。 1936年に東京帝国大学経済学部経済学科を卒業し、同年に日本興業銀行に入行した。中央信託銀行常務、日本興業銀行常務、日本冶金工業会会長などを経て、1974年に日本債券信用銀行頭取に就任。1979年に顧問に就任。 1978年に藍綬褒章を受章。 1995年4月2日脳梗塞のために死去。81歳没。
近藤 要(こんどう かなめ、1913年7月8日 - 2001… 近藤 要(こんどう かなめ、1913年7月8日 - 2001年2月6日)は、日本の経営者。岐阜県出身。 1938年に東京帝国大学経済学部商業学科を卒業し、同年に日産火災海上保険に入社。1962年に取締役に就任し、1966年に常務、1971年に専務を経て、1974年に副社長に就任し、1977年4月には社長に昇格。1978年11月に取締役相談役を経て、1979年1月に相談役に就任。 1978年11月に藍綬褒章を受章。 2001年2月6日心筋梗塞のために死去。87歳没。
木村 有恒(きむら ありつね、1913年5月27日 - 没年… 木村 有恒(きむら ありつね、1913年5月27日 - 没年不明)は、日本の経営者。日産化学工業社長、会長を務めた。山形県出身。 1937年に東京帝国大学経済学部を卒業し、同年に日本興業銀行に入行。 1962年7月に日産化学工業常務に就任し、1967年12月に専務を経て、1971年7月には社長に就任。1980年7月に会長、1986年7月に取締役相談役を経て、1988年6月には相談役に就任。 1986年11月に勲三等瑞宝章を受章。
目代 渉(もくだい わたる、1913年5月8日 - 2002… 目代 渉(もくだい わたる、1913年5月8日 - 2002年2月9日)は、日本の経営者、工学博士。東洋ゴム工業社長、会長を務めた。高知県高知市出身。 1937年に東京帝国大学理学部応用化学科を卒業し、東洋紡での勤務を経て、1944年9月に東洋ゴム工業に入社。1959年5月に取締役に就任し、常務、専務を経て、1965年5月に社長に就任。1977年5月に会長に就任し、1983年6月には相談役に就任。 1977年に紺綬褒章を受章し、1978年に藍綬褒章を受章し、1983年11月に勲三等旭日中綬章を受章。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
舟橋 正夫(ふなばし まさお、1913年 <大正2年> 5月… 舟橋 正夫(ふなばし まさお、1913年 <大正2年> 5月5日 - 1996年 <平成8年> 8月16日)は、日本の経営者。古河電気工業社長を務めた。位階は正四位。 愛知県名古屋市出身。1932年に東京帝国大学経済学部商業学科を卒業し、同年に古河電気工業に入社。1964年11月に取締役に就任し、1968年7月に常務、1971年12月に専務を経て、1973年6月に副社長に就任し、1974年11月には社長に昇格。1983年6月に会長を経て、1989年6月から取締役相談役を務めた。 1980年4月に藍綬褒章を受章し、1985年11月に勲二等旭日重光章を受章した。 1996年8月16日食道がんのために死去。
中江 孝男(なかえ たかお、1913年4月30日 - 没年不… 中江 孝男(なかえ たかお、1913年4月30日 - 没年不明)は、日本の官僚・実業家。東京帝国大学在学中にバスケットボール選手として活躍し、1936年ベルリンオリンピックへの出場経験がある。のちに農林省に官僚として勤務したのち、祖父中江種造の興した中江産業に務める。志賀直哉の娘婿である。 祖父は鉱山王と呼ばれ中江産業を興した中江種造。父は種造の子・種一で、母は料理研究家として知られる中江百合(渡辺暢の娘)。 旧制成城高等学校、東京帝国大学農学部に学び、籠球部に所属。1936年ベルリンオリンピックでは、同じ東京帝大の田中秀次郎・鹿子木健日子とともにバスケットボール日本代表に選ばれた。 大学卒業後、農林省に入省し官僚となる。
鈴木 治雄(すずき はるお、1913年(大正2年)3月31日… 鈴木 治雄(すずき はるお、1913年(大正2年)3月31日 - 2004年(平成16年)7月3日)は、日本の実業家。昭和電工社長・会長や企業メセナ協議会初代会長、経団連常任理事、東京商工会議所監事などを歴任。経済同友会設立や湘南国際村発起にも関わった。フンボルト大学ベルリン名誉博士。 神奈川県葉山村生まれ。東京に転居後、麹町の永田町小学校(現・麹町小学校)に入学するも、一家の転居に伴い、3年時に白金小学校に転入し卒業。卒業後は旧制東京高等学校に入学。1936年、東京大学法学部を卒業し野村合名会社(現・野村証券)へ入社するが、1939年に昭和電工創立に伴い同社へ入社した。軍需産業を推進した理由で戦後公職追放されたものの、1951年に同社に復帰し、1971年に社長、1981年には会長に就任。