高城 元(たかぎ はじめ、1909年 <明治42年> 1月4… 高城 元(たかぎ はじめ、1909年 <明治42年> 1月4日 - 1989年 <平成元年> 11月15日)は、日本の官僚、経営者。商工組合中央金庫理事長を務めた。 東京都出身。1932年に東京帝国大学経済学部経済学科を卒業し、高文行政科にも合格。通商産業省東京通産局長、日本商工会議所、東京商工会議所各専務理事を経て、1967年11月から1975年11月までに商工組合中央金庫理事長を務めた。1976年には日刊工業新聞社社長に就任し、1978年12月に会長を経て、1980年には相談役に退いた。 1972年9月に藍綬褒章を受章し、1979年5月に勲二等瑞宝章を受章。 1989年11月15日老衰のために死去。
柴谷 貞雄(しばたに さだお、1909年1月2日 - 200… 柴谷 貞雄(しばたに さだお、1909年1月2日 - 2001年9月24日)は、日本の実業家。阪急電鉄の社長、会長を務めた。大阪府堺市出身。 東京大学法学部を卒業し、阪急電鉄に入社した。1978年、前任の森薫に続く「生え抜き」の社長に就任した。5期10年の在任期間中、1983年に日本の鉄道会社として初めて全駅に自動改札機を導入するなど革新的な経営を進め、「関西私鉄の雄」の基盤を強化した。社長在任中は阪急ブレーブスのオーナーでもあった(1980年夏から1988年)。 球団オーナー代行は山口興一(当時の阪急電鉄副社長で後に関西テレビ放送社長)、球団代表は岡田栄。阪急黄金期からの世代交代や年間観客動員の増加に向けてレディースデー、球場近辺の市民に対し感謝デーを設けるなどファンサービスを良くしてきた。
板東 依彦(ばんどう よりひこ、1908年12月10日 - … 板東 依彦(ばんどう よりひこ、1908年12月10日 - 1987年10月6日)は、日本の経営者。関西ペイント社長を務めた。 徳島県出身。1931年に東京帝国大学工学部応用化学科を卒業し、同年に関西ペイントに入社。1958年11月に取締役に就任し、常務、専務、副社長を経て、1972年5月に社長に就任。1978年5月には取締役相談役に就任し、同年6月から相談役に専任。 1973年11月に藍綬褒章を受章し、1980年11月に勲三等瑞宝章を受章。 1987年10月6日に脳梗塞のために死去。78歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
林 泰(はやし やすし、1908年 <明治41> 12月8日… 林 泰(はやし やすし、1908年 <明治41> 12月8日 - 1988年 <昭和63年> 7月1日)は、日本の経営者。山陽特殊製鋼社長を務めた。東京都出身。位階は正五位。 1932年に東京帝国大学経済学部経済学科を卒業。髙島屋での勤務を経て、1942年に日本製鉄を経て、、1950年4月に富士製鐵に転じ、1957年5月に取締役に就任し、1960年6月に常務、1967年2月に専務・日鉄セメント社長を経て、1973年7月には山陽特殊製鋼社長に就任。1980年6月に会長に就任し、1984年6月には相談役に就任。 1979年11月に勲三等瑞宝章を受章。 1988年7月1日大腸がんのために死去。79歳没。
久保 富夫(くぼ とみお、1908年11月16日 - 199… 久保 富夫(くぼ とみお、1908年11月16日 - 1990年3月22日)は、日本の技術者、経営者。 三菱重工業で飛行機の開発に携わり、大日本帝国陸軍の一〇〇式司令部偵察機では設計主務を勤めた。のちに自動車部門に転じ、三菱重工業から分社されて発足した三菱自動車工業で社長・会長・相談役を歴任した。 社長であった1973年から、三菱自動車工業は大韓民国の現代自動車へ技術供与を実施し、韓国の自動車産業の基礎を作った。 長崎県出身。1931年に東京帝国大学工学部航空学科を卒業し、三菱航空機(のちに三菱重工業となる)に就職、名古屋製作所勤務となる(堀越二郎の4年後輩に当たる)。 太平洋戦争後、日本では航空機の研究開発が連合国軍最高司令官総司令部によって、サンフランシスコ講和条約の発効まで禁じられた。
山本 孝(やまもと たかし、1908年11月14日 - 20… 山本 孝(やまもと たかし、1908年11月14日 - 2000年5月26日)は、日本の経営者。ロイヤルホテル社長を務めた。静岡県掛川市出身。ロイヤルホテル創業者山本為三郎の婿養子。 静岡県の杉山銑三郎の長男として生まれる。1931年に東京帝国大学経済学部を卒業し、同年に住友銀行に入社。1959年11月に取締役に就任し、1963年10月に常務経て、1968年5月にロイヤルホテル副社長に就任し、1973年3月には社長に昇格。1985年4月に会長を経て、1988年6月から取締役相談役兼最高顧問を務めた。 1986年4月に勲三等瑞宝章を受章した。 2000年5月26日、心不全のために死去。91歳没。
湊 守篤(みなと もりあつ、1908年11月9日 - 197… 湊 守篤(みなと もりあつ、1908年11月9日 - 1972年8月21日)は、日本の経営者。日興証券社長を務めた。 東京都出身。1923年に東京帝国大学経済学部経済学科を卒業し、同年に日本興業銀行に入行。1951年に取締役に就任し、1954年に常務を経て、1961年に日興証券副社長に就任し、1964年から1970年11月までに社長を務めた。 経済同友会副代表幹事、東京都教育委員なども歴任し、木川田一隆と共に安定成長論を唱えた。 1972年8月21日、心筋梗塞のために死去。63歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
四ツ柳 高茂(よつやなぎ こうも/たかしげ)、1908年 <… 四ツ柳 高茂(よつやなぎ こうも/たかしげ)、1908年 <明治41年> 9月4日 - 1996年 <平成8年> 3月20日)は、日本の経営者。北海道電力社長を務めた。位階は従三位。北海道函館市出身。長男は化学工学者で東北大学名誉教授の四ツ柳隆夫。 函館の資産家、四ツ柳亮策・イシの長男として生まれる。 函館市住吉小学校(現・青柳小学校)、旧制函館中学校、旧制水戸高等学校を経て、1932年に東京帝国大学経済学部経済学科を卒業。東京での生命保険会社勤務の後、肺結核に罹り故郷の函館に戻った後、1936年に帝国電力に入社、翌年には米屋を営んでいたヤエと結婚、5人の男児をもうける。1944年には乙種合格で徴兵され旭川通信隊を経て千島方面に配属が予定されるも五十音順で後の方になっていたことから配属漏れとなった。
伊部 恭之助(いべ きょうのすけ、1908年7月28日 - … 伊部 恭之助(いべ きょうのすけ、1908年7月28日 - 2001年4月16日)は、日本の実業家。住友銀行頭取・会長。関西経済同友会代表幹事、日仏クラブ世話人。 現在の東京都新宿区出身。東京開成中学(旧制)、東京高校(旧制)を経て、1933年に東京帝国大学経済学部を卒業し、同年住友合資会社入社。のちに住友銀行に移り有楽町支店長、東京事務所長などを経て、1957年取締役。常務、専務、副頭取等を歴任し、浅井孝二の後を受けて、1973年頭取に就任した。 頭取在任中、磯田一郎副頭取と共に経営危機に陥った安宅産業を伊藤忠商事に救済合併させたり、マツダやアサヒビールの再建に取り組んだ。1977年会長、のち相談役、1983年最高顧問。
野地 紀一(のじ きいち、1908年7月24日 - 1988… 野地 紀一(のじ きいち、1908年7月24日 - 1988年12月7日)は、日本の経営者。清水建設社長、会長を務めた。福島県出身。 1931年に東京帝国大学工学部建築学科を卒業し、同年に清水組(のちの清水建設)に入社。1961年5月に取締役に就任し、1964年11月に常務、1966年9月に専務を経て、1967年11月に副社長に就任し、1972年5月には社長に昇格。1981年6月に会長に就任。 1971年4月に藍綬褒章を受章し、1978年4月に勲二等瑞宝章を受章し、1986年11月には勲一等瑞宝章を受章。 1988年12月7日呼吸不全のために死去。80歳没。
上村 健太郎(うえむら けんたろう、1908年(明治41年)… 上村 健太郎(うえむら けんたろう、1908年(明治41年)7月18日 - 1981年(昭和56年)8月4日)は、兵庫県出身の内務官僚、航空自衛官、実業家である。初代航空幕僚長。位階は従三位。 1908年(明治41年)7月18日、兵庫県で陸軍中将・上村良助の長男として生まれる。東京府立四中、旧制一高卒業。府立四中、一高同期に河野一之、佐々木直がいる。1930年(昭和5年)、東京帝国大学法学部政治学科卒業し、内務省に入省。秋田県属。1944年(昭和19年)8月、警視庁官房主事。1945年(昭和20年)4月、警視庁特別高等警察部長に就任。 1952年(昭和27年)9月、保安庁長官官房長。1954年(昭和29年)7月、初代航空幕僚長に就任。
小林 勇(こばやし いさむ、1908年〈明治41年〉7月16… 小林 勇(こばやし いさむ、1908年〈明治41年〉7月16日 - 没年不明)は、日本の経営者。興国化学工業(現・アキレス)社長を務めた。 群馬県出身。小林鉄蔵・ふさの五男。興国化学工業株式会社を設立した殿岡利男とは太田中学校の同級生であった。1931年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業。 帝国生命での勤務を経て、1947年5月に双葉商会を設立し、社長に就任し、同年6月に興国化学工業常務、1962年6月に副社長を経て、1967年には社長に就任。1977年1月には会長に就任。 1970年10月に藍綬褒章を受章。
田中 四郎(たなか しろう、1908年 <明治41年> 6月… 田中 四郎(たなか しろう、1908年 <明治41年> 6月15日 - 1990年 <平成2年> 11月21日)は、日本の経営者。山陽特殊製鋼社長、会長を務めた。位階は従五位。 群馬県出身。1934年に東京帝国大学法学部英法科を卒業し、同年5月に日本製鉄に入社。1957年5月に富士製鐵取締役に就任し、1960年7月に東海製鐵専務を経て、1965年3月に山陽特殊製鋼管財人代理に就任し、1967年12月から1970年12月までに社長を務めた。 1980年11月に勲四等旭日小綬章を受章。 1990年11月21日肺炎のためにで死去。82歳没。死没日付をもって従五位に叙された。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
高橋 吉隆(たかはし よしたか、1908年4月11日 - 1… 高橋 吉隆(たかはし よしたか、1908年4月11日 - 1993年4月20日)は、日本の経営者。アサヒビール社長、会長を務めた。高橋龍太郎の長男。 愛媛県喜多郡内子町出身。1930年に東京帝国大学法学部法律学科を卒業し、同年に住友銀行に入行。京都支店長、取締役、常務、専務などを歴任し、1967年3月に副頭取に就任した。1971年2月に朝日麦酒社長に就任し、1976年2月から1980年3月までに会長を務めた。金蘭会学園理事長も務めた。 1978年11月に勲三等旭日中綬章を受章した。 1993年4月20日急性呼吸不全のために死去。85歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
野崎 利夫(のざき としお、1908年〈明治41年〉4月4日… 野崎 利夫(のざき としお、1908年〈明治41年〉4月4日 - 1989年〈平成元年〉4月11日)は、日本の新聞記者、経営者。プロ野球中日ドラゴンズ球団社長を務めた。愛知県豊橋市出身。 第八高等学校を経て、1932年に東京帝国大学文学部を卒業し、1936年に新愛知新聞社に入社。 新聞記者として勤務し、名古屋タイムズ社社長を経て、1962年には中部日本新聞社(現在の中日新聞社)取締役に就任。1964年には球団史上初めての中日ドラゴンズ球団社長に就任し、1967年までに務めた。 1989年4月11日食道ガンのために死去。81歳没。 著書に「天国と地獄の間」がある。
平野 赳(ひらの たけし、1908年3月26日 - 1988… 平野 赳(ひらの たけし、1908年3月26日 - 1988年8月13日)は、日本の実業家。新潟県出身。 1931年に東京帝国大学経済学部を卒業し、同年に日魯漁業に入社。経理部長、常務、専務を経て1972年1月に社長に就任。1975年1月には相談役に就任。 日本経済調査協議会委員長として、生鮮食品流通の問題点を取りまとめ、改善の議論の必要性を提起する(1973年)等の食生活改善のための活動、特にコールドチェーンの整備に関する言及が知られる。 1973年11月に藍綬褒章を受章。 1988年8月13日脳血栓のために死去。80歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
吉村 清三(よしむら せいぞう、1908年3月21日 - 2… 吉村 清三(よしむら せいぞう、1908年3月21日 - 2009年12月4日)は、日本の実業家。関西電力元社長、会長。奈良県御所市出身。 1934年に東京帝国大学経済学部を卒業し、大阪市電気局(のちの関西電力)に入社した。 芦原義重の後を継ぐ形で1970年からは社長を務め、1975年からは副会長を務めた。液化天然ガスの導入と原発建設の推進などにより、燃料の多様化に取り組んだ。 その一方で、1968年4月から1970年4月までに関西経済同友会代表幹事を務め、関西生産性本部会長も務めた。 1965年に藍綬褒章を受章し、1981年11月に勲一等瑞宝章を受章。 2009年12月4日肺炎により死去。101歳没
清島 省三(きよしま せいぞう、1908年 <明治41年> … 清島 省三(きよしま せいぞう、1908年 <明治41年> 3月10日 - 1993年 <平成5年> 3月7日)は、日本の経営者、銀行家。位階は従四位。 熊本県出身。1933年に東京帝国大学法学部を卒業。満州国政府、大蔵省での勤務を経て、1955年に経済企画庁審議官に就任。 1956年3月に十八銀行頭取に就任し、1983年10月には会長に就任。1989年6月に取締役相談役を経て、1990年6月には相談役に退いた 1978年11月に勲三等旭日中綬章を受章。 1993年3月7日肺炎のために死去。84歳没。死没日付をもって従四位に叙された。
瀧 潤次郎(たき じゅんじろう、1908年(明治41年)2月… 瀧 潤次郎(たき じゅんじろう、1908年(明治41年)2月20日 - 2002年(平成14年)5月4日)は、日本の愛知県名古屋市出身の実業家。瀧定株式会社で社長を務めた。 1908年(明治41年)2月20日、父・瀧廣三郎と母・まつのの次男として愛知県名古屋市に生まれる。 東京帝国大学経済学部卒業後、瀧定合名会社に入社。 1933年、大阪支店に勤務。代表社員を経て、1940年に副社長へ就任。1943年からは社長を務めた。 1959年2月10日、名古屋商工会議所副会頭に就任。 1970年、代表を退任し、会長に就く。1980年、相談役に就任。 2002年5月4日、死去。享年94。
俵田 寛夫(たわらだ ひろお、1908年〈明治41年〉2月1… 俵田 寛夫(たわらだ ひろお、1908年〈明治41年〉2月18日 - 1990年〈平成2年〉)は、日本の実業家。宇部興産 (現:UBE)元副社長・元専務、宇部サイコン(現:テクノUMG)社長。 衆議院議員、外務大臣(第151代)の林芳正は外孫。 山口県出身。三井鉱山(現・日本コークス工業)取締役の属最吉の次男に生まれ、宇部興産創立者の俵田明の養子となる。1932年(昭和7年)東京帝国大学商科卒業後、大阪高島屋本社を経て、1934年(昭和9年)4月に宇部興産沖ノ山炭鉱に転じる。 その後、1949年(昭和24年)8月取締役となり宇部鉱業所長を兼ね、1955年(昭和30年)12月常務、1960年(昭和35年)専務に就任。
田中 健之助(たなか けんのすけ、1908年 <明治41年>… 田中 健之助(たなか けんのすけ、1908年 <明治41年> 2月7日- 1993年 <平成5年> 1月9日 )は、日本の経営者。位階は正四位。 三重県四日市市出身。1930年に行文行政科に合格し、1931年に東京帝国大学法学部法科を卒業した後に鉄道省に入省した。1952年には日本国有鉄道理事に就任した。 1954年5月に近畿日本鉄道常務に就任し、1961年11月には専務に就任した。一方で、1955年には近畿日本ツーリスト社長に就任した。 1968年5月から1976年6月までに三重交通社長を務め、1976年6月から1978年6月までに防長交通及び防石鉄道社長を務めた。 1971年11月に藍綬褒章を受章し、1978年11月に勲三等旭日中綬章を受章した。
桂 広太郎(廣太郎、かつら こうたろう / ひろたろう、19… 桂 広太郎(廣太郎、かつら こうたろう / ひろたろう、1908年(明治41年)1月17日 - 2002年(平成14年)1月21日)は、日本の実業家、薬学者、華族。貴族院公爵議員、薬学博士。 東京市で桂与一(桂太郎長男)、てい(新田忠純二女)夫妻の長男として生まれる。祖父・桂太郎の死去に伴い1913年11月28日、公爵を襲爵。1938年1月16日、満30歳に達し貴族院公爵議員に就任。火曜会に所属して1947年5月2日の貴族院廃止まで在任した。 1931年、東京帝国大学医学部薬学科を卒業。同年、同薬学科副手となる。その後、国民体力審議会委員、内閣委員、厚生省委員、国土計画審議会委員などを務めた。 1948年、桂化学研究所を設立し社長に就任。
具島 勘三郎(ぐしま かんざぶろう、1908年1月4日 - … 具島 勘三郎(ぐしま かんざぶろう、1908年1月4日 - 1970年9月24日)は、日本の経営者。福岡県福岡市出身。 1930年に東京帝国大学法学部法科を卒業し、1932年10月に福岡日日新聞社に入社。1943年に西日本新聞社に転じ、1949年に取締役に就任し、1957年に常務、1959年に専務を経て、1969年5月に社長に就任。 1970年9月24日、慢性膵臓炎のために死去。62歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。 12008年3月で終刊。 2資本・友好関係のあるテレビ局・ラジオ局。
小林 隆(こばやし たかし、1907年 <明治40年> 11… 小林 隆(こばやし たかし、1907年 <明治40年> 11月12日 - 1980年 <昭和55年> 11月17日)は、日本の経営者。日鉄鉱業社長を務めた。 東京都出身。1931年に東京帝国大学経済学部経済科し、1939年に日鉄鉱業に入社。 1954年に取締役に就任し、1961年11月に常務、1965年11月に専務を経て、1967年11月には社長に就任。1971年11月には相談役に就任した。 1980年11月17日、心不全のために死去。73歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
高橋 良麿(たかはし よしまろ、1907年(明治40年)11… 高橋 良麿(たかはし よしまろ、1907年(明治40年)11月3日 - 1991年(平成3年)2月20日)は、日本の内務・警察官僚、実業家。最後の官選和歌山県知事。 大分県出身。高橋兼太郎の二男として生まれる。第五高等学校を卒業。1928年10月、高等試験行政科試験に合格。1929年、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。内務省に入省し、熊本県属となる。 1941年、岩手県書記官・経済部長に就任。1942年3月から1943年12月まで南西方面海軍民政府セレベス民政部経済部長を務めた。以後、岡山県部長・警察部長、東京都経済局食糧課長、警視庁刑事部長、京都府警察部長を歴任。 1947年2月、和歌山県知事に就任。
岡田 貢助(おかだ こうすけ、1907年 <明治40年> 1… 岡田 貢助(おかだ こうすけ、1907年 <明治40年> 10月14日 - 1993年 <平成5年> 1月18日)は、日本の経営者。川崎汽船社長、会長を務めた。位階は従四位。 三重県出身。1931年に東京帝国大学経済学部経済学科を卒業し、同年に第一銀行に入行。 1953年10月に川崎製鉄に出向。当時川崎製鉄は千葉製鉄所の建設中だったが、当時の日本銀行総裁・一万田尚登がこの方針に懐疑的で、メインバンクの第一銀行に対し、人員の派遣を含むバックアップ体制の確立を求めていた。このため第一銀行では常務の大森尚則を川崎製鉄の会長に送り込む方針を固めたが、大森は当時兜町支店長だった岡田を伴うことを求め、その結果出向が決まった。
河崎 邦夫(かわさき くにお、1907年9月23日 - 19… 河崎 邦夫(かわさき くにお、1907年9月23日 - 1988年4月7日)は、日本の経営者。 大阪府大阪市出身。1925年に東京帝国大学法学部法律学科を卒業し、翌年に日本毛糸紡に入社。1955年に東洋紡績取締役に就任し、常務、専務を経て、1963年に副社長に就任し、1966年6月には社長に昇格した。1974年6月に会長に就任し、1978年7月に相談役に就任し、1986年7月から名誉顧問を務めた。関西電力監査役も務めた。 1969年11月に藍綬褒章を受章し、1979年11月に勲二等旭日重光章を受章した。 1988年4月7日心不全のために死去。80歳没。
武田 満作(たけだ まんさく、1907年(明治40年)9月1… 武田 満作(たけだ まんさく、1907年(明治40年)9月17日 - 1991年(平成3年)12月22日)は、日本の経営者、銀行家。日本勧業銀行頭取を務めた。愛知県海部郡弥富町(現・弥富市)出身。 1932年に東京帝国大学経済学部経済学科を卒業し、1933年に日本勧業銀行に入行。 全国金融統制会出向。東海、北陸地方商工局事務官を経て勧銀に復帰。調査課長、調査部次長、業務部次長、審査室審議役、調査部長、人事部長を歴任。 1957年11月に取締役に選任。常務、副頭取を経て、1966年12月には頭取に昇格した。 1969年2月、4月末からの全国銀行協会連合会長の激職を控え、持病の糖尿病を心配して、横田郁副頭取に頭取の座を譲り会長に退いた。
浅井 博(淺井博、あさい ひろし、1907年9月13日 - … 浅井 博(淺井博、あさい ひろし、1907年9月13日 - 2008年4月3日)は、日本の実業家。ヒガシマル醬油社長。 兵庫県揖保郡龍野町(のち龍野市、現・たつの市)生まれ。名古屋の旧制第八高等学校を経て、1931年、東京帝国大学経済学部を卒業する。卒業後は浅井醤油に入る。1942年、浅井醤油は合併で龍野醤油となり、取締役に就任する。その後、専務、副社長を経て、1963年、社長に就任する。翌年、龍野醤油をヒガシマル醬油に改称する。会長、名誉会長を経て、1998年、相談役となる。また、龍野市議会議員、同議長、龍野商工会議所会頭、龍野観光協会会長、日本醤油協会会長などを務めた。 2008年4月3日、心不全のため相生市内の病院で死去した。
家永 英吉(いえなが えいきち、1907年 <明治40年> … 家永 英吉(いえなが えいきち、1907年 <明治40年> 8月28日 - 1978年 <昭和53年> 6月28日)は、日本の経営者。山陽特殊製鋼社長を務めた。 佐賀県出身。1935年に東京帝国大学文学部言語学科を卒業し、1942年4月に日本製鐵に入社。 1959年8月に富士製鐵に転じ、1968年5月に大鉄工業社長を経て、1970年12月から1973年7月までに山陽特殊製鋼社長を務めた。 1978年6月28日、気管支肺炎のために死去。70歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
堀 啓三(ほり けいぞう、明治40年(1907年)8月27日… 堀 啓三(ほり けいぞう、明治40年(1907年)8月27日 - 昭和59年(1984年))は日本の実業家。元小西六写真工業(現コニカミノルタ)取締役。 妻・幸代は岡田商店の元代表取締役会長岡田洲二の妹、岡田汽船の元社長岡田庄作の三女。 鳥取県境港市相生町出身。了吉の三男。 昭和7年(1932年)東大経済学部卒業。小西六入社、輸出、業務各課長、小田原工場長歴任。昭和22年(1947年)営業部長 昭和24年(1949年)取締役に選ばれ、販売部長、東京営業所長、業務部長の後販売本部長、日本色彩映画監査役。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
広岡 知男(旧字体:廣岡 知男、ひろおか ともお、1907年… 広岡 知男(旧字体:廣岡 知男、ひろおか ともお、1907年8月24日 - 2002年1月5日)は、日本のアマチュア野球選手、新聞社経営者。朝日新聞社社長、日本学生野球協会会長、全日本アマチュア野球連盟会長。
長谷川周重(はせがわ のりしげ、 1907年8月8日 - 1… 長谷川周重(はせがわ のりしげ、 1907年8月8日 - 1998年1月3日)は、日本の実業家。元住友化学会長・社長。
小西 新兵衛 (七代目)(こにし しんべえ、1907年8月3… 小西 新兵衛 (七代目)(こにし しんべえ、1907年8月3日 - 1995年1月18日)は、日本の経営者。武田薬品工業社長、会長を務めた。 東京都出身。1930年に東京帝国大学医学部薬学科を卒業し、翌年に小西薬品に入社した。1943年に社長に就任し、翌年には武田薬品工業との合併により、武田薬品工業常務に就任した。専務、副社長を経て、1974年に社長に就任した。1981年6月に会長に就任し、1991年に取締役名誉会長に就任した。 1995年1月18日がん性腹膜炎のために死去。
河野 一之(こうの かずゆき、1907年〈明治40年〉8月2… 河野 一之(こうの かずゆき、1907年〈明治40年〉8月2日 - 2006年〈平成18年〉6月20日)は、日本の大蔵官僚、実業家。元大蔵事務次官。元太陽銀行頭取、太陽神戸銀行会長、三井住友銀行名誉顧問。 広島県豊田郡忠海町(現・竹原市)生まれ。陸軍軍人だった父親が退官し東京で事業を始めたため、9歳から東京で育つ。東京府立四中を卒業。当時入試科目に英語のあった東高師附属には落ちてしまった。その後、第一高等学校を経て、1930年3月、東京帝国大学法学部法律学科卒業。1929年、高等文官試験行政科・司法科合格。1930年、大蔵省入省(大臣官房文書課)。1940年、主計局法規課長、1941年、決算課長、1943年、山住克己陸軍司政長官の下、陸軍司政官・南方軍軍政総監部付けとなり昭南(シンガポール)に1年余勤務。
任 文桓(イム・ムンファン、イム・ムナン、朝鮮語: 임문환、… 任 文桓(イム・ムンファン、イム・ムナン、朝鮮語: 임문환、日本名豊川文夫、1907年6月11日 - 1993年6月19日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の官僚、政治家、実業家。本貫は豊川任氏。 東京帝国大学を卒業した後、高等試験に合格して、朝鮮総督府のキャリア官僚として勤務した。独立後の韓国でも次官や閣僚など要職を歴任し、後に企業経営者に転じて全経連副会長を務めた。 2008年に発表された民族問題研究所の親日人名辞典収録予定者名簿の中の官僚部門に選ばれた。 回顧録である「日本帝国と大韓民国に仕えた官僚の回想」(朝鮮語版1974年、日本語版2011年)を残した。 1960年代初めに生地の錦山の困窮学生のために奨学金を創設した。
坂口 昇(さかぐち のぼる、明治40年(1907年)5月28… 坂口 昇(さかぐち のぼる、明治40年(1907年)5月28日 - 没年不明)は、日本の実業家、政治家。米子市会議員を務めた。 実業家2代坂口平兵衛の義弟。 昭和5年(1930年)、東京帝国大学法学部卒業。日本製糸株式会社の取締役を経て、戦時中に三菱軽合金株式会社の資材課長に就いていたが、坂口合名会社を設立し、代表社員となる。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
岡田 修一(おかだ しゅういち、1907年5月27日 - 1… 岡田 修一(おかだ しゅういち、1907年5月27日 - 1971年11月29日)は、日本の政治家・実業家。衆議院議員(1期、自由民主党)。 東京都出身。1927年第六高等学校 (旧制)文科甲類卒業。1930年東京帝国大学法学部政治学科卒。逓信省に入り、姫路郵便局長、朝鮮総督府逓信局海事課長、逓信省竿船局沿岸課海務員、運航部港運、第一輸送各課長、大東亜省南方事務局交通産業課長、企画院書記官、運輸省海運総局総務企画課長、神戸海運局(現神戸運輸監理部)管理部長、同局長、運輸省海運局長などを歴任する。 1956年の第4回参議院議員通常選挙に全国区から自由民主党公認で立候補したが落選した。1960年の第29回衆議院議員総選挙において兵庫3区から自由民主党公認で立候補して当選した。
金森 九郎(かなもり くろう、1907年(明治40年)5月2… 金森 九郎(かなもり くろう、1907年(明治40年)5月26日 - 1977年(昭和52年)6月23日)は、日本の実業家。富士製鉄常務取締役、日本原色押花協会会長を務めた。位階は正四位。勲四等旭日小綬章。 姪・和子の長男は、第28代自由民主党総裁・第102代内閣総理大臣の石破茂である。 東京都渋谷区出身。牧師・金森通倫の四男。5歳の時に母が亡くなり、長姉の三寿子が母代わりとなる。 1925年、旧制東京高等師範学校附属中学校を卒業した。その後、旧制静岡高等学校を卒業した。1932年、東京帝国大学工学部冶金学科を卒業した。日鉄、八幡製鉄所に入り、広畑製鉄所研究所各勤務の後、1942年に東京帝国大学第二工学部冶金学科助教授となり、1945年には教授に就任する。
村野 辰雄(むらの たつお、1907年(明治40年)5月18… 村野 辰雄(むらの たつお、1907年(明治40年)5月18日 - 1992年(平成4年)12月16日)は、日本の実業家。三和銀行元頭取。 奈良県御所市出身。1932年に東京帝国大学経済学部を卒業し、三和銀行の前身である山口銀行に入行。1952年5月に取締役、1957年10月に常務、1961年11月に専務を経て、1971年4月から1976年4月までに頭取を務め、銀行間のオンライン提携の推進とJCBの設立などにより、消費者金融により力を入れ、加州三和銀行の設立などで国際業務にも力を入れた。 その一方で、日本銀行参与、全国銀行協会副会長、日本経済団体連合会常任理事、大阪銀行協会会長なども歴任。ローマ字の普及にも力を入れたことでも知られる。
杉原 周一(すぎはら しゅういち、1907年5月7日 - 1… 杉原 周一(すぎはら しゅういち、1907年5月7日 - 1972年6月21日)は、日本の経営者、工学博士。東陶機器(現在のTOTO)社長を務めた。 大分県大分市出身。1931年に東京帝国大学工学部機械工学科を卒業。 三菱重工業での勤務を経て、1948年5月に東洋陶器に転じ、専務、副社長を経て、1967年7月に社長に就任。 1972年6月21日、脳卒中のために死去。65歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
浜島 昇(はまじま のぼる、1907年5月5日 - 1963… 浜島 昇(はまじま のぼる、1907年5月5日 - 1963年9月17日)は、日本光学工業(現ニコン)社長。長野県出身。 1930年に東京帝国大学法科に卒業し、日本光学工業に入社した。 1941年1月に取締役に就任し、1963年5月には社長に就任。 1963年9月17日に肺臓癌のため在職中のまま死去。56歳没。
有光 茂夫(ありみつ しげお、1907年4月15日 - 19… 有光 茂夫(ありみつ しげお、1907年4月15日 - 1994年11月16日)は、日本の経営者。東洋信託銀行社長を務めた。高知県出身。 1930年に東京帝国大学法学部法律学科を卒業し、同年に三和信託に入行し、1945年に三和銀行に移る。1956年に取締役に就任し、1959年に常務に就任し、東洋信託銀行常務も就任。専務、副社長を経て、1969年11月に社長に就任。1974年11月に取締役相談役に就任し、1979年12月には相談役に就任。 1978年4月に勲二等瑞宝章を受章。 1994年11月16日に心不全のために死去。87歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
平木 謙一郎(ひらき けんいちろう、1907年4月9日 - … 平木 謙一郎(ひらき けんいちろう、1907年4月9日 - 1975年6月12日)は、日本の経営者。福岡県出身。 1930年に東京帝国大学独法学科を卒業し、同年に住友信託に入社。1946年に住友商事に転じ、1949年に取締役、1953年9月に常務、1959年3月に専務、1965年5月に副社長を経て、1966年5月に明電舎社長に就任。1974年11月から会長を務めた。 1971年4月に藍綬褒章を受章。 1975年6月12日膵臓脳腫のために死去。68歳没。
山田 匡蔵(やまだ きょうぞう、あるいは山田耕雲、- こうう… 山田 匡蔵(やまだ きょうぞう、あるいは山田耕雲、- こううん、1907年3月18日 - 1989年9月13日)は、日本の実業家(日本油脂常務、東京顕微鏡院理事長)、禅指導者(三宝教団2代管長・正師家、耕雲軒山田円光禅心)。 1907年3月18日、山田脩(二本松町長・二本松製糸会社副社長)の次男として福島県二本松市に生まれる。 第一高等学校 (旧制)から東京帝国大学法学部に進む。在学中に高等文官行政科試験に合格。1930年に卒業。 千代田生命に入社するも長兄が亡くなり、家業を助けるため、妹の友人で小児科医の山田和江(旧姓:阿部)と結婚後、満州に渡り満州鉱山で人事課長となる。引き揚げ後鎌倉に居住。
大槻 丈夫(おおつき たけお、1907年2月11日 - 19… 大槻 丈夫(おおつき たけお、1907年2月11日 - 1978年2月24日)は、日本の経営者。近畿日本ツーリスト社長を務めた。 京都府綾部市出身。1929年に高文行政科に合格し、1930年に東京帝国大学経済学部経済学科を卒業し、同年に鉄道省に入省。興亜院、運輸省での勤務を経て、1950年12月に国鉄理事に就任し、1956年3月までに務めた。 1962年11月に近畿日本鉄道専務に就任し、1968年5月に副社長を経て、1973年11月に常任監査役に就任。1976年1月には近畿日本ツーリスト社長に就任した。 1978年2月24日、肺腫瘍のために死去。71歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
奥野 煕(おくの ひろし、1907年1月5日 - 1966年… 奥野 煕(おくの ひろし、1907年1月5日 - 1966年7月20日)は、日本の経営者。三菱製紙社長を務めた。 東京都出身。1930年に東京帝国大学法律科を卒業し、同年に三菱製紙に入社。 1951年6月に取締役に就任し、1957年12月に常務、1960年11月に専務、1962年5月に副社長を経て、1963年5月から1965年5月までに社長を務めた。 1966年7月20日、食道がんで死去した。59歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
河上 健次郎(かわかみ けんじろう、1906年12月22日 … 河上 健次郎(かわかみ けんじろう、1906年12月22日 - 1985年6月12日)は、日本の経営者。大阪府出身。 1936年に東京帝国大学法学部法律学科を卒業し、同年に住友本社に入社。1946年に井華工業(のちの住友金属鉱山)に転じ、取締役に就任し、1948年に常務、1956年6月に専務を経て、1963年5月に社長に就任。1973年5月に会長に就任し、1979年4月に会長に就任。 1967年10月に藍綬褒章を受章し、1977年5月に勲一等瑞宝章を受章。 1985年6月12日呼吸器疾患のために死去。78歳没。墓所は神奈川県鎌倉市の鎌倉霊園。
長沼 弘毅(ながぬま こうき、1906年11月21日 - 1… 長沼 弘毅(ながぬま こうき、1906年11月21日 - 1977年4月27日)は、日本の大蔵官僚、実業家、文芸評論家である。東京出身。経済学博士であり、柔道家(講道館七段)であった。孫に俳優の平沼成基など。
篠原 周一(しのはら しゅういち、1906年10月15日 -… 篠原 周一(しのはら しゅういち、1906年10月15日 - 2001年6月3日)は、日本の経営者。協和銀行社長、会長を務めた。長野県長野市出身。 1930年に東京帝国大学法学部英法学科を卒業し、同年4月に日本銀行に入行した。1958年5月に協和銀行副頭取に就任し、1962年12月には頭取に昇格した。1971年5月に会長に就任し、1978年6月に名誉会長相談役を経て、1998年4月から名誉顧問を務めた。 2001年6月3日肺炎のために死去。94歳没。