馬渡 俊雄(まわたり としお、1876年(明治9年)12月1… 馬渡 俊雄(まわたり としお、1876年(明治9年)12月14日 - 1946年(昭和21年)2月1日)は、日本の内務・警察官僚、実業家。官選県知事。旧姓・加藤。 東京府豊多摩郡淀橋町で加藤弘之の三男として生まれる。1885年7月、佐賀藩の家老諫早一学の家臣で、判事や弁護士を務めた馬渡俊猷の養子となる。第一高等学校を経て、1901年9月、東京帝国大学法科大学政治学科に入学。1905年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1906年、東京帝大を卒業し内務省に入省、愛知県属となる。 以後、滋賀県事務官、大阪府事務官、山口県事務官・警察部長、福岡県事務官・警察部長、神奈川県警察部長、和歌山県内務部長、新潟県内務部長などを歴任。
奥山 清治(おくやま せいじ、1876年(明治9年)11月3… 奥山 清治(おくやま せいじ、1876年(明治9年)11月30日 - 1965年(昭和40年)5月17日)は、日本の外交官。駐ギリシャ公使。 山形県北村山郡出身。1896年(明治29年)に旧制山形中学卒業。1903年(明治36年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、翌年に外交官及領事官試験合格した。シンガポール領事官補、オーストリア公使館三等書記官、外務省参事官、ロシア大使館一等書記官、外務省人事課長、同文書課長、国際連盟事務局次長、駐ギリシャ公使を務めた。 退官後は国際連盟協会主事を務めた後、満州国駐日大使館最高顧問となった。
石村 貞吉(いしむら ていきち、1876年(明治9年)11月… 石村 貞吉(いしむら ていきち、1876年(明治9年)11月27日 - 1973年(昭和48年)7月26日)は、大正時代から昭和時代の日本文学者。東京女子大学名誉教授。姓は石邨とも称した。号は平川。 東京府東京市麹町区(現在の東京都千代田区)に石村貞一の子として生まれる。父は長門国出身の儒学者であった。東京帝国大学文科大学史学科を1901年卒業する。大日本農会附属高等農学校の嘱託となる。1904年、愛知県立第一中学校の教諭となり、1917年から1920年の3年間同校の校長を務めた。1921年から大倉高等商業学校と東京女子大学の教授となった。日本基督教神学専門学校や武蔵高校の講師を兼務した。1923年の関東大震災が発生するまで塙保己一が開いた和学講談所の土蔵を改造した住宅に住んでいたが、貴重な経本と共に全て焼失した。
乾 政彦(いぬい まさひこ、1876年(明治9年)11月27… 乾 政彦(いぬい まさひこ、1876年(明治9年)11月27日 - 1951年(昭和26年)4月29日)は、奈良県出身の法学者、弁護士、貴族院議員。弟の東季彦と共に佐佐木信綱門下の歌人としても知られた。 十津川村出身。旧姓中垣。1889年、養子として乾家に入る。郷校文武館(現在の奈良県立十津川高等学校)を経て、1888年に上京。旧制日本中学校から第一高等学校を経て、1900年(明治33年)東京帝国大学法科大学を卒業後、同年、東京高等商業学校(現一橋大学)の講師に着任した。 1901年、文部省留学生としてドイツに渡り、ボン大学で民法を研究。1904年に帰国後、1905年から東京高商教授を務め、1914年に法学博士号を受けたが、1915年に弁護士へ転じ、1920年に東京高商が大学に昇格するまで非常勤講師として教鞭を執った。
松尾 義夫(まつお よしお、1876年(明治9年)11月22… 松尾 義夫(まつお よしお、1876年(明治9年)11月22日 - 1946年(昭和21年)6月23日)は、明治から昭和期の薬剤師、政治家、華族。貴族院男爵議員。 大蔵官僚・松尾臣善の二男として生まれる。父の死去に伴い、1916年(大正5年)5月1日、男爵を襲爵した。 1897年(明治30年)第一高等学校医学部薬学科を卒業し、さらに東京帝国大学薬学選科を修了した。1900年(明治33年)伝染病研究所助手に就任。その後、同技手、同嘱託、大東塗料監査役などを務めた。その他、陸軍二等薬剤官に任じられた。 1929年(昭和4年)1月23日、貴族院男爵議員補欠選挙で当選し、公正会に所属して活動し1939年(昭和14年)7月9日まで2期在任した。
佐竹 義文(さたけ よしふみ / よしぶみ、1876年(明治… 佐竹 義文(さたけ よしふみ / よしぶみ、1876年(明治9年)11月4日 - 1952年(昭和27年)12月28日)は、日本の内務・警察官僚、実業家。政友会系官選県知事。 後の東京市四谷区四谷舟町(現新宿区舟町)出身。佐竹万三の長男として生まれる。第一高等学校を卒業。1903年、東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。逓信省に入省し管船局属となる。1905年、内務省に転じ神奈川県属に就任した。 1906年、福井県事務官となる。以後、岡山県事務官・第二部長、山梨県事務官・警察部長、鹿児島県事務官・警察部長、奈良県事務官・内務部長、滋賀県内務部長、福岡県内務部長などを歴任。
友枝 高彦(ともえだ たかひこ、1876年11月4日 – 1… 友枝 高彦(ともえだ たかひこ、1876年11月4日 – 1957年7月7日)は、日本の倫理学者。 1876年、福岡県上毛郡大村(現豊前市大村)の大庄屋の家に生まれた。豊津中学校、第五高等学校を経て、1901年東京帝国大学文科大学哲学科に進んだ。学部卒業の後、同大学大学院に進んだ。 1908年、京都帝国大学助教授に任ぜられる。研究のため、英国、米国、ドイツで学ぶ。1914年に帰国し、東京高等師範学校教授となった。1916年からは東京帝国大学教授を兼ねた。1929年、東京文理科大学教授となり、日本女子大学教授を兼任した。1949年に退任し、東京教育大学名誉教授となった。 戦後の1955年、山梨県立臨時教員養成所を母体に都留市立都留文科短期大学(都留短期大学)が設立されると、初代学長となった。
小野 義一(おの ぎいち、1876年(明治9年)10月7日 … 小野 義一(おの ぎいち、1876年(明治9年)10月7日 – 1950年(昭和25年)5月25日)は、日本の大蔵官僚、政治家。大蔵次官、衆議院議員、東京市助役。 高知県幡多郡、のちの宿毛村与市明(宿毛町を経て現宿毛市)出身。小野義為、キミの長男として生まれる。高知一中、東京府立四中を経て、1898年(明治31年)7月、第一高等学校政治科を首席で卒業。1903年(明治36年)7月、東京帝国大学法科大学政治学科を首席の優等で卒業し、銀時計を授与された。東大の同期には小川郷太郎や上杉慎吉、馬場鍈一ら。同年同月、大蔵属に任官し主計局兼参事官付となる。同年11月、文官高等試験行政科試験に次席合格。この時の首席合格者は馬場鍈一だった。
新村 出(しんむら いずる、1876年(明治9年)10月4日… 新村 出(しんむら いずる、1876年(明治9年)10月4日 - 1967年(昭和42年)8月17日)は、日本の言語学者、文献学者。京都大学教授・名誉教授で、ソシュールの言語学の受容やキリシタン語の資料研究などを行った日本人の草分けである。
秋吉 音治(あきよし おとじ、1876年(明治9年)10月 … 秋吉 音治(あきよし おとじ、1876年(明治9年)10月 - 1937年(昭和12年)7月1日)は、日本の教育者。 福岡県出身。中村芳平の四男に生まれ、秋吉格平の養子となった。第五高等学校を経て、1901年(明治34年)、東京帝国大学文科大学国文学科を卒業。真宗京都中学校教諭、島根県立第三中学校教諭、福岡県立中学明善校教諭、福岡県立朝倉中学校校長、大阪府立市岡中学校校長、台湾総督府高等女学校校長、鹿児島県立第一中学校校長を歴任し、1921年(大正10年)から福岡高等学校校長を務めた。現職のまま死去。1937年(昭和12年)7月1日、死去。死去に際し、天皇より祭資を下賜された。同年7月7日の葬送には勅使として福岡県知事が邸宅を訪問、幣帛の下賜を受けた。
慶松 勝左衛門(けいまつ しょうざえもん、前名・勝太郎、18… 慶松 勝左衛門(けいまつ しょうざえもん、前名・勝太郎、1876年(明治9年)9月21日 - 1954年(昭和29年)1月28日)は、日本の薬学者、政治家。貴族院議員。参議院議員(1期)。薬学博士。 京都府出身で、都二条烏丸の薬種街の慶松衛生堂にて生まれる。先代勝左衛門の長男。1901年、東京帝国大学医科大学薬学科卒業。同年同大学の助手となる。 その後東京衛生試験所技師、関東都督府中央試験所長、南満洲鉄道中央試験所長を経て、1915年10月1日第一製薬の前身であるアーセミン商会を創業。梅毒の治療薬である駆梅剤アーセミン®を発売した。その後1922年東京帝国大学薬学科教授に就任した。この他京都帝国大学講師も務めた。
天沼 俊一(あまぬま しゅんいち、1876年8月31日 - … 天沼 俊一(あまぬま しゅんいち、1876年8月31日 - 1947年9月1日)は、日本の建築史家。京都大学名誉教授。古建築の調査に従事した。東京出身。 奈良県技師時代に始めた装飾文様などの細部にわたる古建築研究は、初の日本建築史の概説書『日本建築史要』に実り、身近なものとして古建築の存在を広く知らせた。 東京生まれ。河東節名跡の6代目十寸見蘭洲(本名:天沼熊作)の長男。弟は慶応義塾大学教授の天沼貴彦、妹は画家の天沼青蒲。 1893年東京府尋常中学校(現:東京都立日比谷高等学校)卒。1902年東京帝国大学工科大学建築学科卒、大学院に進む。1905年陸軍歩兵少尉。1906年、奈良古社寺修理技師。1918年、京都府古社寺修理監督技師。
尾上 柴舟(おのえ さいしゅう 1876年〈明治9年〉8月2… 尾上 柴舟(おのえ さいしゅう 1876年〈明治9年〉8月20日 - 1957年(昭和32年)1月13日)は、日本の詩人・歌人・書家・国文学者。文学博士。帝国芸術院会員。勲二等瑞宝章受章者。旧名は北郷八郎。 岡山県苫田郡津山町(現・津山市)出身。本名は尾上八郎。元津山藩士・北郷直衛の三男として生まれ、同藩士・尾上動の養子となった。津山小学校高等科を卒業の後、父の転勤で兵庫県龍野(現・たつの市)に移住する。東京府尋常中学、一高を経て、東京帝国大学文科大学に進み1901年に卒業。哲学館(現・東洋大学)講師、東京女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)講師・教授(1905年–)、高等官6等に叙せられて「第6臨時教員養成所」の教授を兼ねる(1906年–1907年度)。
茨木 清次郎(いばらき せいじろう、1876年(明治9年)8… 茨木 清次郎(いばらき せいじろう、1876年(明治9年)8月19日 - 1955年(昭和30年)3月15日)は、日本の文部官僚。教育者。 石川県出身。旧制第四高等学校を経て、1899年(明治32年)に東京帝国大学文科大学英文科を卒業。翌年四高教授となり、イギリス留学の後、1908年(明治41年)から文部省視学官・図書審査官となり、1913年(大正2年)からは督学官を務めた。1917年(大正6年)、東京音楽学校校長となり、東京外国語学校校長、旧制松本高等学校校長、東京女子高等師範学校校長、旧制浦和高等学校校長を歴任した。 1935年(昭和10年)に退官し、1937年(昭和12年)からは竹田宮附別当を務めた。
福原 俊丸(ふくばら としまる、1876年〈明治9年〉8月1… 福原 俊丸(ふくばら としまる、1876年〈明治9年〉8月18日 - 1959年〈昭和34年〉2月1日)は、日本の華族(男爵)。貴族院議員。旧宇部領主福原家第27代当主。
春山 作樹(はるやま さくき、1876年(明治9年)8月13… 春山 作樹(はるやま さくき、1876年(明治9年)8月13日 - 1935年(昭和10年)12月29日)は、日本の教育学者。東京帝国大学教授。文学博士。 旧姫路藩士春山弟彦の子として大阪市上町に生まれる。姫路中学を経て、1900年(明治33年)、東京帝国大学文科大学哲学科に入学。卒業後は、大学院に学んだ。1904年(明治37年)、広島高等師範学校教授に就任。1912年(明治45年)から1915年(大正4年)まで欧米に留学。帰国後の1919年(大正8年)、東京帝国大学文学部教授に就任し、翌年に文学博士号を受けた。 その他、第一高等学校講師、東京外国語学校講師を務めた。 1935年12月29日、脳溢血のため死去。
兒玉 秀雄[注 1](児玉秀雄、こだま ひでお、明治9年(1… 兒玉 秀雄[注 1](児玉秀雄、こだま ひでお、明治9年(1876年)7月19日 - 昭和22年(1947年)4月7日)は、日本の政治家、貴族院議員、官僚、伯爵。
児玉 秀雄(旧字体: 兒玉 秀雄、こだま ひでお、1876年… 児玉 秀雄(旧字体: 兒玉 秀雄、こだま ひでお、1876年〈明治9年〉7月19日 - 1947年〈昭和22年〉4月7日)は、日本の政治家、貴族院議員、官僚、伯爵。 山口県出身で陸軍大将児玉源太郎の嫡男。千葉県の佐倉英学校(現在の千葉県立佐倉高等学校)から東京府尋常中学校(後に府立一中を経て現在の東京都立日比谷高等学校)入学、同期に渋沢元治など。 旧制第二高等学校を経て、1900年(明治33年)7月、東京帝国大学法科大学政治学科卒業、大蔵省入省。 同年11月、文官高等試験合格。主に理財局や、臨時煙草製造準備局などを経て、1905年(明治38年)2月、大本営御用掛。日露戦争において遼東守備軍司令部付、満洲軍総司令部付を経て、同年9月、煙草専売局事務官兼大蔵書記官に復帰。
中川 銓吉(なかがわ せんきち、1876年7月18日 - 1… 中川 銓吉(なかがわ せんきち、1876年7月18日 - 1942年9月4日)は、日本の数学者、学校教授。 1876年7月、石川県で士族の中川富三と、きくの間に生まれ、1895年7月3日に第四高等学校第二部理科を卒業。1897年7月10日東京帝国大学理科大学数学科で特待生を勝ち得て、1898年に卒業した。 1898年(明治31年)8月13日、第二高等学校教授を任ぜられた。1899年9月5日、高等官七等で高等師範学校教授に任命された。 1901年11月16日、文部科学省外国留学生として、日本を発ち、ドイツに留学した。1905年2月27日に帰国した。 1904年11月25日、東京帝国大学理科大学助教授に任命された。
力石 雄一郎(ちからいし ゆういちろう、1876年(明治9年… 力石 雄一郎(ちからいし ゆういちろう、1876年(明治9年)6月30日 - 1933年(昭和8年)3月17日)は、日本の内務官僚。政友会系官選府県知事。族籍は愛媛県士族。 愛媛県喜多郡大洲町(現:大洲市)で、旧大洲藩士・力石八十綱の長男として生まれる。東京に移り、府立一中、第一高等学校を経て、1900年7月、東京帝国大学法科大学法律学科を卒業。同年、文官高等試験に合格。内務省に入省。 以後、徳島県参事官、岩手県警部長、岩手県事務官・第四部長、石川県事務官・警察部長、関東都督府大連民政署長、長野県・岐阜県の各内務部長などを歴任。 1914年4月、第2次大隈内閣が成立し長野県知事に発令された。以後、大分県・茨城県・宮城県・秋田県・新潟県の各知事を経て、1928年5月、大阪府知事に就任。
岡野 昇(おかの のぼる、1876年(明治9年)6月14日 … 岡野 昇(おかの のぼる、1876年(明治9年)6月14日 - 1949年(昭和24年)4月28日)は、明治時代後期から昭和時代前期の土木工学者、鉄道官僚、実業家。 東京市出身。1899年(明治32年)東京帝国大学工科大学土木科を卒業し、日本鉄道技師となり水戸保線事務所長を発令される。1905年(明治38年)信号や連鎖装置の視察のため欧米諸国の出張を経て、翌年同社が解散すると逓信省鉄道作業局に転じ、ベルリンに学んだ。ついで、帝国鉄道庁技師、鉄道院技師兼内務技師、鉄道院工務局長、鉄道省工務局長を経て、1924年(大正13年)鉄道次官に就任した。 のち実業界に転じ、西武鉄道副社長を経て、1926年(大正15年)同社社長に就任。
小川 郷太郎(おがわ ごうたろう、1876年(明治9年)6月… 小川 郷太郎(おがわ ごうたろう、1876年(明治9年)6月9日 - 1945年(昭和20年)4月1日)は、大正・昭和期の財政学者、政治家。京都帝国大学経済学部教授、拓殖大学学監、衆議院議員、商工大臣、鉄道大臣などを歴任。従三位勲一等、法学博士。旧姓・村山。 岡山県浅口郡、のちの里庄村(現里庄町)で村山菊蔵の長男として生まれる。岡山県医局長で医師の小川知彰の養子となり、岡山中学、開成中学、旧制第一高等学校を経て、1900年(明治33年)東京帝国大学に入学。 1903年(明治36年)東京帝国大学法科大学政治学科次席卒業。首席は小野義一(大蔵官僚、高文次席)、3位が上杉慎吉(東大教授、憲法学者)、4位は馬場鍈一(大蔵官僚、高文首席)。
野村 淳治(のむら じゅんじ、1876年(明治9年)6月8日… 野村 淳治(のむら じゅんじ、1876年(明治9年)6月8日 - 1950年(昭和25年)12月15日)は、石川県出身の法学者。 石川県士族・野村宗貞の長男として生まれる。1900年(明治33年)東京帝国大学法科大学法律学科を卒業し、大学院に入り、1901年(明治34年)文官高等試験に合格し、東京帝国大学法科大学助教授となる。1902年(明治35年)法学研究のためフランスとドイツに留学する。 1906年(明治39年)から退官まで、一木喜徳郎の後任として国法学講座を担当した。1910年(明治43年)に法学博士となり、後に教授となる。1937年(昭和12年)に退官し、東京帝国大学名誉教授となる。専門は行政法及び憲法。
片岡 安 (かたおか やすし、 1876年6月4日- 194… 片岡 安 (かたおか やすし、 1876年6月4日- 1946年5月26日) は、日本の建築家・都市計画家。工学博士(東京帝国大学)。関西工学専修学校(現:大阪工業大学)初代校長・理事長。日本建築協会初代理事長・会長。大阪商工会議所第13代会頭。大阪工業会第3代会長。金沢市長(1期)。 「日本近代建築の父」といわれる辰野金吾(日本銀行本店・東京駅等を設計)と共同で、辰野片岡建築事務所を大阪に開設し、大阪市庁舎・大阪市中央公会堂等多くの建築作品を残した。また日本における都市計画研究のパイオニア(わが国最初の都市計画大著「現代都市之研究」を公刊)であり、大阪を代表する御堂筋等のまちづくりに欠かせなかった建築法規(旧都市計画法、市街地建築物法)の整備にも尽力した。
志田 順(しだ とし、1876年5月28日 - 1936年7… 志田 順(しだ とし、1876年5月28日 - 1936年7月19日)は、日本の地球科学者。理学博士(京都帝国大学)。 千葉県佐倉出身。1895年千葉県立千葉中学校卒業。1901年東京帝国大学理科大学物理学科卒業。1909年に第一高等学校教授を経て、京都帝国大学理工科大学に着任。理学博士(京都帝国大学)。京都帝国大学名誉教授。 地震のP波初動が地表面を押し引きする向きの地理的な分布、初動分布が四象限分布することを発見した。また、和達清夫よりも早く、深発地震の存在を指摘した(観測結果から存在を完全に証明したのは和達)。また、月と太陽の引力による地球の弾性変形(地球潮汐)に関する研究でも世界の先端を走り、「志田数」にその名を残した。
相良 歩(さがら あゆみ、1876年(明治9年)5月25日 … 相良 歩(さがら あゆみ、1876年(明治9年)5月25日 – 1955年(昭和30年)11月20日)は、金沢市長。 石川県士族相良豊の長男として生まれる。1899年(明治32年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、内務属となる。その後、高等文官試験に合格し、愛媛県参事官、長崎県参事官、群馬県事務官・第一部長兼第三部長、宮城県事務官、和歌山県内務部長、山形県内務部長を歴任した。1917年(大正6年)より樺太庁内務部長を務めた。 1922年(大正11年)、金沢市長に選出され、2期8年在任した。
吉田 平吾(よしだ へいご、1876年(明治9年)5月25日… 吉田 平吾(よしだ へいご、1876年(明治9年)5月25日 - 1942年(昭和17年)11月11日)は、日本の宮内官僚。台湾総督府官僚。 佐賀県出身。1903年(明治36年)、東京帝国大学法科大学を卒業し、高等文官試験に合格した。大蔵省に勤務した後、宮内省に入り、宮内書記官・帝室林野局主事、調度頭を務めた。その後、台湾総督府逓信局長に転じた。 退官後は共同信託株式会社常務取締役、八王子電気株式会社監査役、小谷商店監査役を務めた。
赤司 鷹一郎(あかし たかいちろう、1876年(明治9年)5… 赤司 鷹一郎(あかし たかいちろう、1876年(明治9年)5月10日 - 1933年(昭和8年)11月7日)は、文部官僚、教育者。錦鶏間祗候。 福島県令・検事の赤司欽一の長男として東京に生まれる。東京府立一中[要出典]、旧制第一高等学校を経て、1897年(明治30年)に東京帝国大学法科大学を卒業し、内務省に勤めた。翌年、文部省に移り参事官に任ぜられた。1902年(明治35年)から2年間、教育制度と行政法の研究のため欧米留学を命じられた。1911年(明治44年)、維新史料編纂会事務局長に就任した。1916年(大正5年)に普通学務局長に昇進し、1922年(大正11年)からは文部次官を務めた。その間、臨時教育行政調査会や教育評議会の委員となった。
稲田 三之助(いなだ さんのすけ、1876年(明治9年)5月… 稲田 三之助(いなだ さんのすけ、1876年(明治9年)5月2日 - 1952年(昭和27年)2月18日)は、日本の逓信官僚。早稲田大学教授。錦鶏間祗候。勲三等瑞宝章受章。 愛知県名古屋市出身。1900年(明治33年)、東京帝国大学工科大学電気工学科を卒業。通信技手、逓信技師、新潟郵便局工務課長、通信局工務課長などを経て、1925年(大正14年)に逓信省工務局長に就任した。 退官後、1932年(昭和7年)9月27日、錦鶏間祗候を仰せ付けられた。その他、早稲田大学理工学部教授を務めた。
高木 敏雄(たかぎ としお、1876年5月 - 1922年1… 高木 敏雄(たかぎ としお、1876年5月 - 1922年12月18日)は、日本の神話学者・民俗学者・ドイツ文学者。 熊本県生まれ。1900年東京帝国大学文学部独文科卒業、第五高等学校教授、1912年東京高等師範学校教授、愛媛師範学校教授、1922年大阪外国語大学教授。1913-14年柳田国男と共に『郷土研究』を編集。欧米 (特にドイツ) の方法によった神話・伝説研究の体系化を試み、先駆的業績を残した。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
井上 匡四郎(いのうえ ただしろう、1876年〈明治9年〉4… 井上 匡四郎(いのうえ ただしろう、1876年〈明治9年〉4月30日 - 1959年〈昭和34年〉3月18日)は、明治後期から昭和前期の工学者、政治家。工学博士、貴族院子爵議員。 熊本県出身。熊本藩儒学者・岡松甕谷の四男として生まれ、井上毅の養嗣子となる。1895年(明治28年)4月5日、養父の死去に伴い子爵を襲爵。東京府尋常中学、第一高等学校を経て、1899年(明治32年)7月、東京帝国大学工科大学採鉱冶金学科を優等で卒業し銀時計を授与された。さらに大学院に進み、同時に工科大学講師に就任。1900年(明治33年)2月、東京帝大工科大学助教授に進んだ。1901年(明治34年)9月、採鉱冶金学研究のため留学し、ドイツ、アメリカで学んだ。
喜田村 朔治(きたむら さくじ、1876年(明治9年)4月2… 喜田村 朔治(きたむら さくじ、1876年(明治9年)4月26日 - 1950年(昭和25年)9月23日)は、日本の医師、医学者。医学博士。 南満洲鉄道大連医院元眼科医長兼南満医学堂元教授。喜田村眼科病院元院長。義父は日本電気(NEC)創業者の岩垂邦彦。孫は弁護士(ミネルバ法律事務所所属)の喜田村洋一。族籍は福岡県士族。 福岡県築上郡千束村田淵、世々庄屋の西村敬治(福岡県士族)の次男として生まれる。第五高等学校在学中に、当時豊津中学校(現:福岡県立育徳館中学校・高等学校)教師であった喜田村寛治の養子となった。喜田村家は、小倉藩士の家柄で福岡県京都郡豊津村豊津に住み、養父寛治は工部大学校採鉱冶金科を卒業したが、病気のため郷里の豊津中学校の教師となった。
小川 悌(おがわ よし、1876年(明治9年)4月17日 -… 小川 悌(おがわ よし、1876年(明治9年)4月17日 - 没年不詳)は、日本の裁判官。 千葉県山武郡東金町(現在の東金市)出身。1903年(明治36年)、東京帝国大学法科大学を卒業し、司法官試補となる。名古屋地方裁判所判事、東京区裁判所判事、東京地方裁判所判事、東京地方裁判所予審掛、東京地方裁判所部長、東京控訴院判事、宇都宮地方裁判所所長を歴任した。 1920年(大正9年)、朝鮮総督府裁判所判事となり、高等法院判事、大邱地方法院長、高等法院判事、同部長、京城覆審法院長を歴任し、1934年(昭和9年)に高等法院長に就任した。
前田 兼宝(まえだ けんほう、1876年(明治9年)4月3日… 前田 兼宝(まえだ けんほう、1876年(明治9年)4月3日 - 1937年(昭和12年)5月9日)は、日本の衆議院議員(政友本党→立憲民政党)、内務官僚。 鹿児島県川辺郡加世田村(現在の南さつま市)出身。1906年(明治39年)、東京帝国大学法科大学を卒業。高等文官試験に合格し、警視庁警視、京橋警察署長、本郷警察署長、本富士警察署長を歴任。さらに宮崎県警察部長、宮崎県内務部長を務めた。 1924年(大正13年)、第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。 その後、鹿児島銀行取締役、鹿児島県農工銀行監査役を務めた。
玉水 弘(たまみず ひろし、1876年(明治年9年)3月25… 玉水 弘(たまみず ひろし、1876年(明治年9年)3月25日 - 没年不詳)は、日本の技術者、実業家。関西ペイントの創業者。旧姓・花山。 三重県員弁郡中上村(久米村中上、東員村を経て現東員町中上)の花山家に生まれる。のち兵庫県の玉水庄太郎の養子となる。 第三高等学校を経て、1904年(明治37年)東京帝国大学工科大学応用化学科を卒業。先発メーカーの日本ペイント、東亜ペイントを経て独立。1917年(大正6年)に関西ペイント工業所を創業した。研究施設や工場拡大のための資金調達に窮し、岩井勝次郎を紹介され1918年、岩井商店の援助により関西ペイントを設立する事となる。 援助の代償として経営権を岩井商店に譲渡。
松田 道一(まつだ みちかず、1876年〈明治9年〉3月14… 松田 道一(まつだ みちかず、1876年〈明治9年〉3月14日 - 1946年〈昭和21年〉1月20日)は、日本の外交官。駐イタリア大使、駐オランダ公使。学位は、法学博士。 判事・弁護士の松田道夫の長男として東京府に生まれる。1900年(明治33年)に東京帝国大学法科大学法律科を卒業し、翌年に高等文官試験に合格し、また判事検事登用試験にも合格して検事となった。1902年(明治35年)、外務省参事官に転じ、翻訳官を経て、ベルギー公使館三等書記官を務めた。1913年(大正2年)、外務省政務局第二課長となり、通商局長事務取扱、条約局長、国際連盟帝国事務局長・フランス大使館参事官を歴任した。1925年(大正14年)、駐オランダ公使となり、翌年に駐イタリア大使に転じた。
三松 武夫(みまつ たけお、1876年(明治9年)3月9日 … 三松 武夫(みまつ たけお、1876年(明治9年)3月9日 - 1934年(昭和9年)5月26日)は、日本の農商務官僚。憲政会・民政党系県知事。 大分県日田町で三松則之の二男として生まれる。第一高等学校を経て、1899年、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。農商務省に入り農商務属となる。 以後、農商務省山林局事務官、同省農務局事務官、同省書記官などを歴任。 1914年7月、鳥取県知事に就任。1917年1月、同知事を退任。横浜市助役を経て、1924年6月、山口県知事となる。1925年10月、新潟県知事に就任。1927年4月、同県知事を退任。1929年7月、新潟県知事に再任され、1930年8月まで務め退官した。
矢部 吉禎(やべ よしただ、1876年3月3日 - 1931… 矢部 吉禎(やべ よしただ、1876年3月3日 - 1931年8月23日)は、日本の植物学者。理学博士。位階および勲等は正四位・勲三等。東京生まれ。 植物学者。中国大陸の高等植物の研究にあたる。理學博士。 地球科学者・矢部長克の兄。妻敬子は貴族院議員・男爵中御門経隆の三女。 矢部の没後に、追悼記事として記されたものは , , , , がある。また、後年 の中に 小林義雄 (菌類学者) が を記した。この は、加筆修正されて に収録された。さらにそれが(一部修正されて) に収められた。この際に、誤った「よみがな」が振られた為に、それが世間に広まった。詳細は、別項に記す。 の矢部吉禎の項の記述は、この をベースに記述されている。
中山 佐之助(なかやま さのすけ、1876年(明治9年)2月… 中山 佐之助(なかやま さのすけ、1876年(明治9年)2月29日 - 1940年(昭和15年)12月10日)は、日本の内務・警察官僚。官選県知事。 香川県出身。中山小平次の二男として生まれる。第四高等学校を卒業。1903年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1904年、東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。台湾総督府に入り同府警部となる。 以後、台湾総督府警視兼同参事官を経て内務省に転じ、茨城県警察部長、熊本県内務部長などを歴任。 1921年5月、熊本県知事に昇格。1922年10月、関東庁警務局長に転任。1927年5月、茨城県知事に就任。同年7月、石川県知事に転任。1929年7月、休職となる。
栗原 基(くりはら もとい、1876年2月15日 - 196… 栗原 基(くりはら もとい、1876年2月15日 - 1967年8月26日)は、日本の英語教育者、キリスト教学者、翻訳家。 1876年、宮城県仙台生まれ。第二高等学校、仙台ホサナ教会でアニー・S・ブゼルにキリスト教を学び、東京帝国大学文学部英文科に進んだ。大学では、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の教えを受ける。1901年に大学を卒業。 卒業後、1902年より広島高等師範学校教授。1912年、京都YMCA主事、第三高等学校教授に就任。1930年に三・一五事件との関連により退官した。その後は同志社大学、尚絅女学院大学で教えた。
野方 次郎(のがた じろう、1876年(明治9年)2月10日… 野方 次郎(のがた じろう、1876年(明治9年)2月10日 - 1956年(昭和31年)2月6日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、医師。 静岡県田方郡韮山村(現在の伊豆の国市)出身。1897年(明治30年)、東京医学専門学校(現在の東京医科大学)を卒業。国立伝染病研究所で細菌学を修め、警視庁検疫委員を務めた。その後、東京帝国大学医科大学選科で病理学・内科・精神科を学び、1907年(明治40年)に修了した。神奈川県横浜市で開業し、神奈川県医師会代議員・常任理事、横浜市医師会代議員・常任理事、横浜市学校医会会長、神奈川県学校医会副会長を歴任した。 1919年(大正8年)と1928年(昭和3年)に神奈川県会議員に当選し、参事会員にも選ばれた。
広岡 恵三 (ひろおか けいぞう、1876年(明治9年)2月… 広岡 恵三 (ひろおか けいぞう、1876年(明治9年)2月8日 - 1952年(昭和27年)1月6日)は、日本の実業家。大同生命第2代社長。 1876年(明治9年)、子爵・一柳末徳の次男として東京で生まれる。 東京帝国大学在学中に広岡浅子(明治・大正期の実業家)の娘・亀子との縁談がまとまり、1901年(明治34年)に結婚、広岡家の婿養子となる。 1904年(明治37年)、岳父・広岡信五郎(浅子の夫)の死を機に加島銀行に入社し、浅子らの事業を継承。 1909年(明治42年)、加島屋9代目当主・広岡久右衛門正秋の死を機に、加島銀行頭取、大同生命第2代社長に就任。 1910年(明治43年)、大阪電気軌道(現在の近畿日本鉄道の前身)の初代社長に就任(1912年に辞任)。
川越 壮介(かわごえ そうすけ、1876年(明治9年)2月6… 川越 壮介(かわごえ そうすけ、1876年(明治9年)2月6日 - 1954年(昭和29年)3月10日)は、日本の内務官僚。 鹿児島県日置郡吹上町(日置市)出身。川越重常の二男として生まれる。鹿児島高等中学造士館予科、第五高等学校を経て、1902年(明治35年)、東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入り神奈川県属となる。岩手県事務官、鳥取県事務官・警察部長、香川県事務官・警察部長、奈良県事務官・内務部長、徳島県・長野県・福岡県の各内務部長などを歴任。 1919年(大正8年)4月より沖縄県知事を務め、1921年(大正10年)5月から1924年(大正13年)6月まで徳島県知事を務めた。
堀田 貢(ほった みつぐ、1876年1月28日 - 1926… 堀田 貢(ほった みつぐ、1876年1月28日 - 1926年2月3日)は、日本の内務官僚。警視総監、内務次官。 福島県安積郡河内村(現:郡山市)で堀田喜左衛門の二男として生まれる。安積中学、第二高等学校を経て、1904年7月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。逓信省に入り通信属として通信局に配属。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。同年12月、内務省に転じ内務属として地方局に配属された。 1905年11月、千葉県事務官に就任。以後、千葉県第三部長、神奈川県事務官、茨城県事務官・警察部長、内務書記官・大臣官房文書課長、内務省参事官兼内務大臣秘書官兼官房文書課長、大臣官房会計課長兼文書課長、京都府内務部長などを歴任。
泉二 新熊(もとじ しんくま、1876年〈明治9年〉1月27… 泉二 新熊(もとじ しんくま、1876年〈明治9年〉1月27日 - 1947年〈昭和22年〉10月25日)は、日本の刑法学者、裁判官、司法官僚。第20代大審院長、第13代大審院検事総長、枢密顧問官。法学博士。奄美大島出身で、「東京奄美会」初代会長。 鹿児島県大島郡中勝村、現在の龍郷町中勝出身。泉二当整の長男。中勝小学校簡易科に入学し、後に簡易科廃止・学校統合により戸口小学校に通学。1887年(明治20年)名瀬小学校に転校し、その後同校を卒業。1889年(明治22年)、名瀬に高等小学校が設置され、1期生として入学。1890年(明治23年)、母方の叔父である大島信の勧めにより、高等小学校1年修了で上京して郁文館中学校(旧制)に入学。
三田 定則(みた さだのり、1876年1月27日 - 195… 三田 定則(みた さだのり、1876年1月27日 - 1950年2月6日)は、日本の法医学者、血清学者。 1876年、岩手県盛岡で関定昌の三男・関定則として生まれた。盛岡中学を卒業。東京帝国大学医科大学専科で学び、1901年に卒業。1904年、岩手医科専門学校(現:岩手医科大学)創立者の三田俊次郎の養子となった。 1901年、東京帝大医科大学医化学教室に入った。1904年に助教授となり、法医学講座に転じた。法医学講座の初代教授は法医学の父と言われた片山国嘉で、その後を継いで法医学講座を担当した。1907年にドイツ、フランスに留学を命じられ、血清学を研究。1912年に帰国。1914年、医学博士号を取得。
西村 金三郎(にしむら きんざぶろう、1876年(明治9年)… 西村 金三郎(にしむら きんざぶろう、1876年(明治9年)1月24日 - 1957年(昭和32年)12月14日)は、日本の政治家。衆議院議員(3期)。 京都府伊勢田(小倉村 (京都府)とも。現宇治市)出身。同志社予備学校、第二高等学校を経て1904年東京帝国大学法科大学政治科卒。二高と東大では吉野作造と同期だった。 大学卒業後、京都の六條生命保険(1899-1907、大阪の中央生命保険の後身)の整理局、マニファクチァラーズ保険会社(Manufacturers Life Insurance, 現・マニュライフ生命保険)日本中央部総支配人、内外肥料社長などを務め、1915年からは同志社校友会会長、同志社財団理事も務めた。
光田 健輔(みつだ けんすけ、1876年(明治9年)1月12… 光田 健輔(みつだ けんすけ、1876年(明治9年)1月12日 - 1964年(昭和39年)5月14日)は、日本の病理学者、皮膚科医。生涯をハンセン病の撲滅に捧げ、国立長島愛生園初代園長等を歴任した。生前は「救癩の父」と崇められ、文化勲章やダミアン・ダットン賞を受けた。その一方で、患者の絶対隔離政策を推進する「癩予防法」改正、無癩県運動や「らい予防法」制定の中心人物であり、日本の対ハンセン病政策の明暗を象徴する人物ともされる。贈正三位勲一等瑞宝章。 1876年(明治9年)1月12日、山口県佐波郡中関村(現・防府市)に生まれる。 高等小学校卒業後に上京し、医師・賀古鶴所宅で住み込み書生をしながら苦学して、医術開業前期試験に合格した。
雉本 朗造(きじもと ときぞう・ろうぞう、1876年1月11… 雉本 朗造(きじもと ときぞう・ろうぞう、1876年1月11日 - 1922年3月15日)は、日本の法学者。専門は民事訴訟法。学位は法学博士。愛知県愛知郡鳴海町笠寺鳴尾(現・名古屋市)生まれ。弟子に山田正三、井上直三郎など。 ドイツで民事訴訟法を学んだ後に帰国し、日本の民事訴訟法を体系化。我が国の民事訴訟法学の基礎を築いた。ドイツ法学に依拠する証明責任論を展開し、真偽不明論を提唱した。また、「生きた法学実践」活動として、兼任していた立命館大学の付属研究所の設立に関与するも、雉本の急死でこの研究所は2年という短期間で閉鎖された。 「大正デモクラシーの理論的旗手」と称される。 1917年、鳴海の小作人は、長雨を原因とする凶作を理由に小作料の引き下げを要求し、鳴海小作争議が勃発する。
吉岡 郷甫(よしおか きょうすけ、1876年(明治9年)1月… 吉岡 郷甫(よしおか きょうすけ、1876年(明治9年)1月6日 - 1937年(昭和12年)10月10日)は、山口県出身の文部官僚。日本語学者。