中川 望(なかがわ のぞむ、1875年(明治8年)3月15日… 中川 望(なかがわ のぞむ、1875年(明治8年)3月15日 - 1964年(昭和39年)4月1日)は、日本の内務官僚、政治家。貴族院議員、枢密顧問官、錦鶏間祗候。 宮城県出身。仙台藩士・中川操吉の二男として生まれる。第二高等学校を経て、1901年(明治34年)7月、東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。内務省に入省し内務属・総務局文書課兼地方局勤務となる。同年11月、文官高等試験に合格。 1903年(明治36年)7月、福島県参事官に就任。以後、兵庫県参事官、内務省参事官・衛生局保健課長、地方局市町村課長、埼玉県内務部長などを歴任。1909年(明治42年)12月から1911年2月まで欧米へ出張した。
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井島 義雄(いじま よしお、1875年(明治8年)3月10日… 井島 義雄(いじま よしお、1875年(明治8年)3月10日 - 1920年(大正9年)6月27日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)。弁護士。 熊本県熊本市出身。1903年(明治36年)、東京帝国大学法科大学英法科を卒業した。弁護士を開業し、熊本市会議員、熊本県会議員に選出された。 1917年(大正6年)、第13回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。 その他に肥後酒精株式会社監査役を務めた。
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皆川 治廣(みながわ はるひろ、1875年(明治8年)3月7… 皆川 治廣(みながわ はるひろ、1875年(明治8年)3月7日 - 1958年(昭和33年)3月7日)は、司法官僚、検事、判事。 愛媛県松山市出身。旧制第一高等学校を経て、1903年(明治36年)に東京帝国大学法科大学を卒業し、司法官試補として大阪地方裁判所に勤務した。翌年、日露戦争が勃発すると第四軍司令部附国際法顧問として従軍した。 1906年(明治39年)、大阪地方裁判所予備検事となり、小倉区裁判所検事、東京地方裁判所検事を歴任した。1910年(明治43年)、ブリュッセルで開催された万国刑法会議に出席した後、フランス・ドイツ・スイスに留学した。1913年(大正2年)に帰国後、司法書記官・大臣官房職員課長に任命され、法律取調委員会幹事も務めた。
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川名 兼四郎(かわな かねしろう、1875年3月5日 - 1… 川名 兼四郎(かわな かねしろう、1875年3月5日 - 1914年11月7日)は、日本の法学者。専門は民法。梅謙次郎に師事。弟子に末弘厳太郎、岩田新など。 千葉県出身。東京帝国大学卒業後、1900年に東京帝国大学助教授となる。1903年から1906年までドイツに留学して民法を研究し、帰国翌年の1907年に教授となった。1911年刊行の『法律大辞書』(復刻版 ISBN 4820529935) の主要執筆者一覧にも「東京帝国大学法科大学教授」として名を連ねる。末弘厳太郎の指導教官。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
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野村 益三(のむら ますぞう、1875年(明治8年)3月5日… 野村 益三(のむら ますぞう、1875年(明治8年)3月5日 - 1959年(昭和34年)12月25日)は、明治から昭和期の教員、政治家、華族。貴族院子爵議員。 外務省出仕・野村靖の長男として生まれる。父の死去に伴い、1909年(明治42年)2月19日に子爵を襲爵した。 東京帝国大学農学部を修了し、1910年(明治43年)ドイツ帝国に留学した。 1905年(明治38年)和歌山県立粉河中学校教諭に就任。以後、愛知県立第五中学校教諭、愛知県立第五中学校教諭、神奈川県立第四中学校教諭などを歴任。その他、教科書調査会副会長、帝国水産会長、南洋水産協会長、産業組合中央金庫評議員、大日本育英会評議員、帝国教育会評議員会議長、大日本農会理事、東京農業大学理事、国語審議会委員、教育評議会委員、文政審議会委員、物価審議会委員、農林計画委員会委員などを務めた。
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東園 基光(ひがしぞの もとみつ、1875年(明治8年)3月… 東園 基光(ひがしぞの もとみつ、1875年(明治8年)3月4日 - 1934年(昭和9年)2月26日)は、明治から昭和初期の内務・警察官僚、政治家、華族。官選富山県知事、貴族院子爵議員。 東京府出身。侍従・宮中顧問官・子爵、東園基愛の長男として生まれる。学習院高等学科を経て、1903年(明治36年)東京帝国大学法科大学政治学科を卒業し大学院に進む。同年、文部省に入省し普通学務局属となる。1904年(明治37年)11月、文官高等試験行政科試験に合格した。 1905年(明治38年)内務省に転じ内務属となる。以後、岡山県事務官、静岡県事務官・第二部長、滋賀県事務官・警察部長、愛知県事務官・警察部長、茨城県内務部長、東京府内務部長などを歴任。
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中村 勝麻呂(なかむら かつまろ、1875年〈明治8年〉3月… 中村 勝麻呂(なかむら かつまろ、1875年〈明治8年〉3月 - 1944年〈昭和19年〉3月23日)は、日本の歴史学者、教育者。史料編纂官および立教大学文学部教授を務め、幕末から維新期の古文書の編纂を行った。 1875年(明治8年)3月、滋賀県で中村平太の長男として生まれる。叔父には、彦根藩儒学者の中村不能齊(中村不能斎)がおり、養子の関係から勝麻呂は不能斎の孫となる。 1901年(明治34年)、東京帝国大学文科大学史学科を卒業し、同大学院に入り幕末外交史を専攻する。 1908年(明治41年)、東京帝国大学の史料編纂掛(後の史料編纂所)に務める史料編纂官に任ぜられ、1935年(昭和10年)まで勤務する。
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飯尾 藤次郎(いいお とうじろう、1875年(明治8年)2月… 飯尾 藤次郎(いいお とうじろう、1875年(明治8年)2月27日 - 1943年(昭和18年)9月9日)は、日本の検察官、内務・警察官僚。政友会系官選県知事。 愛媛県出身。飯尾東平の三男として生まれた。1903年、東京帝国大学法科大学法律学科(仏法)を卒業。司法省に入省。岐阜地方兼同区裁判所検事を務めた。 1907年8月28日、内務省に転じ大阪府警視に就任。以後、高知県事務官・警察部長、新潟県事務官・警察部長、富山県内務部長、宮城県内務部長、熊本県内務部長、平安北道知事、黄海道知事などを歴任。 1927年5月7日、沖縄県知事に就任。経済の振興、中等教育の振興、政友会の党勢拡張に尽力。1928年12月26日、岩手県に転任。
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土岐 嘉平(とき かへい、1875年(明治8年)2月16日 … 土岐 嘉平(とき かへい、1875年(明治8年)2月16日 - 1946年(明治21年)3月22日)は、日本の内務官僚・政治家。府県知事、北海道庁長官、京都市長。 和歌山県那賀郡、のちの山崎村(岩出町を経て現岩出市)出身。土岐綱右衛門の二男として生まれる。第三高等学校を経て、1901年、東京帝国大学法科大学政治学科を優等で卒業し、銀時計を授与された。 1901年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入り土木局に配属された。以後、山梨県参事官、内務省書記官、同参事官、大阪府内務部長などを歴任。 1914年6月、高知県知事に就任。地元の利害に直結する市町村の土木補助費問題に関して、県議会での調整に尽力した。
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三上 義夫(みかみ よしお、1875年〈明治8年〉2月16日… 三上 義夫(みかみ よしお、1875年〈明治8年〉2月16日 - 1950年〈昭和25年〉12月31日)は、日本の数学史家、和算研究家。日本の数学と中国の数学を英文で西洋に紹介した。 父親は三上助衛門安忠、母親は勝。妻は近藤幸八郎の三女武。 広島県高田郡上甲立村(現在の安芸高田市甲立)の素封家である三上本家(「安国屋」家)に生れる。1890年(明治23年)12月に広島高等小学校を卒業後、翌年4月に千葉県尋常中学校2年級に編入学した。1892年(明治25年)には神田錦町の国民英学会および神田猿楽町の東京数学院に学ぶ。 1895年(明治28年)、徴兵検査のため帰郷するが、虚弱のため免役される。同年、武と結婚。
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大園 栄三郎(おおぞの えいざぶろう、1875年(明治8年)… 大園 栄三郎(おおぞの えいざぶろう、1875年(明治8年)2月1日 - 1939年(昭和14年)1月22日)は、衆議院議員(政友本党→立憲民政党)、鉄道官僚。 奈良県宇智郡五條町(現在の五條市)に小川栄造の二男として生まれ、大園恵戎の養子となった。1898年(明治31年)、東京帝国大学法科大学を卒業した。逓信属、鉄道事務官を務め、1914年(大正3年)には鉄道院理事、監督局長に就任した。 1919年(大正8年)に退官。その後は、東海道電気鉄道株式会社専務取締役となり、さらに北恵那鉄道株式会社取締役となった。 1924年(大正13年)、第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選した。
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村川 堅固(むらかわ けんご、1875年1月28日 - 19… 村川 堅固(むらかわ けんご、1875年1月28日 - 1946年1月21日)は、日本の西洋史学者。 1875年、熊本県熊本市薬園町で生まれた。旧制第五高等学校を卒業後、文科大学(東京帝国大学)史学科に入学。1898年に同大学を卒業した。 1900年より陸軍大学校教授嘱託として勤務。英語圏における日本史研究の嚆矢として知られるジェームズ・マードックの『日本の歴史』の執筆を手伝う。1903年より3年間、ヨーロッパに留学。1906年に帰国し、文科大学助教授に任ぜられた、1912年、教授昇格。 西洋古代史を専門とし、日本におけるこの分野の開拓者である。エジプト古代史、ギリシャ文化史、ローマ史などを講じ、著書として『西洋上古史』 (1916) 、『ギリシャ史』 (1931) などがある。
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斯波 孝四郎(しば こうしろう、1875年(明治8年)1月2… 斯波 孝四郎(しば こうしろう、1875年(明治8年)1月24日 ‐ 1971年(昭和46年)6月13日)は、日本の実業家、技術者。妻・アイ子は白根専一の娘。 元加賀藩家老斯波蕃の次男として石川県金沢市に生まれる。第一高等学校を経て、1899年(明治32年)東京帝国大学工科大学造船科を卒業。同年三菱造船株式会社に入社。長崎造船所所長、三菱造船常務を務め、1934年(昭和9年)、三菱造船と三菱航空機を統合して三菱重工業を発足させその初代会長に就任した。1942年(昭和17年)に三菱重工業会長を退任し、造船統制会会長に就任、1945年(昭和20年)まで務めた。 第二次世界大戦後はGHQにより公職追放[要出典]。
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財部 実秀(たからべ さねひで、1875年(明治8年)1月2… 財部 実秀(たからべ さねひで、1875年(明治8年)1月21日 - 1968年(昭和43年)4月8日)は、日本の内務・警察官僚、政治家。官選島根県知事、都城市長、千葉市長。 宮崎県北諸県郡下長飯村(現:都城市)出身。財部実篤の長男として生まれる。第五高等学校を卒業。1903年7月、東京帝国大学法科大学を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。同年12月、内務省に入省し神奈川県警部となる。 1904年6月、警視庁属兼同警部に就任。以後、警視庁警視・小松川警察署長、麻布区警察署長、秋田県事務官・第四部長、同事務官・警察部長、北海道庁事務官・警察部長、北海道庁警察部長、福島県内務部長、鳥取県内務部長などを経て、1917年10月、広島県内務部長となる。
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河津 暹(かわづ すすむ、1875年(明治8年)1月20日 … 河津 暹(かわづ すすむ、1875年(明治8年)1月20日 - 1943年(昭和18年)3月28日)は、日本の経済学者・社会政策学者。法学博士・東京帝国大学名誉教授。しばしば音読みで「せん」とも称される。 河津祐之の長男として東京府(現在の東京都)に生まれる。本家の伯父・河津祐賢の家督を継ぎ、旧制二高(現・東北大学)を経て1899年(明治32年)7月、東京帝国大学法科大学(現・東京大学法学部)政治学科を首席で卒業(いわゆる第1回「銀時計組」)、東京帝国大学大学院(経済学専攻)に入学した。 翌1900年6月、欧州(イギリス・ドイツ)留学に出発し、留学中の1901年3月、東京帝大法科大学助教授に就任した。
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小西 重直(こにし しげなお、1875年(明治8年)1月15… 小西 重直(こにし しげなお、1875年(明治8年)1月15日- 1948年(昭和23年)7月21日)は、日本の教育学者。第9代京都帝国大学総長。 山形県米沢市出身。旧名は代吉。尊敬していた杉浦重剛、中村正直より一字をとり「重直」へ改名した。父は旧米沢藩士・富所幸吉。富所家は一刀流師範を務める家であったが、明治維新後の生活は苦しく、父の死後に母は小西と母子心中を企てた。その後母のいとこである旧会津藩士・小西馬之允の養子に迎えられる。私立日新館、福島尋常中学、二高に学ぶ。二高時代は学費に苦しみ、廃屋や廃寺で生活し、襖を布団代わりにしていた時期もあったが、米沢教育会の援助を受け東京帝大を卒業した。卒業論文は「倫理上の自我」。
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田中 右橘(たなか うきつ、1875年1月8日 - 1963… 田中 右橘(たなか うきつ、1875年1月8日 - 1963年12月22日)は、日本の元裁判官。東京控訴院長や大審院判事などを歴任し、八幡大学(現・九州国際大学)初代学長を務めた。従四位勲三等。族籍は鹿児島県士族。
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河野 治平(こうの じへい、1875年〈明治8年〉1月5日 … 河野 治平(こうの じへい、1875年〈明治8年〉1月5日 - 1950年〈昭和25年〉12月23日)は、日本の政治家、実業家。神奈川県会議長。豊川村長。足柄肥料会社社長。曽我銀行取締役。小田原実業銀行専務取締役。 副総理兼東京五輪担当大臣、建設大臣、行政管理庁長官、農林大臣を務めた河野一郎は次男。参議院議長を務めた河野謙三は三男。五女・美喜子はラジオ関東(現・アール・エフ・ラジオ日本)社長や富士観光(現・富士レックス)社長を務めた越田覚造に嫁いだ。衆議院議長、外務大臣、自由民主党総裁、新自由クラブ代表を務めた河野洋平は孫。外務大臣・防衛大臣、デジタル大臣などを歴任している衆議院議員、河野太郎は曽孫にあたる。
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若宮 貞夫(わかみや さだお、明治8年(1875年)1月5日… 若宮 貞夫(わかみや さだお、明治8年(1875年)1月5日 - 昭和21年(1946年)9月8日)は、日本の逓信官僚、政治家。衆議院議員。東京府平民。位階および勲等は従三位・勲二等。 元総理大臣の橋本龍太郎および元高知県知事橋本大二郎の外祖父。 兵庫県城崎郡豊岡町(現在の豊岡市)の西楽寺に、熊本県人で僧侶である若宮正海の三男として生まれる。 開成中学校、第二高等学校を経て、1899年(明治32年)7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年11月、文官高等試験に合格し、同年12月、逓信省に入り逓信属・管船局勤務となる。また、兄正音の養子となる。 1902年(明治35年)家督を相続する。 北海道逓信局長、北部逓信局長、管船局長兼高等海員審判所長、戦時船舶管理局長などを歴任。
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竹内 佐太郎(たけうち さたろう、1875年(明治8年)1月… 竹内 佐太郎(たけうち さたろう、1875年(明治8年)1月3日 - 1966年(昭和41年)12月6日)は、日本の裁判官、検事。 富山県下新川郡入善町出身。1903年(明治36年)、東京帝国大学法科大学英法科を卒業し、司法官試補となる。浦和地方裁判所判事、東京区裁判所判事、長野区裁判所検事、東京区裁判所検事、東京地方裁判所検事、和歌山地方裁判所検事正、高知地方裁判所検事正、神戸地方裁判所検事正、横浜地方裁判所検事正を歴任。その後、台湾総督府法院に転じ、高等法院検察官長、高等法院長を務めた。 1935年(昭和10年)、広島控訴院検事長となった。1937年(昭和12年)に退官した後は弁護士を開業した。
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藤井 新八郎(ふじい しんぱちろう、1875年(明治8年) … 藤井 新八郎(ふじい しんぱちろう、1875年(明治8年) - 1948年(昭和23年))は、日本の医師。秋田県仙北郡六郷町(現・美郷町)六郷字本道町出身。六郷町長も務めた。 本道町の角に住み、「ゲンジ」さんと呼ばれていた町医者である藤井玄瑞の長男。六郷町における医者が3代続く家系だった。1891年(明治24年)、秋田中学(現・秋田県立秋田高等学校)を卒業し、第一高等学校へ進学。1896年(明治29年)には、帝国大学医科大学(大学名は1897年に東京帝国大学に改称)へ入学し、1901年(明治34年)に卒業した。卒業当初は同大学病院の副手、のち松江市の病院へ赴任する。 その後、郷里へ帰り、六郷町において、初めて開業した帝大卒の医学士となる。
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土屋 純一(つちや じゅんいち、1875年 - 1946年)… 土屋 純一(つちや じゅんいち、1875年 - 1946年)は、建築史家。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
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久保 猪之吉(くぼ いのきち、1874年(明治7年)12月2… 久保 猪之吉(くぼ いのきち、1874年(明治7年)12月26日 - 1939年(昭和14年)11月12日)は、日本の医学者・歌人・俳人。医学博士。京都帝国大学福岡医科大学(後の九州帝国大学、現・九州大学)教授。 明治7年12月26日、陸奥国二本松藩の藩士久保常保の子として現在の福島県二本松市に生まれる。戊辰戦争の当時、猪之吉は6歳、実兄たちは、二本松藩士久保長一郎常保(父親と同名のため父親と誤認されるが、実兄である)、二本松少年隊の久保鉄次郎13歳と久保豊三郎12歳として知られる。猪之吉は兄の豊三郎と共に二本松の戦いに参加したいと母親に懇願したが、懐妊中の母は猪之吉を無言で抱き締めていたと伝わる。
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住田 寅次郎(すみだ とらじろう、明治7年(1874年)12… 住田 寅次郎(すみだ とらじろう、明治7年(1874年)12月25日 - 昭和2年(1927年)11月25日)は、日本の実業家、政治家。米子商工会副会頭、米子町会議員、郡会議員。 漫画家水木しげる(本名武良茂)の大叔父。父は住田呉服店の主人で米子町長をつとめた住田善平。 米子東倉吉町の商家に生れた。家業は呉服商。 1902年7月、東京帝国大学法科大学政治学科卒業、法学士。 後には転じて製パンを志し、世上これを“学士パン”と呼んだ。 明治40年(1907年)9月、町会議員に当選。学務委員、角盤学校組合議員其の他各種の名誉職を兼ねた。 住田寅次郎は1902年7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業した。
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太田 秀穂(おおた ひでお、1874年(明治7年)12月21… 太田 秀穂(おおた ひでお、1874年(明治7年)12月21日- 1950年(昭和25年)12月23日)は、日本の教育者。 茨城県出身。太田茂兵衛の四男。1898年(明治31年)、東京帝国大学文科大学哲学科を卒業し、さらに大学院で学んだ。新潟県新潟師範学校教諭、山梨県師範学校校長、新潟県高田師範学校校長、長野県師範学校校長を歴任。1912年(明治45年)、朝鮮総督府視学官に転じ、さらに京城女子高等普通学校校長も兼ねた。1917年(大正6年)、佐賀県師範学校校長となり、1919年(大正6年)には台湾総督府視学官に転じ、翌年には台湾総督府台北師範学校も兼ねた。 1923年(大正12年)からは多摩少年院院長を務めた。
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近藤 茂(こんどう しげる、1874年〈明治7年〉12月15… 近藤 茂(こんどう しげる、1874年〈明治7年〉12月15日 - 1954年〈昭和29年〉1月1日)は、明治から昭和初期にかけて活動した日本の電気技術者、実業家。工学博士。 逓信省の技官として電気局技術課長心得などを務め、退官後は実業界に転じて電力会社にかかわり大同電力常務取締役、昭和電力副社長に就任した。福井県出身。 福井県福井市出身。1874年(明治7年)12月15日、士族近藤寅之助の長男として生まれる。1896年(明治29年)7月第一高等学校第二部工科を卒業し、次いで1899年(明治32年)7月東京帝国大学工科大学電気工学科を卒業した。同期に日本電気会長を務めた秋山武三郎らがいる。 卒業後は逓信省に入り、電気事業の監督にあたる。
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宮原 武熊(みやはら たけくま、1874年(明治7年)12月… 宮原 武熊(みやはら たけくま、1874年(明治7年)12月13日 - 没年不明)は鹿児島県出身の医学者、眼科医で、日本統治時代の台湾における政治家。台湾台中市のスイーツ専門店「宮原眼科(日出宮原眼科)」の由来として知られている。 鹿児島県川辺郡知覧村(現・南九州市)で出生。 同年退官し、東京で眼科開業。その後台湾に再渡航し、1927年(昭和2)に民間開業医として台中州台中市栄町に宮原眼科医院を開業。 1933年(昭和8)12月29日に陳炘および台湾文化協会や台湾民衆党を率いていた林献堂らとともに台湾人による台湾自治を目指す『東亜共栄協会』を設立し、一時は1万人超の会員数となったが、次第に日本の右翼団体の圧力で劣勢となり、1936年に解散に追い込まれている。
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小森 雄介(こもり ゆうすけ、1874年(明治7年)12月1… 小森 雄介(こもり ゆうすけ、1874年(明治7年)12月11日)- 1942年(昭和17年)5月3日)は、明治後期から昭和前期の銀行家、政治家。衆議院議員。 鹿児島県鹿児島郡鹿児島城下高麗町(現鹿児島市高麗町)で、旧鹿児島藩士・小森新蔵の六男として生まれる。1896年(明治29年)7月、鹿児島高等中学造士館本科卒業。1899年(明治32年)東京帝国大学法科大学政治学科を卒業した。 衆議院事務局に入り同属に任官。1902年(明治35年)台湾銀行に転じて書記に就任。植民経済研究のため1905年(明治38年)アメリカ合衆国に留学しハーバード大学で学んだ。その後、ボストンのキタピポヂー銀行での実務研修、欧州各国の視察旅行を経て、1908年(明治41年)に帰国した。
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前田 利定(まえだ としさだ、1874年〈明治7年〉12月1… 前田 利定(まえだ としさだ、1874年〈明治7年〉12月10日 - 1944年〈昭和19年〉10月2日)は、日本の政治家、華族(子爵)。逓信大臣(第26代)、農商務大臣(第32代)を務めた。東京府出身。 加賀前田家の分家の一つである旧七日市藩主家に、最後の藩主(藩知事)前田利昭の子として生まれる。 1894年(明治27年)、日清戦争に歩兵中尉として従軍。1902年(明治35年)、東京帝国大学法科大学を卒業。その後、司法官試補となる。1904年(明治37年)7月10日、貴族院子爵議員に選出され、研究会に所属し1944年(昭和19年)2月2日に辞職するまで在任した。 1922年(大正11年)に加藤友三郎内閣の逓信大臣となり初入閣。
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早田 文藏(はやた ぶんぞう、1874年12月2日 - 19… 早田 文藏(はやた ぶんぞう、1874年12月2日 - 1934年1月13日)は日本の植物学者。 1871年、新潟県加茂生まれ。1903年東京帝国大学を卒業。台湾総督府の依頼で台湾の植物を研究し、さらにインドシナでも調査を行った。その後東京帝大理学部教授および東大附属植物園長となった。 台湾植物の命名にあたってはフランス人神父のユルバン・ジャン・フォーリー (Urbain Jean Faurie) が残した資料に拠る部分が多かったため、謝意を表するため日本人から寄付を募り、1917年に神父の銅像を建てた。 死後の1936年、台湾総督府は功績をたたえ記念碑を現台北植物園の腊葉館前に建てたが太平洋戦争の混乱により、フォーリー神父の銅像ともども行方不明となってしまった。
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三輪田 輪三(みわた りんぞう、1874年(明治7年)11月… 三輪田 輪三(みわた りんぞう、1874年(明治7年)11月16日 - 1961年(昭和36年)10月8日)は、日本の教育者。 愛媛県出身。1898年(明治31年)、東京帝国大学理科大学数学科を卒業。山口高等学校教授となり、1901年(明治34年)に第六高等学校教授に転じた。1920年(大正9年)、山形高等学校初代校長に就任した。退官後、松本亀次郎らが設立した東亜高等予備学校学監を務めた。
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小島 源三郎(こじま げんざぶろう、1874年〈明治7年〉1… 小島 源三郎(こじま げんざぶろう、1874年〈明治7年〉11月15日 - 1934年〈昭和9年〉5月19日)は、日本の内務官僚、弁護士。官選秋田県知事、静岡市長。 群馬県勢多郡駒形町(現・前橋市)出身。小島彦右衛門の二男として生まれる。群馬県尋常中学校、私立日本中学校を経て、第一高等学校を卒業。1911年7月、東京帝国大学法科大学法律学科(仏法)を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し総務局属となる。 以後、広島県参事官、内務省参事官、関東州民政署事務官・旅順支署長、関東都督府民政署長、長崎県事務官・第四部長、静岡県事務官・内務部長などを経て、1913年6月、兵庫県内務部長となる。
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今村新吉(いまむら しんきち、1874年11月15日 - 1… 今村新吉(いまむら しんきち、1874年11月15日 - 1946年5月19日)は、日本の精神医学者。 石川県金沢市出身。今村有隣の長男。1897年帝国大学医科大学卒。ウィーン留学後京都帝国大学医学部教授となり、精神医学教室を創設、初代教授となる。1904年医学博士。渡辺久吉の日本心霊学会にかかわり、人文書院と改称した時の命名者である。妄想性精神病、神経症など精神病理学の研究で知られた。弟は今村次吉。千里眼事件では、福来友吉らとともに御船千鶴子の売り出しを行っている。
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西大路 吉光(にしおおじ よしみつ、1874年(明治7年)1… 西大路 吉光(にしおおじ よしみつ、1874年(明治7年)11月6日 - 1953年(昭和28年)12月12日)は、大正から昭和期の農林技官、政治家、実業家、華族。貴族院子爵議員。 雅楽部長・竹屋光昭の四男として生まれる。子爵・西大路隆修の死跡を相続し、1896年(明治29年)2月3日、子爵を襲爵した。 1901年(明治29年)東京帝国大学農科大学林学実科を修了。同年、営林技手に就任。以後、同主事兼大林区署書記、山林局技手兼林務官官補、山林技師、林務技師などを歴任し、森林主事教習講師、農商務省嘱託も務めた。 1911年(明治44年)7月10日、貴族院子爵議員に選出され、研究会に所属して活動し、1947年5月2日の貴族院廃止まで在任した。
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金森 鍬太郎(かなもり くわたろう、1874年(明治7年)1… 金森 鍬太郎(かなもり くわたろう、1874年(明治7年)11月1日 - 1927年(昭和2年)1月26日)は、明治から大正時代の土木工学者、内務官僚。旧姓は伊藤。 伊藤宗兵衛の二男として愛知県に生まれ、金森きくの養子となり、1899年(明治32年)8月に家督を相続した。1900年(明治33年)東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業し、内務省第五区(大阪)土木監督署に奉職する。淀川改修工事では瀬田川の洗堰、浚渫などを指揮した。ほか、琵琶湖の治水に携わった。 1911年(明治44年)内務省土木局調査課へ転じ、土木局第一技術課、第二技術課長を歴任した。この間、臨時治水調査会、港湾調査会委員などを務めたが、在職中に死去した。
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平山 清次(ひらやま きよつぐ、1874年(明治7年)10月… 平山 清次(ひらやま きよつぐ、1874年(明治7年)10月13日 - 1943年(昭和18年)4月8日)は、日本の天文学者。 宮城県仙台市出身。寺尾寿の弟子で、天体力学及び古暦の研究で有名。小惑星の「族」を発見した功績により月の裏側のクレーターに「ヒラヤマ」と名づけられた。ヒラヤマは清次と同姓の天文学者・平山信(太陽の理論的な研究、小惑星の観測や発見及び軌道決定、日食観測、天体物理学・恒星天文学及び測地学に多大な業績を残した)の2人の名前に由来しているが、清次と信の間には血縁・姻戚関係はない。墓所は仙台市泰心院。 平山清次の門下生には萩原雄祐、鏑木政岐、広瀬秀雄らがいる。
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坂本 助太郎(さかもと すけたろう、1874年10月12日 … 坂本 助太郎(さかもと すけたろう、1874年10月12日 - 1944年11月14日)は、日本の官僚・内務技官。土木技師・土木工学者。関西高等工学校・関西高等工業学校(現:大阪工業大学)第2代理事長。工学博士(東京帝国大学)。内務省大阪土木出張所元所長。土木学会元関西支部長。元阪神上水道組合長。河川工学(特に淀川)の権威の一人。位階は従三位、勲等は勲三等。 専門は、土木工学・河川工学/海岸工学、水工学。 1874年宮城県仙台生まれ。1900年東京帝国大学工科大学土木工学科卒業。内務省第5区(大阪)土木監督署にて主任として、淀川第1工区改修工事に従事。1911年同省東京土木出張所に異動し、利根川第3期改修工事従事に従事。
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新見 吉治(しんみ きちじ、1874年10月9日 - 197… 新見 吉治(しんみ きちじ、1874年10月9日 - 1974年11月4日)は、日本の歴史学・教育学者。 愛知県名古屋市生まれ。実家は旧尾張藩の藩主の鉄砲を管理する御手筒同心の家柄だった。旧制第一高等学校から東京帝国大学(現 東京大学)文科大学史学科卒業。1903年に広島高等師範学校に赴任し、日本最初の「歴史教授法」を開講した。1908年にライプツィヒ大学に留学しカール・ランプレヒトに師事、1912年帰国。1916年“Die Geschichte der Buke- Herrschaft in Japan”(邦訳『日本における武家政治史』)により文学博士を取得。 1929年広島文理科大学教授、史学科初代主任教授、国史学・西洋史学を専攻。
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遠藤 隆吉(えんどう りゅうきち、1874年〈明治7年〉10… 遠藤 隆吉(えんどう りゅうきち、1874年〈明治7年〉10月2日 - 1946年〈昭和21年〉2月5日)は、日本の思想家、社会学者、教育者。私立巣鴨学園の創設者である。 1874年(明治7年)前橋藩の下級士族・遠藤千次郎、はる夫妻の長男として現在の群馬県前橋市神明町で生まれた。父・千次郎は福澤諭吉の思想に共鳴していた。隆吉は桃井学校に学び、1892年(明治25年)群馬県尋常中学校(現・群馬県立前橋高等学校)を卒業した。第一高等学校に進学し、1896年(明治29年)に卒業。東京帝国大学文科大学哲学科に進んで、1899年(明治32年)に卒業。同校学長の井上哲次郎、心理学教授・元良勇次郎、外国人教師・ケーベルから強く影響を受けた。
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太田 光凞(おおた みつひろ、1874年10月1日 - 19… 太田 光凞(おおた みつひろ、1874年10月1日 - 1939年10月14日)は、日本の実業家。京阪電気鉄道社長、会長などを務めた。 山口県出身。1898年(明治31年)東京帝国大学法科大学法英科を卒業後、鉄道省に奉職する。京阪電気鉄道設立(1906年)時の専務取締役渡辺嘉一より鉄道省からの人材斡旋を依頼されたのをきっかけに、実業界を目指す第一歩として1907年(明治40年)自らが鉄道省を辞して京阪電気鉄道に入社し、庶務課長に就任。建設中だった京阪本線の線路選定や用地買収等一切の事務を担当した。 開業後も同社の実務を切り回し、1910年(明治43年)取締役就任、1911年(明治44年)には常務取締役、1925年(大正14年)には農林大臣就任のため退任した岡崎邦輔の後を受ける形で社長に就任する。
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斎藤 賞資(さいとう しょうすけ、1874年(明治7年)9月… 斎藤 賞資(さいとう しょうすけ、1874年(明治7年)9月28日 - 没年不明)は、日本の弁護士、日本興業銀行副支配役。族籍は島根県平民。 島根県美濃郡二条村大字桂平(現・益田市)出身。斎藤真佐加の三男。1899年、第二高等学校第一部法科を卒業。1908年、東京帝国大学法科大学法律学科を卒業。司法官試補を拝命し、横浜地方裁判所に勤務したが間もなく官を辞し、東京で弁護士並びに特許弁理士の事務に従事する。 後に不動貯金銀行に入り、貸付課長、名古屋・日本橋各支店支配人、本店検査課長等をつとめた。後に日本興業銀行に入り、同行副支配役に挙げられる。住所は東京市本郷区菊坂町。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。
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木下 淑夫(きのした よしお、1874年9月23日 - 19… 木下 淑夫(きのした よしお、1874年9月23日 - 1923年9月6日)は、日本の鉄道官僚。鉄道事業を旅客サービス業としてとらえ、鉄道サービスの向上を旨として尽力したが、改主建従の考えで時の政権と対立して左遷された。 日本を観光による経済振興および観光による鉄道旅客収入増加の必要性を説き、ジャパン・ツーリスト・ビューロー(現在の日本交通公社)の生みの親となった。また東京ステーションホテル開設に尽力し、日本を欧米に紹介するために発行された旅行ガイドブックである『An Official Guide to Eastern Asia』(東アジア旅行案内)の発案者でもある。 1874年9月23日、京都府熊野郡神野村(現在の京丹後市久美浜町神野)の酒蔵の長男として生まれる(旧名梅蔵)。
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黒板 勝美(くろいた かつみ、1874年〈明治7年〉9月3日… 黒板 勝美(くろいた かつみ、1874年〈明治7年〉9月3日 - 1946年〈昭和21年〉12月21日)は、日本の歴史学者。東京帝国大学名誉教授。学位は、文学博士。専門は、日本古代史、日本古文書学。号は虚心。エスペラントの普及にも努めた。歴史学者の黒板伸夫は甥。甥の妻は作家の永井路子。 旧大村藩の士族黒板要平の長男として、長崎県彼杵郡下波佐見村(現在の長崎県東彼杵郡波佐見町)に生まれる。長崎県立大村高等学校の前身である旧制大村中学校、熊本大学の前身である旧制第五高等学校を卒業した後、1896年に、帝国大学文科大学国史科を卒業し、帝国大学大学院に入学。同時に経済雑誌社に入り、田口卯吉の下で『国史大系』の校訂に従事した。
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遠藤 吉三郎(えんどう きちさぶろう、1874年8月30日 … 遠藤 吉三郎(えんどう きちさぶろう、1874年8月30日 - 1921年3月14日)は、日本の生物海洋学者。日本の海藻研究の大家。 遠藤が1911年から1914年にイギリス、ドイツ、ノルウェーへ留学した際の写真により、1928年に水産講習所(現在の東京海洋大学)によって『海藻寫眞帖』が作成された。 2014年、和歌山県白浜町の京都大学瀬戸臨海実験所(京大白浜水族館)で『海藻寫眞帖』の原版となる遠藤が撮影した藻類の写真のガラス乾板約170枚が発見された。 欧州留学時に、2本杖を使うノルウェー式スキー術を習得。1916年に帰国した際に、生徒にスキー術を伝えたことから、札幌では2本杖のノルウェー式が一般的となった。
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木子 幸三郎(きご こうざぶろう、1874年(明治7年)8月… 木子 幸三郎(きご こうざぶろう、1874年(明治7年)8月29日 - 1941年(昭和16年)2月14日)は、日本の建築家。皇室関係の建築を多く手がけたことで知られる。族籍は東京府士族。 1874年(明治7年)、宮内省内匠寮技師の木子清敬の二男として東京市赤坂区に生まれた。 1901年(明治34年)、東京帝国大学工科大学建築学科選科を修了し、大阪の住友本店臨時建築部、に入る。 1902年(明治35年)、一年志願兵として入隊。除隊後、東宮御所造営局勤務となる。その一方で1905年(明治38年)からは工手学校で講師を開始し和洋建築の講義もおこなっていた。1911年(明治44年)宮内省内匠寮技師となる。
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徳永 重康(とくなが しげやす、1874年(明治7年)8月2… 徳永 重康(とくなが しげやす、1874年(明治7年)8月20日 - 1940年(昭和15年)2月8日)は、日本の動物学者・地質学者・古生物学者。早稲田大学教授、早稲田高等工学校校長、東京帝国大学講師などを歴任。1933年(昭和8年)に実施された第一次満蒙学術調査研究団長として熱河地方に赴き、その調査報告で1937年(昭和12年)に朝日文化賞を受賞。日本古生物学会2代会長、日本地質学会会長 を務めた。 1874年(明治7年)8月20日、芝区愛宕町にて生まれる。父親は薩摩藩士の吉原重隆。第一高等学校を経て東京帝国大学に進学する。理学部動物学科に進むもその中で古生物学に興味を持ち、地質学科への転科を希望したものの、当時その制度がなかったため受け入れられず、動物学科に籍をおいたまま地質学科の講義・実習を受けた。
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鈴木 穆(すずき しずか、1874年(明治7年)8月18日 … 鈴木 穆(すずき しずか、1874年(明治7年)8月18日 - 1933年(昭和8年)8月23日)は、朝鮮総督府官僚。 東京府出身。神田共立中学(現開成中)、第一高等中学(一高)を経て、1899年(明治32年)、東京帝国大学法科大学を卒業。1902年、福山藩士町野精蔵次女鈴子と結婚。大蔵書記官を経て、朝鮮総督府で度支部司税局長、度支部長官・臨時土地調査局長、朝鮮銀行副総裁を歴任した。 1925年(大正14年)に退任後は、京都電機株式会社取締役会長を務め、1932年(昭和7年)からは関東軍司令部嘱託、関東軍特務部財政経済顧問となり、満州に駐在。翌年、パラチフスに罹患し永眠す。多磨霊園(12-1-1-3)に埋葬される。
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岡田 武松(おかだ たけまつ、1874年(明治7年)8月17… 岡田 武松(おかだ たけまつ、1874年(明治7年)8月17日 - 1956年(昭和31年)9月2日)は、日本の気象学者。第4代中央気象台長を多年に亘り務めた。「気象学の父」とも呼ばれる。 千葉県相馬郡布佐村(東葛飾郡布佐町、我孫子町を経て、現在の我孫子市布佐)の海産物を扱う商家に生まれる。6歳で布佐初等小学校に入学、課外に和算を学ぶ。14歳で上京し、東京府立尋常中学校(現在の東京都立日比谷高等学校)に入学し、19歳で卒業し、第一高等中学校に入学。物理学を中村清二らに学ぶ。同級に桑木或雄(あやお)らがいる。このころ利根川の水害が多発したこともあり、防災科学や気象学に関心を寄せる。 1899年(明治32年)、26歳で東京帝国大学理科大学物理学科を卒業し、ただちに中央気象台(現在の気象庁)に勤務。
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谷野 格(たにの かく、1874年(明治7年)8月16日 -… 谷野 格(たにの かく、1874年(明治7年)8月16日 - 1923年(大正12年)6月10日)は、日本の裁判官。 兵庫県出石郡出石町(現在の豊岡市)出身。1899年(明治32年)、東京帝国大学法科大学を卒業し、司法官試補となる。東京区裁判所検事、東京地方裁判所検事、司法省参事官、東京控訴院検事、東京帝国大学法科大学講師嘱託を歴任。1913年(大正2年)、大審院判事となる。1914年高千穂高等商業学校(現高千穂大学)教員に就任。1916年(大正5年)には法学博士の称号を得た。 1917年(大正6年)、台湾総督府法院判官に転じ、覆審法院長、高等法院長を務めた。
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新保 寅次(しんぼ とらじ、1874年(明治7年)8月6日 … 新保 寅次(しんぼ とらじ、1874年(明治7年)8月6日 - 1955年(昭和30年))は、日本の教育者。 1874年、新保正與の次男として新潟県蒲原郡、のちの西蒲原郡曽根村(曽根町、西川町を経て現新潟市西蒲区)で生まれ、新保宇源太の養子となった。第一高等学校を経て、1898年(明治31年)、東京帝国大学文科大学国文科を卒業し、大学院に進んだ。 卒業後は、高田中学校教諭、福岡県立中学伝習館教諭、真岡中学校校長、宇都宮中学校校長、鹿児島県立第二鹿児島中学校校長、山口高等学校校長、松本高等学校校長を歴任し、1932年(昭和7年)から広島高等学校校長を務めた。
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