米田 健三(よねだ けんぞう、1904年1月13日 - 19… 米田 健三(よねだ けんぞう、1904年1月13日 - 1971年6月20日)は、日本の経営者、工学博士。久保田鉄工(現在のクボタ)社長を務めた。 広島県呉市出身。1928年に東京帝国大学工学部機械工学科を卒業し、同年に久保田鉄工(現在のクボタ)に入社。1946年に取締役に就任し、1949年に常務、1960年に専務を経て、1967年に社長に就任した。 1968年11月に紫綬褒章を受章した。 1971年6月20日、胃がんのために死去。67歳没。
中川 幸一(なかがわ ゆきかず、1903年12月25日 - … 中川 幸一(なかがわ ゆきかず、1903年12月25日 - 2005年1月12日)は、日本の実業家。 高知県出身。1928年に東京帝国大学工学部を卒業し、同年に湘南電気鉄道(のちの京浜急行電鉄)に入社。取締役、専務、副社長を経て、1969年11月から1975年5月までに社長を務め、1975年5月から1981年6月までに会長を務めた。 1968年11月に藍綬褒章を受章し、1974年11月に勲二等瑞宝章を受章した。 2005年1月12日、急性心不全のために死去。101歳没。
高野 信(たかの まこと、1903年(明治36年)12月17… 高野 信(たかの まこと、1903年(明治36年)12月17日 - 1982年(昭和57年)1月9日)は、日本のジャーナリスト、実業家。九州朝日放送(KBC)、日本教育テレビ(NET、現:テレビ朝日)社長を務めた。 福島県いわき市出身。1929年(昭和4年)東京帝国大学を卒業後、朝日新聞社に入社する。 東京本社編集局長、西部本社代表、国策パルプ代表などを歴任し、1967年1月から1973年5月までに九州朝日放送社長を務め、1973年5月から1974年11月までに同社会長を務めた。 1974年(昭和49年)11月、NET社長に転じ、同じ朝日出身の副社長、中川英造と相談し三浦甲子二を編成、制作担当役員に抜擢した。
早川 三郎(はやかわ さぶろう、1903年11月20日 - … 早川 三郎(はやかわ さぶろう、1903年11月20日 - 1983年1月10日)は、日本の経営者。藤沢薬品工業(現・アステラス製薬)社長、会長を務めた。 滋賀県出身。1931年に東京帝国大学経済学部を卒業し、1932年6月に東洋レーヨンに入社。1942年に藤沢友吉商店(のちの藤沢薬品工業、現在のアステラス製薬)に転じ、1950年6月に取締役に就任し、1963年7月に常務、1961年11月に専務を経て、1967年5月には社長に就任した。1978年1月には相談役に就任。 1978年4月に勲三等瑞宝章を受章。 1983年1月10日、脳幹部腫瘍のために死去。79歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
藤松 正憲(ふじまつ まさのり、1903年11月4日 - 1… 藤松 正憲(ふじまつ まさのり、1903年11月4日 - 1997年7月29日 )は、日本の経営者。足利銀行頭取を務めた。 佐賀県出身。1927年に東京帝国大学経済学部を卒業し、同年に日本銀行に入行した。1956年5月に監事を経て、1958年5月に足利銀行に転じ、副頭取に就任し、同年10月には頭取に昇格した。1972年5月に会長を経て、1982年6月には相談役に就任。 1940年に勲五等双光旭日章、1961年に紺綬褒章、1969年4月に藍綬褒章、1981年4月に勲三等旭日中綬章をそれぞれ受章。 1997年7月29日、心不全のために死去。93歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
日野原 節三(ひのはら せつぞう、1903年〈明治36年〉1… 日野原 節三(ひのはら せつぞう、1903年〈明治36年〉11月3日 - 1991年〈平成3年〉12月4日)は、昭和時代の実業家。昭和電工社長時代に「昭電疑獄」の中心人物となった。山梨県東八代郡出身。 1927年、東京帝国大学法学部独法科卒業。昭和化成や秩父木材工業などの役員を務めた後、第二次世界大戦後に日本水素工業の社長となる。1947年、芦田均の支援者でもあった妻の兄菅原通済の推薦によって社長の森暁が公職追放となった昭和電工の社長に迎えられた。社長就任後、会社再建のために復興金融金庫から巨額の融資を受けようと考え、GHQを含む関係者に贈賄や政治献金を行った。これが国会で問題視されて、1948年に日野原は逮捕され、芦田内閣も総辞職に至った。
清水 喜三郎(しみず きさぶろう、1903年10月18日 -… 清水 喜三郎(しみず きさぶろう、1903年10月18日 - 2000年4月12日)は、日本の経営者。三菱レイヨン社長を務めた。岡山県出身。 1932年に東京帝国大学法学部を卒業し、同年に新興人絹(のちの三菱レイヨン)に入社。1953年11月に常務に就任し、1959年11月に専務を経て、1961年11月に副社長に就任し、1967年5月には社長に昇格。1973年11月に会長、1978年6月に相談役を経て、1987年6月から顧問を務めた。 1973年11月に勲三等旭日中綬章を受章した。 2000年4月12日心不全のために死去。96歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
久保 常明(くぼ つねあき、1903年10月11日 - 没年… 久保 常明(くぼ つねあき、1903年10月11日 - 没年不明)は、日本の経営者。香川県出身。 1929年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、同年に近畿日本ツーリストに入社。1955年9月に近畿日本ツーリスト専務に就任し、1958年10月に社長に就任。1976年1月に取締役に退いた。 1976年4月に勲四等瑞宝章を受章。
広幡 増弥(ひろはた ますや、1903年(明治36年)10月… 広幡 増弥(ひろはた ますや、1903年(明治36年)10月11日 - 1988年(昭和63年)11月11日)は、日本の実業家。海軍技術少将。広幡家の第11代当主。東京都出身。父は伊藤安吉。養父は広幡忠隆。 東京都出身。海軍軍人・伊藤安吉とその妻で宮中顧問官・吉田要作の二女である貴代の次男として生まれる。東京帝国大学造船科を卒業後、海軍に入り海軍技術少将となる。 私生活では広幡忠隆の長女である信子と結婚し、広幡家の養子に入り11代当主となる。信子との間には3男を授かったが、1955年(昭和30年)に信子に先立たれ、後に工藤静と再婚した。 1988年(昭和63年)、死去。 忠幸 - 豊忠 - 長忠 - 前豊 - 前秀 - 経豊 - 基豊 - 忠礼 - 忠朝 - 忠隆 - 増弥 - 忠恒 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
大槻 文平(おおつき ぶんぺい、1903年9月27日 - 1… 大槻 文平(おおつき ぶんぺい、1903年9月27日 - 1992年8月9日)は、日本の実業家。三菱鉱業セメント社長、三菱鉱業会長、旧日経連(現経団連)会長を歴任した。宮城県名誉県民。 宮城県伊具郡丸森町に生まれる。第一高等学校を経て、1928年東京帝国大学法学部卒業。同年、三菱鉱業株式会社に入社。1950年同社取締役、1955年同社常務取締役、1959年同社副社長、1963年同社代表取締役社長。1973年三菱鉱業セメント株式会社代表取締役社長、1976年同社取締役会長、1986年同社取締役相談役。1992年三菱マテリアル株式会社最高顧問・相談役。 社外では、日本セメント協会会長(1975年 - 1990年)、日経連会長(1979年 - 1987年)、金曜会代表世話人(1979年 - )、日本弘道会理事(1984年 - )などを歴任した。
今泉 秀夫(いまいずみ ひでお、1903年 <明治36年> … 今泉 秀夫(いまいずみ ひでお、1903年 <明治36年> 9月22日 - 1987年 <昭和62年> 6月9日)は、日本の経営者。国鉄スワローズ (現・東京ヤクルトスワローズ) オーナー等を務めた。位階は従四位。 山形県出身。1928年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、同年に鉄道省に入省。1948年に東京鉄道管理局長に就任し、1949年には国鉄理事に就任した。1950年から1959年までに国鉄スワローズオーナーを務め、球団社長、交通協力会会長なども務めた。 1973年11月に勲三等旭日中綬章を受章。 1987年6月9日急性心不全のために死去。83歳没。死没日付をもって正五位から従四位に進階した。
美作 太郎(みまさか たろう、1903年9月17日 - 19… 美作 太郎(みまさか たろう、1903年9月17日 - 1989年7月3日)は、昭和期の編集者、出版会社経営者、出版学研究者。 熊本県熊本市生まれ。1927年東京帝国大学法学部卒業後、日本評論社に入社。東大で教わった師の河合栄治郎の著作『トーマス・ヒル・グリーンの思想体系』『ファッシズム批判』『学生に与う』『学生叢書』などの出版を担当する。 1938年、河合栄治郎事件が起こり、河合著の『ファッシズム批判』などが発禁となる。自身は1944年に横浜事件により逮捕される。両事件により、日本評論社は相当な被害を被る。戦後は同社に復帰し、編集局長、専務取締役になる。1951年退社し、1952年に新評論社(のち新評論)を創立し、社長、のち会長となる。
石村 英雄(いしむら ひでお、1903年(明治36年)9月1… 石村 英雄(いしむら ひでお、1903年(明治36年)9月16日 - 1963年(昭和38年)4月24日)は、昭和期のジャーナリスト、労働運動家、実業家、政治家。衆議院議員(4期)。 山口県吉敷郡大歳村出身。1926年(大正15年)東京帝国大学経済学部経済学科を卒業した。 中外商業新報社に入社し記者として勤務。経済部に所属して、国内外の経済や財政金融の調査研究を行った。記者と並行して労働運動に身を投じ、日本俸給生活者組合評議会執行委員として会社員の生活向上に尽力した。1928年(昭和3年)中外商業新報社を退職、その後もときには触法行為となりながらも労働運動を続けた。山口に帰郷、山口県燃料配給統制組合理事長、山一燃料取締役社長、山口県地方労働委員会委員、中日文化研究所理事などを務めた。
西山 磐(にしやま いわお、1903年 <明治36年> 9月… 西山 磐(にしやま いわお、1903年 <明治36年> 9月7日 - 1999年 <平成11年> 9月9日)は、日本の実業家。大阪ガス元会長・社長。位階は従三位。 高知県南国市出身。東京帝国大学法学部卒業後、1928年に阪神電気鉄道へ入社。1944年に大阪ガスへ中途入社し、監査役、常務取締役、代表取締役副社長を経て、1969年に代表取締役社長に就任。その後1973年より代表取締役会長を務め、1983年に取締相談役へ退く。その他には大阪工業会会長、社団法人大阪府計量協会会長、帝塚山学院理事長、朝日放送取締役も務めた。1999年死去。死没日付をもって従三位に叙された。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
岩本 常次(いわもと つねじ、1903年 <明治36年> 8… 岩本 常次(いわもと つねじ、1903年 <明治36年> 8月28日 - 1993年 <平成5年> 10月8日)は、日本の経営者。北海道電力社長を務めた。位階は従三位。 兵庫県出身。開成中学校や第一高等学校を経て、1927年に東京帝国大学工学部土木工学科を卒業し、同年に上毛電力に入社。片品川水系の丸沼発電所などの水力発電所の建設に携わる。 日本発送電への統合後は藤波収建設局長の下で九州や北海道での土木部長を務め、戦後は藤波の推薦を得て1951年9月に北海道電力に転じ理事・土木部長となり、1952年11月に取締役に就任。常務、副社長を経て、1966年5月に社長に就任した。1974年5月に会長に就任し、1983年6月に取締役相談役を経て、1985年6月から相談役を務めた。
矢田 恒久(やだ つねひさ、1903年8月13日 - 199… 矢田 恒久(やだ つねひさ、1903年8月13日 - 1991年12月27日)は、日本の経営者。第一生命保険社長、会長を務めた。 島根県出雲市出身。1928年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、同年に第一生命保険に入社した。1946年7月に総務部長に就任し、取締役、常務、専務を経て、1959年5月に副社長に就任し、1964年5月に社長に昇格した。1970年5月に会長に就任し、京王帝都電鉄監査役も務めた。 1968年10月に藍綬褒章を受章し、1974年4月に勲二等瑞宝章を受章した。 1991年12月27日、呼吸不全のために死去。87歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
杉谷 武雄(すぎや たけお、1903年 <明治36年> 8月… 杉谷 武雄(すぎや たけお、1903年 <明治36年> 8月7日 - 1992年 <平成4年> 3月9日)は、日本の経営者。三井信託銀行社長を務めた。位階は正四位。 宮城県仙台市出身。1926年に東京帝国大学法学部を卒業し、同年に三井信託銀行に入行。1948年10月に取締役に就任し、1957年11月に常務を経て、1960年5月には社長に就任。1968年11月に会長に就任し、1971年5月に取締役相談役を経て、1972年5月には相談役に就任。 1965年10月に藍綬褒章を受章し、1974年11月に勲二等瑞宝章を受章。 1992年3月9日に脳梗塞のために死去。88歳没。死没日付をもって正四位に叙された。
鈴木 万平(すずき まんぺい、1903年(明治36年)7月2… 鈴木 万平(すずき まんぺい、1903年(明治36年)7月20日 - 1975年(昭和50年)12月3日)は、昭和期の実業家、政治家。参議院議員(2期)。 静岡県静岡市で生まれる。静岡県立静岡中学校を経て第四高等学校を卒業。1925年(大正14年)11月、高等試験行政科試験に合格し、1926年(大正15年)東京帝国大学法学部法律学科(英法)を卒業した。 日本セメント(現太平洋セメント)に入社。1928年(昭和3年)東洋紡績(現東洋紡)に転じ、常務を経て1945年(昭和20年)社長に就任。1946年(昭和21年)社長を辞して東洋冷蔵を経営した。 1949年(昭和24年)望まれて三共第4代社長に就任し、人員整理と品種制限により経営を再建した。
江戸 英雄(えど ひでお、1903年7月17日 - 1997… 江戸 英雄(えど ひでお、1903年7月17日 - 1997年11月13日)は、日本の実業家。三井不動産社長を務めた。終生、三井グループに影響力を持ち続け、グループ内で地位の低かった三井不動産を「三井御三家」の一角に押し上げた。また東京ディズニーランドのオープンに尽力したほか、妻と娘が関わった桐朋学園の発展にも一役買った。 茨城県筑波郡作岡村大字作谷(現:つくば市)の農家に生まれる。兄1人、姉3人の末っ子だったが、2人の姉は子供の頃早世した。 村の小学校を卒業後、茨城県立下妻中学校(現在の茨城県立下妻第一高等学校)に入学した。自宅から中学まで10キロあったが毎日自転車で通い、隣村の一級下の赤城宗徳(衆議院議員)は同じ自転車通学の仲間だった。
日比野 恒次(ひびの つねじ、1903年7月11日 - 19… 日比野 恒次(ひびの つねじ、1903年7月11日 - 1989年2月21日)は電通相談役。岐阜県出身。 岐阜中学校から第四高等学校に進み東京帝国大学法学部政治学科入学。1928年に卒業と同時に電通に入社。上海電通広告公司主任理事を経て、1947年に取締役に就任。その後1950年に常務取締役、1957年に専務取締役、1960年に代表取締役副社長を経て、亡くなった吉田秀雄社長に代わって1963年2月8日に代表取締役社長に就任。電通テック本社ビル建築に指揮を執る。1964年に東京オリンピック大会では「マーケティング局」と「PR局」を新設し国家イベント参画への道を開く。1965年には旧吉田記念館(吉田秀雄氏私邸)および現金1億4千万円の出捐を得て、文部省の認可により吉田秀雄記念事業財団が発足し初代理事長となる。
豊原 道也(とよはら みちや、1903年(明治36年)7月1… 豊原 道也(とよはら みちや、1903年(明治36年)7月11日 - 1980年(昭和55年)12月24日)は、日本の内務官僚、実業家。最後の官選山梨県知事。位階は従四位。 新潟県出身。豊原規矩弥の三男として生まれる。新潟高等学校を卒業。1926年12月、高等試験行政科試験に合格。1927年、東京帝国大学法学部独法科を卒業。内務省に入省し、秋田県属となる。 1939年、大分県学務部長に就任。以後、茨城県経済部長、長野県書記官・警察部長、厚生省生活局住宅課長、警視庁保安部長、富山県部長・内政部長、浦賀引揚援護局次長などを歴任。 1947年3月、前任の吉江勝保が知事選に出馬のため辞任したことに伴い山梨県知事に就任。
渡辺 万寿太郎(わたなべ ますたろう、1903年〈明治36年… 渡辺 万寿太郎(わたなべ ますたろう、1903年〈明治36年〉7月6日 - 1966年〈昭和41年〉8月15日)は、日本の政治家、実業家、資産家。新潟県岩船郡関川村長。渡辺家11代。 新潟県岩船郡関谷村大字下関(現・関川村大字下関)出身。三左衛門の長男。1929年、東京帝国大学文学部社会学科卒業。1933年、家督を相続する。司法省刑事局嘱託、東大文学部研究嘱託を経て1945年に関谷村長となる。 農業を営む。関谷村農業会長、新潟県農業会同県森林組連同県国民健康保険組連各理事、同県社会保険診療報酬算定協議会委員、同県農業実践大学協会理事同大学校長、同県国民健康保険委員、同県社会教育委員、同県地方森林会、同県医療機関整備審議会、同県公的医療機関運営審議会各委員、全国国民健康保険直営診療施設運営協議会理事に選ばれる。
11代目 濱口 儀兵衛(はまぐち ぎへえ、1903年5月1日… 11代目 濱口 儀兵衛(はまぐち ぎへえ、1903年5月1日 - 1987年2月23日)は、日本の経営者。ヤマサ醤油株式会社社長を務めた。 1903年(昭和36年)5月1日、和歌山県に濱口梧洞(10代目濱口儀兵衛)の長男として生まれた。出生名は濱口勉太。濱口儀兵衛家は代々濱口儀兵衛商店を経営する旧家であり、濱口梧洞の代にはヤマサ醤油株式会社が設立された。弟には版画家の浜口陽三、ヤマサ醤油会長の浜口義郎、菊正宗酒造当主の嘉納毅六などがいる。 和歌山県出身。1927年(昭和2年)に東京帝国大学経済学部を卒業。日清製粉での勤務を経て、1928年(昭和3年)10月に生家のヤマサ醤油株式会社に転じ、1931年にはアメリカ合衆国を視察した。
佐藤 止戈夫(さとう しかお、1903年4月30日 - 19… 佐藤 止戈夫(さとう しかお、1903年4月30日 - 1964年7月7日)は、日本の経営者。東京都出身。 1928年に東京帝国大学応用化学科を卒業。旭硝子、三菱化成工業での勤務を経て、1950年に日本化成工業常務に就任し、1958年3月に三菱化成工業副社長を経て、1963年9月には社長に就任した。 1964年7月7日胃潰瘍のために社長在任時死去。61歳没。
栗山 久治(くりやま ひさじ、1903年4月6日 - 198… 栗山 久治(くりやま ひさじ、1903年4月6日 - 1985年9月17日)は、日本の経営者。兵庫県出身。 1927年に東京帝国大学工学部電気工学科を卒業し、1928年に関東配電に入社。後に藤倉電線に転じ、1955年に取締役に就任し、1959年に常務、1964年に専務を経て、1965年に副社長に就任し、同年11月には社長に昇格。1973年11月に会長に就任し、1976年に相談役に就任。 1985年9月17日腎不全のために死去。82歳没。
田中 久兵衛(たなか きゅうべえ、1903年 <明治36年>… 田中 久兵衛(たなか きゅうべえ、1903年 <明治36年> 3月8日 - 1980年 <昭和55年> 5月24日)は、日本の経営者。三井銀行社長を務めた。位階は正四位。 和歌山県出身。1926年に東京帝国大学経済学部経営学科を卒業し、同年に三井銀行に入社。 1951年11月に取締役に就任し、常務、専務を経て、1961年11月に副社長に就任。1965年4月には社長に昇格した。1968年5月から会長を務めた。 東京銀行協会会長、全国銀行協会連合会会長なども歴任した。 1970年11月に藍綬褒章を受章。 1980年5月24日死去。77歳没。死没日付をもって正四位に叙された。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
数納 清(かずのう きよし、1903年 <明治36年> 3月… 数納 清(かずのう きよし、1903年 <明治36年> 3月7日 - 1991年 <平成3年> 12月1日)は、日本の実業家。朝日生命保険社長をつとめた。位階は正四位。 北海道札幌市出身。1926年に東京帝国大学経済学部を卒業し、帝国生命保険(現・朝日生命保険)に入社。台北支店長などを経て、1947年朝日生命保険取締役、1965年に社長に就任。1975年会長、1979年相談役。 この間古河三水会理事長をつとめるなど、財界人としても活躍した。 1969年藍綬褒章、1975年勲二等旭日重光章。1991年死去。死没日付をもって正四位に叙された。 『20世紀日本人名事典』(日外アソシエーツ、2004年)
堀田 健男(ほった たけお、1903年(明治36年)2月23… 堀田 健男(ほった たけお、1903年(明治36年)2月23日 - 1966年(昭和41年)11月28日)は、日本の内務官僚、実業家。官選県知事。勲三等旭日中綬章。 大阪府出身。堀田勇次の三男として生まれる。第三高等学校を卒業。1924年11月、高等試験行政科試験に合格。1925年、東京帝国大学法学部法律学科(仏法)を卒業。内務省に入省し土木局属となる。 以後、岩手県書記官・警察部長、内務省社会局書記官、厚生書記官などを歴任。 1942年7月、奈良県知事に就任し、戦時下の対応に尽力。1943年7月、企画院第三部長に転任。新潟県参事官、内務省国土局長を歴任。1945年9月、静岡県知事に転任し、戦災の復興に尽力した。
中島 道雄(なかじま みちお、1903年2月22日 - 19… 中島 道雄(なかじま みちお、1903年2月22日 - 1983年5月10日)は、日本の経営者。RKB毎日放送社長、会長を務めた。 東京都出身。1927年に東京帝国大学経済学部経済学科を卒業し、同年5月に毎日新聞社に入社。1958年9月にRKB毎日放送に転じ、1961年1月に取締役に就任し、1965年11月に常務、1967年11月に専務を経て、1969年11月には社長に就任した。1973年5月に会長を経て、1975年5月には相談役に就任。 1983年5月10日、心不全のために死去。80歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
前島 勘一郎(まえじま かんいちろう、1903年(明治36年… 前島 勘一郎(まえじま かんいちろう、1903年(明治36年)2月13日 - 1981年(昭和56年)2月25日)は、昭和期の実業家、政治家、華族。貴族院男爵議員。 実業家・前島彌の長男として生まれる。父の死去に伴い、1935年(昭和10年)7月1日、男爵を襲爵した。 1929年(昭和4年)東京帝国大学農学部を卒業。1936年、早稲田大学出版部理事となる。その他、肥田製作所取締役などを務めた。 1946年(昭和21年)5月11日、貴族院男爵議員補欠選挙で当選し、公正会に所属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
上枝 一雄(うええだ かずお、1903年(明治36年)1月2… 上枝 一雄(うええだ かずお、1903年(明治36年)1月20日 - 1987年(昭和62年)5月5日)は、日本の実業家。三和銀行元頭取。 香川県高松市出身。1934年に東京帝国大学法学部を卒業し、三和銀行の前身である三十四銀行に入行。取締役、常務、専務を経て、1957年11月から副頭取を務め、1960年5月から頭取に就任し、1971年9月までに務めた。 その一方で、1966年から1977年までに関西経済連合会副会長を務め、南海電気鉄道、江崎グリコ、関西電力の各取締役、毎日新聞社相談役、関西テレビ放送監査役などを歴任した。1973年に勲二等旭日重光章を受章した。 1987年5月5日脳卒中により兵庫県芦屋市内の自宅で死去。
千明 康(ちぎら やすし、1903年1月1日 - 1986年… 千明 康(ちぎら やすし、1903年1月1日 - 1986年7月19日)は、日本の実業家、馬主、競走馬生産者。株式会社丸沼温泉ホテル会長、千明牧場代表を務めた。 1903年1月1日、群馬県利根郡片品村出身。千明賢治の長男。旧制沼田中学校、旧制新潟高等学校を経て東京帝国大学農学部林学科に進学し、1930年に卒業。大学院で2年間学んだのち南満洲鉄道に入社し、1937年退社。この間1936年に日光華厳滝エレベーター株式会社、株式会社丸沼温泉ホテル各社長に就任。また1949年6月より日光国立公園観光株式会社社長に就任し、1950年8月に辞任するまで同職に在任。このほか群馬官材事業協会、国有林材生産組合、群馬県養鱒漁業協同組合などで要職を務めた。
山県 四郎(やまがた しろう、1902年12月26日 - 1… 山県 四郎(やまがた しろう、1902年12月26日 - 1989年8月2日)は、日本の経営者。三菱金属鉱業社長、会長を務めた。山口県出身。 1927年に東京帝国大学工学部冶金学科を卒業し、同年4月に三菱鉱業に入社。1950年4月に太平鉱業取締役に就任し、1956年6月に三菱金属鉱業常務を経て、1960年3月には社長に就任。1967年5月に会長に就任し、1971年11月には相談役に就任。1971年11月から1983年6月までには三菱原子力燃料社長を務め、日本鉱業協会会長も務めた。 1963年に藍綬褒章を受章し、1973年に勲二等瑞宝章を受章。 1989年8月2日心不全のために死去。86歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
斯波 正夫(しば まさお、1902年(明治35年)12月13… 斯波 正夫(しば まさお、1902年(明治35年)12月13日 - 1983年(昭和58年)12月18日)は、昭和期の実業家、政治家、華族。貴族院男爵議員。 東京帝国大学教授・斯波忠三郎の長男として生まれる。父の死去に伴い、1934年(昭和9年)11月1日、男爵を襲爵した。 1928年(昭和3年)東京帝国大学経済学部を卒業。同年、三井合名会社に入社し、その後、三井不動産管理部管理長を務めた。 1945年(昭和20年)10月27日、貴族院男爵議員補欠選挙で当選し、公正会に所属して活動し、1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
斎藤 武雄(さいとう たけお、1902年(明治35年)12月… 斎藤 武雄(さいとう たけお、1902年(明治35年)12月4日 - 没年不詳)は、日本の内務官僚、実業家。官選福井県知事、兵庫県教育委員長。 広島県出身。斎藤元四郎の長男として生まれた。松山高等学校を卒業。1926年12月、文官高等試験行政科試験に合格。1927年、東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業。内務省に入省し北海道庁属となる。 以後、和歌山県社寺兵事課長、同秘書課長、同学務課長、同商工課長、同水産課長、岐阜県社会課長、同庶務課長、兵庫県都市計画課長、青森県書記官・警察部長、満州国奉天省警務庁長、満州国民政部労務司長、兵庫県第一部長、京都府内政部長などを歴任。 1946年1月25日、福井県知事に就任。
渡部 七郎(わたなべ しちろう、1902年 <明治35年> … 渡部 七郎(わたなべ しちろう、1902年 <明治35年> 11月30日 - 1990年 <平成2年> 12月5日 )は、日本の経営者。伊予銀行頭取を務めた。位階は正五位。 愛媛県出身。1928年に東京帝国大学経済学部を卒業し、同年に伊予銀行に入行した。1947年12月に取締役に就任し、1953年6月に常務を経て、1963年10月に副頭取に就任し、1969年10月には頭取に昇格。1983年6月には会長に就任。 1973年11月に勲四等瑞宝章を受章し、1984年11月に勲三等瑞宝章を受章。 1990年12月5日、老衰のために死去。88歳没。死没日付をもって正五位に叙された。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
山田 三郎太(やまだ さぶろうた、1902年11月29日 -… 山田 三郎太(やまだ さぶろうた、1902年11月29日 - 1967年9月12日)は、日本の経営者。 宮城県仙台市出身。1927年に東京帝国大学法学部を卒業し、同年に凸版印刷に入社。1937年に取締役に就任し、1941年に常務、1943年に専務を経て、1948年12月には社長に就任。1950年からは東京書籍社長も務めた。 1967年9月12日、肝臓病のために死去。64歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
趙 炳漢(チョ・ビョンハン、朝鮮語: 조병한/趙炳漢、190… 趙 炳漢(チョ・ビョンハン、朝鮮語: 조병한/趙炳漢、1902年11月10日 - 没年不詳)は、大韓民国の実業家、政治家。制憲韓国国会議員。 慶尚北道聞慶郡(現・聞慶市)出身。聞慶公立普通学校(現・聞慶初等学校)、大邱高等普通学校、旧制の第三高等学校、東京帝国大学(現・東京大学)法学部卒。 株式会社テドン貿易公社社長、マンジュ家畜振興株式会社監査役などを務めた。朝鮮戦争時の1950年9月2日、鐘路区にて北朝鮮側の関係者3名により拉致された。 1956年7月より在北平和統一促進協議会中央委員を務め、1958年に江界市方面の農場に移住したとされるが、以後消息不明。
木戸 吉備夫(きど きびお、1902年 <明治35年> 11… 木戸 吉備夫(きど きびお、1902年 <明治35年> 11月3日 - 1981年 <昭和56年> 11月4日)は、日本の経営者。日本酸素社長、会長を務めた。位階は正五位。 京都府出身。1927年に東京帝国大学経済学部経済学科を卒業し、同年に安田銀行(のちの富士銀行)に入行。1950年1月に日本酸素常務に就任し、1959年6月に副社長を経て、1963年6月に社長に就任。1974年12月に会長を経て、1978年9月には相談役に就任。 1972年11月に勲三等瑞宝章を受章。 1981年11月4日心筋梗塞のために死去。78歳没。死没日付をもって正五位に叙された。
龍野 喜一郎(りゅうの きいちろう、1902年(明治35年)… 龍野 喜一郎(りゅうの きいちろう、1902年(明治35年)9月27日 - 1981年(昭和56年)5月29日)は、昭和期の日本の政治家、内務官僚、実業家。衆議院議員、官選鹿児島県知事、初代大川市長。 福岡県出身。第五高等学校を首席で卒業。1924年(大正13年)11月、高等試験行政科試験に合格。1925年(大正14年)東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業。 内務省に入省し北海道庁属となる。 以後、栃木県学務課長、鹿児島県農務課長、千葉県学務課長、鳥取県書記官・警察部長、宮城県書記官・警察部長、内閣情報部第二課長、京都府学務部長、警視庁刑事部長、兵庫県警察部長、近畿地方総監府第一部長などを歴任。
青木 理(あおき まさる、1902年〈明治35年〉8月9日 … 青木 理(あおき まさる、1902年〈明治35年〉8月9日 - 1967年〈昭和42年〉1月25日)は、大正末から昭和期の実業家、政治家。初代三重県公選知事(2期)。 三重県一志郡久居町西鷹跡町(久居市を経て現津市)で生まれた。1923年(大正12年)東京帝国大学法学部を卒業。理研特殊鋼総務部長、日本兵器車両取締役などを経て、1942年(昭和17年)拓務大臣・井野碩哉秘書官となる。翌年実業界に戻り、日本蚕糸近畿中国支社長などを歴任した。 戦後の1947年(昭和22年)の第1回三重県知事選挙に立候補して、官選知事の佐伯敏男や共産党の候補ら4人を破って当選し、初代公選知事となった。 ※当日有権者数:-人 最終投票率:-%(前回比:-pts) 同年4月16日に就任した。
袖山 喜久雄(そでやま きくお、1902年6月20日 - 1… 袖山 喜久雄(そでやま きくお、1902年6月20日 - 1960年1月31日)は、日本の経営者。東洋レーヨン(現在の東レ)社長を務めた。 茨城県出身。1926年に東京帝国大学工学部機械工学科を卒業し、同年に東洋レーヨンに入社。 1945年に取締役に就任し、1947年に常務を経て、1948年に社長に就任。 1960年1月31日、胃癌のために死去。57歳没。墓所は多磨霊園。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
九鬼 紋十郎(くき もんじゅうろう、1902年(明治35年)… 九鬼 紋十郎(くき もんじゅうろう、1902年(明治35年)6月7日 - 1986年(昭和61年)10月6日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員(1期)、参議院議員(1期)。九鬼産業グループを経営する四日市九鬼家当主。九鬼紋十郎という名は、本家の九鬼紋七とともに四日市九鬼家で当主が代々襲名していた。三重県四日市市出身。 1902年(明治35年)6月7日に、九鬼水軍の末裔である四日市九鬼家の当主8代目九鬼紋七の実弟の九鬼紋十郎(1869年生まれ、幼名・金松)の長男として誕生した。幼名は九鬼金平。のち九鬼紋十郎を襲名した。父である先代の紋十郎(金松)は先々代紋十郎の養子となり、家業の肥料商と紋十郎の名を継ぎ、四日市米穀株式取引所理事などを務めた多額納税者であった。
野澤 隆一(のざわ りゅういち、1902年〈明治35年〉5月… 野澤 隆一(のざわ りゅういち、1902年〈明治35年〉5月28日 - 1991年〈平成3年〉3月31日)は、日本のジャーナリスト、実業家。信越放送代表取締役社長、共同テレビジョンニュース社(現・共同テレビジョン)代表取締役社長を務めた。 長野県上伊那郡伊那富村(現・辰野町)出身。長野県立諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校)、第二高等学校を経て、1927年東京帝国大学経済学部卒業。 毎日新聞社入社。東京大学総長小野塚喜平次に懇望され東京大学学生課に勤務し東京大学新聞社を創設、主幹を務めた。小平権一のもとで大政翼賛会企画部長を務め、日本出版会理事、日本印刷工業会専務理事を経て、1951年信越放送の設立に参画し東京支社長、1955年同社代表取締役社長。
平井 弥之助(ひらい やのすけ、1902年(明治35年)5月… 平井 弥之助(ひらい やのすけ、1902年(明治35年)5月16日 - 1986年(昭和61年)2月21日)は日本の電力土木技術者、電力事業経営者。昭和時代の電力開発に卓越した見識と強い使命感をもって貢献したと伝承されている。また女川原子力発電所等の建設にあたっては貞観地震、慶長三陸地震による大津波を考慮した適切な技術的助言を与えた。平井彌之助とも書く。 主な経歴は『土木史研究』第18号による。 平井は次に示す伝承のように、技術者としての合理性と電気事業者としての責任感に基づいて地震・津波対策の重要性を説いた。地震・津波の恐ろしさを実感していたと云われ、「貞観大津波(869年)は岩沼の千貫神社まで来た」と語っていたという。
小川 一平(おがわ いっぺい、1902年(明治35年)5月1… 小川 一平(おがわ いっぺい、1902年(明治35年)5月16日 - 1982年(昭和57年)8月8日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 政治家小川平吉の長男として長野県諏訪郡富士見村(現富士見町)に生まれる。東京高等師範付属小学校、旧制第一高等学校を経て、東京帝国大学政治学科卒業。昭和4年(1929年)三菱銀行に入行、同17年(1942年)に退社、同年戦時生活相談所常任理事に就任し、岡谷市に支所を設けて、首都圏から諏訪地方への工場疎開を推進した。 同21年(1946年)第22回衆議院議員総選挙に長野県から出馬し当選。同26年(1951年)後楽園スタヂアム取締役、同32年(1957年)常務、同42年(1967年)副社長、同46年(1971年)花月園観光社長を歴任した。
岡 次郎(おか じろう、1902年 <明治35年> 5月10… 岡 次郎(おか じろう、1902年 <明治35年> 5月10日 - 1986年 <昭和61年> 5月4日)は、日本の経営者。富士石油社長、会長を務めた。位階は従四位。 佐賀県出身。1925年に東京帝国大学法学部英法科を卒業し、同年に東京電灯に入社。 1942年に関東配電(のちの東京電力)に転じ、1951年5月に取締役に就任し、1952年9月に常務、1959年1月にアラビア石油顧問1960年2月に常務を経て、1964年4月に富士石油社長に就任。1975年5月に会長、1981年6月に取締役相談役を経て、1984年6月には相談役に就任。1978年6月には共同石油会長に就任し、1979年5月から同年10月までに社長も兼任し、1980年6月には相談役に就任。
工藤 友恵(くどう ともえ、1902年 <明治35年> 3月… 工藤 友恵(くどう ともえ、1902年 <明治35年> 3月30日 - 1972年 <昭和47年> 9月27日)は、日本の経営者。大阪建物(現在のダイビル)社長を務めた。 長野県出身。1925年に東京帝国大学法学部を卒業し、同年に大阪商船に入社。 1949年4月に大阪建物監査役を経て、1960年11月には社長に就任。1961年6月から1966年10月までに関西経済連合会副会長を務めた。 1972年9月27日、直腸癌のために死去。70歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
吉田 確太(よしだ かくた、1902年 <明治35年> 3月… 吉田 確太(よしだ かくた、1902年 <明治35年> 3月7日 - 1976年 <昭和51年> 3月1日)は、日本の経営者。電源開発総裁を務めた。位階は正四位。 岡山県倉敷市出身。倉敷天城中学、第六高等学校を経て、1926年に東京帝国大学工学部電気科を卒業。富士紡績、富士電力の勤務を経て、1942年に関東配電(のちの東京電力)に転じ、1951年に取締役に就任し、1953年9月に常務、1961年6月に副社長を経て、1964年8月から1966年8月までに電源開発総裁を務めた。 1961年に藍綬褒章を受章し、1973年4月に勲二等旭日重光章を受章。1976年3月1日、死去。73歳没。死没日付をもって正四位に叙された。
青木 清(あおき きよし、1902年1月9日 - 1978年… 青木 清(あおき きよし、1902年1月9日 - 1978年5月6日)は、日本の経営者。東邦ガス社長。愛知県名古屋市出身。 1927年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、同年に東京ガスに入社。1930年4月に東邦ガスに転じ、同年10月に取締役に就任し、常務、専務、副社長を経て、1964年8月に社長に就任。 1964年11月に藍綬褒章を受章し、1972年11月に勲二等旭日重光章を受章。。 1978年5月6日急性心筋梗塞のために死去。76歳没。