北畠 安五郎(きたばたけ やすごろう、 1875年〈明治8年… 北畠 安五郎(きたばたけ やすごろう、 1875年〈明治8年〉9月 - 1933年〈昭和8年〉)は、明治から昭和期の実業家、日本エナメル株式会社(現・タカラスタンダード)創業者。旧姓、河合。兄は、佐藤達次郎(初代東京医学専門学校長・第3代順天堂医院長・初代順天堂医科大学長)。 1875年(明治8年)9月、河合貞輔の三男として、東京府で生まれる。後に北畠市郎右衞門の養子となる。 その後、立教専修学校(現・立教大学)で修学。1906年(明治39年)、東京帝国大学医科大学薬学科を卒業。 卒業した後、ドイツに留学し、そこでホーローに出会う。 日本に帰国後、西欧の製品に劣らないホーロー製品をつくろうと、1912年(明治45年)5月、日本エナメル株式会社(現・タカラスタンダード)を設立。
檀野 礼助(檀野 禮助、だんの れいすけ、1875年(明治8… 檀野 礼助(檀野 禮助、だんの れいすけ、1875年(明治8年)8月9日 - 1940年(昭和15年)3月20日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。幼名・繁夫。 長崎県彼杵郡矢上村(現長崎市)の旧佐賀藩郷士・檀野勝次、とう夫妻の長男として、高来郡諫早村の母の実家で生まれる。現川小学校、長崎県尋常中学校、第五高等中学校を経て、1899年7月、東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業した。 大学卒業後、三井物産に入社し、シンガポール出張所長、バンコック出張所長、台北出張所長、若松出張所長を歴任。1913年2月、北海道炭礦汽船に転じ、商務課長、売炭部長を務めた。その後、南洋貿易 (株) を設立して社長に、また、東京海運 (株) を設立して常務取締役にそれぞれ就任。
鹿島 精一(かじま せいいち、1875年(明治8年)7月1日… 鹿島 精一(かじま せいいち、1875年(明治8年)7月1日 - 1947年(昭和22年)2月6日)は、大正から昭和時代前期の土木工学者、実業家、政治家。鹿島組社長、土木学会会長、貴族院勅選議員。 旧盛岡藩士葛西晴寧、すえの長男として岩手県岩手郡上田村(現在の盛岡市上田)に生まれる。翌年父晴寧が死去し、家族は仁王村字下台(現在の盛岡市梨木町)母の実家出渕家に引き取られる。盛岡中学を経て、1899年(明治32年)東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業し、逓信省鉄道作業局に出仕する。同年、鹿島組組長の鹿島岩蔵の長女と結婚し、養嗣子となり、鹿島組副組長に就任する。1912年(明治45年)養父の岩蔵の死去により、37歳にして3代目鹿島組組長となり、1930年(昭和5年)鹿島組を株式会社に改組し、初代社長に就任した。
下村 宏(しもむら ひろし、1875年〈明治8年〉5月11日… 下村 宏(しもむら ひろし、1875年〈明治8年〉5月11日 - 1957年〈昭和32年〉12月9日)は、明治・大正・昭和の法学博士、逓信官僚・台湾総督府官僚、実業家、朝日新聞社副社長、貴族院議員。拓殖大学第6代学長、NHK会長。歌人で号は海南(かいなん)。下村房次郎の子。 玉音放送の際の内閣情報局総裁であり、ポツダム宣言受諾の実現に尽力した。「人種改良を国策に」と優生思想を強く推したことでも知られている。 和歌山県出身。父・房次郎(1856年5月7日 - 1913年2月21日)は「和歌山日日新聞」を創刊した後に逓信省に入り、退官後は実業家として活動する傍ら東京商業学校の創設に関わった。 和歌山中学、第一高等学校から東京帝国大学を卒業し、1898年(明治31年)に逓信省へ入省。
傍士 定治(ほうじ さだはる、1875年(明治8年)4月8日… 傍士 定治(ほうじ さだはる、1875年(明治8年)4月8日 - 1924年(大正13年)8月30日)は、明治から大正時代の政治家、実業家。衆議院議員。 傍士次、勘の長男として、高知県香美郡片地村(土佐山田町を経て、現在の香美市)に生まれる。東京帝国大学法科大学に学ぶ。1904年(明治37年)高知県会議員に当選。のち大阪市秘書課長、同東区長を歴任する。1921年(大正10年)夏、欧米を視察後、財界にも進出し、鶏林鉱業、日本ゼラチン各取締役、東大阪土地建物、日本ゼラチン、ライト商会各監査役などを歴任した。 1924年(大正13年)5月の第15回衆議院議員総選挙では高知県第3区から立憲政友会所属で出馬し当選するが、任期中に大阪市で死去した。
斯波 孝四郎(しば こうしろう、1875年(明治8年)1月2… 斯波 孝四郎(しば こうしろう、1875年(明治8年)1月24日 ‐ 1971年(昭和46年)6月13日)は、日本の実業家、技術者。妻・アイ子は白根専一の娘。 元加賀藩家老斯波蕃の次男として石川県金沢市に生まれる。第一高等学校を経て、1899年(明治32年)東京帝国大学工科大学造船科を卒業。同年三菱造船株式会社に入社。長崎造船所所長、三菱造船常務を務め、1934年(昭和9年)、三菱造船と三菱航空機を統合して三菱重工業を発足させその初代会長に就任した。1942年(昭和17年)に三菱重工業会長を退任し、造船統制会会長に就任、1945年(昭和20年)まで務めた。 第二次世界大戦後はGHQにより公職追放[要出典]。
河野 治平(こうの じへい、1875年〈明治8年〉1月5日 … 河野 治平(こうの じへい、1875年〈明治8年〉1月5日 - 1950年〈昭和25年〉12月23日)は、日本の政治家、実業家。神奈川県会議長。豊川村長。足柄肥料会社社長。曽我銀行取締役。小田原実業銀行専務取締役。 副総理兼東京五輪担当大臣、建設大臣、行政管理庁長官、農林大臣を務めた河野一郎は次男。参議院議長を務めた河野謙三は三男。五女・美喜子はラジオ関東(現・アール・エフ・ラジオ日本)社長や富士観光(現・富士レックス)社長を務めた越田覚造に嫁いだ。衆議院議長、外務大臣、自由民主党総裁、新自由クラブ代表を務めた河野洋平は孫。外務大臣・防衛大臣、デジタル大臣などを歴任している衆議院議員、河野太郎は曽孫にあたる。
住田 寅次郎(すみだ とらじろう、明治7年(1874年)12… 住田 寅次郎(すみだ とらじろう、明治7年(1874年)12月25日 - 昭和2年(1927年)11月25日)は、日本の実業家、政治家。米子商工会副会頭、米子町会議員、郡会議員。 漫画家水木しげる(本名武良茂)の大叔父。父は住田呉服店の主人で米子町長をつとめた住田善平。 米子東倉吉町の商家に生れた。家業は呉服商。 1902年7月、東京帝国大学法科大学政治学科卒業、法学士。 後には転じて製パンを志し、世上これを“学士パン”と呼んだ。 明治40年(1907年)9月、町会議員に当選。学務委員、角盤学校組合議員其の他各種の名誉職を兼ねた。 住田寅次郎は1902年7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業した。
近藤 茂(こんどう しげる、1874年〈明治7年〉12月15… 近藤 茂(こんどう しげる、1874年〈明治7年〉12月15日 - 1954年〈昭和29年〉1月1日)は、明治から昭和初期にかけて活動した日本の電気技術者、実業家。工学博士。 逓信省の技官として電気局技術課長心得などを務め、退官後は実業界に転じて電力会社にかかわり大同電力常務取締役、昭和電力副社長に就任した。福井県出身。 福井県福井市出身。1874年(明治7年)12月15日、士族近藤寅之助の長男として生まれる。1896年(明治29年)7月第一高等学校第二部工科を卒業し、次いで1899年(明治32年)7月東京帝国大学工科大学電気工学科を卒業した。同期に日本電気会長を務めた秋山武三郎らがいる。 卒業後は逓信省に入り、電気事業の監督にあたる。
西大路 吉光(にしおおじ よしみつ、1874年(明治7年)1… 西大路 吉光(にしおおじ よしみつ、1874年(明治7年)11月6日 - 1953年(昭和28年)12月12日)は、大正から昭和期の農林技官、政治家、実業家、華族。貴族院子爵議員。 雅楽部長・竹屋光昭の四男として生まれる。子爵・西大路隆修の死跡を相続し、1896年(明治29年)2月3日、子爵を襲爵した。 1901年(明治29年)東京帝国大学農科大学林学実科を修了。同年、営林技手に就任。以後、同主事兼大林区署書記、山林局技手兼林務官官補、山林技師、林務技師などを歴任し、森林主事教習講師、農商務省嘱託も務めた。 1911年(明治44年)7月10日、貴族院子爵議員に選出され、研究会に所属して活動し、1947年5月2日の貴族院廃止まで在任した。
太田 光凞(おおた みつひろ、1874年10月1日 - 19… 太田 光凞(おおた みつひろ、1874年10月1日 - 1939年10月14日)は、日本の実業家。京阪電気鉄道社長、会長などを務めた。 山口県出身。1898年(明治31年)東京帝国大学法科大学法英科を卒業後、鉄道省に奉職する。京阪電気鉄道設立(1906年)時の専務取締役渡辺嘉一より鉄道省からの人材斡旋を依頼されたのをきっかけに、実業界を目指す第一歩として1907年(明治40年)自らが鉄道省を辞して京阪電気鉄道に入社し、庶務課長に就任。建設中だった京阪本線の線路選定や用地買収等一切の事務を担当した。 開業後も同社の実務を切り回し、1910年(明治43年)取締役就任、1911年(明治44年)には常務取締役、1925年(大正14年)には農林大臣就任のため退任した岡崎邦輔の後を受ける形で社長に就任する。
濱口 梧洞(はまぐち ごとう)または10代目 濱口 儀兵衛(… 濱口 梧洞(はまぐち ごとう)または10代目 濱口 儀兵衛(じゅうだいめ はまぐち ぎへえ、1874年(明治7年)4月24日 - 1962年(昭和37年)1月31日)は、和歌山県出身の実業家・貴族院議員。明治後期から昭和戦前期にかけて、ヤマサ醤油株式会社を経営する濱口儀兵衛家の当主を務めた。「醤油王」と謳われた。銚子市名誉市民。 1874年(明治7年)、4月24日、和歌山県有田郡広村大字広(現在の和歌山県有田郡広川町)に、ヤマサの屋号で知られる濱口儀兵衛家の8代濱口儀兵衞の二男として生まれた。出生名は濱口慶次。1895年(明治28年)、立教学校(現・立教大学)卒業。その後、帝国大学理科に進み、イギリスに留学して化学を専攻した。
賀来 佐賀太郎(かく さがたろう、1874年〈明治7年〉1月… 賀来 佐賀太郎(かく さがたろう、1874年〈明治7年〉1月16日 - 1949年〈昭和24年〉4月6日)は、日本の農商務官僚、実業家。台湾総督府総務長官。 大分県宇佐郡佐田村(現:宇佐市安心院町佐田)で、佐田賀来氏一族の賀来重八郎の長男として生まれ、親戚の賀来熊次郎(本名は惟達、『大神系譜』の著者)の養子となる。第五高等学校を経て、1899年(明治32年)7月、東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。同年8月、農商務省に入り、鉱山局属となる。 1900年(明治33年)11月、文官高等試験行政科試験に合格した。東京鉱山監督署で鉱山監督官として勤務。1903年(明治36年)9月、台湾総督府に転じ、同年10月、民政部通信局庶務課長に就任。
小平 浪平(おだいら なみへい、1874年1月15日 - 1… 小平 浪平(おだいら なみへい、1874年1月15日 - 1951年10月5日)は、日本の技術者・実業家で、株式会社日立製作所の創業者である。 東京帝国大学工科大学電気工学科(現・東京大学工学部)を卒業し、日立製作所専務取締役や同社の初代取締役社長などを歴任した。 1910年には、国産初の5馬力誘導電動機(モーター)を完成させた。 小平は1874年1月15日、小平惣八、チヨの次男として栃木県下都賀郡家中村大字合戦場(現・栃木市都賀町合戦場)に生まれる。合戦場小学校(後に栃木小学校に転校)、栃木高等小学校を経て上京、東京英語学校を卒業。第一高等中学校を受験するも失敗し、その間に父が多額の借金を遺して病没。
赤星 陸治(あかほし りくじ、1874年1月9日- 1942… 赤星 陸治(あかほし りくじ、1874年1月9日- 1942年3月28日)は、日本の実業家。三菱財閥に入社し、小岩井農場場長、三菱地所社長・会長などを務めた。熊本県八代郡鏡町上鏡(現在の八代市鏡町上鏡)出身。法科大学(現在の東京大学法学部)卒業。 熊本県八代郡の豪農・下山群太の二男として生まれてすぐ熊本藩士・赤星五郞八の養子となる。旧制五高を経て東京帝国大学法科大学政治科卒業後、三菱財閥に入社。小岩井農場が岩崎家によって直接経営されるようになった際に同農場の場長に抜擢され、1916年まで場長を務めた。当時小岩井農場は多額の累積赤字を抱えており、従業員の待遇は非常に悪かった。陸治は農場のオーナーであった岩崎久弥の全面的な支持のもと、従業員の給料を引き上げ、日用品を安く提供し、借金の返済の相談に応じるなど数々の待遇改善策を打ち出した。
岡田 文次(おかだ ぶんじ、1874年〈明治7年〉1月1日 … 岡田 文次(おかだ ぶんじ、1874年〈明治7年〉1月1日 - 1943年〈昭和18年〉7月23日)は、日本の内務官僚、政治家、実業家。官選栃木県知事、樺太庁長官、警視総監、貴族院議員。旧姓・浜田。 山形県出身。米沢市関東町にて餌差(足軽階級)であった浜田長之助の長男として生まれ、岡田義質の養子となる。米沢尋常中学興譲館を経て、1898年7月、東京帝国大学法科大学撰科を卒業。同年12月、文官高等試験に合格し、内務属となり警保局に配属された。 1899年5月、沖縄県参事官兼臨時沖縄県土地整理事務局事務官に就任。以後、山梨県警察部長、千葉県警察部長、新潟県事務官・第四部長、警視庁第二部長、同官房主事などを歴任。
坂野 鉄次郎(さかの てつじろう、1873年(明治6年)11… 坂野 鉄次郎(さかの てつじろう、1873年(明治6年)11月14日 - 1952年(昭和27年)6月5日)は、日本の逓信官僚、政治家・貴族院議員(多額納税)、実業家。 岡山県津高郡菅野村(後の御津郡野谷村菅野、現在の岡山市北区菅野)出身。岡山県士族・坂野半四郎の長男。1898年(明治31年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、高等文官試験に合格した。 逓信省通信局に入る。1899年(明治32年)、逓信事務官に任ぜられた。大阪郵便局に転じ、監理課長を務めた。北清事変の際には野戦郵便事務視察官を務めた。1901年(明治34年)、長野郵便局長に任ぜられ、1902年(明治35年)、本省書記官となり、日露戦争の際には大本営野戦高等郵便局長を務めた。
河原 直孝(かわはら なおたか、1873年(明治6年)11月… 河原 直孝(かわはら なおたか、1873年(明治6年)11月5日 - 1945年(昭和20年)7月2日)は、大正から昭和時代前期の政治家・実業家。北海道小樽市長。 河原一郎の長男として石川県金沢城下に生まれ、1922年(大正11年)家督を相続する。1897年(明治30年)7月、第四高等学校大学予科第一部を修了後、1903年(明治36年)東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、1905年(明治38年)4月に北海道庁立小樽中学校(現・北海道小樽潮陵高等学校)の嘱託教員となる。 実業界に転じ、小樽電気・北海道精米・小樽電燈などの取締役を務め、さらに、小樽商業会議所議員、小樽区会議員などを歴任する。市制施行すると、1922年(大正11年)10月、小樽市会議員に就任し、同議長を兼任した。
堀 正一(ほり しょういち、1873年(明治6年)10月22… 堀 正一(ほり しょういち、1873年(明治6年)10月22日 - 1920年(大正9年)4月3日)は、明治から大正期の地主、教育者、実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。 山口県都濃郡、のちの末武北村(花岡村を経て現下松市)で、豪農・堀済三の長男として生まれる。山口高等中学校を経て、1899年(明治32年)7月、東京帝国大学文科大学史学科を卒業し、さらに同研究科を修了した。 1900年(明治33年)以降、滋賀県立第二中学校(現滋賀県立膳所高等学校)教諭、日本大学講師、学習院講師、宮内省図書寮勤務などを務めた。1905年(明治38年)3月、家督を相続した。 1907年(明治40年)に帰郷し農業経営を行う。
若王子 文健(にゃくおうじ / にゃこうじ あやたけ、187… 若王子 文健(にゃくおうじ / にゃこうじ あやたけ、1873年(明治6年)10月14日 - 1942年(昭和17年)8月1日)は、明治から昭和期の実業家、政治家、華族。貴族院男爵議員。 京都(現:上京区岡松町)で華族・若王子遠文の長男として生まれた。父の死去に伴い、1898年(明治31年)3月2日、男爵を襲爵した。 学習院高等科を経て、1900年(明治33年)7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年、東京府属となる。その後、有隣生命保険重役、箱根土地監査役、日本大博覧会評議員、奉仕会副会長などを務めた。 1904年(明治37年)7月10日、貴族院男爵議員に選出され、公正会に所属して活動し、1925年(大正14年)7月9日まで3期在任した。
堀内 秀太郎(ほりうち ひでたろう / しゅうたろう、187… 堀内 秀太郎(ほりうち ひでたろう / しゅうたろう、1873年(明治6年)10月11日 - 1941年(昭和16年)6月1日)は、日本の内務官僚、実業家。官選県知事。 石川県金沢市出身。旧加賀藩士・堀内茂成の長男として生まれる。第四高等学校を首席で卒業。1898年、東京帝国大学法科大学法律学科を卒業。内務省に入省し社寺局属となる。1899年11月、文官高等試験行政科試験に合格。 以後、内務属臨時検疫局事務官、警察監獄学校教授、内務省参事官、神奈川県参事官、同事務官、徳島県事務官・第一部長兼第三部長、同内務部長、大阪府事務官・内務部長、北海道庁内務部長などを歴任。 1915年8月、宮崎県知事に就任。
原口 聞一(はらぐち ぶんいち、1873年9月23日 - 1… 原口 聞一(はらぐち ぶんいち、1873年9月23日 - 1935年6月12日)は、おもに清末から満州国の時代の中国東北部で活動した、日本の実業家。初期の「満州浪人」(大陸浪人)の代表的人物とされた。 長崎県西彼杵郡瀬戸村に生まれる。 東京帝国大学に学ぶが、在学中から東亜同文会の設立などに関わり、1899年に大学を中退し、清末の中国へ渡った。 その後は、中国東北部における日系の様々な事業に関わり、1900年に日華合弁清和社長となったのをはじめ、数社の重役に名を連ねた。 1905年に大連で創刊された『満洲日日新聞』に立ち上げ段階から関わり、1909年に奉天支局長となった。 1911年の辛亥革命に際して、革命党を援助したとして退去を強いられ帰国したが、1913年に再び大陸へ渡り、1914年には奉天居留民会長となった。
鶴見 左吉雄(つるみ さきお、1873年(明治6年)9月13… 鶴見 左吉雄(つるみ さきお、1873年(明治6年)9月13日 - 1946年(昭和21年)12月17日)は日本の農商務官僚、実業家。 士族・鶴見有成の子として富山県に生まれる。1899年(明治32年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、高等文官試験に合格した。内務省に入省(配属先は地方局)。岩手県参事官、兵庫県参事官、三重県内務部長を歴任した。1908年(明治41年)、農商務書記官に転じ、外務書記官・製鉄所参事を兼ね、1917年(大正6年)に水産局長に就任。その後、山林局長、商務局長を経て、農商務次官に就任している。1918年(大正7年)には友人である三鬼鑑太郎の息子・隆に釜石の田中製鉄所を紹介し入社させる。
属 最吉(さっか さいきち、旧姓・井上、1873年〈明治6年… 属 最吉(さっか さいきち、旧姓・井上、1873年〈明治6年〉5月15日 - 1965年〈昭和40年〉12月24日)は、日本の実業家。三井鉱山(現・日本コークス工業)元取締役。日本石油監査役。族籍は山口県士族。宇部興産元副社長の俵田寛夫は次男、衆議院議員の林芳正は曽孫にあたる。 山口県吉敷郡東岐波村(現・宇部市)出身。井上哲蔵の二男。1895年、山口高等学校を卒業した。1898年、東京帝国大学法科大学法律学科を卒業した。 三井鉱山会社に入り総務部長、三池鉱業所長、三池染料工業所長を経て三井鉱山取締役。また小倉石油、三井化学、東洋高圧各取締役、日本石油、三池窒素工業、東洋高圧工業、日本亜鉛工業各監査役などをつとめた。
尾崎 勇次郎(おざき ゆうじろう、1873年〈明治6年〉3月… 尾崎 勇次郎(おざき ゆうじろう、1873年〈明治6年〉3月1日 - 1956年〈昭和31年〉5月19日)は、日本の内務・警察官僚、実業家。政友会系官選県知事。旧姓・片山。 後の兵庫県多紀郡篠山町(現丹波篠山市)で片山新三郎の二男として生まれ、1878年に尾崎文七の養子となる。第一高等学校を卒業。1899年、東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。内務省に入省し地方局属となる。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。 1900年9月4日、和歌山県参事官となる。以後、宮城県参事官、福島県警察部長、香川県警察部長、樺太民政署事務官、同民政・事業部長、専売局主事、樺太庁内務部長、北海道庁内務部長などを歴任。
大谷 吟右衛門(おおたに ぎんえもん、1872年11月4日(… 大谷 吟右衛門(おおたに ぎんえもん、1872年11月4日(明治5年10月4日) - 1928年(昭和3年)3月26日)は、明治から大正時代の実業家、銀行家。 大谷秋蔵の長男として飾磨県佐用郡平福村(兵庫県佐用郡平福町を経て現佐用町平福)に生まれ、1901年(明治34年)3月に家督を相続する。1899年(明治32年)東京帝国大学法科を卒業し、大阪商船に入社し、釜山支店長を経て運輸助役となる。1902年(明治35年)兵庫県農工銀行支配人となり、1910年(明治43年)専務取締役に就任。1917年(大正6年)には同行頭取となった。ほか、神戸信託、神栄、播美鉄道各監査役のほか、神戸瓦斯、ベルベット石鹸などの役員も務めた。
木村 秀興(きむら ひでおき、1872年11月3日(明治5年… 木村 秀興(きむら ひでおき、1872年11月3日(明治5年10月3日)- 1941年(昭和16年)4月5日)は、大正から昭和前期の実業家・政治家。衆議院議員。 三重県員弁郡北大社村(稲部村大字北大社、東員村を経て現東員町大字北大社)で、豪農木村誓太郎の長男として生まれる。1897年(明治30年)東京帝国大学文科大学史学科を卒業。1919年(大正8年)家督を相続し、農業を営む。 員弁郡信用購買組合連合会長、三重県信用組合会会長、同県畜産組合連合会副会長、産業組合中央会三重支部理事、員弁郡農会会長などを務め、農事改良、農業振興に尽力した。実業界では、東海電線取締役、三重県農工銀行監査役、北勢電気鉄道(三岐鉄道北勢線)監査役などを務めた。
田中 千里(たなか ちさと / せんり、1872年9月22日… 田中 千里(たなか ちさと / せんり、1872年9月22日(明治5年8月20日) - 1938年(昭和13年)2月11日)は、日本の内務・警察官僚、実業家。政友会系官選県知事。 石川県出身。田中信吾の長男として生まれる。第五高等学校を卒業。1906年、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。同年12月、内務省に入省し茨城県属となる。 以後、茨城県警視・保安課長兼衛生課長、同庶務課長、青森県事務官・教育社寺兵事課長、長野県事務官・警察部長、広島県警察部長、神奈川県警察部長、千葉県内務部長、大阪府警察部長などを歴任。 1921年5月、大分県知事に就任。
西風 重遠(にしかぜ しげとお、1872年 5月13日(明治… 西風 重遠(にしかぜ しげとお、1872年 5月13日(明治5年4月7日)– 1942年(昭和17年)11月30日)は、明治から昭和前期の実業家、政治家。衆議院議員。幼名・伊之輔。 和歌山県那賀郡、のちの粉河村(粉河町を経て現紀の川市)で西風清五郎の長男として生まれた。1899年(明治32年)7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。1916年(大正5年)5月に家督を相続した。 大学卒業後、大阪商船に入社し、長崎、台湾、宇品、朝鮮の各支店長を歴任。1909年(明治42年)に退社して和歌山市で回漕業を営んだ。その他、富島組取締役、武庫酒造取締役、摂陽商船取締役、大阪商運監査役などを務めた。 1912年(明治45年)5月、第11回衆議院議員総選挙で和歌山県郡部から立憲政友会所属で出馬して当選し、衆議院議員に1期在任した。
鶴見 正四郎(つるみ しょうしろう、1872年〈明治5年〉1… 鶴見 正四郎(つるみ しょうしろう、1872年〈明治5年〉1月24日 - 1953年〈昭和28年〉2月6日)は、日本の機械工学者・教育者・実業家。官立大阪高等工業学校の教授を務め、退官後に家庭用ガス湯沸器メーカーの陽栄製作所を創業した。 1872年〈明治5年〉1月24日に栃木県で生まれた。1896年〈明治29年〉7月に旧制第一高等学校を卒業し、1899年〈明治32年〉7月に東京帝国大学工科大学(のちの東京大学工学部)機械工学科を卒業した。同年10月に東京帝国大学大学院に進んだ後、1900年〈明治33年〉に官立大阪高等工業学校(当時の名称は大阪工業学校、のちの大阪大学工学部)の教授に着任した。1901年〈明治34年〉から1907年〈明治40年〉までは大阪高等商業学校(のちの大阪商科大学、大阪市立大学の前身)の教授嘱託も務めた。
大瀧 新之助(おおたき しんのすけ、1871年12月9日〈明… 大瀧 新之助(おおたき しんのすけ、1871年12月9日〈明治4年10月27日〉 - 没年不明)は、日本の弁護士、実業家。族籍は京都府士族。 旧米沢藩士・大瀧忠徳の長男。1899年、東京帝国大学法科大学英法科を卒業、法学士の学位を得る。1900年、家督を相続する。 弁護士を開業し、京都市に於いて訴訟事務に従事する。傍ら会社の重役である。東亜組社長、昭和電球相談役、山城銀行取締役、京都精米、山城銀行、日本硬化煉瓦各監査役などをつとめる。 趣味は囲碁、俳句、書画。宗教は禅宗。住所は京都市上京区寺町通今出川上ル。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
吉野 伝治(よしの でんじ、1871年11月22日 - 19… 吉野 伝治(よしの でんじ、1871年11月22日 - 1940年2月3日)は、千葉県出身の日本の実業家。 東武鉄道の支配人を経て取締役となり、東武鉄道に関連する様々な企業の社長を歴任し最後は東武鉄道の第2代社長となったが、就任15日で死去した。 明治4年10月10日(グレゴリオ暦1871年11月22日)、千葉県長生郡土睦村(現在の睦沢町)の粒良市郎右衛門の次男として生まれた。1887年(明治20年)、千葉中学校を卒業した後、第一高等中学校に進学。同年、夷隅郡東村(大原町を経て、現在のいすみ市)の名士であった吉野忠吾の養嗣子となった。1893年(明治26年)7月の第一高等中学校卒業者一覧には「粒良伝治(吉野伝治)」の記載がある。
不破 熊雄(ふわ くまお、1871年11月12日(明治4年1… 不破 熊雄(ふわ くまお、1871年11月12日(明治4年11月)- 1955年7月4日)は、日本の実業家。 福岡藩士不破國雄の二男として福岡県に生まれる。1890年福岡県立尋常中学修猷館、1892年第五高等中学校工科を経て、1895年帝国大学工科大学機械工学科を卒業。 1895年三井工業部に入社し、芝浦製作所に勤務した後、第五高等学校工科教授を数年務め、三井鉱山技師に転じる。1911年欧米各国の鉱山界を視察し、帰国後山野炭鉱所長、田川炭鉱所長を経て、取締役となる。三井窒素工業社長・会長、東洋高圧工業(現・三井化学)取締役も兼任している。 退任後は三井合名会社重役待遇となる。墓所は多磨霊園
大隈 信常(おおくま のぶつね、1871年9月30日(明治4… 大隈 信常(おおくま のぶつね、1871年9月30日(明治4年8月16日) - 1947年(昭和22年)1月11日)は、明治から昭和(戦後初期)にかけての日本の教育者、政治家、実業家、華族(侯爵)である。衆議院議員、貴族院議員、大日本東京野球倶楽部代表取締役会長(初代)、日本職業野球連盟総裁(初代)などを歴任した。また、早稲田大学名誉総長などの名誉職も務めた。大隈重信の養嗣子である。 平戸県平戸(現:長崎県平戸市)の出身。実父は旧平戸藩主松浦詮で、旧名は松浦常(まもる)である。 1899年(明治32年)東京帝国大学法科大学を卒業後、三井物産に入社する。1902年(明治35年)に大隈重信の養女・光子の婿となり、養子となる。
牧田 環(まきた たまき、1871年9月4日〈明治4年7月2… 牧田 環(まきた たまき、1871年9月4日〈明治4年7月20日〉 - 1943年〈昭和18年〉7月6日)は、日本の鉱山技術者、実業家、教育者。 1871年(明治4年)、大阪府北桃谷町に大坂城詰めの幕臣である士族の牧田虎之丞の次男として生まれる。1895年(明治28年)帝国大学工科大学採鉱冶金学科を卒業して三井鉱山(現・日本コークス工業)に入社した。最初は技術者として、後に役員として頭角を現し、三井鉱山社長および会長を務めた。こうした縁で、三井財閥の最高指導者であった団琢磨の長女を妻に迎えている。1913年(大正2年)工学博士を取得。 1924年(大正13年)には田中鉱山より経営移譲された釜石鉱山株式会社の会長に就任。
藤島 範平(ふじしま はんぺい、旧姓・山内、1871年8月1… 藤島 範平(ふじしま はんぺい、旧姓・山内、1871年8月15日〈明治4年6月29日〉 - 1947年〈昭和22年〉9月21日)は、日本の実業家、工学博士。帝国海事協会理事長。専門は造船学。族籍は三重県平民。作家の藤島泰輔は孫。ジャニーズ事務所代表取締役の藤島ジュリー景子は曽孫。 三重県三重郡菰野村(現・菰野町)生まれ。三重県士族・山内俊徳の二男。山内静吾の兄。藤島萬治郎の養子となり、家督を相続した。三重県立尋常中学校、第三高等中学校を経て1894年、帝国大学工科大学造船学科卒業。 日本郵船に入り、保船課長、参事、船舶調査主任を経て1918年、取締役に挙げられ、後工務部長を兼ね1923年、これを辞し、横浜船渠社長となり、次いで横浜新港倉庫社長、東京回漕会社取締役、横浜商工会議所常議員に挙げられ後退任し、1936年、帝国海事協会理事長に就任した。
佐伯 勝太郎(さえき かつたろう、1871年2月3日(明治3… 佐伯 勝太郎(さえき かつたろう、1871年2月3日(明治3年12月14日) - 1934年(昭和9年)1月5日)は、明治から昭和期の日本の化学者、実業家。特種製紙社長、東京帝国大学講師。工学博士。 1895年東京帝国大学工科大学卒業。大蔵省印刷局の印刷技師となり、のちに印刷局抄紙部長、農商務省 技師を兼任。1906年に欧米に派遣され、帰国後、東京帝国大学講師を兼ねる。1921年工業化学会会長。1926年に特種製紙を設立。官・民・学の3方面で日本の紙パルプ産業に貢献し業績を残した。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
川口 彦治(かわぐち ひこはる、1871年1月30日(明治3… 川口 彦治(かわぐち ひこはる、1871年1月30日(明治3年12月10日) - 1955年(昭和30年)5月)は、日本の内務・警察官僚、実業家。政友会系官選県知事、関東庁事務総長。 日向国諸県郡、後の宮崎県西諸県郡加久藤村(現えびの市)出身。郷士・川口時清の長男として生まれる。1893年7月鹿児島高等中学造士館予科卒業、1895年7月鹿児島高等中学造士館本科卒業。1899年7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。内務省に入省し警視庁警部となる。1900年11月、文官高等試験行政科試験に合格した。 以後、警視庁警視・府中警察署長、山梨県警部長、山梨県事務官・第四部長、茨城県事務官・第四部長、大分県事務官・第一部長兼第三部長、愛知県事務官・内務部長などを歴任。
三根 正亮(みね せいりょう、明治4年1月6日〈新暦:187… 三根 正亮(みね せいりょう、明治4年1月6日〈新暦:1871年2月24日〉 - 1939年〈昭和14年〉7月13日)は、明治から昭和初期にかけて活動した日本の電気技術者、実業家。逓信省や鉄道院の技官を経て民間に入り大同電力常務取締役などを務めた。福岡県出身。 三根正亮は、明治4年1月6日(新暦:1871年2月24日)、福岡県三根幾次の長男として生まれた。1890年(明治23年)福岡県立尋常中学修猷館、1892年(明治25年)7月熊本の第五高等中学校工科を経て、1895年(明治28年)7月帝国大学工科大学電気工学科を卒業した。大学在学中に京都電気鉄道の設計に関与している。 卒業後はすぐに逓信省へ入省。
安田 善三郎(やすだ ぜんざぶろう、1870年11月3日(明… 安田 善三郎(やすだ ぜんざぶろう、1870年11月3日(明治3年10月10日) - 1930年(昭和5年)1月9日)は、日本の実業家、政治家。実業家伊臣忠一の子で、安田善次郎の婿養子。安田財閥を指導し、様々な企業の重役を務めた。高学歴の人材登用など財閥の近代化を図ったが、善次郎と対立し離縁される。貴族院議員。オノ・ヨーコの祖父。 1870年(明治3年)10月10日生まれ。宇和島藩士伊臣忠一の子で、旧名を伊臣貞太郎という。1892年、帝国大学法科大学卒業後、安田製釘所に入社。1895年、安田財閥総帥安田善次郎の次女・暉子と結婚(媒酌人は穂積陳重)。同時に善次郎の養嗣子となる。 明治商業銀行、京都銀行、安田商事、安田銀行、第三銀行などの監督、大垣共立銀行、帝国製麻の社長、百三十銀行、日本商業銀行などの頭取、信濃銀行取締頭取、東京火災海上運送保険、東京建物、横浜電気鉄道などの取締役、鐘淵紡績、共済生命保険、水戸鉄道、肥後銀行などの監査役を務めた。
小倉 武之助(おぐら たけのすけ、明治3年8月12日(187… 小倉 武之助(おぐら たけのすけ、明治3年8月12日(1870年9月7日) - 1964年(昭和39年)12月26日)は、明治時代から昭和時代にかけて朝鮮で活動した実業家、美術品収集家。 千葉県成田市出身。父親の小倉良則は北総英漢義塾を創立後、1892年から衆議院議員を3期務め、成田鉄道、成田銀行を設立した実業家。東京帝国大学卒業後、日本郵船に入社。のち京釜鉄道に入社し、1904年朝鮮に渡った。給料を元手に土地を買い、地価上昇で巨利を得て、大邱の資産家として電気事業に進出する準備を始めた。1905年2月京釜鉄道を退社。 1909年、地元資産家と共同で電気事業を出願し、朝鮮総督府より許可を得て大邱市電気会社を設立、株式の過半を出資していたため社長に就任した。
伊藤 俊介(いとう しゅんすけ、1870年9月5日(明治3年… 伊藤 俊介(いとう しゅんすけ、1870年9月5日(明治3年8月10日)- 1924年(大正13年)1月24日)は、明治から大正期の実業家、政治家。衆議院議員、神戸基督教青年会会長。 播磨国宍粟郡、のちの兵庫県宍粟郡染河内村(一宮町を経て現宍粟市一宮町)で生まれた。のち伊藤繁右衛門の養子となる。同志社、第三高等学校を経て、1896年(明治29年)帝国大学法科大学政治学科を卒業した。 兵庫県農工銀行に入り、のち取締役兼支配人に就任。伊藤博文の別名と間違えられて有名となり、1902年(明治35年)8月、第7回衆議院議員総選挙(兵庫県郡部、壬寅会)で当選し、衆議院議員に1期在任した。しかし、農工銀行の経営に支障が起こり、その責めを負って退社した。
松崎 壽三(まつざき としぞう、1870年4月10日(明治3… 松崎 壽三(まつざき としぞう、1870年4月10日(明治3年3月10日) - 1960年(昭和35年)11月25日)は、明治後期から昭和前期の官僚、実業家。初代日本水産社長。 山口県出身。松崎源左衛門の長男として生まれた。旧制山口高等学校卒業。1895年(明治28年)帝国大学法科大学(現:東京大学法学部)政治学科を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格し、同年農商務省に入省し農務局属に任官。以後、水産講習所技師兼農商務省参事官、農商務書記官兼特許局審判官兼樺太庁事務官、農商務書記官・水産局漁政課長、水産局長などを歴任。1917年(大正6年)に退官した。 1919年(大正8年)9月27日、「共同漁業株式会社」(現・日本水産)の社長として就任。
山本 直良(やまもと なおよし、1870年3月26日(明治3… 山本 直良(やまもと なおよし、1870年3月26日(明治3年2月25日) - 1945年)は、日本の実業家。公爵岩倉具視家の元家扶、日本郵船など多くの企業の役員を務め、三笠ホテルを創業した。 小浜藩士で岩倉具視の側近だった山本直成の二男として生まれる。東京帝国大学農学部卒業後、千歳海上火災再保険に入社。日本郵船監査、明治製菓役員などの要職を歴任。1897年(明治30年)丁酉銀行創立に伴い頭取に就任した。 長野県北佐久郡軽井沢町に三笠ホテルを建設している。大正11年には、南米企業組合代表者として、山科礼蔵を団長とする南米実業視察団に参加、翌年帰国。 妻の山本愛は有島武郎の妹。息子のひとりが指揮者の山本直忠。
井坂 孝(いさか たかし、1870年1月9日(明治2年12月… 井坂 孝(いさか たかし、1870年1月9日(明治2年12月8日)- 1949年(昭和24年)6月19日)は、日本の実業家、政治家。貴族院勅選議員、枢密顧問官。 常陸国茨城郡水戸(現在の茨城県水戸市)で水戸藩士・井坂幹の三男として生まれる。茨城県尋常中学校、第一高等学校を経て、1896年(明治29年)7月、東京帝国大学法科大学を卒業し、東洋汽船会社に入社。 以後、東洋汽船会社取締役兼営業部長、横浜海上火災保険 (株) 専務取締役、同社長を務めた。経営破綻した七十四銀行の整理を行い、受け皿となる横浜興信銀行を設立し、副頭取、頭取を務めた。1921年(大正10年)4月、横浜商業会議所会頭に就任し関東大震災の復興に尽力した。
美濃部 俊吉(みのべ しゅんきち、明治2年12月6日(187… 美濃部 俊吉(みのべ しゅんきち、明治2年12月6日(1870年1月7日) - 1945年(昭和20年)9月26日)は、日本の農商務及び大蔵官僚、銀行家、実業家。北海道拓殖銀行頭取、朝鮮銀行総裁。 兵庫県加古郡高砂町内材木町(現高砂市材木町)で美濃部秀芳の長男として生まれる。美濃部家は代々医業の家系で、父は姫路藩の御典医でもあった漢方医だが、町内の子供たちに習字や漢字を教えて主にその月謝で生活していたため、あまり豊かでなく、母はとても知識と教養をもっており、夫の代わりに診察したり書や漢書を教えていた。美濃部はいずれ上京して勉学に励みたいと考えていたが家計の事情を抱えていたとき、彼の俊才が見込まれて援助をしてくれる素封家が4人現れたことにより、小学校、小野田中学校を経て、1885年(明治18年)上京、第一高等中学校予科に入り、医学を志してドイツ語を学ぶが第一部本科に転じて1年の英語研究をした後、帝国大学法科大学政治科入学、1893年(明治26年)7月卒業(法学士)、第百銀行へ入行しようと池田謙三に会うも曖昧な反応で、返事を待っているうちに結局、同年8月農商務省に入り商工局配属、後に同工務課長となる。
松井 庄五郎(まつい しょうごろう、旧姓・亀井、1870年1… 松井 庄五郎(まつい しょうごろう、旧姓・亀井、1870年1月〈明治2年12月〉 - 1931年〈昭和6年〉11月29日)は、日本の獣医師、実業家、融和運動家。大和同志会会長。親族には陸軍少将の松井源之助がいる。 奈良市西之阪の精肉商を営む家に生まれる。哲学館に学ぶ。1902年(明治35年)、東京帝国大学農科大学卒業。獣医となる傍ら、車挽業などの経営でも蓄財し、士族籍を買得して改姓した。1931年(昭和6年)11月29日、死去。 1912年(大正元年)、大和同志会を結成し、松井は初代会長に選ばれる。機関誌『明治之光』を発刊し、部落差別事件の糾弾、融和運動を行う。 松井はこれを全国規模の運動に拡大しようと考え、最初、山口県の有志らと会合を開く。
雨宮 亘(あめみや わたる、明治2年7月26日(1869年9… 雨宮 亘(あめみや わたる、明治2年7月26日(1869年9月2日) - 大正7年(1918年)9月4日)は、日本の実業家。旧姓:広瀬。義父・雨宮敬次郎の死後その全事業をうけつぎ、北海道炭礦汽船、日本製鋼所、桂川電力、日本電燈、大日本軌道などの各取締役、監査役を務めた。栄典は従六位。 明治2年(1869年)7月26日山梨県七里村広瀬久光の三男として生まれる。帝国大学(現在の東京大学)を首席で卒業。明治27年(1894年)3月に雨宮敬次郎の婿養子となる。敬次郎は工学士である亘に岩手県の仙人鉄山(仙人製鉄所)の経営をまかせた。明治34年(1901年)横川目村の国有林の払下げを受け製鉄所までのトロッコを建設。
諸井 四郎(もろい しろう、1869年2月25日〈明治2年1… 諸井 四郎(もろい しろう、1869年2月25日〈明治2年1月15日〉 - 1954年〈昭和29年〉)は、武蔵国児玉郡本庄宿(現在の埼玉県本庄市)出身の実業家。西武鉄道の取締役や日本煉瓦製造の会長などを務めた。 中山道で最大の宿場町であった本庄宿(明治22年より児玉郡本庄町)の出身。東諸井家10代目当主である諸井泉衛(1830-1885)は五男二女を授かり、四朗はその四男として生まれた。1900年(明治33年)に東京帝国大学を卒業し、京釜鉄道会社に入社。会計課長となるが、鉄道の国有化にともない退社する(1908年)。東亜製粉会社を組織し社長に就任するも、1925年(大正14年)日本製粉会社と合併してこの会社は消失。
和達 陽太郎(わだち ようたろう、明治元年11月8日〈186… 和達 陽太郎(わだち ようたろう、明治元年11月8日〈1868年12月21日〉 - 1921年〈大正10年〉3月15日)は、明治から大正にかけて活動した日本の電気技術者、実業家である。逓信技師を経て実業界に入り名古屋電灯常務などを務めた。子に気象・地震学者の和達清夫がいる。 明治元年11月8日(新暦:1868年12月21日)、和達孚嘉の長男として東京の浅草に生まれる。父・孚嘉は江戸幕府の旗本であったが、明治維新後に移住先の静岡県を振り出しに宮城県や山形県で役員生活を送り、晩年には第5代仙台市長(1907 - 1910年)を務めた人物である。 1889年(明治22年)7月東京の第一高等中学校工学部を卒業したのち、1892年(明治25年)7月に帝国大学工科大学電気工学科を卒業し、逓信省へ入る。