後藤 清一(ごとう せいいち、1893年8月19日 - 19… 後藤 清一(ごとう せいいち、1893年8月19日 - 1984年4月11日)は、大正 - 昭和時代の彫刻家。長男の後藤道雄は仏教美術史家。 1893年8月19日茨城県水戸市に生まれる。富岡周正に牙彫を学ぶ。 東京美術学校(現東京芸術大学)入学後は高村光雲に師事し木彫を始める。 仏教を厚く信仰し、仏像などを生涯作品のテーマにした。清一の彫る仏像は如来よりも菩薩や明王を題材にしたものが多い。 1930年構造社会員となる。 1958年日本美術展覧会評議員になり、1960年同展で「双樹」が文部大臣賞を受賞する。 余暇は専ら骨董品収集と読書を趣味としていた。1984年4月11日に死去。90歳だった。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。
武井 直也(たけい なおや、1893年(明治26年)6月16… 武井 直也(たけい なおや、1893年(明治26年)6月16日 – 1940年(昭和15年)2月5日)は、日本の彫刻家。 長野県出身の彫刻家である。戸張孤雁、アントワーヌ・ブールデルに師事した。日本美術院の同人であったが、脱退して日本彫刻家協会を結成した。代表作となった『髪』は東京国立近代美術館に収蔵されている。そのほか『浴後』と『裸婦』が東京芸術大学大学美術館に収蔵されている。 長野県諏訪郡平野村(現岡谷市)に生まれ、同村の篆刻家の八幡郊処の影響で彫刻家を志した。上京後、戸張孤雁に師事し、東京美術学校(現東京芸術大学)彫刻本科塑像部を卒業。日本美術院展に3年連続入選した後、1924年フランスへ留学、同郷の清水多嘉示らとパリに住む。
雨田 光平(あまだ こうへい、1893年2月1日 - 198… 雨田 光平(あまだ こうへい、1893年2月1日 - 1985年11月14日)は、日本の箏曲家、彫刻家、ハープ奏者。本名は雨田 外次郎(あまだ ほかじろう)。福井県出身。 福井市に生まれる。東京美術学校(現在の東京藝術大学美術学部)卒業。在学中に箏曲京極流始祖の鈴木鼓村に師事した。1920年に渡米、アメリカ合衆国とフランスで10年間にわたってハープを修業し、1926年にマルセル・トゥルニエに師事。彫刻家としても国際的に活躍し、「日本のロダン」と呼ばれた。1929年に帰国。日本ハープ協会顧問。箏曲京極流2代目宗家。絵画、詩、書、陶芸など幅広い分野で藝術活動をおこなった。1959年、中日文化賞受賞。
浜田 三郎(はまだ さぶろう、1892年12月21日 - 1… 浜田 三郎(はまだ さぶろう、1892年12月21日 - 1973年11月10日)は、日本の彫刻家。 北海道函館市出身。1918年(大正7年)に東京美術学校(現在の東京芸術大学)彫刻科本科塑造部を卒業した。1926年(大正15年)の第7回帝展に「母」が初入選した。1927年(昭和2年)に斎藤素巌らの構造社に参加した。1932年にロサンゼルスオリンピックの芸術競技の造形種目に参加した。 1944年(昭和19年)から神奈川県湘南中学、1950年(昭和25年)から茅ケ崎高校で教鞭をとった。 1964年(昭和39年)に「楽人」で日展の菊華賞を受賞し、1966年(昭和41年)に日展会員となった。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。
長谷川 義起(はせがわ よしおき、1892年3月3日 - 1… 長谷川 義起(はせがわ よしおき、1892年3月3日 - 1974年2月20日)は、日本の彫刻家。特に相撲をテーマにした作品を得意とした。本名・勝之。 富山県射水郡大島村(現在の射水市)に生まれた。1910年(明治43年)に富山県立工芸学校(現在の富山県立高岡工芸高等学校)、1915年(大正4年)に東京美術学校(現在の東京芸術大学)彫刻科本科塑造部を卒業した。1920年(大正9年)の第2回帝展に「露光」が初入選してから連続入選を重ねた。1930年(昭和5年)の第12回帝展において「円盤」が推薦となり、以後無鑑査出品となった。 日展審員、日本彫塑家クラブ理事、日本陶彫会委員長、北陽美術会理事などを歴任した。
安藤 照(あんどう てる、明治25年(1892年) - 昭和… 安藤 照(あんどう てる、明治25年(1892年) - 昭和20年(1945年)5月25日)は、日本の彫刻家(彫塑)である。 1892年(明治25年)、鹿児島市新屋敷通町(現在、鹿児島市立病院敷地の一角に誕生碑がある)。明治40年(1907年)に旧制県立川辺中へ入学するが、まもなく旧制県立二中へ転校。二中を8年かけて卒業し、東京美術学校へ入学。美術学校時代に帝展入選を果たしているが、卒業後も第3、5、6回帝展にて特選を受賞、大正15年(1926年)の第7回帝展では特選に加えて帝国美術院賞を受賞した。 1927年(昭和2年)には帝展審査員に就任。彫刻の本質的な造形性、中でも量感の表現を唱えた。この頃、朝倉文夫が主宰する朝倉塾に属していたが、1928年(昭和3年)10月、朝倉が帝展に制度改革を建議した上で審査員を辞任。
保田 龍門(やすだ りゅうもん、1891年(明治24年)5月… 保田 龍門(やすだ りゅうもん、1891年(明治24年)5月13日 - 1965年(昭和40年)2月14日)は、日本の画家、彫刻家である。和歌山県竜門村(現:紀の川市)出身。彫刻家の保田春彦は息子、西村浩幸は孫婿である。 1891年(明治24年)、那賀郡竜門村(現:紀の川市)に生まれる。 名は重右衛門、龍門と号した。旧制粉河中学校(現・和歌山県立粉河高等学校)を卒業後、一時は医師を志望するが、東京の上野で開かれていた文部省美術展覧会(略称:文展)で菱田春草の《落葉》と出会い、一度はあきらめた美術の道を再び目指そうと決める。太平洋画会研究所で絵画の指導を受け、1912年(明治45年)東京美術学校西洋画科に入学する。
都賀田 勇馬(つがた ゆうま、1891年(明治24年)- 1… 都賀田 勇馬(つがた ゆうま、1891年(明治24年)- 1981年(昭和56年)6月20日)は、日本の彫刻家である。 石川県金沢市の生まれ。中学時代は素行不良により数回転校を繰り返し、多くの中学校にて学んだ。後に青木外吉からの推薦により、石川県立工業高等学校に入学し彫刻家としての活動を始める。卒業後は東京美術学校(現在の東京芸術大学)に入学し、卒業後は帝展出品のために動物や歴史上の人物、仏像等幅広い分野の彫刻像の製作にあたった。 しかし帝展への出品までには7度出品されたもののいずれも落選し、1920年(大正9年)に開催された第8回帝展でようやく入選されるという苦戦の人生を送る。入選後は朝倉文夫の門人となり、師匠の技法を元に彫刻を学んだ。
吉田 三郎(よしだ さぶろう、1889年5月25日 - 19… 吉田 三郎(よしだ さぶろう、1889年5月25日 - 1962年3月16日)は、彫刻家、日本芸術院会員。 石川県出身。1907年(明治40年)、石川県工業学校の師である板谷波山を慕い上京。1912年(明治45年)東京美術学校彫塑科卒、1918年(大正7年)文展特選、1919年(大正8年)帝展特選、1922年(大正11年)帝展審査員、1931年(昭和6年)文部省の命により古代彫刻研究のため一年間フランス、イタリア、北アメリカに留学。1935年(昭和10年)多摩美術短期大学彫刻科教授、1943年(昭和18年)日本美術及工芸会理事。 戦後は、1950年(昭和25年)日本芸術院賞受賞、日展運営会参事、1955年(昭和30年)日本芸術院会員、1958年(昭和33年)日展常務理事。
雨宮 治郎(あめのみや じろう、1889年〈明治22年〉5月… 雨宮 治郎(あめのみや じろう、1889年〈明治22年〉5月17日 - 1970年〈昭和45年〉5月13日)は、彫刻家、日本芸術院会員。茨城県水戸市出身。 1920年東京美術学校彫刻科卒業、1923年同研究科卒業、帝展、文展、日展に出品し、1950年日展審査員、日展運営会参事、1951年東京学芸大学教授、1957年日本芸術院賞受賞、1958年日展評議員、1962年日本彫塑会委員長、1964年日本芸術院会員、日展理事、1966年勲三等瑞宝章受章、1969年日展顧問。 晩年は東京都杉並区永福に自宅を構えた。1970年5月13日、脳梗塞のため杉並区の東京大塚病院にて死去。告別式は同月22日、青山葬儀所で行われた。
関野 聖雲(せきの せいうん、1889年〈明治22年〉5月2… 関野 聖雲(せきの せいうん、1889年〈明治22年〉5月2日 - 1947年〈昭和22年〉10月28日)は、日本の仏師、彫刻家。高村光雲の弟子。本名は関野金太郎。 神奈川県愛甲郡小鮎村(現在の厚木市小鮎)の大工の家に生まれる。数え16歳で高村光雲の弟子となる。1906年4月、東京美術学校彫刻科選科に入学し、1911年3月卒業する。在学中の作品「白拍子」が母校に買い取られた。 1913年の第三回東京勧業展覧会において作品が宮内省御用品となる。1915年、第9回文展に初入選。それ以来毎年入選し、文展、帝展で活躍した。1921年3月17日、東京美術学校の助教授となり、後に教授となる。1944年の退官まで後進の指導に尽力した。
石井 鶴三(いしい つるぞう、1887年(明治20年)6月5… 石井 鶴三(いしい つるぞう、1887年(明治20年)6月5日 - 1973年(昭和48年)3月17日)は、日本の彫刻家、版画家、洋画家。 画家鈴木鵞湖の孫、画家石井鼎湖の三男、石井柏亭の弟として東京府下谷区仲御徒士町(現・台東区上野)に生まれる。洋画を不同舎にて小山正太郎に、加藤景雲に木彫を学び、1905年創刊の雑誌『平旦』にウィリアム・ニコルソンの作品を模倣した自画自刻による木版画『虎』を掲載した。1910年に彫刻を学んで東京美術学校卒、1911年文展で「荒川岳」が入賞、1915年日本美術院研究所に入る。再興院展に「力士」を出品、二科展に「縊死者」を出し、1916年「行路病者」で二科賞を受賞、明治の末年から山本鼎と交流を深め、創作版画の先駆者として知られるようになり、1918年、日本創作版画協会を結成、1919年、木版画『日本風景版画集』第9集(東京近郊)を、1920年、木版画『日本風景版画集』第10集(日本アルプス)を刊行した。
横江 嘉純(よこえ よしずみ、1887年(明治20年)5月3… 横江 嘉純(よこえ よしずみ、1887年(明治20年)5月3日 - 1962年(昭和37年)2月14日)は、日本の彫刻家。塑像を得意とし、木彫、大理石像、洋画も遺した。 富山県婦負郡保内村(現・富山市)に出生。祖父も父も、同村の村長だった。小学校高等科を卒業後、絵画家を志すも挫折し、彫刻家に憧れる。京都の常楽寺で書生をしながら京都市立美術工芸学校に学んだ。学校を特待生として1906年(明治39年)3月に卒業。 その後、徴兵のため3年間入隊。兵役終了後東京美術学校(現東京芸術大学)へ入学し、1914年(大正3年)に彫刻科を卒業。結婚して一男一女をもうけたが、長女が夭逝し、続いて母、長兄、妻をも亡くした(長男も1941年(昭和16年)に死去)。
藤田 嗣治(ふじた つぐはる、1886年11月27日 - 1… 藤田 嗣治(ふじた つぐはる、1886年11月27日 - 1968年1月29日)は日本生まれの画家・彫刻家。戦前よりフランスのパリで活動、猫と女を得意な画題とし、日本画の技法を油彩画に取り入れつつ、独自の「乳白色の肌」とよばれた裸婦像などは西洋画壇の絶賛を浴びたエコール・ド・パリの代表的な画家である。フランスに帰化後の洗礼名はレオナール・フジタ(Léonard Foujita)。
池田 勇八(いけだ ゆうはち、1886年8月28日 - 19… 池田 勇八(いけだ ゆうはち、1886年8月28日 - 1963年3月31日)は、日本の彫刻家。動物を題材とする彫刻を主に制作し、「馬の勇八」と呼ばれた。 香川県綾歌郡滝宮村出身。1903年(明治36年)香川県琴平工芸学校を卒業し上京、同年9月東京美術学校(現在の東京芸術大学)彫刻科選科入学。同窓に朝倉文夫。1907年(明治40年)に同校を卒業した。同年の東京勧業博覧会において「柔術」が銅牌を受賞した。1909年(明治42年)の第3回文展において「馬」が初入選した。1916年から18年にかけて文展において出品した作品が連続特選となった。1919年(大正9年)に第1回帝展に無鑑査出品となり、1920年(大正9年)に帝展の審査員となった。
山田真山(やまだ しんざん、1885年(明治18年)12月2… 山田真山(やまだ しんざん、1885年(明治18年)12月27日 - 1977年(昭和52年)1月29日)は、明治から昭和にかけての彫刻家、画家。本名は渡嘉敷 兼慎(とかしき けんしん)。 沖縄県那覇市壺屋にて、士族で漢学者の渡嘉敷兼礼の五男として生まれるが、幼少時に父が病没したため貧困の少年時代を過ごす。手先の器用さが認められ、大工の修行をする。やがて上京、20歳で東京美術学校へ進んで木彫科・彫塑科を専攻、山田泰雲に師事し、その養子となる。また、高村光雲の教えを受ける。1906年に清国の北京芸徒学堂教授となるが翌1907年に帰国して東京美術学校に戻り、小堀鞆音に日本画を学ぶ。1914年、文展入選。
和田 光石 (わだ こうせき、1884年 – ?)は、日本の… 和田 光石 (わだ こうせき、1884年 – ?)は、日本の彫刻家。 兄、和田信二郎(文部省図書監修官)。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
藤川 勇造(ふじかわ ゆうぞう、1883年(明治16年)10… 藤川 勇造(ふじかわ ゆうぞう、1883年(明治16年)10月31日 - 1935年(昭和10年)6月15日)は、大正時代から昭和初期に活躍した彫刻家である。妻は洋画家の藤川栄子。 香川県高松市の江戸時代に活躍した玉楮象谷を大伯父に持つ漆芸の一家に生まれる。香川県立高松工芸高等学校漆工科(1899年(明治32年)に木彫科に転身)卒業後上京し、東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部)に入学し彫刻を学んだ。卒業後の1909年(明治42年)に留学のためフランスへ渡り、アカデミー・ジュリアンでジャン=ポール・ローランスに師事し、彫刻を学ぶ。これによって1912年に当時同学校に勤めていたオーギュスト・ロダンの晩年の助手となった。
高村 光太郎(たかむら こうたろう、1883年〈明治16年〉… 高村 光太郎(たかむら こうたろう、1883年〈明治16年〉3月13日 - 1956年〈昭和31年〉4月2日)は、日本の詩人・歌人・彫刻家・画家。本名は高村 光太郎(たかむら みつたろう)。父は彫刻家の高村光雲。 日本を代表する彫刻家であり画家でもあったが、今日にあって『道程』『智恵子抄』などの詩集が著名で、教科書にも多く作品が掲載されており、日本文学史上、近現代を代表する詩人として位置づけられる。著作には評論や随筆、短歌もあり能書家としても知られる。弟が2人おり下の弟は鋳金家の高村豊周。甥(豊周の息子)は写真家の高村規である。父である高村光雲などの作品鑑定も多くしている。 東京府東京市下谷区下谷西町三番地(現:東京都台東区東上野一丁目、二丁目付近)出身。
朝倉 文夫(あさくら ふみお、1883年〈明治16年〉3月1… 朝倉 文夫(あさくら ふみお、1883年〈明治16年〉3月1日 - 1964年〈昭和39年〉4月18日)は、明治から昭和の彫刻家(彫塑家)である。号は紅塐(こうそ)。「東洋のロダン」と呼ばれることもある。位階は正三位。舞台美術家・画家の朝倉摂(摂子)は長女、彫刻家の朝倉響子は次女。 1883年(明治16年)、大分県大野郡上井田村(現豊後大野市朝地町)村長であった渡辺要蔵の三男として生まれる。11人兄弟の5番目の子であった文夫は1893年(明治26年)の10歳の時に朝倉種彦(衆議院議員・朝倉親為の弟にあたる)の養子となるが、入学した大分尋常中学校竹田分校(在学中に「竹田中学校」に独立。現大分県立竹田高等学校)を3度も落第し、いたたまれなくなった母・キミにより1902年(明治35年)、当時既に東京で新進気鋭の彫刻家として既に活躍していた9歳年上の兄・渡辺長男を頼って上京することになる。
藤井 浩佑(ふじい こうゆう、1882年〈明治15年〉11月… 藤井 浩佑(ふじい こうゆう、1882年〈明治15年〉11月29日 - 1958年〈昭和33年〉7月15日)は、彫刻家、日本芸術院会員。初名は浩祐。 唐木細工師藤井祐敬の長男として東京府東京市神田区錦町に生まれる。祖父は、旧摂関家公爵・九条家の執事であった藤井祐澄。 不同舎を経て1907年東京美術学校彫刻科卒、第一回文展に出品、以後出品を続ける。1911年文展出品「鏡の前」から三等賞を四度受賞。1916年日本美術院同人、以後院展に出品、1936年文展審査員となり、院展を退き帝国美術院会員、1937年帝国芸術院会員、1950年日展運営会理事、1953年より浩佑と称する。墓所は青山霊園立山墓地1-ロ-4にある。
内藤 伸(ないとう しん、1882年10月1日 - 1967… 内藤 伸(ないとう しん、1882年10月1日 - 1967年8月21日)は、彫刻家・日本芸術院会員。 1882年(明治15年)、島根県飯石郡吉田村(現・雲南市)に生まれる。上京して高村光雲に師事、1904年(明治37年)、東京美術学校選科卒。文展出品ののち、1914年(大正3年)、日本美術院同人、1915年、再興院展に出品、1919年、脱退。1921年(大正10年)、帝展審査委員、1927年(昭和2年)、帝国美術院会員、1929年(昭和4年)、日本木彫会を設立し主宰する。戦後は日展に出品し日本芸術院会員。1952年(昭和27年)、日本木彫会再興、1958年(昭和33年)、日展顧問、1965年(昭和40年)、勲三等瑞宝章受章。
畑 正吉(はた しょうきち、1882年(明治15年)2月12… 畑 正吉(はた しょうきち、1882年(明治15年)2月12日 - 1966年(昭和41年)6月24日)は、日本の彫刻家。 現在の富山県高岡市に生まれる。1901年(明治34年)に富山県工芸学校彫刻科を卒業し、東京美術学校彫刻科へ入学する。1906年(明治39年)に同校を卒業した翌年、農商務省海外実業練習生としてフランスへ渡り、エコール・デ・ボザール最初の日本人学生として、1910年(明治43年)まで木彫を学んだ。帰国後の1911年(明治44年)、第5回文展に出品した「歳三十」が入選、以後帝展の初期まで毎回入選を重ねる。1912年(大正元年)から東京美術学校に勤め始め、雇(助手)、嘱託、助教授と昇進を重ね、1921年(大正10年)に教授に就任した。
小倉 右一郎(おぐら ういちろう、1881年(明治14年)6… 小倉 右一郎(おぐら ういちろう、1881年(明治14年)6月9日 - 1962年(昭和37年)7月15日)は、日本の彫刻家。香川県出身。 香川県立工芸学校を経て東京美術学校(現東京芸術大学)彫刻科を1907年(明治40年)に卒業。 1908年(明治41年)に「指導」で文展初入選。 1913年(大正2年)に大正博覧会に「霹靂」を出品し、二等銀牌を獲得。以後、官展で次々入賞し、1916年(大正5年)の第10回文展で「闇路の人々」が特選となった。 1920年(大正9年)に渡仏。フランスにおける近代彫刻の巨匠ロダンに師事し、1921年(大正10年)に日本に帰国。その後は滝野川彫刻研究所を創立し、後進を指導した。
田嶼 碩朗(たじま せきろう、1878年7月4日 - 194… 田嶼 碩朗(たじま せきろう、1878年7月4日 - 1946年3月30日)は日本の彫刻家。明治期から昭和時代初期にかけて活躍した。福井県出身。 1878年(明治11年)7月4日、福井県三国町(現坂井市)に生まれる。故郷で木彫りを学び、後に上京し東京美術学校彫塑科(現東京芸術大学)に入学、在学中は正木直彦、高村光雲に師事。 卒業後は院展、帝展などで入賞を繰り返した。後に彫刻家として東京と札幌にアトリエを構える。生前は詩人室生犀星と親しかった。 北海道および樺太(現サハリン)で銅像制作を主に手がけたが、その作品の多くは戦時中の金属供出により失われほとんど現存していない。 碩朗の末娘による著作「彫刻家 田嶼碩朗」によれば、1926年(大正15年)5月14日建立のクラーク像(以後単に「元像」)は戦争のために1943年(昭和18年)6月に金属供出され、戦後1948年(昭和23年)10月に胸像再建立のため田嶼の残した元像製作時の石膏原型を使用し元像の造形に忠実に再鋳造を行ったところ、「田嶼が既に他界していたこと」「監修として別の彫刻家である加藤顕清が関わっていたこと」の2点が原因となり、加藤を単独製作者と誤記する状況が発生した、と説明している。
細谷 而楽(ほそや じらく、1878年〈明治11年〉3月30… 細谷 而楽(ほそや じらく、1878年〈明治11年〉3月30日 - 1940年〈昭和15年〉11月16日)は、日本の彫刻家。本名・三郎。 1878年(明治11年)、群馬県一毛村(現・前橋市城東町1丁目)に生まれる。細谷家は前橋藩士の家柄だった。祖父・登代平の時に廃藩となり、父・桟平は製糸業や質屋を営んでいた。而楽は桟平・まきの三男として生まれた。前橋中学校(現・群馬県立前橋高等学校)に学ぶが、中退して上京。1897年(明治30年)9月、東京美術学校予科(現・東京藝術大学)に入学する。翌年には新しく開かれた塑造科へと進み担当教官である高村光雲に師事する。同期の高村光太郎(光雲の子息)と親しく交流し、1902年(明治35年)7月に同校を卒業。
武石 弘三郎(たけいし こうざぶろう、1877年(明治10年… 武石 弘三郎(たけいし こうざぶろう、1877年(明治10年)7月28日 - 1963年(昭和38年)5月11日)は日本近代の彫刻家。政財界や各界の著名人の銅像を数多く手がけた。 新潟県南蒲原郡中之島村の庄屋の家に生まれる。東京美術学校塑像科で長沼守敬に学び、1901年(明治34年)卒業。ベルギーに8年間滞在し、その間にブリュセル国立美術学校に学んだ。 1909年(明治42年)帰国。同郷の石黒忠悳の知遇を得て、その関係で松本順・石黒忠悳像や森鴎外像の制作を手がけた。 文部省展覧会、帝国美術院展覧会に出品。明治末から昭和戦前期にかけて数多くの人物像を制作した。また、早稲田大学理工学部建築学科の講師を務め、多くの建築家を育てた。
渡辺 長男(わたなべ おさお、1874年(明治7年)4月2日… 渡辺 長男(わたなべ おさお、1874年(明治7年)4月2日 - 1952年(昭和27年)3月3日)は、明治から昭和にかけて活動した彫刻家(彫塑家)。同じ彫刻家の朝倉文夫、大塚辰夫(大塚周夫の父・大塚明夫の祖父)は実弟。妻は岡崎雪聲の娘。 1874年(明治7年)、大分県大野郡上井田村(現豊後大野市)村長であった渡辺要蔵の長男として生まれる。彫刻家を目指した長男は東京美術学校(現・東京芸術大学)に入学し、仏像彫刻家の山田鬼斎に師事する。すぐに頭角を現し、イタリアへと留学していた長沼守敬に欧州の彫刻技術を学ぶなど、先駆性を発揮した。 1897年11月に高村光太郎や武石弘三郎、白井雨山、青木外吉ら同窓生と「青年彫塑会」を結成し、木彫家をもまじえて技術上の交流をはかり、新進気鋭の彫刻家として注目されるようになる。
黒岩 淡哉(くろいわ たんさい、明治5年2月8日(1872年… 黒岩 淡哉(くろいわ たんさい、明治5年2月8日(1872年3月16日) – 昭和38年(1963年)3月1日)は、明治時代から昭和時代にかけての彫刻家(彫塑家)。本名は高木倉吉(のちに黒岩家の養子となる)。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
本山 白雲(もとやま はくうん、明治4年9月1日(1871年… 本山 白雲(もとやま はくうん、明治4年9月1日(1871年10月14日) - 昭和27年(1952年)2月18日)は、日本の彫刻家。高知市桂浜で悠然と太平洋の彼方を望んで立つ坂本龍馬の巨大な銅像(総高約15m)は、白雲の代表作である。本名は本山辰吉で「白雲」は雅号。彫塑が巧みで土佐のミケランジェロと呼ばれた[要出典]。 明治4年、辰吉は土佐国幡多郡宿毛村(現 高知県宿毛市)土居下の侍屋敷に次男として生まれる。父本山茂武(省吾)は、土佐藩家老で宿毛7,000石の領主・伊賀家(安東家)に仕えていた。本山家は、かつて長宗我部氏とも争った家柄であったが、明治維新ののち家禄を奉還し、生活は極めて貧困であった。
新納 忠之介(にいろ ちゅうのすけ、明治元年11月25日〈1… 新納 忠之介(にいろ ちゅうのすけ、明治元年11月25日〈1869年1月7日〉 - 1954年〈昭和29年〉4月13日)は、日本の彫刻家。号を古拙。2,631体の仏像等の多くの文化財を修理した。修理前後の写真や書面など詳細な記録を残しており現在の文化財修理の基礎を築いた。 岡倉天心は新納が仏像修復のパイオニアとしての方向性を決定づけた張本人であると言える。生涯にわたって岡倉を師と仰いで恋慕し続けてきた事は、新納に近しい人々の談で知られる所である。そうした運命の鍵となったのが明治34年(1901)から漸次開始された奈良の仏像修理事業である。奈良の修理に先んじて明治30年(1897)、東京美術学校が委託された奥州平泉・中尊寺金色堂の修理事業に新納は参加する。
山田 鬼斎(やまだ きさい、1864年6月9日(元治元年5月… 山田 鬼斎(やまだ きさい、1864年6月9日(元治元年5月6日) - 1901年(明治34年)2月20日)は、日本の彫刻家である。鬼斎は号で本名は常吉。 越前の坂井郡(現在の福井県坂井市)に生まれる。実父は仏師であった事より、幼少の頃から彫刻を学んだ。明治維新後の1886年(明治19年)に同郷であった岡倉天心に同行して上京し、その後は天心と共に奈良にて寺院や神社に祀られている古仏の研究や宝物の調査に携わる。 後に高村光雲の助手となり、1890年(明治23年)には東京美術学校(現在の東京芸術大学)に雇われ1896年(明治29年)には同校の教授となり、彫刻の教鞭を執る。この頃に『平治物語』等、日本の歴史的な出来事をテーマにした同国の伝統彫刻の技を用いた西洋風の彫刻作品を制作し、1893年(明治26年)に開催されたシカゴ万国博覧会では鬼斎の作品が出品された。