武井 真澂(たけい しんちょう、1875年(明治8年)6月2… 武井 真澂(たけい しんちょう、1875年(明治8年)6月24日 - 1957年(昭和32年)6月3日)は、日本の山岳画家。本名は真澄。 長野県諏訪郡豊田村十川(現・諏訪市)に生まれる。1896年に東京美術学校本科を卒業。1900年(明治33年)から1914年(大正3年)まで旧制長野県立松本中学校で図画を教えた。退職後は東京に住みながら、長野県内を主体に山梨県・富山県・静岡県などの山に登り、山岳画を描いた。
中原 芳煙(なかはら ほうえん、1875年(明治8年)6月2… 中原 芳煙(なかはら ほうえん、1875年(明治8年)6月24日 - 1915年(大正4年)6月20日)は明治・大正時代の日本画家。 島根県邑智郡都賀行村大字潮村(現・美郷町)に、農業と鉄山経営をしていた旧家の当主・源吉郎の次男として生まれた。本名は佐次郎、画号を芳煙という。 幼い頃から絵を好み、那賀郡町村組合立石見学校(現・島根県立浜田高等学校)を卒業後、1896年(明治29年)9月、画家を志して東京美術学校(現・東京藝術大学)に進学、川端玉章に師事した。 日本画本科2学年の時に美術学校生徒成績品展覧会で「秋野鹿図」が一等褒状を受賞した。 師の玉章は芳煙の画風を推賞して惜しまなかったといわれる。
渡辺 香涯(わたなべ こうがい、1874年(明治7年)11月… 渡辺 香涯(わたなべ こうがい、1874年(明治7年)11月24日‐1961年(昭和36年)9月29日)は明治時代から昭和時代にかけての日本画家。 1874年11月24日に東京府四谷区荒木町に生まれる。名は啓三。1892年(明治25年)に高橋玉淵に入門、また川端玉章にも師事した。1896年(明治29年)の日本絵画協会第1回絵画共進会、1897年(明治30年)春季の日本絵画協会第2回絵画共進会二作品を出品、同年7月に東京美術学校を卒業。同年秋季の日本絵画協会第3回絵画共進会に「木枯」を出品し、二等褒状を得る。1898年(明治31年)春季の日本絵画協会第4回絵画共進会に「秋致」を出品した後、2、3年山形県、群馬県の中学校教員を務めて1900年(明治33年)に帰京する。
菱田 春草(ひしだ しゅんそう、1874年(明治7年)9月2… 菱田 春草(ひしだ しゅんそう、1874年(明治7年)9月21日 - 1911年(明治44年)9月16日)は、明治期の日本画家。横山大観、下村観山とともに岡倉天心(覚三)の門下で、明治期の日本画の革新に貢献した。本名は三男治(みおじ)。 1874年(明治7年)、長野県伊那郡飯田町(現・飯田市)に旧飯田藩士の菱田鉛治の三男として生まれた。飯田学校(現追手町小学校)で学んだ後に上京し、狩野派の結城正明の画塾で学ぶ。1890年(明治23年)、東京美術学校(現・東京藝術大学)に入学。春草は美校では大観、観山の1学年後輩にあたる。美校での師は狩野派の末裔である橋本雅邦であった。春草は大観、観山とともに、当時美校校長であった岡倉天心の強い影響下にあった。
中沢 弘光(中澤弘光, なかざわ ひろみつ、1874年〈明治… 中沢 弘光(中澤弘光, なかざわ ひろみつ、1874年〈明治7年〉8月4日 - 1964年〈昭和39年〉9月8日)は、洋画家、版画家、油彩画家、挿絵画家。日本芸術院元会員。 東京・芝で、旧佐土原藩士の子として生まれる。1887年、曽山幸彦に入門、洋画を学んだ。曽山の没後、堀江正章にも師事する。1900年、東京美術学校西洋画選科修了。黒田清輝に師事。白馬会創立に参加、同展覧会に出品を続けた。1912年、光風会創立に参加。1922年、ヨーロッパに渡り翌年帰国、金尾文淵堂や兵庫の西宮書院から新版画の作品を発表している。1924年(大正13年)1月、白日会を創設した。1930年(昭和5年)、帝国美術院会員、1937年(昭和12年)、帝国芸術院会員、1944年(昭和19年)7月1日、帝室技芸員。
島崎 赤太郎(しまざき あかたろう、1874年〈明治7年〉7… 島崎 赤太郎(しまざき あかたろう、1874年〈明治7年〉7月9日 - 1933年〈昭和8年〉4月13日)は、日本の作曲家、音楽教育者であり、オルガン奏者である。東京音楽学校(現在の東京芸術大学)教授。 東京の築地(入船)に生まれた。父親の熊次郎は大工棟梁であったが、1886年(明治19年)ごろ、一家をあげてクリスチャンとなった。この父親は1890年(明治23年)の内国勧業博覧会にオルガンを出品していた。赤太郎は東京音楽学校(現・東京藝術大学)入学後、専修部でルドルフ・ディットリヒ、小山作之助らの元で学び、1893年(明治26年)に卒業。そのまま母校の助教となり、1901年(明治34年)には昭憲皇太后御前演奏を行っている。
渡辺 長男(わたなべ おさお、1874年(明治7年)4月2日… 渡辺 長男(わたなべ おさお、1874年(明治7年)4月2日 - 1952年(昭和27年)3月3日)は、明治から昭和にかけて活動した彫刻家(彫塑家)。同じ彫刻家の朝倉文夫、大塚辰夫(大塚周夫の父・大塚明夫の祖父)は実弟。妻は岡崎雪聲の娘。 1874年(明治7年)、大分県大野郡上井田村(現豊後大野市)村長であった渡辺要蔵の長男として生まれる。彫刻家を目指した長男は東京美術学校(現・東京芸術大学)に入学し、仏像彫刻家の山田鬼斎に師事する。すぐに頭角を現し、イタリアへと留学していた長沼守敬に欧州の彫刻技術を学ぶなど、先駆性を発揮した。 1897年11月に高村光太郎や武石弘三郎、白井雨山、青木外吉ら同窓生と「青年彫塑会」を結成し、木彫家をもまじえて技術上の交流をはかり、新進気鋭の彫刻家として注目されるようになる。
香取 秀真(かとり ほつま、1874年1月1日 - 1954… 香取 秀真(かとり ほつま、1874年1月1日 - 1954年1月31日)は日本の鋳金工芸作家、歌人である。学問としての金工史を確立し、研究者としても優れた。日本における美術の工芸家として初の文化勲章を受章。東京美術学校(現在の東京藝術大学)教授、芸術院会員。 帝室博物館(現在の東京国立博物館)技芸員、国宝保存会常務委員、文化財審議会専門委員などを歴任。秀真は雅号で、本名は秀治郎。金工の人間国宝である香取正彦は長男。 千葉県印旛郡船穂村(現在の印西市)に生まれるも、5歳で佐倉の麻賀多神社の宮司、郡司秀綱の養子となる。一時両親のもとに帰るが、7歳からの10年間を佐倉で過ごす。佐倉周辺は遺跡や古い寺院が多く、秀真は、幼い頃から古代への関心を抱いていた。
橘 糸重(たちばな いとえ、1873年(明治6年)10月18… 橘 糸重(たちばな いとえ、1873年(明治6年)10月18日 - 1939年(昭和14年)8月31日)は、日本の音楽家、敎育者、歌人。 1873年、三重県鈴鹿郡亀山町(現・亀山市)生まれ。生後まもなく父を亡くし、1874年に母、姉とともに上京。東京音楽学校(現・東京芸術大学)でピアノなどを学び、1892年に卒業。卒業後は研究科に進む。1896年より同校助教授となった。1901年に教授昇進。1928年に教授を辞した後は1939年に亡くなるまで嘱託講師(時間講師)として勤務した。1937年より帝国芸術院会員。ラファエル・フォン・ケーベルを音楽上のみならず宗教上の師とした。また、1931年(昭和6年)に来日したレオニード・クロイツァーの講習会を受講した記録もある。
田村 虎蔵(たむら とらぞう、1873年5月24日 - 19… 田村 虎蔵(たむら とらぞう、1873年5月24日 - 1943年11月7日)は、日本の音楽教育家、作曲家。 鳥取県岩美郡馬場村(現・岩美町馬場)に田村重蔵の6人兄弟の末子として出生。体が非常に強健であったことから虎蔵と命名されたとされる。 蒲生小学校、鳥取高等小学校(現・鳥取市立久松小学校)を経て、1892年鳥取県尋常師範学校を卒業。卒業後は因幡高等小学校(現・鳥取市立久松小学校)に赴任するが、同年9月に東京音楽学校に進学。1895年同校を卒業。兵庫県尋常師範学校を経て、1899年東京高等師範学校兼東京音楽学校助教諭。 言文一致唱歌を提唱し、納所弁次郎らと「幼年唱歌」(1900年)「尋常小学唱歌」などを編集。
下村 観山(しもむら かんざん、1873年(明治6年)4月1… 下村 観山(しもむら かんざん、1873年(明治6年)4月10日 - 1930年(昭和5年)5月10日)は、明治 - 昭和初期の日本画家。本名は晴三郎。 1873年(明治6年)、和歌山県和歌山市小松原通5丁目に、代々紀州藩に仕える小鼓方幸流の能楽師の3男として生まれる。1881年(明治14年)8歳のとき、一家で東京へ移住。父は篆刻や輸出象牙彫刻を生業とし、兄2人も後に豊山、栄山と名乗る彫刻家となった。観山は祖父の友人だった藤島常興に絵の手ほどきを受ける。常興は狩野芳崖の父・狩野晴皐の門人だったことから、芳崖に観山を託す。観山初期の号「北心斎東秀」は芳崖が授けたとされ、1883年(明治16年)観山10歳の頃にはもう使用していたとされる。
白滝 幾之助(しらたき いくのすけ、1873年〈明治6年〉3… 白滝 幾之助(しらたき いくのすけ、1873年〈明治6年〉3月17日 - 1960年〈昭和35年〉11月25日)は、兵庫県出身の日本の洋画家。作風は写実的作品を発表し続けた。 1873年(明治6年)3月17日、但馬国豊岡県朝来郡(現・兵庫県朝来市)生野奥銀谷町に生まれる。幼少時に父を亡くし、女手一つで育てられた。 1890年(明治23年)、17歳時に鉱山技師を目指して上京、築地の工手学校に入学。1894年(明治27年)、第4回内国勧業博覧会にて「待ち遠し」が入選。褒状を受け有栖川官家に買い上げ。1896年(明治29年)、下宿先で同居していた同郷の和田三造に誘われて山本芳翠の生巧館画塾に入る。後に生巧館画塾が黒田清輝に譲られ、天心道場となった後、黒田清輝に師事。
桃澤 如水(ももざわ にょすい、1873年(明治6年)1月1… 桃澤 如水(ももざわ にょすい、1873年(明治6年)1月14日 - 1906年(明治39年)8月29日)は、歌人で日本画家。本名は桃澤 重治(ももざわ しげはる)、画名は如水(にょすい)または桃画史(とうがし)、歌名を茂春(もしゅん)といい、筆名を三六、三六軒、子脩(ししゅう)などと称した。その祖に江戸時代中期の歌人である桃澤夢宅がいる。 長野県伊那郡本郷村で、桃澤匡尊の次男として生まれる。桃澤家は古くから代々庄屋(名主)を務めており、何人も歌人を産んだ名家であった。1888年(明治21年)15歳で飯田の岡庭塾で、英語や漢籍、数学などを学んだ。ここで菱田春草と出会い、自分も画家になろうとするも、経済的な理由で上京の許しが出なかった。
鈴木 空如(すずき くうにょ、1873年 - 1946年)は… 鈴木 空如(すずき くうにょ、1873年 - 1946年)は、日本の仏画師、日本画家。世界文化遺産である法隆寺の金堂壁画を模写したことで世に知られる。 明治6年(1873年)、鈴木虎之助・フミの三男として、秋田県仙北郡小神成村13番地(現・大仙市太田町小神成)に生まれる。 明治25年(1892年)に上京して、画工・長山蘭林に師事し日本画を習う。日清戦争に従軍後の明治31年(1898年)、東京美術学校(現・東京芸術大学美術学部)に入学。山名貫義に師事した。 卒業後、画壇には属さず、法隆寺金堂壁画の模写と仏教美術の研究に打ち込んだ。 大正7年(1918年)ナヲと結婚。2年後に長女豊子をもうける。 大正14年(1925年)豊子が喘息を悪化させ、死去。
北村 季晴(きたむら すえはる、1872年5月22日(明治5… 北村 季晴(きたむら すえはる、1872年5月22日(明治5年4月16日) - 1931年(昭和6年)6月17日)は、明治・大正期日本の作曲家、作詞家、演出家。東京府銀座出身。 明治5年4月16日(西暦1872年5月22日)、東京府銀座(東京市京橋区を経て現在の東京都中央区)に漢学者で14代将軍・徳川家茂の侍講を務めた北村季林・鉞夫妻の一子として生まれた。江戸時代前期の国文学者・北村季吟は7代前の先祖で、季晴は季吟から見て仍孫(じょうそん)に当たる。 父と親交のあったジェームス・カーティス・ヘボンが開設したヘボン塾の後身であるジョン・C・バラの築地大学校で学ぶ。その後、ヘボンが開校した明治学院に入学し、同級生となった島崎藤村と親交を結ぶが季晴に音楽の才能を見出したヘボンの薦めもあり学院を中退。
板谷 波山(いたや はざん、1872年4月10日〈明治5年3… 板谷 波山(いたや はざん、1872年4月10日〈明治5年3月3日〉 - 1963年〈昭和38年〉10月10日)は、茨城県出身の、明治後期から昭和中期にかけて活動した日本の陶芸家。本名は板谷 嘉七(いたや かしち)。号は、始め「勤川」、のち「波山」。「勤川」は故郷を流れる五行川の別名「勤行川(ごんぎょうがわ)」に、「波山」は故郷の名山である「筑波山」に因む。 日本の近代陶芸の開拓者であり、陶芸家としては初の文化勲章受章者である。茨城県名誉県民。下館市名誉市民(合併により筑西市への移行に伴い、現在は筑西市名誉市民)。 日本の陶芸は縄文時代からの長い歴史をもつが、「職人」ではない「芸術家」としての「陶芸家」が登場するのは近代になってからであった。
矢崎 千代二(やざき ちよじ、1872年3月20日(明治5年… 矢崎 千代二(やざき ちよじ、1872年3月20日(明治5年2月12日) - 1947年(昭和22年)12月28日又は12月29日)は、日本の洋画家。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
黒岩 淡哉(くろいわ たんさい、明治5年2月8日(1872年… 黒岩 淡哉(くろいわ たんさい、明治5年2月8日(1872年3月16日) – 昭和38年(1963年)3月1日)は、明治時代から昭和時代にかけての彫刻家(彫塑家)。本名は高木倉吉(のちに黒岩家の養子となる)。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
吉田 恒三 (よしだ つねぞう、1872年3月11日(明治5… 吉田 恒三 (よしだ つねぞう、1872年3月11日(明治5年2月3日) - 1957年(昭和32年)5月16日)は、日本の声明研究者、作曲家。福井県出身。 明治5年(1872年)敦賀県遠敷郡小浜鹿島町(現在の福井県小浜市鹿島)に生まれる。 明治27年(1894年)、福井師範学校(現・福井大学)卒業。 東京高等師範学校附属音楽学校師範科卒業。明治30年(1897年)福井師範学校附属小学校訓導を経て教諭となる(音楽科担当)。 明治34年(1901年)京都師範学校(現・京都教育大学)教諭となり、30年勤続。 浄土宗立仏教専門学校(現・佛教大学)講師。昭和25年(1950年)比叡山延暦寺に音律研究所を設立。
本山 白雲(もとやま はくうん、明治4年9月1日(1871年… 本山 白雲(もとやま はくうん、明治4年9月1日(1871年10月14日) - 昭和27年(1952年)2月18日)は、日本の彫刻家。高知市桂浜で悠然と太平洋の彼方を望んで立つ坂本龍馬の巨大な銅像(総高約15m)は、白雲の代表作である。本名は本山辰吉で「白雲」は雅号。彫塑が巧みで土佐のミケランジェロと呼ばれた[要出典]。 明治4年、辰吉は土佐国幡多郡宿毛村(現 高知県宿毛市)土居下の侍屋敷に次男として生まれる。父本山茂武(省吾)は、土佐藩家老で宿毛7,000石の領主・伊賀家(安東家)に仕えていた。本山家は、かつて長宗我部氏とも争った家柄であったが、明治維新ののち家禄を奉還し、生活は極めて貧困であった。
林 竹治郎(はやし たけじろう、1871年(明治3年) - … 林 竹治郎(はやし たけじろう、1871年(明治3年) - 1941年(昭和16年))は、日本の画家である。「朝の祈り」という名画を描き、北海道美術界の基礎を築いた。ハンセン病患者のために生涯を尽くした医師林文雄の父。 1871年に宮城県に生まれ、仙台師範学校(現宮城教育大学)へ入学した。師範学校在学中の1889年(明治22年)にキリスト教の洗礼を受けた。同年上京して東京美術学校(現東京芸術大学)へ入学し、3年後の1892年(明治25年)東京美術学校の特別課程を卒業すると、1898年(明治31年)9月北海道師範学校の教諭になった。2年後に退職し、札幌第一中学校(現北海道札幌南高等学校)の教諭として28年間美術を教えた。
堤 雄長(つつみ たけなが、1870年12月29日〈明治3年… 堤 雄長(つつみ たけなが、1870年12月29日〈明治3年11月8日〉- 1955年〈昭和30年〉4月11日)は、明治から昭和期の宮内官。政治家。華族。貴族院子爵議員。旧名・雄麿。 山城国京都で華族・堤功長の次男として生まれる。父の死去に伴い、1913年(大正2年)12月10日に子爵を襲爵した。 1894年(明治27年)東京美術学校日本画科を卒業。工手学校、京華中学校などで教師を務めた。1912年、祭官となる。以後、大喪使祭官、名誉掌典、青山御所祗候などを務めた。 1916年(大正5年)6月17日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属して活動し、1925年(大正14年)7月9日まで2期在任した。
乾 南陽(いぬい なんよう、明治3年8月13日(1870年9… 乾 南陽(いぬい なんよう、明治3年8月13日(1870年9月8日) - 昭和15年(1940年)6月29日)は日本画家。本名、乾 長光(ながみつ)。 土佐国土佐郡(現:高知県高知市)に土佐藩士の子として生まれ、 東京美術学校日本画科卒業、東台邦画会、日本画官員組乾南陽美術頑張ろうん会会員。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
吉田 信太(よしだ しんた、1870年3月27日(明治3年2… 吉田 信太(よしだ しんた、1870年3月27日(明治3年2月26日) - 1954年12月24日)は、日本の音楽教師、作曲家。宮城県仙台市出身。1894年に東京音楽学校本科師範部卒業。横浜在住時にルドルフ・ディットリヒに師事。 東京音楽学校分教場、広島高等師範学校(1902年 - 1913年)、神奈川県立第一中学校、神奈川県立第三中学校、神奈川県立高等女学校、東京女子高等師範学校などで教鞭を執る。後に、神奈川県視学。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、音楽関係者(バンド等)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:音楽/PJ:芸能人)。
一條 慎三郎(いちじょう しんざぶろう、1870年 - 19… 一條 慎三郎(いちじょう しんざぶろう、1870年 - 1945年)は、日本の音楽教育者。 信濃国松代城下に松代藩士の子として生まれる。東京音楽学校を中途退学し、音楽教師として立教学院や山形師範学校で教鞭を執る。伊沢修二の招聘により台湾に渡り、台湾総督府国民学校助教授のち、台北師範学校教授となる。爾来、台湾独自の唱歌の制作に励行し、「公学校唱歌集」の編纂にあたり、全46曲中15曲を作曲した。また台湾放送協会に台北放送局(JFAK)楽団を設立し、師範学校の学生合唱団を組織し、各地で演奏会を開催した。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
多 梅稚(おおの うめわか、明治2年11月7日(1869年1… 多 梅稚(おおの うめわか、明治2年11月7日(1869年12月9日) - 大正9年(1920年)6月20日)は、日本の音楽教育者、作曲家、チェリスト。 明治2年、宮廷雅楽の家系である多家の次男として京都に生まれる。東京音楽学校へ進み、1892年年に専修部を卒業すると大阪府尋常師範学校(今の大阪教育大学)で教諭として勤務した。その最中の明治33年(1900年)に、作詞家大和田建樹に依頼され『鉄道唱歌』を作曲した。 このとき、大和田建樹は上眞行(「一月一日」などの作者で、この時東京音楽学校講師)にも作曲を依頼しており、上眞行は自分より格が劣るようだった多にも同時依頼したことを不快に思ったといわれるが、結局は勝つ自信があったため引き受けたといわれる。
錦小路 在明(にしきのこうじ ありあき、1869年8月16日… 錦小路 在明(にしきのこうじ ありあき、1869年8月16日〈明治2年7月9日〉 - 1911年〈明治44年〉11月24日)は、明治期の華族。官位は従五位、爵位は子爵。 山城国京都で式部大輔・唐橋在光の四男として生まれる。唐橋在正の弟。東京美術学校(現:東京芸術大学)卒業。明治維新以降、子爵に叙せられた。 1897年、群馬県尋常中学校教諭に就任。1898年、叔父・錦小路賴言の次女益子の入夫、錦小路家の養子となる。同じ年、賴言の死去に伴い、家督を相続する。1899年、東宮職御用掛となる。1900年、東宮主事に就任。 1911年11月24日死去。43歳没。
湯浅 一郎(ゆあさ いちろう、明治元年12月18日〈1869… 湯浅 一郎(ゆあさ いちろう、明治元年12月18日〈1869年1月30日〉 - 昭和6年〈1931年〉2月23日)は、明治・大正・昭和戦前期の日本の洋画家。政治家・湯浅治郎の長男。湯浅八郎は弟。上野国(現・群馬県安中市)出身。 明治元年12月18日(1869年1月30日)、安中で醤油味噌の醸造販売を行う「有田屋」の長男として生まれる。 同郷の新島襄が開校した同志社英学校(現・同志社大学)を明治20年(1887年)に卒業した後、山本芳翠の生巧館画塾で学び、山本芳翠が画塾の経営から身を引くと、それを譲り受けた黒田清輝の天真道場に学んだ。明治29年(1896年)東京美術学校(現・東京藝術大学)に西洋画科が設置されると黒田清輝の推薦を受け3年生に編入し明治31年(1898年)7月卒業。
新納 忠之介(にいろ ちゅうのすけ、明治元年11月25日〈1… 新納 忠之介(にいろ ちゅうのすけ、明治元年11月25日〈1869年1月7日〉 - 1954年〈昭和29年〉4月13日)は、日本の彫刻家。号を古拙。2,631体の仏像等の多くの文化財を修理した。修理前後の写真や書面など詳細な記録を残しており現在の文化財修理の基礎を築いた。 岡倉天心は新納が仏像修復のパイオニアとしての方向性を決定づけた張本人であると言える。生涯にわたって岡倉を師と仰いで恋慕し続けてきた事は、新納に近しい人々の談で知られる所である。そうした運命の鍵となったのが明治34年(1901)から漸次開始された奈良の仏像修理事業である。奈良の修理に先んじて明治30年(1897)、東京美術学校が委託された奥州平泉・中尊寺金色堂の修理事業に新納は参加する。
大村 西崖(おおむら せいがい、明治元年10月12日(186… 大村 西崖(おおむら せいがい、明治元年10月12日(1868年11月25日) - 昭和2年(1927年)3月8日)は、日本の美術史家・美術評論家。幼名は、塩沢峰吉。雅号は、無記庵、など。多数の著書、美術書を刊行した。 駿河国富士郡水戸島村(現在の静岡県富士市)で、塩沢茂三郎の次男として生まれる。庵原郡富士川村岩淵(現・静岡県富士市)の大村桂蔵の養子として、明治25年(1892年)12月19日大村家に入籍。新間雲屏に師事して絵画・彫刻・鑑定を学ぶ。 1893年に東京美術学校彫刻科を卒業(第1回の卒業生であった)後、京都に赴き、教員や雑誌編集者を務める。1896年に母校である東京美術学校の助教授に採用される。
松平 乗長(まつだいら のりなが、1868年11月24日(明… 松平 乗長(まつだいら のりなが、1868年11月24日(明治元年10月11日) - 1928年(昭和3年)1月12日)は、明治から大正期の政治家、華族。貴族院子爵議員。旧姓・鍋島、旧名・賢二郎。 肥前蓮池藩主・鍋島直紀の六男として生まれる。母は鍋島直永の娘・謁女。1896年(明治29年)10月、子爵・松平乗命の養子となる。1897年(明治30年)1月、乗長と改名。養父の死去に伴い、1905年(明治38年)12月13日に子爵を襲爵した。 1898年(明治31年)東京美術学校日本画科を卒業。1915年(大正4年)皇子浴場之儀鳴弦控となる。 1910年(明治43年)8月20日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属して活動し、1925年(大正14年)7月9日まで3期在任した。
横山 大観(よこやま たいかん、旧字体: 橫山 大觀、慶応4… 横山 大観(よこやま たいかん、旧字体: 橫山 大觀、慶応4年/明治元年〈1868年〉9月18日 - 1958年〈昭和33年〉2月26日)は、日本の美術家、日本画家。本名は横山 秀麿(よこやま ひでまろ)。旧姓は酒井(さかい)、幼名は秀蔵、のちに秀松。 常陸国水戸本町(現:茨城県水戸市本町)出身。東京美術学校第1期生として岡倉天心に師事し、日本美術院設立に参加した。日本画の新たな表現を模索し、菱田春草とともに「朦朧体(もうろうたい)」と呼ばれる、線描を抑えた独特の没線描法を生み出した。天心・春草の死後は下村観山とともに日本美術院を再興。彩色画においては朦朧体からさらに琳派の影響を受けた装飾表現へと飛躍を遂げ、水墨画においても独自の表現を確立した。
関 保之助(せき やすのすけ、1868年5月2日〈慶応4年4… 関 保之助(せき やすのすけ、1868年5月2日〈慶応4年4月10日〉 - 1945年〈昭和20年〉5月25日)は、明治から昭和時代にかけての有職故実家。東京帝室博物館学芸委員、重要美術品等調査委員。有職故実、甲冑武器の考証家として著名だった。蒐集家としては東都において小堀鞆音に並ぶ存在として知られた。筆名に波爾和、号に花郷、加和羅廼舎、箙廼舎。 江戸小石川原町(現・文京区)に一橋徳川家臣・関守真の二男として生まれる。幼い頃より古武器を愛好し、歴史画家を志して、明治23年9月に東京美術学校に入学した。同期に横山大観・下村観山らがいた。日本画を学び、明治26年7月、同校の第1回卒業生として専修科絵画科を卒業した。
楠美 恩三郎(くすみ おんざぶろう、1868年4月17日(慶… 楠美 恩三郎(くすみ おんざぶろう、1868年4月17日(慶応4年3月25日) - 1927年(昭和2年)10月8日)は、日本の作曲家、教育者。東京音楽学校(現在の東京芸術大学)教授。青森県弘前市出身。 弘前藩士、楠美晩翠の三男として生まれる。1889年(明治22年)、東京音楽学校師範部を卒業。1902年(明治35年)、東京音楽学校助教授、1910年(明治43年)〜1917年(大正6年)まで同教授として活躍し、日本の音楽教育に貢献した。 また、島崎赤太郎、岡野貞一、南能衛、上真行、小山作之助らとともに、文部省編『尋常小学唱歌』の作曲委員の一人として参加し、『尋常小学読本唱歌』の編纂にもたずさわった。
本多 天城(ほんだ てんじょう、慶応3年7月29日(1867… 本多 天城(ほんだ てんじょう、慶応3年7月29日(1867年8月28日) - 昭和21年(1946年)5月11日)は明治時代から昭和時代にかけての日本画家。 慶応3年(1867年)、深川区山吹町の久世屋敷に生まれる。本名は佑輔。明治13年(1880年)3月から明治18年(1885年)11月までの5年間は近藤勝美に師事して西洋画を学んでおり、明治18年(1885年)3月からは狩野芳崖にも就いて日本画を習得、岡倉秋水、岡不崩、高屋肖哲とともに芳崖門下四天王といわれるまでに研鑽を積んだ。天城はアーネスト・フェノロサ、河瀬秀治らが日本画の発展を考えた鑑画会で学び、特に若年であった秋水、山本松渓とは岡倉天心の住まいに書生として同居、鑑画会グループ一員である剣客榊原鍵吉の道場に通い剣術を学んだりした。
六角 紫水(ろっかく しすい、1867年4月24日(慶応3年… 六角 紫水(ろっかく しすい、1867年4月24日(慶応3年3月20日) - 1950年(昭和25年)4月15日)は、日本の漆工芸家。日本の漆工芸界の草分け。旧姓・藤岡、幼名・仲太郎。のち注多良と改名。 1867年、 広島県佐伯郡大原村(現・江田島市大柿町大原)生まれ。1883年(明治16年)広島師範学校初等師範科(現・広島大学教育学部)を卒業後、母校の小学校で教員を務めたのち上京。東京美術学校(現・東京芸術大学)の一期生として漆工科へ入学。1893年(明治26年)卒業と同時に同校漆芸科助教授に就任し、岡倉天心とともに国内の古美術を研究した。 1898年(明治31年)、岡倉が同校を辞職した際には行動をともにし、日本美術院の創立に参加。
亀岡 末吉(かめおかすえきち、慶応元年11月4日〈1865年… 亀岡 末吉(かめおかすえきち、慶応元年11月4日〈1865年12月21日〉- 1922年〈大正11年〉11月26日)は、日本近代の建築家。従五位。作品は独特の意匠で知られ「亀岡式」と呼ばれる。 慶応元年(1865年)に前橋藩士の子として生まれる。明治維新後は画家を志し、東京美術学校絵画科に入学して日本画の技術を習得。1894年(明治27年)に同校を卒業。1901年(明治34年)からは内務省の古社寺調査に携わり、寺社の修理に従事。1907年(明治40年)には京都府技師となり、平等院鳳凰堂の修理を行った。京都では東福寺の方丈や東本願寺、仁和寺の門など幕末の動乱の中で焼失した建物を再建。1913年(大正2年)には京都府左京区神楽岡(吉田山 (京都市))に自邸を建築。
納所 弁次郎(のうしょ べんじろう、慶応元年9月24日(18… 納所 弁次郎(のうしょ べんじろう、慶応元年9月24日(1865年11月12日)- 昭和11年(1936年)5月11日)は、日本の作曲家、音楽教育家。「兎と亀」「おつきさま」「さるかに」「ももたろう」などの童謡や唱歌、日露戦争の事績を謳った軍歌などの作曲者として知られる。 幕臣納所重兵衛の四男、六人兄姉の末っ子として江戸の築地に生まれた。1880年(明治13年)頃、築地の東京一致英和学校(現在の明治学院大学)に入学。1883年(明治16年)2月に音楽取調掛に伝習生として入学。ピアノを鳥居忱、瓜生繁子、ギヨーム・ソーヴレーに、唱歌を上真行に学んだ。またこれ以前にヴィオラをフランツ・エッケルトから習っていたこともある。
戸田 忠義(とだ ただよし、元治元年8月1日〈1864年9月… 戸田 忠義(とだ ただよし、元治元年8月1日〈1864年9月1日〉 - 1915年〈大正4年〉4月15日)は、明治期の政治家、尋常小学校教員、華族。貴族院子爵議員。 下野宇都宮藩一門重臣・戸田忠至の嫡男戸田忠綱の長男として生まれる。忠義の出生当時、祖父の忠至はすでに大名格であったが、2年後の慶応2年(1866年)に分知を受けて支藩下野高徳藩主となった。父の忠綱もその跡を継いで明治2年(1869年)に高徳藩知事、のち曾我野藩知事となった。 父の隠居に伴い、1882年(明治15年)6月29日に家督を相続する。1884年(明治17年)7月8日、子爵を叙爵した。 1883年(明治16年)宮中賢所勤番に就任する。
釼持(剣持)忠四郎(けんもち ちゅうしろう、1864年9月2… 釼持(剣持)忠四郎(けんもち ちゅうしろう、1864年9月24日(元治元年8月24日) - 1909年(明治42年)10月1日)は、明治時代の教育者。 岡倉天心(覚三)の腹心として、東京美術学校(現在の東京芸術大学)の運営や、日本美術院の創設に深く関わった。 武蔵国榛沢郡新会村(現・埼玉県深谷市)出身。1883年(明治10年)に陸軍に入隊、1885年(明治18年)9月に体操の研究のため陸軍戸山学校体操科に入学し、同年に卒業。近衛兵も務め[要出典]、1889年(明治22年)に退役。 1890年(明治23年)7月から1898年(明治31年)4月まで東京美術学校に勤務した。同校では体育を教授したほか、教務や助教授を務め、校長であった岡倉天心の秘書的役割も担った。
山田 鬼斎(やまだ きさい、1864年6月9日(元治元年5月… 山田 鬼斎(やまだ きさい、1864年6月9日(元治元年5月6日) - 1901年(明治34年)2月20日)は、日本の彫刻家である。鬼斎は号で本名は常吉。 越前の坂井郡(現在の福井県坂井市)に生まれる。実父は仏師であった事より、幼少の頃から彫刻を学んだ。明治維新後の1886年(明治19年)に同郷であった岡倉天心に同行して上京し、その後は天心と共に奈良にて寺院や神社に祀られている古仏の研究や宝物の調査に携わる。 後に高村光雲の助手となり、1890年(明治23年)には東京美術学校(現在の東京芸術大学)に雇われ1896年(明治29年)には同校の教授となり、彫刻の教鞭を執る。この頃に『平治物語』等、日本の歴史的な出来事をテーマにした同国の伝統彫刻の技を用いた西洋風の彫刻作品を制作し、1893年(明治26年)に開催されたシカゴ万国博覧会では鬼斎の作品が出品された。
小山 作之助(こやま さくのすけ、文久3年12月11日(18… 小山 作之助(こやま さくのすけ、文久3年12月11日(1864年1月19日) - 昭和2年(1927年)6月27日)は、日本の教育者・作曲家。日本教育音楽協会初代会長。 文久3年12月11日(1864年1月19日)越後国頸城郡潟町村(現在の上越市大潟区潟町)に生まれる。16歳で小学校を卒業した後、石油事業をしていた父の仕事を手伝うため高田町(のちの高田市、現在の上越市)へ移り住み、夜は漢学塾に通う生活をしていた。 1880年(明治13年)家人に無断で上京、大学予備門を経て築地大学(現在の明治学院大学)へ入学する。英語と数学を学び1883年(明治16年)2月、文部省音楽取調所に入学し、伊沢修二に師事。
MALLIKA(まりか、12月13日 - )は、日本のヴァイ… MALLIKA(まりか、12月13日 - )は、日本のヴァイオリニスト、シンガーソングライター。 東京芸術大学音楽学部附属音楽高等学校から東京芸術大学に進み、演奏・歌唱・作詞・作曲・編曲などを全て手がけるマルチアーティスト。YouTubeでは歌い、踊りながらヴァイオリンを演奏するパフォーマーとして注目を集める。 この項目は、音楽家(演奏者・作詞家・作曲家・編曲家・バンドなど)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:音楽/PJ:音楽)。
石丸 由佳(いしまる ゆか、12月7日 - )は、日本のオル… 石丸 由佳(いしまる ゆか、12月7日 - )は、日本のオルガン奏者。 新潟市民芸術文化会館(りゅーとぴあ)の4代目専属オルガニスト。所沢市民文化センターミューズ第5代ホールオルガニスト。所属事務所はpromax inc.promax。 東京藝術大学器楽科オルガン専攻卒業、同大学院修士課程修了。安宅賞、アカンサス音楽賞、同声会賞、及び大学院アカンサス音楽賞受賞。 デンマーク王立音楽院、及びドイツ国立シュトゥットガルト音楽大学にてソリストディプロマ取得。 オルガンを廣野嗣雄、廣江理枝、ハンス・ファギウス、ルドガー・ローマン、チェンバロを大塚直哉、鈴木雅明らに師事。 2010年シャルトル国際オルガンコンクールで優勝、併せてJ.アラン賞受賞。
吉木 絵里子(よしき えりこ、11月13日 - )は、日本の… 吉木 絵里子(よしき えりこ、11月13日 - )は、日本の作曲家、編曲家、作詞家。La Gauno所属。 東京芸術大学音楽学部器楽科バイオリン専攻を卒業。 ZAIN PRODUCTS所属を経て現在はLa Gaunoに所属している。
赤池 優(あかいけ ゆう、10月18日生)は、日本の声楽家。… 赤池 優(あかいけ ゆう、10月18日生)は、日本の声楽家。ソプラノ歌手。熊本県熊本市出身。東京藝術大学音楽学部声楽科卒業。日本声楽アカデミー会員。日本声楽家協会 声楽講師。2018年から平成音楽大学講師。2025年4月から平成音楽大学教授。
千葉 清加(ちば さやか、10月15日生)は、日本のヴァイオ… 千葉 清加(ちば さやか、10月15日生)は、日本のヴァイオリニスト。千葉県出身。 東京芸術大学音楽学部附属音楽高等学校を経て東京芸術大学卒業。芸大内にて安宅賞を受賞。清水高師、ジェラール・プーレに師事。また室内楽を岡山潔、山崎伸子に師事。
山口 つばさ(やまぐち つばさ、6月26日 - ) は、日本… 山口 つばさ(やまぐち つばさ、6月26日 - ) は、日本の女性漫画家。 東京都出身。都立芸術高校、東京藝術大学卒。大学卒業後、アフタヌーン四季賞2014年夏で佳作を受賞。2019年に結婚。2020年に第44回講談社漫画賞総合部門を受賞。 この項目は、漫画家・漫画原作者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:漫画/PJ漫画家)。
村澤 丈児(むらさわ じょうじ、5月14日 - )は、日本の… 村澤 丈児(むらさわ じょうじ、5月14日 - )は、日本の和楽器演奏家、作曲家。イタリア出身、福島県郡山市在住。 ニックネームは「和楽器マルチプレーヤー」。 東京藝術大学音楽学部附属音楽高等学校邦楽科生田流筝曲専攻卒業。同大学卒業。安宅賞受賞、青山財団奨学生に選抜される。 卒業時、アカンサス音楽賞受賞、皇居内桃華楽堂にて御前演奏を務める。 同大学大学院音楽研究科修士課程修了。 大学院アカンサス音楽賞受賞。同大学大学院音楽研究科博士後期課程修了。 宅地建物取引士・行政書士試験に続き、社会保険労務士試験も一回で合格 ドイツ各地にて演奏。
奈良 希愛(なら きあい、5月4日 - )は、日本のピアニス… 奈良 希愛(なら きあい、5月4日 - )は、日本のピアニスト。国立音楽大学音楽学部ピアノ科准教授。