広瀬 久政(ひろせ ひさまさ、1865年3月13日(慶應元年… 広瀬 久政(ひろせ ひさまさ、1865年3月13日(慶應元年2月16日) - 1939年(昭和14年)9月28日)は、日本の政治家、山梨県の名望家。衆議院議員(3期、立憲政友会)。 甲斐国山梨郡下於曽村(現在の甲州市)に広瀬久光の長男として生まれる。和仏法律学校(現・法政大学)で学び、1889年(明治22年)7月に七里村会議員、東山梨郡会書記、1891年(明治24年)8月に東山梨郡会議員、同会参事会員、1892年(明治25年)1月に山梨県会議員となり、1902年(明治35年)8月に第7回衆議院議員総選挙に出馬し当選する(以後3期連続当選)。 また、甲斐新聞主筆、七里銀行取締役を務める。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
夏井 保四郎(なつい やすしろう、1864年10月19日(元… 夏井 保四郎(なつい やすしろう、1864年10月19日(元治元年9月19日)- 1933年(昭和8年)5月4日)は、日本の政治家、弁護士、実業家。衆議院議員(立憲政友会)、松山電気軌道・海南新聞社社長。 1864年(元治元年9月)、伊予国温泉郡坂本村(久谷村を経て現松山市)で正岡権平の三男に生まれる。1884年(明治17年)に愛媛県師範学校を卒業し、小学校に訓導として勤める。その後、上京し明治法律学校に入学するも、和仏法律学校(現・法政大学)に転じ1889年(明治22年)に卒業する。1890年(明治23年)に代言人試験に合格し、大阪で開業する。 1896年(明治29年)に帰郷し、松山市で開業する。
中鉢 美明(ちゅうばち よしあき、1864年3月8日(元治元… 中鉢 美明(ちゅうばち よしあき、1864年3月8日(元治元年2月1日) - 1936年(昭和11年)9月26日)は、日本の政治家、弁護士。衆議院議員、東京市助役。 1864年(元治元年)2月、陸奥国(後の宮城県)に仙台藩士浅井利兵衛の二男として生まれ、1967年(明治元年)に仙台藩士中鉢鐵三郞の養子となる。1890年(明治23年)に和仏法律学校(現・法政大学)を卒業する。 芝区会議員、東京市会議員、同参事会員などを経て、1902年(明治35年)、第7回衆議院議員総選挙に出馬し、当選する(立憲政友会)。 1903年(明治36年)に東京市助役に就任する。また、市区改正委員、不動貯蓄銀行監査役などを務める。
野上 嘉平(のがみ かへい、1863年9月4日〈文久3年7月… 野上 嘉平(のがみ かへい、1863年9月4日〈文久3年7月22日〉 - 1913年〈大正2年〉10月3日)は日本の政治家、実業家。衆議院議員(憲政本党)。勲等は勲四等。 淡路国三原郡賀集村(現・南あわじ市)に生まれる。東京法学校(現・法政大学)で学んだ後、賀集村会議員、三原郡町村組合会議員などを務める。1892年(明治25年)2月、兵庫県会議員に三原郡選出で当選した。その後、再選した。1894年(明治27年)5月25日に賀集村長に就任した。1896年(明治29年)10月1日、府県制施行に伴い、県議を失職した。同月20日に村長を退任した。また、同年当選期の三原郡会議員に補欠当選して、1899年(明治32年)まで務めている。
小川 三千三(おがわ みちぞう、1863年3月29日(文久3… 小川 三千三(おがわ みちぞう、1863年3月29日(文久3年2月11日) - 1899年(明治32年)5月12日)は、日本の明治期の弁護士、政治家。東京市会議員、日本橋区会議長。 1863年3月29日(文久3年2月11日)、江戸日本橋馬喰町郡代に生まれる。海保竹渓に漢学を学び、1875年(明治8年)に東京外語学校(現・東京外国語大学)に入り、英語を修学、大学予備門を経て、1877年(明治10年)に東京大学医学部に入る。しかし、我医を以って名を成すに足らずと大学を退き、1880年(明治13年)に東京法学校(現・法政大学)に入り、フランス法学を修める。1882年(明治15年)に立憲改進党に入党し、1884年(明治17年)に代言人試験に合格する。
横山 富次郎(よこやま とみじろう、1863年(文久3年2月… 横山 富次郎(よこやま とみじろう、1863年(文久3年2月) - 1936年(昭和11年)3月21日)は日本の政治家、実業家。衆議院議員(政友会)。 1863年(文久3年2月)、江戸日本橋に呉服木綿問屋横山五兵衛の第三子として生まれる。中江篤介の仏学塾などで学んだ後、1888年(明治21年)に東京仏学校(現・法政大学)を卒業する。家業に従事しながら、1897年(明治30年)に貿易会社大和商会を興し、経営する。 1891年(明治24年)に日本橋区会議員、1892年(明治25年)に東京府会議員、1893年(明治26年)に東京市会議員、1898年(明治31年)に第6回衆議院議員総選挙(東京府第4区)に当選する。
木戸 豊吉(きど とよきち、文久2年8月24日(1862年9… 木戸 豊吉(きど とよきち、文久2年8月24日(1862年9月17日) - 昭和2年(1927年)3月15日)は日本の政治家。衆議院議員、京都府会議長。 1862年(文久2年)8月に丹波国上胡麻村(現京都府南丹市)に生まれる。京都府師範学校を卒業後、上京し、1890年(明治23年)に和仏法律学校(現法政大学)を卒業する。 帰郷後、胡麻郷村村長に就任し、1910年(明治43年)10月に第10回衆議院議員総選挙補欠選挙に出馬し当選する。 衆議院議員の任期満了後、京都府会議員、同議長を務め、1921年(大正10年)に京都府知事若林賚蔵と対立し退任する。 その後、1924年(大正13年)に第15回衆議院議員総選挙に出馬し当選する。
野木 善三郎(のぎ ぜんざぶろう、1861年8月2日(文久元… 野木 善三郎(のぎ ぜんざぶろう、1861年8月2日(文久元年6月26日) - 1918年(大正7年)3月28日)は日本の政治家、公証人。衆議院議員(2期、憲政本党)。 1861年(文久元年)6月、陸奥国西白河郡滑津村(現中島村)にて生まれる。1878年(明治11年)に福島県師範学校(福島大学の前身校の一つ)を卒業する。小学校の教員として勤めたのち、東京法学校(現・法政大学)に学び、公証人となる。戸長、学務委員、福島県会議員などを経て、1903年(明治36年)に第8回衆議院議員総選挙に出馬し、当選する(連続2期当選)。また、農業を営み、福島新聞社主を務めた。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
守屋 此助 (もりや このすけ、1861年6月13日(文久元… 守屋 此助 (もりや このすけ、1861年6月13日(文久元年5月6日) - 1931年(昭和6年)6月9日)は、日本の政治家、弁護士。衆議院議員、横浜市会議長、神中鉄道(現在の相模鉄道)社長。 1861年(文久1年5月6日)、備中国小田郡にて生まれる。東京法学校(現・法政大学)を卒業後、横浜市で弁護士を開業する。 1894年(明治27年)に第3回衆議院議員総選挙に当選する(以後当選8回、憲政会)。 1906年(明治39年)から横浜市子安町地先の海面埋め立て事業をおこない(後の守屋町)、1921年(大正10年)に横浜市会議長に就任する(-1922年(大正11年))。東京電車鉄道の監査役、京浜電気鉄道の取締役となり、また、興亜起業取締役会長、平沼製糸社長、神中鉄道、山東起業、満州製麻、青島電気、横浜桟橋倉庫の取締役、平沼製材の社長、日本火薬製造、火薬鉱業、東亜勧業の各監査役、膠奥電気股份有限公司の副董事長、法政大学理事などを歴任した。
後藤 文一郎(ごとう ぶんいちろう、1861年5月23日(文… 後藤 文一郎(ごとう ぶんいちろう、1861年5月23日(文久元年4月14日) - 1928年(昭和3年)9月29日)は、日本の政治家、弁護士。衆議院議員(4期)。 1861年(文久元年4月14日)、三河国碧海郡知立村(現・愛知県知立市)に生まれる。石川部平の青藍塾(漢学)に学んだ後、明法学社、茂松法学校、東京法学校(現・法政大学)で学ぶ。 1882年(明治15年)に代言人試験に合格し、愛知県岡崎町(現・愛知県岡崎市)で開業する。1890年(明治23年)に愛知県会議員に当選するも、衆議院議総選挙に出馬するため、1892年(明治25年)に県会議員を辞職する。 1892年(明治25年)2月、第2回衆議院議員総選挙に自由党候補として出馬するが、落選する。
奥村 七郎(おくむら ひちろう、1861年4月18日(文久元… 奥村 七郎(おくむら ひちろう、1861年4月18日(文久元年3月9日) - 1922年(大正11年)1月21日)は、日本の政治家、実業家。衆議院議員(憲政会)、博多米穀取引所理事長、博多商業会議所会頭。 1861年(文久元年3月)、筑前国遠賀郡浅木村(現福岡県遠賀郡遠賀町)に生まれる。東京法学校(現・法政大学、明治23年)、英吉利法律学校、明治法律学校を卒業し、弁護士となる。福岡市会議員、同市参事会員を経て、第12回衆議院議員総選挙に出馬し、当選する。 また、博多米穀取引所理事長、博多商業会議所会頭、博多電灯(後の九州電灯鉄道)・九州生命保険・鎮西倉庫各社の取締役、第十七銀行監査役などを務めた。
中安 信三郎(なかやす しんざぶろう、1860年9月7日(万… 中安 信三郎(なかやす しんざぶろう、1860年9月7日(万延元年7月22日)- 1932年(昭和7年)10月27日)は、日本の政治家。衆議院議員、大日本国粋会・第2代会長。旧姓は小林。 1860年(万延1年7月)に丹波国南桑田郡にて生まれる。和仏法律学校(現・法政大学)を卒業する。 京都市会議員・参事会員、京都府会議員などを経て、1908年(明治41年)に第10回衆議院議員総選挙に当選する(以後2期当選、立憲同志会)。 1919年(大正8年)に大日本国粋会の設立に参加し、理事長に就任し、1929年(昭和4年)に会長に就任する。 1932年(昭和7年)10月27日に死去、72歳。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
矢島 浦太郎(やじま うらたろう、1860年3月4日(安政7… 矢島 浦太郎(やじま うらたろう、1860年3月4日(安政7年2月12日) - 1917年(大正6年)10月17日)は日本の政治家、弁護士。衆議院議員(5期、立憲同志会)。 信濃国水内郡善光寺町字岩石町(現長野市)に生まれる。長野県師範学校を卒業し、東京法学校(現・法政大学)で法律学を修める。長野日日新聞記者を経て、弁護士の業務に従事し、長野町会議員、上水内郡会議員、長野市会議員、同参事会員、長野県議会議員を経て、1903年(明治36年)に第8回衆議院議員総選挙に出馬し、当選する。以後連続5期当選する。 また、湊鉄道・産業銀行・東京生命各取締役、茨城炭礦監査役などを歴任する。1917年(大正6年)に死去。
南波 三五郎(なんば さんごろう、1860年〈万延元年2月〉… 南波 三五郎(なんば さんごろう、1860年〈万延元年2月〉 - 1941年〈昭和16年〉4月28日)は日本の政治家、公証人。衆議院議員(立憲自由党)。旧姓は田辺。 1860年(万延元年2月)、安芸国豊田郡船木村(現在の広島県三原市)に生まれる。大阪北区にあった太田北山の成章館に入り、儒学を研究し、塾頭となる。1886年(明治19年)に東京法学校(現・法政大学)を卒業し、家業の酒造業に従事、のち、公証人となり公証業務に従事する。また、経世詩社を創立し、経営する。 1890年(明治23年)、第1回衆議院議員総選挙に広島6区から出馬し、当選する。 その後、第2回から第4回総選挙にも立候補したが、いずれも落選している。
野出 鋿三郎(のいで しょうざぶろう、1859年7月10日(… 野出 鋿三郎(のいで しょうざぶろう、1859年7月10日(安政6年6月11日) - 1915年(大正4年)2月23日)は、日本の政治家、弁護士。衆議院議員(2期、立憲革新党)。 1859年(安政6年)、出羽国由利郡本荘町(現由利本荘市)に生まれる。東京法学校(現・法政大学)で学んだのち、代言人業に従事する。1892年(明治25年)に第2回衆議院議員総選挙に出馬し、当選する(連続2期当選)。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
紀藤 織文(きとう おりぶみ、1858年8月22日〈安政5年… 紀藤 織文(きとう おりぶみ、1858年8月22日〈安政5年7月14日〉 - 1947年〈昭和22年〉8月17日)は、日本の政治家、実業家。 1858年、長州藩の永代家老福原家の家臣の家に生まれる。 父は紀藤海蔵、兄に紀藤宗介(後の宇部共同義会初代会長)、紀藤礼蔵らがおり、1878年(明治11年)に家督を相続し、前名の織人から織文に改名した。 長じて和仏法律学校に入学して法律学を修め、郷土の民政に参与した。1898年(明治31年)6月から1902年(明治35年)6月まで宇部村長を務めた。そのほか、厚狭郡会議員、山口県会議員などに選ばれ、地方政治に貢献した。一転して宇部村の実業が盛んとなったものの、殖産興業に必要な銀行がないことに憤りを感じ、1912年(明治45年)に宇部銀行を設立し、その初代取締役頭取に就任した。
山田 東次(やまだ とうじ、安政5年6月21日(1858年7… 山田 東次(やまだ とうじ、安政5年6月21日(1858年7月31日) - 明治32年(1899年)12月18日)は明治期の政治家、法学者、教育者。衆議院議員、法典調査会委員、和仏法律学校(現法政大学)理事。 東京法学校卒業後、同校主幹の薩埵正邦の助手として法学教育に携わり、高崎法律学校(1886年(明治19年)開校)に薩埵と毎週交代で出講している。 また、中央法学会において法律雑誌を出版し、法学の啓蒙・教育活動に努めている。 その後、自由党系衆議院議員として活躍し、法典調査会委員に私立法律学校出身者として唯一人就任している。 民法典論争では断行派に立ち、宮城浩蔵・小笠原貞信らとともに「民法中一部延期ニ関スル法律案」を提出し、延期派に対して最後の抵抗を示している。
三谷 軌秀(みたに のりひで、1858年2月18日(安政5年… 三谷 軌秀(みたに のりひで、1858年2月18日(安政5年1月5日) - 1934年(昭和9年)3月8日)は、日本の政治家、実業家。衆議院議員。幼名は五市。 1858年2月18日(安政5年1月5日)、土佐国長岡郡粟生村(現在の高知県大豊町)に生まれる。1886年(明治19年)に東京法学校(現在の法政大学)を卒業する。 1887年(明治20年)に公証人試験に合格するが、同年保安条例に触れ、三里以外の地に退去を命じられる。 1889年(明治22年)に大阪で公証人となり、1891年(明治24年)に大阪商業会議所の特別会員となる。 1893年(明治26年)に片岡直温らとともに帝國物産を設立し、その顧問に就任し、1894年(明治27年)に日本時計製造の設立に参加し、その監査役に就任する。
土方 千種(ひじかた ちくさ、安政4年2月7日(1857年3… 土方 千種(ひじかた ちくさ、安政4年2月7日(1857年3月2日) - 大正10年(1921年)5月14日)は日本の政治家、法律家。衆議院議員(1期、立憲国民党)。 1857年(安政4年)2月7日、江戸麹町に生まれる。東京法学校(現在の法政大学)で学んだ後、1887年(明治20年)に判事試験に合格する。久留米区裁判所、福岡地方裁判所、小倉区裁判所等で判事として勤務し、1897年(明治30年)に退官し、小倉市で弁護士を開業する。 1912年(明治45年)、第11回衆議院議員総選挙に出馬し、当選する。1921年(大正10年)5月14日に死去。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
岡部 政太郎(おかべ まさたろう、1855年2月9日(安政元… 岡部 政太郎(おかべ まさたろう、1855年2月9日(安政元年12月23日)- 1934年(昭和9年)12月2日)は、明治から昭和前期の実業家、政治家。衆議院議員。 肥前国彼杵郡、現在の長崎県長崎市古町で、代々の呉服商の家に生まれた。明治の初め東浜町(現浜町)に転居し呉服商を営む。1910年(明治43年)に和仏法律学校(現法政大学)を卒業する 。1934年(昭和9年)岡政百貨店を開業した。その他、長崎市商業会議所特別議員、長崎市呉服商組合副取締などを務めた。 日露戦争時には、長崎市奉公会の設立に参画し会計監督となった。1905年(明治38年)所得税調査委員となり4期在任。1907年(明治40年)9月、長崎県会議員に選出された。
篠崎 豊彦(しのざき とよひこ、1853年11月3日(嘉永6… 篠崎 豊彦(しのざき とよひこ、1853年11月3日(嘉永6年10月3日) - 1939年(昭和14年)5月23日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 福岡県鞍手郡吉川村大字犬鳴(現・福岡県宮若市大字犬鳴)出身。父親は福岡藩御譜代組足軽兼犬鳴谷村庄屋。1878年、福岡県師範学校卒。1889年、東京法学校卒。小学校と中学校の教員となり、若松築港(株)取締役、第八十七銀行整理員を務める。日露戦争に参加、戦後、現地に止まり、大連で貸家業を営み、衛生組合副組長となる。のち帰国して亀川町(現・別府市)長となり、農業に従事した。 1931年、高橋欽哉の失職に伴う大分2区の再選挙で立憲民政党から立候補して当選した。
古賀 庸蔵(こが ようぞう、1853年3月10日(嘉永6年2… 古賀 庸蔵(こが ようぞう、1853年3月10日(嘉永6年2月1日) - 1935年(昭和10年)8月2日)は、日本の弁護士、政治家、衆議院議員(2期)。 福岡県出身。和仏法律学校卒。福岡県警部、企救郡参事会員、弁護士となり、小倉市会議員、同議長、福岡県会議員となる。また、扶桑海産会社、豊川炭坑(株)各社長、田川銀行取締役を務めた。 1904年の第9回衆議院議員総選挙において小倉市選挙区から立憲政友会公認で立候補して当選した。1908年の第10回衆議院議員総選挙でも再選。1912年の第11回衆議院議員総選挙で落選した。1935年に死去した。
遠山 景三(とおやま かげぞう、1852年(嘉永5年) - … 遠山 景三(とおやま かげぞう、1852年(嘉永5年) - 1922年(大正11年))は、日本の政治家。青森県八戸町長。 八戸城下に生まれる。藩学校に学んだ後に、東京の小川町にあった東京法学校(現在の法政大学)に学び、八戸に帰郷した。 1893年(明治26年)から1907年(明治40年)まで八戸町長を務める。1911年(明治44年)には青森県会副議長、1919年(大正8年)に青森県会議長となる。八戸町長の座を北村益に譲った後も強い影響力を持っていた。 八戸町長時代は時鐘を偶数時に鳴らし、町民に時を知らせていたといわれる。 県会議長時代には県会議員の人員改正、工業試験費などの予算を可決している。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
吉田 正雄 は、日本の政治家。衆議院議員(1期)、参議院議員… 吉田 正雄 は、日本の政治家。衆議院議員(1期)、参議院議員(1期)
長友 克洋 は、日本の政治家。
章 士釗(しょう ししょう)は中華民国の政治家・革命家・教育… 章 士釗(しょう ししょう)は中華民国の政治家・革命家・教育者・ジャーナリスト。清末は華興会に属する。北京政府で教育総長などの要職についた。字は行巖。筆名は黄中黄、爛柯山人、弧桐、青桐、秋桐など。 1901年(光緒27年)、武昌の両湖書院で学ぶ。その後、朱啓鈐の塾で教師の1人となった。翌年、南京陸軍学堂で軍事を学び、上海愛国学社に加入する。1903年(光緒29年)5月、上海で『蘇報』の編修となり、冬には、黄興らと華興会を組織した。 1905年(光緒31年)、章士釗は日本へ渡り、正則学校で英文を学び、法政大学法政速成科に入学する。1908年(光緒34年)、エディンバラ大学に留学して、法律・政治を学んだ。
龍円 愛梨 は、日本の政治家。都民ファーストの会所属の東京都… 龍円 愛梨 は、日本の政治家。都民ファーストの会所属の東京都議会議員(3期)。テレビ朝日の元アナウンサー。議員登録名は、龍円 あいり。
王 九齢(おう きゅうれい)は、中華民国の政治家。雲南派に属… 王 九齢(おう きゅうれい)は、中華民国の政治家。雲南派に属する。字は竹村、夢菊。 清末に日本に留学し、法政大学を卒業した。このときに雲南留日学生総監を務め、また、中国同盟会に加入している。1911年(宣統3年)9月末に、蔡鍔・唐継尭らによる昆明重九起義(雲南辛亥革命)に参加した。雲南軍政府が成立した後には、民事を担当した。1913年(民国2年)、王は雲南督軍署秘書に任命された。これ以後、唐継尭の配下となる。護法運動が開始されると、靖国聯軍総司令部軍法処長に任じられた。1921年(民国10年)、雲南陸軍軍法科科長となり、1923年(民国12年)、雲南財政司司長に昇進した。 1924年(民国11月)、段祺瑞が臨時執政として復権したことを受けて、王九齢は北京に赴く。
郭 宗熙(かく そうき)は中華民国・満州国の政治家。北京政府… 郭 宗熙(かく そうき)は中華民国・満州国の政治家。北京政府・奉天派の政治家で、後に満州国に参加している。字は桐柏、詗柏。 清の進士。日本に留学し、法政大学を卒業した。帰国後に翰林院庶吉士となる。さらに長沙府中学堂監督、奉天森林学堂監督、琿春副都統署理、吉林東南路兵備道、同西北路兵備道、浜江道監督を歴任した。 中華民国成立後の1913年(民国2年)1月、吉林提学使に任命され、まもなく同省教育司司長に改めて任ぜられた。翌年7月、吉長道尹に異動する。1916年(民国5年)4月、護理吉林巡按使となる。翌年11月、正式に巡按使に任ぜられた。1919年(民国8年)10月、罷免され、いったん天津に隠居する。
古 応芬(こ おうふん)は、清末民初の政治家・革命家。清末は… 古 応芬(こ おうふん)は、清末民初の政治家・革命家。清末は革命派、民国時代は、中国国民党・国民政府に属した。国民党内では、国民党右派の立場であった。字は勷勤、湘芹。 富裕な家庭に生まれ、1902年(光緒28年)、秀才となる。1904年(光緒30年)、両広総督岑春煊から派遣される形で、胡漢民、汪兆銘らとともに日本へ留学する。翌1905年秋、胡・汪らとともに中国同盟会に加入した。1906年(光緒32年・明治39年)6月、法政大学法政速成科第二班を卒業した。なお、同期には胡・汪の他に李文範や張一鵬、孫潤宇らがいる。その後更に、同大学専門部で学んだ。1907年(光緒33年)、学業を完了して帰国すると、広東法政学堂で教鞭をとる。
鄭 謙(てい けん)は中華民国の政治家、軍人。北京政府、奉天… 鄭 謙(てい けん)は中華民国の政治家、軍人。北京政府、奉天派で事務方をつとめた人物である。字は鳴之。 日本に留学し、法政大学を卒業した。その後、雲貴総督署参事、憲政籌備処参事、安徽国税庁籌備処坐弁、皖北税務局局長を歴任した。 1917年(民国6年)6月、黒竜江督署秘書長に就任する。同年11月、同省政務庁庁長に異動した。1920年(民国9年)、北京政府陸軍部参事に任命される。1922年(民国11年)、奉天派の張作霖の下で東三省保安司令部秘書長となった。 1925年(民国14年)2月、江蘇省省長に任命され、8月に一時的に江蘇督弁を兼任した。まもなく、楊宇霆が江蘇督弁となり、鄭謙は省長専任となっている。
李 文範(り ぶんはん)は、中華民国の政治家。中国同盟会、中… 李 文範(り ぶんはん)は、中華民国の政治家。中国同盟会、中国国民党(国民政府)に属し、胡漢民の側近でもあった。字は君佩。 1900年(光緒26年)、自費で日本に留学する。1905年(光緒31年)、東京で中国同盟会に加入した。1906年(光緒32年・明治39年)6月に法政大学法政速成科第二班を優等生として卒業。なお、同期には同じく優等生として卒業した汪兆銘(汪精衛)の他に胡漢民や古応芬、張一鵬、孫潤宇らがいる。帰国後、公立広東法政学堂で教員兼翻訳(通訳)となった。翌年、広東省同盟会会長となる。清末の同盟会の蜂起にも参加した。 1912年(民国元年)、広東省海軍軍務処秘書長兼都督府参議となる。翌年から袁世凱打倒の活動に従事し、二次革命(第二革命)や護国戦争(第三革命)にも参加した。
劉 蕃(りゅう はん、繁体字: 劉蕃; 簡体字: 刘蕃; 拼… 劉 蕃(りゅう はん、繁体字: 劉蕃; 簡体字: 刘蕃; 拼音: Liú Fān; ウェード式: Liu Fan)は、清末・中華民国の政治家・司法官。字は季衍。 日本に留学し、1905年(光緒31年・明治38年)、法政大学法政速成科第一班を卒業した。その後更に同大学専門部法律科で学ぶ。帰国後は民政部七品小京官に任ぜられた。中華民国成立後の1912年(民国元年)9月、総検察庁総検察長羅文幹の辞任を受け、1915年(民国4年)11月まで劉蕃が同職を署理した。1916年(民国5年)10月、交通部航政司司長に任ぜられ、翌1917年(民国6年)7月まで務めている。その後、司法部首席秘書、安徽省広徳県知事、同省繁昌県知事、直隷省大興県県長を歴任した。