中村 税(なかむら みつぐ、明治9年(1876年)8月8日 … 中村 税(なかむら みつぐ、明治9年(1876年)8月8日 - 昭和40年(1965年)11月26日)は、日本の実業家。元小松製作所代表取締役社長。俳優の中村伸郎は養子。 宮城県遠田郡涌谷町出身。1902年東京高等商業学校(現一橋大学)を卒業し、日本郵船に入社。日本郵船ロンドン支店長、猪苗代水力電気調度課長、東京電燈役員などを経て、戦後恐慌下で経営再建にあたるため、小松製作所專務取締役に招聘され、1934年から小松製作所社長。1946年から小松製作所会長。 俳優の中村伸郎は養子。
井上 徳治郎(いのうえ とくじろう、1876年6月 - 没年… 井上 徳治郎(いのうえ とくじろう、1876年6月 - 没年不明)は、澁澤倉庫取締役。麻布銀行、武蔵銀行協議役。 岩手県人井上覚兵衛の長男として1876年6月に生まれ、1903年に家督を相続する。1897年、東京高等師範学校(現・一橋大学)を卒業後、第一銀行に入行。銀行時代は、本店及び神戸、名古屋、兵庫、四日市各支店を歴任し、営業部次長より兜町支店長に転じ退任する。退任後は、澁澤倉庫取締役、麻布銀行、武蔵銀行協議役を務めた。
有吉 明(ありよし あきら、1876年〈明治9年〉4月15日… 有吉 明(ありよし あきら、1876年〈明治9年〉4月15日 - 1937年〈昭和12年〉6月25日)は、明治、大正、昭和前期の外交官。国際連盟設立メンバー。上海総領事、スイス公使、ブラジル大使、中華民国公使を経て、大使館昇格に伴い初代駐中華民国大使となる。対中国外交に尽力、軍部の中国侵略に抵抗。 京都府丹後国与謝郡宮津町(現:宮津市)出身。 父は宮津藩藩士・京都留守居役・郡長の有吉三七。 1899年(明治32年)に東京高等商業学校(一橋大学の前身)を卒業し、外務省入省。駐ブラジル大使として日本人のアマゾナス州進出を支援。 国際連盟設立メンバーの1人で、第2回から第4回までの国際連盟総会で日本代表を務めた。
大森 兵蔵(おおもり ひょうぞう、1876年(明治9年)3月… 大森 兵蔵(おおもり ひょうぞう、1876年(明治9年)3月14日 - 1913年(大正2年)1月15日)は、YMCA体育教授。岡山県出身。バスケットボールとバレーボールを日本に初めて紹介した人物である。日本初のオリンピックチーム監督。 岡山県上道郡高島村(現在の岡山市中区)の素封家大森家に生まれる。 東京高等商業学校(現一橋大学)を卒業後、明治34(1901)年に渡米し、スタンフォード大学経済学部を経て、1905年からマサチューセッツ州スプリングフィールドにある国際YMCAトレーニングスクール(キリスト教布教のための指導者養成学校。現スプリングフィールド大学(英語版))で学んだ。当時米国は植民支配の新手法としてスポーツの利用を考えており、異教徒大量改宗を欲する英米仏のキリスト教会の熱心な活動を背景に、YMCAは英米スポーツをアジアに導入する主機関となり、1889年にはその第一号として日本YMCAが設立されていた。
藤堂 大蔵(とうどう たいぞう、1876年3月13日 - 没… 藤堂 大蔵(とうどう たいぞう、1876年3月13日 - 没年不詳)は、長い間浅野財閥の本社で支配人を務めた専門経営者である。 終戦時に日之出汽船(浅野財閥)の社長を兼務していたが、1948年(昭和23年)に息子の藤堂太郎に日之出汽船社長の座を譲った。財閥解体によって藤堂家は同社のオーナーになった。 藤堂大蔵は旧久居藩家老(三重県士族)藤堂八座の長男として、1876年(明治9年)3月13日に生まれる。新撰組隊士の藤堂平助は兄ともされる。 1899年(明治32年)に東京高等商業学校(現一橋大学)を卒業して、台湾銀行(あるいは横浜正金銀行)に就職し香港や上海の支店長を務めたが、転職して1914年(大正3年)8月に第五銀行(日本昼夜銀行の前身)の支配人に就任した。
井上 久吉(いのうえ ひさきち、1876年(明治9年)3月1… 井上 久吉(いのうえ ひさきち、1876年(明治9年)3月1日 - 1953年(昭和28年)3月16日)は、大正から昭和時代前期の政治家、実業家。愛媛県松山市長。 愛媛県松山市湊町2丁目に生まれる。1887年(明治20年)家督を相続する。松山中学校(現・愛媛県立松山東高等学校)を経て、東京高等商業学校(現・一橋大学)を卒業。松山紡績会社監査役、井上合名会社代表者を務める傍ら、松山市会議員となり、1922年(大正11年)から1926年(大正15年)まで市会議長を務めた。 1933年(昭和8年)11月17日に松山市長に推挙され就任。さらに1937年(昭和12年)再選したが、任期途中の1938年(昭和13年)7月に病気を理由に退任した。
切田 太郎(きりた たろう、1876年3月1日 - 1937… 切田 太郎(きりた たろう、1876年3月1日 - 1937年7月4日)は、日本の商学者。第6代台北高等商業学校校長。 岩手県盛岡市生まれ。1900年高等商業学校(現一橋大学)卒業。1902年同専攻部卒業。大倉高等商業学校講師、国民英学会講師、日本大学講師、明治大学講師、善隣高等商業学校講師、同教授、大倉高等商業学校教授を経て、1910年から東京高等商業学校教授を務める傍ら、中華民国政府の招きで京師大学堂講師を務め、同大学に商学部を設立した。1918年中村組ニューヨーク支店長。1919年台湾総督府台北高等商業学校教授。1929年同校長事務取扱。1930年同校長。1937年退官、叙正四位。同年鉄道事故にて負傷し死去し、学友の上田貞次郎らが弔問に訪れた。
片野 実之助(かたの じつのすけ、1876年 - 1945年… 片野 実之助(かたの じつのすけ、1876年 - 1945年)は、日本の保険学者。元大阪高等商業学校(現大阪公立大学)校長。 東京出身。1893年東京府尋常中学校(現東京都立日比谷高等学校)卒業。1898年高等商業学校(現一橋大学)本科卒業。三重県立四日市商業学校教諭を経て、1905年から2年間休職し、文部省外国留学生としてドイツ、イギリス、アメリカ合衆国に留学した。帰国後、山口高等商業学校教授を経て、1915年から市立大阪高等商業学校校長を務め、母校東京高等商業学校との連絡を強化するなどした。太平洋海上火災保険監査役なども務めた。1945年死去。 義理の娘(息子・実雄の配偶者)は松竹楽劇部の初代トップスターだった飛鳥明子(本名:片野〈旧姓・松田〉貞子)。
高嶋 菊次郎(たかしま きくじろう、1875年(明治8年)5… 高嶋 菊次郎(たかしま きくじろう、1875年(明治8年)5月17日 - 1969年(昭和44年)1月29日)は、明治、大正、昭和期の日本の実業家。 福岡県生まれ。1900年(明治33年)に東京高等商業学校(現在の一橋大学)を卒業。大阪商船に入社。後に三井物産に転じ、藤原銀次郎の知遇を得て、1912年(明治45年)に王子製紙に入社。 苫小牧工場長を経て、1914年(大正3年)に王子製紙取締役に就任。常務、専務、副社長を経て、藤原銀次郎の後任として1938年(昭和13年)12月に取締役社長に就任した。その後1942年12月まで王子製紙の社長を務めている。同社のほか、傍系会社の日本パルプ工業の取締役社長を1939年(昭和14年)5月から1943年(昭和18年)1月まで務めた。
福田 徳三(ふくだ とくぞう、1874年(明治7年)12月2… 福田 徳三(ふくだ とくぞう、1874年(明治7年)12月2日 - 1930年(昭和5年)5月8日)は、日本の経済学を開拓した経済学者。社会政策学派、新歴史学派として経済理論、経済史などを導入した。東京商科大学(現・一橋大学)教授、慶應義塾教授、フランス学士院文科部外国会員等を歴任。レジオンドヌール勲章受章。 1874年、東京・神田で生まれた。母がクリスチャンであったため、1885年、12歳の時に築地新栄教会において植村正久から洗礼を受けた。泰明小学校から私立の東京英語学校などを経て、母の遺言と姉の助言に従い高等商業学校(後の東京高等商業学校、現在の一橋大学)に入学。学生時代には、東京の貧民窟(スラム)での伝道活動にも参加した。
前川 真平(まえかわ しんぺい、1874年12月1日 - 1… 前川 真平(まえかわ しんぺい、1874年12月1日 - 1906年4月24日、 英語 Shinpei MaekawaまたはShinpei Mykawa)は、愛知県出身の農業技術者。渡米し、テキサス州の南東部に稲作を導入させた。ヒューストンのMykawaという地域名、ならびにMykawa Roadという道路は彼の名にちなんで命名された。"Mykawa"は当初マエカワと発音させるためのスペリングであったが、米国での発音は“マイカワ”である。 前川は高等商業学校(のちの東京高等商業学校→東京商科大学、現・一橋大学)を卒業した。同校は当時、東京の商業学校の筆頭に位置づけられていた。 1903年、海軍士官だった前川は、翌年開催されたセントルイス万国博覧会日本使節団の一員として渡米した。
長尾 元太郎(ながお もとたろう、1874年(明治7年)11… 長尾 元太郎(ながお もとたろう、1874年(明治7年)11月2日 - 1935年(昭和10年)3月28日)は、明治から昭和前期の林業家・農業経営者・地主・実業家・政治家。衆議院議員、貴族院多額納税者議員、岐阜県武儀郡菅田町長。 岐阜県武儀郡、のちの沙田村(菅田村、菅田町、益田郡金山町を経て現下呂市金山町)で、素封家・長尾四郎右衛門の長男として生まれ、1916年(大正5年)家督を相続した。慶應義塾、東京高等商業学校(現一橋大学)で学んだ。 帰郷して農業、林業を営む。また、大垣銀行監査役、美濃銀行取締役、濃飛農工銀行取締役、岐阜不動産取締役、菅田町農会長、同町教育会長、武儀郡教育会員、岐阜県農事協会理事などを務め、小作制度の改善などに尽力した。
小竹 岩楠(しの いわぐす、1874年(明治7年)10月18… 小竹 岩楠(しの いわぐす、1874年(明治7年)10月18日 - 1933年(昭和8年)10月5日)は、日本の実業家。郷里の和歌山県で日高川水力電気での水力発電事業を成功させたのち、南紀白浜温泉を開発。明光バスなども設立した。 和歌山県日高郡島村(現・御坊市)に生まれる。小学校、中学校時代を首席で通し、1893年に御坊村の小竹家の養子となった。 和歌山県立和歌山中学校(現・和歌山県立桐蔭高等学校)を経て、1894年に高等高等商業学校(現・一橋大学)に進学した。 同校を病気で中退後、鎌倉市の円覚寺で2年間修行し、和歌山に帰郷し兄弟で家業の木材業を再興し、資産家となった。 日高郡で初となる製材所として、1901年に日高製材所を設立。
瀬下 清(せじも きよし、1874年9月18日 - 1938… 瀬下 清(せじも きよし、1874年9月18日 - 1938年9月24日)は日本の銀行家。三菱銀行元会長。 長野県佐久郡三塚村(現佐久市)に代々庄屋を務めた豪農の瀬下七兵衛の三男として生まれ、親族の瀬下起十の養子となる。6歳で上京し、東京英語学校、大手町商業予備門に学び、明治26年(1893年)東京高等商業学校(現一橋大学)附属主計学校卒業。第百九国立銀行に入行し、同28年(1895年)三菱合資会社銀行部に移る。同神戸支店長時代には灘の酒造メーカー「桜政宗」に破格の融資を行って立ち直らせた。また勧業銀行による森永製菓の救済も仲介した。2年間イギリスに留学し、大正8年(1919年)三菱合資会社銀行部が三菱銀行として分離独立すると、常務取締役に昇格した。
広瀬 実光(ひろせ さねみつ、1874年8月17日 - 19… 広瀬 実光(ひろせ さねみつ、1874年8月17日 - 1955年6月24日)は、日本の実業家。日本陶器取締役社長や、同社取締役会長などを務めた。弓道家(大日本武徳会弓道範士)でもある。 陸軍少佐や森村銀行頭取を務めた広瀬実栄の二男として生まれ、高等商業学校(現一橋大学)附属主計学校、ニューヨーク・イーストマン商業専門学校を経て、1895年森村組入社。1917年には東洋陶器設立発起人となり、同社監査役に就任。1922年日本陶器社長。1939年日本陶器会長。森村豊明会監事なども務めた。 また弓道家でもあり、1929年5月に大日本武徳会弓道範士。名古屋市の弓道界で重きをなし、1940年に開催された紀元二千六百年奉祝天覧武道大会弓道の部では審査員を務めた。
根岸 佶(ねぎし ただし、1874年(明治7年)8月9日 -… 根岸 佶(ねぎし ただし、1874年(明治7年)8月9日 - 1971年(昭和46年)7月22日)は、日本の経済学者。一橋大学名誉教授。日本学士院賞受賞。 和歌山県出身。和歌山県尋常中学校(現和歌山県立桐蔭高等学校)を経て、1899年高等商業学校(現一橋大学)本科卒業、1901年同校専攻部貿易卒。本科では日中貿易論、専攻部では中国交通論を研究。1933年「支那ギルドの研究」で東京商科大学(現一橋大学)経済学博士。 1901年上海の東亜同文書院教授、1907年東亜同文会主査。中国経済を研究。帰国後、1908年東京高等商業学校(現一橋大学)講師、1911年東京朝日新聞政治部記者、1916年東京商科大学(現一橋大学)教授、1919年同大学附属商業専門部教授、1921年同大学専門部教授、1935年定年退官、同大学講師、1936年同大学学生課課長心得、1939年東亜同文会第六調査委員会学術部委員会委員、1950年東京商科大学客員教授、東京商科大学名誉教授、1951年一橋大学名誉教授。
岩田 鳴球(いわた めいきゅう、本名:久太郎、 1874年(… 岩田 鳴球(いわた めいきゅう、本名:久太郎、 1874年(明治7年)7月30日 - 1936年(昭和11年)9月22日)は、日本の俳人。 石川県大聖寺町(現・加賀市)本町生まれ。1894年高等商業学校(現・一橋大学)中退。俳句を正岡子規、高浜虚子に学んだ。 三井物産に入社し、1905年から三井物産台湾支店長として台湾に赴任。初の台湾俳誌『相思樹』の選者となり、1906年から『相思樹』主筆。 三井物産専務理事を経て、1918年大本教に入信。総務や出版局(現・天声社)局長、大正日日新聞編集局長、第一天声社社長、統理補などを務めたが、大本事件で、1936年に獄死した。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
石井 健吾(いしい けんご、1874年(明治7年)6月16日… 石井 健吾(いしい けんご、1874年(明治7年)6月16日 - 1945年(昭和20年)8月31日)は、日本の銀行家。第3代第一銀行頭取を務めた。 東京生まれ。4歳で父を亡くし、阪本小学校、明治小学校を経て、共立学校(現開成高等学校)に進学後渋沢栄一の書生となる。1895年高等商業学校(現一橋大学)卒業。同期に佐野善作(経済学者)、岡崎久次郎(日米富士自転車創業者)など。 卒業後第一銀行に入行。書記、預金係主任兼貸付係主任、横浜支店長次席を経て、1902年には横浜市長に推挙された市原盛宏の後任として横浜支店長に就任。1910年本店営業部支配人。1918年常務取締役。1926年副頭取。1931年頭取。
塚口 慶三郎(つかぐち けいざぶろう、1874年〈明治7年〉… 塚口 慶三郎(つかぐち けいざぶろう、1874年〈明治7年〉5月11日 - 1925年〈大正14年〉10月30日)は、日本の実業家。北海道鉄道専務取締役、東亜紡織発起人、秩父セメント取締役、日本フエルト取締役などを歴任した。 和歌山県海草郡黒江町生まれ。旧制中学校卒業後、1896年高等商業学校(のちの一橋大学)卒業、日本鉄道入社。同社倉庫課で2年間勤務した。 川崎銀行庶務部長を経て、1918年に同行から鈴木商店(のちの味の素)に取締役として派遣されたが、1920年の戦後恐慌の際に経営危機に陥り引責辞任した。 同年東亜紡織発起人。1921年東京煉瓦監査役。1922年に中央毛糸紡績が設立されると同社取締役に就任。
大谷 登(おおたに のぼる、 1874年3月26日 - 19… 大谷 登(おおたに のぼる、 1874年3月26日 - 1955年7月31日)は、日本の海事実業家。日本郵船第7代代表取締役社長、船舶運営会初代総裁。 福井県出身。東京高等商業学校(現一橋大学)卒業後日本郵船に入る。カルカッタ支店長、ニューヨーク支店長、ロンドン支店長、副社長等を経て、1935年(昭和10年)から代表取締役社長。日本航空輸送会長兼務を経て、1938年(昭和13年)大日本航空初代会長兼務。この間、1937年(昭和12年)日本通運発足時には理事に就任した。1942年(昭和17年)船舶運営会初代総裁に就任。太平洋戦争中の戦時体制下で海運統制を行った。このほか南洋拓殖参与理事、海運協会理事長、如水会理事等も務めた。
犬塚 信太郎(いぬづか のぶたろう、1874年(明治7年)3… 犬塚 信太郎(いぬづか のぶたろう、1874年(明治7年)3月14日 - 1919年(大正8年)12月10日)は、日本の実業家。孫文の支援者で、南満州鉄道理事などを務めた。立山水力電気設立者。 原籍は佐賀県だが、東京で有馬小学校を卒業後、中学校には進まず、1890年に高等商業学校(現・一橋大学)本科卒業後、17歳で三井物産に入社した。 三井物産では門司支店から始め、ロンドン等で勤務し、シンガポール支店長代理や、香港支店長等を経て、門司支店長を務めた。ロンドンや東京では悪友各務鎌吉らと女遊びに興じたという。 1906年に南満洲鉄道が設立されると、同社理事に就任。三井物産門司支店次席を務めていた部下の相生由太郎も同社に招聘した。
磯野 長蔵(いその ちょうぞう、旧姓・三島、1874年〈明治… 磯野 長蔵(いその ちょうぞう、旧姓・三島、1874年〈明治7年〉3月12日 - 1967年〈昭和42年〉6月25日)は日本の実業家。明治屋社長、会長を務めたほか、キリンビール設立発起人となり、キリンビール社長や会長を歴任。同社をビール業界トップとした。 鳥取県倉吉市河原町の呉服屋、三島久平・なをの次男として生まれる。勉強がよくでき、1883年、9歳のときに倉吉の戸長を務めた松本家を継ぐため松本仁平の養子となる。 鳥取県尋常中学校(現・鳥取県立鳥取西高等学校)の授業料免除優待生を経て上京。高等商業学校予備門(現・日本大学第三中学校・高等学校)で1年間の浪人生活を送り、高等商業学校(現・一橋大学)入学。
川井 源八(かわい げんぱち、1874年〈明治7年〉3月 -… 川井 源八(かわい げんぱち、1874年〈明治7年〉3月 - 1945年〈昭和20年〉6月22日)は、日本の実業家。第2代三菱電機会長。 福島県耶麻郡、のちの翁島村(現猪苗代町)出身。若松中学校(現福島県立会津高等学校)を経て、1894年高等商業学校(現一橋大学)卒業。東京倉庫神戸支店副支配人、東京倉庫大阪支店支配人等を経て、1920年三菱電機代表取締役。1931年から三菱電機常務取締役として退任した武田秀雄前会長に取り替わり社業を統括した。1935年三菱電機取締役会長。三菱電機において消費者向けの家庭用電化製品事業の創設を進め、扇風機、モーターなどの生産の発案や、ショールームの設立などを行った。
牧野 元次郎(まきの もとじろう、1874年(明治7年)2月… 牧野 元次郎(まきの もとじろう、1874年(明治7年)2月17日 - 1943年(昭和18年)12月7日)は、日本の実業家。不動貯金銀行(のちの協和銀行、りそな銀行)創業者・元頭取。定期積金を考案し業績を拡大させ「貯金王」などと呼ばれた。族籍は東京府士族。 千葉県君津郡久留里町(現君津市)出身。旧久留里藩士・牧野治の長男。父・牧野治は明治維新後は警察官吏となり、牧野が小学校に入学する頃には千葉県内の各地に赴任、警察署長も務めた。 1886年、印幡郡土室村の北総英漢義塾に入学。更に高等商業学校(のちの一橋大学)に進むも、過度の勉学への意志が牧野の精神を侵し病気となったことから中退。病も癒えた1894年に成田町に創立された成田銀行に勤めた。
中川 浅之助(なかがわ あさのすけ、1874年2月7日 - … 中川 浅之助(なかがわ あさのすけ、1874年2月7日 - 1920年11月1日)は、日本の実業家。第2代宇治川電気社長。初代日本電力副社長。 1899年高等商業学校(現一橋大学)卒業、大阪商船入社。神戸支店助役、運輸課助役、仁川支店長、計理課長兼内航部長を経て、中橋徳五郎に任じられ宇治川電気総支配人に就任。1917年宇治川電気取締役。中橋の指名を受け1918年からは宇治川電気取締役社長を務め、日本電力副社長も兼務したが、在任中の1920年に死去した。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
岡崎 久次郎(おかざき きゅうじろう、1874年(明治7年)… 岡崎 久次郎(おかざき きゅうじろう、1874年(明治7年)1月14日 - 1942年(昭和17年)3月20日)は、日本の実業家、政治家。自転車輸入商、相模鉄道社長。衆議院議員(通算6期)。 神奈川県横浜市相生町で、米屋・岡崎安之助の長男として生まれる。10歳で家出し上京、漢学塾の書生となり、1889年に高等商業学校(現一橋大学)に入学、同期に佐野善作(経済学者)、石井健吾(元第一銀行頭取)などがいた。1895年に卒業後三井物産に入り、取引先のアメリカ人に同行して渡米、一年余欧米を視察し、帰国の船中で徳富蘇峰と知り合う。三井に戻り結婚ののち、独立し京橋に日米商店(のち日米富士自転車)を開く。1898年よりたびたび海外へ視察に向かい、主要メーカーと特約を結び、大阪にも支店を持つなど成功する。
關 一(せき はじめ、新字体:関一、1873年〈明治6年〉9… 關 一(せき はじめ、新字体:関一、1873年〈明治6年〉9月26日 - 1935年〈昭和10年〉1月26日)は、日本の学者及び政治家。母校である東京高等商業学校(現一橋大学)の教授から大阪市役所幹部に転身し、20年にわたって大阪市助役・第7代大阪市長を務め、前任の市長が実現した「大大阪時代」をさらに発展させ「大阪の父」と呼ばれた。大阪市長在職中に死去。 第17代大阪市長の關淳一は孫。 静岡県伊豆で關近義の長男として生まれる。近義は、明治維新の結果としての徳川将軍家(徳川宗家)駿府移封に従って静岡県に移った旧幕臣・沼津兵学校第4期資業生(のちに小学校教員)。母よしは共立女子職業学校(現・共立女子大学)教員。
佐野 善作(さの ぜんさく、1873年(明治6年)8月29日… 佐野 善作(さの ぜんさく、1873年(明治6年)8月29日 - 1952年(昭和27年)5月1日)は、日本の会計学者、経済学者、教育家。商業教育に大きな功績があるとして、1952年に勲一等瑞宝章を受章した。 1873年、現在の静岡県富士市中島に生まれる。1895年高等商業学校(現・一橋大学)卒業。同期に石井健吾(元第一銀行頭取)、岡崎久次郎(日米富士自転車創業者)などがいた。 卒業後はコロンビア大学、ロンドン大学に留学し、研究を深める。帰国後は母校の高等商業学校助手となり、1896年より同助教授、1900年より同教授。1903年より附属商業教員養成所主事。1911年、法学博士号を取得。1914年、東京高等商業学校校長、1920年に同校が大学へ昇格すると東京商科大学(現・一橋大学)初代学長を務めた。
蒲生 保郷(がもう やすさと、1873年〈明治6年〉8月17… 蒲生 保郷(がもう やすさと、1873年〈明治6年〉8月17日 - 1928年〈昭和3年〉9月11日)は、日本の教育者。福島高等商業学校初代校長。 旧平戸藩士の蒲生林作の子として生まれる。高等商業学校(現一橋大学)卒業。山口高等商業学校の教授を勤めていた。1909年から1910年にかけて、文部相派遣外国留学生(文部省督学官)としてイギリスに留学しロンドンに滞在する。その際にボーイスカウトの整然たる活動に興味を持ち、ボーイスカウト運動に関する書籍類などを収集。日本に持ち帰る。 帰国後、収集した英国ボーイスカウトに関する書籍を桂太郎首相と小松原英太郎文部大臣に贈呈し、政府に「日本でも少年団活動を検討すべし」との建白書を提出する。
2代 永田 吉右衛門(ながた きちうえもん、1873年(明治… 2代 永田 吉右衛門(ながた きちうえもん、1873年(明治6年)8月15日 - 1918年(大正7年)2月26日)は、明治から大正時代の政治家。銀行家。実業家。衆議院議員。岐阜県大野郡高山町(現在の高山市)長。幼名は尚次。 初代永田吉右衛門の長男として、高山町(現在の高山市)に生まれる。1897年(明治30年)10月、家督を相続し襲名する。東京商業学校を卒業後、郷里に戻り長らく高山町長を務めた。ほか、高山町会議員、学務委員を歴任した。 財界では飛騨電灯、濃飛自動車、飛騨林業、濃飛農工銀行各取締役、飛騨銀行取締役、同頭取、富山電気、大垣銀行、十二銀行各監査役を歴任した。また、五松庵不及と号して俳句を能くした。
中島 久万吉(なかじま くまきち、1873年7月24日 - … 中島 久万吉(なかじま くまきち、1873年7月24日 - 1960年4月25日)は、財界人であり、政治家、実業家、男爵。
南条 金雄(なんじょう かねお、1873年〈明治6年〉7月1… 南条 金雄(なんじょう かねお、1873年〈明治6年〉7月18日 - 1948年〈昭和23年〉12月30日)は、日本の実業家。大正海上火災保険会長や、三井物産会長、三井合名筆頭常務理事を務めた。 群馬県邑楽郡館林町(現館林市)出身。前橋中学校(現群馬県立前橋高等学校)を経て、1892年に高等商業学校(現一橋大学)卒業後、横浜外国商館に入り、海外貿易に従事し海陸保険の事務につき英国と東京を往来する。 1901年三井物産入社。大阪支店保険掛主任等を経て、1910年大阪支店長。1913年ロンドン支店長。1918年取締役ロンドン支店長。同年安川雄之助、武村貞一郎とともに常務取締役に昇格。大正海上火災保険設立前に小田柿捨次郎の家で飯田義一、馬越恭平、岩原謙三、平生釟三郎、磯村豊太郎らと保険会社設立懇談会に参加し、1924年には大正海上火災保険会長に就任。
窪田 四郎(くぼた しろう、1873年5月25日 - 194… 窪田 四郎(くぼた しろう、1873年5月25日 - 1944年9月14日)は、日本の実業家。同じく実業家の内田信也は実弟。 茨城県行方郡麻生町(現:行方市麻生)生まれ。実業家の内田信也は実弟。1896年高等商業学校(現:一橋大学商学部)卒業、三井物産入社。1907年に堺セルロイド(現:ダイセル)専務取締役。1910年北海道炭礦汽船幹事。1913年波佐見鉱業専務取締役。1914年窪田事務所を設立し、南洋諸島との貿易に従事。1918年富士製紙(後の王子製紙)社長。早川電力社長、如水会理事、日魯漁業(現:マルハニチロ)社長などを歴任。1927年東京米穀商品取引所理事長。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
庄司 乙吉(しょうじ おときち、1873年〈明治6年〉5月1… 庄司 乙吉(しょうじ おときち、1873年〈明治6年〉5月18日 - 1944年〈昭和19年〉11月10日)は、日本の実業家である。東洋紡績の社長を務めた。 秋田県の生まれ。1897年(明治30年)に東京高等商業学校(現在の一橋大学)卒業後、大日本綿糸紡績同業連合会に入りインドのボンベイ(現在のムンバイ)駐在員や書記長を歴任した。1912年(大正元年)には大阪紡績に転勤し支配人を務め、1917年(大正6年)からは東洋紡績に社名変更し取締役や副社長も務める。1919年(大正8年)には第1回国際労働会議に出席したカネボウ(現在のクラシエホールディングス)の社長を務めた武藤山治の顧問を務めるために渡米したが、帰国後の1923年(大正12年)にアナキズム運動に関わった「ギロチン団」に狙撃される。
武村 貞一郎(たけむら ていいちろう、1873年(明治6年)… 武村 貞一郎(たけむら ていいちろう、1873年(明治6年)5月4日 - 1936年(昭和11年)8月17日) は、日本の実業家。元東神倉庫会長。東洋レーヨン発起人。 東京府士族。1893年に高等商業学校(現一橋大学)卒業後、三井物産でドイツ帝国ハンブルクの開拓にあたり、三井物産大阪支店長、三井物産神戸支店長、三井物産機械部長、三井物産取締役、東洋棉花取締役、日本レイヨン取締役などを務めた。1918年には安川雄之助、南条金雄とともに三井物産常務取締役に就任し、財務を統括した。1925年東洋レーヨン発起人。1935年から東神倉庫会長を務めたが、翌年死去した。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。
安宅 弥吉(あたか やきち、1873年(明治6年)4月25日… 安宅 弥吉(あたか やきち、1873年(明治6年)4月25日 - 1949年(昭和24年)2月5日)は、石川県金沢市金石生まれの実業家。安宅産業や学校法人甲南女子学園の創設者。大阪商工会議所会頭。鈴木大拙のパトロン的存在としても知られる。 長男の安宅英一(神戸高等商業学校(現:神戸大学)卒業)は後に安宅産業会長となり、次男の安宅重雄(京都帝国大学文学部哲学科卒業)も安宅産業社長となった。娘の安宅登美子は1925年・1926年の全日本テニス選手権女子ダブルス優勝者になったテニス選手である。登美子と結婚した娘婿の長谷川周重は、後に住友化学工業の社長となった。 弥吉の創業した安宅産業は三菱商事、三井物産、伊藤忠商事、丸紅、住友商事、日商岩井、トーメン、ニチメン、兼松江商に次ぐほどまで成長し、「10大総合商社の一角」とされていた。
八十島 親徳(やそしま ちかのり、1873年(明治6年)4月… 八十島 親徳(やそしま ちかのり、1873年(明治6年)4月9日 - 1920年(大正9年)3月18日)は、日本の実業家。渋沢栄一の秘書役を務め、渋沢家の「一番番頭」と呼ばれた。愛媛県出身。娘婿に阪谷俊作。 1873年(明治6年)4月9日、愛媛県宇和島富沢町(現・宇和島市)で生まれる。旧宇和島藩士八十島行蔵の二男。愛媛県第三中学校(現愛媛県立宇和島東高等学校)、商業素修学校を経て、1894年(明治27年)渋沢栄一が創立に関わった高等商業学校(現・一橋大学)を卒業。同郷の先輩であり渋沢栄一の娘婿であった穂積陳重の推薦により、卒業後直ちに渋沢家元方(家政、事業、資産等の管理執行部署)へ入り渋沢栄一の秘書役となる。
柴崎 雪次郎(しばさき ゆきじろう、1873年(明治6年)3… 柴崎 雪次郎(しばさき ゆきじろう、1873年(明治6年)3月13日 - 1929年(昭和4年)8月10日)は、日本の教育者、新潟市長。 埼玉県比企郡東吉見村(現在の吉見町)出身。1894年(明治27年)、東京高等商業学校(現一橋大学)を卒業。高田商会勤務の後、1897年(明治30年)に京都府商業学校教諭となり、新潟市立商業学校教諭、1899年(明治32年)同校長を歴任した。1901年(明治34年)より海上運送学研究のため、イギリス・フランス・ベルギーに留学。1905年(明治38年)に帰国し、神戸高等商業学校(現神戸大学)教授を務めた。1909年(明治42年)、長崎高等商業学校(現長崎大学)校長に転じ、1913年(大正2年)まで務めた。
森 広蔵(もり こうぞう、1873年2月24日 - 1944… 森 広蔵(もり こうぞう、1873年2月24日 - 1944年1月12日)は、日本の実業家。台湾銀行頭取等を経て、安田保善社理事に就任。昭和初期に安田財閥の最高経営者として組織・人事の再編成を行った。東京銀行集会所会長、経団連副会長等も務めた。 1873年(明治6年)2月24日に鳥取市本町の商家に生まれる。同郷の奥田義人特許局長の玄関番となり特許局で働きながら予備校で学んで、東京高等商業学校(現一橋大学)に入学すると旧藩主による奨学金・寄宿舎に頼りながら、銀行家を目指して学ぶ。1897年(明治30年)7月に卒業すると、高橋是清副頭取の口添えで横浜正金銀行に就職した。1898年(明治31年)3月から上海支店に勤務し、1905年(明治38年)春に満洲の牛荘支店副支配人となった。
大沼 保吉(おおぬま やすきち、1873年〈明治6年〉2月3… 大沼 保吉(おおぬま やすきち、1873年〈明治6年〉2月3日 - 1962年〈昭和37年〉10月22日)は、日本の造り酒屋経営者。政治家。寿虎屋酒造経営者(第8代)。千代寿虎屋酒造経営者(初代)。山形市長(第10代・3期)。山形県会議員(1期)。山形市会議員(4期)。山形市名誉市民(第1号)。山形商工会議所会頭(第6代)。山形県酒造組合連合会会長。山形市東南村山郡酒造組合組合長(初代)。 『いつも嘘は言わぬ』・『言った事には責任を持って実行する』が格言であった。
増田 明六(ますだ めいろく、1873年〈明治6年〉- 19… 増田 明六(ますだ めいろく、1873年〈明治6年〉- 1929年〈昭和4年〉)は、日本の実業家。 明治6年1月生まれ。明治26年、東京高等商業学校を卒業した。 渋沢栄一の秘書役として、白石喜太郎と共に、渋沢関係の各会社で活躍。1909(明治42)年、渋沢栄一が団長を務める渡米実業団に渋沢栄一の随行員として参加。
川原林 順治郎(かわらばやし じゅんじろう、1872年(明治… 川原林 順治郎(かわらばやし じゅんじろう、1872年(明治5年)9月 - 1945年(昭和20年)4月)は、日本の実業家。元明治生命保険会長。 滋賀県出身。父は滋賀県議の川原林徳明。妻は御師蔵田国治元豊川炭鉱馬車鉄道社長の五女。1896年高等商業学校(現一橋大学)卒業、日本鉄道入社。1899年明治生命保険入社。明治生命保険仙台支店長心得、明治生命保険名古屋支店長、明治生命保険京都支店長、明治生命保険大阪支店長を歴任し、1925年、明治生命保険取締役に昇格。1927年全国支店出張所を東西に分けたことに伴い、西部監督となる。1935年常務取締役制新設により、明治生命保険常務取締役に昇格。1936年からは明治生命保険専務取締役を務めた。
山成 喬六(やまなり きょうろく、1872年2月27日(明治… 山成 喬六(やまなり きょうろく、1872年2月27日(明治5年1月19日)- 1960年(昭和35年)8月31日)は、日本の銀行家。大蔵省主計局長~台湾銀行理事東京支店支配人、満州中央銀行副総裁等を歴任した。 岡山県後月郡芳井村大字簗瀬(現井原市芳井町)生まれ。芳井小学校を経て、興譲館中学校卒業後、従兄阪谷芳郎の書生となる<name=ito />。十代で脳溢血を経験。1890年に東京高等商業学校(現一橋大学)主計科を卒業後、大蔵省入省。 三十四銀行台湾支店長、台湾銀行神戸支店長、台湾銀行大阪支店長、台湾銀行総務部助役を経て、1913年から台湾銀行理事兼東京支店総支配人を務め、投資信託の開発に尽力し、その後投資信託創設のため法制審議会委員として台湾銀行法の改正にあたるなどした。
高橋 橘太郎(たかはし きつたろう、1872年2月3日 - … 高橋 橘太郎(たかはし きつたろう、1872年2月3日 - 1909年10月17日)は、明治時代の日本の外交官。元在漢口総領事。 常陸国笠間生まれ。茨城県士族。松島火薬庫爆発事故で死亡した高橋辰三郎海軍機関大尉は弟。妻は三増久米吉元在京城領事の娘。1895年(明治28年)東京高等商業学校(現一橋大学)卒業。同年第2回外務書記生試験に合格し、領事館書記生として仁川、牛荘、重慶に在勤した。同期に中村巍など。1898年(明治31年)の戊戌の変法の際には、梁啓超や王照の日本亡命のため宮島に出迎えた。同年辞職。 翌1899年(明治32年)の第8回外交官及領事官試験に合格。1900年(明治33年)在天津領事官補、在清国外交官補。
外村 義郎(とのむら よしろう、1872年 - 1939年)… 外村 義郎(とのむら よしろう、1872年 - 1939年)は、日本の信徒伝道者。植村正久の弟子。 明治5年(1872年)に滋賀県彦根市に生まれる。明治21年(1888年)に上京し、銀行で働きながら、東京商業学校(現一橋大学)で学ぶ。その中で、明治22年1889年頃、キリスト教に触れ、明治23年1890年に植村正久から洗礼を受ける。 ドワイト・ムーディーとアイラ・サンキーの伝記を読んで影響を受けて、献身した。神学校に入り、卒業後日本基督教会の信徒伝道者として、埼玉県で巡回伝道をした。その後、全国を巡回する。明治26年(1893年)には、北海道滝川市で滝川教会を開拓する。 明治27年(1894年)に滝川村から、開村4年目の旭川村に徒歩で入村し、旭川村2条5丁目に「日本基督教会旭川講義所」(現・日本キリスト教会旭川教会)を開設する。
山下 芳太郎(やました よしたろう、1871年12月24日(… 山下 芳太郎(やました よしたろう、1871年12月24日(明治4年11月13日) - 1923年4月7日)は、日本の実業家、言語政策研究家、外交官である。 漢字は非能率的であると考え、改良カナ文字とカナ文字タイプライターの普及をめざした。遺書も墓もカタカナで書かれている。 山下興作の長男として愛媛県に生まれた。旧制高松中学校(後の香川県立高松高等学校)、旧制松山中学校(後の愛媛県立松山東高等学校)を経て、1892年7月に東京高等商業学校(後の一橋大学)を卒業した。1917年(大正6年)2月に家督を相続している。 1893年(明治26年)12月から外務省につとめ、領事館書記生および領事事務代理としてボンベイで、副領事としてリヨンおよびロンドンで働いた。
吉富 璣一(よしとみ きいち、明治4年11月10日(1871… 吉富 璣一(よしとみ きいち、明治4年11月10日(1871年12月21日) - 昭和4年(1929年)4月11日)は、日本の実業家。 山口県吉敷郡山口町生まれ。1895年高等商業学校(現一橋大学)卒業。1911年に三井物産を退社し、北海電化工業社長、東京金物商会社長、日魯漁業取締役、長州鉄道監査役、相模鉄道監査役などを務めた。 妻は吉敷郡会議員を務めた山内唯五郎の妹。浅野順一青山学院大学名誉教授は甥。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
児玉 謙次(こだま けんじ、1871年12月18日(明治4年… 児玉 謙次(こだま けんじ、1871年12月18日(明治4年11月7日) - 1954年(昭和29年)2月13日)は、日本の実業家。 香川県高松市生まれ。高等商業学校附属外国語学校(のちの東京外国語学校)を経て、1892年高等商業学校(一橋大学の前身)卒。 会計検査院に勤務し、1893年横浜正金銀行(のちの東京銀行)入行。1922年同頭取。大蔵省顧問、中支那振興株式会社総裁、貴族院議員(1939年8月28日任命)などを歴任。1945年終戦連絡事務局総裁。1946年5月14日、貴族院議員を辞職した。 1954年2月13日歿。行年84歳。墓所は染井霊園1-イ-4-7。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
三谷 一二(みたに いちじ、1871年12月4日(明治4年1… 三谷 一二(みたに いちじ、1871年12月4日(明治4年10月22日)- 1965年(昭和40年)10月26日)は、日本の政治家、銀行員、実業家。第2代三菱鉱業会長を経て、第4代福山市長(1期)を務めた。 福山県沼隈郡山手村(現・広島県福山市山手町)に生まれる。1889年(明治20年)4月12日、広島県福山中学校(現・広島県立福山誠之館高等学校)初等科第四級を修了。1896年(明治29年)に高等商業学校(現・一橋大学)を卒業し、三菱合資会社銀行部に入社。 1900年(明治33年)、義和団の乱に出征。1904年(明治37年)、日露戦争に出征。その後、三菱合資会社銀行部上海支店長、長崎支店長兼唐津支店長、東京本社営業部石炭課長兼東京支店長などを務めた。
矢田 長之助(やだ ちょうのすけ、明治4年9月20日(187… 矢田 長之助(やだ ちょうのすけ、明治4年9月20日(1871年11月2日) – 昭和15年(1940年)11月27日)は、日本の外交官。駐シャム(タイ)公使。 島根県簸川郡塩冶村(現在の出雲市)で矢田伝四郎の長男として生まれる。1895年(明治28年)東京高等商業学校(現一橋大学)卒業。教員を経て、1899年(明治32年)に外交官及領事官試験に合格した。1900年(明治33年)より領事官補として天津、漢口に勤務した。その後、駐メキシコ公使館三等書記官、同二等書記官、バンクーバー領事、オタワ総領事、ニューヨーク総領事、ホノルル総領事を歴任した。1921年(大正10年)より駐シャム公使を務めた。 退官後は横浜市立横浜商業学校・横浜市立横浜商業専門学校校長事務取扱を務め、さらに財団法人暹羅協会(のち日本タイ協会)常務理事・理事長を務めた。