佐藤 國吉(さとう くにきち、1917年11月16日 - 2… 佐藤 國吉(さとう くにきち、1917年11月16日 - 2002年6月18日)は海事実業家、元佐藤国汽船会長及び、元日本内航海運組合総連合会名誉会長。 兵庫県神戸市生まれ、1941年(昭和16年)12月慶応義塾大学経済学部卒業。佐藤國汽船に入社、1964年(昭和39年)公団共有船主協会副会長就任、1966年(昭和41年)日本船主協会理事及び、海運造船合理化審議会専問委員就任。1968年(昭和43年)全日本内航船主海運組合会長就任。1972年(昭和47年)船員中央労働委員会委員就任。1973年(昭和48年)神戸海運業組合長就任及び、日本押船土運船協会会長就任。1975年(昭和50年)日本近海船主協同組合理事長就任。
川又 英雄(かわまた ひでお、1917年7月29日 - 19… 川又 英雄(かわまた ひでお、1917年7月29日 - 1993年3月3日)は、日本の経営者。相模鉄道社長を務めた。東京都出身。 1940年に慶應義塾大学経済学部を卒業。日立製作所、京浜急行電鉄での勤務を経て、1952年12月に神奈川トヨペットタクシー常務に就任。1955年5月に相模鉄道に転じ、1958年5月に常務を経て、1959年11月に副社長に就任し、1976年6月に社長に昇格。1988年1月に会長に就任。 1981年11月に藍綬褒章を受章。 1993年3月3日呼吸不全のために死去。75歳没。
竹見 淳一(たけみ じゅんいち、1917年(大正6年)6月1… 竹見 淳一(たけみ じゅんいち、1917年(大正6年)6月19日 - 2003年(平成15年)5月23日)は、日本の実業家。日本ガイシ会長、ワシントンホテル取締役。NHK経営委員長、日経連(当時)副会長、JR東海監査役などを歴任した。 東京府高輪生まれ。森村学園の前身たる私立南高輪幼稚園、同小学校と黒澤明の姉である黒澤春代に教わる。デキの悪い子も骨身も惜しまず居残りで教えたり家庭教師をつけてくれたりした先生であった。父が亡くなったこともあり、将来も見据え官立に進むことにし東京府立一中入学。一中に入れたが、肺が弱く、7年間在籍した。その後、医科への進学も考えたが肺病もちでは医者に成れないと耳に入り、法文系統の慶應予科へ。
田原 尚(たはら ひさし、1917年4月19日 - 2004… 田原 尚(たはら ひさし、1917年4月19日 - 2004年2月10日)は、日本の経営者。本州製紙社長、会長を務めた。 東京都出身。1941年に慶應義塾大学法学部法律学科を卒業し、同年に王子製紙に入社。1949年8月に本州製紙に転じ、1968年11月に取締役に就任し、1972年11月に常務、1976年6月に専務、1980年6月に副社長を経て、1982年6月から1988年6月までに社長を務めた。1990年6月から1994年6月までに会長を務めた。 1992年4月に勲二等瑞宝章を受章。 2004年2月10日肺炎のために死去。86歳没。
三村 庸平(みむら ようへい、大正6年(1917年)4月17… 三村 庸平(みむら ようへい、大正6年(1917年)4月17日 - 平成18年(2006年)5月22日)は、日本の実業家。三菱商事社長、「三菱金曜会」世話人。勲一等瑞宝章。阪急電鉄元社長・会長の小林公平は実弟。 東京出身。実家は大分県臼杵市。昭和15年(1940年)に慶應義塾大学経済学部卒業。三菱商事に入社し、南方に派遣。敗戦後、財閥解体で立ち上がった明光商事に入社。昭和29年(1954年)に統合で復活した三菱商事の水産部長、ソウル支店長、米国三菱商事社長、本社副社長を経て1980年に社長に就任。中国事務所の設置等に尽力し、1986年の会長就任後には三菱グループの「金曜会」世話人となる。1987年に刊行された三菱商事社史の題字は三村の揮毫である。
天野 春一(あまの しゅんいち、1917年 <大正6年> 3… 天野 春一(あまの しゅんいち、1917年 <大正6年> 3月26日 - 1985年 <昭和60年> 11月23日)は、日本の経営者。位階は従四位。 東京都出身。1939年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、同年に三井物産に入社。 1945年に日本車輌製造に転じ、取締役に就任し、1949年4月に専務を経て、1955年1月には社長に就任。1982年6月に会長に就任し、1982年8月から1983年6月までに高橋宏社長の急逝により、社長も兼任した。 1985年11月23日肝腫瘍のために死去。68歳没。死没日付をもって従四位に叙された。
掛下 和男(かけした かずお、1917年(大正8年)2月27… 掛下 和男(かけした かずお、1917年(大正8年)2月27日 - 1975年(昭和50年)12月29日)は、日本の実業家。元東洋レーヨン(現東レ株式会社)取締役、同社監査役。 神奈川県で出生。旧制高千穂中学校(第23回)、1944年(昭和19年)9月 慶應義塾大学経済学部卒業。同年、東洋レーヨン入社。1963年(昭和38年)1月 企画部長を経て、1970年(昭和45年)11月 取締役に就任する。1972年(昭和47年)11月 監査役に選任され、1975年(昭和50年)12月29日まで務める。 1975年(昭和50年)12月29日 自宅にてガス自殺。満58歳没。
岡野 喜一郎(おかの きいちろう、1917年2月19日 - … 岡野 喜一郎(おかの きいちろう、1917年2月19日 - 1995年8月13日)は、日本の経営者、銀行家。駿河銀行頭取、会長を務めた。静岡県沼津市出身。 1941年に慶應義塾大学法学部を卒業。三井銀行での勤務を経て、1949年に駿河銀行に転じ、1954年11月に取締役に就任し、1958年に常務、1963年に専務を経て、1964年8月には頭取に就任した。1981年3月に会長に就任。 1995年8月13日心不全のために死去。78歳没。
古屋 龍太郎(ふるや りゅうたろう、1917年1月26日 -… 古屋 龍太郎(ふるや りゅうたろう、1917年1月26日 - 没年不明)は、日本の経営者。松屋社長を務めた。 東京都出身。1940年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、1945年12月に松屋に入社。1963年4月に取締役に就任し、1969年4月に常務、1972年4月に専務を経て、1974年4月には社長に就任し、1979年6月までに務めた。 祖父は初代古屋徳兵衛。伯父は二代古屋徳兵衛。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
市村 修平(いちむら しゅうへい、1916年 <大正5年> … 市村 修平(いちむら しゅうへい、1916年 <大正5年> 10月25日 - 1999年 <平成11年> 10月22日)は、日本の経営者。王子製紙社長を務めた。長野県上高井郡小布施村出身。位階は従四位。 旧制須坂中学を経て、1941年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、同年に王子製紙に入社した。1963年に取締役に就任し、1968年に常務、1971年に専務、1976年に副社長を経て、1981年6月に社長に就任。1982年に病気で相談役に退いた。 1982年に藍綬褒章を受章し、1989年に勲二等瑞宝章を受章した。 1999年10月22日脳梗塞のために死去。82歳没。死没日付をもって従四位に叙された。
西尾 信一(にしお しんいち、1916年10月14日 - 2… 西尾 信一(にしお しんいち、1916年10月14日 - 2017年11月2日)は、日本の経営者。第一生命保険社長、会長を務めた。 東京都出身。1935年に慶應義塾大学法学部政治学科を卒業し、同年に第一生命保険に入社。 1968年5月に取締役に就任し、常務、副社長を経て、1981年4月に社長に就任。1987年4月に会長に就任した。 1984年から1年間だけ生命保険協会会長を務めた。 1983年11月に藍綬褒章を受章し、1990年4月に勲一等瑞宝章を受章。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
山中 清一郎(やまなか せいいちろう、1916年10月13日… 山中 清一郎(やまなか せいいちろう、1916年10月13日 - 2002年12月11日)は、日本の経営者。三井信託銀行社長を務めた。東京都出身。 1939年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、同年に三井信託銀行に入行。同年、短期現役海軍主計科士官(2期)を志願。同年5月、海軍経理学校に入学し海軍主計中尉に任官。同年9月に卒業。第三遣支艦隊司令部付・瑞穂に配属。以後、威海衛陸戦隊付、軍令部出仕兼海軍省出仕軍需局第三課勤務を歴任し、1941年5月、主計大尉に昇進。1942年5月、新竹海軍航空隊副官兼主計長に就任し、1943年7月、予備役に編入。1944年1月、召集され第一軍需部(上海)員に任じられ、上海衣糧廠糧食課長に転じ、同年11月、海軍主計少佐に昇進した。
高田 敞(たかだ たかし、1916年9月19日 - 1985… 高田 敞(たかだ たかし、1916年9月19日 - 1985年12月26日)は、日本の経営者。鐘淵化学工業社長、会長を務めた。 東京都出身。1941年に慶應義塾大学法学部を卒業し、同年に鐘紡に入社。1949年9月に鐘淵化学工業に転じ、1962年11月に取締役に就任し、1966年11月に常務、1971年5月に専務、1978年6月に副社長を経て、同年11月には社長に就任した。1984年11月から会長を務めた。 1985年12月26日、心筋梗塞のために死去。69歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
梁瀬 次郎(やなせ じろう、1916年〈大正5年〉6月28日… 梁瀬 次郎(やなせ じろう、1916年〈大正5年〉6月28日 - 2008年〈平成20年〉3月13日)は、日本の実業家。位階は従四位。勲等は勲二等。 梁瀬自動車株式会社社長、株式会社ヤナセ社長、日本経営者団体連盟常任理事などを歴任した。 東京府出身の実業家である。父親・梁瀬長太郎が設立したヤナセグループの経営を引き継ぎ、自動車輸入の最大手企業に発展させた 。アメリカ車の販売に寄与したとして、2004年に日本人としては本田宗一郎や豊田英二らに続く5人目となる米国自動車殿堂入りを果たした。『自動車を斬る』(実業の日本社)など著書多数。 1916年生まれ、東京府出身である。1923年に関東大震災が発生し、父の郷里である群馬県碓氷郡豊岡村(現高崎市)に避難した。
山本 勝孝(やまもと かつたか、1916年6月6日 - 19… 山本 勝孝(やまもと かつたか、1916年6月6日 - 1991年4月7日)は、日本の経営者、銀行家。武蔵野銀行頭取を務めた。 東京都出身。1941年に慶應義塾大学法学部法律学科を卒業し、1942年1月に日本銀行に入行。1970年5月に武蔵野銀行常務に就任し、1976年6月に専務、1978年11月に副頭取を経て、1979年2月から1983年6月までに頭取を務めた。 1991年4月7日、急性心不全のために死去。74歳没。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
沢原 梧郎(澤原 梧郎、さわはら ごろう、1916年〈大正5… 沢原 梧郎(澤原 梧郎、さわはら ごろう、1916年〈大正5年〉3月14日 - 没年不明)は、日本の実業家、広島県多額納税者。辰栄工業会長。 広島県呉市出身。沢原亮吉の長男。沢原俊雄の孫。1941年、慶應義塾大学経済学部経済学科卒業。1948年3月より1952年3月まで呉市公安委員並びに委員長を務める。1963年7月より1978年7月まで広島県公安委員並びに委員長を務める。呉三田会会長を務める。 趣味は洋楽。宗教は真宗。住所は広島県呉市長ノ木町。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
八尋 敏行(やひろ としゆき、1916年(大正5年)2月11… 八尋 敏行(やひろ としゆき、1916年(大正5年)2月11日 - 2014年(平成26年)2月5日)は、日本の実業家、元日本製粉社長、会長。
中野 精紀(なかの きよのり、1916年 <大正5年> 2月… 中野 精紀(なかの きよのり、1916年 <大正5年> 2月6日 - 1986年 <昭和61年> 5月26日)は、日本の経営者。三井石油化学工業社長を務めた。位階は従四位。勲二等瑞宝章。 東京都出身。1940年に慶應義塾大学法学部政治学科を卒業し、同年に三井鉱山に入社。1955年12月に三井石油化学工業に転じ、1969年11月に取締役に就任し、1973年11月に常務、1977年6月に専務、1981年6月に副社長を経て、1982年12月には社長に就任した。 1982年11月に藍綬褒章を受章。 1986年5月26日、急性心不全のために死去。70歳没。死没日付をもって従四位に叙され、勲二等瑞宝章を追贈された。
田辺 節郎(たなべ せつろう、1915年7月29日 - 20… 田辺 節郎(たなべ せつろう、1915年7月29日 - 2013年7月10日)は、日本の経営者。アルナ工機社長、宝塚音楽学校校長を務めた。山梨県出身。創業者である小林一三の甥。 1938年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、同年に阪神急行電鉄(現在の阪急電鉄)に入社。1959年に宝塚映画製作所代表取締役に就任し、1971年から1975年までに阪急電鉄監査役、1974年から1983年までにアルナ工機社長、1985年から1991年までに宝塚音楽学校校長を歴任した。 2013年7月10日心不全のために死去。97歳没。
諏訪 博(すわ ひろし、1915年(大正4年)6月11日 -… 諏訪 博(すわ ひろし、1915年(大正4年)6月11日 - 1989年(平成元年)12月9日)は、日本の実業家。北海道小樽市出身。TBS社長などを務めた。 小樽中学校(現・北海道小樽潮陵高等学校)、慶應義塾大学経済学部卒業後、国際電気通信に入社。 1951年(昭和26年)、TBSの前身であるラジオ東京の設立に参加。ラジオ編成部長、テレビ演出部長、テレビ営業局長、1964年(昭和39年)11月常務を歴任。1969年(昭和44年)11月28日社長に昇格、1977年(昭和52年)6月29日会長に退き、山西由之に社長を譲る。 1983年(昭和58年)相談役、1986年(昭和61年)山西が死去したため3月25日会長に復帰し、1989年(平成元年)6月29日特別顧問。
茂木 克己(もぎ かつみ、1915年3月1日 - 2005年… 茂木 克己(もぎ かつみ、1915年3月1日 - 2005年4月26日)は、日本の経営者。キッコーマン社長、会長を務めた。位階は従四位。 千葉県出身。キッコーマン初代社長・茂木七郎右衛門 (6代)の弟・藤崎勘三郎の五男として生まれる。1938年に慶應義塾大学法学部法律学科を卒業し、同年に野田醤油(のちのキッコーマン)に入社。 1958年2月に取締役に就任し、1963年6月に常務、1974年2月に副社長を経て、1980年3月には社長に就任。1985年10月に取締役相談役に就任し、1994年3月に相談役を経て、2002年6月には特別顧問に就任。 2005年4月26日心不全のために死去。90歳没。死没日付をもって従四位に叙された。
山川 茂夫(やまかわ しげお、1915年2月26日 - 19… 山川 茂夫(やまかわ しげお、1915年2月26日 - 1990年5月30日)は、日本の経営者。阪急百貨店社長、会長を務めた。大阪府池田市出身。 1937年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、同年に阪神急行電鉄に入社。1947年に分社化に伴い、阪急百貨店に転じ、1964年5月に取締役に就任し、1971年11月に常務、1975年5月に専務、1979年6月に副社長を経て、1986年6月に社長に就任した。1988年6月から会長を務めた。阪急電鉄取締役、関西テレビ放送取締役も務めた。 小学校からテニスをプレーしており、1985年にはダンロップグランドマスターズで優勝を果たした。 1990年5月30日心不全のために死去。
松宮 康夫(まつみや やすお、1915年 - 1995年)は… 松宮 康夫(まつみや やすお、1915年 - 1995年)は、日本の実業家。東京貿易株式会社創業者、東京貿易社長。 1940年(昭和15年)慶応義塾大学経済学部卒業。 兵役を終えて帰国した後、1947年東京貿易商会(1957年東京貿易に社名変更)を設立。その他日本貿易会、日本鉄鋼輸出組合、日中経済協会、ソ連東欧貿易会、国際貿易促進協会各理事、経済団体連合会評議員、東京商工会議所貿易部会常任委員、経済同友会幹事、日豪経済委員会、日ソ経済委員会各委員、日本・カタール友好協会副会長を務め、1995年取締役会長に就任した。 第1回経済界大賞 敢闘賞受賞 1973年 藍綬褒章受章 東京貿易グループ社史 35年のあゆみ
藤川 一秋(ふじかわ いっしゅう、本名・かずあき、1914年… 藤川 一秋(ふじかわ いっしゅう、本名・かずあき、1914年9月14日 - 1992年8月17日)は、日本の実業家、政治家。参議院議員(1期)。トピー工業社長。 愛知県額田郡額田町(現岡崎市)の農家に生まれる。尋常小学校高等科を卒業後、愛知県庁に勤務。1935年(昭和10年)、上京して報知新聞社に入社。1939年(昭和14年)、東京シヤリングに転職。1943年(昭和18年)10月、東京シヤリングは宮製鋼所と合併し東都製鋼が発足。1946年(昭和21年)、同社の取締役に抜擢された。常務を経て1947年(昭和22年)に社長に就任。1952年(昭和27年)、車輪工業社長を兼務。1953年(昭和28年)に慶應義塾大学通信教育課程経済学科卒業。
岡田 茂(おかだ しげる、1914年〈大正3年〉8月3日 -… 岡田 茂(おかだ しげる、1914年〈大正3年〉8月3日 - 1995年〈平成7年〉7月20日)は、日本の実業家。三越社長(1972年 - 1982年)。 1972年から老舗百貨店・三越の社長を10年務めて「流通界の革命児」と呼ばれたが、一方で三越社内にワンマン体制を敷いて「岡田天皇」とも呼ばれるほどの権勢をふるった。愛人の竹久みちへの不正な利益供与など背任行為問題を起こしたことで、1982年の「三越事件」により社長職を解任され、後に特別背任で逮捕、裁判で有罪判決を受けるなど、明暗二様を生きた。 京都府京都市で生まれた。父親は雅号を紫郊といい、京友禅染めの下絵描きだったが、岡田が生まれてまもなく上京。
峯岸 甲(みねぎし まさる、1914年1月6日 - 1982… 峯岸 甲(みねぎし まさる、1914年1月6日 - 1982年7月31日)は、日本の経営者。安藤建設社長、会長を務めた。 東京都出身。1937年に慶應義塾大学法学部を卒業し、同年に安藤組(のちの安藤建設)に入社。 1962年に取締役に就任し、1964年に常務、1970年に専務を経て、1972年に副社長に就任し、1976年6月には社長に昇格。1982年6月には会長に就任。 1982年7月31日急性腎不全のために死去。68歳没。
市原 晃(いちはら あきら、1914年1月1日 - 2004… 市原 晃(いちはら あきら、1914年1月1日 - 2004年7月22日 )は、日本の経営者。三越社長、会長を務めた。 東京都出身。1937年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、同年に三越に入社。1965年4月に取締役に就任し、常務を経て、1982年9月に社長に就任。社長在任時には、三越事件で混乱していた三越の経営を立て直し、経営理念に「商いと始末」を掲げ、「仕入れの神様」とも呼ばれていた。1986年5月に会長に就任し、1995年5月から相談役を務めた。 1986年5月から1990年5月までに日本百貨店協会会長を務めた。 1991年4月に勲二等瑞宝章を受章。 2004年7月22日肺炎により、死去。90歳没。
望月 玉三(もちづき たまぞう、1913年(大正2年)10月… 望月 玉三(もちづき たまぞう、1913年(大正2年)10月3日 - 1998年(平成10年)6月24日)は、日本の実業家。東京電業建設、望月証券(現みずほ証券)、九曜社各社長。慶應義塾大学助教授。 東京都出身。九曜社社長望月軍四郎の三男、九曜社取締役望月太郎の弟。父・軍四郎は静岡県富士郡大宮町(現富士宮市)出身。 1936年、慶應義塾大学経済学部卒業、同助手を経て、助教授を務めた。 住所は東京港区赤坂青山南町。趣味は読書、碁、庭球。宗教は仏教、日蓮宗。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
土井 宏二(どい こうじ、1913年9月19日 - 1993… 土井 宏二(どい こうじ、1913年9月19日 - 1993年10月5日)は、日本の実業家、馬主。 1913年、愛知県出身。1939年に慶應義塾大学法学部を卒業後、日本製鋼所を経て1941年に中央製作所庶務課長に就任。1944年に土井航空機工業を設立したのち翌年に土井産業に改称。1954年に土井商事を設立。1993年10月5日、肝不全のため死去。80歳没。 趣味はゴルフ、野球、競馬。 日本中央競馬会(JRA)に登録した馬主としても知られた。勝負服の柄は水色、袖赤三本輪、冠名には「ヤマニン」を用いた。没後は長男の肇がヤマニンゼファーなどの所有馬と服色を引き継いだ。 後述する土井家の馬主のほか、土井商事としても競走馬を所有し、所有馬には1994年の阪神3歳牝馬ステークスなどを制したヤマニンパラダイスや、種牡馬として活躍したヤマニンスキーがいた。
佐々木 秀一(ささき ひでいち、1913年(大正2年)9月1… 佐々木 秀一(ささき ひでいち、1913年(大正2年)9月17日 - 1996年(平成8年)12月19日)は、日本の実業家。佐々木硝子(現・東洋佐々木ガラス)社長、会長を務めた。 1937年(昭和12年)慶應義塾大学経済学部を卒業後、家業の佐々木硝子店に入社。1947年佐々木硝子に改組し、社長に就任。1957年(昭和32年)にはアジア初となるタンブラーグラス生産の自動化を行い、これにより佐々木硝子は成長した。1983年(昭和58年)に会長に就任。 社業以外では東京商工会議所副会頭を務めたほか、1968年(昭和43年)に藍綬褒章、1984年(昭和59年)に勲二等旭日重光章を受章している。
塩田 雄次(しおた ゆうじ、1913年(大正2年)1月19日… 塩田 雄次(しおた ゆうじ、1913年(大正2年)1月19日 - 1994年(平成6年)1月8日)は、日本の実業家。羽後銀行頭取、北都銀行初代会長。 塩田団平の次男として、秋田県平鹿郡雄物川町(現:横手市)に生まれる。 秋田県立秋田中学校、慶應義塾大学法学部卒業後、第百銀行(後に三菱銀行に吸収合併、現在の三菱UFJ銀行)に入行。21年あまり在籍し品川支店次長等を歴任する。 1958年には、羽後銀行に転じ、その後頭取に昇格する。頭取在任時には、本店の横手市から秋田市への移転や本店新館の建設、さらにはオンラインシステムの導入、店舗網の整備等、経営の近代化を推進した。1988年には代表取締役会長に退き、1993年に秋田あけぼの銀行との合併で誕生した北都銀行会長に就任した。
南部 誠治(なんぶ せいじ、1912年10月19日 - 19… 南部 誠治(なんぶ せいじ、1912年10月19日 - 1981年7月1日)は、日本の経営者。山陽電気鉄道社長を務めた。 福井県大野市出身。1936年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、同年に山陽電気鉄道に入社。1957年11月に取締役に就任し、1959年9月に常務、1969年11月に専務、1974年11月に副社長を経て、1977年6月に社長に就任。 1970年6月に運輸大臣表彰を受け、1976年11月に藍綬褒章を受章。 1981年7月1日、急性心不全のために死去。68歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
淡輪 就直(たんのわ なりただ、1912年 <大正元年> 1… 淡輪 就直(たんのわ なりただ、1912年 <大正元年> 10月3日 - 2000年 <平成12年> 4月29日)は、日本の経営者。三井石油化学工業(現・三井化学)社長を務めた。位階は正四位。 福岡県柳川市出身。1937年に慶應義塾大学法学部政治学科を卒業し、同年に三井鉱山に入社。1955年7月に三井石油化学工業に転じ、1963年5月に取締役に就任し、1966年11月に常務、1971年11月に副社長を経て、1977年6月に社長に就任。1982年11月に会長に就任し、1985年6月に相談役を経て、1987年6月に再び会長に就任。 1979年4月に藍綬褒章を受章し、1985年11月に勲二等瑞宝章を受章。
榎並 正一(えなみ しょういち、1912年 <大正元年> 8… 榎並 正一(えなみ しょういち、1912年 <大正元年> 8月23日 - 1990年<平成2年> 2月6日)は、日本の経営者。バンドー化学の社長・会長を務めた。位階は正五位。父はバンドー化学創業者の榎並充造で、正一は次男である。 兵庫県神戸市出身。1935年に慶應義塾大学法学部政治学科を卒業し、同年に日本毛織に入社した。1938年12月に阪東調帯護謨(現在のバンドー化学)に転じた。1942年12月に副社長に就任し、1962年5月には社長に昇格した。1977年6月には会長に就任した。 神戸薬科大学理事長、日本経営者団体連盟理事、神戸商工会議所副会頭なども歴任した。 1983年4月に勲三等瑞宝章を受章した。
大島 一芳(おおしま かずよし、1912年6月14日 - 1… 大島 一芳(おおしま かずよし、1912年6月14日 - 1983年1月16日)は昭和時代日本のジャーナリスト、新聞経営者。元中日新聞社代表取締役。愛知県出身。 出生名は大島 克巳(おおしま かつみ)で、1952年(昭和27年)3月24日付で「一芳」へ改名した。 1912年(明治45年)、愛知県東春日井郡守山町(現在の名古屋市守山区)で大島寿太郎の長男として出生。祖父の大島竹三郎は小幡大島本家第12代当主で、分家の東大島家第2代当主となった後に新愛知新聞社を創業した大島宇吉は一芳の大叔父に当たる。 1936年(昭和11年)に慶應義塾大学経済学部を卒業して大叔父の宇吉が経営する新愛知新聞社へ入社、戦時中は上海支局駐在。
梅原 文雄(うめはら ふみお、1912年(明治45年)6月6… 梅原 文雄(うめはら ふみお、1912年(明治45年)6月6日 - 1986年(昭和61年)11月14日)は、日本の実業家、合唱指揮者。元共和証券株式会社取締役常務、逝去時同社監査役。 神奈川県に生まれる。慶應義塾幼稚舎、慶應義塾普通部を経て、1935年(昭和10年)慶應義塾大学経済学部卒業。在学時は慶應義塾ワグネル・ソサィエティーに所属。バリトンソリスト及び学生指揮者として活躍した。木下保に師事。 1935年(昭和10年)から家業の共和証券株式会社に奉職。 1939年(昭和14年)に、慶應ワグネルの指揮者であった山口雅章が死去し、その後「やむをえず」(第88回定期演奏会(1963年)プログラムにおける梅原の寄稿より)OBの梅原が合唱パートの指揮者を引き継ぐこととなった。
板倉 譲治(いたくら じょうじ、明治45年(1912年)6月… 板倉 譲治(いたくら じょうじ、明治45年(1912年)6月3日 - 平成9年(1997年)4月8日)は、日本の財界人。三井銀行取締役社長、全国銀行協会連合会会長等を歴任。父親は貴族院勅選議員の板倉卓造。東京出身。 慶應義塾幼稚舎、慶應義塾普通部卒業。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
金森 直一(かなもり なおかず、1912年3月18日 - 1… 金森 直一(かなもり なおかず、1912年3月18日 - 1998年6月30日)は、日本の経営者。長崎県出身。 1934年に慶應義塾高等部を卒業し、1937年に日産火災海上保険に入社。1959年に取締役に就任し、1963年に常務、1966年に専務を経て、1969年6月に副社長に就任し、1974年4月には社長に昇格し、1977年4月までに務めた。 1976年9月に藍綬褒章を受章し、1982年11月に勲四等瑞宝章を受章。 1998年6月30日腎不全のために死去。86歳没。
穴水 清彦(あなみず きよひこ、1912年2月14日 - 1… 穴水 清彦(あなみず きよひこ、1912年2月14日 - 1979年9月29日)は、日本の経営者。相模鉄道社長を務めた。父親は京王電気軌道の社長を務めた穴水熊雄。 山梨県出身。1935年に慶應義塾大学経済学部を卒業。 北海道配電監事を経て、1944年6月に東京急行電鉄取締役と相模鉄道常務に就任し、1947年6月に相模鉄道専務、1962年9月に相模鉄道副社長を経て、1965年11月に相模鉄道社長に就任。1976年6月には会長に就任した。 1970年6月に運輸大臣表彰を受け、1968年に紺綬褒章を受章し、1974年に藍綬褒章を受章。 1979年9月29日、腎不全のために死去。67歳没。墓所は多磨霊園(10-1-7-2)。
徳大寺 伸(とくだいじ しん、本名・寺田静夫、1911年〈明… 徳大寺 伸(とくだいじ しん、本名・寺田静夫、1911年〈明治44年〉10月5日 - 1995年〈平成7年〉7月19日)は、日本の俳優、実業家。慶應義塾大学中退。 赤坂の料亭「金林」を営む寺田きんの店に、歌舞伎役者の六代目尾上菊五郎がよく訪れていたのがきっかけで、実弟である後の七世尾上梅幸が養子となる。 慶應義塾大学中退後、1932年に松竹に入社。当初は文芸係兼舞台監事として勤務していたが、松竹社長の大谷竹次郎の推薦で俳優に転向。松竹蒲田撮影所に転籍する。翌年、『大学の若旦那』でデビュー。当初の芸名は大綱豪であったが、名前が強すぎるとのことで、徳大寺伸に変更する。芸名の由来は、徳大寺の大は当時の松竹社長であった大谷社長の大の字をとり、伸は長谷川伸の伸の字をとったとのことである。
西川 五郎(にしかわ ごろう、1911年(明治44年)10月… 西川 五郎(にしかわ ごろう、1911年(明治44年)10月1日 - 1999年(平成11年)2月14日)は、日本の実業家。西川産業社長、昭和西川社長,大阪西川社長、京都西川会長。 現在の滋賀県近江八幡市出身。貴族院議員や八幡銀行頭取を務めた十二代西川甚五郎の五男として1911年に生まれる。西川産業会長、参議院議員、北海道開発庁長官を務めた十三代西川甚五郎は実の兄。慶應義塾大学経済学部を卒業し、1967年に西川産業の社長に就任した。 1968年にはグッドデザイン賞を初受賞し、1970年には新合繊わたファロンを開発した。他にも、積極的に業界初の試みをしていった。1971年にはデザイナー ウンガロとデザイン提携をし、1972年には森英恵やmarimekko社と提携した。
白井 震四郎(しらい しんしろう、1911年(明治44年)7… 白井 震四郎(しらい しんしろう、1911年(明治44年)7月15日 - 1982年(昭和57年)10月23日)は、日本の実業家。 日本高周波鋼業元取締役会長。神戸製鋼所元常務取締役。日本発条・尼崎製釘所(現・アマテイ)元各取締役。鋼材倶楽部・日本鉄鋼輸出組合(現・日本鉄鋼連盟)各元理事。 福島県会津若松市出身。衆議院議員を務めた白井新太郎の四男として生まれる。 祖父の白井五郎太夫は林安定とともに藩大砲隊頭を務め、鳥羽・伏見の戦いで討死した。なお父・新太郎の先妻は盛岡藩家老のち外交官の南部次郎(東政図)の次女・恵子、後妻は湯長谷藩の藩主家当主内藤政潔の叔母・董子である。また、兄(父・新太郎の養子)の白井龍一郎は加波山鉄道社長などを務めた実業家であり、龍一郎の妻は子爵山内豊健の姉で、幕末の土佐藩主山内容堂の孫にあたる。
尾上 清(おのえ きよし、1911年(明治44年)5月23日… 尾上 清(おのえ きよし、1911年(明治44年)5月23日 - 1988年(昭和63年)2月9日)は、日本の実業家。アパレル企業・レナウンの戦後創業者。 レナウンの前身は大阪で佐々木八十八(ささき やそはち)と尾上設蔵(せつぞう)によって1902年に創業されたメリヤス等の繊維卸売業「佐々木営業部」。 1911年、尾上清は同社の支配人、尾上設蔵の長男として大阪市住吉区帝塚山に生まれた。帝塚山学院小学部、住吉中学をへて慶應義塾高等部に進む。卒業と同時に東京佐々木営業部に入社。同期入社に本間良雄、鈴木達雄、尾上俊郎など後の最高幹部たちがいた。 1922年、英国皇太子エドワードが巡洋戦艦レナウンで具奉艦ダーバン(英語版)とともに訪日。
田中 精一(たなか せいいち、1911年(明治44年)4月2… 田中 精一(たなか せいいち、1911年(明治44年)4月26日 - 1998年(平成10年)6月24日)は、昭和から平成にかけて活動した日本の実業家。位階は従三位。 中部電力第4代代表取締役社長(のち会長・相談役)を務め、名古屋財界の重鎮であった。 中部電力以外では東海旅客鉄道(JR東海)代表取締役会長、中部経済連合会会長、日本電気協会会長、西ドイツ名誉領事、中部新国際空港建設促進協議会代表理事、名古屋グランパスエイト会長、ナゴヤドーム会長、財団法人東海産業技術振興財団理事長などを歴任。 勲等は勲一等瑞宝章。西ドイツからドイツ連邦共和国功労勲章大功労十字章、フランス政府からレジオン・ド・ヌール勲章を受章。
田中 昌司(たなか まさじ、1911年3月18日 - 200… 田中 昌司(たなか まさじ、1911年3月18日 - 2002年6月11日)は、日本の経営者。澁澤倉庫社長、会長を務めた。 埼玉県北葛飾郡鷲宮町出身。1935年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、同年に澁澤倉庫に入社。1958年に取締役に就任し、1961年に常務、1964年に専務、1967年11月に副社長を経て、1973年5月には社長に就任。1985年6月に会長を経て、1991年6月には相談役に就任。 2002年6月11日くも膜下出血のために死去。91歳没。
豊永 幸三(とよなが こうぞう、1911年1月3日 - 19… 豊永 幸三(とよなが こうぞう、1911年1月3日 - 1987年3月3日)は、日本の経営者。十條製紙社長を務めた。山口県出身。 1936年に慶応義塾大学経済学部を卒業し、同年に王子製紙に入社。1949年に十條製紙に転じ、1965年11月に取締役に就任し、1968年5月に専務を経て、1973年5月に副社長に就任し、1976年6月には社長に就任。1982年6月に会長に就任。 1984年11月に勲二等瑞宝章を受章。 1987年3月3日呼吸不全のために死去。76歳没。
菱刈 隆文(ひしかり たかふみ、1911年 - 1974年)… 菱刈 隆文(ひしかり たかふみ、1911年 - 1974年)は、日本の報道記者、実業家。 1937年に同盟通信に入社し、中国戦線に記者として従軍。1941年12月、陸軍報道班員としてマレー作戦に従軍、第25軍司令部要人の通訳を務めるなどした。シンガポール陥落後は第25軍参謀部の情報工作に関与。戦後行われたシンガポール華僑粛清事件の戦犯裁判では杉田一次ら第25軍司令部参謀からの伝聞内容について証言。戦後、吉田茂首相秘書官等を経て1956年に空港グランドサービス社長。 1911年、東京で、実父が陸軍大将菱刈隆という軍人一家に生まれる。父からは、自動車の運転と外国語、写真を習っておくように言われていた。
三田 政吉(みた まさきち、1910年(明治43年)12月1… 三田 政吉(みた まさきち、1910年(明治43年)12月12日 - 2006年(平成18年)1月25日)は、日本の実業家。料亭「濱田家」の二代目。明治座の元代表取締役会長。 兄は元三田観光企業社長・三田庄三郎。息子は料亭濱田家、明治座社長の三田芳裕。孫は明治座常務取締役の三田光政と元フジテレビアナウンサーの三田友梨佳。 1910年(明治43年)、東京市日本橋区青物町(現中央区日本橋)に生まれる。父・五三郎は板前の職人で、日本橋の福井楼という料亭の料理長だった。政吉が生まれてから2年後の1912年(大正元年)に、父・五三郎は日本橋人形町の玄冶店跡地にて料亭「濱田家」を創業。子供の時はデパートに行くのが楽しみだった。
降旗 憲二郎(ふりはた のりじろう、1910年12月5日 -… 降旗 憲二郎(ふりはた のりじろう、1910年12月5日 - 2002年6月2日)は、日本の企業家。三菱銀行元常務。 長野県北安曇郡常盤村(現大町市)生まれ。1928年(昭和3年)旧制松本第二中学(現長野県松本県ヶ丘高等学校)卒業。1934年(昭和9年)慶応義塾大学経済学部卒業。 同年、三菱銀行の前身である千代田銀行入行。三菱銀行代表取締常務、富士紡績監査役を務めた。 1950年(昭和25年)の第7回通常国会において、商法改正に関する小委員会の設置に際し、財界より広く意見を聴取することを目的として以下の参考人メンバーが決定されたが、その中に降旗の名前も挙げられている。
浜田 駿吉(はまだ しゅんきち、1910年(明治43年)10… 浜田 駿吉(はまだ しゅんきち、1910年(明治43年)10月19日 - 2009年(平成21年)12月7日)は、兵庫県神戸市生まれのフィールドホッケー選手、実業家。出身は同県の西淡町(現南あわじ市)。オーエム製作所の会長や大和紡績(現在のダイワボウホールディングス)の常務などを務めた。1933年慶應義塾大学経済学部卒業。。 中学校3年時より慶應義塾普通部へと転入、その後ホッケーを始め慶應義塾大学在籍時には日本代表へと選出された。1932年にはロサンゼルスオリンピックに代表選出されゴールキーパーとして出場、出場した3チーム中2位で銀メダルを獲得した。社会人となった1936年ベルリンオリンピックにも出場したが、予選リーグで敗退している。