安岡 章太郎(やすおか しょうたろう、1920年4月18日 … 安岡 章太郎(やすおか しょうたろう、1920年4月18日 - 2013年1月26日)は、日本の小説家。
慶應義塾大学:5,407人
安岡 章太郎(やすおか しょうたろう、1920年4月18日 … 安岡 章太郎(やすおか しょうたろう、1920年4月18日 - 2013年1月26日)は、日本の小説家。
庄司 隆雄(しょうじ たかお、1920年(大正9年)4月17… 庄司 隆雄(しょうじ たかお、1920年(大正9年)4月17日 - 没年不明)は、日本の実業家。巽興行代表社長。 横浜市出身。田辺家の三男として生まれ、庄司家を継ぐ。慶應義塾大学経済学部卒業。その後、巽興行代表社長を務め、熊谷観光開発代表取締役社長、高根カントリー倶楽部総支配人を兼任。 義弟の原田利彦も同じく後に高根カントリー倶楽部理事長を務めている。 娘の希実子の夫(娘婿)は十二代目市川團十郎。孫に十三代目市川團十郎、四代目市川翠扇。曾孫(ともに十三代目團十郎の子)に四代目市川ぼたん、八代目市川新之助。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
緒明 泰平(おあけ たいへい、1920年4月15日 - 19… 緒明 泰平(おあけ たいへい、1920年4月15日 - 1997年8月30日)は、日本の経営者。静岡銀行頭取を務めた。東京都出身。兄は三菱商事社長を務めた三村庸平。 1942年9月に慶應義塾大学法学部政治学科を卒業し、海軍大尉を経て、1946年11月に千代田火災海上保険に入社。 1949年6月に静岡銀行に転じ、1968年10月に取締役に就任し、1971年11月に常務、1973年11月に専務を経て、1975年5月に副頭取を就任し、1978年6月に頭取に昇格。1983年6月に取締役相談役を経て、1985年6月から相談役を務めた。 1983年11月に藍綬褒章を受章し、1990年11月に勲三等瑞宝章を受章。
芥川 比呂志(あくたがわ ひろし、1920年3月30日 - … 芥川 比呂志(あくたがわ ひろし、1920年3月30日 - 1981年10月28日)は、日本の俳優、演出家。 東京府東京市滝野川区(現・東京都北区)田端出身。作家・芥川龍之介の長男。母は海軍少佐の塚本善五郎の娘・文。妻は、龍之介の次姉・ヒサの長女で、従姉にあたる芥川瑠璃子。 3人兄弟で、長弟・多加志は第二次世界大戦中、22歳でビルマにて戦死、末弟・也寸志は作曲家。名の由来は龍之介の親友・菊池寛(表記同じで筆名ではカン、本名ではヒロシと読む)の名の読みを万葉仮名に当てたもの。ちなみに、多加志は小穴隆一の「隆」から、也寸志は恒藤恭の「恭」から取られている。 1926年、東京高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)に入学。
寺西 春雄(てらにし はるお、1920年3月20日-2003… 寺西 春雄(てらにし はるお、1920年3月20日-2003年6月22日)は、日本の音楽評論家である。 兵庫県出身。1944年、慶應義塾大学経済学部卒。野村光一らの指導を受け、1944年『音楽評論』に寄稿。戦後「子供のための音楽教室」設立に参加、のち桐朋学園大学教授。日本フィルハーモニー交響楽団事務局長。日ソ音楽家協会会長。
藤平 光一(とうへい こういち、1920年1月20日 - 2… 藤平 光一(とうへい こういち、1920年1月20日 - 2011年5月19日)は、東京生まれ栃木県出身の日本の武道(合気道)家。心身統一合氣道の創始者。1969年(昭和44年)合氣道10段。現一般社団法人心身統一合氣道会会長の藤平信一は息子。 幼少の頃は体が弱く、父親から柔道を教わった。慶應義塾大学に入学後、肋膜炎を発症し山岡鉄舟の高弟小倉鉄樹などから禅や呼吸法を学び修行した結果、肋膜炎が完治した。19歳のときに合気道の開祖植芝盛平に入門する。慶應義塾大学経済学部卒業後、陸軍に入隊。中国へ派遣されたときの体験が「氣の原理」に大きく影響を与えた。 帰国後、中村天風に師事し、心身統一道を学ぶ。その後ハワイを始め、アメリカ各地で合気道を指導した。
野中 英二(のなか えいじ、1920年1月16日 - 201… 野中 英二(のなか えいじ、1920年1月16日 - 2015年2月25日)は、日本の政治家。勲章は勲一等瑞宝章。 国土庁長官(第18代)、衆議院議員(6期)、埼玉県議会議員(3期)等を歴任した。 衆議院議員の野中厚は孫。 埼玉県加須市生まれ。旧制粕壁中学校、慶應義塾大学法学部卒業。 大越村議会議員、埼玉県議会議員を経て、1967年の第31回衆議院議員総選挙に旧埼玉4区(定数3)から無所属で出馬したが、次点で落選した。1969年、第32回衆議院議員総選挙に旧埼玉4区から再び無所属で出馬し、得票数2位で当選した(野中に代わり、日本社会党の板川正吾が落選し、保守系で3議席を独占した)。当選後、自由民主党に入党。
中島 陽一郎(なかじま よういちろう、1920年 - 200… 中島 陽一郎(なかじま よういちろう、1920年 - 2000年8月)は、日本の歴史家、官僚。 東京都生まれ。1943年慶應義塾大学法学部政治学科卒業。東亜研究所調査員・衆議院参事。国立国会図書館主査。
神津 善三郎(こうづ ぜんざぶろう、1919年12月31日 … 神津 善三郎(こうづ ぜんざぶろう、1919年12月31日 - 2002年5月15日)は日本の教育学者。専門は日本教育史。 長野県北佐久郡志賀村(現佐久市)生まれ、同郡小諸町(現小諸市)出身。旧制上田中学(現長野県上田高等学校)を経て、1944年慶應義塾大学文学部卒業。長野県短期大学(現長野県立大学)講師をへて、1961年教授、1976年学長就任。1984年長野大学学長に就任。1961年教育学博士(慶應義塾大学)(論文タイトルは『近代日本における義務教育の就学に関する研究:長野県における学齢期勤労児童の場合』) 長野県地方自治研究センター理事長やコープながの理事長を歴任した。1993年勲三等旭日中綬章。
小島 清文(こじま きよふみ、1919年〈大正8年〉12月2… 小島 清文(こじま きよふみ、1919年〈大正8年〉12月28日 - 2002年〈平成14年〉3月1日)は、日本の反戦運動家。台湾台北市出身。太平洋戦争末期に戦いの最前線であるルソン島での戦闘に参加し、アメリカ軍の前に敗北必至となった際、「生きて慮中の辱(はずかしめ)を受けず」、つまり敵軍の捕虜になるくらいなら死を選べとの日本軍の心得「戦陣訓」が絶対視された戦中において、敢えて投降の道を選んだ。戦後、後世に自分たちと同じ思いをさせず、戦争のない世界を作るために不戦と平和のために献身した。 慶應義塾大学経済学部を卒業後、太平洋戦争の戦局悪化の最中、海軍兵科予備学生隊を経て少尉に任官した。戦艦大和の暗号士として暗号電信解読の任務についていたが、1944年(昭和19年)12月、ルソン島での陸上勤務を命じられた。
江坂 輝弥(えさか てるや、1919年12月23日 - 20… 江坂 輝弥(えさか てるや、1919年12月23日 - 2015年2月8日)は、日本の考古学者。慶應義塾大学名誉教授。なお本名の正式な表記は「輝彌」である。 東京生まれ。慶應義塾大学文学部史学科卒業。慶應義塾大学文学部助教授、1971年教授。1982年「縄文土器文化研究序説」で慶應義塾大学より文学博士の学位を取得。1985年定年退任、名誉教授、松阪大学教授。1996年退職。縄文土器、石器時代の日本と大陸との交流について研究。1966年、坂詰秀一、芹沢長介と『考古学ジャーナル』を創刊。 2015年2月8日、老衰のため死去。95歳没。
友松諦道(ともまつ あきみち・たいどう、1919年11月20… 友松諦道(ともまつ あきみち・たいどう、1919年11月20日 - 2001年1月28日)は、日本の僧侶・幼児教育者。 友松円諦の長男として東京に生まれる。1942年慶応義塾大学文学部卒。神田寺住職。東京神田寺幼稚園園長。真理学園理事長。 1987年に藍綬褒章、1994年に勲四等瑞宝章を受章。2001年1月28日、心不全のため死去。
中村 菊男(なかむら きくお、1919年11月11日 - 1… 中村 菊男(なかむら きくお、1919年11月11日 - 1977年5月17日)は、日本の政治学者、政治家。慶應義塾大学名誉教授。 三重県鳥羽町(現・鳥羽市)出身。慶應義塾大学予科時代に高畠基之門下である井原糺の薫陶を受け、1943年に慶大法学部を卒業。板倉卓造と米山桂三の推薦で助手となり、同時に文部省の特別研究生。1946年に助教授、1952年教授。 民主社会主義を唱え、1952年民主社会主義連盟の結成に参加。1955年左右社会党の統一に際しては右派代表として統一綱領を作成し、社会党右派が脱党して民主社会党を結成するとそのブレーン的存在となる。1958年にはワシントン大学のジャパン・セミナーで講師を務めた。
錦織 登美夫(にしきおり とみお、1919年〈大正8年〉11… 錦織 登美夫(にしきおり とみお、1919年〈大正8年〉11月3日 - 2008年〈平成20年〉1月22日)は、日本の出版人、実業家。東洋館出版社創業者・初代社長。 新潟県中蒲原郡新津町大字新津字三之町(現 新潟市秋葉区新津本町3丁目)の東洋館書店・東洋館印刷所の錦織豊松の長男として出生。 1937年(昭和12年)3月に新潟中学校を卒業、1940年(昭和15年)3月に慶應義塾大学予科経済学部を修了、1942年(昭和17年)9月に慶應義塾大学経済学部を半年繰り上げ卒業。 第二次世界大戦で兵役に服し、1948年(昭和23年)にシベリア抑留から帰還、同年6月に東洋館出版社を設立して社長に就任、のちに会長に就任。
向井 啓雄(むかい ひろお、1919年10月14日 - 19… 向井 啓雄(むかい ひろお、1919年10月14日 - 1983年)は、ジャーナリスト、翻訳家。ロンドン出身。向井忠晴の子。 1942年、慶應義塾大学英文科卒。45-52年、アメリカピッツバーグ大学でジャーナリズムを学ぶ。54-55年、イギリス、アフリカを視察。同盟通信社、共同通信社、進駐軍施設、凸版印刷などに勤務。
中川 順(なかがわ すなお、1919年9月29日 - 201… 中川 順(なかがわ すなお、1919年9月29日 - 2010年5月22日)は、日本の実業家。テレビ東京(TX)元社長。広島県出身。
室井 鐵衛(むろい てつえ、1919年9月6日 - 2011… 室井 鐵衛(むろい てつえ、1919年9月6日 - 2011年4月5日)は、日本の商学者。元宣伝会議会長、東京国際大学教授。 米田清紀と並び、エリア・マーケティング研究の第一人者であった。商学博士。栃木県出身。 慶應義塾大学経済学部卒業後、時事通信社、中央調査社に勤務し、欧米の市場調査を日本に導入。その後、大広でマーケティング局長、常務取締役となり、広告の近代化と発展を牽引した。 実務の第一線から研究者に転じ、後年は千葉商科大学、東京国際大学大学院教授を務め、後進の育成に寄与した。 1993年から1999年まで株式会社宣伝会議取締役会長を務めた。 エリアマーケティングの第一人者で、長年にわたり広告マーケティング分野で活躍した。
高松 利夫(たかまつ としお、1919年8月15日 - 没年… 高松 利夫(たかまつ としお、1919年8月15日 - 没年不明)は、東京都出身のプロ野球選手(投手)・解説者・評論家。 東京府立第一商業 から慶應義塾大学へ進学。太平洋戦争中の1943年(昭和18年)10月16日に行われた出陣学徒壮行早慶戦(別名・最後の早慶戦)では先発の久保木清の中継ぎとして登板した。卒業後に菊水クラブへ進み、1950年に大映スターズへ入団。1951年から1953年まで3年連続で9勝を記録。現役生活は6年のみであり通算では負け越しているものの、終始大映の主力投手として活躍した。1955年引退。 引退後はニッポン放送解説者・スポーツニッポン評論家を務めた。
神山 四郎(こうやま しろう、1919年8月10日 - 19… 神山 四郎(こうやま しろう、1919年8月10日 - 1996年12月31日)は、日本の西洋史学者、慶應義塾大学名誉教授。 東京生まれ。慶應義塾大学文学部卒業。慶大文学部助教授、教授、1985年定年退任、名誉教授。専門は歴史哲学、比較文明論、福沢諭吉研究。
林 貞子(はやし ていこ、1919年〈大正8年〉7月4日 -… 林 貞子(はやし ていこ、1919年〈大正8年〉7月4日 - 2006年〈平成18年〉8月13日)は、日本の幼児教育の専門家。松濤幼稚園の創設者で、東海大学名誉教授も務めた。人権擁護委員。勲等は勲四等瑞宝章。 父・牧野伸通は伯爵・牧野伸顕の長男で式部官、母・純子は男爵・鍋島直明の長女で上皇后美智子の元東宮女官長。伸通・純子夫妻の長女として生まれ、慶應義塾大学文学部哲学科を卒業後、慶應義塾大学大学院文学研究科修士課程を修了(専攻は社会学)。夫は学習院大学名誉教授の林友春(伯爵・林博太郎の三男)。 1947年、東京都の中でも屈指の高級住宅街、渋谷区松濤に松濤幼稚園を創設した。当幼稚園は政治家から財界人の重鎮、また皇族や著名人の子らが多く通うことで知られており、若葉会幼稚園、枝光会附属幼稚園などと共に「御三家幼稚園」と呼ばれるとともに日本で最も学費が高額な幼稚園として知られていた。
鈴木 広(すずき ひろし、選挙時の通称:すずきひろし、191… 鈴木 広(すずき ひろし、選挙時の通称:すずきひろし、1919年6月25日 - 不詳)は、日本の政治運動家。社団法人日英協会終身会員等。 東京市本郷区(現文京区)出身。慶應義塾大学文学部卒業後、スタンフォード大学、ブリガムヤング大学、コロンビア大学に留学。 敗戦直後に香港で豪州軍の戦犯法廷で通訳を務めたのを始め、進駐米陸軍、八幡製鐵、三菱レイヨン、日興証券、大日本インキ化学工業勤務を経て、東京外国語大学、日本大学講師。 片山哲の影響を受け、1969年の第32回衆議院議員総選挙(旧京都府第1区)から旺盛な選挙闘争に着手。 主要公約は諸外国との友好、教育の充実、未成年労働者への非課税、交通網の整備、少数意見の尊重、清潔な選挙など、実直な人柄を忍ばせる常識的なもので、諸派候補の中にあって毎回上位で健闘したが、立候補した総ての国政選挙で落選し供託金を没収された。
中林 仁良(なかばやし ひとよし、1919年(大正8年)6月… 中林 仁良(なかばやし ひとよし、1919年(大正8年)6月25日 - 2007年(平成19年)7月15日)は、日本の実業家、軍人。百貨店「丸物」社長、京都近鉄百貨店会長・取締役 相談役、旧 近鉄百貨店取締役 相談役などを歴任した。父は丸物(京都物産館)創業者の中林仁一郎。 1919年(大正8年)6月25日、中林仁一郎の長男として生まれる。父・仁一郎は弟(仁良の叔父)・谷政二郎と東本願寺から現在の京都ヨドバシ東南隅に当たる場所を借り、仁良が生まれた翌年に京都物産館を創業したが、中林一家はその隣の家に住んでいた。仁良は京都物産館の北側にあった空き地を突っ切って幼稚園へ通った。慶應義塾大学経済学部に入学して大学時代は東京で過ごしたが、この頃麴町に丸物の東京出張所があったという。
清川 泰次(きよかわ たいじ、1919年5月6日 - 200… 清川 泰次(きよかわ たいじ、1919年5月6日 - 2000年8月6日 )は、日本の洋画家。 1919年(大正8年)5月6日、静岡県浜松市にて生誕。1936年、浜松第一中学(現浜松北高校)4年修了後、慶應義塾大学経済学部予科に入学し、油彩画を始めていく。大学在学中は写真部に所属していた。 1944年に慶應義塾大学を卒業し、戦後はアメリカやヨーロッパ、アジア各地を訪問していく。1947年に二科展に初入選し、浜松市で初の個展を開催する。 1949年には世田谷区の成城にアトリエ兼住居を構え、1951年に渡米しシカゴの画廊で個展を開催し、1954年にタイやエジプト、インドなどを周遊後、帰国。帰国後は、「今日の新人展」(神奈川県立近代美術館)や読売アンデパンダン展等に出品していった。
黒田 靖之助(くろだ やすのすけ、1919年4月29日 - … 黒田 靖之助(くろだ やすのすけ、1919年4月29日 - 1989年8月8日)は、日本の経営者。大阪府出身。黒田善太郎の三男。 1942年に慶応義塾大学経済学部を卒業し、1946年に黒田国光堂(のちのコクヨ)に入社。1949年に常務に就任し、1964年に専務を経て、1970年に副社長に就任し、1985年12月に社長に昇格した。 1989年8月8日出張先の福岡市で心不全のために死去。70歳没。
野村 芳太郎(のむら よしたろう、1919年(大正8年)4月… 野村 芳太郎(のむら よしたろう、1919年(大正8年)4月23日 - 2005年(平成17年)4月8日)とは、日本の映画監督。父は映画監督の野村芳亭、祖父は浮世絵師の二代目野村芳国。 父・芳亭は日本の映画監督の草分け的存在で、松竹蒲田撮影所の所長も務めた。その関係で、京都と東京を行き来して育つ。京都市生まれで、生後まもなく東京市浅草区に移った。蒲田小学校から暁星小学校、暁星中学校を経て慶應義塾大学文学部芸術学科卒業。大学卒業後の1941年、松竹大船撮影所に入社。 1946年に復員。黒澤明作品の『醜聞』『白痴』では助監督を務め、黒澤からは「日本一の助監督」と評価された。1952年の『鳩』で監督デビュー。
上野 公夫(うえの きみお、1919年〈大正8年〉3月26日… 上野 公夫(うえの きみお、1919年〈大正8年〉3月26日 - 2007年〈平成19年〉11月17日)は、日本の経営者。中外製薬第2代社長を務めた。位階は従四位。中外製薬創業者上野十蔵の娘婿。公夫の娘婿に永山治(同社第4代社長)、息子に上野幹夫(同社副会長)らがいる。 東京都出身。1941年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、同年に日本銀行に入行。1953年11月に中外製薬に転じ、1955年5月に取締役、1956年11月に専務、1958年6月に副社長を経て、1966年4月に社長に就任。1987年3月に会長に就任し、2000年6月には名誉会長に就任。 1990年10月に勲三等旭日中綬章を受章。 2007年11月17日に肺炎のために死去。
吉村 克己(よしむら かつみ、1919年(大正8年)3月14… 吉村 克己(よしむら かつみ、1919年(大正8年)3月14日 - 1997年(平成9年)7月2日)は、日本のジャーナリスト、実業家。産業経済新聞社編集局次長を経て、フジテレビジョン専務取締役、サンケイ出版会長等を歴任した。 広島県生まれ。慶應義塾大学経済学部を卒業。軍務の後、1946年に時事新報社へ入社。 1955年に産業経済新聞社に移り、政治部長、編集局次長。1970年にフジテレビへ移籍し、報道局長、取締役報道局長、取締役報道本部長、常務取締役、専務取締役。 1981年にサンケイ出版会長。 1997年7月2日、東京都江戸川区の病院で脳梗塞のため死去。78歳没。 水野成夫時代の産経新聞社は、政治的には池田勇人首相と水野の親密な関係から政権と密着し、他方、池田は新聞社の編集幹部人事などに介入した。
芥川 隆行(あくたがわ たかゆき、1919年〈大正8年〉3月… 芥川 隆行(あくたがわ たかゆき、1919年〈大正8年〉3月6日 - 1990年〈平成2年〉10月2日)は、日本の元アナウンサー、ナレーター、司会者。本名は同じ。東京府(現・東京都)出身。 1951年10月にラジオ東京(現TBS)にアナウンサー第1期生として入社。1959年12月にラジオ東京を退社。1960年1月にフリーとなり芥川企画を設立し司会者・ナレーターとしても活躍した。日本におけるナレーターの草分け的存在でもあり、時代劇、演歌番組において、芥川節と呼ばれるめりはりのきいた渋い語り口で活躍。代表作には『木枯し紋次郎』、『必殺シリーズ』、『西遊記』、『水戸黄門』等。顔のない名優といわれた。妻はラジオ東京アナウンサー第1期生の本田節子。
成田 啓二(なりた けいじ、1919年1月27日 - 198… 成田 啓二(なりた けいじ、1919年1月27日 - 1985年3月29日)は、鳥取県米子市出身のプロ野球選手(投手)。1950年の登録名は「敬二」。 米子中学校4年次の1935年、1級先輩の清水秀雄-井上親一郎のバッテリーの活躍で、一塁手として春夏連続で甲子園に出場した(ちなみに井上とは、その後、大学、ノンプロ、プロと共に過ごすことになる)。1936年は山陰大会決勝で鳥取一中に敗れる。 卒業後慶應義塾大学野球部で活躍したのち、大阪鉄道局米子に入る。シベリア抑留を経験したが、その後米鉄に戻り、1949年までプレーする。 1950年、国鉄スワローズ結成に伴い入団。球団結成初戦の開幕投手を務めたが、惜しくも敗戦投手となった。
羽倉 信也(はぐら のぶや、1919年〈大正8年〉1月17日… 羽倉 信也(はぐら のぶや、1919年〈大正8年〉1月17日 - 2004年〈平成16年〉4月12日)は、日本の銀行家。第一勧業銀行頭取、第42代全国銀行協会会長、神社本庁理事。位階は従三位。 京都府生まれ。羽倉家の家系は千年前に迪ることができ、先祖代々京都伏見稲荷大社の社家(社務を司る家)であった。 慶應義塾大学予科に進み、英文学を極め、1941年(昭和16年)に同大経済学部卒業後、特殊銀行であった日本勧業銀行に入行。学生時代に培った英語力を活かし、アメリカの金融制度の翻訳や調査、戦後はGHQに提出する資料の作成に携わる。銀行員生活の大半を国際畑で過ごし、ニューヨーク支店長などを歴任し、1968年(昭和43年)に取締役丸の内支店長。
大谷 隆三(おおたに りゅうぞう、1919年1月11日 - … 大谷 隆三(おおたに りゅうぞう、1919年1月11日 - 2000年2月23日)は、松竹株式会社社長。同社創業者の子。放火事件を起こし退任した。 松竹創業者大谷竹次郎の次男。1941年、慶應義塾大学経済学部卒業後、松竹に入社。1971年から1984年まで社長を務めた。妻の道子は大谷光瑩の孫(庶子瑩韶の娘)。 1971年に妻を亡くして以来、アルコール依存症となり、1984年2月8日、長男の信義に飲酒に出かけようとしたところを窘められ、激昂して東京都品川区東五反田の自宅に灯油をまいて放火した。この結果、荷物を取りに戻ろうとした住み込みの手伝いの女性が焼死した。 隆三は建造物放火容疑で逮捕起訴され、松沢病院に入院、懲役3年・執行猶予5年の有罪判決を受ける。
杉山 元太郎(すぎやま もとたろう、1918年12月22日 … 杉山 元太郎(すぎやま もとたろう、1918年12月22日 - 1970年4月29日)は、日本の実業家。米国ニューオーリンズ名誉市民。ホーネンコーポレーション(現J-オイルミルズ)の元取締役社長。 社団法人油脂製造業会会長。豊産業(後に子会社となる日華油脂と合併しJ-NIKKAパートナーズとなる)元取締役社長。元慶應義塾評議員。従五位勲四等。 1940年慶應義塾大学経済学部卒業後、三菱商事に入社。1945年10月に豊年製油(現・J-オイルミルズ)に入り、1948年に専務、1954年より社長を務めた。慶應義塾評議員。墓所は小平霊園。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
小菅 丹治(こすげ たんじ、1918年(大正7年)12月15… 小菅 丹治(こすげ たんじ、1918年(大正7年)12月15日 - 1984年(昭和59年)3月4日)は、日本の実業家。伊勢丹社長、日本百貨店協会会長を務めた。旧名:小菅利雄。 東京・神田に2代小菅丹治・ときの長男として生まれる。姉の喜子(尾上清レナウン理事長の妻)と弟振作(レナウン監査役)の3人きょうだいである。 東京女子高等師範学校の付属幼稚園に入り、小学校、中学校は東京高等師範学校の付属に通った。中学4年修了で慶應義塾大学の予科を受験して合格。慶大経済学部を卒業。1941年三井物産に入社し、1944年には東京帝国大学医学部教授細谷省吾の娘・悠と結婚した。 終戦後、三井物産がGHQの財閥解体命令で解散したため退社。
和田木 松太郎(わだぎ まつたろう、1918年12月15日 … 和田木 松太郎(わだぎ まつたろう、1918年12月15日 - 1985年9月6日)は、日本の会計学者。 東京市向島区(現・墨田区)生まれ。1941年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、千代田生命保険相互会社に入社。1948年に退社し、同年から1951年まで経営研究所に勤務。1955年慶大経済学部講師、1958年助教授、1963年教授、1980年退職。1982年松阪大学教授となる。在任中、66歳で死去した。
小寺 新六郎(こでら しんろくろう、1918年12月14日 … 小寺 新六郎(こでら しんろくろう、1918年12月14日 - 1985年10月29日)は、日本の実業家。元ユニチカ社長。 兵庫県武庫郡住吉村(現・神戸市東灘区)に小寺源吾(元大日本紡績(現・ユニチカ)社長、会長)の6男として生まれる。 1941年12月、慶應義塾大学経済学部卒業と同時に父が経営していた大日本紡績に入社し、軍隊時代は満州や沖縄を転戦した。 戦後は10年以上にわたり同社の原綿課に勤務し、次いでニューヨーク駐在を経た後、ビニロン輸出課長、ビニロン化繊部長、産業資材販売部長を歴任する。1970年11月にユニチカ取締役、1972年5月に常務、1973年11月に副社長を経て、1974年3月28日に社長に就任し、父・源吾と出身大学および役職を同じくする経歴を歩んだ。
青沼 吉松(あおぬま よしまつ、1918年12月6日 - 1… 青沼 吉松(あおぬま よしまつ、1918年12月6日 - 1990年2月12日)は、日本の経営学者。慶應義塾大学名誉教授。 東京生まれ。1943年慶應義塾大学経済学部卒。同年、短期現役海軍主計科士官(10期)を志願。同年9月、海軍経理学校に入学。1944年3月に経理学校を卒業し海軍主計中尉に任官。1945年3月、主計大尉に進み終戦を迎えた。 1949年慶大助教授、59年教授、60年「企業の社会的環境とその内的問題」で慶大経済学博士。84年定年、名誉教授、国際商科大学教授。
井上 元勝 (いのうえ もとかつ、1918年(大正7年)12… 井上 元勝 (いのうえ もとかつ、1918年(大正7年)12月2日 - 1993年(平成5年)1月1日)は、日本の武道家。唯心会と琉球古武術のグランドマスターとして知られた。 東京府東京市麻布区麻布富士見町(現・東京都港区南麻布)出身、慶応義塾大学卒業。 井上は、日本の首相であった公爵桂太郎の次男、また侯爵井上勝之助の嗣子である侯爵井上三郎の次男として東京市麻布富士見町に生まれた。母は井上馨の長女・千代子。幼い頃から武家の訓練を始めたが、警備スペシャリスト、甲賀流 忍術の宗家継承者であり、最後の真の忍者と見なされていた藤田西湖(1898-1966)によって武術を教えられた。 後に井上は、小西康裕と平信賢のもとで訓練を行い、そこで琉球古武道保存振興会で使用される武器術を学ぶ。
斎藤 公正(さいとう こうせい、1918年11月1日 - 1… 斎藤 公正(さいとう こうせい、1918年11月1日 - 1974年2月15日)は、池上通信機創業者。神奈川県出身。 慶應義塾大学経済学部卒業後、大日本帝国海軍主計科に入り、海軍経理学校でも学んだ。横須賀鎮守府、大湊海軍航空隊、滋賀海軍航空隊で主計長を務め、終戦時は主計少佐であった。 1946年、池上通信機材製作所(現・池上通信機)を設立。一代で一流メーカーに育て上げた。 1974年2月15日、神奈川県藤沢市の江の島ヨットハーバー前の駐車場を乗用車で二・三周した後、料金所脇から猛スピードで岸壁に衝突し、死亡した。労働組合の問題で悩んでおり、自殺ではないかとされている。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
正力 亨(しょうりき とおる、1918年(大正7年)10月2… 正力 亨(しょうりき とおる、1918年(大正7年)10月24日 - 2011年(平成23年)8月15日)は、日本の実業家。読売新聞グループ本社社主、読売ジャイアンツオーナーなどを務めた。実父の正力松太郎の別称である大正力(だいしょうりき)に対比して、小正力と呼ばれる。 正力松太郎の長男として、東京府で生まれる。 慶應義塾幼稚舎、慶應義塾普通部を経て、1942年に慶應義塾大学経済学部卒業。普通部では野球部で投手兼4番を務め、大学では、1年間選手を経験した後、マネージャーに転向している。 1944年10月、海軍主計大尉だった亨が乗り込んだ旗艦「南海」は、インドネシア・ボルネオ島沖のマカッサル海峡で敵潜水艦の魚雷により撃沈され、亨は重油の海を10時間漂う体験をもつことになった。
飯島 滋弥(いいじま しげや、1918年10月11日 - 1… 飯島 滋弥(いいじま しげや、1918年10月11日 - 1970年8月9日)は、千葉県香取郡吉田村(現:匝瑳市吉田)出身の元プロ野球選手(内野手、外野手)・コーチ・監督、解説者。
竹山 逸郎(たけやま いつろう、1918年10月5日 - 1… 竹山 逸郎(たけやま いつろう、1918年10月5日 - 1984年4月4日、本名:竹山 逸平)は、昭和20年代に活躍した日本の歌手である。代表曲は「泪の乾杯」、「異国の丘」など。 静岡県浜松市出身。浜松第一中学校を経て慶應義塾大学法学部に進学。大学在学中から歌好きが高じてコーラス部に所属。卒業後は日本火災海上(現:損害保険ジャパン)に就職するも、歌手になる夢が捨てきれず、1943年に日本ビクターから歌手デビューする。 ヒットに恵まれたのは戦後になってからで、1947年に平野愛子の「港が見える丘」のB面だった「泪の乾杯」をはじめ、藤原亮子とデュエットした「誰か夢なき」、1948年に作曲家・吉田正の出世作となり、復員兵の中村耕造とデュエットした「異国の丘」、1949年に再び藤原亮子とデュエットした「月よりの使者」、「熱き泪を」、「流れの船唄」が相次いでヒットとなった。
鈴木 亨(すずき とおる、1918年9月29日 - 2006… 鈴木 亨(すずき とおる、1918年9月29日 - 2006年12月9日)は詩人。神奈川県横浜市出身。 慶應義塾大学文学部国文科卒業、同大学院修士課程修了。第2次『四季』に寄稿、のち編集に当たる。1939年『山の樹』を創刊、主宰。90年より詩誌「木々」を主宰。98年「火の家」で丸山薫賞受賞。明治大学教授、跡見学園女子大学教授、宇都宮文星短期大学教授。 2006年に肺炎のため死去した。享年88。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
井上 親一郎(いのうえ しんいちろう、1918年9月8日 -… 井上 親一郎(いのうえ しんいちろう、1918年9月8日 - 没年不明)は、鳥取県米子市出身のプロ野球選手(捕手)・高校野球監督、高校野球解説者。 米子中では捕手として清水秀雄とバッテリーを組み、5年次の1935年には甲子園に春夏連続出場したが、いずれも初戦敗退に終わる。中学卒業後は慶應義塾大学に進学し、中学の後輩である成田啓二の球を受け、東京六大学リーグで何度か首位打者争いを展開した。リーグ通算61試合出場、190打数45安打、打率.237、1本塁打を記録。大学卒業後は帝国鉱業開発、大阪鉄道管理局でプレー。終戦後は1947年のみ母校・米子中で監督を務め、地元の米子鉄道管理局へ入社。1950年に国鉄スワローズ結成に伴って入団し、初代主将として開幕から正捕手を務めた。
松尾 英男(まつお ひでお、1918年8月30日 - 199… 松尾 英男(まつお ひでお、1918年8月30日 - 1998年4月3日)は、日本の実業家。 元東急不動産社長、東急ハンズ社長、東京急行電鉄専務。 北海道札幌市出身。小学校卒業後、母親の再婚で東京に移る。1942年慶應義塾大学経済学部を卒業し、戦後の1946年に東京急行電鉄に入社。1953年に東急不動産に出向し、田園都市部長・常務・専務などを経て、1978年社長に就任し、のち会長となる。同社を総合ディベロッパーに育てあげ、「中興の祖」と呼ばれた。さらに1976年に東急ハンズの設立に関わり、初代社長を務める。また、この間東京急行電鉄取締役・専務なども歴任し、東急グループの重鎮として活躍した。
荘 英介(しょう えいすけ、1918年〈大正7年〉8月20日… 荘 英介(しょう えいすけ、1918年〈大正7年〉8月20日 - 2019年〈平成31年〉4月6日)は、日本の実業家。元スピードスケート選手。元日本スケート連盟名誉会長。元王子製紙専務。元王子製袋社長。 慶應義塾大学経済学部卒業。王子製紙所属のスピードスケート選手として活躍。現役を引退後は北海道苫小牧市にある王子製紙の苫小牧工場長に就任。監査役を経て1981年に王子製袋社長に就任。 また1992年には日本スケート連盟会長に就任。1998年に同連盟の会長を退任後は名誉会長となる。1999年、勲四等瑞宝章を受章。 2019年4月6日、東京都豊島区の自宅にて老衰のため死去。享年100歳。 この項目は、スポーツ関係者に関連した書きかけの項目です。
油井 正一(ゆい しょういち、1918年8月15日 - 19… 油井 正一(ゆい しょういち、1918年8月15日 - 1998年6月8日)は、日本のジャズ評論家。1950年代から晩年まで、日本のジャズ評論の第一人者と評される活躍をした。 横浜市生まれ。1924年、神戸市へ移り、同地で育つ。兵庫県立第三神戸中学校を経て、慶應義塾大学法学部に学び1941年に卒業した。ジャズへの関心は学生時代からのもので、当時から既にレコードの収集、ジャズ評論の執筆を始めていた。戦時中は兵役に就き、前橋陸軍予備士官学校から東部22部隊へ配属され、将校として高射砲部隊にいた。戦後は評論活動を再開し、神戸で朝比奈次郎と名乗り、1952年に開局したラジオ神戸(現・ラジオ関西)で「ジャズ・アメリカーナ」という番組を担当し、選曲にもあたった1955年に神戸から上京し、評論家としての本格的な活動に入った。
御木本 美隆(みきもと よしたか、1918年(大正7年)8月… 御木本 美隆(みきもと よしたか、1918年(大正7年)8月5日 - 1996年(平成8年)1月15日)は、日本の実業家。御木本真珠店(現ミキモト)会長。日本真珠振興会会長、全国真珠養殖漁業協同組合連合会会長。ミキモトの創業者御木本幸吉の孫。 三重県出身。御木本隆三の長男。1941年、慶應義塾大学経済学部卒業。家業を継承する。住所は東京都港区。著書には『御木本幸吉の思い出』がある。 政治家の森清、洋画家の脇田和、月光荘画材店創業者の橋本兵蔵、作曲家の服部良一、広告代理店の宣弘社社長・小林利雄、建築家の谷口吉郎らと猪熊弦一郎を囲む日曜画家の会を作り、猪熊が飼っていた猫の名から「シャグリ会」と称して家族ぐるみの交流を楽しみ、1955年には、その仲間とともに、軽井沢に長屋形式の別荘「画架の森」を谷口の設計で建設した。
石澤 夏郎(いしざわ なつろう、1918年8月1日 - 20… 石澤 夏郎(いしざわ なつろう、1918年8月1日 - 2003年3月21日)は、日本の経営者。日本酸素社長、会長を務めた。東京都出身。 1941年に慶應義塾大学法学部法律学科を卒業し、同年に南洋拓殖に入社。 1942年に兵役主計中尉を経て、1946年に日本酸素に転じ、1968年に取締役に就任し、1972年に常務、1977年に専務を経て、1978年2月には社長に就任。1986年7月から1991年6月までに会長を務めた。 1983年4月に藍綬褒章を受章。。 2003年3月21日急性心筋梗塞のために死去。84歳没。
石田 達郎(いしだ たつろう、1918年(大正7年)7月18… 石田 達郎(いしだ たつろう、1918年(大正7年)7月18日 - 1990年(平成2年)7月19日)は、日本の実業家。ニッポン放送・フジテレビジョン社長を務めた。北海道札幌市出身。 札幌一中(現:北海道札幌南高等学校)、慶應義塾大学経済学部を卒業。 鐘淵紡績、映画プロデューサーを経て、1954年(昭和29年)ニッポン放送に入社。74年社長、85年相談役。この間、フジテレビ社長、産経新聞代表取締役を兼任したほか、パシフィック音楽出版(PMP、現:フジパシフィックミュージック)、ポニー、キャニオンレコード(現:ポニーキャニオン)、ディノス(現:DINOS CORPORATION)といった、フジサンケイグループで非放送・新聞事業の中核となる企業を設立した。
堀田 善衛(ほった よしえ、1918年〈大正7年〉7月7日 … 堀田 善衛(ほった よしえ、1918年〈大正7年〉7月7日 - 1998年〈平成10年〉9月5日)は、日本の小説家、評論家。