夏目 伸六(なつめ しんろく、1908年(明治41年)12月… 夏目 伸六(なつめ しんろく、1908年(明治41年)12月17日 - 1975年(昭和50年)2月11日)は、日本の随筆家。 夏目漱石と夏目鏡子の二男として東京市牛込区(現在の東京都新宿区)早稲田南町に生まれる。伸六の上に姉4名と兄がいた。漱石は、名前を「申年に生まれた6番目の子ども」ということで「申六」とする予定だったが、「先生、いくらなんでも人間の子供ですから、ニンベンをつけて『伸』にしましょう」と漱石の弟子である小宮豊隆から言われ、「伸六」となった。 父の死去時には数えで9歳(小学校2年生)であった。暁星小学校および同中学校を経て慶應義塾大学文学部予科に進み、その後、日本フィルハーモニー交響楽団からチェリストとして声がかかり、同独文科を中退した。
梅澤 純夫(うめざわ すみお、1908年11月22日 - 2… 梅澤 純夫(うめざわ すみお、1908年11月22日 - 2000年3月30日)は、日本の有機合成化学者。専門は抗生物質。慶應義塾大学名誉教授。
冨田 恒男(とみた つねお、1908年<明治41年>10月8… 冨田 恒男(とみた つねお、1908年<明治41年>10月8日 - 1991年<平成3年>6月23日)は日本の生理学者。医学博士。慶應義塾大学医学部名誉教授で医学部長を務めた。アメリカ合衆国のイェール大学名誉教授。眼の網膜の情報処理機構の研究で知られ、視覚神経生理学、感覚生理学の世界的権威とされる。1972年(昭和47年)、紫綬褒章受章。1978年(昭和53年)、勲二等瑞宝章受章。位階は従四位。愛知県岡崎市出身。
気賀 健三(きが けんぞう、1908年〈明治41年〉10月6… 気賀 健三(きが けんぞう、1908年〈明治41年〉10月6日 - 2002年〈平成14年〉2月15日)は、日本の経済学者、慶應義塾大学名誉教授。 同じく経済学者であった気賀勘重の子として東京に生まれる。1930年慶應義塾大学経済学部経済学科卒業、同学部助手。1937年同助教授、1942年教授。1956年、「社会的進歩の原理 : 経済政策原理の社会哲学的研究」で慶應義塾大学より経済学博士を取得。1974年定年退職、名誉教授、成城大学教授。学校法人桑沢学園理事長、教科書正常化国民会議会長[要出典]。 はじめソ連経済を研究し、ソ連、東欧研究会代表理事だったが、スタンスは反共主義で民主社会主義研究会議理事であった。
村田 武雄(むらた たけお、1908年9月30日 - 199… 村田 武雄(むらた たけお、1908年9月30日 - 1997年3月16日)は、音楽評論家・国立音楽大学名誉教授。東京都出身。 1950年代から1980年代にかけて、クラシック音楽に関する書籍などを多数執筆し、その普及につとめた。海外の音楽関連の書籍の翻訳なども手がけている。晩年は、当時の音楽評論家の代表格として数えられる存在だった。 堀内敬三の後を受けてNHKラジオ第1放送のクラシック音楽専門の番組「音楽の泉」2代目パーソナリティとして、1959年度から1987年度まで、延べ30年近くの長きにわたって担当したことで知られた。永井荷風と疎開先の岡山で知り合った。また、慶應義塾大学・国立音楽大学などでは、教授として音楽史について教鞭を執っていた。
鷲尾 洋三(わしお ようぞう、1908年 (明治41年)9月… 鷲尾 洋三(わしお ようぞう、1908年 (明治41年)9月18日 - 1977年(昭和52年)4月26日)は、日本の編集者、実業家。文藝春秋副社長を務めた。東京生まれ。 慶應義塾大学文学部卒業後、1932年(昭和7年)文藝春秋社入社。36年谷崎潤一郎の二番目の妻だった古川丁未子と結婚。戦時中、三たび応召されるが生き延びる。 戦後、菊池寛が文藝春秋を解散すると、車谷弘らと佐佐木茂索を社長に迎えて文藝春秋新社を創立。池島信平を『文藝春秋』編集長とし、のち自身も編集長を担い、谷崎の「幼少時代」を連載した。その後、取締役出版局長、専務、副社長を歴任した。 1969年(昭和44年)丁未子の死後、千代と再婚した。
二代目 津村重舎(つむら じゅうしゃ、1908年(明治41年… 二代目 津村重舎(つむら じゅうしゃ、1908年(明治41年)9月5日 - 1997年(平成9年)7月12日)は、日本の実業家。東京都出身。株式会社津村順天堂(現 株式会社ツムラ)の二代目社長。漢方の復権に尽力した。幼名は基太郎。 1874年(明治7年)発布の「医制」以後、日本の医療は西洋医学中心となり漢方医学・東洋医学は凋落していたが、1957年(昭和32年)10月、二代目重舎は自社ビル(中将湯ビル)の一部を漢方診療所(現金匱会診療所)とし、大塚敬節を中心として小出弥生、藤平健、伊藤清夫、相見三郎、山田光胤、大塚恭男ら著名な漢方医を迎え入れる。翌年その診療所は医療法人としての認可を受け、二代目重舎が理事長となるが、日本で漢方診療施設が法人認可されるのは初であった。
帯谷 竜一(おびたに りゅういち、古い資料では「帶谷龍一」。… 帯谷 竜一(おびたに りゅういち、古い資料では「帶谷龍一」。1908年9月4日 -没年不明 )は、日本の男性フィギュアスケート選手。1932年レークプラシッドオリンピック男子シングル日本代表。慶應義塾大学経済学部卒業。兵庫県出身。 オリンピック出場のため1932年の全日本選手権には出場していない。
三橋 一夫(みつはし かずお、1908年8月27日 - 19… 三橋 一夫(みつはし かずお、1908年8月27日 - 1995年12月14日)は、日本の作家、健康研究家。 兵庫県神戸市生まれ。本名・敏夫。父親の三橋信三は三菱倉庫に勤務で、後、同社社長、三菱本社理事などを歴任。父親の影響で武術をはじめるが、一方で文学少年でもあった。 慶應義塾大学経済学部卒。在学中にヨーロッパへの留学経験がある。1940年ごろから同人誌『三田文学』、『文芸世紀』などに創作を発表し、終戦後の1948年には林房雄の紹介で『新青年』に「腹話術師」が掲載され、商業誌にデビューした。「不思議小説」と銘打った奇妙な作風で好評を博し、同誌の常連執筆者となる。『新青年』1949年6月号から同誌休刊の1950年7月号まで、横溝正史の命名による「まぼろし部落」のタイトルで不思議小説を毎号連載した。
野田 一雄(のだ かずお、1908年6月30日 - 1995… 野田 一雄(のだ かずお、1908年6月30日 - 1995年3月31日)は、日本の競泳選手。400m・800m・1500m自由形元日本記録保持者。 静岡県浜松市出身。静岡県立浜松商業学校(現・静岡県立浜松商業高等学校)卒業後、慶應義塾大学に進学。 1924年、浜商在学中にパリオリンピック代表に選出され、400m自由形・1500m自由形に出場。また、男子4×200mリレーにおいて小野田一雄、高石勝男、宮畑虎彦とともに4位の成績を修めた。 1925年、第7回極東選手権競技大会に出場。400ヤード第3位。 1926年、第5回全国学生水上競技大会に出場。100m・800m自由形優勝。 1928年アムステルダムオリンピックで水泳主将を務め、男子4×200mリレーの予選のみ出場した。
小野 操(おの みさお、1908年5月27日 - 故人)は、… 小野 操(おの みさお、1908年5月27日 - 故人)は、日本の陸上競技選手(走高跳)。慶應義塾大学在学中に、1932年ロサンゼルスオリンピックで男子走高跳に出場した。 現在の栃木県佐野市出身。旧制佐野中学校(現在の栃木県立佐野高等学校・附属中学校)から慶應義塾大学に進む 1928年(昭和3年)、旧制佐野中学校出身者が設立した「佐野スパルタ倶楽部」(SAC) の創設に参加。「佐野スパルタ倶楽部」の名称は、小野がイギリスのアキレス・クラブ(英語版)にちなんでつけたという。 1929年(昭和4年)に神宮競技大会で優勝(1m83)したのを皮切りに、1930年代前半にかけて各種大会の走高跳種目で活躍。
大久保 洋(おおくぼ よう、1908年5月9日 - 2002… 大久保 洋(おおくぼ よう、1908年5月9日 - 2002年3月30日)は、日本のフランス文学者、翻訳家。本名は大久保 洋海(おおくぼ ひろみ)。 東京生まれ。1931年慶應義塾大学文学部仏文科卒。1936年より銀座でフランス語講座を開く。1943年海軍嘱託としてサイゴンに赴く。戦後、慶大助教授、教授、1974年定年、名誉教授。 作家の坂口安吾と親しかった。
大林 清(おおばやし きよし、1908年4月25日 - 19… 大林 清(おおばやし きよし、1908年4月25日 - 1999年10月27日)は、日本の小説家、劇作家。 第4代日本作家クラブ会長。日本放送作家組合(現・日本脚本家連盟)の創立以来、理事長を務め、日本著作者団体協議会会長など文化団体の会長、理事、評議員など歴任。 東京府立第一中学校を卒業後に慶應義塾大学仏文科入学。1932年に同校中退後、1933年同人雑誌「大衆文学」を創刊。1939年に長谷川伸が主宰する新鷹会に入会した。1939年頃、長谷川伸主宰の劇作研究会で舞台脚本を執筆。 1943年に野間文芸奨励賞を受賞。 戦後は都会風俗を描き、ラジオ、テレビの脚本を多く書き、「あの波の果てまで」などの人気テレビドラマの脚本を手掛けた。
山下 三郎(やました さぶろう、1908年4月25日 - 1… 山下 三郎(やました さぶろう、1908年4月25日 - 1999年7月13日)は、商船三井の前身のひとつである山下新日本汽船の社長などを歴任した、日本の実業家。青年期には、短編小説などでも注目された。 神奈川県横浜市に、「泥亀」、「船成金」などと称された山下汽船の創業者・山下亀三郎の次男として生まれる。 慶應義塾大学に学び、在学中には川端康成、室生犀星らと交わり、同人誌に短編小説発表するなどして、文学者としての将来を期待されたが、1931年に法学部を卒業すると、父の命に従い山下汽船に入った。北原武夫らと文芸誌『新三田派』を創刊したが、直後に渡仏した。山下の文筆活動は、卒業後もしばらく続き、1938年には短編集『室内』が出版された。
秦 藤樹(はた ふじき、1908年4月13日 - 2004年… 秦 藤樹(はた ふじき、1908年4月13日 - 2004年3月25日)は、日本の医師。医学者。専門は微生物科学。元北里大学学長。旧姓は藤松。細菌学者の秦佐八郎の養子となった。 長野県東筑摩郡会田村(現・松本市)出身。1934年慶應義塾大学医学部卒業。内科入局、助手、1934年12月 - 1936年3月、短期現役軍医、1936年北里研究所研究員となり(生化学、藤田秋治部長)、1938年7月 - 1945年12月、軍務(山西省陸軍病院、東京第一陸軍病院)、1939年医学博士。論文の題は「組織内Cytoclirom C定量法の研究」。 1948年北里研究所同研究所長、1954年8月-1955年11月、ラトガース大学微生物研究所留学、1961年北里研究所所長。
朝長 正軌(ともなが まさのり、1908年3月30日 - 1… 朝長 正軌(ともなが まさのり、1908年3月30日 - 1999年10月21日)は、日本の経営者。JCB社長を務めた。長崎県出身。 1933年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、同年に三和銀行に入行。1962年11月に取締役に就任し、1964年11月に常務を経て、1967年11月に専務に就任。1970年7月にJCB社長に就任し、1981年2月から相談役を務めた。 1999年10月21日心不全のために死去。91歳没。 妻は、全日本テニス選手権の女子ダブルスで優勝(1948、49、51 - 55年)した、テニス選手の朝長慶子。
有馬 英治(ありま えいじ、1908年3月27日 - 197… 有馬 英治(ありま えいじ、1908年3月27日 - 1976年5月18日)は、日本の政治家。衆議院議員(3期)。 福岡県出身。慶應義塾大学経済学部卒業後、時事新報経済部記者を経て読売新聞政治部記者となる。 第21回衆議院議員総選挙で当選し護国同志会を経て無所属倶楽部に所属。政府提出の市町村制改正案に対して官僚の権力増強案だとして反対して議会に波乱をおこし、東條英機の怒りを買って指名召集を受け軍隊に強制入隊。のちに復員し、商工大臣秘書官、大蔵省委員、商工省委員。 戦後は推薦議員のため公職追放となり、追放解除後は鳩山一郎の側近として活躍し、鳩山内閣で内閣総理大臣秘書官。第2次池田第1次改造内閣で運輸政務次官、次いで鉄道建設、九州地方開発各審議会委員。
服部 正(はっとり ただし、1908年3月17日 - 200… 服部 正(はっとり ただし、1908年3月17日 - 2008年8月2日)は日本の作曲家。日本におけるクラシック音楽の大衆化に努めた。 同姓の服部良一やその息子の服部克久などとの縁戚関係はない。 東京市神田区(現在の東京都千代田区)出身。青山学院中等部を経て慶應義塾大学法学部政治学科卒業後、三井生命保険に入社したが40日で退社。学生時代にはマンドリンクラブに所属。1930年に「オルケストラ・シンフォニカ・タケヰ」主催のマンドリンオーケストラ作曲コンクールで『叙情的風景』が入選。その後、菅原明朗に師事した。 1932年、帝国音楽学校講師となる。 1933年、『管弦楽のための組曲』を山田耕筰指揮・日本交響楽団演奏にてNHKより放送。
長谷山 行毅(はせやま こうき、1908年(明治41年)3月… 長谷山 行毅(はせやま こうき、1908年(明治41年)3月10日‐ 1977年(昭和52年)11月23日) は、昭和期の検察官、弁護士、政治家。参議院議員(1期)、秋田県雄勝郡田代村長。 秋田県雄勝郡田代村(現羽後町田代)で生まれた。1932年(昭和7年)慶應義塾大学法学部を卒業し、その後、同大学院を修了した。 1937年(昭和12年)検事に任官し、東京地方裁判所検事局、札幌地方裁判所検事局などで勤務した。戦後に帰郷して、1947年(昭和22年)田代村長に就任し、秋田県町村会副会長などを務めた。 1950年(昭和25年)6月の第2回参議院議員通常選挙で秋田県地方区から自由党公認で出馬して当選し、参議院議員に1期在任した。
川崎 俊雄(かわさき としお、1908年2月19日 - 19… 川崎 俊雄(かわさき としお、1908年2月19日 - 1993年3月11日)はダイワボウ代表取締役相談役。香川県出身。 1934年に慶應義塾大学法学部政治学科を卒業。1974年6月21日にダイワボウ代表取締役社長に就任。1979年から1年間、日本紡績協会の会長を務めた。 1993年3月11日に心不全の為、死亡。
岩崎 良三(いわさき りょうぞう、1908年2月16日 - … 岩崎 良三(いわさき りょうぞう、1908年2月16日 - 1976年3月4日)は、日本の英文学・西洋古典学研究者、慶應義塾大学名誉教授。東京生まれ。慶應義塾大学文学部卒。慶大教授、1974年定年、名誉教授。戸板女子短期大学教授。妻・さくら子は太田秀穂の次女。
望月 太郎(もちづき たろう、1908年(明治41年)2月 … 望月 太郎(もちづき たろう、1908年(明治41年)2月 - 1941年(昭和16年)3月18日)は、日本の実業家。東邦採鉱常務取締役。九曜社取締役。 東京府・望月軍四郎の長男。望月玉三の兄。1930年、慶應義塾大学経済学部卒業。横浜正金銀行員として神戸支店に勤務し、また欧米各国を視察歴遊した。 趣味は読書、スポーツ。宗教は仏教。住所は東京市渋谷区常磐松町、赤坂区青山南町。東京府在籍。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
平沼 恭四郎(ひらぬま きょうしろう、1908年(明治41年… 平沼 恭四郎(ひらぬま きょうしろう、1908年(明治41年)1月16日 - 1991年(平成3年)1月19日)は、三明商事創立者、大協石油取締役などを務めた実業家。無窮会理事長。衆議院議員平沼赳夫の実父で、首相を務めた平沼騏一郎は義父。 群馬県知事、特許局長官などを歴任した内務官僚中川友次郎、貞以夫妻の四男として東京に生まれる。 開成中学校から慶應義塾大学予科へ進み、1931年(昭和6年)経済学部を卒業。産業組合中央金庫(現農林中央金庫)に入り、札幌支店へ勤務。1936年(昭和11年)平沼騏一郎の兄である平沼淑郎の孫娘・飯田節子と結婚。媒酌人は終戦直後の枢密院議長であった清水澄博士夫妻。農林中金を退職し、三井生命へ移る。
石田 英勝(いしだ ひでかつ、1908年 - 1945年)は… 石田 英勝(いしだ ひでかつ、1908年 - 1945年)は、大分出身の飛込競技選手であり飛行家。日本代表として1932年のロサンゼルスオリンピックに出場した。 1908年(明治41年)、大分県臼杵に生まれる。この地で伝統ある山内流遊泳クラブに在籍して志村弘の指導を受け、1925年(大正14年)にクラブを卒業。身長162㎝。慶應義塾大学の出身。相羽有が主催する日本飛行学校に入学して二等飛行士となり、深川区洲崎にあった亜細亜航空学校に勤めた。そのかたわらで飛込競技に励み、1929年(昭和4年)度は高飛び込み第6位、1930年(昭和5年)度は高飛び込み第3位、1931年(昭和6年)度の全日本選手権ではついに優勝を果たす。
桑原安治(くわばら やすはる、1908年 - 1985年12… 桑原安治(くわばら やすはる、1908年 - 1985年12月26日)は、日本の眼科医。 埼玉県出身。1932年慶應義塾大学医学部卒、37年「色神の時間刺戟閾價に関する研究」で医学博士。東京医科大学眼科教授。1962年慶応義塾大学医学部眼科教授となる。74年定年、東海大学医学部教授、白内障研究所所長、桑原眼科クリニック院長を務めた。
西尾 正(にしお ただし、本名同じ、1907年12月12日 … 西尾 正(にしお ただし、本名同じ、1907年12月12日 - 1949年3月10日)は、日本の探偵小説家。作品は全て短編かつ怪奇小説的な作品である。代表作に「骸骨」「海蛇」「青い鴉」など。 1907年(明治40年)12月12日、東京府東京市本郷区に、亀の子束子の製造で知られる西尾商店の一族として生まれた。 慶應義塾大学経済学部に進学し、卒業後の1934年(昭和9年)、雑誌『ぷろふいる』六月号に「陳情書」を発表してデビュー。ただし、同作は発表直後に発禁になっている。 その後も『ぷろふいる』『新青年』などの雑誌に、コンスタントに短編を発表し続けた。太平洋戦争中は沈黙、戦後には執筆を再開している。 米国のパルプ・マガジンに取材した異色作なども発表している。
服部 逸郎(はっとり いつろう、1907年12月3日 - 1… 服部 逸郎(はっとり いつろう、1907年12月3日 - 1973年8月5日)は、昭和期の日本の作曲家、歌手、作詞家、元アナウンサーである。別名をレイモンド服部、服部レイモンド、服部ヘンリー。なお、同姓の服部良一や服部正との血縁関係はない。 1907年(明治40年)12月3日、神奈川県横浜市出身。若い頃にキリスト教に入信した為、洗礼名をレイモンドという。 1931年(昭和6年)慶應義塾大学文学部卒業後に作曲家としての活動を開始。ハワイへの音楽留学から帰国した1934年(昭和9年)1月に、NHKが初めて行った全国規模でのアナウンサー採用試験に応募し、応募者728名中25名の合格者の1人として入局。
八十島 親義(やそしま ちかよし、1907年(明治40年)1… 八十島 親義(やそしま ちかよし、1907年(明治40年)11月25日 - 1990年(平成2年)6月11日 )は、日本の実業家。澁澤倉庫社長を務めた。 東京出身。渋沢栄一の秘書役を務め「渋沢家の番頭」として知られる八十島親徳の二男として生まれる。法医学者八十島信之助と土木工学者八十島義之助は弟。 慶應義塾幼稚舎、慶應義塾普通部を経て、1931年に慶應義塾大学経済学部を卒業。同年第一銀行に入行した。本店営業部貸付課長、同部預金課長、京橋支店次長、深川、八重洲口各支店長、総務部長を歴任。1957年11月に取締役に選任され、1960年11月に常務に昇進。 1964年4月に澁澤倉庫社長に転じ、東京湾内の江東埋立地区に海上コンテナ専用倉庫を建設するなど、意欲的な経営に取り組む。
佐藤 亮一(さとう りょういち、1907年10月18日 - … 佐藤 亮一(さとう りょういち、1907年10月18日 - 1994年10月1日)は、日本の翻訳家。 青森県三戸郡名久井村(現・南部町)出身 慶應義塾大学法学部政治学科卒業。1932年時事新報社入社、1936年毎日新聞の記者となる。福島支局勤務の後、従軍記者として中国戦線を取材報道する。中国では資料所持容疑で不当逮捕され、1946年から翌年にかけて北京の捕虜収容所で辛酸をなめる。日本に帰国した後、毎日新聞東京本社に復帰するかたわら翻訳活動を開始する。1958年7月、第1回翻訳家国際会議に出席。1984年国際翻訳家連盟から国際翻訳賞を受賞。1988年から日本翻訳家協会会長。このほか、慶應義塾大学講師、慈恵医科大学講師、共立女子大学教授を歴任した。
澤村 義夫(さわむら よしお、1907年10月12日 - 1… 澤村 義夫(さわむら よしお、1907年10月12日 - 1970年8月10日)は、日本の実業家。関西テレビ放送元社長。 京都府京都市出身。1929年に慶應義塾大学文学部を卒業。大阪新聞社と大阪時事新報社で編集局長を務め、1959年2月に産業経済新聞社副社長を経て、1958年2月に設立された関西テレビ放送の専務に就任し、社長の小林米三と共に経営の陣頭指揮を執った。1969年2月に小林米三の急逝により、社長に就任した。日本民間放送連盟副会長も務めた。日本万国博覧会の開催に尽力を尽すために、数多くの万博関連番組、関連事業を推進したが、1970年8月10日亜急性黄色肝萎縮のために堺市内の病院で死去。62歳没。
平岡 萬寿彦(ひらおか ますひこ、明治40年(1907年)9… 平岡 萬寿彦(ひらおか ますひこ、明治40年(1907年)9月15日 - 昭和63年(1988年)11月14日)は、日本の実業家。 父は弁護士・政治家の平岡萬次郎。叔父は内務官僚の平岡定太郎。従兄は農商務官僚の平岡梓。平岡梓の長男は作家の三島由紀夫である。 明治40年(1907年)9月15日(日曜日)、平岡萬次郎の長男として生まれた。 昭和7年(1932年)慶大政治学科卒業。三和銀行に入り昭和25年(1950年)馬喰町支店長となり日比谷中之島サンフランシスコ各支店長紐育事務所長横浜支店長を経て、昭和34年(1959年)9月東洋信託銀行設立と同時に取締役営業部長。後に常務に就任。昭和63年(1988年)11月14日死去。
松林 久吉(まつばやし ひさきち、1907年(明治40年)9… 松林 久吉(まつばやし ひさきち、1907年(明治40年)9月7日 - 1978年(昭和53年)7月11日)は、日本の医師、医学博士、寄生虫学者。 慶應義塾大学医学部長(第7代)、初代琉球大学保健学部長、防衛医科大学校初代校長等を歴任。従四位。 山口県萩市の旧家真鍋家に生まれ、少年時代に東京に出て、のちに同じ萩出身の高名な日本画家・松林桂月の家に入って松林と姓を改めている。
平岡 養一(ひらおか よういち、1907年8月16日 - 1… 平岡 養一(ひらおか よういち、1907年8月16日 - 1981年7月13日)は、日本の木琴(シロフォン)奏者。兵庫県尼崎市出身。 妹はフィギュアスケート選手の平岡露子。ミュージシャンの平岡精二はいとこの子。 元来、東京の家系であるが、実業家の父・寅之助が赴任した尼崎市で生まれる。 父の兄が日本初の野球チーム創設者の平岡凞で、少年も野球の特訓を受け育つが、体格的に不向きであるとわかり野球の道は断念。小学校在学中に東京へ移住し、慶應義塾幼稚舎・慶應義塾普通部で学ぶ。この頃ピアノを始めるが、手が小さいためピアノにも不向きであるとわかる。それでもハーモニカなどを演奏し音楽を楽しむうちに、銀座の映画館「コンパル館」で無声映画の伴奏をしている木琴(シロフォン)に魅せられるようになり、映画館に通う日々が続いた。
瀧口 丈夫(たきぐち たけお、1907年8月6日 - 200… 瀧口 丈夫(たきぐち たけお、1907年8月6日 - 2002年9月21日)は、日本の経営者。東京都出身。 1931年に慶應義塾大学経済学部経済学科を卒業し、同年に日本石油に入社。1960年に取締役に就任し、1961年5月に常務を経て、1968年5月に副社長に就任し、1970年5月には社長に昇格。1978年6月に会長に就任し、1980年6月から相談役を務めた。 石油連盟会長、日本経営者団体連盟・経済団体連合会各常任理事なども務めた。 1970年10月に藍綬褒章を受章。 2002年9月21日肺炎のために死去。95歳没。
厨川 文夫(くりやがわ ふみお、1907年7月30日 - 1… 厨川 文夫(くりやがわ ふみお、1907年7月30日 - 1978年1月16日)は、日本の英語・英文学者。文学博士(論文博士・1950年)(学位論文『古英詩研究』)。慶應義塾大学名誉教授。従四位勲三等旭日中綬章。 英文学者・厨川白村(辰夫)の長男で、父が第五高等学校教師で赴任していた熊本県で生まれた。母・蝶子は、ジャーナリスト・福地源一郎の次女(源一郎によると姪の娘)である。1923年(大正12年)9月の関東大震災で父を亡くした。その後は京都府立第三中学校から東京に移住し芝中学校を経て、慶應義塾大学に進学し、詩人・西脇順三郎の薫陶を受け、1931年(昭和6年)に卒業、同大学の助手となった。在学中には、叙事詩『ベーオウルフ』を翻訳し、1932年(昭和7年)に大学紀要に掲載されて岡倉賞を受賞した。
宮武 三郎(みやたけ さぶろう、1907年7月23日 - 1… 宮武 三郎(みやたけ さぶろう、1907年7月23日 - 1956年12月11日)は、日本のプロ野球選手。
平尾 貴四男(ひらお きしお、1907年〈明治40年〉7月8… 平尾 貴四男(ひらお きしお、1907年〈明治40年〉7月8日 - 1953年〈昭和28年〉12月15日)は、日本の作曲家。 東京府東京市日本橋区(現・東京都中央区)生まれ。化粧品業を営む平尾聚泉の四男として育つ。家は裕福であった。慶應義塾幼稚舎・慶應義塾普通部を経て慶應義塾大学医学部に進んだが、文学部独文科に転じ、1930年に卒業。大学在学中、ピアノをチャーレス・ラウトロプらに、ソルフェージュと音楽理論をヴァンサン・ダンディ門下の陸軍軍楽隊長・大沼哲に、和声学を弘田龍太郎に師事した。また、卒業して8ヶ月後の11月に戸沢妙子と結婚。 1931年、夫婦でパリへ渡航。始めはスコラ・カントルムでギ・ド・リオンクール(英語版)に作曲を師事して和声学課程を修了したものの、学校紛争に巻き込まれた結果、1935年にリオンクールが創設したセザール・フランク音楽学校(英語版)に転学。
丸岡 明(まるおか あきら、1907年6月29日 - 196… 丸岡 明(まるおか あきら、1907年6月29日 - 1968年8月24日)は、日本の小説家。 東京市麹町にて、落合直文門下の歌人で能楽書林を設立した丸岡桂の長男として生まれる。祖父は沖縄・高知の県知事を務めた丸岡莞爾。暁星中学校から慶應義塾予科を経て、慶應義塾大学仏文科卒。在学中、水上滝太郎の知遇を得て1930年に『三田文学』に「マダム・マルタンの涙」を発表してデビューした。のち堀辰雄に師事し、1935年「生きものの記録」を『三田文学』に発表する。 1966年「静かな影絵」「街の灯」で芸術選奨文部大臣賞を受賞。『堀辰雄全集』編纂委員を務めた。能の解説、編集も多く、原民喜をモデルとした『贋きりすと』などを書いた。
高島 重孝(たかしま しげたか、1907年6月29日 - 1… 高島 重孝(たかしま しげたか、1907年6月29日 - 1985年1月23日)は、日本の医学者、皮膚科医。ハンセン病治療に貢献した。国立療養所栗生楽泉園、東北新生園、傷痍軍人武蔵療養所、同愛媛療養所、傷痍軍人駿河療養所(所長;国立駿河療養所)、国立療養所長島愛生園(園長)に勤務した。長島愛生園と本土を結ぶ、長島架橋に努力した。 1907年6月29日 東京府東京市麻布区(現・東京都港区麻布)に生まれる。1931年3月 慶應義塾大学医学部卒業。1931年4-8月 同予防医学教室助手。1933年2月 国立らい療養所栗生楽泉園嘱託。4月同医官。1938年9月 国立らい療養所東北新生園勤務。1940年8月 慶應義塾大学 医学博士 論文の題は 「癩の罹患素質と家庭内伝染について」。
伊藤 勝三(いとう かつぞう、1907年5月14日 - 19… 伊藤 勝三(いとう かつぞう、1907年5月14日 - 1982年2月10日)は、秋田県秋田市千秋矢留町(旧上中城町)出身のプロ野球選手(捕手、一塁手)、監督。 日本プロ野球における選手兼任監督第1号である。 秋田中学(現・秋田県立秋田高校)時代は、捕手として2度の全国中等学校優勝野球大会(第8回大会、第10回大会)に出場した。慶應義塾大学では控え捕手に甘んじたが、社会人野球の東京倶楽部では慶大時代のチームメイトである宮武三郎らと共に活躍し、1931年に開催された第5回全日本都市対抗野球大会で優勝した。 全日本職業野球連盟が発足した1936年、大東京軍に入団すると、永井武雄監督解任の後を受けて選手兼任監督に就任したが、2勝27敗3分、勝率.069という惨憺たる成績を受けシーズン途中で解任された。
川津 尚彦(かわづ なおひこ、1907年5月11日 - 19… 川津 尚彦(かわづ なおひこ、1907年5月11日 - 1962年11月10日)は、日本のラグビー選手・功労者。福岡県のラグビー先駆者の一人。 東京都に生まれる。1925年福岡県中学修猷館、1927年旧制福岡高等学校文科甲類を経て、慶應義塾大学法学部へ進学し、ラグビー部において全日本東西対抗選手として活躍した。 1930年慶應義塾大学を卒業し、東邦電力福岡支店に入社。東邦電力ラグビーチームの主力として、福岡県ラグビーの普及とレベルアップに貢献した。 戦後は、山本太郎、松隈保、安武一道、速見伝吉らと共に、九州ラグビーフットボール協会設立に尽力し、九州ラグビーフットボール協会の理事長から会長、日本ラグビーフットボール協会専務理事を務めた。
松平 頼則(まつだいら よりつね、1907年5月5日 - 2… 松平 頼則(まつだいら よりつね、1907年5月5日 - 2001年10月25日)は、日本の作曲家、ピアニスト。 子爵松平頼孝の長男として東京市小石川区久堅町(現・東京都文京区小石川)に生まれる。母の治子は公爵徳大寺実則の四女。大叔父に内閣総理大臣西園寺公望がいる。 学習院初等科から暁星中学校に進む。16歳のとき生家が没落し、久堅町の邸宅を手放すことを余儀なくされ、父と別居した母に伴われ、妹とともに青山に仮寓。一高入試に失敗して2年間の浪人ののち、慶應義塾大学文学部仏文科に進む。国立音楽学校に転学したが1年ほどで慶應義塾大学に戻り、叔母の学資援助により、大学時代からピアノをチャーレス・ラウトロプに、和声学と対位法と楽式論をハインリヒ・ヴェルクマイスターに、作曲を小松耕輔に師事。
岡崎 真一(眞一、おかざき しんいち、1907年〈明治40年… 岡崎 真一(眞一、おかざき しんいち、1907年〈明治40年〉5月4日 - 1971年〈昭和46年〉1月20日)は、昭和期の実業家、政治家。岡崎財閥の2代目総帥岡崎忠雄の長男。義父に大谷尊由。 兵庫県出身。慶應義塾幼稚舎、慶應義塾普通部、慶應義塾大学予科を経て、慶應義塾大学経済学部を1932年(昭和7年)に卒業し鐘紡、岡崎汽船を経て、神戸海上運送火災保険に入社した。同社取締役を歴任して、昭和19年(1944年)3月、戦時経済・金融統制の下、横浜火災海上保険、共同火災海上保険、朝日海上火災保険(楽天損害保険との旧社名と同じだが無関係)と4社が合併して誕生した、同和火災海上保険の新社長に就任した。 戦後は、東京衡機製造所、日豊海運など岡崎家系列の企業の社長や、日本航空、日本テレビ、東洋パルプなどの取締役、1955年(昭和30年)から1964年(昭和39年)に掛けて神戸商工会議所会頭を務めたのに加え、日本商工会議所副会頭も歴任した。
山本 健吉(やまもと けんきち、1907年〈明治40年〉4月… 山本 健吉(やまもと けんきち、1907年〈明治40年〉4月26日 - 1988年〈昭和63年〉5月7日)は、日本の文芸評論家。本名は石橋 貞吉(ていきち)。俳句批評から出発し、古典から現代文学まで幅広く追究。個性と伝統の問題にせまる独自の批評を確立した。昭和を代表する文芸評論家の一人である。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。著書に『現代俳句』(1951年)、『古典と現代文学』(1955年)、『いのちとかたち』(1981年)など。 文芸評論家石橋忍月の三男。最初の妻は俳人の石橋秀野。なお秀野の妹は漫画家の清水崑の妻である歌人の清水恒子。俳文学会、日中文化交流協会、日本ペンクラブ、各会員。
中野 嘉一(なかの かいち、1907年4月21日 - 199… 中野 嘉一(なかの かいち、1907年4月21日 - 1998年7月23日)は、日本の詩人、歌人、精神科医。 愛知県碧海郡高岡町堤村(現:豊田市)出身。刈谷中学校(現:愛知県立刈谷高等学校)、慶應義塾大学医学部卒。在学中から前田夕暮に師事して歌集を刊行する。1944年から45年は軍医としてヤップ州メレヨン島に駐留し過酷な状況を日記に記し戦後は詩歌を著した。 精神科医として、東京武蔵野病院で太宰治の主治医を務めた。新短歌運動、シュールレアリスム運動に加わり、1951年に詩誌『暦象』を創刊、主宰する。1952年に詩集『春の病歴』で第1回中部日本詩人賞、1976年に『前衛詩運動史の研究』で第9回日本詩人クラブ賞を受賞する。
近山 金次(ちかやま きんじ、1907年4月12日 - 19… 近山 金次(ちかやま きんじ、1907年4月12日 - 1975年11月6日)は、日本の歴史学者(古代ローマ史・中世精神史)、教育者。学位は文学博士(慶應義塾大学・1950年)。慶應義塾大学名誉教授。 慶應義塾大学予科教員、慶應義塾大学文学部教授、慶應義塾中等部部長(第3代)、清泉女子大学文学部教授などを歴任した。 東京府東京市出身の西洋史学者である。慶應義塾大学文学部を卒業すると、同大学の予科の教員を経て、文学部で教授を務めた。また、慶應義塾中等部の部長も兼務した。その後、清泉女子大学に転じ、文学部の教授を務めた。また、翻訳者としてガイウス・ユリウス・カエサルの『ガリア戦記』を日本に紹介したことでも知られている。
小林 甲子郎(こばやし こうしろう、1907年(明治40年)… 小林 甲子郎(こばやし こうしろう、1907年(明治40年)4月7日 - 1989年(平成元年)6月27日)は、昭和期の実業家。京王帝都電鉄(現・京王電鉄)代表取締役社長(第3代)。 山梨県初狩村(現大月市)において、酒造業を営む小林亀麿、ふくの二男として生まれる。二男であるが、兄が早逝したので実質的には長男として育つ。 父亀麿は、初狩村の村長や、北都留郡議会、山梨県議会で議員をつとめ、都留電燈会社(後に東京電力に統合)の社長をつとめた地元の実力者であった。 小林は、山梨県立都留中学校(現・山梨県立都留高等学校)を経て、1931年、慶應義塾大学法学部政治学科を卒業し、甲州財閥の縁で、東武鉄道に入社した。
原 研吉(はら けんきち、1907年3月24日 - 1962… 原 研吉(はら けんきち、1907年3月24日 - 1962年8月10日)は、日本の映画監督である。本名、菅原謙吉。 山形県鶴岡市出身。慶應義塾大学仏文科卒業の後、松竹大船撮影所に入社。 1962年8月10日、食道癌のため神奈川県藤沢市鵠沼で死去。 この項目は、映画監督に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:映画/PJ映画)。
山下 実(やました みのる、1907年3月20日 - 199… 山下 実(やました みのる、1907年3月20日 - 1995年4月4日)は、兵庫県神戸市出身のプロ野球選手・監督。抜群の打撃力で鳴らし、高校野球、東京六大学野球、草創期のプロ野球で活躍した。
北原 武夫(きたはら たけお、1907年2月28日 - 19… 北原 武夫(きたはら たけお、1907年2月28日 - 1973年9月29日)は、日本の小説家。 神奈川県小田原市の医家に生まれる。神奈川県立小田原中学校(現:神奈川県立小田原高等学校)を経て、家業を継ぐべく旧制新潟高等学校理科に入学するが父に反抗して中退し、慶應義塾大学予科に入学。慶應義塾大学文学部仏文科に進むが国文科に転じ、1932年に卒業。在学中に、井上友一郎、田村泰次郎らの同人誌『桜』に参加。 都新聞社に入社。横浜支局に勤務。1934年、都新聞社本社に転勤。この間、1933年に宇野千代と知り合う。1936年、宇野千代と共に日本最初のファッション雑誌『スタイル』を創刊。1938年、『妻』を発表して芥川賞候補となり文壇にデビュー。