宇野 信夫(うの のぶお、1904年7月7日 - 1991年… 宇野 信夫(うの のぶお、1904年7月7日 - 1991年10月28日)は、日本の劇作家、作家、歌舞伎狂言作者。 埼玉県本庄市生まれ、熊谷市育ち、その後浅草で暮らす。本名信男。埼玉県立熊谷中学校(現:埼玉県立熊谷高等学校)、慶應義塾大学文学部国語国文学科卒業。 父は埼玉県熊谷市で紺屋・染物屋を営んでいて、浅草に東京出張所と貸家(蕎麦屋と道具屋)を持っていた。中学を出た後は、その出張所から大学に通い、卒業後もそこで劇作にいそしみ、1944年まで住み続けた。その時代に、まだ売れていなかった、のちの古今亭志ん生ら貧乏な落語家たちが出入りして、彼らと交際した。6代目三遊亭圓生とも交友が深かった。新作落語をいくつか創作したが、サゲは噺家に一任した。
滝口 征夫(たきぐち ゆきお、1904年6月26日 - 19… 滝口 征夫(たきぐち ゆきお、1904年6月26日 - 1967年11月17日)は、日本の経営者。 広島県広島市出身。1926年に慶応義塾大学法学部を卒業し、1927年にエヌチーエヌ製作所(現在のNTN)に入社。1949年に取締役に就任し、1956年5月に常務、1959年2月に専務を経て、1959年4月から1964年5月までに社長を務めた。 1967年11月17日、肺癌のために死去。63歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
田口 真二(たぐち しんじ、1904年4月28日 - 198… 田口 真二(たぐち しんじ、1904年4月28日 - 1984年5月16日)は、日本の経営者。平和不動産社長を務めた。 東京都出身。1927年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、同年に住友銀行に入行。後に田口証券に転じ、1955年には社長に就任。1956年に東京証券取引所理事に就任し、1957年に専務、1961年に副理事長を経て、1971年5月には平和不動産社長に就任。1977年6月には取締役相談役に退いた。 1976年11月に勲三等瑞宝章を受章した。 1993年3月2日、急性心不全のために死去。88歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
樋口 勝彦(ひぐち かつひこ、1904年(明治37年)4月2… 樋口 勝彦(ひぐち かつひこ、1904年(明治37年)4月24日 - 1964年(昭和39年)3月19日)は、昭和中期のラテン文学、西洋古典学研究者。慶応義塾大学教授。日本西洋古典学会委員。オウィディウス『アルス・アマトリア』の訳者。
連 震東(れん しんとう、1904年〈明治37年〉4月23日… 連 震東(れん しんとう、1904年〈明治37年〉4月23日 - 1986年〈民国75年〉12月1日)は、中華民国の政治家。中国国民党所属で、第1期(中国語版)国民大会代表、台北県長、内政部長などを歴任した。日本統治下台湾の台南庁(現:台南市)出身の本省人。字は定一。歴史学者の連横(中国語版)は父で、中華民国副総統、中国国民党主席などを歴任した連戦は長男。 1904年(明治37年)、台南庁(現:台南市)で生まれる。板橋林家の林熊徵(中国語版)から資金援助を受けて内地の慶應義塾大学経済学部に進学し、1929年(昭和4年)に卒業した。台湾に戻ると昭和新報に入社した。 1931年(昭和6年)4月10日、父の連横が中国国民党・国民政府の元老であり旧友の張継に手紙を書き、連震東に対し「台湾を解放したければ、まず祖国を建設しなければならない。
山崎 始男(やまさき もとお、1904年(明治37年)3月1… 山崎 始男(やまさき もとお、1904年(明治37年)3月18日 - 1983年(昭和58年)10月9日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。 岡山県吉備郡総社町(現総社市)で、米穀問屋・山崎重の長男として生まれる。岡山中学校(現岡山県立岡山朝日高等学校)を経て、1931年(昭和6年)慶應義塾大学政治学科を卒業した。名古屋市において製陶会社で勤務したり木材関係貿易に従事した。1944年(昭和19年)に帰郷し会社経営を行う。 1948年(昭和23年)初の公選制による岡山県教育委員に選出され、1949年(昭和24年)副委員長に就任。1952年(昭和27年)10月、第25回衆議院議員総選挙で岡山県第2区から出馬して初当選。
小川 三郎(おがわ さぶろう、1904年3月16日 - 19… 小川 三郎(おがわ さぶろう、1904年3月16日 - 1995年9月20日)は、日本の小児科医師。 長野県諏訪郡富士見村(現・富士見町)出身。実業家の小川金治の二男として生まれる。長野県立諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校)を経て、1930年に慶應義塾大学医学部を卒業した。 同大助手、慶應義塾大学病院小児精神衛生相談員を務めた後、1939年に東京市日本橋小児保健所長となる。1940年、国際聖母病院(現・聖母病院)小児科部長兼副院長に就任する。 1945年、慶應堂病院院長となる。1965年より青山学院大学教授兼保健管理センター所長を務め、1970年に小川医学研究所を開設した。 いとこの三村二も医師であった。
今井 達夫(いまい たつお、1904年3月3日 - 1978… 今井 達夫(いまい たつお、1904年3月3日 - 1978年5月6日)は、日本の小説家。筆名は本名と同じ。 長男として横浜市中区野毛に生まれる。父の今井秀松は山形県西村山郡朝日町出身で、横浜で兄弟生糸商を営む。母きみは山形県東村山郡山辺町の生まれで、安達峰一郎の妹。幼年期のほとんど毎夏、鵠沼で過ごす。1910年、横浜市尋常小学校に入学。1912年秋から父の療養のため神奈川県藤沢市鵠沼海岸下鰯に転居。鵠沼尋常小学校(現在の藤沢市立鵠沼小学校)に3年生で転校。同年、父秀松が死去。1916年に鵠沼尋常小学校を卒業、同年開校の私立藤嶺中学校に1回生として入学。 1920年(大正9年)、私立藤沢中学校(1918年改称)を4年で修了し、慶應義塾大学予科に入学。
瀬下 耽(せじも たん、1904年(明治37年)2月24日 … 瀬下 耽(せじも たん、1904年(明治37年)2月24日 - 1989年(平成元年)9月5日)は、日本の探偵小説家。代表作に「欺く灯」「柘榴病」など。別名義に秘名生。本名は綱良(つなよし)。 ペンネームは、オスカー・ワイルドの耽美主義的な小説に惹かれていたことによる。 現在の新潟県柏崎市出身。慶應義塾大学法学部卒。 1927年(昭和2年)、雑誌『新青年』の懸賞に応募した「綱」(ロープ)が第二席に入りデビュー。以後、同誌を中心に短編を多く発表する。この間、「四本足の男」のみは秘名生名義で発表した。 1933年(昭和8年)の「罌粟島の悲劇」を最後にいったん文筆活動から離れるが、太平洋戦争後の1947年(昭和22年)に「手紙」を発表し復帰する。
渡辺 浩太郎(わたなべ こうたろう、1904年(明治37年)… 渡辺 浩太郎(わたなべ こうたろう、1904年(明治37年)2月17日 - 1994年(平成6年)11月28日)は、日本の政治家。新潟市長、全国市長会会長。
小幡 功(おばた いさお、1904年 – 1976年) は、… 小幡 功(おばた いさお、1904年 – 1976年) は、日本の松濤館 空手師範の先駆 。 松濤館流空手道拳心会初代師範。彼は船越義珍古参の弟子で、現代の空手の創設者として広く認識され、1949年船越の下での小幡は日本空手協会(JKA)設立の重要人物となった。また、米国空軍へのデモンストレーションを、そして彼の弟子たち、特に大島劼らを通して、空手をアメリカ合衆国に紹介し広めた。
堤 徳三(つつみ とくぞう、1904年〈明治37年〉 - 没… 堤 徳三(つつみ とくぞう、1904年〈明治37年〉 - 没年不明)は、日本の音楽家、実業家。堤商店会長。 東京府士族・堤徳蔵の長男。1926年、慶應義塾大学卒業。江南産業、堤不動産、新橋興業各社長、堤商事代表取締役。堤商店取締役・同社長・同会長、結核予防会評議員、東京砂糖取引所理事などをつとめる。 族籍は東京府士族、会社重役であった。住所は東京市大森区南千束、東京都千代田区一番町で東京都港区在籍。別宅は神奈川県三浦郡逗子町小坪。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
三木 義雄(みき よしお、1904年または1905年6月6日… 三木 義雄(みき よしお、1904年または1905年6月6日 - 没年不明)は、日本の陸上競技選手。1920年代にハードル競走で活躍して日本記録を更新、1928年アムステルダムオリンピックに出場した。 兵庫県揖保郡揖西村構(現在のたつの市揖西町構)に生まれる。旧制龍野中学校(現在の兵庫県立龍野高等学校)に入学し、1923年の日本陸上競技選手権大会では走高跳に1メートル (m)65の記録で優勝する。この年の第6回極東選手権競技大会予選では走高跳で4位となり、代表選手に選出された。しかし「大会参加選手」に名前が載っているものの、大会本番での記録は残っておらず、実際に出場したかどうかは不明である。 慶應義塾大学に進学し、1925年には明治神宮競技大会の200mハードル種目で24秒6の記録を出した(当時の日本記録・世界記録という)。
永井 武雄(ながい たけお、1904年 - 1938年4月1… 永井 武雄(ながい たけお、1904年 - 1938年4月19日)は、日本の野球選手・監督。兵庫県出身。
小松 義雄(こまつ よしお、1904年 - 1999年12月… 小松 義雄(こまつ よしお、1904年 - 1999年12月22日)は、日本の昭和期の洋画家・抽象画家である。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
瀧口 修造(たきぐち しゅうぞう、1903年(明治36年)1… 瀧口 修造(たきぐち しゅうぞう、1903年(明治36年)12月7日 - 1979年(昭和54年)7月1日)は、近代日本を代表する美術評論家、詩人、画家。戦前・戦後の日本における正統シュルレアリスムの理論的支柱であり、近代詩の詩人とは一線を画す存在。 1903年、富山県婦負郡寒江村(のち呉羽町、現:富山市)大塚に3人姉弟の長男として生まれる。家は祖父の代から医者であり、長男の修造は当然家業を継ぐものとして期待されていた。だが、それに反するかのように本人は子供の頃から大の学校嫌いで、よく家の大黒柱につかまっていたという。小学5年生のある日、父の勤めている病院に連れて行ってもらい、実際の手術の現場を見せてもらったところ、あやうく卒倒しかける。
米山 美雄(よねやま よしお、1903年11月23日 - 1… 米山 美雄(よねやま よしお、1903年11月23日 - 1987年5月19日)は、日本の経営者。三井生命保険社長を務めた。 東京都出身。1927年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、同年に三井生命保険に入社した。1947年7月に取締役に就任し、常務、専務を経て、1963年5月に副社長に就任し、1965年5月には社長に就任。1971年5月に会長に就任し、1977年7月から相談役を務めた。 1970年に藍綬褒章を受章し、1976年に勲三等瑞宝章を受章。 1987年5月19日肺炎のために死去。83歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
荊木 一久(いばらぎ かずひさ、1903年(明治36年)11… 荊木 一久(いばらぎ かずひさ、1903年(明治36年)11月13日 - 1952年(昭和27年)1月4日)は、衆議院議員(日本進歩党→民主党)、弁護士。 新潟県中頸城郡春日村(現在の上越市)出身。荊木久三郎の長男として生まれた。1927年(昭和2年)に慶應義塾大学経済学部を卒業し、1929年(昭和4年)に高等試験に合格した。原法律事務所に勤務の後、1931年(昭和6年)に高田市に事務所を開いた。春日村会議員、新潟県会議員、同参事会員に選出された。 戦後の1946年(昭和21年)、第22回衆議院議員総選挙で当選。第23回でも再選された。その間、日本進歩党常議員、同監察副部長、同部長、民主党政務調査会理事を歴任した。
亀沢 善次郎(かめざわ ぜんじろう、1903年11月5日 -… 亀沢 善次郎(かめざわ ぜんじろう、1903年11月5日 - 1987年3月27日)は、日本の経営者、銀行家。東京都出身。 1927年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、1943年に第四銀行に入行。 1957年11月に取締役に就任し、1960年11月に常務、1964年11月に専務を経て、1970年5月には頭取に就任。1972年11月には相談役に就任。 1975年11月に勲四等旭日小綬章を受章。 1987年3月27日急性心不全のために死去。83歳没。
木村 鉱二郎(きむら こうじろう、1903年9月21日 - … 木村 鉱二郎(きむら こうじろう、1903年9月21日 - 1995年2月18日)は、日本の経営者。日本冷蔵(現在のニチレイ)社長、会長を務めた。東京府出身。 1926年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、同年に合同毛織に入社。日本水産を経て、1945年12月に日本冷蔵取締役に就任。 1951年に社長に就任し、1968年3月には会長に就任。1979年3月に相談役に就任。 1962年に藍綬褒章を受章し、1975年11月に勲二等瑞宝章を受章。 1995年2月18日心不全のために死去。91歳没。
平松 幹夫(ひらまつ みきお、1903年9月6日 - 199… 平松 幹夫(ひらまつ みきお、1903年9月6日 - 1996年5月8日)は、日本の英文学者、翻訳家。 東京生まれ。慶應義塾大学英文科卒。1926年より『三田文学』に小説や評論を発表。1927年より『三田文学』の編輯に当たるが病気のため、1978年に和木清三郎に交代。 藤原工業大学助教授、慶大工学部教授、1971年定年となる。岩波書店の『水上滝太郎全集』の編纂に当たる。戦後日本ペンクラブ理事。1953年、国際ペンクラブ大会に出席。日本翻訳家協会会長。東洋一の筆名を使った。
五十嵐 丈夫(いがらし たけお、1903年8月6日 - 19… 五十嵐 丈夫(いがらし たけお、1903年8月6日 - 1994年12月12日)は、日本の経営者。白洋舎社長を務めた。東京都出身。 1927年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、渡米を経て、1934年12月に白洋舎取締役に就任。 1943年12月に社長に就任し、1975年2月から1983年2月までに相談役を務めた。 1976年4月に勲三等旭日中綬章を受章。 1994年12月12日腸閉塞のために死去。91歳没。
関牧翁(せき ぼくおう、1903年〈明治36年〉4月15日 … 関牧翁(せき ぼくおう、1903年〈明治36年〉4月15日 - 1991年〈平成3年〉2月13日)は、日本臨済宗の僧侶。 臨済宗天龍寺派管長。天龍寺二百四十一世。俗姓は岩井のち関。諱は巍宗。号は叱咤室また集瑞軒。天龍寺規則・宗制の改正を断行し、自由奔放な禅者として知られた。主な弟子には大森曹玄、加藤隆芳、平田精耕、荒金天倫がいる。 群馬県甘楽郡下仁田町に生まれる。初名は岩井 敏夫。旧制富岡中学校を卒業し、慶応義塾大学医学部予科に進学するが、中退。武者小路実篤の提唱した「新しき村」の思想に感化され、伊吹山麗の「愛の村」で青年を指導。 1928年(昭和3年)岐阜県揖斐郡揖斐川町の瑞巌寺の岡部洪宗和尚について得度。
大橋 薫(おおはし かおる、1903年(明治36年)2月24… 大橋 薫(おおはし かおる、1903年(明治36年)2月24日 - 1983年(昭和58年)4月30日)は、日本の新聞記者、経済評論家。 大蔵省や都市銀行の頭取クラスに対して絶大な影響を持ち、アジア開発銀行の設立やがん保険の認可に関わり、「金融界の黒幕」や「金融界のフィクサー」と呼ばれた。 栃木県下都賀郡絹村(現: 小山市)出身[要出典]。 1929年に慶應義塾大学文学部史学科を卒業後、ジャパンタイムズに入社、1937年頃からは同盟通信社に転じた。 戦前には日本経済連盟会(日本経済団体連合会の前身)による対外資本の導入を研究し、外務省の矢野征記らとともに原案を草案した。 その後戦時中は大東亜省に転じた[要出典]。
菅原 卓(すがわら たかし、1903年1月15日 - 197… 菅原 卓(すがわら たかし、1903年1月15日 - 1970年5月3日)は、日本の実業家で劇作家、演出家でもある。菅原電気商会元社長。 第二次世界大戦後、アメリカ演劇を日本に紹介したことで知られる。弟は劇作家の内村直也。 東京生まれ。1925年、慶應義塾大学経済学部卒。コロンビア大学で演劇を学ぶ。 岸田國士に師事し、1932年雑誌『劇作』を創刊。左翼演劇に反対して演劇の芸術性を擁護し、劇作派と呼ばれる。1934年戯曲「北へ帰る」を発表。 1939年、菅原電気商会社長となる。 戦後、1949年、ピカデリー実験劇場運営委員長に就任し、戦後の演劇復興に尽力し、1950年水谷八重子(初代)とともに現代劇運動を起こす。
石井 秀雄(いしい ひでお、明治36年(1903年) - 昭… 石井 秀雄(いしい ひでお、明治36年(1903年) - 昭和58年(1983年)1月23日)は、国柱会出身の官僚。勲五等瑞宝章。 静岡県に生まれる。国柱会千葉局長の父の感化を受け、10歳の頃から最勝閣で学習修行をし、昭和2年に慶應義塾大学経済学部卒業。里見日本文化研究所運動に参加し、外務省・大東亜省・経済企画庁に努め、経済企画庁図書館長となり、現・有文館落成に伴い専門図書館協議会参与となる。 田中芳谷会長がジャワハルラール・ネルー首相と会談した際に翻訳・通訳として奉仕。国柱会渋谷局長となり、79歳をもって帰寂。
西松 龍一(にしまつ りゅういち、1903年〈明治36年〉-… 西松 龍一(にしまつ りゅういち、1903年〈明治36年〉- 2008年〈平成20年〉6月5日)は、日本の実業家。父親は、実業家の西松喬。配偶者は坂野鉄次郎の養子坂野紀美子。大阪市西区江戸堀生まれ。 1903年に大阪市西区江戸堀に生まれる。両親はインド綿花輸入を扱う輸入商社西松商店を経営していた。大阪で2年から3年ほど過ごした後に、神戸市東灘区東明に移った。その後、御影師範学校附属の小学校に通い、1916年に卒業。その後、開学まで1年待ち、1917年に甲陽中学校(現在の甲陽学院中学校・高等学校)に1回生として入学。甲陽中学卒業後は、慶應義塾大学に進学した。その後、鐘紡に就職。1933年から1938年までヨーロッパ駐在員としてロンドン、ニューヨークに赴任した。
萩原 吉太郎(はぎわら きちたろう、1902年(明治35年)… 萩原 吉太郎(はぎわら きちたろう、1902年(明治35年)12月15日 - 2001年(平成13年)8月8日)は、日本の実業家。北海道炭砿汽船(北炭)、札幌テレビ放送(STV)社長などを務めた。 埼玉県蕨町(現:蕨市)で生まれる。1926年慶應義塾大学経済学部を卒業。在学中は吉田茂内閣の文相となる高橋誠一郎教授に認められ、学校に残ることを勧められたほどであった。 卒業後、三井合名に入社。常務理事から北炭会長に転じる島田勝之助の目に留まり、1940年、島田に同道する。1889年に創業の北炭は、当初、道内の炭鉱開発と鉄道敷設に関わっており、北海道開発の中心だった。その後、鉄道は政府に買い上げられ、炭鉱開発と海運に集中する。
倉島 竹二郎(くらしま たけじろう、1902年11月9日 -… 倉島 竹二郎(くらしま たけじろう、1902年11月9日 - 1986年9月27日)は、日本の作家、囲碁将棋観戦記者。 日本文芸家協会会員、棋道懇談会会員、将棋盤側クラブ会長。 京都府京都市生まれ。父親は郵便局長。兄弟は兄が一人。祇園町にあった弥栄尋常小学校でのクラスメートに、後の嵐寛寿郎がいた。京都市立中学校を経て慶應義塾大学に入学。文学部国文科に籍を置き、在学時には『三田文学』に作品を発表。1929年卒業。1935年、東京日日新聞社(のちの毎日新聞社)入社。記者として囲碁将棋の観戦記者となった。 1938年応召。1943年に退社。終戦後、作家生活に入ったが、毎日新聞社の要請で再度、観戦記者となる。
胡 風(こ ふう、フー・フォン、1902年11月2日 - 1… 胡 風(こ ふう、フー・フォン、1902年11月2日 - 1985年6月8日)は、中国の文芸理論家、文学評論家、翻訳家、詩人。本名は張光人、他の筆名に谷非、高荒、張果などがある。魯迅との親交もあった。 左翼作家として知られ、七月派と呼ばれる作家集団を作った。1955年、共産主義に反したとして仲間と共に逮捕され、1965年まで投獄される。一度は解放されるが1965年に懲役14年の判決が下り、1979年1月まで投獄される。1985年6月8日、死去。 1925年、清華大学英文科に入学、1929年日本に留学、東亜高等予備校で学び、1931年、慶應義塾大学文学部英文科に入学。プロレタリア科学研究所芸術部会に参加した。
島崎 敬夫(しまざき よしお、1902年10月11日 - 1… 島崎 敬夫(しまざき よしお、1902年10月11日 - 1975年6月29日)は、日本の経営者。横浜ゴム社長を務めた。高知県高知市出身。実弟に俳優の志村喬がいる。 1926年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、同年に古河銀行に入行。1931年に横浜ゴムに転じ、1948年に取締役に就任し、常務、専務、副社長を経て、1965年には社長に就任。1973年2月に会長に就任。 1969年に藍綬褒章を受章。 1975年6月29日に肝硬変のために死去。72歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
渡辺 温(わたなべ おん、1902年8月26日 - 1930… 渡辺 温(わたなべ おん、1902年8月26日 - 1930年2月10日)は、日本の推理作家・幻想小説家。本名は温(ゆたか)。 渡辺伊太郎・渡辺ツネの三男、推理作家・渡辺啓助の実弟。北海道上磯郡谷好村(現在の北斗市)生まれ。 1905年2月東京市深川に転居、スラム街の社宅で幼少期を過ごす。1912年8月茨城県多賀郡高鈴村(現在の日立市)に転居。1920年、旧制水戸中学校を卒業し、慶應義塾大学予科文科に入学するが、翌1921年4月中退。1922年4月、慶應義塾高等部に入学。このころ、啓助と福田耕太郎とともに共同生活を営む。 1924年、プラトン社の雑誌『女性』と『苦楽』が行った映画原案の懸賞公募に「影」を投稿し、一等入選を果たす。
木村 庄三郎(きむら しょうざぶろう、1902年8月10日 … 木村 庄三郎(きむら しょうざぶろう、1902年8月10日 - 1982年1月10日)は、日本の翻訳家。 東京生まれ。慶應義塾大学文学部国文科卒業。同人誌『山繭』などに小説を書き、文学者として活動したのち、戦後はフランス文学の翻訳をおこなった。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
原 圭一郎(原 奎一郎、はら けいいちろう、1902年7月2… 原 圭一郎(原 奎一郎、はら けいいちろう、1902年7月20日 - 1983年7月24日)は、日本の伝記作家。本名:貢。
原 奎一郎(はら けいいちろう、1902年〈明治35年〉7月… 原 奎一郎(はら けいいちろう、1902年〈明治35年〉7月20日 - 1983年〈昭和58年〉7月24日)は、日本のジャーナリスト、著作家。本名は貢(みつぎ)。原敬の養嗣子。娘はスタイリストの原由美子。 大阪府出身。首相の原敬の姪の子で、幼児期に養嗣子となる。1915年(大正4年)東京府立一中入学。同期に小林秀雄、迫水久常、千頭暎臣、石丸重治(半途退学)、西竹一(半途退学)らがいる。以降、慶應義塾大学予科在学中に英国留学のため1921年(大正10年)中退。 1940年(昭和15年)、同盟通信記者。1946年(昭和21年)に退社して、ファッション評論なども手掛けた。1950年(昭和25年)に「原敬日記」を乾元社で公刊(原敬の遺言で、公開は没後30年程度を経てからと定めていた)。
吉野 秀雄(よしの ひでお、1902年〈明治35年〉7月3日… 吉野 秀雄(よしの ひでお、1902年〈明治35年〉7月3日 - 1967年〈昭和42年〉7月13日)は、近代日本の歌人・書家・文人墨客。号は艸心。多病に苦しみながら独自の詠風で境涯の歌を詠んだ。多数の美術鑑賞や随筆を残し、書家としても知られている。 『南京新唱』を読み、会津八一にひかれて師事。生涯を病とたたかいつつ、良寛を愛し、万葉調を基調にした、純粋な人間への愛憐を詠む。『寒蟬集』(1947年)、『晴陰集』(1950年)などの歌集がある。 群馬県高崎市に次男として生まれる。家は織物問屋の株式会社吉野藤であった。 1909年(明治42年)身体が病弱であったため富岡上町の祖父母のもとに移り住み、富岡小学校に入学。
城多 二郎(しろた じろう、1902年7月 - 1940年代… 城多 二郎(しろた じろう、1902年7月 - 1940年代)は、日本の元俳優、元映画監督である。本名は城田 二郎(読み同じ)。鈴木傳明、岡田時彦、高田稔ら松竹蒲田撮影所のスターが連袂退社するに伴い入社、二枚目俳優として主演を務めていたが、短命に終わった。 1902年(明治35年)7月、東京府東京市豊多摩郡千駄ヶ谷町(現在の東京都渋谷区)に生まれる。出生地についてはアメリカ合衆国ハワイ州の説もある。 幼少期に渡米し、現在のハワイ州ヒロにあった私立学校ヒロ・ボーディング・スクール(Hilo Boarding School、現存せず)に進学する。同校卒業後、日本に帰国して慶応義塾大学に進学するが、この頃から身長173cm・体重67.5kgという体格を活かしてスポーツマンとしてならし、特に水泳と柔道に優れていた。
石丸 重治(いしまる しげはる、1902年(明治35年)5月… 石丸 重治(いしまる しげはる、1902年(明治35年)5月12日 - 1968年(昭和43年)12月12日)は、美術評論家。慶應義塾大学教授(法科)。 島根県出身。叔父に柳宗悦 。1915年(大正4年)、府立一中(現・都立日比谷高校)に入学したが半途(中途)退学。1927年(昭和2年)、慶應義塾大学英文科卒業。一中時代は小林秀雄や西竹一(バロン西、半途退学)、迫水久常、原奎一郎らと同期。また「青銅時代」を創刊するなど、この中学校の頃から評論に携わっていた。小林秀雄などとは、同人誌「山繭」を主宰し、また柳宗悦や吉田璋也、河井寛次郎らの民藝運動に初期には関わっている。 美術評論家として知られ、主な著作に『英国の工芸』(工政會出版部、1930年)、『英国教会本寺考』(好學社、1953年)。
佐藤 信彦(さとう のぶひこ、1902年5月11日 - 19… 佐藤 信彦(さとう のぶひこ、1902年5月11日 - 1977年2月3日)は、慶應義塾大学文学部教授などを務めた、日本の国文学者。 彦根藩出身の軍人であった父の任地だった島根県那賀郡浜田町(後の浜田市の中心部)で生まれ、宮城県立仙台第一中学校(宮城県仙台第一高等学校の前身)を経て、東京の私立日本中学校(日本学園中学校・高等学校の前身)に転じ、校長だった杉浦重剛の薫陶を受けた。1920年に卒業して、慶應義塾大学文学部予科に入学し、1924年には本科国文学科に進んで、折口信夫の指導を受け、川合貞一や田中豊蔵に学ぶ。1927年に大学を卒業して予科の国語教師に採用され、その後、1943年に藤山工業図書館の事務監督・主事、1945年から1947年にかけて工学部事務監督を兼任となり、戦中戦後の混乱期に、大学行政の一翼を担った。
有竹 修二(ありたけ しゅうじ、1902年5月2日 - 19… 有竹 修二(ありたけ しゅうじ、1902年5月2日 - 1976年6月3日)は、日本のジャーナリスト。 兵庫県出身。慶應義塾大学卒。1926年朝日新聞社に入社。1942年論説委員となり「神風賦」(「天声人語」の前身)を担当。1946年時事新報に移り、編集局長などをへて常務。のち産業経済新聞論説委員。政治家伝記を書いたほか、講談にも造詣が深かった。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
山内 以九士(やまのうち いくじ、1902年3月31日 - … 山内 以九士(やまのうち いくじ、1902年3月31日 - 1972年6月3日)は、日本の野球公式記録員。日本プロ野球の規則や記録の整理・研究に貢献した人物である。本名・山内育二、後に祖名相続により山内佐助となる。 島根県松江市天神町の「山内佐助商店」の跡取りとして生まれる。山内佐助商店は1764年(明和元年)創業で、小間物問屋から始まり廻船問屋を経て、山内の誕生当時は呉服反物商だった。当主は代々「佐助」を名乗り、自身も1936年に7代目佐助を襲名している。長男にもかかわらず「育二」と名付けられたのは、養子の義兄がいたためとされる。生家は天神町および隣接する灘町に485坪の土地を持ち、祖父(5代目佐助)と父(6代目佐助)はともに地元銀行や商業会議所の要職も兼ね、松江市議会議員も務める名士で、裕福な家庭だった。
須崎 潔(すざき きよし、1902年3月27日 - 1973… 須崎 潔(すざき きよし、1902年3月27日 - 1973年8月15日)は、昭和期の日本の実業家。揖斐川電気工業(現・イビデン)社長。大垣市名誉市民。鳥取県出身。 因幡銀行取締役の須崎幾蔵の長男として生まれる。鳥取中学校(現・鳥取県立鳥取西高等学校)を経て、1924年慶應義塾大学経済学部を卒業。同年大同電力に入社。その後、大阪電力、因幡銀行取締役、大同化学(現 信越化学工業)を経て、1940年3月揖斐川電気工業(現 イビデン)に移る。1947年1月にイビデン取締役、同年8月に常務取締役(営業部長)となる。 取締役副社長(1959年11月)を経て、宮寺敏雄の後任として1962年5月に代表取締役社長に就任した。
片岡 武修(かたおか たけのぶ、1902年3月16日 - 1… 片岡 武修(かたおか たけのぶ、1902年3月16日 - 1978年5月16日)は、日本の経営者。熊本県出身。 1928年に慶應義塾大学法学部独法科を卒業し、同年に旭絹織(のちの旭化成工業)に入社。取締役、専務を経て、1949年2月に社長に就任。1961年7月には会長に就任。。 1963年に藍綬褒章を受章し、1972年11月に勲三等旭日中綬章を受章。 1978年5月16日肺炎のために死去。76歳没。
山本 嘉次郎(やまもと かじろう、1902年(明治35年)3… 山本 嘉次郎(やまもと かじろう、1902年(明治35年)3月15日 - 1974年(昭和49年)9月21日)は、日本の映画監督、俳優、脚本家、随筆家である。脚本を書く際や、俳優としてデビューした当初は、平戸延介、平田延介名義を使用することも多かった。 東京市銀座采女町で生まれる。父の嘉太郎は天狗タバコの総支配人であった。 慶應義塾大学部理財科時代に偶然から映画に出演することとなり、1920年に製作された『真夏の夜の夢』で岡田嘉子と共演して俳優デビュー。慶應義塾を中退して映画界入りをする。しかし、このことが原因で親から勘当され、その手切金で[要出典]1922年「無名映画協会」を設立し、自ら出演した。
伊藤 英夫(いとう ひでお、1902年3月7日 - 1977… 伊藤 英夫(いとう ひでお、1902年3月7日 - 1977年9月1日)は、日本の経営者。稲畑産業社長を務めた。 富山県高岡市出身。1925年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、同年に稲畑産業に入社。 1941年に取締役に就任し、1944年に常務、1951年10月に専務、1963年4月に副社長を経て、1969年5月には社長に就任。1972年12月には会長に就任した。 1977年9月1日、脳血栓のために死去。75歳没。
高羅 芳光(こうら よしみつ、1902年3月4日 - 198… 高羅 芳光(こうら よしみつ、1902年3月4日 - 1984年5月14日)は、日本の経営者。富士通社長、会長を務めた。山口県出身。 1929年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、同年に富士電機製造に入社。1947年に富士通信機製造に転じ、1949年に取締役に就任し、常務、専務、副社長を経て、1970年5月に社長に就任した。1974年11月から相談役を務めた。 1971年4月に藍綬褒章を受章し、1978年に勲二等瑞宝章を受章。 1984年5月14日、脳梗塞のために死去。82歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
菅野 千代夫(かんの ちよお、1902年 <明治35年> 2… 菅野 千代夫(かんの ちよお、1902年 <明治35年> 2月11日 - 1979年 <昭和54年> 7月7日)は、日本の経営者。河北新報社、東北放送各社長を務めた。 宮城県出身。1926年に慶應義塾大学経済学部を卒業。 1942年に河北新報社取締役に就任し、1947年から1962年までに社長を務めた。東北放送社長、日本民間放送連盟副会長も務めた。 1972年11月に勲二等瑞宝章を受章。 1979年7月7日、肝臓癌のために死去。77歳没。
東井金平(とうい きんぺい、1902年1月27日-?)は、日… 東井金平(とうい きんぺい、1902年1月27日-?)は、日本の農業経済学者。 石川県出身。慶應義塾大学経済学部卒。1959年「欧米における日本農業の研究」で慶大経済学博士。農林省農業総合研究所勤務。1962年『欧米における日本農業の研究』で日経・経済図書文化賞受賞。
吉田 小五郎(よしだ こごろう、1902年1月26日 - 1… 吉田 小五郎(よしだ こごろう、1902年1月26日 - 1983年8月20日)は、日本の歴史学者、教育者。 新潟県柏崎市出身。1924年、慶應義塾大学文学部史学科卒。大学では幸田成友に師事。慶應義塾幼稚舎職員を1965年まで務める。幼稚舎長、慶大講師などを務め、東西交渉史などに業績を残す。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
西川 寧(にしかわ やすし、1902年〈明治35年〉1月25… 西川 寧(にしかわ やすし、1902年〈明治35年〉1月25日 - 1989年〈平成元年〉5月16日)は、20世紀を代表する日本の書家、金石学者、中国文学者、西域出土晋代墨蹟の書道史的研究で文学博士(慶應義塾大学)。字は安叔。号は靖闇。贈正三位(没時叙位)、贈勲一等瑞宝章(没時陞叙)。息子の西川杏太郎は奈良国立博物館長、東京国立文化財研究所所長を歴任した仏像を中心とした日本彫刻史の研究者。 明治の大家、西川春洞の三男として東京に生まれる。俗に「昭和の三筆」の一人とも言われる。現代の書壇に最も影響を及ぼし、書の巨人と呼ばれ、文字学研究者として、また書壇を驚かす強烈なインパクトの作品を数々残した。子に美術史研究者の西川杏太郎がある。