小平 忠(こだいら ただし、1915年8月1日 - 2000… 小平 忠(こだいら ただし、1915年8月1日 - 2000年12月3日)は、日本の政治家。衆議院議員(11期)。正三位勲一等。北海道空知郡栗沢町(現・岩見沢市)出身。民主党元衆議院議員で、野田内閣 (第3次改造)で国家公安委員長を務めた小平忠正は実子。 現在の岩見沢市栗沢町茂世丑地区で、戊辰戦争に敗れ北海道に開拓に入った貧しい家庭に生まれた。 1941年に日本大学経済科を卒業後、出征し南方戦線より帰還した。その後、郷里の北海道へ戻り、北海道農協中央会専務理事を経て、1949年、農民新党公認で第24回衆議院議員総選挙に北海道第4区より立候補し初当選。以後通算当選11回。農民協同党→協同党→右派社会党→日本社会党を経て民社党の結成に参加。
宮川 英二(みやがわ えいじ、1915年7月14日 - 19… 宮川 英二(みやがわ えいじ、1915年7月14日 - 1989年5月11日)は日本の建築家。日本大学名誉教授。 東京出身。日本大学旧工学部建築学科卒業。1988年勲四等旭日小綬章受章。1989年、急性白血病のため死去。 近江栄・宇野英隆編『建築への誘い先駆者10人の歩んだ道』朝倉書店、1982 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。 この項目は、建築・土木に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:建築/Portal:建築)。
西岡 弘(にしおか ひろし、1915年5月13日 - 200… 西岡 弘(にしおか ひろし、1915年5月13日 - 2004年2月24日)は、日本の文学者。専門は中国文学。文学博士(國學院大學)。國學院大學名誉教授。 大阪府大阪市出身。大阪府立北野中学校卒業。1939年國學院大學高等師範部卒業。大修館書店入社。同大漢和辞典編集室所属。1943年日本大学法文学部文学科2部卒業。陸軍少年通信兵学校教官。1946年國學院大學文学部専任講師。1951年同文学部助教授。1961年3月31日に論題「中国古代の葬礼と文学」で國學院大學にて文学博士号を受く。1963年國學院大學文学部教授。1983年國學院大學図書館長。1986年國學院短期大学(現・國學院大學北海道短期大学部)2代学長。
緑川洋一(みどりかわ よういち、1915年(大正4年)3月4… 緑川洋一(みどりかわ よういち、1915年(大正4年)3月4日 - 2001年(平成13年)11月14日)は、写真家、歯科医師。生来の名は横山知(さとし)。二科会写真部会員。 岡山県邑久郡裳掛村虫明(現・瀬戸内市邑久町虫明)の呉服商の長男として生まれる。1932年(昭和7年)に上京し、日本大学専門部歯科に入学。1934年(昭和9年)、模型飛行機店の店主と合作でコンテストに応募したボート用スチームエンジンを、海軍省が50円で買い取る。これを元手にドイツ製カメラ・ペルケオを購入し写真撮影を始める。1936年(昭和11年)、日大専門部歯科を卒業。歯科医師国家試験に合格し、東京市蒲田区(現・大田区蒲田)の総合病院に勤務する。
高梨 公之(たかなし まさゆき、1915年(大正4年)3月2… 高梨 公之(たかなし まさゆき、1915年(大正4年)3月2日 - 2005年(平成17年)1月14日)は、日本の法学者。日本大学名誉総長。学位は、法学博士(日本大学・論文博士・1962年)。弁護士。紫綬褒章、従三位勲一等瑞宝章。栃木県出身。 民法・家族法・婚姻法関係の数多くの著名な研究で知られている。監修した『口語民法』はロングセラーとなった。日大紛争の時代に、当時日大大学院生だった小沢一郎に、司法試験(弁護士教育)と論文指導をした。2005年1月14日(平成17年)に肺癌のため逝去。享年89。
名和 青朗(なわ せいろう、1915年3月2日 - 1979… 名和 青朗(なわ せいろう、1915年3月2日 - 1979年1月4日)は、日本の放送作家、劇作家。本名は津久井柾章(つくい まさあき)。また、名和左膳の筆名もある。 東京出身。1938年日本大学芸術科卒業。1946年ひまわり社に入社し、雑誌『それいゆ』の編集者を務めた後、1950年より牧野英二が創刊した『別冊モダン日本』の編集者となる。他の編集者には吉行淳之介がいた。翌年13号まで発刊したのち、牧野が出資者と対立して廃刊となる。その後、石坂幸男によって設立された三世社で、牧野・吉行・名和の三人を中心として1952年2月から月刊誌「読切倶楽部」を創刊する。この「読切倶楽部」では名和左膳の筆名で主に漫才を執筆している。
遊佐 正憲(ゆさ まさのり、1915年(大正4年)1月20日… 遊佐 正憲(ゆさ まさのり、1915年(大正4年)1月20日 - 1975年(昭和50年)3月8日)は、日本の水泳選手。1932年ロサンゼルスオリンピックの800mリレーで金メダル、1936年ベルリンオリンピックの800mリレーで金メダル、100m自由形で銀メダルを獲得した。 香川県仲多度郡多度津町の出身。旧制多度津中学校(現・香川県立多度津高等学校)から日本大学に進学、日大1年次の17歳で出場した1932年ロサンゼルスオリンピック800メートルリレーで宮崎康二、横山隆志、豊田久吉とチームを組んで金メダルを獲得する。この800mリレーの優勝を讃えられ、遊佐は宮崎、横山、豊田と共に1932年度の朝日賞体育部門(現・朝日スポーツ賞)を受賞した。
八切 止夫(やぎり とめお、1914年12月22日? - 1… 八切 止夫(やぎり とめお、1914年12月22日? - 1987年4月28日)は、歴史小説家。日本シェル出版代表。「八切史観」と呼ばれる独自の歴史観を展開した。
佐藤 甚次郎(さとう じんじろう、1914年〈大正3年〉11… 佐藤 甚次郎(さとう じんじろう、1914年〈大正3年〉11月24日 - 2002年〈平成14年〉10月1日)は、日本の地理学者(地理学)。 山形県鶴岡市生まれ。東京高等師範学校研究科地理科卒、日本大学法文学部史学科地理学卒、日本女子大学附属高等学校教諭、1965年「日本農家の間取型に関する地理学的研究」で、東京教育大学より理学博士の学位を取得。日本女子大学教授、1985年定年、名誉教授。 1987年、勲四等旭日小綬章を受章。2002年10月1日、脳腫瘍による虚血性心不全のため死去。
福冨 芳美(ふくとみ よしみ、1914年11月23日 - 1… 福冨 芳美(ふくとみ よしみ、1914年11月23日 - 1992年4月22日)は、昭和~平成初期のファッションデザイナー、教育者。旧姓は小田。 岡山県生まれ。兵庫県立第一神戸高等女学校を卒業後、婦人服の仕立て職人に弟子入り。その後上京して杉野学園ドレスメーカー女学院で学び、1937年に神戸ドレスメーカー女学院(現・神戸ファッション専門学校)開校。戦後は大丸神戸店の顧問デザイナーに招聘され、パリやニューヨークへ出かける機会を得る。また、神戸在住のまま飛行機で日本大学芸術学部美術学科に通い、1961年に卒業した。 1967年に明石女子短期大学を創立し、学長兼教授となる。日本家政学会、人間工学会、日本デザイナークラブ、ザ・ファッション・グループ(本部ニューヨーク)等の会員。
宇野 重吉(うの じゅうきち、1914年〈大正3年〉9月27… 宇野 重吉(うの じゅうきち、1914年〈大正3年〉9月27日 - 1988年〈昭和63年〉1月9日)は、日本の俳優、演出家、映画監督。本名:寺尾 信夫(てらお のぶお)。 宇野は第二次世界大戦前から戦後にかけて長く演劇界をリードしてきた名優の1人であり、滝沢修らと劇団民藝を創設した。飄々とした風貌と軽妙な演技を持ち味とし、『ゴドーを待ちながら』『夕鶴』などの舞台に出演。演出家としても多くの作品を残しており、リアリズムを基調とした近代的な芸を追求した。映画・テレビでも活躍し、主な映画出演作に『愛妻物語』『第五福竜丸』『金環蝕』など。映画監督として4本の作品も発表している。宇野重吉の芸名は、中野重治と鈴木三重吉に由来している。
野々 浩介(のの こうすけ、1914年9月21日 - 19… 野々 浩介(のの こうすけ、1914年9月21日 - 1991年6月19日)は、東京市(現:東京都)出身の俳優、声優。 本名は野々山 浩司(ののやま こうじ)。日本大学専門部芸術科映画科卒業。 1936年、東宝映画京都撮影所入社。1938年5月、大阪劇団宝塚ショー入社。1941年12月、ムーランルージュ新宿座に入団し、軽演劇を中心に活動。人生座、ラジオ東京、伊藤事務所、フリーランス期間、新作座、カタバミ事務所、さむらいプロなどに所属。映画、テレビドラマの端役のほか、人形劇やラジオドラマの声優としても活動した。 1991年6月19日、死去。76歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、俳優(男優・女優)に関連した書きかけの項目です。
井上 増吉(いのうえ ますきち、1914年〈大正3年〉8月2… 井上 増吉(いのうえ ますきち、1914年〈大正3年〉8月21日 - 2010年〈平成22年〉10月24日)は、昭和から平成時代の政治家。兵庫県小野市長。位階は従五位。 兵庫県小野市出身。旧制小野中学校(現在の兵庫県立小野高等学校)を卒業。1939年(昭和14年)日本大学商経学部経済科卒業。同年日本放送協会に入った。その後、1946年(昭和21年)、山陽利器に入社した。さらに、1951年(昭和26年)、小野町立病院に入った。そして、1952年(昭和27年)明石市役所に奉職し収入役を務めた。 1976年(昭和51年)の小野市長選挙に立候補して、保守・革新双方の推薦を得て、共産党が支持する新人を破って初当選を果たした。
大内 俊司(おおうち しゅんじ、1914年7月20日 - 2… 大内 俊司(おおうち しゅんじ、1914年7月20日 - 2001年7月4日)は、日本の経営者。山陽特殊製鋼社長を務めた。岐阜県出身。 1938年に日本大学法文学部を卒業し、同年に富士製鉄に入社。1965年に取締役に就任し、1967年に常務、1970年に新日本製鐵常務、1973年に専務、1977年に副社長、1979年に常任顧問を経て、1980年に山陽特殊製鋼社長に就任し、同社の再建に尽力。1986年に会長に就任し、1992年には相談役に就任。新日本製鐵室蘭硬式野球部の初代監督も務めた。 1975年に藍綬褒章を受章し、1984年に勲二等旭日重光章を受章。 2001年7月4日肺炎のために死去。86歳没。
柳原 三郎(やなぎはら さぶろう、1914年(大正3年)7月… 柳原 三郎(やなぎはら さぶろう、1914年(大正3年)7月3日 - 1990年(平成2年)1月25日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。 岐阜県岐阜市出身。1932年(昭和7年)岐阜県立岐阜中学校(現岐阜県立岐阜高等学校)を卒業。その後、日本大学を卒業した。 岐阜県会議員に選出され、司法保護委員も務めた。柳原工業工場長、同取締役副社長、岐阜商工会議所議員、岐阜県体育協会長などを歴任。岐阜青年連盟主幹に就任し『暁鐘』を主宰した。 1949年(昭和24年)1月の第24回衆議院議員総選挙で岐阜県第1区に民主党公認で出馬して初当選。その後、1953年(昭和28年)4月の第26回総選挙まで再選され、衆議院議員に連続3期在任した。
荒谷 真平(あらや しんぺい、1914年6月8日 - 199… 荒谷 真平(あらや しんぺい、1914年6月8日 - 1999年1月5日)は日本の医師、生化学者、歯学者。元東北大学歯学部長、歯学部教授、東京医科歯科大学歯学部生化学講座初代主任教授、国立予防衛生研究所歯科衛生部部長。 1938年、日本大学医学部卒業。卒業後、同大学生化学教授の志賀直の元で研究に従事、志賀の台北帝国大学赴任に同行。 戦後、東京医学歯学専門学校(東京医科歯科大学)にて研究、1952年東京医科歯科大学歯学部生化学講座開設に伴い教授に就任。山本肇、佐伯政友らと東北大学歯学部創設のため1966年に東北大学へ赴任、1967年同歯学部長。 1971年兼任で国立予防衛生研究所歯科衛生部部長、1977年に専従、1980年退任。
大滝清雄(おおたき きよお、1914年5月20日-1998年… 大滝清雄(おおたき きよお、1914年5月20日-1998年9月16日)は、日本の詩人。 1914年5月20日、福島県西白河郡三神村(現:矢吹町)にて住職の長男として生まれる。幼名「清男」。1921年、石川郡澤田小学校に入学。1924年、父母と別れ、祖母のもとで暮らすこととなる。同時に、三神尋常小学校(現:矢吹町立三神小学校)に転校。1927年、私立石川中学校(現:学校法人石川高等学校)に入学、「徳海」と改名。1932年、石川中学校卒業。同時に、川端康成らの文学に憧れて上京。日本大学法文学部芸術学専攻で川端康成らから指導を受ける。1934年、日本大学法文学部芸術学専攻を卒業。1935年、郷里に戻り、福島民友に小説を連載する。
嶋津 千利世(しまづ ちとせ、1914年5月9日 - 200… 嶋津 千利世(しまづ ちとせ、1914年5月9日 - 2000年12月28日)は、日本の女性問題研究家。島津千利世とも。 茨城県生まれ。1949年日本大学法文学部卒。群馬大学教育学部助教授、教授。80年定年退官。
桂 章太郎(かつら しょうたろう、1914年5月8日 - 1… 桂 章太郎(かつら しょうたろう、1914年5月8日 - 1935年5月13日)は、日本の俳優である。本名松田 秀雄(まつだ ひでお)。日本映画データベースにおける「柱章太郎」は、単純な誤記である。満18歳で映画主演して以降、サイレント末期の剣戟映画における青年スターであったが、満21歳で戦死した。 1914年(大正3年)5月8日、東京府東京市京橋区八丁堀(現在の東京都中央区八丁堀)に生まれる。 1926年(大正15年)3月、旧制小学校を卒業し、同年4月、旧制・日本大学中学校(現在の日本大学第一高等学校)に進学したが、満15歳になる1929年(昭和4年)、同校を中途退学して京都に移り、等持院の東亜キネマ京都撮影所に入社する。
池田 みち子(いけだ みちこ、1914年4月10日 - 20… 池田 みち子(いけだ みちこ、1914年4月10日 - 2008年1月7日)は、日本の作家。 京都府出身。日本大学芸術科卒業後、日本写真公社に勤務する傍ら『三田文学』などで小説を書き始め、1940年(昭和15年)には「上海」で第11回芥川賞候補となった。 戦後は作家専業となり、女の性を赤裸々に描いた1950年(昭和25年)の「醜婦伝」で注目され、中間小説を多数執筆。「肉体派の風俗作家」と呼ばれる。1981年(昭和56年)、『無縁仏』で平林たい子文学賞を受賞。1982年(昭和57年)の『生きる』は翌年、NHKのドラマ人間模様でドラマ化された。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
杉本 盛(すぎもと のぼる、1914年(大正3年)4月6日 … 杉本 盛(すぎもと のぼる、1914年(大正3年)4月6日 - 生没不明)は、昭和時代の競泳選手。 高知県に生まれる。日本大学在学中、1932年ロサンゼルスオリンピックに競泳日本代表として男子400m自由形に出場し5位に入賞した。
十返 肇(とがえり はじめ、1914年〈大正3年〉3月25日… 十返 肇(とがえり はじめ、1914年〈大正3年〉3月25日 - 1963年〈昭和38年〉8月28日)は、香川県出身の作家、文芸評論家、編集者。 本名は十返 一(とがえり はじめ)。筆名=大方宗多(オオカタ ソウダ)。 高松市生まれ。料亭・淀川楼の長男に生まれる。 旧制高松中学校を経て、1935年(昭和10年)日本大学芸術科卒業。在学中から中河与一主宰「翰林」の同人となり、文芸時評を連載。東京市麹町区土手三番町に下宿していたとき、近所の吉行エイスケに師事。 森永製菓宣伝部に勤務。後に、第一書房に入社して「新文化」(「セルパン」改題) 編集長。 戦後、丹羽文雄に勧められて十返肇という筆名を名乗る。
会田 綱雄(あいだ つなお、1914年(大正3年)3月17日… 会田 綱雄(あいだ つなお、1914年(大正3年)3月17日 - 1990年(平成2年)2月22日)は、日本の詩人。東京市本所区出身。代表的な詩に『伝説』がある。 日本大学社会学科を卒業した後、1940年に志願して中国に渡り南京特務機関嘱託となる。南京にて詩人の草野心平を知る。後に上海に移り、『黄鳥』『亜細亜』の作品を発表する。 1947年、同人雑誌である『歴程』の同人となる。 1957年、詩集『鹹湖』を発表し、第一回高村光太郎賞を受賞する。同じく詩人である知念栄喜は、「残酷な生命の条理を自然の中に溶解し、原罪意識を夢幻的な物語として構成する特異な個性の詩人」と述べている。1964年、詩集『狂言』を思潮社から、1970年、67部限定の詩集『汝』を母岩社から出版。
金 鍾漢(キム・ジョンハン、김종한、日本名:月田 茂(つきた… 金 鍾漢(キム・ジョンハン、김종한、日本名:月田 茂(つきた しげる)、1914年2月28日 - 1944年9月27日)は、日本統治時代の朝鮮の詩人。号は、高句麗の宰相であった乙巴素(ウルファソ)(朝鮮語版)から名をとって、乙巴素(을파소)としていた。 咸鏡北道明川郡西面に生まれた。生家は農家であったが、6歳の時に医師であった伯父の養子となり、清津府へ移り、さらに養父とともに雄基郡に移って、鏡城中学校、次いでに鏡城高等普通学校(朝鮮語版)に学んだ。鏡城高普の在学中の1933年ころから、「乙巴素」名義で雑誌や新聞のコンテストなどに自作の詩を書き送るようになり、その後一時期は満州などを放浪したとされる。
浦野 幸男(うらの さちお、1914年1月14日 - 197… 浦野 幸男(うらの さちお、1914年1月14日 - 1977年1月16日)は、日本の政治家。衆議院議員(6期)、労働大臣(第38代)。自由民主党では宏池会に所属した。 科学技術庁長官の浦野烋興は娘婿。 愛知県西加茂郡猿投村(現豊田市四郷町下古屋)出身。父親の浦野本一は米穀飼料商を営んでいた。猿投第二尋常高等小学校(現豊田市立青木小学校)卒業。1930年3月、東邦商業学校(現東邦高等学校)卒業。日本大学政経科中退後は家業の米穀飼料商に従事する。1935年1月、応召して中国北部へ出征した。1946年1月、食糧営団西加茂支所長に起用される。 1947年、父親の浦野本一は猿投村長選挙に立候補し初当選。
伊藤 喜三郎(いとう きさぶろう、1914年 - 1996年… 伊藤 喜三郎(いとう きさぶろう、1914年 - 1996年3月3日)は、日本の建築家、伊藤喜三郎建築研究所会長。病院建築の分野で著名であった。また、日本自由画壇理事長も歴任し、「伊藤三喜庵」の名で絵本(『絵本 ジョン万次郎の生涯』)や画集(『三喜庵墨絵』)などを刊行している。 1938年に日本大学旧工学部建築学科卒業。東京大学営繕課研究室嘱託、日立研究所、大成建設、厚生省嘱託などを経て1952年に建築設計事務所・伊藤喜三郎建築研究所設立。建築業協会BCS賞、文部大臣賞、京都府知事賞などを受賞。主な作品に、産業医科大学、慶應義塾大学病院、三楽病院、国立身体障害者リハビリテーションセンターなどがある。
岡崎 耕三(おかざき こうぞう、1913年10月26日 - … 岡崎 耕三(おかざき こうぞう、1913年10月26日 - 1993年8月13日)は、日本の裁判官、弁護士。元日本弁護士連合会副会長。 香川県三豊郡和田村(現 観音寺市豊浜町)出身。旧制香川県立三豊中学校、日本大学専門部法律科卒業。 三豊中学卒業後、同郷の先輩の白川朋吉弁護士事務所に書生として勤務しながら法律の勉学に励み、1931年(昭和6年)普通文官試験合格。更に、1935年(昭和10年)日本大学専門部法律科卒業後、1940年(昭和15年)高等文官試験司法科合格。1942年(昭和17年)判事任官。大阪、神戸、姫路、岡山の各地方裁判所判事を歴任。 1947年(昭和22年)岡山県にて弁護士開業。1968年(昭和44年)4月から1969年(昭和45年)3月まで岡山弁護士会会長、1980年(昭和55年)4月から1981年(昭和56年)3月まで日本弁護士連合会副会長を務めた。
吉永 治市(よしなが じいち、1913年(大正2年)10月1… 吉永 治市(よしなが じいち、1913年(大正2年)10月12日 - 2000年(平成12年)4月4日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。号・望蘇(ぼうそ)。 熊本県上益城郡、後の益城町で生まれた。陸軍に入隊し第106師団に配属され日中戦争に出征し、1939年(昭和14年)11月、独立混成第18旅団独立歩兵第92大隊に情報作戦担当として転属し、中支宋河鎮の警備中に陸軍士官学校将校学生として入学した。1943年(昭和18年)陸軍士官学校を卒業。その後、熊本歩兵第13連隊補充の教育主任となる。陸軍少佐で復員。 戦後、1951年(昭和26年) 日本大学経済学部を卒業した。全国農業会秘書課、西日本肥料工業社長、吉永興業社長、旭観光開発代表取締役などを務めた。
高橋 博(たかはし ひろし、1913年10月11日 - 19… 高橋 博(たかはし ひろし、1913年10月11日 - 1982年10月1日)は、芸能評論家、話芸家、アナウンサー。日本演劇協会会員、日本大学芸術学部講師。愛称は、博さん(はくさん)。 銀座生まれ浅草育ち。1936年にNHK入局(同期に志村正順等)。 学生時代から芝居好きで、脚本なども書き、芝居の世界との付き合いもあったせいもあり、主に舞台中継、朗読を担当。抑制した口調と独特の間の置き方で「語り」の世界を作り上げた。 敗戦後、戦意高揚に関わった責任を取ってNHKを辞職。1954年にニッポン放送へ移籍。同時期に坂本荘、中村要輔(両名ともNHKの後輩。当時はラジオ東京)とともに東北放送で教育も行った。
飯田 道雄(いいだ みちお、1913年10月5日 - 199… 飯田 道雄(いいだ みちお、1913年10月5日 - 1997年9月2日)は、日本の実業家。 神奈川県出身。1931年に京浜電気鉄道(のちの京浜急行電鉄)に入社し、1935年に日本大学専門部商科を卒業した。自動車部長、取締役、事業本部長、常務、専務を経て、1975年5月に副社長に就任し、1981年6月に社長に昇格し、1987年6月に会長に就任した。 1975年11月に藍綬褒章を受章し、1985年4月から勲二等瑞宝章を受章した。 1997年9月2日、心不全のために横浜市の病院で死去。83歳没
李 雨茁(イ・ウジュルまたはイ・ウチュル、朝鮮語: 이우줄ま… 李 雨茁(イ・ウジュルまたはイ・ウチュル、朝鮮語: 이우줄または이우출、1913年9月27日または1914年または1915年9月27日 - 1976年1月4日)は、大韓民国の教育者、政治家。大邱市議会議員、第3・4代韓国国会議員を歴任した。 祖父の李圭晙は韓方医である。 大邱府(現・大邱広域市)出身。日本大学法学部卒。慶尚北道民族自決闘争本部総司令、嶺南保安隊副隊長、徳化公民学院設立者、大邱市議会文教分科委員長、罹災民同胞自治会委員長、徳化中学校(現・青丘高等学校(朝鮮語版))校長(1954年時点)、大韓傷痍軍人会慶北支部顧問、自立更生院顧問を務めた。自由党所属で第4代国会議員に就任した直後、1958年7月の再検票により林文碩の方が2800票差で勝ったとわかったため、当選無効判決により議員資格を失った。
高橋 一夫(たかはし かずお、1913年9月13日 - 20… 高橋 一夫(たかはし かずお、1913年9月13日 - 2004年10月24日)は、日本の実業家。中部日本放送社長を務めた。愛知県出身。 日本大学専門部法科に進学するも中退し、1951年に中部日本放送に入社した。 テレビ局営業部長、取締役、、常務、専務、副社長を経て、1987年6月から1993年6月までに社長を務めた。 また日本民間放送連盟副会長も務めた。 2004年10月24日呼吸不全のために死去。91歳没。
西村 元男(にしむら もとお、1913年7月15日 - 19… 西村 元男(にしむら もとお、1913年7月15日 - 1998年2月7日)は、日本の映画監督、脚本家。主にコメディ映画、ミュージカル映画、ドキュメンタリー映画を監督した。 日本大学芸術学部卒業(6期生)。その後、大映株式会社入社。 終戦後、大映に復帰。助監督から監督となり、1963年の退職まで多数の映画に携わる。 独立して映像編集、制作会社を立ち上げるも、1969年に解散。 1998年、肺ガンにより死去。 死後、2002年、企画した『陽はまた昇る』が西田敏行主演で東映より映画化された。 movie walkerplus 西村 元男 日本映画監督協会会員名鑑 西村元男 文化庁 日本映画情報システム 西村元男 資料データベース|東宝WEB SITE この項目は、映画関係者に関連した書きかけの項目です。
渡辺 孟次(わたなべ たけじ、1913年7月12日 - 20… 渡辺 孟次(わたなべ たけじ、1913年7月12日 - 2005年4月2日)は、日本の経営者。共同通信社社長を務めた。 東京都出身。1938年に日本大学を中退し、同盟通信社での勤務を経て、1945年に共同通信社に入社。1968年6月に常務理事に就任し、1974年6月に専務理事を経て、1978年6月に社長に就任。1985年6月に相談役に就任し、1987年6月には顧問に就任。 1984年11月に勲一等瑞宝章を受章。 2005年4月2日老衰のために死去。91歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
金 煥基(キム・ファンギ、朝鮮語: 김환기、1913年4月3… 金 煥基(キム・ファンギ、朝鮮語: 김환기、1913年4月3日〈太陰暦: 1913年2月27日〉 - 1974年7月25日)は、大韓民国の洋画家。全羅南道新安郡の安佐島(朝鮮語版)出身。 本貫は金海金氏。号は樹話(スファ、수화)。金 煥其(読み、ハングル同じ)という表記も見られる。卞東琳の夫であった。 日本統治時代の全羅南道新安郡に生まれた。1936年に日本大学美術学部卒業。その後吉鎮燮などと白蛮会を組織する一方、東京で個展を開いた。1946年から1949年までソウル大学校美術大学で教授を務め、新写実派展に出品した。幾度となく国展審査委員を務め、1952年に弘益大学校美術大学教授、1954年に芸術院の会員となった。
朴 世東(パク・セドン、朝鮮語: 박세동、1913年3月4日… 朴 世東(パク・セドン、朝鮮語: 박세동、1913年3月4日 - 没年不詳)は、大韓民国の実業家、政治家。第2代韓国国会議員。 江原江陵出身。日本大学法科卒。商会支配人、鉱山経営者、鉱業評論社社長、大韓青年団江陵郡団長、建青首席総務、大韓農民総連盟中央総本部副委員長、大韓独立青年団中央広報部副団長、経済新聞主幹、現代日報創刊主幹・総務局長、大韓反共団中央総本部副団長、大韓啓蒙協会副会長などを務めた。光復後は共産党打倒に尽力し、国会議員在任中は李承晩の政治路線に従って自由党の発展に貢献をしたが、その後族青系と見なされ、除名処分を受ける危機に陥った。
藤井 誠司(ふじい せいじ、1913年1月16日 - 199… 藤井 誠司(ふじい せいじ、1913年1月16日 - 1997年10月4日)は、日本の経営者。不二家社長、会長を務めた。神奈川県横浜市出身。 1930年に日本大学第三中学校を卒業し、同年に不二家に入社。副社長を経て、1948年に社長に就任し、1969年5月には会長に就任。 キャラクターの「ペコちゃん」と「ポコちゃん」を考案した。 1997年10月4日、呼吸不全のために死去。84歳没。
斎藤 正二(さいとう しょうじ、1913年〈大正2年〉1月9… 斎藤 正二(さいとう しょうじ、1913年〈大正2年〉1月9日 - 1999年〈平成11年〉7月22日)は、日本の社会学者。俳人。栃木県生まれ。1941年日本大学社会学科卒、同助手、予科講師、1949年日大文理学部助教授、1957年教授、1966年「日本社会学成立史の研究」で日本大学文学博士。1977年人文科学研究所長、1983年定年、名誉教授、1986年勲四等旭日小綬章受勲。宵路の名で俳句も作った。
坪内 八郎(つぼうち はちろう、1912年〈大正元年〉12月… 坪内 八郎(つぼうち はちろう、1912年〈大正元年〉12月7日 - 1996年〈平成8年〉12月25日)は、昭和期の教育者、政治家。衆議院議員、剣道七段・達士。 長崎県出身。1940年(昭和15年)日本大学高等師範部修身公民科を卒業した。 帝京商業学校(現帝京大学中学校・高等学校)教諭、長崎逓信講習所教官、長崎市立商業学校(現長崎市立長崎商業高等学校)教諭、同第二商業学校(長崎市立長崎高等学校となり2000年閉校)教諭などを務めた。 政界では、長崎県議会議員、長崎市議会議員に選出された。1946年(昭和21年)4月の第22回衆議院議員総選挙で長崎県全県区に無所属で出馬して落選。今村等の公職追放、本田英作の死去により1948年(昭和23年)11月に実施された第23回総選挙の長崎県第1区補欠選挙に民主自由党公認で出馬して初当選。
大佐古 一郎(おおさこ いちろう、1912年(大正元年)11… 大佐古 一郎(おおさこ いちろう、1912年(大正元年)11月15日 - 1995年(平成7年))は、昭和時代のジャーナリスト・著作家。広島市での原爆被災をはさむ長い時期にわたって、在広島の地方紙である中国新聞の記者を務めた。 広島県山県郡壬生町(現・北広島町)生まれ。1933年に(旧制)山陽中学を卒業したのち日本大学予科に入学。同大学文学部に学んだのち、標準教科書出版協会・哈爾濱日日新聞社を経て、1939年中国新聞社に入社。この間、中国大陸で兵役に就く。県政(広島県庁・中国総監府)担当記者であった33歳時、1945年8月6日に原爆に被災した。同社が壊滅して幹部・同僚記者が多数被爆死し、また敗戦後の枕崎台風によって疎開先の印刷工場も機能停止に陥るなか、辛くも生き延びて戦後の再建に参加した。
大西 正道(おおにし せいどう、1912年(大正元年)11月… 大西 正道(おおにし せいどう、1912年(大正元年)11月7日 - 1960年(昭和35年)7月15日)は、大正から昭和期の教育者、労働運動家、政治家。衆議院議員(3期)。 兵庫県飾磨郡花田村(現姫路市花田町)で生まれる。姫路師範学校をへて、1939年(昭和14年)日本大学高等師範部を卒業した。 1939年から兵庫県、東京都、青森県の小学校訓導を務め、青森県立弘前高等女学校(現青森県立弘前中央高等学校)教諭に就任。戦後、労働組合運動に加わり、日本教職員組合が結成されると同中央執行委員、その後、同副委員長に就任した。その他、中央教育復興会議幹事長、ユネスコ全国連盟常任委員、世界連邦建設同盟常任理事、文部省教科書検定委員、全日本仏教会参与などを務めた。
奈良 武衛(なら たけえ、1912年10月28日 - 201… 奈良 武衛(なら たけえ、1912年10月28日 - 2011年4月13日)は日本の大蔵官僚、税理士。東京国税局調査第二部長、高松国税局長を務める。東京都小金井市東町在住。 山梨県大月市出身。山梨県立都留中学校卒業。1931年4月 都留税務署臨時雇用。1932年4月 大蔵省主税局。1935年3月 日本大学専門部法律科本科卒業。1936年7月 日本橋税務署。1942年10月 大臣官房秘書課。1950年5月 大宮税務署長。1954年7月 淀橋税務署長。1960年7月 東京国税局総務部人事課長。1962年7月 京橋税務署長。1964年7月 東京国税局調査第一部次長。1966年7月 東京国税局協議団本部長。
小堀 文雄(こぼり ふみお、1912年9月23日 - 199… 小堀 文雄(こぼり ふみお、1912年9月23日 - 1999年11月20日)は、茶道小堀遠州流の第15世家元。号は「宗通」(そうつう)。 現在の東京都千代田区に生まれる。1936年に日本大学専門部国文学科を卒業した。 1953年に父である第14世進(宗忠)が死去したことに伴い家元を継ぐ。 後援会組織松籟会を設立。東京美術倶楽部東茶会、根津美術館茶友会、巧匠会茶会などで懸釜を実施。[要出典] 『小堀遠州の茶道』(浪速社、1969年)、『幻の茶室 転合庵』(村松書館、1980年)、『小堀遠州東海道紀行』(村松書館、1985年)などの著書がある。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
栗原 敬三(くりはら けいぞう、1912年(大正元年)9月1… 栗原 敬三(くりはら けいぞう、1912年(大正元年)9月15日 - 2007年(平成19年)3月30日)は、昭和から平成時代初期の政治家。東京都板橋区長。位階は従五位。 東京府出身。1935年(昭和10年)日本大学専門部を卒業し東京市臨時国勢調査部に奉職する。戦後、1946年(昭和21年)板橋区総務課に転じ、教育長、助役を経て、1979年(昭和54年)板橋区長に当選した。3期務め、1991年(平成3年)引退した。2007年死去。死没日付をもって従五位に叙された。
伊藤 逸平(いとう いっぺい、1912年9月5日 - 199… 伊藤 逸平(いとう いっぺい、1912年9月5日 - 1992年12月18日)は、日本の写真・漫画評論家。 愛知県出身。本名は武夫。1936年日本大学芸術学部卒。1941年玄光社に入社。1943年より「写真文化」(のち「写真科学」)編集長を務め、映像、絵画、漫画、グラフィックデザイン等の批評運動を行なう。「カメラ」の編集長となり写真評論に活躍。1946年イヴニングスター社の専務兼編集局長として漫画風刺雑誌「VAN」を創刊、編集長として谷内六郎らを発掘した。漫画評論家の草分け。
安藤 正一(あんどう しょういち、1912年8月20日 - … 安藤 正一(あんどう しょういち、1912年8月20日 - 1995年3月22日 )は日本の歯科医師、歯学者。 東京出身。1930年、旧制日本大学中学校(現・日本大学第一高等学校)卒業、1934年日本大学専門部歯科卒業。1964年、日本大学歯学部歯科放射線学講座第3代教授。1973年から1977年まで日本大学歯学部付属歯科病院長。 日本歯科放射線学会会長、総務理事、日本歯科医学会副会長などを歴任した。 1995年3月22日、心筋梗塞のため死去。
夢 虹二(ゆめ こうじ、1912年(大正元年)8月11日 -… 夢 虹二(ゆめ こうじ、1912年(大正元年)8月11日 - 1989年(平成元年)7月12日)は、埼玉県加須市出身の作詞家。主に童謡や歌謡曲の作詞を手がけた。本名「須永孝一郎」。 日本大学商学科中退。 古本で1円で買った北原白秋全集を読んだことが、作詞家を志すきっかけとなった。1955年にキングレコードの専属となり、代表作には、童謡「すうじのうた」「とんぼの中にぼくがいる」「北風こぞう」、歌謡曲「まつの木小唄」「ハマの女」、新民謡「わらび摘み唄」などがある。また、18年間日本童謡協会事務局長を務めた。1972年には「とんぼの中にぼくがいる」で日本作詩大賞童謡賞、1988年には第18回日本童謡賞特別賞を受賞。
大護 八郎(だいご はちろう、1912年8月1日 - 200… 大護 八郎(だいご はちろう、1912年8月1日 - 2008年)は、日本の郷土史家。 埼玉県入間郡勝呂村(現坂戸市)生まれ。1932年に埼玉県師範学校卒業し、同年3月から所沢小学校訓導となり、また1943年4月国際学友会日本語学校教授となる。1945年に日本大学文理学部高師地歴科卒業。1945年5月13日、埼玉県立川越高等学校で西洋史と社会科の教員となる。その後、1954年埼玉県教育局社会教育課文化財保護係長、1961年同課課長補佐を経て、1964年から埼玉県立文化会館館長などを経て、1974年から埼玉県立博物館館長。埼玉県文化財保護審議委員なども歴任。 専門は考古学・民俗学、特に石造文化財研究。
池田 生二(いけだ せいじ、1912年〈明治45年〉6月17… 池田 生二(いけだ せいじ、1912年〈明治45年〉6月17日 - 1998年〈平成10年〉)は、日本の俳優。本名:池田清二。別名:池田生三。長男は脚本家の池田太郎。長野県諏訪郡上諏訪町(現諏訪市)出身。 4人兄弟の末っ子として生まれる。 旧制諏訪中学校卒業。日本大学経済学部卒業後、日本プロレタリア演劇同盟の演劇研究所の第1期研究生となり、東京左翼劇場を経て新築地劇団で活動。 1940年には思想統制により新築地劇団、新協劇団関係者らの一斉検挙が行われ、池田も検挙された。 戦時中は、丸山定夫らの苦楽座(後の移動演劇『桜隊』)に参加。広島への劇団疎開に参加したが、妻の実家の戦災見舞いのために静岡県沼津市に向い、広島原爆投下当日には広島にいなかった。
中沢 茂一(なかざわ もいち、1912年(明治45年)5月5… 中沢 茂一(なかざわ もいち、1912年(明治45年)5月5日 - 2004年(平成16年)11月20日)は、衆議院議員(日本社会党)。 長野県上水内郡芋井村(現長野市)生まれ。昭和12年(1937年)日本大学政治学科卒。桜田製作所に入社し、保険組合常務となり、同19年(1944年)奥田製油所南方総局長兼シンガポール所長として現地に赴任、敗戦で帰国した。同22年(1947年)米倉龍也の秘書となり、長野県農協連合会嘱託、県農民連盟常任参与、信越林産工業協同組合理事長などを歴任した。 昭和27年(1952年)第25回衆議院議員総選挙に長野県第1区から初当選し、同47年(1972年)の第33回衆議院議員総選挙まで断続的に通算8回当選を果たし、主に農政問題に尽力した。