長谷川 治(はせがわ おさむ、1916年6月9日 - 199… 長谷川 治(はせがわ おさむ、1916年6月9日 - 1993年5月10日[1])は、和歌山県出身の元プロ野球選手、高校野球監督。ポジションは投手。
明治大学:181人
長谷川 治(はせがわ おさむ、1916年6月9日 - 199… 長谷川 治(はせがわ おさむ、1916年6月9日 - 1993年5月10日[1])は、和歌山県出身の元プロ野球選手、高校野球監督。ポジションは投手。
繁里 栄(しげり さかえ、1916年 - 1960年12月8… 繁里 栄(しげり さかえ、1916年 - 1960年12月8日)は、大分県出身のプロ野球選手。ボジションは投手。
小阪 三郎(こさか さぶろう、1915年11月16日 - 1… 小阪 三郎(こさか さぶろう、1915年11月16日 - 1992年12月5日)は、三重県出身のプロ野球選手(内野手)。
室井 豊(むろい ゆたか、1915年 - 1965年10月6… 室井 豊(むろい ゆたか、1915年 - 1965年10月6日)は、大阪府出身のプロ野球選手。主なポジションは捕手。
杉浦 清(すぎうら きよし、1914年7月20日 - 198… 杉浦 清(すぎうら きよし、1914年7月20日 - 1987年8月22日)は、愛知県西尾市出身のプロ野球選手・監督、旧制中等学校野球指導者、野球解説者。
吉田 正男(よしだ まさお、1914年4月14日 - 199… 吉田 正男(よしだ まさお、1914年4月14日 - 1996年5月23日)は、昭和初期に活躍した中等学校野球、大学野球及び社会人野球の選手。昭和6年(1931年)から昭和8年(1933年)にかけて、夏の甲子園大会で3連覇の偉業を達成した中京商業学校(現・中京大学附属中京高等学校)のエース。甲子園で史上最多となる23勝を記録した。
石田 政良(いしだ まさよし、1914年1月7日 - 没年不… 石田 政良(いしだ まさよし、1914年1月7日 - 没年不明)は、鹿児島県出身のプロ野球選手。ポジションは外野手。 鹿児島商業では第15回全国中等学校優勝野球大会に出場。この大会では本塁打も記録している。卒業後は明治大学、門司鉄道局へ進み、1937年に名古屋軍へ入団。1938年春季リーグでリーグ3位となる打率.324を記録。俊足の選手であり、1940年の夏季シーズン途中に応召されるが、その時点で32盗塁を記録しており、そのまま追い抜かれることはなく盗塁王を獲得した。 1946年に復帰し、同年引退した。
村上 重夫(むらかみ しげお、1913年7月3日 - 194… 村上 重夫(むらかみ しげお、1913年7月3日 - 1945年)は、愛知県出身のプロ野球選手(外野手)。
中村 三郎(なかむら さぶろう、1912年7月3日 - 没年… 中村 三郎(なかむら さぶろう、1912年7月3日 - 没年不明[戦死])は、長野県出身のプロ野球選手。ポジションは投手、内野手。 諏訪蚕糸学校(現・長野県岡谷工業高等学校)在学中に、甲子園に2回出場(春1回〔1930年〕、夏1回〔1930年〕)。1930年春の大会では、優秀選手賞を受賞。そして、最後の出場となった1930年夏の大会では準優勝投手に輝いた。長野県きってのNo.1投手との誉れ高く、その後明治大学やノンプロの諏訪紡績でも活躍した。 1937年に大東京へ入団。プロ野球入団後は内野手に転向し、「三振か長打か」の荒削りなバッティングで人気を博した。同年春季シーズンで喫した46三振は、リーグ最多三振記録(1939年に佐藤武夫〈東京セネタース〉が56三振をマークするまではプロ野球記録でもあった)。
鈴木 銀之助(すずき ぎんのすけ、1912年6月5日 - 1… 鈴木 銀之助(すずき ぎんのすけ、1912年6月5日 - 1959年8月13日)は、岩手県出身のプロ野球選手。ポジションは三塁手。 1929年に旧制岩手県立福岡中学校(現在の岩手県立福岡高等学校)を卒業後、明治大学などを経て、1950年に発足したばかりの広島東洋カープへ入団。しかし当時すでに38歳となっていて、結局一軍公式戦は3試合の出場となり1年限りで引退。 指導者として非凡な才能を発揮し、昭和6年、昭和15年、昭和22年の母校福岡中学の甲子園出場は鈴木の指導に追うところが多かった。「練習は厳しく、試合はリラックス」を指導方針とし、選手が試合中に失敗しても決して怒ることがなかったが、練習では伝説の猛ノックで選手を鍛えた。
岩本 義行(いわもと よしゆき、1912年3月11日 - 2… 岩本 義行(いわもと よしゆき、1912年3月11日 - 2008年9月26日)は、広島県三次市出身のプロ野球選手(外野手)・監督。「元祖神主打法」「初代トリプルスリー」[4]。弟はプロ野球南海の投手・審判を務めた岩本信一。5人いる孫の1人に女優の遠野舞子がいる[5]。
小林 利蔵(こばやし としぞう、1912年 - 1973年)… 小林 利蔵(こばやし としぞう、1912年 - 1973年)は、福井県敦賀市出身のプロ野球選手。右投右打で、ポジションは一塁手、二塁手、三塁手。
中根 之(なかね すすむ、1910年9月21日 - 没年不明… 中根 之(なかね すすむ、1910年9月21日 - 没年不明)は、兵庫県出身の元プロ野球選手(外野手)、プロ野球審判員。
中村 輝夫(なかむら てるお、1910年1月20日 - 没年… 中村 輝夫(なかむら てるお、1910年1月20日 - 没年不明)は、愛媛県出身のプロ野球選手(捕手)。1937年の登録名は相原 輝夫(あいはら てるお)。
中村 輝夫(なかむら てるお、1910年1月20日 - 没年… 中村 輝夫(なかむら てるお、1910年1月20日 - 没年不明)は、愛媛県出身のプロ野球選手(捕手)。1937年の登録名は相原 輝夫(あいはら てるお)。 松山商業学校から明治大学に進学し、卒業後に京城電気へと進む。1936年に名古屋金鯱軍に入団。主将を任されるが、目立った成績を残すことなく1937年に応召される。1939年に金鯱軍へ復帰するが、ここでも打率.220と低迷し、同年限りで再び退団。 この項目は、野球選手に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ野球選手/P野球)。
中尾 長(なかお ひさし、1910年 - 1937年9月19… 中尾 長(なかお ひさし、1910年 - 1937年9月19日)は、広島県出身のプロ野球選手。ポジションは外野手。 広島県出身であるが、出生地が県内のどこであるかは未詳。広陵中に入学し、野球部に入部する。1926年、春の選抜でエース・田岡兵一、角田隆良らと初優勝に貢献。中尾も一回戦の静岡中戦で本塁打を打った。翌1927年選抜は田部武雄、八十川胖両好投手を擁し、打線も中尾も含め山城健三、三浦芳郎らを揃え広陵野球部史上最強チームと言われた。しかし、連覇を狙った春の選抜では、大会屈指の好投手小川正太郎擁す和歌山中に、夏の選手権も水原茂らの高松商に決勝で敗れ、広陵中は春夏連続準優勝であった。なおこの年、春の選抜では、山城が1回戦の静岡中戦と2回戦の松本商戦で史上3人目の2試合連続本塁打を、夏の選手権では、2回戦の敦賀商戦で、八十川が史上2人目のノーヒットノーランを、中尾と三浦が本塁打を記録した。
尾茂田 叶(おもだ かの、1909年10月19日 - 199… 尾茂田 叶(おもだ かの、1909年10月19日 - 1997年1月7日)は、アメリカ合衆国ハワイ準州(Territory of Hawaii)ホノルル生まれのプロ野球選手。ポジションは外野手。アメリカ人日系2世。
松木 謙治郎(まつき けんじろう、1909年1月22日 - … 松木 謙治郎(まつき けんじろう、1909年1月22日 - 1986年2月21日)は、福井県敦賀市出身のプロ野球選手(一塁手)・監督・指導者・解説者。
井野川 利春(いのかわ としはる、1908年3月30日 - … 井野川 利春(いのかわ としはる、1908年3月30日 - 1976年6月16日)は、岡山県玉野市出身のプロ野球選手・監督・審判員。 関西中学校在学時代から捕手。明治大学ではレギュラーをつとめる。その堂々たる体格は「その面貌、あくまで頑猛無比」と称された。1931年の日米野球にも日本代表として選出される。 1932年に明治大学を卒業後、当時九州の実業団で強豪と謳われた門司鉄道局に入局。中心打者として1936年には監督兼任捕手としてチームを都市対抗野球大会覇者に導き、この年導入された「橋戸賞」の初代受賞者に輝いている。その間の1934年には日米野球の全日本選抜メンバーに選出され、全18試合中11試合に出場し、23打数8安打1本塁打,打率.348とチームトップの成績を残した。
桝 嘉一(ます かいち、1908年3月8日 - 1981年1… 桝 嘉一(ます かいち、1908年3月8日 - 1981年12月18日[要出典])は、京都府京都市出身のプロ野球選手(外野手)・監督。 元はテニス選手で旧制同志社中学校、同志社高等商業学校を経て、明治大学に進む。東京六大学リーグ通算88試合出場、296打数70安打、打率.236、0本塁打、34打点。1936年に名古屋軍に入団。 1937年と1943年には監督 、1941年から1942年までは助監督も務めた(すべて選手兼任)。1944年は監督業を三宅大輔に譲って選手専任となるが、出場機会は無く、同年限りで現役引退。戦後、一時期審判員を務め、その後、社会人日本鋼管の野球部監督に就任(プロ野球人名事典1999)し、1981年12月18日、死去。
真野 春美(まの はるみ、1907年1月12日 - 没年不明… 真野 春美(まの はるみ、1907年1月12日 - 没年不明)は、京都府出身のプロ野球選手(二塁手,遊撃手)、パシフィック・リーグ審判員。
横沢 三郎(よこざわ さぶろう、1904年12月16日 - … 横沢 三郎(よこざわ さぶろう、1904年12月16日 - 1995年11月28日)は、プロ野球選手・監督。後年には国民野球連盟理事長を経て、パシフィック・リーグの審判部長を務めた。妻は元宝塚歌劇団の花野春子。 東京セネタースでプレーした横沢四郎・七郎は実弟(七郎は戦後セネタースでもプレーした)。 1904年12月16日に当時日本の領土であった台湾で生まれ、東京府東京市(現:東京都特別区)で育つ。旧制荏原中学校時代は遊撃手、旧制明治大学時代は二塁手。大学卒業後、社会人クラブチーム・東京倶楽部の内野手としてプレーし、都市対抗野球4度の優勝に貢献。 1936年にプロ野球球団の東京セネタースが設立されると初代の監督として招聘され、1937年秋季リーグ戦では選手としても1試合に出場したが、同年秋季途中で監督を辞任。
天知 俊一(あまち しゅんいち、1903年12月30日 - … 天知 俊一(あまち しゅんいち、1903年12月30日 - 1976年3月12日)は、兵庫県西宮市出身の元野球選手(捕手)・コーチ・監督、解説者・評論家。 旧制甲陽中学校2年時に攻玉社中学校へ転校した後、明治大学予科へ進学するが、当時の中学校3年修了では資格が無いとして下野中学校へ再入学させられる。下野中で中学校4年修了となり、晴れて明治大学予科進学の資格を得られ、再度進学する。天知の学生生活は波乱に富んだものであったが、明大時代は捕手で、後に毎日オリオンズで監督を務める湯浅禎夫とバッテリーを組んだ。また、大学野球の審判を充実させる必要性を感じていた一学年先輩の二出川延明から野球のルールについての難問が毎朝10問、「宿題」として天知に出され、練習開始時間までに全問解く訓練を受けた。
二出川 延明(にでがわ のぶあき、1901年8月31日 - … 二出川 延明(にでがわ のぶあき、1901年8月31日 - 1989年10月16日)は、日本のプロ野球選手(外野手)・審判員、野球解説者、実業家、京阪電気鉄道OB。兵庫県出身。
渡辺 大陸(わたなべ たいりく、1901年7月8日 - 19… 渡辺 大陸(わたなべ たいりく、1901年7月8日 - 1955年12月11日)は、兵庫県出身のプロ野球監督。 神戸二中を経て1920年(大正9年)に明治大学予科へ入学し、野球部の剛球投手として活躍。しかし大学生活4年目の1923年(大正12年)に学歴詐称が発覚して明大を退学する。 台北交通団ではエースとして1931年の第5回全日本都市対抗野球大会で準優勝に貢献。 戦後は1946年シーズン終了後、宇高産業社長の宇高勲から宇高レッドソックス監督として迎えられるが、チームは日本野球連盟に加盟を拒否された。その後は宇高が会長となった国民野球連盟の発足に尽力。1950年、大洋ホエールズの総監督(初代監督)に就任したが、総監督の立場にとどまり実際の指揮は中島治康に任せていたという。
小西 得郎(こにし とくろう、1896年7月10日 - 19… 小西 得郎(こにし とくろう、1896年7月10日 - 1977年6月9日)は、昭和期のプロ野球監督、野球解説者。 プロ選手を経験しなかったことに加え、審判員や球団売買の仲介を経験した異色の経歴を持つ。ラジオおよびテレビの実況中継放送における「独特の話法」での解説が知られた。同時代の野球解説において大和球士と双璧を成した。 東京府麹町区出身。小西は「私は東京生まれだが、言葉は田舎育ちの両親の影響を受けている」と述べている。父・小西増太郎は広島県生まれ、岡山県児島育ち のロシア文学者で、京都帝国大学教授を務めた。増太郎は学生時代にはヨシフ・スターリンと知り合いであったという。母は愛知県知多半島の中須生まれ、半田育ち。
岡田 源三郎(おかだ げんざぶろう 1896年3月25日 -… 岡田 源三郎(おかだ げんざぶろう 1896年3月25日 - 1977年10月26日)は、東京都 出身の野球選手・指導者(名古屋金鯱軍監督。明治大学硬式野球部監督)。
中澤 不二雄(なかざわ ふじお、1892年(明治25年)11… 中澤 不二雄(なかざわ ふじお、1892年(明治25年)11月25日 - 1965年〔昭和40年〕6月9日)は、滋賀県出身の野球選手(内野手)・監督・野球解説者。パシフィック・リーグ元会長。
中澤 不二雄(なかざわ ふじお、1892年〈明治25年〉11… 中澤 不二雄(なかざわ ふじお、1892年〈明治25年〉11月23日 - 1965年〈昭和40年〉6月9日)は、滋賀県出身の野球選手(内野手)・監督・野球解説者。パシフィック・リーグ元会長。 神戸中学校を経て荏原中学校に進む。明治大学野球部時代、現在のアジア競技大会の原点である「極東オリンピック・マニラ大会」(1913年)の日本代表に選ばれ、名遊撃手として活躍。 その後造船会社へ就職したが、野球を忘れられず、1922年には、翌年プロ野球球団であることを宣言する天勝野球団の一員として活動。1923年には満洲(現・中国東北部)の満洲鉄道会社(満鉄)に就職し、社会人野球チーム「大連満洲クラブ」(満鉄の社員を中心に編成)でプレイングマネジャー(選手兼任監督)を歴任。
梁 扶初(りょう ふしょ、リャン・フチュ、中国語: 梁扶初,… 梁 扶初(りょう ふしょ、リャン・フチュ、中国語: 梁扶初, 拼音: Liáng Fúchū, 粤拼: loeng4 fu4 co1; 1891年 - 1968年12月26日)は、中華民国、中華人民共和国の野球選手、野球指導者。 戦前、戦後中国において各地で野球の普及活動を行い、中国野球の父と呼ばれる。 広東省香山県(現・中山市東昇鎮、後に小欖鎮に合併)で生まれる。幼名は梁澄樹。1901年、10歳時に一家で来日、横浜で暮らしていたが、そこで野球に出会う。1905年、14歳のときに兄弟や近所の華僑少年と共に「中華野球団」を結成した。明治大学でも野球を続け、捕手、一塁手としてプレーしたのち、本牧十二天のグラウンドで中華野球団を指導した。
加藤 三郎 (かとう さぶろう 1919年(大正8年) - … 加藤 三郎 (かとう さぶろう 1919年(大正8年) - 1944年または1945年)は、戦前期に学生野球で活躍した日本のアマチュア野球選手(捕手)。戦後近鉄でプレーした加藤春雄は実兄、加藤政一は実弟。 岐阜県岐阜市出身、金華尋常高等小学校卒業。 旧制岐阜市立岐阜商業学校時代は、1935年(昭和10年)の第12回選抜中等学校野球大会と1936年(昭和11年)の第22回全国中等学校優勝野球大会で松井栄造とバッテリーを組み優勝している。 明治大学に進学し活躍していたが、学徒出陣。特別攻撃隊員として散華した。大学の先輩である藤本英雄は戦後、嶋清一と加藤を「ぼくの知っている野球選手で、このふたりは今度の戦争で失ったのが最も悔やまれる」と記している。