大沼 勘四郎(おおぬま かんしろう、1904年〈明治37年〉… 大沼 勘四郎(おおぬま かんしろう、1904年〈明治37年〉6月23日 - 没年不明)は、日本の造り酒屋経営者。寿虎屋酒造社長(第9代)・会長。山形県酒造組合連合会会長(第3代・3期)。山形商工会議所二号議員。沖正宗酒造株式会社監査役。
早稲田大学:1,165人
大沼 勘四郎(おおぬま かんしろう、1904年〈明治37年〉… 大沼 勘四郎(おおぬま かんしろう、1904年〈明治37年〉6月23日 - 没年不明)は、日本の造り酒屋経営者。寿虎屋酒造社長(第9代)・会長。山形県酒造組合連合会会長(第3代・3期)。山形商工会議所二号議員。沖正宗酒造株式会社監査役。
西大路 隆敏(にしおおじ たかあき、1904年(明治37年)… 西大路 隆敏(にしおおじ たかあき、1904年(明治37年)5月15日 - 1982年(昭和57年)8月2日)は、日本の実業家。西大路家の第22代当主。父は西大路吉光。早稲田大学卒業。東京都出身。 東京都出身。子爵・西大路吉光とその妻で金刀比羅宮宮司・琴陵宥常の娘・八千代の長男として生まれる。早稲田大学卒業。1953年(昭和28年)に父の吉光が亡くなり西大路家の家督を継いだ。 私生活では日本電力社長・池尾芳蔵の次女である正子と結婚し、1男2女を授かった。 1982年(昭和57年)、死去。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
小森田 一記(こもりだ かずき、1904年3月29日 - 1… 小森田 一記(こもりだ かずき、1904年3月29日 - 1988年9月25日)は、日本の雑誌編集者、事業家。 1904年に熊本県菊水町(現和水町)に生まれる。最初農業に従事しようと親戚の家で馬肥づくりをするが、途中で日本の文化界に尽くしたいと、独学で旧制中学四年の編入試験に合格、新聞配達等をして苦学しながら、1930年に早稲田大学政経学部経済学科を卒業。同郷である朝日新聞編集主幹・牧野輝智の庇護と推薦を受けて中央公論社に入社、28歳で婦人公論の編集長を務める。1937年から1940年の間は編集長を務めた。 1944年に横浜事件が発生すると事件の舞台となった雑誌『改造』とともに編集が左翼的であったとして『中央公論』も弾圧対象となり、小森田を含む8人の編集者らが逮捕、勾留された。
進藤 一馬(しんとう かずま、1904年(明治37年)1月1… 進藤 一馬(しんとう かずま、1904年(明治37年)1月1日 - 1992年(平成4年)11月28日)は、日本の政治家、実業家。 早稲田大学政治経済学部卒業後、中野正剛秘書、西日本新聞社の前身の九州日報社取締役を経て、玄洋社社長となる。戦後に自由民主党に加わり、衆議院議員を経て、福岡市市長を4期務めた。 福岡市西職人町(現中央区舞鶴)出身。旧福岡藩士・進藤喜平太(玄洋社の創立者の一人)の四男。 旧制福岡中学校(現・福岡県立福岡高等学校)、早稲田大学政治経済学部卒業。1929年(昭和4年)、中野正剛の秘書となり、1933年(昭和8年)に中野が結成した東方会に入会し総務部長となる。その後、九州日報社(現・西日本新聞社)取締役を経て、1944年(昭和19年)10月、第10代玄洋社社長に就任し、1946年(昭和21年)にGHQにより解散させられるまで社長を務めた。
玉井 操 (たまい みさお、1903年12月16日 - 19… 玉井 操 (たまい みさお、1903年12月16日 - 1978年12月23日)は、日本の実業家、サッカー選手。玉井商船社長 (2代目)、日本船主協会副会長、日本サッカー協会副会長などを歴任した。 兵庫県出身。玉井商船の創業者・玉井周吉の長男として生まれ、明治学院中等部在学中よりサッカーを始めた。1922年、第一早稲田高等学院に入学して早稲田大学ア式蹴球部に入部。1923年にはビルマ人留学生のチョウ・ディンよりサッカーの直接指導を受けた。1924年に早稲田大学政治経済学部に入学した後もア式蹴球部に在籍し、関東大学リーグ優勝などに貢献した。また、在学中の1927年8月に上海で開催された極東選手権競技大会のサッカー日本代表に選出され、中華民国代表戦で1得点を挙げた。
時岡 収次(ときおか しゅうじ、1903年12月10日 - … 時岡 収次(ときおか しゅうじ、1903年12月10日 - 1987年10月18日)は、日本の実業家、スポーツ指導者。 熊谷組創設者の一人で、代表取締役を務めた。また、スポーツでは熊谷組野球部の部長や監督も務めていた。 福井県大飯郡本郷村(現・おおい町)で生まれる。船員を志して福井県立小浜水産学校に進学し、1921年3月に卒業後は早稲田大学に進む。大学時代は相撲部に所属した。 1928年3月に早稲田大学専門部政治経済学科を卒業して、飛鳥組(現・飛島建設)に入社した。この就職は、早稲田大学進学前に、建設中だった小浜線の工事のために飛島組の関係者が自宅を宿舎としており、その影響を受けたとされる。 大同電力寝覚発電所建設工事の時は現地に常駐した。
大庭 哲夫(おおば てつお、1903年(明治36年)12月2… 大庭 哲夫(おおば てつお、1903年(明治36年)12月2日 - 1979年(昭和54年)3月17日)は、日本の逓信官僚、実業家。航空庁長官、日本航空常務取締役、全日本空輸社長などを歴任。バスケットボールの選手、指導者としても活躍した。 高松藩家老の末裔として、香川県木田郡古高松村(現高松市)に生まれる。1929年、早稲田大学理工学部を卒業。1933年に逓信省航空局へ入る。 第二次大戦後の1946年、1月1日付けで逓信院電波局の中に航空保安部が置かれ、松尾静磨が部長に就任。大庭は同部の保安課長に就いた。また長野英麿、尾崎行良、亀山忠直らを保安部へ入るよう誘い、日米会話学院へ通わせて日本の民間航空再開の日に備えたとされる。
芥田 武夫(あくた たけお、1903年10月20日 - 19… 芥田 武夫(あくた たけお、1903年10月20日 - 1987年9月5日)は、日本のアマチュア野球選手・プロ野球監督・プロ野球球団経営者、スポーツ記者、野球解説者。兵庫県加東市出身(姫路市野里町とする資料もあり)。旧姓:氷室(ひむろ)。 兵庫県立姫路中学校卒業後、1922年に早稲田大学へ入学。早大野球部では飛田忠順監督の「精神野球」に鍛練され、外野手として活躍。1925年秋季には東京六大学リーグ最初の首位打者を獲得した(当時は「氷室武夫」)。1926年には主将を務めた。大学時代の通算成績は65試合出場、240打数63安打、打率.263、2本塁打(六大学リーグ以前も含む)。卒業後、満洲国へ渡り南満洲鉄道に入社し満洲倶楽部(大連市)の選手として活動。
松崎 朝治(まつざき あさじ、1903年〈明治36年〉9月1… 松崎 朝治(まつざき あさじ、1903年〈明治36年〉9月10日 - 1964年〈昭和39年〉3月31日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 埼玉県大里郡熊谷町(現:熊谷市)で生まれる。旧制熊谷中学を経て、1925年(大正14年)、早稲田大学政治経済科を卒業した。 その後、松崎製糸社長、埼玉繊維工業社長、丸佐生糸取締役、日本輸出生糸保管監査役、日本製糸協会常任幹事、ジャパン・シルク・アソシエーション理事などを務めた。 1933年(昭和8年)5月、1937年(昭和12年)5月、1942年(昭和17年)7月の3回、熊谷市会議員に選出されている。またこの間、1939年(昭和14年)5月15日から1942年(昭和17年)7月20日まで第3代同副議長を、1944年(昭和19年)6月1日から1945年(昭和20年)4月25日まで第5代同議長を務めた。
大島 一郎(おおしま いちろう、1903年9月8日 - 19… 大島 一郎(おおしま いちろう、1903年9月8日 - 1985年4月21日)は、日本の実業家。中日新聞社社主、東海テレビ放送会長、東海ラジオ放送会長を務めた。愛知県東春日井郡小幡村(守山町→守山市を経て現在の名古屋市守山区)出身。 東海テレビ放送、東海ラジオ放送の創業者。 1927年(昭和2年)に早稲田大学政治経済学部を卒業し、時事新報を経て1929年(昭和4年)に祖父の大島宇吉が興した新愛知新聞社へ入社。傘下の國民新聞総務局長を経て1935年(昭和10年)に伯父の大島慶治郎が死去した後を受けて新愛知支配人となり、1941年(昭和16年)より同社社長に就任。翌1942年(昭和17年)には戦時下の新聞統制を受けて競合紙の名古屋新聞との合併により発足した中部日本新聞社の初代社長に就任し、名古屋新聞総務局長の小山龍三(小山松寿の娘婿)を副社長に迎える。
南 松鶴(ナム・ソンハク、朝鮮語: 남송학、1903年7月2… 南 松鶴(ナム・ソンハク、朝鮮語: 남송학、1903年7月23日 - 1974年6月22日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の実業家、政治家。第2・3代韓国国会議員。 本貫は宜寧南氏(忠簡公副正公派)、別名は南 禹鉉(ナム・ウヒョン、남우현)。キリスト教徒。 ソウル麻浦または忠北槐山出身。1922年に京城鉄道学校を卒業し、その後早稲田大学政経科を校外生として卒業し、陸軍歩兵学校幹部班卒業。1935年にイエス教長老会龍山教会長老・長老会長を歴任し、1936年に南洋印刷所を経営した。解放後は大韓独立促成国民会龍山区支部長・中央常務委員・中央総本部財政部長・ソウル市支部財政部長、総選挙対等委員会中央本部財政部長、民族代表者大会龍山区選出代議員、朝鮮印刷文化建設協会(現・大韓印刷文化協会)理事長、南洋印刷所・南洋印刷社経営者、大韓青年団龍山区団長、自由党中央本部訓練部長・最高委員・無任所常務委員、国会交通逓信分科委員長・海運造船各社に対する国政監査処理委員会委員長を務めた。
神谷 新一(かみや しんいち、1903年7月 - 1986年… 神谷 新一(かみや しんいち、1903年7月 - 1986年11月8日)は、日本の実業家。竹中工務店副社長などを務めた。 長野県木曽郡大桑村生まれ。松本中学(長野県松本深志高等学校の前身)から、早稲田大学へ進み、建築科に学ぶ。1928年、竹中工務店大阪本社に入り、もっぱら現場管理関係に従事する。満洲竹中工務店常務取締役、竹中工務店専務取締役、大阪支店長、副社長などを歴任し、竹中工務店顧問となった。 現場監督として関わった建物には、1937年竣工の平安中学校(龍谷大学付属平安中学校・高等学校の前身)講堂・教室や、1936年から 1937年にかけて現地に住み込んで担当した、ヴォーリズ建築事務所の設計による豊郷尋常高等小学校(豊郷町立豊郷小学校の前身)などがある。
田辺 晃(田邊 晃、たなべ あきら、1903年〈明治36年〉… 田辺 晃(田邊 晃、たなべ あきら、1903年〈明治36年〉5月20日 - 没年不明)は、日本の地主・実業家。神奈川県多額納税者。東土地合名会社代表社員。早稲田大学評議員。 神奈川県横浜市中区中村町、田辺郷左衛門の三男、あるいは四男。1925年、早稲田大学専門部法律科卒業。1936年、家督を相続。貸地業を営む。1938年、蒙疆連合委員会の招聘に応じ渡蒙し、蒙古聯合自治政府嘱託となる。 趣味は自然科学研究、音楽、読書、旅行。宗教は真言宗。住所は神奈川県横浜市中区中村町。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
徐 珉濠(ソ・ミノ、朝鮮語: 서민호、1903年4月27日 … 徐 珉濠(ソ・ミノ、朝鮮語: 서민호、1903年4月27日 - 1974年1月24日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の独立運動家、実業家、政治家。初代光州府尹、米軍政下の全羅南道知事・江原道知事、第2・5・6・7代韓国国会議員、第5代国会民議院副議長を歴任した。 本貫は利川徐氏、号は月坡(ウォルパ、월파)。父は実業家で元南鮮貿易代表の徐和日。 全羅南道高興郡(本籍は東江面魯東里)または宝城郡筏橋邑出身。16歳のときに三・一運動に参加し、半島木鐸紙事件により逮捕され、ソウル刑務所で6ヶ月間服役した。1923年早稲田大学政経学科卒、1925年ウェズリアン大学卒、1927年コロンビア大学大学院政治社会学部修了。
森谷 新一(もりたに しんいち、1903年(明治36年)3月… 森谷 新一(もりたに しんいち、1903年(明治36年)3月31日 - 1978年(昭和53年)12月19日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員、岡山県和気郡日生町長。旧姓・森下。 岡山県和気郡日生村(日生町を経て現備前市)で、森下元治の長男として生まれ、5歳で母方の森谷虎吉の養子となる。閑谷中学校(現岡山県立和気閑谷高等学校)を経て、1927年(昭和2年)早稲田大学電気科を卒業した。 朝鮮に渡り全羅南道宝城郡筏橋面で、筏橋電気常務取締役兼主任技師として電灯開発を担当した。1930年(昭和5年)ころに帰郷して製綿業、耐火煉瓦工場を営み、児島窯業社長、日生造船造機社長、日生土地取締役、中日生土地取締役、日生町商工会長などを務めた。
井上 八三(いのうえ かずみ、1903年3月12日 - 19… 井上 八三(いのうえ かずみ、1903年3月12日 - 1978年6月6日)は、日本の経営者。三井生命保険社長を務めた。 静岡県出身。1927年に早稲田大学商学部を卒業し、同年に三井生命保険に入社。 1947年17月に常務に就任し、1948年11月には社長に昇格。1965年5月に会長を経て、1968年5月には相談役に就任した。 1963年に藍綬褒章を受章し、1973年4月に勲三等瑞宝章を受章。 1978年6月6日、脳血栓のために死去。75歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
福田 薫(ふくだ かおる、1903年(明治36年〉1月14日… 福田 薫(ふくだ かおる、1903年(明治36年〉1月14日 - 1968年(昭和43年)12月19日)は、日本の実業家。日本経済新聞社元常務取締役。日本教育テレビ(現:テレビ朝日)元代表取締役副社長。日経映画社(現:日経映像)元取締役。 佐賀県佐賀市出身。東京都新宿区在籍。福田国作の長男に生まれる。1928年(昭和3年)早稲田大学商学部を卒業後、中外商業新報社(現:日本経済新聞社)に入社。相撲部の記事からキャリアをスタートさせた。 社会・通信各部長、編集局長次長を経て、総務局長に昇進。1947年(昭和22年)取締役に就任。1949年(昭和24年)辞任し、夕刊中外新聞社長に就任。 1952年(昭和27年)日本経済新聞社との合併により、同社取締役工務局長に転じ、1954年(昭和29年)3月常務大阪支社長となる。
西川 甚五郎(にしかわ じんごろう、1902年10月6日 -… 西川 甚五郎(にしかわ じんごろう、1902年10月6日 - 1967年5月16日)は、日本の実業家、政治家。西川産業会長、参議院議員(4期)、北海道開発庁長官(第18代)。東京日本橋・西川ふとん店13代。貴族院議員や八幡銀行頭取を務めた十二代西川甚五郎の子。 現在の滋賀県近江八幡市出身。滋賀県立八幡商業学校を経て、1924年、早稲田大学専門部商科を卒業。アメリカに留学し、コーネル大学、ニューヨーク大学で学ぶ。 家業を継ぎ、日本蚊帳統制組合理事長、西川産業社長、近江蚊帳製造社長、滋賀ビル・日本橋西川ビル社長、滋賀銀行取締役などを歴任。 戦時中は日中戦争、太平洋戦争に召集され陸軍主計大尉。 1947年8月、猪飼清六の辞職に伴う滋賀地方区の第1回参議院議員補欠選挙に日本自由党から出馬し当選(任期3年)。
臼井 荘一(臼井 莊一、うすい そういち、1902年〈明治3… 臼井 荘一(臼井 莊一、うすい そういち、1902年〈明治35年〉7月26日 - 1987年〈昭和62年〉10月18日)は、大正から昭和期の政治家、実業家。位階は正三位、勲等は勲一等。千葉興行2代目社長。総理府総務長官。衆議院議員(8期)、参議院議員(1期)。千葉市名誉市民。学位は商学士(早稲田大学)。剣道六段。 東京市深川区越中島(現在の東京都江東区越中島)で建築材料商の家に生まれた。1920年(大正9年)3月、旧制・東京府立第三中学校(現在の東京都立両国高等学校)を卒業し、1925年(大正14年)3月、早稲田大学商学部商学科を卒業。大日本麦酒に入社した。 父の病のため1925年11月、大日本麦酒を退職して千葉市に転居。
古川 正彦(ふるかわ まさひこ、1902年〈明治35年〉5月… 古川 正彦(ふるかわ まさひこ、1902年〈明治35年〉5月1日 - 1942年〈昭和17年〉9月19日)は、日本の醸造家、実業家、地家主、広島県多額納税者。 山口県出身。男爵・毛利祥久の五男。古川久吉の養子となる。1926年、早稲田大学専門部政治経済科を卒業。1929年、法学部英法科を卒業。 醤油醸造業を営む。藝備鉄道取締役、梅田機械製作所監査役などをつとめる。また地主・家主である。 趣味は碁、釣り。宗教は真宗。住所は広島市舟入幸町。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
萬 直次(よろず なおじ、1902年1月5日 - 1973年… 萬 直次(よろず なおじ、1902年1月5日 - 1973年12月12日)は、日本のジャーナリスト、新聞社経営者。元日本経済新聞社社長。北海道小樽市出身。 1926年に早稲田大学政経学部を卒業し、中外商業新報社(現日本経済新聞社)に入社。政治部記者・編集局次長・工務局長などを歴任し、1945年に取締役となる。その後常務・専務を経て、1956年社長に就任。就任後は積極的な経営政策をとり、設備の近代化・通信網の拡大・マーケティング活動の拡張などを推進した他、1964年には東京・大手町に新社屋を建設した。経済専門紙としての同紙の飛躍的な発展の基を築き、後任社長の圓城寺次郎とともに「中興の祖」と呼ばれる。
小島 正治郎(こじま しょうじろう、1902年(明治35年)… 小島 正治郎(こじま しょうじろう、1902年(明治35年)1月2日 - 1974年(昭和49年)2月23日)は、日本の実業家。西武鉄道社長などを務めた。位階は正四位。 小島卯八の次男として栃木県安蘇郡佐野町(現・佐野市)に生まれる。 佐野中学を経て、1925年早稲田大学商学部を卒業。 駿豆鉄道(のち伊豆箱根鉄道)取締役、東京ゴム(のち西武ゴム化学)、西武鉄道各常務を経て専務となり、1954年、西武ゴム化学、西武鉄道の社長に就任。堤康次郎の片腕として西武鉄道の経営にあたり、康次郎の長女・淑子と結婚している。 康次郎の亡き後の西武グループは運営にあたって集団指導制を採用したが、この体制には中核4社(西武鉄道、国土計画、西武百貨店、西武化学工業)の代表が参加した。
西田 隆男(にしだ たかお、1901年〈明治34年〉10月1… 西田 隆男(にしだ たかお、1901年〈明治34年〉10月13日 - 1967年〈昭和42年〉9月21日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員(1期)、参議院議員(2期)、労働大臣(第10代)。 福岡県嘉穂郡稲築町(現嘉麻市)に生まれる。1924年早稲田大学専門部法科を卒業。炭鉱夫から身を起こし、やがて筑前炭鉱・第二筑前炭鉱の経営者となる。1947年、第23回衆議院議員総選挙に旧福岡2区より立候補し当選。民主党に所属する。炭鉱国管疑獄では、1948年衆議院不当財産取引調査委員会に証人喚問されている。その後、参議院福岡県選挙区に転じ2回当選。国民民主党解党後の改進党結党には参加せず、院内会派民主クラブに参加した。
山崎 剛平(やまざき ごうへい、1901年6月2日 - 19… 山崎 剛平(やまざき ごうへい、1901年6月2日 - 1996年7月8日)は、日本の歌人、出版者、実業家。 兵庫県赤穂郡上郡町の酒造家に生まれる。早稲田大学文学部国文科卒。窪田空穂のもとで作歌、1926年『槻の木』を創刊、尾崎一雄らと同人誌を出し、1935年砂子屋書房を創業。43年には廃業し、実家の山崎酒造の社長を務めた。砂子屋ははじめ「まなごや」と読ませるつもりだったが、人々が「すなこや」と呼ぶためこれに任せた。
壷田 修(つぼた おさむ、1901年5月1日 - 1981年… 壷田 修(つぼた おさむ、1901年5月1日 - 1981年2月9日)は、日本の鉄道官僚、経営者。南海電気鉄道社長、会長を務めた。 三重県阿山郡上野町(現・伊賀市)出身。1926年、早稲田大学在学中に高等文官試験行政科に合格。1927年に早稲田大学政治経済学部を卒業し、同年に鉄道省に入省。札幌鉄道管理局、陸軍司政長官、運輸省での勤務を経て、1947年5月に退官し、同年6月に南海電気鉄道取締役に就任。 常務、専務を経て、1956年11月に副社長に就任し、1959年6月には社長に昇格。1966年10月に会長に就任し、1968年4月には顧問に就任。南海ホークスオーナーも務めた。 1974年11月に勲二等瑞宝章を受章。
中野 武雄(なかの たけお、1901年(明治34年)4月3日… 中野 武雄(なかの たけお、1901年(明治34年)4月3日 - 1969年(昭和44年)6月28日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。 京都府出身。1929年(昭和4年)早稲田大学英法科を卒業し、さらに同大学院で学んだ。その後、醤油醸造、食料品製造業を営む。 京都市会議員、同参事会員となる。京阪伏見桃山農業会連合会長、京都市開拓協会長、鳳凰醸造監査役、日本食料専務取締役、伏見小運搬取締役社長、近畿砂利社長、京都伏見農業協同組合連合会顧問などを務めた。 1946年(昭和21年)4月の第22回衆議院議員総選挙に京都府選挙区から日本自由党公認で出馬して初当選。以後、京都府第2区から出馬して第25回総選挙まで再選され、衆議院議員に連続4期在任した。
清水 康雄(しみず やすお、1901年2月17日 - 196… 清水 康雄(しみず やすお、1901年2月17日 - 1966年9月9日)は、日本の経営者。清水建設元社長。東京都出身。 1923年に早稲田大学専門部政治経済学科を卒業し、同年に清水組に入社。 1937年に取締役に就任し、1940年には社長に昇格。 1956年に藍綬褒章を受章。 1966年9月9日肺炎のために死去。65歳没。
早嶋 喜一(はやしま きいち、1900年(明治33年)12月… 早嶋 喜一(はやしま きいち、1900年(明治33年)12月28日 - 1966年(昭和41年)2月4日)は、日本の実業家。産業経済新聞社長で旭屋書店の創業者。産経学園理事長。 岡山県津山市の出身。津山中学から早稲田大学に進学するも中退。職を転々とした後、1924年(大正13年)に前田久吉の経営する南大阪新聞社に入社する。前田が『南大阪新聞』・『日本工業新聞』を根城に事業を拡張すると早嶋もそれらの事業に関与し、戦時中の新聞統制に伴う合併を経て、2紙は『大阪新聞』と『産業経済新聞』となるが、早嶋は大阪新聞では専務、産業経済新聞では社長にまで登り詰める。 戦後の1947年(昭和22年)、早嶋は公職追放に伴い大阪新聞・産業経済新聞の役職を退くが、前年に大阪市北区で創業していた雑貨・化粧品販売店「旭屋商店」を書籍専業の「旭屋書店」とし、書店経営に専念する。
境 一雄(さかい かずお、1900年(明治33年)11月8日… 境 一雄(さかい かずお、1900年(明治33年)11月8日 - 1983年(昭和58年)9月17日)は、大正・昭和期の労働運動家、実業家、政治家。衆議院議員。 北海道小樽区(現小樽市)で生まれる。1920年(大正9年)小樽中学校(現北海道小樽潮陵高等学校)を卒業。その後、早稲田大学政経科で学んだが中退した。割箸製造販売業を営む。その後、岸鉄工所庶務課長、小樽物産取締役、北海道配電小樽支店経営協議会委員などを務めた。 1926年(大正15年)日本労働組合評議会北海道地方評議会議長に就任。同年5月1日、北海道初のメーデー実行委員長を務めた。 1947年(昭和22年)4月、第23回衆議院議員総選挙で北海道第1区から日本社会党公認で出馬して当選し、衆議院議員に1期在任した。
9代 岡村 利右衛門(利右衞門、おかむら りえもん、1900… 9代 岡村 利右衛門(利右衞門、おかむら りえもん、1900年(明治33年)10月29日 - 1965年(昭和40年)12月28日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員(3期)。幼名は良守。 岐阜県吉城郡国府村広瀬町(国府町広瀬町を経て現高山市国府町広瀬町)で、8代利右衛門の息子として生まれる。斐太中学校(現岐阜県立斐太高等学校)を経て、1928年(大正14年)早稲田大学政治経済科を卒業。その後、アメリカ合衆国に留学し、ベイツ大学、コロンビア大学を経て、ニューヨーク大学大学院を修了しマスター・オブ・ビジネス・アドミニストレーションの学位を受けた。 逓信省嘱託、牧野良三逓信政務次官秘書官、電気協会(現日本電気協会)弁理課長を経て、1938年(昭和13年)北支那開発に転じたが、終戦により解散となり帰国。
田嶋 恩(たじま めぐみ、1900年(明治33年)10月12… 田嶋 恩(たじま めぐみ、1900年(明治33年)10月12日 - 1985年(昭和60年)4月23日)は、日本の実業家。東京測器(現・日本ファイリング)株式会社社長。小竹商店、湘南軌道各取締役。 田嶋勝次郎の四男として豊島区に生まれる。祖父の宇太郎は加賀国出身で、江戸に出て東本願寺の寺侍となった。早稲田工手学校(現・早稲田大学芸術学校)を卒業。その後、東京建鉄技師、大東工業副社長、日本鋼鉄家具常務、京浜鋼鉄工業社長、清水建材興行取締役を歴任。1939年(昭和14年)12月23日、東京測器(現・日本ファイリング)株式会社を設立し、同社社長に就任。1961年(昭和36年)紫綬褒章を受け、1970年(昭和45年)11月勲四等に叙せられた。
西田 安逸(にしだ やすいつ、1900年 <明治33年> 8… 西田 安逸(にしだ やすいつ、1900年 <明治33年> 8月13日 - 1970年 <昭和45年> 3月10日)は、日本の経営者。青森銀行頭取を務めた。 青森県出身。1925年に早稲田大学商学部を卒業し、1929年に日本勧業銀行に入行。1954年5月に常任監査役に就任し、同年11月に青森銀行副頭取を経て、1955年2月から1968年11月までに頭取を務めた。 1965年9月に藍綬褒章を受章。 1970年3月10日急性心不全のために死去。69歳没。
竹下 勇造(たけした ゆうぞう、1900年〈明治33年〉6月… 竹下 勇造(たけした ゆうぞう、1900年〈明治33年〉6月25日 - 1984年〈昭和59年〉3月21日)は、日本の実業家、政治家。掛合町名誉町民。島根県議会議員、掛合村長、竹下酒造代表取締役などを務めた。旧姓は武永(たけなが)。 第74代内閣総理大臣・竹下登の実父。漫画家・影木栄貴、ミュージシャン・DAIGOの曾祖父。 島根県簸川郡今市町(現:出雲市)出身。武永貞一の弟。掛合町(現:雲南市)竹下儀造の養子となった。旧制島根県立松江中学校(現・島根県立松江北高等学校)を経て、1923年(大正12年)早稲田大学専政科(現、政治経済学部)卒業。 竹下家は日本三大山林王の一家として出雲一円に権勢を誇っていた田部家の傘下で庄屋を務めており、掛合一の旧家であった。
重富 卓(重冨、しげとみ たく、1900年(明治33年)6月… 重富 卓(重冨、しげとみ たく、1900年(明治33年)6月16日 - 1979年(昭和54年)2月17日)は、昭和期の農業指導者、実業家、政治家。衆議院議員。 山口県出身。1910年(明治43年)に出家したが1918年(大正7年)に還俗。1920年(大正9年)山口中学校(現山口県立山口高等学校)を卒業。1925年(大正14年)早稲田大学政治経済学部を卒業。同年農林省に入省し農務局雇となる。同年、一年志願兵として入隊し、1926年に除隊した。1927年(昭和2年)農林省に復帰し、同年12月、高等試験行政科試験に合格。1930年(昭和5年)東京府に出向し農林主事補、同属となり、1932年(昭和7年)に退官した。
稲本 早苗(いなもと さなえ、1900年(明治33年)5月2… 稲本 早苗(いなもと さなえ、1900年(明治33年)5月28日 ‐ 1977年(昭和52年)1月21日) は、昭和期の醸造家、実業家、政治家。衆議院議員、愛媛県越智郡岩城村長。 愛媛県越智郡岩城村(現上島町)で、酒造業・稲本幸次郎の長男として生まれた。1922年(大正11年)早稲田大学専門部商科を卒業した。 1929年(昭和4年)岩城村長に就任し1946年(昭和21年)3月まで在任。この間、産業組合の改組、産業振興、道路整備、河川改修、診療所設置などに尽力した。1937年(昭和12年)9月、愛媛県会議員補欠選挙に当選し、1939年(昭和14年)9月に再選され1946年4月まで在任し、同参事会員も務めた。
西村 源二郎(にしむら げんじろう、1900年5月25日 -… 西村 源二郎(にしむら げんじろう、1900年5月25日 - 1983年4月23日)は日本の実業家。シーリージャパンの創業者。諱は光源(こうげん)。 1900年(明治33年)北海道樺戸郡新十津川町にて、西村源蔵の2男4女の次男として生まれる。九歳の時、両親を失い、函館市在住の叔父、河村織右エ門(八代目)に預けられる。少年時代は河村家の四人の子供と一緒に養育された。長じて、九代目河村織右エ門(現在は十代目河村織右ヱ門がコドモわた株式会社を経営)を支えて、(資)河村ふとん(後のコドモわた(株))の総支配人を務め、道内最大手の寝具メーカーの地位を築いた。 早稲田大学専門部政経科卒。1936年(昭和11年)(資)河村ふとんから独立、ミシン業に転進、函館市五稜郭町にて日本ミシン(株)を設立。
高塩 三郎(たかしお さぶろう、1900年〈明治33年〉5月… 高塩 三郎(たかしお さぶろう、1900年〈明治33年〉5月10日 - 1977年〈昭和52年〉1月14日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員、栃木県塩谷郡喜連川町長、剣道六段教士。 栃木県塩谷郡喜連川町(現さくら市)で、高塩武の三男として生まれる。1924年(大正13年)早稲田大学政治経済学部を卒業した。在学中は弁論部に所属し、のち「高塩しゃべ郎」と称された。 1929年(昭和4年)喜連川町会議員に当選。3期12年町会議員を務めた。1947年(昭和22年)栃木県議会議員に就任。1949年(昭和24年)1月の第24回衆議院議員総選挙に栃木県第1区から民主自由党公認で出馬して当選し、衆議院議員に1期在任した。
下条 恭兵(下條、しもじょう きょうへい、1900年(明治3… 下条 恭兵(下條、しもじょう きょうへい、1900年(明治33年)4月12日 - 1986年(昭和61年)1月12日)は、昭和期の実業家、政治家、学校法人理事長。参議院議員(1期)。 新潟県刈羽郡吉井村(中通村を経て現柏崎市吉井)出身。小学校卒業後、農業、石油坑夫などを務め苦学して、1922年(大正11年)早稲田工手学校(現早稲田大学芸術学校)を卒業した。 1922年、日本石油(現新日本石油)に入社。配管工事下請会社を設立して独立。分解揮発油精製器などの特許権を得て日本油機製造を設立して社長に就任。その他、昭和精密機械社長、太田鉄工所社長、米華貿易取締役会長などを務めた。 1947年(昭和22年)4月の第1回参議院議員通常選挙で新潟県地方区に日本社会党公認で出馬して当選し、参議院議員に1期在任した。
東海林 武雄(しょうじ たけお、1900年1月14日 – 1… 東海林 武雄(しょうじ たけお、1900年1月14日 – 1988年9月20日)は、日本の実業家。元旭電化工業社長、元日本専売公社(現・日本たばこ産業)総裁。 秋田県生まれ、北海道小樽市育ち。旧制小樽中学校(現・北海道小樽潮陵高等学校)を経て、1925年早稲田大学政治経済学部を卒業。旭電化工業に入社する。1953年に社長に就任し、主に工業用マーガリンの製造販売を中心に業績を伸ばす。早大時代は浅沼稲次郎も加入していた左派学生団体「建設者同盟」で活動していたこともあり、修正資本主義派の論客としても知られ、1952年から1955年まで経済同友会代表幹事も務めた。 1962年、中山素平(日本興業銀行頭取)、佐々木直(日本銀行副総裁)らに請われ、経営不振に陥っていた藤山コンツェルンの中核企業日東化学工業の社長に就任、再建に尽力する。
境野 清雄(さかいの きよお、1900年〈明治33年〉1月9… 境野 清雄(さかいの きよお、1900年〈明治33年〉1月9日 - 1968年〈昭和43年〉7月2日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。参議院議員(1期)。 群馬県山田郡桐生町(現・桐生市)で、境野源八郎の二男として生まれる。群馬県立太田中学校(現群馬県立太田高等学校)を経て、早稲田大学商学部を卒業した。 家業の輸出織物商を営む。桐生絹人絹織物配給常務取締役、群馬織物代表取締役、桐生布帛製品代表取締役、群馬県輸出織物社長、三山物産社長、桐生商工会議所会頭、群馬県地方労働委員会委員などを務めた。 1947年(昭和22年)4月の第1回参議院議員通常選挙で群馬県地方区から民主党公認で出馬して落選。竹腰徳蔵の公職追放に伴い同年8月に実施された第1回通常選挙・群馬県地方区補欠選挙に出馬して当選し、その後、民主クラブに所属し参議院議員に1期在任した。
佐藤 久雄(さとう ひさお、1900年(明治33年)1月9日… 佐藤 久雄(さとう ひさお、1900年(明治33年)1月9日 - 1982年(昭和57年)2月14日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・杉野。 富山県東礪波郡出町(砺波町を経て現砺波市)で、杉野久松の二男として生まれる。1918年(大正7年)砺波中学校(現富山県立砺波高等学校)を卒業。1924年(大正13年)早稲田大学商学部を卒業し佐藤組(現佐藤工業)に入社した。1925年(大正14年)佐藤與左衛門の養子となる。佐藤工業営業部長を経て、1940年(昭和15年)代表取締役、1945年(昭和20年)取締役社長を歴任。 また、柳瀬村会議員、大阪財務局(現近畿財務局)管内所得審査委員、富山県東礪波郡地方事務所参与などを務めた。
末光 賢吉(すえみつ けんきち、前名・一郎、1900年(明治… 末光 賢吉(すえみつ けんきち、前名・一郎、1900年(明治33年) - 没年不明)は、日本の実業家。関門日報社会長。 山口県下関市出身。末光鉄之助の長男。前名・一郎を改める。1926年、早稲田大学専門部法科を卒業する。父経営の関門日日新聞に入り社長秘書兼会計課長を経て、1942年1月合併と共に関門日報社監査役。住所は山口県下関市阿弥陀寺町。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
請川 卓(うけがわ たかし、1899年12月16日 - 19… 請川 卓(うけがわ たかし、1899年12月16日 - 1960年3月24日)は、日本の実業家。元香川相互銀行社長。男子テニス選手。 香川県三豊郡紀伊村(現 観音寺市木之郷町)出身。旧制香川県立三豊中学校(現 香川県立観音寺第一高等学校)、早稲田大学政治経済学部卒業。 1924年(大正13年)早稲田大学卒業後、明治生命保険本社に入社。1年後に帰郷、1928年(昭和3年)七宝無尽株式会社監査役に就任。翌年の1929年(昭和4年)7月、同社社長に昇任。また、大阪市の日本科学研究所所長、紀州田辺市の日本木材株式会社社長を兼任する。 1939年(昭和14年)10月、香川県会議員に当選し、県政に尽力する。
服部 敬雄(はっとり よしお、1899年(明治32年)12月… 服部 敬雄(はっとり よしお、1899年(明治32年)12月10日 - 1991年(平成3年)3月14日)は日本の実業家。山形県山形市出身。 父は山形新聞社長の服部敬吉(旧新発田藩士湯浅保之進の子で、現在の新潟県新発田市出身。山形人の服部茂の養子となる。1872年2月〜1952年12月1日)。山形県立新庄中学校を経て早稲田大学政経学部経済科卒業後、同大学大学院へ進学する。在学中は早稲田大学新聞発刊に関わっている。卒業後、朝日新聞社記者を経て、1928年(昭和3年)に父が社長を務める山形新聞の専務取締役として迎えられる。山形新聞は戦時下、県内の中小他紙を吸収合併し県内随一の報道機関に成長する。また、父敬吉と戦時下に進められた県内交通会社の合併の裁定をし、山形交通(現・山交バス)と庄内交通の2社にまとめた。
本田 親男(ほんだ ちかお、1899年11月21日 - 19… 本田 親男(ほんだ ちかお、1899年11月21日 - 1980年7月30日)は、鹿児島県出身のジャーナリスト、実業家。毎日新聞社社長、会長、最高顧問、毎日放送会長、相談役を歴任した他、日本新聞協会会長を2期務めた。 本田の祖先は、武蔵国本田郷の領主・本田左衛門尉貞親で、島津忠久夫人の父。 1899年11月21日、鹿児島市下荒田町生まれ。鹿児島師範学校附属幼稚園を経て、1906年に鹿児島市立八幡小学校へ入学。このころ本田の人間形成に与えた訓育がある。旧薩摩藩独自の教育制度・郷中制度の精神を受け継いだ学舎「研明舎」での教育がそれで、本田は5歳ごろより小学校の放課後にここへ通い、先輩舎生の監督下で諸学科の復習や予習をした。
東久世 通忠(ひがしくぜ みちただ、1899年(明治32年)… 東久世 通忠(ひがしくぜ みちただ、1899年(明治32年)10月13日 - 1962年(昭和37年)11月10日)は、日本の実業家、教育者、華族。貴族院伯爵議員。 伯爵・東久世通敏の長男として生まれる。父の死去に伴い1944年(昭和19年)8月15日、伯爵を襲爵した。1926年、早稲田大学政治経済学部を卒業した。 帝国在郷軍人会渋谷町分会評議員、同麻布支部参事、小西六日野分工場長、同社取締役、同社青年学校長、東京写真工業専門学校長、淀橋工場協会会長などを務めた。 1946年(昭和21年)5月9日、貴族院伯爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属して活動し、1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
池見 茂隆(いけみ しげたか、1899年(明治32年)9月1… 池見 茂隆(いけみ しげたか、1899年(明治32年)9月18日 - 1973年(昭和48年)12月19日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員(1期)。 福岡県糟屋郡仲原村(現粕屋町)で、実業家・池見辰治郎の長男として生まれる。幼少期に福岡市博多柳町に転居した。福岡市立福岡商業学校(現福岡市立福翔高等学校)を経て、早稲田大学商科で学んだ。 その後、家業の池見合資会社社員、酒精会社重役となる。その他、大日本酒精監査役、大日本酒類醸造取締役、文化味噌社長、池見(合)代表社員、九州製作所社長なども務めた。 政界では福岡市会議員に在任した。1949年(昭和24年)1月の第24回衆議院議員総選挙で福岡県第1区から民主自由党公認で出馬して当選し、衆議院議員に1期在任した。
杉山 亮太郎(すぎやま りょうたろう、1899年 <明治32… 杉山 亮太郎(すぎやま りょうたろう、1899年 <明治32年> 9月5日 - 1974年 <昭和49年> 11月12日)は、日本の経営者、銀行家。清水銀行頭取を務めた。位階は従五位。 静岡県出身。1923年に早稲田大学商学部商学科を卒業し、同年9月に駿州銀行(のちの清水銀行)に入行。 1940年4月に常務を経て、1947年2月には頭取に就任した。1971年4月には会長に就任。 1960年5月に黄綬褒章を受章し、1969年11月に勲四等瑞宝章を受章した。 1974年11月12日、心筋梗塞のため死去した。75歳没。死没日付をもって従五位に叙された。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
髙野 孫左衛門(たかの まござえもん、明治32年(1899年… 髙野 孫左衛門(たかの まござえもん、明治32年(1899年)5月2日 - 昭和43年(1968年)2月25日)は、山梨県出身の実業家、政治家。山梨県会議員、衆議院議員を歴任した。幼名は髙野 毅(たかの つよし)。 山梨県甲府市柳町(現在の甲府市中央4丁目)に、父「孫左衛門(第15代目)」、母「とも」の三男として生まれる。山梨師範学校付属小学校を経て大正5年(1916年)3月に市立甲府商業学校(現在の甲府市立甲府商業高等学校)を卒業。 早逝した兄「孫親」の妻、義姉の「喜代」と大正11年(1922年)5月に結婚し、油と塩を商いする甲府有数の老舗である家業の吉字屋を継ぐ。大正12年(1923年)4月に単身上京して早稲田大学政治経済学科に入学したが、同年9月1日に発生した関東大震災のため帰郷し、大正14年(1925年)1月に第16代目高野孫左衛門を襲名した。
板倉 乾(いたくら けん、明治32年(1899年)4月 - … 板倉 乾(いたくら けん、明治32年(1899年)4月 - 昭和58年(1983年)4月4日)は日本の実業家。元鳥取缶詰社長。元境港商工会議所副会頭。元鳥取県貿易振興会顧問。元境港水産加工団地顧問。 鳥取缶詰会長板倉周二の岳父。鳥取缶詰社長板倉良多の祖父。 鳥取県米子市西町出身。 大正10年(1921年)早稲田大学卒業後、合資会社板倉商店代表社員、鳥取合同缶詰社長を経て昭和29年(1954年)鳥取缶詰社長に就任。昭和57年(1982年)同社会長に就任。 県貿易振興会会長、日本いわし・あじ缶詰輸出水産業組合理事長などを歴任。