川島 瀧蔵(かわしま たきぞう、1858年9月17日(安政5… 川島 瀧蔵(かわしま たきぞう、1858年9月17日(安政5年8月11日) - 1930年(昭和5年)3月26日)は、明治から昭和時代初期の政治家、畜産家。衆議院議員(1期)。 遠江国、のちの静岡県山名郡於保村(磐田郡於保村を経て現磐田市)出身。畜産業を営み、興農社、畜産組合、共同競馬会などを創立したほか、獣医養成所、水産物製造伝習所を設立した。ほか、副戸長、村長、静岡県会議員、同参事会員、磐田郡会議員、地方森林会議員を歴任した。1904年(明治37年)3月の第9回衆議院議員総選挙では静岡県郡部から憲政本党所属で出馬し当選。衆議院議員を1期務めた。
深尾 竜三(龍三、ふかお りょうぞう、1858年9月17日(… 深尾 竜三(龍三、ふかお りょうぞう、1858年9月17日(安政5年8月11日) - 1907年(明治40年)2月24日)は、日本の政治家、衆議院議員(2期)。 河内国交野郡尊延寺村(のち大阪府北河内郡氷室村→津田町、現・枚方市)に生まれる。漢学を学ぶ。農業を営み、商業に従事する。学務委員、勧業委員、衛生委員、茶業組合会議員、町村組合会議員、地方教育会頭、氷室村長、北河内郡会議員となる。また、山城起業銀行、河内酒造会社各取締役を務めた。 1898年3月の第5回衆議院議員総選挙において大阪6区から無所属で立候補して初当選。同年8月の第6回衆議院議員総選挙で再選を果たした。1902年の第7回衆議院議員総選挙では大阪府郡部から帝国党公認で立候補したが落選した。
大西 五一郎(おおにし ごいちろう、1858年9月14日(安… 大西 五一郎(おおにし ごいちろう、1858年9月14日(安政5年8月8日)- 1917年(大正6年)2月25日)は、明治から大正前期の実業家、政治家。衆議院議員、大阪府堺市長。 和泉国大鳥郡堺甲斐町西四丁(現堺市堺区)で、代々具足屋の屋号で両替商を営んだ大西家当主・先代大西五一郎の長男として生まれる。大和国の儒学者谷三山に漢籍を学んだ。 1881年(明治14年)大西銀行を設立して頭取に就任し終生在任した。1886年(明治19年)3月、家督を相続し五一郎を襲名した。堺商業会議所副会頭、大阪電機製造取締役、大阪電気信託取締役、市立堺商品陳列所長、第5回内国勧業博覧会評議員などを務めた。 1879年(明治12)堺区学区取締に就任。
北古賀 竹一郎(きたこが たけいちろう、1858年9月9日(… 北古賀 竹一郎(きたこが たけいちろう、1858年9月9日(安政5年8月3日)- 1926年(大正15年)8月14日)は、明治時代から大正時代の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 肥前国佐賀郡本庄村(現在の佐賀県佐賀市)において、佐賀藩士の北古賀兵蔵の長男として生まれる。海軍兵学校を卒業し海軍少尉となる。同期に海軍大将となった斎藤実がいる。後に海軍大学校に入学し、卒業後に日清戦争に従軍した。1899年、海軍大佐となり海軍省軍務局兵器課長に就任した。 1906年、呉工廠長となり、1908年に舞鶴工廠長、同年に海軍水雷学校校長兼横須賀水雷団長などとなった。また、駐英造船造兵監督官や艦政本部第1部長、東京造兵廠長なども務めた。
高木 友枝(たかぎ ともえ、1858年9月8日(安政5年8月… 高木 友枝(たかぎ ともえ、1858年9月8日(安政5年8月2日) - 1943年(昭和18年)12月23日)は、陸奥国泉藩(福島県)出身の医学者、細菌学者。日本統治時代の台湾で台湾総督府医学校第2代校長、台湾電力(台電)初代社長を務め、ペスト撲滅や電力開発などに貢献。後藤新平による台湾近代化政策のもとで医学教育と医療行政の礎を築いたことから『台湾医学・衛生の父』として知られているほか、戦前台湾の民主化運動(zh:臺灣民主化)を支持し、活動家に転じた門下生にも影響を与えた。 陸奥国菊多郡泉藩松小屋村(現在の福島県いわき市泉地区・渡辺町松小屋)で出生。 東京大学医学部(現・東京大学大学院医学系研究科・医学部)在学時に高木は先輩の北里柴三郎(1853-1931)と交流もあった。
團 琢磨(だん たくま 安政5年8月1日(1858年9月7日… 團 琢磨(だん たくま 安政5年8月1日(1858年9月7日) - 1932年(昭和7年)3月5日)は、日本の工学者、実業家。爵位は男爵。アメリカで鉱山学を学び、三井三池炭鉱の経営を行う。経営を成功させ、三井財閥の総帥となった。三井合名会社理事長、日本工業倶楽部初代理事長などを歴任した。
磯野 計(いその はかる、1858年9月〈安政5年8月〉 -… 磯野 計(いその はかる、1858年9月〈安政5年8月〉 - 1897年〈明治30年〉12月14日)は、日本の明治期の実業家。明治屋を創業した。 安政5年8月(1858年9月)、美作国津山(現在の岡山県津山市)で、父の津山藩士・磯野湊と母・常の次男として生まれる。磯野家と母の実家の太田家は、ともに藩内で最上格の御譜代(明治維新時は35家)に含まれていた。幼少期は四書五経を学び、明治元年(1868年)に10歳で神戸に出て、箕作麟祥の塾で英学を学んだ。翌明治2年(1869年)3月に麟祥が上京したため、計は津山に戻っている。 津山で数ヶ月間過ごした後、藩の留学生として上京すると箕作秋坪の三汊学舎に入塾して英語を学び、秋坪の助手的な役割を務めるようになった。
松井 源内(まつい げんない、1858年8月30日(安政5年… 松井 源内(まつい げんない、1858年8月30日(安政5年7月22日) - 1913年(大正2年)3月9日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員、寿都町長。旧姓・若林、初名・忠太郎。 佐渡国雑太郡吉岡村(現新潟県佐渡市吉岡)で農業・若林源右衛門の二男として生まれ、同村・先代松井源内の養子となる。その後、養父の死去に伴い源内を襲名した。 1873年、義兄・高野吾吉に伴われ江差に移り、同地の呉服商・本郷家に奉公し、各地に行商した。1884年、寿都に移り同地で義兄・高野吾吉が経営していた呉服店を帰郷する高野から譲り受け、さらに海産仲買業、醸造業、回漕業、漁業などにも経営を広げた。また、寿都外三郡酒造組合長、後志興農銀行 (株) 取締役、寿都銀行 (株) 取締役、寿都倉庫 (株) 社長、寿都汽船 (株) 社長などを務めた。
北守 政直(きたもり まさなお、安政5年7月21日〈1858… 北守 政直(きたもり まさなお、安政5年7月21日〈1858年8月29日〉 - 大正15年〈1926年〉1月18日)は、明治から大正時代の日本の政治家、実業家。函館区長。通称は縫人、清次郎。 盛岡藩士・北守政智の長男として生まれ、1870年(明治3年)家督を相続し、盛岡藩権大属となる。当時、北守家は御新丸番頭家格で家禄は250石。同年免官し、1876年(明治9年)岩手県に出仕。地租改正係となる。その後、県税係を経て、1878年(明治11年)開拓使函館支庁に出向し、会計課配属となる。翌年の1879年(明治12年)民事課に転じ、1880年(明治13年)岩手県からの出向停止となり、開拓使に採用され准判任官に任官。
森田 久萬人(もりた くまんど、1858年8月26日(安政5… 森田 久萬人(もりた くまんど、1858年8月26日(安政5年7月18日) - 1899年(明治32年)2月23日)は熊本バンドの一人である。 1858年肥後国山鹿郡上永野村(現山鹿市)の熊本藩士の鈴木家に生まれ、森田家の養子になる。 藩校時習館で和漢の学問を修め、1871年熊本洋学校に入学。卒業後に洋学校の教師になる。1876年熊本バンドの盟友と共に、同志社英学校に入学する。卒業と同時に、同志社の教師になる。教師業の傍ら、『六合雑誌』に哲学と理学の論文を発表する。 イェール大学に留学し、ジョージ・トランブル・ラッドに師事する。ヘルマン・ロッツェの哲学の研究をし、ロッツェの形而上学と仏教の教義の比較研究で哲学博士号を取得する。
高橋 久次郎(たかはし きゅうじろう、1858年8月25日(… 高橋 久次郎(たかはし きゅうじろう、1858年8月25日(安政5年7月17日)- 1926年(大正15年)6月11日)は、明治から大正時代の政治家。衆議院議員(5期)。 高橋佐十郎の子として、出雲松江藩領神門郡稗原村(島根県神門郡稗原村、簸川郡稗原村を経て現出雲市)に生まれる。奉緘斎の門に入り漢籍を修めた。農業を営む傍ら、1876年(明治9年)第四十八区戸長に就任し、1881年(明治14年)稗原村戸長に転じた。1884年(明治17年)郡民より推され、島根県会議員に当選し、同常置委員を務めた。ほか、簸川郡会議員、同議長、道路会議議員、郡農会長、郡蚕業同業組合長、郡青年農業団総裁を歴任した。 1890年(明治23年)7月の第1回衆議院議員総選挙では島根県第3区から出馬し当選。
田口 謙吉(たぐち けんきち、1858年(安政5年)8月23… 田口 謙吉(たぐち けんきち、1858年(安政5年)8月23日 - 1928年(昭和3年)10月18日)は、日本の実業家。参天製薬創業者。
紀藤 織文(きとう おりぶみ、1858年8月22日〈安政5年… 紀藤 織文(きとう おりぶみ、1858年8月22日〈安政5年7月14日〉 - 1947年〈昭和22年〉8月17日)は、日本の政治家、実業家。 1858年、長州藩の永代家老福原家の家臣の家に生まれる。 父は紀藤海蔵、兄に紀藤宗介(後の宇部共同義会初代会長)、紀藤礼蔵らがおり、1878年(明治11年)に家督を相続し、前名の織人から織文に改名した。 長じて和仏法律学校に入学して法律学を修め、郷土の民政に参与した。1898年(明治31年)6月から1902年(明治35年)6月まで宇部村長を務めた。そのほか、厚狭郡会議員、山口県会議員などに選ばれ、地方政治に貢献した。一転して宇部村の実業が盛んとなったものの、殖産興業に必要な銀行がないことに憤りを感じ、1912年(明治45年)に宇部銀行を設立し、その初代取締役頭取に就任した。
藤田 達芳(ふじた たつよし、1858年8月7日(安政5年6… 藤田 達芳(ふじた たつよし、1858年8月7日(安政5年6月28日)- 1923年(大正12年)6月21日)は、明治から大正期の日本の実業家・政治家。衆議院議員。塩業功労者。旧姓・小野。 伊予国新居郡松神子村(愛知県新居郡松神子村、神郷村を経て現新居浜市松神子)で、小野甚三郎の三男として生まれた。幼時に新居郡郷村(現:新居浜市)多喜浜塩田支配人の一人、藤田五郎の養子となる。泉川の遠藤石山に師事し漢学を修めた。その後、大阪で数学を学び詩文に親しみ、1889年(明治22年)東京専門学校(現早稲田大学)政治科を卒業して帰郷した。 1893年(明治26年)多喜浜東浜産塩会社の設立に参画して重役となり、終生、塩業と係わった。
伊藤 悌治(いとう ていじ、1858年8月4日(安政5年6月… 伊藤 悌治(いとう ていじ、1858年8月4日(安政5年6月25日) - 1919年(大正8年)12月18日)は、明治から大正時代の司法官。大審院判事。位階および勲等は従三位・勲二等。 士族・大矢益彦の二男として越後新発田藩領蒲原郡中高井村(新潟県中蒲原郡中高井村、根岸村、白根町、白根市を経て現新潟市南区)に生まれ、12歳の時北蒲原郡水原町(現在の阿賀野市)の伊藤退蔵の養子となる。。1883年(明治16年)7月、東京大学法学部を卒業し、判事となり、。東京始審裁判所刑事公判および会議局に職を得た。翌年仙台始審裁判所詰めとなる。1886年、東京控訴院評定官を経て、1892年(明治25年)東京控訴院部長なった。
成瀬 仁蔵(なるせ じんぞう、安政5年6月23日〈1858年… 成瀬 仁蔵(なるせ じんぞう、安政5年6月23日〈1858年8月2日〉 - 大正8年〈1919年〉3月4日)は、日本の牧師・教育者。日本における女子高等教育の開拓者の1人である。族籍は山口県士族。 周防国吉敷郡吉敷村(現在の山口県山口市吉敷赤田大形)に生まれる。成瀬小右衛門の長男。成瀬家はもとは河崎姓で、仁蔵の父の代に成瀬姓を名乗る。父は長州藩毛利家の一門・吉敷毛利家に仕える下級武士。仁蔵の母・歌子は隣村の大歳村出身で、藩士である秦家の娘。 仁蔵は幼少時は郷校の憲章館に学び、維新後の1874年(明治7年)には調剤師として医家に住み込む。この年には父が死去し、山口の教員養成所(山口師範学校)の2期生となる。
山田 東次(やまだ とうじ、安政5年6月21日(1858年7… 山田 東次(やまだ とうじ、安政5年6月21日(1858年7月31日) - 明治32年(1899年)12月18日)は明治期の政治家、法学者、教育者。衆議院議員、法典調査会委員、和仏法律学校(現法政大学)理事。 東京法学校卒業後、同校主幹の薩埵正邦の助手として法学教育に携わり、高崎法律学校(1886年(明治19年)開校)に薩埵と毎週交代で出講している。 また、中央法学会において法律雑誌を出版し、法学の啓蒙・教育活動に努めている。 その後、自由党系衆議院議員として活躍し、法典調査会委員に私立法律学校出身者として唯一人就任している。 民法典論争では断行派に立ち、宮城浩蔵・小笠原貞信らとともに「民法中一部延期ニ関スル法律案」を提出し、延期派に対して最後の抵抗を示している。
安井 小太郎(やすい こたろう、1858年7月29日〈安政5… 安井 小太郎(やすい こたろう、1858年7月29日〈安政5年6月19日〉 - 1938年〈昭和13年〉4月2日)は、日本の漢学者。名は朝康、号は朴堂(安井朴堂)。安井息軒の外孫。著作に『日本儒学史』など。 1858年、江戸出身。母親は安井息軒の長女の須磨子。父親は息軒の門人で攘夷志士の中村貞太郎(北有馬太郎)。 1862年、小太郎が幼少の頃、貞太郎が清河八郎をかくまった罪で逮捕され獄死する。貞太郎は逮捕前に家族に罪が及ぶのを避けて離婚したため、小太郎は息軒に引き取られて育つ。とくに9歳から14歳の間、息軒の故郷の日向国宮崎郡(現在の宮崎県)で暮らす。 1871年、宮崎から東京に出て息軒の三計塾に入る。
小山 健三(こやま けんぞう、1858年7月23日(安政5年… 小山 健三(こやま けんぞう、1858年7月23日(安政5年6月13日) - 1923年(大正12年)12月19日)は明治時代から大正時代にかけての日本の官僚、教育者、実業家。 前半生は教育者、近代日本教育の建設者として、とりわけ専門教育の礎を築くことに大きな功績を残し、高等商業学校(1902年に東京高等商業学校に改称、現・一橋大学)校長などを歴任。後半生は、三十四銀行(後の三和銀行、現三菱UFJ銀行)第2代頭取に就任して、事業を大きく発展させるとともに、日本の金融界の発展に尽くす。福澤諭吉の養子であり「日本の電力王」と呼ばれた福澤桃介に、「東に渋沢栄一、西に小山健三あり」と言わしめた。貴族院議員。
武石 敬治(たけいし けいじ、1858年7月23日〈安政5年… 武石 敬治(たけいし けいじ、1858年7月23日〈安政5年6月13日〉 - 1904年〈明治37年〉10月13日)は、衆議院議員(自由党→立憲革新党→進歩党→憲政本党→立憲政友会)。 出羽国雄勝郡山田村(現在の秋田県湯沢市)生まれ。里正を務め、1881年(明治14年)には秋田改進党を結成し、自由民権運動を推進した。1883年(明治16年)に秋田県会議員に雄勝郡の補欠として当選した。その後、1885年(明治18年)10月、1889年(明治22年)にも再選した。同年11月28日から1890年(明治23年)7月まで第10代同副議長を務めた。1889年(明治22年)に大同団結運動がおきると、たびたび東京・大阪を往来して実現に尽力した。
納富 教雄(安政5年6月11日(1858年7月21日)- 昭… 納富 教雄(安政5年6月11日(1858年7月21日)- 昭和9年(1934年)2月)は、日本の剣術家。流派は戸田流。称号は大日本武徳会剣道範士。 肥前国小城郡西川(現在の佐賀県小城市)に生まれる。納富家は小城藩の武術師範の家系で、代々五郎太夫を名乗った。教雄が明治30年(1897年)7月に建碑した石碑によれば、五郎太夫(父と祖父のどちらを指しているか不明)は「真之乱流組打・真之乱流棒縄術・戸田流剣術・真之乱流二刀・根岸流長刀」9代師範とある。納富家の道場での他流試合や道場での修行中に無念にも亡くなった人々を葬ったという「鬼塚」が現在も残る。 「鬼塚」は、納富道場へ来訪した諸国を廻る武者修行の剣士や道場破り、他流試合などの中で亡くなった人々のみを葬ったと言われているが、道場の稽古中に無念ながら亡くなった身寄りの無い門下生や、諸国巡礼中に病気や怪我により亡くなった方々を弔うための塚である。
飯島 信明(いいじま しんめい、1858年7月18日(安政5… 飯島 信明(いいじま しんめい、1858年7月18日(安政5年6月8日)- 1933年(昭和8年)12月21日)は、明治から昭和初期の実業家、政治家。衆議院議員、山梨県東山梨郡八幡村長。 甲斐国山梨郡、のちの八幡村(山梨県東山梨郡八幡村を経て現山梨市南)で、飯島兵右衛門の長男として生まれた。漢学を修め、1869年(明治2年3月)家督を相続した。 1890年(明治23年)6月に製糸業を創業し、飯島製糸工場主に就任。その他、甲州金鳳社長、峡製糸取締役、七里銀行取締役、丸十繭糸商会重役、甲信石炭商会社長なども務め、蚕糸業など経済界の発展に尽力した。 政界では、1889年(明治22年)八幡村会議員に当選し1910年(明治43年)7月まで在任。
9代 秋元 三左衛門(あきもと さんざえもん、1858年7月… 9代 秋元 三左衛門(あきもと さんざえもん、1858年7月7日(安政5年5月27日)- 1910年(明治43年)1月16日)は、明治期の醸造家、実業家、政治家。衆議院議員。通称・三左衛門桃渓。 下総国葛飾郡流山村(千葉県東葛飾郡流山町流山、江戸川町、流山町を経て現流山市流山)で、味醂(みりん)醸造業・8代秋元三左衛門の息子として生まれる。伊藤長有などから和漢学を学び、小学校普通小学科を卒業。1875年(明治8年)7月に上京し、亀田保、島田重礼などに漢学を学んで、1880年(明治13年)3月に帰郷した。家業の「天晴味醂」(あっぱれみりん)として知られた味醂醸造業を継承した。その他、八十四銀行頭取、宝酒造監査役などを務めた。
志摩 清直(しま きよなお、1858年7月7日(安政5年5月… 志摩 清直(しま きよなお、1858年7月7日(安政5年5月27日) - 1894年(明治27年)9月17日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大尉。 日向国都城(現在の宮崎県都城市)に生まれた。父・清雄は宮崎県士族。弟の山地通信は陸軍将校、志摩猛は戦艦「霧島」艦長等を務めた海軍少将である。志摩は9歳のときに小姓として出仕した経験がある。 海兵士官学校予科生徒在学中に同校は廃校となり、1877年(明治10年)9月、海軍兵学校へ転入。1880年(明治13年)9月「龍驤」乗組みとして実地訓練を受け、豪州へ回航。1881年9月少尉補となる。兵学校8期生であり、同期に八代六郎がいる。1885年(明治18年)6月海軍少尉任官。
望月 右内(もちづき うない、1858年7月2日(安政5年5… 望月 右内(もちづき うない、1858年7月2日(安政5年5月22日)– 1917年(大正6年)1月28日)は、明治・大正期の実業家、政治家。衆議院議員。 紀伊国伊都郡、のちの和歌山県伊都郡見好村(現かつらぎ町)で、豪農・望月嘉八郎の長男として生まれる。上田釆女の塾で学んだ。 1873年(明治6年)第四大区五小区役場書記に就任。その後、兄井村総代、兄井・三谷・寺尾・平沼田・皮張五カ村戸長、伊都郡書記を歴任。1883年(明治16年)6月、補欠選挙で和歌山県会議員に選出され、1884年(明治17年)寺尾村外十三カ村戸長に就任したため県会議員を退任。1886年(明治19年)補欠選挙で県会議員に再選され、その後1888年(明治21年)、1892年(明治25年)に再選され、1894年(明治27年)3月に辞任するまで在任。
長岡 外史(ながおか がいし、1858年6月23日〈安政5年… 長岡 外史(ながおか がいし、1858年6月23日〈安政5年5月13日〉- 1933年〈昭和8年〉4月21日)は、明治、大正期の陸軍軍人、政治家。陸士旧2期・陸大1期。栄典は正三位勲一等功二級。最終階級は陸軍中将。 周防国都濃郡末武村(現:山口県下松市)出身。父は大庄屋・堀三右衛門で、徳山藩士・長岡南陽の養子。明倫館を経て、1878年(明治11年)、陸軍士官学校(旧2期)卒。1885年(明治18年)に陸軍大学校を一期生として卒業。 日清戦争では大島混成旅団の参謀、1897年(明治30年)には軍務局第2軍事課長を勤め、ドイツ派遣を経験する。1902年(明治35年)には陸軍少将となり、歩兵第9旅団長を務める。
大島 健一(おおしま けんいち、1858年6月19日〈安政5… 大島 健一(おおしま けんいち、1858年6月19日〈安政5年5月9日〉- 1947年〈昭和22年〉3月24日)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍中将。陸軍大臣、貴族院勅選議員、大東文化学院総長(第3代)などを歴任した。 1858年(安政5年)、美濃国岩村藩(現在の岐阜県恵那市、旧恵那郡岩村町)生まれ。岩村藩士・大島桂之進の次男。兄は3歳の時に病死したので、健一は一人息子として育つ。10歳の春を迎えると同時に文武所に入所する。文武所は1871年、廃藩置県と共に廃止され、知新館と改称されたので健一もここへ移った。 明治初年に岩村を離れる。奥三河・稲武の豪農・篤志家古橋家にて初期教育を受ける。
田島 達策(たじま たつさく/たっさく、1858年6月13日… 田島 達策(たじま たつさく/たっさく、1858年6月13日(安政5年5月3日)- 1938年(昭和13年)2月5日)は、明治から昭和前期の実業家、政治家。ミツウロコ創業者。衆議院議員。 上野国緑野郡神田村(群馬県緑野郡美九里村、多野郡美九里村を経て現藤岡市神田)で、田島長十郎の二男として生まれた。東京小石川の芳野塾、塩谷塾で学ぶ。1883年(明治16年)専修学校(現専修大学)を卒業。同年3月、家督を相続した。 1886年(明治19年)多野郡新町駅前に運送店を開業。明治運送取締役、日本逓業取締役に就任。また、三鱗運送、三鱗石炭、群馬電力などを設立して取締役社長に就任した。 1917年(大正6年)4月、第13回衆議院議員総選挙(群馬県郡部、無所属)で当選し、衆議院議員に1期在任した。
赤坂 亀次郎(龜次郎、あかさか かめじろう、1858年6月1… 赤坂 亀次郎(龜次郎、あかさか かめじろう、1858年6月13日(安政5年5月3日)- 1942年(昭和17年)12月12日)は、明治から昭和前期の出版人、実業家、政治家。衆議院議員。 陸奥国菊多郡、のちの福島県菊多郡上遠野村(石城郡上遠野村、遠野町を経て現いわき市遠野町上遠野)で、赤坂吉忠の息子として生まれる。村儒・小沢政美に師事し漢籍を学び、1873年(明治6年)磐前県立英学校・惜陰舎に入学。1875年(明治9年)5月に上京して慶應義塾に入塾し、成績優秀で1878年(明治11年)12月に卒業した。 福澤諭吉の勧めで横浜丸善商店に入店し、輸出入業に従事して一年余り在勤し、東京丸善本店(現丸善雄松堂)に転じ支配人となる。
織田 小覚(おだ しょうかく、安政5年5月3日〈1858年6… 織田 小覚(おだ しょうかく、安政5年5月3日〈1858年6月13日〉- 昭和11年〈1936年〉10月6日)は、金沢出身の官僚、蔵書家。初名は小太郎。字は斌叔。号は確斎、古仏、帯秋草盧。司法省、内務省勤務を経て、前田侯爵家学事顧問を務めた。無窮会調査主任。 1872年(明治5年)、小橋小学校(金沢市立馬場小学校)に入学し、習字算盤、『国史略』、『十八史略』、四書五経の素読を学んだ。1873年(明治6年)、変則中学に進み、入学者100名の成績上位10人程が属する甲類に入り、従来の学問に加え、洋算、英語を学んだ。成績優秀者は年俸25円で小学校教師に採用されたため、小覚も寄宿舎から小学校へ通った。 1874年(明治7年)、変則中学校が英語専門と法律産業専門に分かれたため、法律産業専門学校に入学し、箕作麟祥のフランス法翻訳書を学んだ。
小早川 潔(こばやかわ きよし、安政5年5月2日(1858年… 小早川 潔(こばやかわ きよし、安政5年5月2日(1858年6月12日) - 昭和2年(1927年)3月19日)は、日本の教育者。 信濃国上田城下(現長野県上田市)に上田藩士小早川維祺の次男として生まれる。明治11年(1878年)上田町常入学校首席訓導となり、上京して同人社で英学、原要義塾で数学を学び、同17年(1884年)東京高等師範学校中学師範科を卒業。長野県上水内中学校(長野県長野高等学校)校長に任命される。この頃、教育職能団体である「長野教育談会」が創設され、組織を改正し、長野教育会(信濃教育会の前身)となると、会長に選ばれた。同19年(1886年)長野県師範学校教諭に転任し、校長浅岡一を補佐し、新校舎の建築や付属小学校の開校に尽力した。
堀田 連太郎(ほった れんたろう、安政5年4月29日(185… 堀田 連太郎(ほった れんたろう、安政5年4月29日(1858年6月10日) - 大正4年(1915年)12月20日)は、日本の衆議院議員(進歩党→憲政党→憲政本党)。農商務官僚。 信濃国埴科郡松代(現在の長野県長野市)出身。開拓使学校を経て、1881年(明治14年)に東京大学理学部採鉱冶金学科を卒業。1882年(明治15年)、三菱会社に入り、1896年(明治29年)に退社するまで鉱山長、支配人を務めた。1897年(明治30年)、農商務省に入って鉱山技監となり、足尾鉱毒事件に対する予防工事の設計・監督を担当した。その後、製鉄所長官心得、鉱山局長心得を歴任した。 1898年(明治31年)、第5回衆議院議員総選挙(東京府第10区)で当選。
加藤 六蔵(かとう ろくぞう、1858年6月6日(安政5年4… 加藤 六蔵(かとう ろくぞう、1858年6月6日(安政5年4月25日) - 1909年(明治42年)6月21日)は、明治期の政治家、衆議院議員(6期)。醤油醸造家、実業家。諱・尚正。 三河国宝飯郡前芝村(現・愛知県豊橋市前芝町)で、豪商にして代々郷士の加藤家当主・加藤六蔵正文の長男として生まれる。豊橋で漢籍を修めた後、1875年(明治8年)東京に出て慶應義塾に学び、愛知県第二中学校、宝飯郡教育会議長、尾三農工銀行、宝飯銀行各取締役、豊橋米麦取引所理事長、豊橋商業会議所会頭、ほか鉄道等の設立に関わる。 政治面では宝飯郡連合村会議員、同郡会議員、同郡農会長、所得税調査委員、愛知県会議員を経て、1890年の第1回衆議院議員総選挙において愛知県第10区から大成会で立候補して当選する。
宇都宮 平一(うつのみや へいいち、1858年6月1日(安政… 宇都宮 平一(うつのみや へいいち、1858年6月1日(安政5年4月20日) - 1896年(明治29年)12月23日)は、明治時代の政治家、教育者。衆議院議員(1期)。 薩摩国伊佐郡宮之城郷(鹿児島県南伊佐郡宮之城村、薩摩郡宮之城町を経て現さつま町)に生まれる。藩校ついで私学校で学び、西南戦争への従軍を経て上京し、中村敬宇の門に入って英学を修める。盈進館にて教鞭を執ったのち、上海亜細亜学館教頭兼学生監、埼玉県発陽学舎教授、第一高等中学校、東京英語学校、官立農林学校予備校各教授などを歴任した。 1890年(明治23年)7月の第1回衆議院議員総選挙では鹿児島県第4区から出馬し、当選。弥生倶楽部に所属し、衆議院議員を1期務めた。
西川 貞二郎(にしかわ ていじろう、1858年5月31日(安… 西川 貞二郎(にしかわ ていじろう、1858年5月31日(安政5年4月19日)-1924年(大正15年)3月9日)は、明治期の起業家・近江商人。西川傳右衛門家の10代目、諱は昌一。カニ缶を初めて商品化、八幡銀行(後の滋賀銀行の一部)・帝国水産等を創業した。 1858年5月31日((旧暦)安政5年4月19日)、近江国野洲郡江頭村(現近江八幡市江頭町)の井狩只七の次男定次郎として誕生した。母は蒲生郡中野村(現東近江市)小泉弥右衛門の娘。1864年(元治元年)、定次郎は第9代西川傳右衛門昌武(1862年(文久9年)死去)の後継となるため西川家に入る。定次郎の祖母は第5代傳右衛門昌康の娘に当たり、定次郎の叔母は西川家分家善六家に嫁ぎ、西川家と井狩家は姻戚関係にあった。
秋野 孝道(あきの こうどう、1858年5月30日(安政5年… 秋野 孝道(あきの こうどう、1858年5月30日(安政5年4月18日) - 1934年(昭和9年)2月20日)は、日本の仏教学者、曹洞宗の僧侶。曹洞宗大学(現・駒澤大学)学長。總持寺貫首、曹洞宗管長。別号・大忍。黙照円通禅師。 1858年(安政5年)、遠江国相良(現・静岡県牧之原市)に秋野新七の三男として生まれる。静岡・長興寺で出家し、1872年(明治5年)伊藤慶道について得度。曹洞宗大学専門本校(のち駒澤大学)卒業。 1880年兄弟子の加藤玄裔に嗣法。西有穆山に師事し「正法眼蔵」を研究。總持寺、天徳寺、大洞院を経て、1892年(明治25年)曹洞宗大学林学監、1900年教頭、1902年総監となる。
玉田 金三郎(たまだ きんさぶろう、1858年5月29日(安… 玉田 金三郎(たまだ きんさぶろう、1858年5月29日(安政5年4月17日) - 1915年(大正4年)6月27日)は、日本の弁護士。政治家、衆議院議員(1期)。 大和国添上郡奈良町(現・奈良県奈良市)生まれ。弁護士試験に合格し、その業務に従事する。奈良市会議員、同参事会員、同議長、奈良県会議員、宅地貸借価格調査委員、大阪電気軌道(株)取締役となる。 1890年の第1回衆議院議員総選挙において奈良1区から自由党所属で立候補するが次点で落選した。1892年の第2回衆議院議員総選挙で独立倶楽部から立候補して当選した。衆議院議員を1期務め、1894年の第3回衆議院議員総選挙では無所属で立候補して落選した。
須藤 嘉吉(すどう かきち、1858年5月27日(安政5年4… 須藤 嘉吉(すどう かきち、1858年5月27日(安政5年4月15日)- 1925年(大正14年)12月11日)は、明治から大正期の農業経営者・実業家・政治家。衆議院議員。 上野国碓氷郡嶺村(群馬県碓氷郡嶺村、原市町大字嶺村、安中町を経て現安中市嶺)で、名主、養蚕・蚕種農家、須藤仲造、たに の長男として生まれた。安中藩士・池田豊與知重に師事して漢籍を修めた。1889年(明治22年)東京法学院(英吉利法律学校後身、現中央大学)の在外生として法律学を研究した。同年9月、家督を相続。農業、製糸業を営んだ。 嶺村副戸長、碓氷郡書記、群馬県収税属を歴任。原市町会議員を務め、1892年(明治25年)3月、群馬県会議員に選出され連続4期在任し、同常置委員、同副議長、同参事会員も務めた。
大関 和(おおぜき ちか、1858年5月23日〈安政5年4月… 大関 和(おおぜき ちか、1858年5月23日〈安政5年4月11日〉- 1932年〈昭和7年〉5月22日)は、日本の看護師である。 下野の黒羽藩の国家老であった大関増虎(弾右衛門)とその妻のテツの次女として生まれる。明治維新後、父は辞職し帰農を試みるがかなわず、一家あげて東京へ移り住み、そこで和は成長する。年頃を迎えると国元から縁談話が舞い込むようになり、1876年(明治9年)、和が19歳のとき、黒羽藩の次席家老であった渡辺家の次男、渡辺福之進(豊綱)と結婚し、やがて一男一女をもうけた。しかし、福之進と妾()の関係が清算されなかったことから離婚にいたって東京の実家へ戻る(上京は1881年〈明治14年〉のこと)。
渡辺 暢(わたなべ とおる / のぶ、1858年5月20日(… 渡辺 暢(わたなべ とおる / のぶ、1858年5月20日(安政5年4月8日) - 1939年5月24日)は、日本の司法官、政治家。貴族院議員。旧佐倉藩士。
荒野 由次郎(こうの よしじろう、1858年5月20日(安政… 荒野 由次郎(こうの よしじろう、1858年5月20日(安政5年4月8日)- 1911年(明治44年)5月9日)は、明治時代の政治家。貴族院多額納税者議員。 常陸国鹿島郡大船津村(茨城県鹿島郡豊津村、鹿島町を経て現鹿嶋市)の糟谷清兵衛の次男として生まれ、のち同郡中野村大字荒野(大野村、鹿島町を経て現鹿嶋市)の荒野清右衛門の養子となる。農業を営んだ。 1898年(明治31年)茨城県多額納税者として補欠選挙で貴族院議員に互選され、同年7月5日から1899年(明治32年)1月12日まで在任。同年4月18日、補欠選挙で互選され、1904年(明治37年)9月28日まで務めた。
神津 善之助(こうづ ぜんのすけ、1858年5月19日(安政… 神津 善之助(こうづ ぜんのすけ、1858年5月19日(安政5年4月7日) - 没年不明)は、日本の実業家。志賀銀行頭取。北佐久肥料社長。佐久鉄道取締役。族籍は長野県平民。 信濃国佐久郡志賀村(現・長野県佐久市志賀)出身。神津重三郎の長男。1883年、家督を相続する。銀行会社の重役である。住所は長野県北佐久郡志賀村。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
中沢 岩太(なかざわ いわた、1858年5月12日(安政5年… 中沢 岩太(なかざわ いわた、1858年5月12日(安政5年3月29日) - 1943年(昭和18年)10月12日)は、明治から大正時代の日本の応用化学者。帝国学士院会員。工学博士。京都帝国大学理工科大学初代学長、京都高等工芸学校初代校長を務めた。大学教授のほか、官庁の役職や民間企業の顧問も務め、官民学で黎明期の日本の無機化学工業(主に酸・アルカリ工業やガラス工業)を指導し、発展に寄与した。また、日本の近代窯業の育ての親であるワグネルのもとで陶芸の染料研究に従事したほか、自らも趣味で日本画を描き美術展の審査員を務めるなど、化学者である一方美術工芸にも深い関わりを持ち、日本の美術工芸の近代化・発展に功績を残した。
高須 峯造(たかす みねぞう、1858年5月8日(安政5年3… 高須 峯造(たかす みねぞう、1858年5月8日(安政5年3月25日)- 1934年(昭和9年)5月14日)は、明治から昭和初期の日本の弁護士・実業家・政治家。衆議院議員。 伊予国越智郡、のちの愛媛県越智郡近見村を経て現今治市)で、農業・高須吉一郎の四男として生れた。農業を手伝い、漢学塾で学ぶ。1878年(明治11年)大阪の難波学舎で学び、1879年(明治12年)慶應義塾に転じ政治学、経済学を修め、1882(明治15年)に帰郷。代言人(弁護士)となった。 1883年(明治16年)愛媛県会議員の越智郡選出議員の欠員により繰上当選し、以後、連続3期在任した。当初、代言人の藤野政高と親交を持ったが、藤野らが松山士族中心の党派形成を行ったことに反発し、小林信近、井上要らと改進党の組織を設け、井上とは共同法律事務所を設置するなど、終生親交を保った。
北条 時敬(ほうじょう ときゆき、1858年5月6日(安政5… 北条 時敬(ほうじょう ときゆき、1858年5月6日(安政5年3月23日) - 1929年(昭和4年)4月27日)は明治時代から大正時代にかけての日本の教育者。号は廓堂。 旧制山口高等学校、旧制第四高等学校、広島高等師範学校校長、東北帝国大学総長、学習院長、貴族院議員を歴任した。 1858年(安政5年)、加賀国金沢(現・石川県金沢市池田町)で金沢藩士の次男として生まれた。幼名は粂次郎(くめじろう)。生家は鎌倉北条氏の末裔を称した。金沢英学校、金沢啓明学校で数学、英語、漢学を学び、県から将来を嘱望されて、給付生として東京へ留学を命じられた。東京帝国大学理学部数学科に入学して学び、1885年(明治18年)に卒業。
竹内 清明(たけうち せいめい、1858年5月4日(安政5年… 竹内 清明(たけうち せいめい、1858年5月4日(安政5年3月21日) - 1929年(昭和4年)12月24日)は、明治から大正時代の政治家、実業家、新聞経営者。衆議院議員(1期)。 弘前藩士・竹内多作の長男として弘前城下(現青森県弘前市)に生まれる。廃藩後、一家は南津軽郡浅瀬石村(現黒石市)へ移住する。ついで黒石町に住んだ。1877年(明治10年)召募巡査として西南戦争に参加し、その帰郷の際に政治家を志した。1886年(明治19年)黒石の政治結社益友会の常任書記に任じた。ほか、東津軽郡書記、戸長、山形村長、南津軽郡会議員、同参事会員などを歴任した。 1908年(明治41年)5月の第10回衆議院議員総選挙では青森県郡部から出馬し当選。
楠瀬 幸彦(くすのせ ゆきひこ、旧字体: 楠瀨幸彥、1858… 楠瀬 幸彦(くすのせ ゆきひこ、旧字体: 楠瀨幸彥、1858年4月28日〈安政5年3月15日〉- 1927年〈昭和2年〉10月13日)は、日本陸軍の軍人、陸軍大臣。最終階級は陸軍中将。 土佐国土佐郡高知城下南奉公人町(現:高知県高知市)で、土佐藩士楠瀬正志の長男として生まれる。 東京海南私塾、陸軍幼年学校を経て、1880年(明治13年)12月、陸軍士官学校(旧3期)を卒業。フランス留学、陸士教官、近衛砲兵連隊中隊長、参謀本部第1局員、参謀本部副官、ロシア公使館付などを歴任。 1894年(明治27年)11月、臨時京城公使館付(韓国政府軍部顧問)となり、三浦梧楼公使らと共に、1895年(明治28年)10月8日に発生した閔妃暗殺事件(乙未事変)に係わったとして、同年10月から翌年1月まで入獄したが、1896年(明治29年)1月14日、第5師管軍法会議において無罪判決を受け釈放された。
小沢 豁郎(おざわ かつろう、安政5年3月12日(1858年… 小沢 豁郎(おざわ かつろう、安政5年3月12日(1858年4月25日) - 明治34年(1901年)3月19日)は、日本の陸軍軍人、国粋主義者。清仏戦争に乗じて清国改造の革命を起こそうとした。東邦協会設立発起人。 信濃国上諏訪宿(現長野県諏訪市)に生まれる。年少時に江戸に出てフランス語を学び、次いで陸軍幼年学校を経て陸軍士官学校に入り、1879年(明治12年)に陸軍工兵少尉に任ぜられる。1883年(明治16年)に参謀本部出仕となり、翌年清国に派遣され、福州に駐在して諜報任務に当たる。 清国の地下組織「哥老会」と結んで清朝転覆を企て、山口五郎太、鈴木恭堅、松本亀太郎、中野二郎、樽井藤吉と連絡を取り合い策謀するところにあったが、本国より柴五郎が駆けつけ、計画は中止となった。
鶴見 守義(つるみ もりよし、1858年4月25日(安政5年… 鶴見 守義(つるみ もりよし、1858年4月25日(安政5年3月12日) - 1939年(昭和14年)12月18日)は、明治から大正時代の司法官。大審院判事。関西法律学校創立者。 日光(現栃木県日光市)に生まれる。1876年(明治9年)県の貢進によって司法省法学校に入学し、1884年(明治17年)同校卒業と同時に司法省御用掛を拝命する。1886年(明治19年)大阪始審裁判所判事補となり、同年6月、判事に、1890年(明治23年)には部長判事に進む。1895年(明治28年)長崎控訴院判事に転じるまで在阪する。この間、関西法律学校創立に関与し初代学監としてフランス民法を講じた。1899年(明治32年)大審院判事となり、1922年(大正11年)まで務めた。
後藤 恕作(ごとう じょさく、安政5年3月6日(1858年4… 後藤 恕作(ごとう じょさく、安政5年3月6日(1858年4月19日) - 昭和4年(1929年)3月6日)は播磨国(兵庫県)生まれの実業家。後藤毛織製造所(後に東京毛織)の創立者であり、明治から昭和初期にかけて活躍した。 播磨国揖東郡網干村(現・兵庫県姫路市)生まれ。明治8年(1875年)に清国公使として赴任した森有礼に随行し、北京で毛織染色法を学んだ。日本に帰国後、明治12年(1879年)本郷で小工場を設立しなめし革、毛糸紡績を行ったがこれは失敗し、じゅうたんなどの製造を始めた。明治13年(1880年)芝区白金台(現東京都港区)に民間としては日本初の毛織物工場である後藤毛織製造所を設立、明治25年(1892年)には大井町(現品川区)にも工場を進出させて生産基盤を強化し、日清戦争、日露戦争期には業績を躍進させた。