畑 七右衛門(七右衞門、はた しちうえもん、1883年(明治… 畑 七右衛門(七右衞門、はた しちうえもん、1883年(明治16年)1月6日 - 1958年(昭和33年)5月26日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。旧姓・長沢、前名・留治郎。和孝に改名。 京都府天田郡、のちの細見村(三和村、三和町を経て現福知山市)に長沢又三郎の六男として生まれる。兵庫県在住の先代畑七右衛門の養子となる。兵庫県立柏原中学校(現・兵庫県立柏原高等学校)を卒業し、その後日露戦争に従軍する。1916年に家督を相続して七右衛門を襲名する。春日部村収入役、同村長を務め、兵庫県議、同議長、県農会特別議員に選ばれる。ほか多利信用購買組合長、春日部村信用組合長、同農会長、黒井銀行、葛野銀行各取締役などを務める。
島津 健之助(しまづ けんのすけ、1883年(明治16年)1… 島津 健之助(しまづ けんのすけ、1883年(明治16年)1月5日 - 1937年(昭和12年)8月24日)は、明治末から昭和前期の実業家、政治家、華族。貴族院議員、男爵、従四位。 伯爵・島津忠亮の二男に生まれ、明治42年(1909年)12月20日、分家して祖父・佐土原藩主島津忠寛の勲功により男爵を叙爵する。その後、慶應義塾大学部理財科を修了。 1910年(明治43年)国光生命保険相互会社監査役となり、のち同社取締役社長を務めた。 1918年(大正7年)7月10日に貴族院男爵議員に選出され、1925年(大正14年)6月24日まで在任した。
関水 武(せきみず たけし、1883年(明治16年)1月5日… 関水 武(せきみず たけし、1883年(明治16年)1月5日 - 1939年(昭和14年)7月8日)は、朝鮮総督府官僚。 神奈川県高座郡渋谷村(現在の藤沢市から大和市にかけての地域)出身。1911年(明治44年)、東京帝国大学法科大学法律科を卒業し、高等文官試験に合格した。茨城県属、同警部、同理事官、同西茨城郡長、同那珂郡長を務めた。1919年(大正8年)、朝鮮総督府事務官に転じ、忠清南道警察部長、朝鮮総督府監察官、警務局衛生課長、平安南道内務部長、慶尚南道内務部長、京畿道内務部長、京城府尹を歴任。1930年(昭和5年)、咸鏡南道知事となり、1933年(昭和8年)に慶尚南道知事に転じた。 1935年(昭和10年)に退官した後は、朝鮮石油株式会社常務取締役を務めた。
南波 杢三郎(なんば もくさぶろう 1883年1月4日 - … 南波 杢三郎(なんば もくさぶろう 1883年1月4日 - 1967年12月17日)は、日本の検察官。 東京中学、三高を経て、1908年10月に東京帝国大学法学部法律学科独法科卒業。同年11月に司法官試補。石巻区裁判所・古川区裁判所各判事、前橋区裁判所検事などを経て、1916年に東京区裁判所兼東京地方裁判所検事に就任。以後、栃木県警察部長、福井県内務部長を経て、1924年12月に退官。1927年、時の内相・鈴木喜三郎により、内務省警保局長・山岡萬之助(のちの日本大学総長)とともに、警保局保安課長に任ぜられる。またこの件にて保安課長は奏任官から勅任官となる。特別高等警察の拡充、治安維持法の強化を図り、内務省の権限と影響力を強化した。
吉田 真策(よしだ しんさく、1883年(明治16年)1月4… 吉田 真策(よしだ しんさく、1883年(明治16年)1月4日 - 1927年(昭和2年)9月29日)は、衆議院議員(立憲政友会)、弁護士。 広島県山県郡吉坂村(現在の北広島町)出身。1909年、京都帝国大学法科大学卒業。統監府検事、朝鮮総督府大邱地方裁判所検事を務めた。退官後、京都で弁護士を開業し、1911年(明治44年)に広島に転じた。また広陵中学校理事も務めた。 1924年(大正13年)、第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選した。
池田 輝方(いけだ てるかた、1883年(明治16年)1月4… 池田 輝方(いけだ てるかた、1883年(明治16年)1月4日 - 1921年(大正10年)5月6日)は明治、大正期の浮世絵師、日本画家。本名池田正四郎。女性日本画家・池田蕉園の夫。 1883年(明治16年)1月4日、東京府京橋区(現在の東京都中央区)木挽町で建具職人池田吉五郎の次男として誕生。1895年(明治28年)に水野年方に内弟子として入門。1899年(明治32年)から一年余りを岡山で過ごした後帰京、再び年方のもとで学ぶ。1902年(明治35年)に日本絵画協会と日本美術院の共催による第12回絵画共進会で「山王祭」が、同13回展では「婚礼」がともに1等褒状を得、翌1903年(明治36年)の第14回展では「江戸時代の猿若町」が銅賞3席となった。
江部 順治(えべ じゅんじ、1883年(明治16年)1月3日… 江部 順治(えべ じゅんじ、1883年(明治16年)1月3日 - 1976年(昭和51年)2月16日)は、大正から昭和期の政治家。衆議院議員、栃木県下都賀郡小山町長。旧姓・高堂。 秋田県南秋田郡、のちの秋田市で高堂兵右衛門の五男として生まれ、江部惣四郎の養子となる。1906年(明治39年)東京高等工業学校(現東京工業大学)応用化学科を卒業した。 一時大蔵省に入省したが退職し、下野酒造(のち一徳酒造)専務、栃木県酒類販売社長、下野醤油社長、同県商工経済会小山出張所長、小山商工会長、那須商業銀行監査役などを務めた。 政界では、小山町会議員、所得税調査委員、栃木県都賀地方事務所参与などを務め、1944年(昭和19年)から1945年(昭和20年)まで小山町長に在任した。
田巻 堅太郎(たまき けんたろう、1883年〈明治16年〉1… 田巻 堅太郎(たまき けんたろう、1883年〈明治16年〉1月2日 - 没年不明)は、日本の実業家、新潟県多額納税者、地主、篤農家、資産家。族籍は新潟県平民。 新潟県南蒲原郡田上村(現・田上町)出身。田巻七郎兵衛の二男。新潟中学校を卒業する。1902年に一年志願兵として近衛歩兵第1連隊に入営、1904年に陸軍歩兵少尉に任ぜられ、1910年に陸軍歩兵中尉に進み、正七位に叙せられ除隊となる。農業、金銭貸付業を営む。 新潟貯蓄銀行、新潟信託、愛隣社各取締役を歴任。1933年7月に第四銀行取締役に選任され以来20年間その職を続ける。1944年10月に第5代の頭取に推され、1953年に退任する。ラジオ新潟監査役をつとめる。
牧野 雅楽之丞(まきの うたのじょう、1883年〈明治16年… 牧野 雅楽之丞(まきの うたのじょう、1883年〈明治16年〉1月2日 - 1967年〈昭和42年〉8月14日)は、日本の道路技術者。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
高橋 守雄(たかはし もりお、1883年〈明治16年〉1月1… 高橋 守雄(たかはし もりお、1883年〈明治16年〉1月1日 - 1957年〈昭和32年〉5月6日)は、日本の内務官僚である。警視総監。 熊本県上益城郡浜町(現:山都町)に生まれる。熊本士族・高橋彌八郎の長男。 済々黌、旧制七高造士館を経て1908年(明治41年)に東京帝国大学法科大学を卒業し、高等文官試験に合格。翌年内務省に入り、警視庁警視となる。1910年(明治43年)、家督を相続する。 その後、石川県事務官・警察部長、岐阜県警察部長、新潟県警察部長、新潟県内務部長、京都府内務部長、内務監察官等を経て、1922年(大正11年)に第7代熊本市長となった。熊本市長時代には、市内の近代化を推進し、上水道や市電の整備、旧十三連隊跡の市街地編入の三大事業を完成させた。
鳩山 一郎(はとやま いちろう、1883年(明治16年)1月… 鳩山 一郎(はとやま いちろう、1883年(明治16年)1月1日 - 1959年(昭和34年)3月7日)は、日本の政治家、弁護士。第52・53・54代内閣総理大臣。位階勲等は正二位大勲位。
後藤 彦三郎(ごとう ひこさぶろう、前名・寛一郎、1883年… 後藤 彦三郎(ごとう ひこさぶろう、前名・寛一郎、1883年〈明治16年〉1月1日 - 1938年〈昭和13年〉6月9日)は、日本の実業家。族籍は鳥取県平民。 島根県人・後藤彦三郎の長男。1898年、家督を相続し、後に前名・寛一郎を改め襲名する。1906年、専修大学経済科を卒業。鉱業を営む。日東格魯謨鉱業常務取締役、同社専務取締役、同社社長などをつとめる。 1933年7月に国幣中社美保神社新営費金1千円を寄付したため1934年3月5日に褒状が下賜される。 米子飛行場建設の頃、多額の資金を提供する。1938年、自治制発布五十周年記念式が挙行される時、市会の決議により、波文黒手付果実盛一個並彰功録自治史各一部を贈呈され、その功労を表彰される。
四海波 太郎(しかいなみ たろう、1883年1月1日 - 1… 四海波 太郎(しかいなみ たろう、1883年1月1日 - 1933年12月10日)は、現在の兵庫県洲本市出身で小野川部屋(大阪)出羽海部屋(東京)に所属した力士。本名は佐渡 太郎市。4代君ヶ濱。171cm、90kg。最高位は大阪では東関脇、東京では東小結。 大阪相撲の小野川部屋に入門。1908年6月西昇の四股名で入幕。1910年1月関脇に進み番付発表後に師名を継ぎ八陣と改名。1912年1月東京に移り四海波の名で前頭5枚目格に付出され、1915年1月小結。右四つからの寄りが得意で、横綱梅ヶ谷と3度引分になったことがある。1917年1月に引退、4代君ヶ濱を襲名したが、1921年5月に廃業した。
小谷野 伝蔵(小谷野 傳藏、こやの でんぞう、1883年(明… 小谷野 伝蔵(小谷野 傳藏、こやの でんぞう、1883年(明治16年)1月1日 - 1963年(昭和38年)12月)は、大正から昭和時代前期の政治家、実業家。埼玉県浦和市長。埼玉県多額納税者。 栃木県栃木町生まれ。栃木中学校卒業。坂倉重平の三男として生まれ、小谷野やさの養子となり、1912年(大正元年)家督を相続する。1915年(大正4年)、浦和商業銀行に入行した。同年、浦和町会議員となる。1919年(大正8年)、北足立郡会議員となる。1921年(大正10年)、浦和商業銀行頭取となった。1922年(大正11年)2月6日、浦和町長兼浦和町会議長となった。1923年(大正12年)8月20日に退任した。
浅井 一郎(淺井、あさい いちろう、1883年(明治16年)… 浅井 一郎(淺井、あさい いちろう、1883年(明治16年)1月 - 1968年(昭和43年)6月20日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。参議院議員、千葉県君津郡大貫町長。 千葉県天羽郡、のちの大貫村(君津郡大貫町、大佐和町、富津町を経て現富津市)で生まれる。日本法律学校(現日本大学)を修了。アメリカに留学し、コロンビア大学で法律学を学んだ。 インターナショナル活動会社副社長、ヴァキュームオイル・レファイニング会社重役を歴任。帰国後、大貫町長に就任。その他、千葉新聞社顧問、新千葉新聞社顧問、日本製塩顧問、日本国民食糧顧問、木更津自動車顧問、木更津ホテル顧問、木更津合同タクシー顧問、木更津木工顧問、木更津印刷顧問などを務めた。
宇土 照蔵(うど てるぞう、1883年(明治16年)1月 -… 宇土 照蔵(うど てるぞう、1883年(明治16年)1月 - 1912年(明治45年)7月15日)は、日本の大陸浪人である。 大分県宇佐郡豊川村(現在の宇佐市)に生まれる。明治大学卒業後、朝鮮人の行動を調査するため李氏朝鮮(のち大韓帝国)に渡る。1910年の韓国併合後、清国に移住。 その後は同地で活動していた川島浪速らとともに満蒙独立運動や満洲に亡命していた朝鮮人の行動等に携わった。しかし、この頃奉天省の海龍(現在の遼寧省朝陽市龍城区)付近にて中国軍からの砲撃により死去した。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
永田 二郎(ながた じろう、1883年 - 1971年)は、… 永田 二郎(ながた じろう、1883年 - 1971年)は、埼玉県出身の洋画家。浦和画家。 浦和中学(現:埼玉県立浦和高等学校)を卒業後東京美術学校に入学し、黒田清輝や岡田三郎助に学ぶ。卒業後フランスへの留学を希望していたが、家督を相続するため断念するも細々と絵を描いていた。晩年は田園風景を描き続け、徳富蘇峰と荒川堤防を散策するなどしていた。
榛葉 太生(しんは ふとお、1883年 - 1962年)は、… 榛葉 太生(しんは ふとお、1883年 - 1962年)は、日本の医師。「安曇節」の初代家元。号は出原処士。 長野県北安曇郡松川村生まれ。長野県師範学校第二種講習を経て地元の小学校教員を務めた後、旧制松本中学校(長野県松本深志高等学校)を卒業して上京。医師免許を取得し、地元で開業する。 その傍ら、郷土史研究にも取り組み、有明山の開山記録や、県内に分布する道祖神の調査研究に携わる。1923年(大正12年)、安曇野に古くから伝わる民謡を集めて編曲した新民謡「安曇節」を完成させ、1925年(大正14年)には『正調安曇節』を発表し、その普及に努めた。
岡田 信吉朗(おかだ しんきちろう、明治16年(1883年)… 岡田 信吉朗(おかだ しんきちろう、明治16年(1883年) - 昭和19年(1944年))は日本の実業家。岡田回漕店・岡田海運各(株)代表取締役。海運業。 境港海運界の重鎮として境港発展に尽くした岡田庄作(鳥取県平民、海運業、鳥取県多額納税者)の弟。 鳥取県西伯郡境町(現在の境港市)出身。 米子中学(現米子東高校)卒業。境港出身の米中第一回生である。 長兄と共に海運業に従い後岡田海運、岡田回漕店両社を設立する 昭和8年(1933年)の米中同窓会名簿には、彼の職務は「大阪市北区大阪ビル、岡田海運商会主」となっている。
君野 順三(きみの じゅんぞう、明治16年(1883年) -… 君野 順三(きみの じゅんぞう、明治16年(1883年) - 昭和29年(1954年))は日本の弁護士、政治家。元鳥取市会議員(議長)、鳥取県会議員。元鳥取弁護士会会長。 元若桜町町長君野秀三の兄。弁護士君野駿平の父。長女は弁護士上原準三の妻。 鳥取県八頭郡若桜町若桜に生まれた。君野良平の長男。 明治34年(1901年)東京法学院(現中央大学)卒業。弁護士試験に合格し鳥取市で弁護士を開業。明治41年(1908年)に判事となり松江地方裁判所に勤務したが、再び鳥取市に戻って弁護士生活を始めた。 大正6年(1917年)鳥取市会議員となって電灯市営論が政治・社会問題化すると愛市団に参加。 大正8年(1919年)に再選され市会議長に推され、鳥取弁護士会副会長にもなった。
佐藤 四郎(さとう しろう、1883年〈明治16年〉 - 1… 佐藤 四郎(さとう しろう、1883年〈明治16年〉 - 1974年〈昭和49年〉)は、日本の建築家。大同電力(関西電力などの前身)に入社し、長野県から岐阜県にかけて木曽川沿いに点在する、いくつかの水力発電所の建物設計を手がけた。 山形県米沢市に生まれる。1907年(明治40年)に東京帝国大学(現・東京大学)へ入学。在学中の罹患により、同級生である高松政雄、安井武雄、内藤多仲らに遅れて1913年(大正2年)に卒業。すぐ横浜市の山田七五郎のもとで開港記念会館の設計に携わる。1917年(大正6年)に工場建築を主とする野村建築事務所(大阪市)に入所。1921年(大正10年)、福澤桃介に招かれ大同電力に入社。
鳥居 信平(とりい のぶへい、明治16年(1883年) - … 鳥居 信平(とりい のぶへい、明治16年(1883年) - 昭和21年(1946年))は、台湾で活動した農業土木技術者。 1883年、静岡県周智郡上山梨村(現・袋井市)に生まれる。1900年静岡県静岡中学校卒業。第四高等学校(四高)、東京帝国大学農科大学を卒業後、農商務省などを経て、1914年に農業土木の専門家として台湾製糖へ入社する。四高では八田與一の3年先輩にあたる。台湾南部一帯でサトウキビなど農業生産を高めるための工事を指揮した。現在も屏東県には鳥居が工事に携わった二峰圳などの地下ダムや農業用水路が現存している。
安田 耕之助(やすだ こうのすけ、1883年〈明治16年〉 … 安田 耕之助(やすだ こうのすけ、1883年〈明治16年〉 - 1944年〈昭和19年〉)は第八代京都市長。大蔵省出身で衆議院議員や京都市会議長などを歴任した。 安田平四郎とその妻・津留(井上嘉助三女、1860年生)の二男として京都に生まれる。1908年(明治41年)に東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、その翌年には文官高等試験行政科試験に合格。大蔵省に入り税務監督局に所属すると司税官、税関事務官、税務監督官、及び兼任で朝鮮総督府事務官等を務めた。 1925年(大正14年)京都市長に選出されたが、1927年(昭和2年)8月に病気を理由に辞任。1930年(昭和5年)の第17回衆議院議員総選挙では京都府第一区より出馬し当選(当選一回)。
楢岡 徹(ならおか とおる、1883年 - 1956年)は、… 楢岡 徹(ならおか とおる、1883年 - 1956年)は、日本の内務官僚。新庄町長(1期)、山形県新庄市出身。 戦後、公職追放となる。
石神 球一郎(いしがみ きゅういちろう、1883年〈明治16… 石神 球一郎(いしがみ きゅういちろう、1883年〈明治16年〉- 1932年〈昭和7年〉)は甑島出身の技術者。金瓜石鉱山所長及び台湾鉱業会理事を務めた。本項では甑島における鹿の子百合球根輸出の先駆けとなった父の石神弘志についても併せて記述する。 石神家は鹿児島県上甑島の士族であり、1862年(文久2年)の文久の法難の際に地頭の石神萬兵衛を派遣したという記録が残っている。その後明治維新を経て父・弘志は東京の警視庁に警部として勤める。1873年(明治6年)に西郷隆盛が官職を辞し鹿児島へ帰ると、多くの同調者がそれに倣った。弘志もまた職を辞し故郷の鹿児島に戻ったが、私学校の生徒らに官軍のスパイと疑われ捕らえられてしまう。
友松 文雄(ともまつ ふみお、明治16年(1883年) - … 友松 文雄(ともまつ ふみお、明治16年(1883年) - 昭和31年(1956年))は、日本の教育者。元鳥取県米子市教育長友松康雄の父。 鳥取県久米郡小鴨村(現在の倉吉市)に生まれた。 鳥取県師範学校卒業後、角盤・箕蚊屋高小教諭を務めたのち淀江・義方・啓成小校長を歴任し、傍ら第14代西伯教育会長として教育界に尽くした。 鈴木千代松角盤高小校長らと諮り山陰連合教育大会結成によって教権の拡大強化を考え京都府・兵庫県・島根県の加盟に成功、大正7年(1918年)第1回を米子市で開催。以来昭和5年(1930年)まで22回開催。 一方、体育振興に努め米子公設運動場の設置に奔走し大正15年(1926年)開場を記念して第1回中国オリンピック大会を実現させた。
牧野 昌広(まきの まさひろ、1883年‐1939年)は、明… 牧野 昌広(まきの まさひろ、1883年‐1939年)は、明治時代から昭和時代にかけての日本画家。 小林清親及び寺崎広業の門人。1883年に本荘県(現・秋田県)本荘市(現・由利本荘市)中横町に、お抱え絵師の牧野雪僊の孫として生まれる。本名は昌造。1897年頃、清親に入門したといわれ、1900年、昌広18歳の時に東京へ上京する。この頃、浮世絵は衰退期にあたり、後に郷里の先輩であった寺崎広業に師事した。昌広は身体が病弱であったため、実力を発揮することができなかった。1939年に東京で没す。
玉木 信助(たまき しんすけ、別表記:玉木 信介、1883年… 玉木 信助(たまき しんすけ、別表記:玉木 信介、1883年〈明治16年〉 - 1905年〈明治38年〉9月11日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少尉。 新潟県南蒲原郡三条一之町(現 三条市本町3丁目)の呉服商・玉木善作の四男として出生。新潟中学校に学び、同級生に青木得三、安倍邦太郎、伊藤精司、白勢量作などがいた。 1901年(明治34年)3月に新潟中学校で4年を修了後、4月に東京の日比谷中学校に入学、7月7日から8月2日にかけての海軍兵学校(32期)の生徒召募試験に及第して12月16日に入校、同期に同郷の山本五十六がいた。 1904年(明治37年)11月14日に日露戦争のため海軍兵学校を1カ月繰り上げ卒業、同日に海軍少尉候補生を命じられ、卒業試験に落第した西村七三郎を除く同期190名と「韓崎丸」に乗艦して練習に従事。
中野 並助(なかの なみすけ、1883年(明治16年) - … 中野 並助(なかの なみすけ、1883年(明治16年) - 1955年(昭和30年)5月23日)は、日本の検察官。日本の検事総長。弁護士。群馬県南甘楽郡神川村(現神流町)出身。
李 宣威(り せんい、1883年 – 没年不明)は、清末民初… 李 宣威(り せんい、1883年 – 没年不明)は、清末民初の官僚。字は律閑、律閣、津閣。王克敏の側近的存在で、北京政府と中華民国臨時政府で王を補佐した。 清末に日本へ留学し、1907年(光緒33年・明治40年)7月に東京高等工業学校電気科選科を修了・卒業した。帰国後は郵伝部員外郎をつとめている。 中華民国成立後の李宣威は、北京政府の財政部で秘書などを歴任したと見られる。1923年(民国12年)4月21日、全国財政討論委員会委員に任命され、11月23日には塩務署秘書をつとめた。なお、財政総長から失脚した王克敏が馮玉祥に逮捕されそうになった際に、身一つで逃げる王を李が救援し、日本大使館の庇護を受けられるようにしたとされる。
石井 秀吉(いしい ひでよし、1883年 - 1941年11… 石井 秀吉(いしい ひでよし、1883年 - 1941年11月2日)は、将棋棋士。七段。東京の京橋生まれで深川育ち。川井房郷七段門下。 日本将棋連盟の創設時(創設当時は東京将棋連盟)の参加棋士20人のうちの一人。 戦前死没者のため、日本将棋連盟ウェブサイト内「物故棋士一覧」に名前の掲載はないが、「棋士データベース」における加藤恵三八段、佐瀬勇次名誉九段の「師匠」欄、および「棋士系統図」においてその名を確認することができる。 明治43年(1910年)28歳の時に入段、大正4年(1915年)までに将棋同盟会(後の将棋同盟社、日本将棋連盟の前身の一つ)に付け出し二段で加入し、同年中に三段、大正7年(1918年)四段、大正11年(1922年)五段、大正14年(1925年)に六段に昇段した。
恵比寿洋 直三郎(えびすなだ なおさぶろう、1883年 - … 恵比寿洋 直三郎(えびすなだ なおさぶろう、1883年 - 1915年8月10日)は、富山県旧婦負郡野積村(富山市八尾町)出身で出羽海部屋に所属した元大相撲力士。本名は邑崎 直次郎(むらさき なおじろう)。 1883年に富山県旧婦負郡野積村(現富山市八尾町)に生まれ、その後地元の布谷小学校(現富山市立八尾小学校)を卒業した。上京後、25歳でヱビスビールに関係する会社に勤務。身長約185cmの大柄な体格から、同社の重役に角界入りを勧められた。初めは断ったものの、横綱常陸山ら大相撲関係者の熱心な誘いで、27歳だった1911年に出羽海部屋に入門。しこ名はヱビスビールにちなんだ。出羽海部屋へ入門後は自身の武器である怪力を活かして番付を上げ、1915年1月場所において、序ノ口から所要8場所で新十両へと昇進するというスピード出世を果たした。
菱刈 隆(ひしかり たか、1871年12月27日(明治4年1… 菱刈 隆(ひしかり たか、1871年12月27日(明治4年11月16日) - 1952年(昭和27年)7月31日)は、日本陸軍の軍人、外交官。最終階級は陸軍大将。栄典は勲一等功五級。幼名、幸吉。
山下 芳太郎(やました よしたろう、1871年12月24日(… 山下 芳太郎(やました よしたろう、1871年12月24日(明治4年11月13日) - 1923年4月7日)は、日本の実業家、言語政策研究家、外交官である。 漢字は非能率的であると考え、改良カナ文字とカナ文字タイプライターの普及をめざした。遺書も墓もカタカナで書かれている。 山下興作の長男として愛媛県に生まれた。旧制高松中学校(後の香川県立高松高等学校)、旧制松山中学校(後の愛媛県立松山東高等学校)を経て、1892年7月に東京高等商業学校(後の一橋大学)を卒業した。1917年(大正6年)2月に家督を相続している。 1893年(明治26年)12月から外務省につとめ、領事館書記生および領事事務代理としてボンベイで、副領事としてリヨンおよびロンドンで働いた。
山田 宗美(やまだ そうび、1871年12月23日(明治4年… 山田 宗美(やまだ そうび、1871年12月23日(明治4年11月12日) - 1916年(大正5年)3月15日)は、石川県江沼郡大聖寺町鍛治町(現在の加賀市)出身の鍛金家。本名は山田長三郎。 1871年12月23日(明治4年11月12日)、石川県江沼郡大聖寺町鍛治町(現在の加賀市)の武具鍛冶師の家に生まれた。 父の山田宗光に象嵌や打出しの技術を学んだ後、1891年(明治24年)には一枚の薄い鉄板から立体の花瓶や置物を打出す独自の技術を編み出した。宗美は極めて高度な鉄打出しの技術を有しており、「宗美の先に宗美なく、宗美のあとに宗美なし」と言われた。美術史家の大村西崖は著書『東洋美術史』の中で「鎚起には加賀の山田長三郎宗美あり、自ら鉄を用いよく動物の全形を鎚起し空前の奇巧を示した」と記している。
吉富 璣一(よしとみ きいち、明治4年11月10日(1871… 吉富 璣一(よしとみ きいち、明治4年11月10日(1871年12月21日) - 昭和4年(1929年)4月11日)は、日本の実業家。 山口県吉敷郡山口町生まれ。1895年高等商業学校(現一橋大学)卒業。1911年に三井物産を退社し、北海電化工業社長、東京金物商会社長、日魯漁業取締役、長州鉄道監査役、相模鉄道監査役などを務めた。 妻は吉敷郡会議員を務めた山内唯五郎の妹。浅野順一青山学院大学名誉教授は甥。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
永井 作次(ながい さくじ、1871年12月21日(明治4年… 永井 作次(ながい さくじ、1871年12月21日(明治4年11月10日) - 1930年(昭和5年)6月5日)は、日本の政治家、法律家、実業家。衆議院議員、鹿児島座社長、九州電力(旧鹿児島電気)社長。従七位。 1871年(明治4年)11月に鹿児島県諸県郡、のちの宮崎県北諸県郡都城町(現都城市)で生まれた。 1894年(明治27年)、和仏法律学校(現・法政大学)邦語法律科を卒業する。 鹿児島地方裁判所検事・鹿児島区裁判所検事をつとめ、退官後弁護士となる。 鹿児島座(1912年(大正1年)完成、1913年(大正2年)1月1日開場)の社長に就任する。九州で初めて専属の少女歌舞伎団「若葉会」を擁し、少女歌舞伎を常打ちした他、東京から一流の芸人を招いて、歌舞伎・新派・浪曲・義太夫・講談・落語・奇術などの興行を行った。
児玉 謙次(こだま けんじ、1871年12月18日(明治4年… 児玉 謙次(こだま けんじ、1871年12月18日(明治4年11月7日) - 1954年(昭和29年)2月13日)は、日本の実業家。 香川県高松市生まれ。高等商業学校附属外国語学校(のちの東京外国語学校)を経て、1892年高等商業学校(一橋大学の前身)卒。 会計検査院に勤務し、1893年横浜正金銀行(のちの東京銀行)入行。1922年同頭取。大蔵省顧問、中支那振興株式会社総裁、貴族院議員(1939年8月28日任命)などを歴任。1945年終戦連絡事務局総裁。1946年5月14日、貴族院議員を辞職した。 1954年2月13日歿。行年84歳。墓所は染井霊園1-イ-4-7。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
西沢 定吉(にしざわ さだきち、明治4年11月4日(1871… 西沢 定吉(にしざわ さだきち、明治4年11月4日(1871年12月15日) - 昭和16年(1941年)9月24日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、天童町長。 山形県西村山郡大谷村(現在の朝日町)出身。1890年(明治23年)、宮城農学校(現在の宮城県農業高等学校)を卒業。翌年、専修学校(現在の専修大学)理財科に入学し、1893年(明治26年)に卒業した。 1900年(明治33年)より郡農会議員・県農会議員を務め、1903年(明治36年)には県会議員・東村山郡会議員に選出された。 1908年(明治41年)、第10回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。4期務めた(第10回、第14回、第15回、第17回)。
尼ヶ嵜 清吉(あまがさき せいきち、1871年12月14日〈… 尼ヶ嵜 清吉(あまがさき せいきち、1871年12月14日〈明治4年11月13日〉 - 1947年〈昭和22年〉3月4日)は、現在の大阪府大阪市西淀川区出身で高砂部屋に所属した力士。本名は半田 清吉。10代振分、12代間垣。170cm、79kg。最高位は西小結。 大阪府下西成郡福村(現在の大阪市西淀川区)の鮮魚商の家に生まれる。宮相撲で活躍し、宮相撲仲間の兄が尼崎に居住していて入門時に世話となったため尼ヶ崎と名乗る。 1896年1月初土俵(序ノ口)、この時24歳と晩成であった。相撲名人と呼ばれた逆鉾与治郎から押し相撲の極意を教わり開花。好成績を続け1899年5月新十両、1900年1月新入幕。大砲万右エ門と2度の引分を演じ、1908年1月に36歳の高齢で小結昇進。
高橋 貞三郎(たかはし ていざぶろう、 1871年12月12… 高橋 貞三郎(たかはし ていざぶろう、 1871年12月12日〈明治4年11月1日〉 - 1934年〈昭和9年〉2月26日)は、明治から昭和期の実業家。三井物産大阪支店長を務めたほか、富士製紙(現在の王子製紙)専務取締役、樺太鉄道取締役、東京金鋼、北海道電灯などの重役を歴任した。 岡山県後月郡高屋町(現在の井原市)出身。 東京へ出て、築地の立教学校(現在の立教大学)で学ぶ。24歳の時にアメリカに留学し、イェール大学を卒業した。イェールの記録では、1897年に立教に学び、1900年よりイェールの大学院で社会科学を専攻、1901年に修士号を取得した。 帰国後1902年に三井物産に入社し、1913年(大正2年)には同社大阪支店長に就任した。
大瀧 新之助(おおたき しんのすけ、1871年12月9日〈明… 大瀧 新之助(おおたき しんのすけ、1871年12月9日〈明治4年10月27日〉 - 没年不明)は、日本の弁護士、実業家。族籍は京都府士族。 旧米沢藩士・大瀧忠徳の長男。1899年、東京帝国大学法科大学英法科を卒業、法学士の学位を得る。1900年、家督を相続する。 弁護士を開業し、京都市に於いて訴訟事務に従事する。傍ら会社の重役である。東亜組社長、昭和電球相談役、山城銀行取締役、京都精米、山城銀行、日本硬化煉瓦各監査役などをつとめる。 趣味は囲碁、俳句、書画。宗教は禅宗。住所は京都市上京区寺町通今出川上ル。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
磯貝 一(いそがい はじめ、1871年12月8日(明治4年1… 磯貝 一(いそがい はじめ、1871年12月8日(明治4年10月26日) - 1947年(昭和22年)4月19日)は、日本の柔道家。段位称号は講道館柔道十段、大日本武徳会柔道範士。講道館柔道殿堂。 延岡藩藩士で関口流柔術家にして柔道教士の磯貝恒久の長男として、現在の宮崎県延岡市に生まれる。 1891年(明治24年)上京し講道館に入門する。 1893年(明治26年)京都の第三高等学校の嘱託柔道教師となる。 1899年(明治32年)、大日本武徳会柔道教授に就任。 1913年(大正2年)4月、大日本武徳会柔道範士の称号を授与される。 1923年(大正12年)12月22日、永岡秀一と共に、当時の生存者としては初の十段に昇進した。
正木 義太(まさき よしもと、1871年12月7日(明治4年… 正木 義太(まさき よしもと、1871年12月7日(明治4年10月25日) - 1934年(昭和9年)10月29日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 広島県佐伯郡玖波村(現・大竹市玖波)の豪農正木富次と長谷川シモの次男として生まれる。正木家は伊予松前城発祥の家系で、関ヶ原の戦い後福島正則の家臣となったが、改易されたため帰農した。父の富次は、同町の正則後裔という福島家から正木庄蔵の養子となっている。 (明治27年)11月、海軍兵学校(21期)を卒業し、少尉候補生として「大和」に乗り組み日清戦争に出征。1895年(明治28年)12月に海軍少尉に任官し佐世保鎮守府海兵団分隊士となる。 1899年(明治32年)9月、「比叡」分隊長兼航海長(豪州回航)となり、「鳥海」分隊長、同航海長、呉水雷団第2水雷艇隊艇長、「橋立」分隊長、艦政本部副官などを歴任。
土井 晩翠(どい ばんすい、1871年12月5日〈明治4年1… 土井 晩翠(どい ばんすい、1871年12月5日〈明治4年10月23日〉 - 1952年〈昭和27年〉10月19日)は、日本の詩人、英文学者。本名、土井 林吉(つちい りんきち)。 詩風は男性的な漢詩調で、女性的な詩風だった島崎藤村(『若菜集』など)と並んで「藤晩時代」と称された。また、瀧廉太郎の作曲で知られる『荒城の月』の作詞者としても知られ、校歌・寮歌なども多く作詞した。戦陣訓の文校正でも知られる。英文学者として、ホメーロス、カーライル、バイロンなどを翻訳している。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。 1871年(明治4年)、仙台県仙台の北鍛治町(現在の宮城県仙台市青葉区木町通2丁目)に、富裕な質屋の土井林七、あいの長男として生まれた。
熊谷 三太郎(くまがい さんたろう、1871年12月5日(明… 熊谷 三太郎(くまがい さんたろう、1871年12月5日(明治4年10月23日) - 1951年(昭和26年)5月1日)は、明治から昭和時代前期の政治家、実業家、銀行家。貴族院多額納税者議員。旧姓は藤原。 福井県敦賀市阿曾出身。福井市の熊谷げんの養子となる。福井県立中学校を修了する。1898年(明治31年)宿布発電所の土木工事を請け負う。1907年(明治40年)中尾発電所工事で飛島組の下請けとなり、1926年(大正15年)飛島組取締役に就任。1938年(昭和13年)熊谷組を創立した。この間、1925年(大正14年)福井市会議員、同議長、福井県会議員などを歴任。ほか、熊谷組会長、第五十七銀行、中越銀行各頭取、敦賀セメント社長などを務めた。
三谷 一二(みたに いちじ、1871年12月4日(明治4年1… 三谷 一二(みたに いちじ、1871年12月4日(明治4年10月22日)- 1965年(昭和40年)10月26日)は、日本の政治家、銀行員、実業家。第2代三菱鉱業会長を経て、第4代福山市長(1期)を務めた。 福山県沼隈郡山手村(現・広島県福山市山手町)に生まれる。1889年(明治20年)4月12日、広島県福山中学校(現・広島県立福山誠之館高等学校)初等科第四級を修了。1896年(明治29年)に高等商業学校(現・一橋大学)を卒業し、三菱合資会社銀行部に入社。 1900年(明治33年)、義和団の乱に出征。1904年(明治37年)、日露戦争に出征。その後、三菱合資会社銀行部上海支店長、長崎支店長兼唐津支店長、東京本社営業部石炭課長兼東京支店長などを務めた。
右田 アサ(みぎた アサ、1871年12月4日〈明治4年10… 右田 アサ(みぎた アサ、1871年12月4日〈明治4年10月22日〉 - 1898年〈明治31年〉8月5日)は、日本の医師、日本で最初の女性眼科医。別名は右田朝子。30歳に満たない年齢で早世したため、医師としての活動期間は短いが、平成期に記念碑が発見され、その存在が明らかとなって以降、「日本初の女性眼科医」として顕彰の気運が高まっている。 浜田県美濃郡益田村(後の島根県益田市)の寺井家で誕生した。7歳のとき、益田村の名家である右田家の養女となった。当時より、一度決断したことをやり抜く意志の持ち主であった。且つ聡明で、小学校では上等組の男子よりも良い成績を収めた。卒業後も私塾に通い、男子に混ざって勉学に励んだ。
廣田 精一(ひろた せいいち、広田 精一、1871年12月2… 廣田 精一(ひろた せいいち、広田 精一、1871年12月2日〈明治4年10月20日〉 - 1931年〈昭和6年〉1月25日)は、日本の教育者。工学博士。私立電機学校(現・東京電機大学)、神戸高等工業学校(現・神戸大学大学院工学研究科・工学部)設立者。出版事業者、オーム社設立者。廣田理太郎の弟。広島県福山市字桜町出身。 廣田家は代々、備後福山藩の勘定係を務めた家系。1896年(明治29年)東京帝国大学工科大学を卒業。高田商会に入社し同社在籍のままドイツシーメンス・ハルスケに入社。帰国後の1907年(明治40年)、まだ工業後進国だった日本の工業の発展を願い 「後世、科学技術の総本山たらん」と電気技術者育成に扇本眞吉と東京神田に夜間学校・私立電機学校(現・東京電機大学)を設立した。
山口 治作(やまぐち じさく、1871年12月 - 没年不詳… 山口 治作(やまぐち じさく、1871年12月 - 没年不詳)は日本の銀行家。旧北海道銀行頭取。 1871年12月、富山県に山口孫八郎の次男として生まれ、1899年に家督を相続する。1894年に和仏法律学校邦語法律科(法政大学)を卒業し、日本銀行に入る。1918年に北海道銀行に移り、専務取締役に就任する。 北海道銀行頭取に就任後、1928年に金融恐慌で経営難になった百十三銀行と吸収合併し、新銀行の頭取に就任する。1932年、昭和恐慌による北海道銀行の経営難の責任を取って頭取を辞任する。なお、北海道銀行は1942年に一県一行主義という統制下のもと北海道拓殖銀行に吸収合併された。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。