荻原 晃(おぎはら あきら, Aloysius Akira … 荻原 晃(おぎはら あきら, Aloysius Akira Ogihara, S. J.、1896年(明治29年)6月21日 - 1991年(平成3年)8月26日)、日本のカトリック聖職者でイエズス会士。洗礼名はアロイジオ。第3代広島使徒座代理を務めた。 1896年6月21日、山形県鶴岡市で生まれた。1921年に上智大学哲学科を卒業し、同年歩兵第32連隊に入隊した。1922年にオランダのイエズス会修練院に入り、1929年7月31日にスペインナバラ州のザビエル城内の教会で司祭に叙階された。1932年3月16日に日本に帰国。その後は広島教区の教会で働いた。 1940年にヨハネス・ロス司教を引き継いで第3代広島使徒座代理に就任した。
大神 善吉(おおがみ ぜんきち、1896年(明治29年)6月… 大神 善吉(おおがみ ぜんきち、1896年(明治29年)6月21日 - 1967年(昭和42年)10月27日)は、大正末から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員(1期)、福岡県筑紫郡春日村長。位階は従五位。勲四等瑞宝章。 福岡県福岡市中小路(現博多区上呉服町)で、大神鹿吉、イノの二男として生まれる。幼くして父が死去し、御供所小学校(現福岡市立博多小学校)在学中は野菜の行商を行う。小学校卒業後、石屋、大工として奉公したが、上京し苦学して、1923年(大正12年)中央大学経済科を卒業した。 品川区会議員、立憲政友会院外団などで活動した。1938年(昭和13年)兄・恒吉の死去に伴い福岡県筑紫郡春日村(春日町を経て現春日市)に戻り、大神組を継承し土木建築請負業を営んだ。
水野 伊太郎(みずの いたろう、1896年(明治29年)6月… 水野 伊太郎(みずの いたろう、1896年(明治29年)6月20日 - 1964年(昭和39年)3月26日)は、日本の外交官。特命全権公使。 静岡県出身。1919年(大正8年)、高等試験外交科に合格し、翌年に東京帝国大学法学部法律科を卒業した。外交科試験以外の合格者を採用する「門戸解放」の一環として外務省に入省し、大使館三等書記官、外務事務官、公使館二等書記官、同一等書記官を歴任し、その間にベルギー、フランス、ルーマニア、ユーゴスラビアに勤務した。1935年(昭和10年)、外務書記官・調査部第二課長となり、通商局第一課長、同第三課長兼第四課長などを経て、1940年(昭和15年)に通商局長に就任した。
森下 國雄(もりした くにお、1896年6月20日 - 19… 森下 國雄(もりした くにお、1896年6月20日 - 1975年5月7日)は、日本の政治家。位階は正三位。衆議院議員(10期)。 栃木県塩谷郡阿久津村(現高根沢町)出身、早稲田大学政治経済学部卒業。コロンビア大学に留学する。外務参与官、外務次官、特派大使を歴任。1936年の総選挙で立憲民政党から立候補して初当選。終戦後公職追放された。1950年追放解除。追放解除後の1952年に自由党から政界復帰。その後、衆議院外務、建設各委員長、自民党代議士会長や道路調査会長、国土開発調査会長などを務めた。1972年の総選挙で落選した。 1975年5月7日、死去。78歳没。同月9日、特旨を以て位四級を追陞され、死没日付で正五位から正三位に叙され、銀杯一組を賜った。
菊地 幸作(きくち こうさく、1896年(明治29年)6月2… 菊地 幸作(きくち こうさく、1896年(明治29年)6月20日 - 1984年(昭和59年)1月2日)は、日本の政治家。栃木県真岡市長(2期)。 真岡市出身。1912年、芳賀農林学校卒業。1920年、栃木県庁に入る。県庁内では秘書、商工各課長、知事官房主事などを務め、東京都繊維配給に転じ、経理総務各部長を歴任し、その後は栃木県監査委員、県人事委員会委員長などを務めた。1954年、合併による真岡町の町長選挙に立候補し、当選する。真岡町は同年10月に市制施行し、真岡市長となった。市長を2期務め、1967年に市長を退任した。ほか、栃木県土地改良事業団体連合会会長、穴川土地改良区連合会理事長を歴任した。
川村 智保(かわむら ちほ、1896年〈明治29年〉6月19… 川村 智保(かわむら ちほ、1896年〈明治29年〉6月19日 - 1993年〈平成5年〉3月9日)は、日本の画家。
硲慈弘(はざま じこう、1896年6月16日-1946年4月… 硲慈弘(はざま じこう、1896年6月16日-1946年4月16日)は、天台宗の僧、仏教学者。 和歌山県生まれ。天台宗大学(のち大正大学)卒。東京帝国大学へ内地留学、島地大等に師事、その『天台教学史』の編纂助手を務める。1927年大正大学講師、助教授、教授。初代天台宗教学研究所長。
上村 伸一(かみむら しんいち、1896年〈明治29年〉6月… 上村 伸一(かみむら しんいち、1896年〈明治29年〉6月15日 - 1983年〈昭和58年〉7月27日)は、日本の外交官。東京帝国大学法科(現在の東京大学法学部)卒業。外務省東亜局第一課長。駐イギリス日本大使館臨時代理大使、トルコ大使などを務めた。著書多数。 千葉県印旛郡佐倉町(現・佐倉市)にて上村蔦松の長男として生まれる。札幌中学、二高を経て東京帝国大学法科へ進学。在学中の1920年(大正9年)10月に文官高等試験外交科(外交官及領事館試験)に合格。1921年(大正10年)、東京帝国大学法科卒業。同年、外務省に入省、牛荘官補に配属。昭和時代の幕開けを革命進行中のソビエト連邦駐在中に迎え、満州事変以降は中国外交の現場で奔走。
館 俊三(だて しゅんぞう、1896年〈明治29年〉6月15… 館 俊三(だて しゅんぞう、1896年〈明治29年〉6月15日 - 1964年〈昭和39年〉4月6日)は、日本の労働運動家、政治家。衆議院議員。 石川県鹿島郡七尾町(現七尾市)で生まれる。1916年(大正5年)石川県立七尾中学校(現石川県立七尾高等学校)を卒業し、小学校准訓導心得となる。 1920年(大正9年)鉄道省に入省し函館駅改札掛に就任。鉄道局書記、鉄道官補、函館駅助役を歴任。1946年(昭和21年)函館駅従業員労働組合の結成発起人となり、また同年5月に結成された国鉄北海道労働組合の委員長に就任。同年4月、第22回衆議院議員総選挙に出馬するも落選。1947年(昭和22年)4月、第23回総選挙で北海道第3区から日本社会党所属で出馬して初当選。
岩岡 とも枝(いわおか ともえ、1896年(明治29年)6月… 岩岡 とも枝(いわおか ともえ、1896年(明治29年)6月15日 - 1933年(昭和8年)11月7日)は、大正末から昭和の初めにかけて活動した挿絵画家、日本画家。雅号に岩岡花僊、岩岡周和。 戸籍上の名前はともゑ。弁護士の父・岩岡伊代治(長野県南安曇郡倭村出身)と母・ふくの間に東京市日本橋区浜町に生まれ育った。日本画を学び、池田輝方の曙会に所属する。弁護士の傍ら衆議院議員を1期務めた父・伊代治が1921年(大正10年)11月に亡くなった後、児童雑誌などに挿絵を描き始めた。『コドモノクニ』、『コドモアサヒ』、『金の星』などの雑誌のほか、楠山正雄、小川未明などの児童書に挿絵を描いた。1933年11月7日、「長らく心臓を悩んでおりましたが遂に病気昂進の為め」現在の東京都済生会中央病院で死去した。
和田 完二(わだ かんじ、1896年 <明治29年> 6月1… 和田 完二(わだ かんじ、1896年 <明治29年> 6月12日 - 1968年 <昭和43年> 8月13日)は、日本の経営者。丸善石油(現在のコスモ石油)社長を務めた。位階は従四位。 兵庫県豊岡市出身。1914年に旧制豊岡中学校を卒業。満鉄での勤務を経て、1930年に丸善石油に転じ、1951年11月に専務に就任し、1952年10月には社長に昇格し、1963年までに務めた。 1959年に紫綬褒章を受章し、1967年に勲三等旭日中綬章を受章。 1968年8月13日、心筋梗塞のために死去。72歳没。死没日付をもって従四位に叙された。
松隈 秀雄(まつくま ひでお、1896年(明治29年)6月1… 松隈 秀雄(まつくま ひでお、1896年(明治29年)6月10日 - 1989年9月30日)は、日本の大蔵官僚。大蔵次官、日本専売公社総裁。 神奈川県出身。旧制第一高等学校を経て、1921年(大正10年)3月、東京帝国大学法学部法律学科(英法)卒業。1920年(大正9年)10月、高等試験行政科に合格。 1921年5月、大蔵省入省し、参事官付。主税局国税課長、大臣官房文書課長などを歴任。1940年(昭和15年)5月25日、銀行局長。同年12月14日、主税局長。1944年(昭和19年)に谷口恒二(のちに日本銀行副総裁、東京大空襲で戦災死)のあとを受けて大蔵次官に就任。1945年2月、田中豊に大蔵次官の座を譲って勇退した。
佐々木 孝三郎(ささき こうざぶろう、1896年6月10日 … 佐々木 孝三郎(ささき こうざぶろう、1896年6月10日 - 1969年9月29日)は、日本の経営者。 宮城県出身。1917年に東京外語学校蒙古語科を卒業。南満洲製糖、満蒙毛織を経て、奉天新聞社副社長、奉天銀行取締役、奉天商工会議所評議員を歴任。1951年に宮城第一信用組合組合長に就任し、1957年4月から1962年2月までに東北放送社長を務めた。 1969年9月29日食道がんのために死去。73歳没。
黒岩 重治(くろいわ しげはる、1896年(明治29年)6月… 黒岩 重治(くろいわ しげはる、1896年(明治29年)6月10日 - 1986年(昭和61年)4月24日)は、大正から昭和期の教育者、政治家。衆議院議員。 高知県香美郡東川村別役(香我美町を経て現香南市)で、黒岩兼太郎、加根の二男として生れた。1916年(大正5年)高知師範学校男子本科を卒業した。 安芸郡安田、香美郡岡ノ内、富家、片地、高知市第五の各尋常小学校訓導、川内、神谷、美良布の各尋常小学校長兼同高等小学校長、城山尋常小学校兼実業青年学校長、高知県視学、高知市立第二国民学校長、城北国民学校長などを歴任し、1947年(昭和22年)に退職した。 高知県教員組合連合委員長を務め、同組織の推薦を受けて、1947年(昭和22年)4月の第23回衆議院議員総選挙に高知県全県区から無所属で出馬して当選し、衆議院議員に1期在任した。
東 忠続(あずま ただつぐ、1896年(明治29年)6月9日… 東 忠続(あずま ただつぐ、1896年(明治29年)6月9日 - 1950年(昭和25年)3月24日)は、大正から昭和前期の日本の労働運動家。 奈良県吉野郡十津川村に生まれる。同志社大学に入学し、在学中から友愛会の普選運動に参加し、労働運動に関する青年組織の団長をつとめる。東が団長をつとめた青年組織は「ボルガ団」といい、20歳前後の若者30余名で組織された友愛会京都支部の育成組織であった。1920年(大正9年)同志社大学を卒業すると、翌年の1921年(大正10年)関西労働同盟会の書記となり、藤永田造船所の争議を指導した廉で検挙される。出獄すると、翌年の1922年(大正11年)尼崎合同労働組合組合長となる。
務臺 光雄(むたい みつお、新字体:務台 光雄、1896年6… 務臺 光雄(むたい みつお、新字体:務台 光雄、1896年6月6日 - 1991年4月30日)は、日本の実業家。読売新聞社(現・読売新聞東京本社、読売新聞グループ本社)の社長、名誉会長や、讀賣テレビ放送の会長を務めた。長野県南安曇郡温村(後に三郷村を経て現在は安曇野市)出身。 社会部や政治部が花形の新聞社にあって販売畑一筋で歩み、戦前まで東京を中心とした東日本のブロック紙に過ぎなかった読売新聞を日本屈指の全国紙にまで押し上げた。「読売と名が付けば白紙でも売ってみせる」と言ったとされ、その辣腕ぶりから「販売の鬼」と呼ばれたが演劇や登山を好む一面もある。プロ野球の歴史では反長嶋・反江川で親川上・親藤田の座標軸に据えられている。
森村 義行(もりむら よしゆき、1896年(明治29年)6月… 森村 義行(もりむら よしゆき、1896年(明治29年)6月4日 - 1970年(昭和45年)11月3日)は、日本の実業家。学校法人森村学園理事長、財団法人森村豊明会第3代理事長、社団法人日本陶磁協会第2代理事長。 公爵:松方正義の十二男として生まれ、後に森村開作(7代目市左衛門)の婿養子となる。旧制兵庫県立第一神戸中学校を経て、1918年に旧制第七高等学校造士館を卒業。1921年京都帝国大学法学部卒業、同年に森村男爵家の婿養子となり一族の諸会社の重役を務める。 1951年、学校法人森村学園理事長・学園長就任。1961年、(財)森村豊明会第3代理事長就任。1970年3月、(社)日本陶磁協会第2代理事長就任。
山田 延男(やまだ のぶお、1896年〈明治29年〉6月4日… 山田 延男(やまだ のぶお、1896年〈明治29年〉6月4日 - 1927年〈昭和2年〉11月1日)は、日本の科学者。フランスのラジウム研究所(後のキュリー研究所)で物理学者であるマリ・キュリーに師事し、その長女の物理学者イレーヌ・ジョリオ=キュリーらと共に放射能の研究に貢献。研究に伴う放射線障害により死去した。ラジウム研究所に留学した最初の日本人であり、放射線化学研究の犠牲となって死去した最初の日本人とされる。 戦前の日本は放射能研究の範囲が狭かったため、日本国内ではマリ・キュリーの偉業とは対照的に、山田の留学や死についてほとんど知られていなかった。山田に関する資料の大部分が関東大震災や東京大空襲で焼失したことも、その一因である。
金 成淑(キム・ソンスク、朝鮮語: 김성숙、1896年6月4… 金 成淑(キム・ソンスク、朝鮮語: 김성숙、1896年6月4日または6月5日 - 1979年12月18日)は、日本統治時代の朝鮮の独立運動家、教育者、大韓民国の政治家。第5代韓国国会議員、韓国社会党党首を歴任した。 本貫は慶州金氏、号は悔乙(フェウル、悔乙/회을)、別名は金成璹(読み・ハングル同)。郷土史学者の金泰能は甥。 全羅南道済州島大静面(現・済州特別自治道西帰浦市大静邑)加波里(すなわち加波島)出身。漢学修学を経て、京城第1高等普通学校(現・京畿高等学校)4年在学中の1919年に三・一運動に参加し、出版法・保安法違反の疑いで裁判を受け、投獄されたことがある。出獄後の1920年に帰郷し、摹瑟浦で大静普通学校の附設学校を設置したのを経て、1921年に郷里の加波島で民族主義教育を行う辛酉義塾を開設し、5年間教師として在任した。
上野 慧賢(あがの えけん、1896年6月3日 - 1981… 上野 慧賢(あがの えけん、1896年6月3日 - 1981年6月2日)は、日本の教育者。駒澤大学高等学校名誉校長。学校法人駒澤大学理事、東京私立中学高等学校協会監事などを歴任。熊本県出身。 八代市生まれ。1917年、熊本県第一師範学校本科卒業。葦北郡日奈久尋常高等小学校訓導。1920年、津奈木尋常高等小学校。1923年、広島高等師範学校教育科卒業。熊本県阿蘇高等女学校教諭。1924年9月、熊本県第58番極楽寺林の慧禅について得度。1926年4月、東京帝国大学伝染病研究所看護婦養成所(のち東京大学第三厚生女学部)嘱託講師を兼任(1951年3月迄)。1927年3月、駒澤大学卒業。同年4月、日出高等女学校教諭。
宇田 新太郎(うだ しんたろう、1896年(明治29年)6月… 宇田 新太郎(うだ しんたろう、1896年(明治29年)6月1日 - 1976年(昭和51年)8月18日)は、日本の工学者。東北大学教授。 専門は電気工学、通信工学で、八木・宇田アンテナの発明者として知られ、同郷の盛永俊太郎、川原田政太郎と共に「魚津の三太郎博士」と呼ばれた。 富山県下新川郡舟見町(現・入善町)出身。旧制魚津中学、広島高等師範学校を経て、一旦長野県の旧制大町中学で教職に就くが、その後に東北帝国大学工学部電気工学科に入学。1924年に卒業後そのまま大学に奉職し、当時東北帝国大学で隆盛をみた超短波をはじめとする電磁波による電気通信の研究に従事し、八木秀次とともに八木・宇田アンテナを共同発明した。
加藤 謙一(かとう けんいち、1896年〈明治29年〉5月2… 加藤 謙一(かとう けんいち、1896年〈明治29年〉5月28日 - 1975年〈昭和50年〉6月30日)は、昭和期の雑誌編集者。戦前は大日本雄辯會講談社『少年倶楽部』の編集長を務め、戦後は独力で起こした学童社から『漫画少年』を編集・刊行し、多くの漫画家を世に送り出した。国立公文書館館長の加藤丈夫は四男。 1896年、青森県弘前市に生まれる。旧制弘前中学校(現・青森県立弘前高等学校)卒業後、学費の不要な陸軍経理学校への進学を目指し、学科試験は合格したものの体格試験に扁平足という理由で不合格となり、やむなく弘前市立三省尋常小学校で代用教員となる。小学校長の薦めで、当時の青森師範学校(現在の弘前大学教育学部)の二部(夜間部)に1916年に入学。
谷川 昇(たにかわ のぼる、1896年5月27日 - 195… 谷川 昇(たにかわ のぼる、1896年5月27日 - 1955年2月28日)は、日本の内務官僚、政治家。衆議院議員。広島カープの「カープ」名付け親。正五位勲四等受章。 広島県賀茂郡西志和村(現・東広島市志和町)出身。県立広島中学(現広島県立国泰寺高校)で鈴木剛や田部武雄の兄・謙二と同学で親友であった。野津謙は年は違うが同期で、谷川は蹴球部(サッカー部)だったという。両親は早くに移民としてアメリカに渡り、カリフォルニア州・サクラメントで百貨店を経営。この頃のカリフォルニアは、まだ暑くて荒涼した住みにくい土地であったが、父親は荒地開拓の日本人リーダーとして信望を集めていた。昇も中学卒業後、父に従ってアメリカに渡りイリノイ大学政治経済学科に入学。
角田 幸吉(かくた こうきち、1896年(明治29年)5月2… 角田 幸吉(かくた こうきち、1896年(明治29年)5月27日 - 1966年(昭和41年)4月7日)は日本の政治家、法学者、弁護士。衆議院議員(2期)、東洋大学教授。 1896年(明治29年)5月27日、宮城県に生まれる。1921年(大正10年)に法政大学専門部法律科を卒業、弁護士試験に合格し、弁護士業に従事する。1939年(昭和14年)から法政大学で講師を務め、後に教授に就任し、1943年(昭和18年)に『日本親子法論』で法学博士(法政大学)を取得する。 1947年(昭和22年)の第23回衆議院議員総選挙、1949年(昭和24年)の第24回衆議院議員総選挙に出馬し、連続当選する。初代衆議院人事委員長、裁判官弾劾裁判所裁判長、自由党総務を務める。
加藤 晃(かとう あきら、1896年(明治29年)5月25日… 加藤 晃(かとう あきら、1896年(明治29年)5月25日 - 1988年(昭和63年)5月10日)は、日本の弁護士。第二東京弁護士会会長、関東弁護士会連合会理事長を歴任。 1967年(昭和42年)に勲三等旭日中綬章を受章する。
水谷 昇(みずたに のぼる、1896年〈明治29年〉5月23… 水谷 昇(みずたに のぼる、1896年〈明治29年〉5月23日 - 1988年〈昭和63年〉7月31日)は、日本の政治家。衆議院議員(4期)。桑名市長(5期) 。書家。位階は従四位。 三重県河芸郡、のちの河芸町(現津市)で生まれた。1916年(大正5年)三重師範学校卒。小学校訓導、桑名高等女学校教諭を経て、桑名町議、同議長、桑名市議、同議長、木曽岬村長、三重県議などを歴任し、1946年の第22回衆議院議員総選挙で三重県から立候補するが次点。しかし翌1947年に長井源が辞職したことから、3月19日に繰り上げ当選となった。以来連続4期務め、衆議院図書館運営委員長、第3次吉田内閣で文部政務次官を務めた。
栗原 民雄(くりはら たみお、1896年5月21日 - 19… 栗原 民雄(くりはら たみお、1896年5月21日 - 1979年10月8日)は、日本の柔道家(講道館10段、大日本武徳会範士)。 選手として1929年の御大礼記念天覧武道大会で優勝するなどし、指導者としては武道専門学校主任教授や京都府警察柔道教師を務めた。のちに講道館柔道殿堂にも選ばれている。 兵庫県姫路市生まれ。姫路中学校を経て、1915年(大正4年)大日本武徳会武術専門学校に5期生として入学。同期には兼元藤兵衛や山口孫作(のち隆三)らがいた。1917年1月に講道館に入学。1918年(大正7年)3月卒業後、同校研究科に進む。1919年4月、神宮皇學館助教授に就任。 1920年(大正9年)4月、武道専門学校助教授に就任し、翌年教授となる。
長谷川 藤七(はせがわ とうしち、1896年〈明治29年〉5… 長谷川 藤七(はせがわ とうしち、1896年〈明治29年〉5月21日 - 1977年〈昭和52年〉2月10日)は、昭和時代の政治家。実業家。山口県徳山市長。 1912年(明治45年)3月、岡山商業学校卒業。1940年(昭和15年)4月、東亜窯業会社技師長を経て、1942年(昭和17年)11月に小野田耐火工業社長を務めたのち、1947年(昭和22年)4月に徳山市の初代公選市長に当選した。 幹線道路の幅を36メートルに広げるなど当時としては桁外れな土地区画整理事業により猛烈な反対運動が生じたが、戦災復興およびのちの徳山市の発展の基礎固めとなる施策であった。ほか、公共的建物の統合配置による官公街の形成や公園緑地の適正配置による都市の美観を図ることを目指した。
金 秀学(キム・スハク、朝鮮語: 김수학/金秀學、1896年… 金 秀学(キム・スハク、朝鮮語: 김수학/金秀學、1896年5月21日 - 1967年)は、大韓民国の官僚、政治家、銀行家。第2代商工部次官、第2代韓国国会議員。 本貫は清道金氏(朝鮮語版)、字は亨魯(ヒョンノ、형로)、号は蘿谷(ナゴク、나곡)。 全羅北道高敞郡出身。京都帝国大学(現・京都大学)経済学部卒。湖南銀行木浦支部長、1948年10月4日から1949年9月15日までは第2代商工部次官を務め、他には朝鮮銀行重役、商工銀行理事、韓国興業銀行理事、大韓無尽金融株式会社社長などを務めた。1950年の第2代総選挙で高敞郡選挙区から無所属で出馬し当選し、国会財政経済分科委員長を務めた。その後は民主国民党の中堅となったが、釜山政治波動の後に離党し自由党に参加した。
園池 公功(そのいけ きんなる、1896年〈明治29年〉5月… 園池 公功(そのいけ きんなる、1896年〈明治29年〉5月20日 - 1972年〈昭和47年〉2月15日)は日本の演出家。 子爵園池実康(さねやす)の次男。母は正親町春香(権大納言正親町実徳の娘、伯爵正親町実正の妹)。作家・園池公致の実弟。 東京府出身。京都帝国大学卒業。1922年、帝国劇場入社。文芸部で演出を担当。のち松竹や東宝に勤務。 1932年、革命後のソヴィエトを視察。 戦後は女子美術大学の理事を務めた。
中村 庸一郎(なかむら よういちろう、1896年〈明治29年… 中村 庸一郎(なかむら よういちろう、1896年〈明治29年〉5月20日 - 1983年(昭和58年)11月13日)は、日本の政治家。衆議院議員(8期)。位階は正四位。 漢学者・中村時中の長男に生まれ、専修大学経済学部を卒業。1942年の第21回衆議院議員総選挙に千葉3区から翼賛政治体制協議会推薦で立候補し、初当選。翼賛選挙の推薦候補だったため戦後に公職追放された。追放解除後は改進党公認で1952年の第25回衆議院議員総選挙に立候補し当選、政界に返り咲いた。日東交通の合併設立に尽力し社長に就任。また大日本セロファンや桜ゴムなど20数社の役員、千葉銀行の監査役などを務めていた。 改進党・日本民主党・自由民主党内では大麻唯男ら旧立憲民政党系右派の政治家が結集した大麻派に属し、大麻の死後、宮沢胤勇・野田武夫・小泉純也・浜野清吾・真鍋儀十・山本粂吉ら他の大麻派のメンバーとともに岸派に合流。
中戸川 吉二(なかとがわ きちじ、1896年(明治29年)5… 中戸川 吉二(なかとがわ きちじ、1896年(明治29年)5月20日-1942年(昭和17年)11月19日)は、北海道釧路区(現釧路市)生まれの小説家。 農場を営む素封家の次男として生まれる。幼少時に上京し、西片の誠之小学校(現文京区立誠之小学校)に通う。明治大学中退。釧路在住を経て、里見弴に師事。1923年(大正12年)雑誌「随筆」を創刊。代表作に「イボタの虫」、「兄弟とピストル泥棒」がある。1921年、里見の許に来ていた吉田富枝と恋仲になり、その処遇をめぐって里見と関係が悪化、富枝と結婚するが、その経緯を小説『北村十吉』として、里見は「おせつかい」として書いた。牧野信一の才能を評価し、牧野らとともに雑誌「随筆」を発刊。
馬杉 復三(ますぎ またぞう、1896年(明治29年)5月1… 馬杉 復三(ますぎ またぞう、1896年(明治29年)5月18日 - 1947年(昭和17年)9月5日)は、日本の病理学者である。旧姓は望月。 滋賀県大津市に生まれ、滋賀県立膳所中学校、第三高等学校を卒業後、東京帝国大学医学部(現在の東京大学大学院医学系研究科・医学部)医学科に入学する。同大学の教授だった緒方知三郎から病原学を学び、1921年(大正10年)に卒業した。1925年(大正15年)に研究のためにヨーロッパに留学し、帰国後の1927年(昭和2年)に千葉医科大学(現在の千葉大学医学部)にて教鞭を執った。 その後は教授としての活動の傍ら腎臓炎を発症させるために、実験動物に抗腎血清を投与させその原因としてアレルギー反応と証明される研究を行う。
平井 肇(ひらい はじめ、1896年5月17日 - 1946… 平井 肇(ひらい はじめ、1896年5月17日 - 1946年7月7日)は、日本のロシア文学者、翻訳家。 1896年、岐阜県生まれ。旧制早稲田大学文学部露文科第一期生として、片上伸・昇曙夢らの指導を受けるが、入学から3年で中退。その後は、かねてから親交のあった貴司山治の紹介でロシア文学作品の翻訳を始めた。 1938年に『死せる魂』の邦訳版を上梓した後、満州国に居を移し、南満州鉄道に嘱託社員として勤務する傍ら、『東方評論』の編集に携わった。太平洋戦争終結直後の1946年、滞在先のハルビンで病没した。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・作詞家・作家・放送作家・随筆家(コラムニスト)・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
山本 岩多(やまもと いわた、1896年(明治29年)5月1… 山本 岩多(やまもと いわた、1896年(明治29年)5月15日 - 1944年(昭和19年)10月25日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。
安藤 恭子(あんどう ゆきこ、1896年〈明治29年〉5月1… 安藤 恭子(あんどう ゆきこ、1896年〈明治29年〉5月13日 - 1992年〈平成4年〉12月28日)は、日本の子爵安藤信昭の夫人。元皇族で、旧名は恭子女王(ゆきこじょおう)。閑院宮載仁親王の第1女子。母は、三条実美公爵令嬢・智恵子。皇籍離脱前の身位は女王で、皇室典範における敬称は殿下。 1896年(明治29年)5月13日、閑院宮載仁親王と同妃智恵子の第1女子(第2子)として誕生。 1915年(大正4年)、従五位子爵安藤信昭との結婚が決まると、同年8月24日に宮中三殿を参拝し、9月2日には、皇太子裕仁親王から御悦として紅白縮緬が贈られた。翌9月3日に降嫁した。 1992年(平成4年)12月28日、96歳で逝去した。
北代 誠弥(きただい しげひろ、1896年(明治29年)5月… 北代 誠弥(きただい しげひろ、1896年(明治29年)5月13日 - 1986年(昭和61年)1月10日)は、日本の実業家、銀行家である。 和歌山県和歌山市に生まれ、東京帝国大学経済学部(現在の東京大学大学院経済学研究科・経済学部)に入学する。1920年(大正9年)に卒業後は日本銀行に勤務し、秘書役や外事局長、理事、札幌支店長等を歴任した。第二次世界大戦直後の1946年(昭和21年)には当時総裁を務めていた一万田尚登の補佐として副総裁に就任し、総裁と共に戦後のインフレーション抑制にあたる。 翌1947年(昭和22年)には金融面における産業の復興のために復興金融金庫(現在の日本政策投資銀行)の理事長を1949年(昭和24年)の退任まで兼任し、1966年(昭和41年)には日本ソフトウエアの社長を務めた。
実藤 恵秀(さねとう けいしゅう、1896年5月13日 - … 実藤 恵秀(さねとう けいしゅう、1896年5月13日 - 1985年1月2日)は、日本の中国研究者。 広島県出身。早稲田大学文学部支那文学科卒。1935年竹内好らの中国文学研究会に参加。早大助教授、1949年教授。1960年「中国留日学生史の研究」で早大文学博士。1967年定年退任、名誉教授。子に実藤遠、さねとうあきらがいる。戦後は「さねとう(・)けいしゅう」の署名を多く用いた。
木村 健二郎(きむら けんじろう、1896年5月12日 - … 木村 健二郎(きむら けんじろう、1896年5月12日 - 1988年10月12日)は、日本の分析化学者。学位は、理学博士(東京大学)。日本学士院賞受賞。 青森県出身。父は神奈川県第一中学校(現・神奈川県立希望ヶ丘高等学校)校長の木村繁四郎(1864-1945)。祖父は弘前藩家老の木村藹吉(1840-1879)。伯父(伯母の夫)に伊東重、義兄に矢代幸雄(姉の夫)がいる。 旧制神奈川県立第一中学校、旧制第一高等学校を経て、東京帝国大学理学部化学科に在学中、柴田雄次に師事する。卒業後も大学に残り、1922年に同大学理学部助教授となる。1925年からデンマークに留学し、ニールス・ボーアのもとで研究した。
小畑 哲夫(こばた てつお、1896年(明治29年)5月12… 小畑 哲夫(こばた てつお、1896年(明治29年)5月12日 - 1971年(昭和46年)1月10日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。参議院議員(1期)。 兵庫県宍粟郡神戸村(一宮町を経て現宍粟市一宮町)で、小畑彦太郎の二男として生まれる。1916年(大正5年)姫路師範学校を卒業した。 1916年、兵庫県内の小学校訓導に就任。その後、鉄鋼線材製造業を営む。阪神被覆電気溶接棒製造工業組合主事、同組合常務理事、西日本電極棒工業組合専務理事、日本電気溶接棒工業組合専務理事、日本溶接工業代表取締役、兵庫県宍粟郡神戸村薪炭組合長、同郡薪炭組合連合会副会長、兵庫県民主政治会宍粟郡支部長などを務めた。 1947年(昭和22年)4月の第1回参議院議員通常選挙に兵庫県地方区から民主党公認で出馬して当選(補欠、任期3年)し、その後、国民民主党に所属し参議院議員に1期在任した。
福吉 勲二(ふくよし くんじ、1896年5月11日 - 没年… 福吉 勲二(ふくよし くんじ、1896年5月11日 - 没年不明)は、日本の内務官僚。桑名市長。 三重県出身。1921年京都帝国大学法学部卒。1924年高等文官試験に合格し、内務省に入る。復興局から岐阜、北海道、秋田、鳥取、岡山、富山、愛媛の各県に勤務し、1941年沖縄県内務部長となる。その後、香川県副知事となり、1945年7月に桑名市長に就任した。 市長就任直後に終戦を迎え、戦災復興に力を入れた。しかし、同年10月に市内の川の氾濫による水害が起き、大きな被害を受けた。福吉は戦災と水害によるダブルパンチを受けた市民を大いに励まし、復興に奔走した。翌1946年に城南干拓事業に着手、1947年には学校給食を実施した。
芹沢 光治良(せりざわ こうじろう、1896年(明治29年)… 芹沢 光治良(せりざわ こうじろう、1896年(明治29年)5月4日 - 1993年(平成5年)3月23日)は、日本の小説家。静岡県沼津市名誉市民(1980年‐ )。1965年‐1974年に日本ペンクラブ会長を務めた。日本芸術院会員。 フランス留学後、『ブルジョア』で出発。『巴里に死す』で注目された。作品は父性希求、天理教を主題にしたもの、日本と西洋の対比やその矛盾を追究するものの系列があり、冷徹な目を据えながら、生と死、愛の問題を扱った主知的ヒューマニズム作家。日本よりもむしろ海外(特にフランス)で高い評価を受けた。特に1950年代に『巴里に死す』がフランスでも高く評価され、ノーベル文学賞候補者となったという噂も流れた。
市原 硬(いちはら かたし、1896年〈明治29年〉5月2日… 市原 硬(いちはら かたし、1896年〈明治29年〉5月2日 - 1979年〈昭和54年〉1月10日)は、日本の医化学者。医学博士。大阪大学名誉教授。日本生化学会会長。位階は従三位。 島根県那賀郡江津村(のち江津町、現・江津市)出身。市原朋作の長男。1914年、浜田中学卒業。1923年、大阪医大卒業。同医化学教室に勤務する。1928年に大阪帝国大学医学部助教授、1940年に教授、1960年に定年退官。1961年、和歌山医大学長に就任。1979年死去。死没日付をもって従三位に叙された。 古武弥四郎大阪帝国大学医学部教授に師事、その後継者として1961年に有核アミノ酸代謝の研究で須田正巳と共に日本学士院賞を受賞した。
松浦 周太郎(まつうら しゅうたろう、1896年5月2日 -… 松浦 周太郎(まつうら しゅうたろう、1896年5月2日 - 1980年6月8日)は、日本の昭和期の政治家。位階は従三位。 労働大臣・運輸大臣。北海道美深町名誉町民(1964年)。妻は同町の児童養護施設・社会福祉法人美深育成園の創立者である松浦カツ。 北海道渡島支庁茅部郡落部村(現・二海郡八雲町)野田生の開拓農家の長男として生まれる。父・増太郎は愛知県の人で、濃尾地震(1891年)で耕地を失い、翌1892年、八雲徳川農場で小作人として働くために渡道してきていた。 1909年4月、現在の美深町紋穂内に移住、恩根内第一尋常小学校を卒業後は家業の農作業に従事し、また中学講義録を取り寄せ独学していた。一時期、胃を痛めて東京の長与胃腸病院に入院し、夏目漱石と病室を共にしたことがある。
李箕永(りきえい、1896年5月 – 1984年8月9日)は… 李箕永(りきえい、1896年5月 – 1984年8月9日)は朝鮮の小説家。本貫は徳水。号は民村。筆名に民村生、聖居山人、聖居、陽心谷人、陽心学人、箕永生がある。日本統治時代はプロレタリア主義作家としてKAPFの中心メンバーとして活動、解放後は左翼陣営に加わり文壇の重鎮の座に座り続けた。貧困を極めて精巧に描き出す李の筆は南北を通じて高く評価されている。 李箕永は1896年5月に忠清南道牙山に生まれる。父は李敏彰、母は密陽朴氏の間の長男である。生まれてすぐに天安に引っ越し、そこで育った。李の家庭は貧しく母は李が数え年で11歳のときに死んだ。学費の支払いにも苦労するほどの貧しさのなか、古代小説を読んで少年期を過ごす。
門屋 盛一(かどや もりいち、1896年(明治29年)4月3… 門屋 盛一(かどや もりいち、1896年(明治29年)4月30日 - 1961年(昭和36年)5月10日)は、昭和期の実業家、政治家。参議院議員(1期)。 愛媛県風早郡河野村(温泉郡河野村、北条町、北条市を経て現松山市)で、門屋フミの息子として生まれる。幼くして両親と大分県、のちの佐伯市に移った。貧しい家庭のため12歳から小学校給仕となる。村役場給仕、大分県南海部郡戊申溜池普通水利組合書記、薬局生などを務め、独学を続けた。長崎県の崎戸炭坑に移り採炭夫として働く。三菱長崎造船所工業補修学校に入学し木型職工となる。21歳で鉄道工業合資会社に転じ土木事業に係わる。24歳で同社桂事務所現場主任に就任し丹那トンネル工事に従事した。
井谷 正吉(いたに まさきち / まさよし、1896年(明治… 井谷 正吉(いたに まさきち / まさよし、1896年(明治29年)4月29日 - 1976年(昭和51年)2月10日)は、大正から昭和期の農民運動家、農業技術者、政治家。衆議院議員(4期)。 愛媛県北宇和郡日吉村下鍵山(現鬼北町下鍵山)で、井谷正命の長男として生まれる。1914年(大正3年)郡立宇和農蚕学校(現愛媛県立宇和高等学校)を卒業した。 兵役後の1918年(大正7年)に家出して大阪、奈良、三重などを巡り、帰郷して北宇和郡役所土木科に勤務した。1919年(大正8年)から1922年(大正11年)まで三重県度会郡七保村(現大紀町)の農業補習学校教師を務めた。この間、地元青年と土民協会を設け農村問題の研究を行う。
林 重義(はやし しげよし、1896年4月29日 - 194… 林 重義(はやし しげよし、1896年4月29日 - 1944年3月16日)は戦前日本の洋画家、版画家。 1896年に兵庫県神戸市に生まれた。始めは京都市立絵画専門学校において日本画を学ぶが、中退している。関西美術院において鹿子木孟郎に師事し油絵を学んでいる。1922年に小林和作とともに東京へ上京し、1923年に二科展に出品、初入選を果たす。1926年に「庭の一隅」で二科賞を受賞した。1928年から渡欧して、渡欧先から二科展に作品を出品している。1930年までヨーロッパに滞在、帰国後、二科会を退会する。1930年代に主に石版画を制作、発表した。1931年には独立美術協会の創立に参加するが、1937年には同会からも退会、同年、文展に出品している。
四方 諒二(しかた りょうじ、1896年〈明治29年〉4月2… 四方 諒二(しかた りょうじ、1896年〈明治29年〉4月28日 - 1977年〈昭和52年〉12月13日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 兼松商店[要出典]の役員であった四方素の二男として神戸市で生れる。第一神戸中学校、大阪陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1917年(大正6年)5月、陸軍士官学校(29期)を卒業し、同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第19連隊付となる。1924年(大正13年)3月、陸軍委託学生として学んだ東京外国語学校(独語)を修了。1927年(昭和2年)6月、兵科を憲兵科に移し憲兵大尉となり、咸興憲兵分隊長となった。 小倉憲兵分隊長を経て、1930年(昭和5年)4月から3年間、陸軍派遣学生として東京帝国大学法学部で学ぶ。
羅 蕙錫(ら けいしゃく、ナ・ヘソク、朝鮮語:나혜석、189… 羅 蕙錫(ら けいしゃく、ナ・ヘソク、朝鮮語:나혜석、1896年4月28日 - 1948年12月10日)は、日本統治時代の朝鮮および韓国の洋画家、作家、詩人、ジャーナリスト。本貫は羅州羅氏。現在の京畿道水原市八達区出身。女子美術大学の留学生。韓国最初の女性画家で近代朝鮮文学における最初の女性作家とも評される。女性解放論者であり、女性解放のための運動や朝鮮独立運動にも参加していた。初名は児只、字は明順、号は晶月。 1896年4月、父・羅基貞と母・崔是議の間に五人兄姉の二女として京畿道水原に生まれた。父の家系は代々官僚をつとめ、資産家で子弟教育に関心が高かった。幼名は兒只(アジ=子供を意味する)、幼児期は明順(ミョンスン)と呼ばれ、日本留学時から蕙錫、号は晶月(チョンウォル)と名乗った。