大谷 吟右衛門(おおたに ぎんえもん、1872年11月4日(… 大谷 吟右衛門(おおたに ぎんえもん、1872年11月4日(明治5年10月4日) - 1928年(昭和3年)3月26日)は、明治から大正時代の実業家、銀行家。 大谷秋蔵の長男として飾磨県佐用郡平福村(兵庫県佐用郡平福町を経て現佐用町平福)に生まれ、1901年(明治34年)3月に家督を相続する。1899年(明治32年)東京帝国大学法科を卒業し、大阪商船に入社し、釜山支店長を経て運輸助役となる。1902年(明治35年)兵庫県農工銀行支配人となり、1910年(明治43年)専務取締役に就任。1917年(大正6年)には同行頭取となった。ほか、神戸信託、神栄、播美鉄道各監査役のほか、神戸瓦斯、ベルベット石鹸などの役員も務めた。
木村 秀興(きむら ひでおき、1872年11月3日(明治5年… 木村 秀興(きむら ひでおき、1872年11月3日(明治5年10月3日)- 1941年(昭和16年)4月5日)は、大正から昭和前期の実業家・政治家。衆議院議員。 三重県員弁郡北大社村(稲部村大字北大社、東員村を経て現東員町大字北大社)で、豪農木村誓太郎の長男として生まれる。1897年(明治30年)東京帝国大学文科大学史学科を卒業。1919年(大正8年)家督を相続し、農業を営む。 員弁郡信用購買組合連合会長、三重県信用組合会会長、同県畜産組合連合会副会長、産業組合中央会三重支部理事、員弁郡農会会長などを務め、農事改良、農業振興に尽力した。実業界では、東海電線取締役、三重県農工銀行監査役、北勢電気鉄道(三岐鉄道北勢線)監査役などを務めた。
竹内 友治郎(たけうち ともじろう、明治5年10月2日(18… 竹内 友治郎(たけうち ともじろう、明治5年10月2日(1872年11月2日) - 昭和11年(1936年)11月10日)は、日本の逓信官僚、農商務次官、衆議院議員(立憲政友会)。 山梨県巨摩郡百田村(現在の南アルプス市)出身。東京法学院(現在の中央大学)卒業。逓信省に入省後、高等文官試験に合格。日露戦争時に金沢郵便局長を務めていたが、当時逓信次官であった田健治郎男爵に見出され、独立第13師団(樺太出征軍)郵便部長に抜擢された。その後、樺太庁第二部長、東京逓信局長、朝鮮総督府逓信局長を歴任した。 田健治郎が第8代台湾総督に在任中、1922年(大正11年)秋に台湾行啓が内定すると、警備に万全を期すためとして、田は斎藤実朝鮮総督と交渉の上、竹内を台湾総督府警務局長に転任させた。
富田 幸次郎(とみた こうじろう、1872年11月1日〈明治… 富田 幸次郎(とみた こうじろう、1872年11月1日〈明治5年10月1日〉- 1938年〈昭和13年〉3月23日)は日本の新聞人、政治家、第32代衆議院議長、双川と号した。 1872年(明治5年)、高知県安芸郡川北村(現:安芸市)に生まれた。川北小学校を出て芸陽学舎卒業。安芸地方の教員になる。 1887年(明治20年)代末頃土陽新聞記者になり日露戦争の従軍記者に選ばれたが土陽新聞の内紛(中央派vs郡部派の争い)により退社。 1904年(明治37年)9月同志、岡本方俊、野中楠吉、杉駸三郎、藤戸達吾らと高知新聞を興し、その主筆となった。対向紙土陽新聞と筆を競いつつ次第に声望ほ高めた。 1908年(明治41年)第10回衆議院議員総選挙に故郷の高知県から立候補して初当選。
古河 倍造(ふるかわ ばいぞう、 1872年11月〈明治5年… 古河 倍造(ふるかわ ばいぞう、 1872年11月〈明治5年10月〉 - 没年不詳)は、日本の実業家。東洋燐寸専務取締役、大同燐寸専務取締役のほか、帝國燐寸製造、青島燐寸、日東燐寸(現・日東社)、燧生火柴有限公司の各取締役を務めた。 1872年11月(明治5年10月)、古河宗七の長男として福井県に生まれる。 東京へ出て、築地の立教学校(現・立教大学)で学ぶ。1895年(明治28年)、立教学校(現・立教大学)卒業し、同期に濱口梧洞(ヤマサ醤油社長)がいた。 瀧川辨三(日本のマッチ王、滝川中学校・高等学校創設者)が興した東洋燐寸株式会社の専務取締役や大同燐寸の専務取締役、常務取締役を歴任した。東洋燐寸は、大正期に日本一の年商を誇った総合商社である鈴木商店傘下の帝国燐寸を吸収して、1917年(大正6年)1月に、瀧川辨三が経営する滝川燐寸株式会社が設立した会社で、当時東洋最大のマッチ製造会社といわれ、良燧社系のマッチのラベルを引き継ぎ運営された。
安永 東之助(やすなが とうのすけ、1872年11月 - 1… 安永 東之助(やすなが とうのすけ、1872年11月 - 1905年11月17日)は大陸浪人。日露戦争における特別任務隊満州義軍隊員・掩撃隊第一隊長。
加藤 精神(かとう せいしん、明治5年9月29日〈1872年… 加藤 精神(かとう せいしん、明治5年9月29日〈1872年10月31日〉 - 昭和31年〈1956年〉10月18日)は、真言宗豊山派の学僧、仏教学者、文学博士、大正大学名誉教授。 愛媛県伊予郡北伊予村生まれ。1882年10月、石手寺に入り、翌年得度した。1887年精神と改名し、上京する。1891年、哲学館(現在の東洋大学)を卒業した後、さらに1893年に新義派大学林(後に大正大学に吸収合併)を卒業。奈良の長谷寺にて研鑽を積み、1897年権大僧都に任命される。1908年から豊山大学教授を務め、1918年より豊山大学第2代、1923年より第3代学長。大正大学創立とともに同大教授となり、1927年4月、東洋大学教授となる(仏教科主任)。
工藤 吉次(くどう きちじ、明治5年9月29日(1872年1… 工藤 吉次(くどう きちじ、明治5年9月29日(1872年10月31日) - 昭和11年(1936年)1月9日)は、衆議院議員(立憲政友会)、弁護士。 山形県西村山郡溝延村(現在の河北町)に、工藤浅吉の二男として生まれる。1893年(明治26年)、明治法律学校(現在の明治大学)を卒業し、1897年(明治30年)に判事検事登用試験に合格した。判事となったが、やがて官を辞して、盛岡市で弁護士を開業した。後に盛岡弁護士会長を務めた。 盛岡市会議員を経て、1912年(明治45年)の第11回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、当選回数は3回を数えた。墓所は多磨霊園。
石原 喜久太郎(いしはら きくたろう、1872年10月27日… 石原 喜久太郎(いしはら きくたろう、1872年10月27日(明治5年9月25日)- 1944年(昭和19年)6月12日)は、日本の衛生学者、細菌学者である。 1872年10月27日(明治5年旧暦9月25日)、島根県意宇郡二子村(現在の松江市八束町二子)で石原庄太郎の次男として生まれた。父庄太郎は士族で、警察官を務めていたが裕福ではなかった。 1887年(明治20年)、旧制松江中学校に入学。同期に大谷繞石(正信)がいた。ラフカディオ・ハーンに英語を学び、生徒の中でも大谷とともに特にハーンとの親交が深かった。『知られぬ日本の面影』でハーンは石原を称賛し、また石原との問答を収録している。1892年(明治25年)7月に松江中学校を卒業。
田丸 卓郎(たまる たくろう、明治5年9月25日(1872年… 田丸 卓郎(たまる たくろう、明治5年9月25日(1872年10月27日)/ 明治5年9月29日(1872年10月31日) - 昭和7年(1932年)9月22日)は、日本の物理学者、ローマ字論者。岩手県盛岡市出身。化学者の田丸節郎は弟。 盛岡大清水小路にて旧盛岡藩士・田丸十郎とセンの次男として生まれた。1879年(明治12年)には伯父である中原雅郎一家とともに暮らし、宮城県師範学校附属小学校、東京師範学校附属小学校へ通った。 1895年(明治28年)、(東京)帝国大学理科大学物理学科卒業。第五高等学校教授、京都帝国大学助教授、1901〜1905年ドイツのハイデルベルク大学留学を経て、1900年(明治33年)に東京帝国大学理科大学助教授。
桑原 節次(くわはら せつじ、1872年10月26日 - 1… 桑原 節次(くわはら せつじ、1872年10月26日 - 1954年2月26日)は、日本の地方公務員、作詞家、郷土史家。現在の宮崎県出身。 明治5年9月24日(西暦1872年10月26日)、美々津県那珂郡広瀬村(現在の宮崎市佐土原町)で佐土原藩士族の家に生まれる。東京の共立学校を卒業した後、宮崎へ帰郷し尋常小学校校長を経て宮崎県庁に入庁、西臼杵郡、児湯郡、南那珂郡、北諸県郡の郡長を務める。西臼杵郡長在職時には県立高千穂実業学校の校長を兼務し、同校の後身に当たる宮崎県立高千穂高等学校へ引き継がれた校歌(作曲:陸軍戸山学校)を作詞している。定年退職後は日本赤十字社宮崎県支部主事を経て、日本生命保険宮崎支社に勤めながら財団法人旧佐土原藩教育会の会長の職に在った。
堀 貞(ほり ただし、通称:ほり てい、1872年10月25… 堀 貞(ほり ただし、通称:ほり てい、1872年10月25日〈明治5年9月23日〉 - 1927年〈昭和2年〉7月27日)は、大正時代の経営者。真宗信徒生命保険社長、共保生命保険社長等を歴任した。 九州の柳河藩(福岡県)の下級武士だった堀亨が明治維新により禄を離れた後、その次男(7人兄弟姉妹の4番目)として旧城下町に明治5年(1872年)に生まれた。城下を離れ、教職と片手間の農作業で生計を立てる経済的には厳しい家庭で育ったが、学業成績を評価した後援者もあり、熊本の済々黌に進む。苦学する傍ら剣道にも打ち込み頭角をあらわした。折から熊本に設立された第五高等中学校の補充科に入学し、補習講師などで経済難を凌ぎながら柔剣道などにもいそしみ勉学に励み第五高等学校に改称された年に卒業する。
若宮 卯之助(わかみや ゆうのすけ、明治5年9月23日〈18… 若宮 卯之助(わかみや ゆうのすけ、明治5年9月23日〈1872年10月25日〉 - 昭和13年〈1938年〉4月30日)は、日本の社会学者、新聞記者。国粋主義者、反ユダヤ主義思想家として知られた。慶應義塾大学社会学教授。原理日本社同人、国際政経学会常務理事、新聞「日本」社長兼主筆、中央新聞主筆等を歴任。号は泰山(たいざん)。 富山県西礪波郡埴生村(現・小矢部市)生まれ。 郷里の小学校を約2年で中退して曹洞宗に落飾し、のち上京して蕎麦屋の出前等の職を転々としながら1898年(明治31年)にアメリカ大陸に渡り、約10年間の放浪生活を経たのちに帰国して日本新聞社に入社したという異端の経歴を持つ人物である。
保科 孝一(ほしな こういち、明治5年9月20日(1872年… 保科 孝一(ほしな こういち、明治5年9月20日(1872年10月22日) - 昭和30年(1955年)7月2日)は、日本の国語学者、文部官僚。 1872年、置賜県米沢(現・山形県米沢市)に米沢藩士の保科忠次郎の子として生まれた。第一高等学校を経て、1897年(明治30年)に帝国大学国文科を卒業。卒業後は、上田萬年の創設した国語研究室の助手となった。 1898年(明治31年)に文部省図書課嘱託となり、国語国字問題の研究調査に当たる。以来1947年(昭和22年)まで50年にわたって国語政策に関わった。1901年(明治34年)に国語調査委員会設置にあたり補助委員。1902年(明治35年)に東京帝国大学助教授。
宮崎 三之助(みやざき さんのすけ、1872年10月22日〈… 宮崎 三之助(みやざき さんのすけ、1872年10月22日〈明治5年9月20日〉 – 1941年〈昭和16年〉9月1日)は、日本の裁判官、弁護士、政治家(立憲政友会)。 富山県富山市に出生。1892年(明治25年)、明治法律学校(現在の明治大学)を卒業。判事検事登用試験に合格し、判事として七尾、木更津の各地方裁判所と千葉区裁判所に勤務した。後に弁護士を開業し、本所区会議員を務めた。また第12代本所区会議長も務めた。1911年(明治44年)6月から本所区選出の東京市会議員を3期務めた。 1920年(大正9年)、第14回衆議院議員総選挙に立憲政友会から東京府第6区で立候補し、当選。1921年(大正10年)4月26日付で市議を辞職した。
菅 舜英(すが しゅんえい、明治5年(1872年)10月19… 菅 舜英(すが しゅんえい、明治5年(1872年)10月19日- 昭和31年(1956年)5月27日)は、日本の僧侶、政治活動家。大正・昭和期の社会主義者、後に国家社会主義に転向。 井上円了の東京哲学館、東京神学院で学び、西本願寺北海道開教の僧侶として渡道。本山特命布教使として各地で布教講演を行う。日露戦争で従軍布教使として従軍し、乃木希典陸軍大将に講話を披露。以後、シベリア出兵などで中国、ロシアへ度々渡る。勇払郡安平村(現・安平町)安立寺住職に就いてからは、言論出版に精を出す。 個人雑誌「同志」「浄土」「他力」などを発行し、新聞雑誌への論文投稿も数多い。交友関係は広く、本願寺の改革運動で知り合った赤松克麿と親しく、赤松のすすめで社会民衆党公認で衆議院議員選挙に戦前だけで3度立候補している。
泉川 白水(いずみかわ はくすい、1872年(明治5年)10… 泉川 白水(いずみかわ はくすい、1872年(明治5年)10月18日 - 1965年(昭和40年)2月4日)は秋田県出身の俳人で南画家。短歌や書道にも優れた。本名は良之助。 秋田県平鹿郡横手町(現:横手市)四日町下丁に生まれる。幼時に尾崎行雄邸に預けられた。早稲田大学政治科を中退。郡会議員、郡参事員、町会議員を歴任した。1925年(大正14年)に武者小路実篤らと日本画の「煙雲倶楽部」を結成した。翌1926年には新南画を提唱、東京髙島屋で個展をひらく。総理大臣賞受賞。県の国宝重要美術調査委員でもあった。一方で吉川五明の系統をひく俳人でもあり、湯沢市鷹の湯に、高さ10mの巨大な句碑が建っている。横手市文化功労賞、県の文化功労賞を受けた。
木村 英俊(きむら ひでとし、1872年10月17日(明治5… 木村 英俊(きむら ひでとし、1872年10月17日(明治5年9月15日) - 1940年(昭和15年)10月1日)は、日本の検察官、宮内・台湾総督府官僚。高雄州知事、官選函館市長。 福島県出身。木村宗順の長男として生まれる。1899年7月10日、東京帝国大学法科大学を卒業。同年7月29日、司法官試補となり検事代理として神戸区裁判所詰を命ぜられた。 以後、神戸地方裁判所検事、大阪地方裁判所検事、徳島地方裁判所検事を歴任。1914年7月、宮内省に転じ同事務官に就任。以後、調度寮勤務、大礼準備委員、大礼使事務官、調度部勤務、大礼記録編纂委員会委員、久邇宮附、帝室林野管理局事務官などを務めた。 1923年6月、台湾総督府に転じ参事官に就任し、同年8月13日、同府税関長に任じられた。
山路 魁太郎(やまじ かいたろう、明治5年10月17日 (旧… 山路 魁太郎(やまじ かいたろう、明治5年10月17日 (旧暦)(1872年) - 没年不詳)は、日本、台湾、関東州、満洲の土木技術者。 福岡県士族山路圓の長男として、福岡県糟屋郡箱崎町(現・福岡市東区箱崎)に生まれる。1891年福岡県立尋常中学修猷館、1894年7月第五高等学校工科を経て、1899年3月東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業。 1899年7月兵庫県技師となる。1901年台湾台中県土木課長に転じ、同年11月台湾総督府技師を経て、日露戦争終結直後の1905年9月、関東州民政署技師となる。1906年9月、関東都督府が設置されると関東都督府民政部技師兼土木課長に就任。ここで修猷館、五高、東大の後輩でもある倉塚良夫を推薦して参加させ、以後、山路と倉塚が中心となって、関東州の道路、上下水道の築造が推し進められた。
塚原 政次(つかはら せいじ、1872年10月16日(明治5… 塚原 政次(つかはら せいじ、1872年10月16日(明治5年9月14日) - 1946年(昭和21年)10月24日)は明治時代から昭和初期にかけての日本の教育心理学者。文学博士。 兵庫県出身。1897年(明治30年)、東京帝国大学文科大学哲学科を卒業。1901年(明治34年)からドイツ・アメリカ合衆国に留学し心理学を研究した。帰国後、広島高等師範学校教授、文部省督学官、静岡高等学校長、東京高等学校校長を歴任した。1934年(昭和9年)より広島文理科大学学長・広島高等師範学校校長を務めた。
児玉 亮太郎(こだま りょうたろう、1872年10月15日〈… 児玉 亮太郎(こだま りょうたろう、1872年10月15日〈明治5年9月13日〉 - 1921年〈大正10年〉10月25日)は、日本の政治家。衆議院議員(立憲政友会)などを歴任。 和歌山県那賀郡粉河村(現在の紀の川市)に、後の衆議院議員児玉仲児の長男として生まれる。同志社卒業後、ミシガン大学に留学し、哲学博士の称号を受けた。帰国後、大阪毎日新聞記者、京都帝国大学法科大学経済学講師、同志社大学講師、北海道拓殖銀行営業部長、富士製紙主事などを歴任した。 原敬の知遇を得、1900年(明治33年)に原が逓信省大臣に就任すると、秘書官に任命された。1912年(明治45年)、第11回衆議院議員総選挙に出馬し当選。
田中 義能(たなか よしとう、1872年10月14日(明治5… 田中 義能(たなか よしとう、1872年10月14日(明治5年9月12日) - 1946年(昭和21年)3月4日)は、神道学者。 山口県出身。1903年東京帝国大学文科大学哲学科卒。東洋大学教授、第五高等学校教授、國學院大學教授を歴任。1920年東京帝国大学文学部助教授、神道学講座を担当。1933年定年退官、帝国女子専門学校校長。のちの相模女子大学の設立に努めるが急死。神道学会、神道青年連盟協会を設立。女婿は国文学者の次田真幸。
藤井 健治郎(ふじい けんじろう、1872年10月12日(明… 藤井 健治郎(ふじい けんじろう、1872年10月12日(明治5年9月10日) - 1931年(昭和6年)1月15日)は、日本の倫理学者。 1872年、山形県東田川郡狩川村出身。旧姓は石川。号は館山。東京帝国大学を卒業。卒業後は早稲田大学教授を経て、1913年より京都帝国大学教授となった。丁酉倫理会会員。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
赤塚 正助(あかつか しょうすけ、1872年10月8日(明治… 赤塚 正助(あかつか しょうすけ、1872年10月8日(明治5年9月6日) - 1942年(昭和17年)5月6日)は、明治から昭和前期の外交官、衆議院議員(立憲民政党→立憲政友会)。 鹿児島県姶良郡蒲生村(現在の姶良市)に旧薩摩藩士・赤塚源太郎の三男として生まれた。1892年(明治25年)7月、鹿児島高等中学造士館予科卒業、1894年(明治27年)7月、鹿児島高等中学造士館本科卒業。1897年(明治30年)、東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業し、外交官及領事官試験に合格した。1898年(明治31年)外務省に入省し、廈門領事、釜山領事、マニラ領事、外務省通商局第一課長などを歴任し、1912年(明治45年)に広東総領事に就任した。
荒木 十畝(あらき じっぽ、1872年10月5日(明治5年9… 荒木 十畝(あらき じっぽ、1872年10月5日(明治5年9月3日) - 1944年(昭和19年)9月11日)は、日本画家。長崎県大村生まれ。本名・朝長悌二郎。
池田 政時(いけだ まさとき、1872年10月1日〈明治5年… 池田 政時(いけだ まさとき、1872年10月1日〈明治5年8月29日〉 - 1940年〈昭和15年〉7月9日)は、明治から昭和期の政治家、華族。貴族院子爵議員。位階勲等は正三位勲二等。 元岡山藩主・池田慶政の四男として生まれる。その後、旧備中生坂藩主・池田政礼の養子となる。養父の死去に伴い、1907年(明治40年)10月25日に子爵を襲爵した。 1887年(明治20年)アメリカ合衆国に留学し、その後、東京帝国大学法科大学を修了。1903年(明治35年)友隣生命保険に入社し、その後、十五銀行(現・みずほ銀行、三井住友銀行)などで勤めた。 1911年(明治44年)7月10日、貴族院子爵議員に選出され、研究会に所属して活動し、死去するまで5期在任した。
尾上 作兵衛(おのえ さくべえ、旧姓・池内、幼名・賢次、18… 尾上 作兵衛(おのえ さくべえ、旧姓・池内、幼名・賢次、1872年10月1日〈明治5年8月29日〉 - 没年不明)は、日本の政治家、実業家、資産家。姫路市会議員。国栄機械製作所創業者。族籍は兵庫県平民。 グローリー実質創業者尾上壽作の父。グローリー会長尾上壽男の祖父。 兵庫県飾麿郡安室村字新在家(現・姫路市)出身。兵庫県平民・池内宗太郎の二男。姫路の商家、尾上作平の養子となり、1901年、家督を相続した。 1918年3月、姫路市延末にて、作兵衛は個人経営で電球製造機の修理・販売を開始した。また、山陽醤油社長、日本化学漆器代表取締役、三十八銀行、姫路水力電気、姫路銀行、姫路莫大小、姫路倉庫各取締役など各種の会社重役を務めた。
松下 専次郎(松下 専治郎、まつした せんじろう、1872年… 松下 専次郎(松下 専治郎、まつした せんじろう、1872年〈明治5年〉10月 - 没年不明)は、日本の実業家、地主。族籍は鳥取県平民。 鳥取県平民・松下角作の二男。廃家・松下氏を再興する。質屋、金銭貸付業を営む。岡田汽船監査役・同取締役、美保関電気監査役などをつとめる。 住所は鳥取県西伯郡境町松ヶ枝町(現境港市松ヶ枝町)。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
磯村 年(いそむら とし、明治5年(1872年)9月30日)… 磯村 年(いそむら とし、明治5年(1872年)9月30日) - 1961年(昭和36年)9月12日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍大将。旧姓・平田。 滋賀県士族・平田繁の二男として生まれる。父は加賀大聖寺藩士で、藩主の命により同士石川専輔と共に神戸に、神戸川崎造船所の前身の造船所を開き、藩の造船所奉行となっている。1885年(明治18年)11月に、同藩士で陸軍中佐・磯村惟亮の養嗣子となる。東京府尋常中学、陸軍幼年学校を経て、1893年(明治26年)7月に陸軍士官学校(4期)卒業。翌年3月、砲兵少尉に任官し野戦砲兵第3連隊付となる。1900年(明治33年)12月、陸軍大学校(14期)卒業。 日露戦争時に大本営陸軍部参謀として勤務し、第一次世界大戦における通称・青島攻略戦と呼ばれるドイツの要衝・青島へ独立第18師団高級参謀として出撃。
佐藤 恒丸(さとう つねまる、明治5年8月28日(1872年… 佐藤 恒丸(さとう つねまる、明治5年8月28日(1872年9月30日) - 昭和29年(1954年)4月16日)は、日本の医師。陸軍軍医総監(中将相当官)。宮中顧問官。医学博士。 愛知県出身。1896年(明治29年)、帝国大学医科大学を卒業。翌年、陸軍三等軍医となり、1922年(大正11年)に軍医総監に至った。1902年(明治35年)9月、陸軍一等軍医で陸軍軍医学校教官の時、福島安正陸軍少将が英領インドのアンバラ(Ambala)で病気にかかっていたので、英領インドまで差し遣わされた。その後、京城衛戍病院院長、朝鮮駐箚軍軍医部長などを歴任した。1907年(明治40年)からドイツに留学し、1911年(明治44年)に医学博士号を受けた。
秦 豊助(はた とよすけ、1872年9月29日〈明治5年8月… 秦 豊助(はた とよすけ、1872年9月29日〈明治5年8月27日〉- 1933年〈昭和8年〉2月4日)は、日本の内務官僚、政治家。衆議院議員、拓務大臣。 回船問屋・東京府会副議長、秦源祐の長男として東京築地で生まれる。東京府立一中、日本中学校、第一高等中学校を経て、1896年(明治29年)7月、帝国大学法科大学政治学科を卒業。内務属となり内務省参事官室兼県治局勤務となる。同年11月、文官高等試験に合格。 1897年(明治30年)5月、福井県参事官に就任し、愛媛県参事官、千葉県参事官、神奈川県参事官・勧業課長を歴任。1905年(明治38年)4月から翌年5月まで欧州に出張。帰国後、1906年(明治39年)7月、長崎県事務官・第一部長兼第三部長となり、さらに同県内務部長を務めた。
田中 千里(たなか ちさと / せんり、1872年9月22日… 田中 千里(たなか ちさと / せんり、1872年9月22日(明治5年8月20日) - 1938年(昭和13年)2月11日)は、日本の内務・警察官僚、実業家。政友会系官選県知事。 石川県出身。田中信吾の長男として生まれる。第五高等学校を卒業。1906年、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。同年12月、内務省に入省し茨城県属となる。 以後、茨城県警視・保安課長兼衛生課長、同庶務課長、青森県事務官・教育社寺兵事課長、長野県事務官・警察部長、広島県警察部長、神奈川県警察部長、千葉県内務部長、大阪府警察部長などを歴任。 1921年5月、大分県知事に就任。
石川 安次郎(いしかわ やすじろう、1872年9月19日〈明… 石川 安次郎(いしかわ やすじろう、1872年9月19日〈明治5年8月17日〉- 1925年〈大正14年〉11月12日)は、明治・大正期の日本のジャーナリスト、代議士。号は半山(はんざん)で、通称石川半山。他の筆名に呑海、城北隠士。 岡山藩士・石川彦衛の次男。岡山市一番町生まれ。慶應義塾を卒業後、ただちに『庚寅新誌』の記者となる。 次いで『信濃日報』主筆、『中央新聞』経済部長、『東京毎日新聞』主筆、次いで『報知新聞』に引き抜かれて北京に留まること5年、記者として北清事変(義和団の乱)に従軍し、中支那の外交機密を紙面で暴露して世間を驚かせた。次いで特派員としてポーツマス会議を取材。報知新聞主筆を経て一時『東京朝日新聞』に在籍したが、最終的に『萬朝報』の主筆として論陣を張り、「政界ゴシップの天才」といわれるようになる。
森田 茂(もりた しげる、1872年9月19日〈明治5年8月… 森田 茂(もりた しげる、1872年9月19日〈明治5年8月17日〉- 1932年〈昭和7年〉11月30日)は、日本の政治家。第24代衆議院議長で、京都市会議長や京都市長も務めた。 高知県香美郡佐岡村佐野(現:香美市)に生まれる。1893年(明治26年)明治法律学校に入学。在学中に弁護士試験に合格し、明治法律学校を中退する。 1899年(明治32年)に高知県議会議員に当選する。 1901年(明治34年)、京都地方裁判所検事に就任する。翌年退職し弁護士業を開業した。 1911年(明治44年)、京都市会議員に当選し、のちに市会議長をつとめる。1914年(大正3年)には尾崎行雄と政友会を去り中正会に属し、京都市に中正俱楽部を組織する。
松尾 伝蔵(まつお でんぞう、1872年9月18日(明治5年… 松尾 伝蔵(まつお でんぞう、1872年9月18日(明治5年8月16日) - 1936年(昭和11年)2月26日)は、日本の陸軍軍人。陸士6期。最終階級は陸軍歩兵大佐。位階および勲等は従四位・勲三等。 福井藩の槍術師範であった松尾新太郎の長男として福井県福井市(現)に生まれた。福井市旭小学校(現)を経て、福井中学(現・福井県立藤島高等学校)を卒業し、1895年(明治28年)2月に陸軍士官学校(第6期)を卒業。同年5月に陸軍歩兵少尉に任官し金沢の歩兵第7連隊附となった。 1897年(明治30年)9月に台湾守備歩兵第3連隊付、さらに歩兵第35連隊付を経て、1900年(明治33年)3月から7月まで陸軍戸山学校で学んだ。
遠藤 源六(えんどう げんろく、1872年9月17日(明治5… 遠藤 源六(えんどう げんろく、1872年9月17日(明治5年8月15日)- 1971年(昭和46年)5月13日)は、日本の海軍文官、法制官僚、法学者。行政裁判所長官、枢密顧問官、明治大学教授、法学博士。号・虚舟。 宮城県栗原郡、後の白幡村(現栗原市)で、遠藤佐源治の三男として生まれる。第一高等学校を経て、1900年7月、東京帝国大学法科大学法律学科(仏法)を卒業し同大学院に進む。 1900年8月、海軍省に入省し主理試補・東京軍法会議附に就任。同年11月、文官高等試験に合格。以後、海軍省参事官、兼同司法局、兼海軍大学校教官、大本営附、佐世保捕獲審検所評定官、兼海軍経理学校教官などを歴任。この間、明治大学講師を務め、1908年1月15日に法学博士号を取得した。
宮島 幹之助(みやじま みきのすけ(かんのすけとも読む)、明… 宮島 幹之助(みやじま みきのすけ(かんのすけとも読む)、明治5年8月12日(1872年9月14日) - 昭和19年(1944年)12月11日)は、日本の寄生虫学者。 山形県米沢出身。父は宮島家久。1893年、宮島酉蔵の養子となった。第一高等中学校に入学したが、ドイツ語教師が昆虫学者のアドルフ・フリッチェであったことから、志望を医科から理科に転科した。第一高等学校を経て、1898年東京帝国大学理科大学動物学科卒(理学士)。大学院に入学。日本産無脊椎動物、特に腔腸動物を専攻した。1900年、尖閣諸島で信天翁(アホウドリ)を研究。しかし実際の目的はマラリアの研究で、東京への帰途、立ち寄った京都帝国大学医学部衛生学教室に入局を決めてしまった。
青井 鉞男(あおい えつお、明治5年8月10日〈1872年9… 青井 鉞男(あおい えつお、明治5年8月10日〈1872年9月12日〉 - 1937年〈昭和12年〉9月17日)は、日本のアマチュア野球選手(投手)で、学生野球の指導者。 日本の野球史の草分け期に大きな功績を残し、また後進者の育成に大きく寄与したことが讃えられ、1959年(昭和34年)の野球殿堂創設時に初めて特別表彰者として殿堂入りした。 栃木県(当時は宇都宮県)河内郡宇都宮市出身。父は元宇都宮藩藩士の青井雅造。栃木県中学校(その後の宇都宮中学校、現在の栃木県立宇都宮高等学校)を卒業後、1892年(明治25年)に旧制一高へ進学。一高ベースボール部で主戦投手として活躍した。「千本素振り」は鉞男の練習方法の真骨頂であった。
岡村 勇二(おかむら ゆうじ、1872年〈明治5年〉9月11… 岡村 勇二(おかむら ゆうじ、1872年〈明治5年〉9月11日 - 没年不明)は、日本の地方官吏。 明治から大正にかけて、山口県の地方官吏として活躍し、熊毛郡や阿武郡、都濃郡の郡長を務めた。阿武郡長在任時には長門峡の発見・開発に尽力したことで知られる。 1872年〈明治5年〉9月11日、山口県吉敷郡大内村(現在の山口市)で、森重勇雄の四男として生まれる。のちに岡村家に養子に入る。 1898年(明治31年)に山口県属となる。庶務課、山口県教育会などの業務を担当したのち、1913年(大正2年)5月に熊毛郡の郡長に着任。1915年(大正4年)7月に阿武郡の郡長に転任する。 阿武郡長時代の1918年(大正7年)9月には、当時郡制の廃止が議論されていたことから、阿武郡の歴史をまとめた「阿武郡志」の編纂を計画。
木口 小平(きぐち こへい、1872年9月10日(明治5年8… 木口 小平(きぐち こへい、1872年9月10日(明治5年8月8日) - 1894年(明治27年)7月29日)は、日清戦争で戦死した大日本帝国陸軍のラッパ手。 戦死しても口からラッパを離さなかったとされた。そのエピソードは1902年(明治35年)から1945年(昭和20年)まで小学校の修身の教科書に掲載され、戦前戦中の日本人においては広く知られた戦争美談であった。 小平は現在の岡山県高梁市成羽の農業・木口久太の長男として生まれ小学校に進学するが、1884年(明治17年)12月に中退。その後小泉鉱山で鉱山夫として働く。1892年(明治25年)12月から広島歩兵第21連隊に入営し歩兵二等卒となり、1894年(明治27年)6月に日清戦争に出征する。
江藤 哲蔵(えとう てつぞう、明治5年8月3日(1872年9… 江藤 哲蔵(えとう てつぞう、明治5年8月3日(1872年9月5日) - 大正8年(1919年)6月24日)は、衆議院議員(立憲政友会)。 熊本県合志郡、のちの菊池郡陣内村(現在の大津町)に江藤禎治の長男として生まれる。14歳で家督を相続する。神田共立学校で英学を学んだ後、1899年(明治32年)に東京専門学校(現在の早稲田大学)を卒業した。 1904年(明治37年)、第9回衆議院議員総選挙に出馬し、当選した。 1908年(明治41年)から翌年にかけて欧米諸国を視察。 1912年、第11回衆議院議員総選挙で再選。第12回・第13回と連続当選を果たした。その間、第1次山本内閣では逓信省勅任参事官に任命された。
鵜澤 總明(うざわ ふさあき、1872年9月4日(明治5年8… 鵜澤 總明(うざわ ふさあき、1872年9月4日(明治5年8月2日)- 1955年(昭和30年)10月21日)は、日本の弁護士、政治家。学位は法学博士。新字体で鵜沢 総明(うざわ ふさあき)とも表記される。旧名・惣一。 第一東京弁護士会会長、衆議院議員、貴族院議員、大東文化学院総長、明治大学総長、明治大学理事長、国際基督教大学評議員会議長などを歴任した。 青山学院大学学長を務めた経営学者の鵜澤昌和は次男。 1872年、千葉県長柄郡上太田村(長生郡新治村、本納町を経て現在の茂原市上太田)にて、富農、鵜沢巳之松の長男・惣一として誕生する。1886年に地元の太田小学校高等科を卒業。間もなく、校長鶴岡清治郎との縁故もあって、最年少の教員として同校に就職する。
岡 鬼太郎(おか おにたろう、明治5年8月1日(1872年9… 岡 鬼太郎(おか おにたろう、明治5年8月1日(1872年9月3日) - 1943年(昭和18年)10月29日)は、日本の劇評家、歌舞伎作家(脚本家)、演出家、著述家。本名嘉太郎(よしたろう)。号は鬼吟(きぎん)。 東京生まれで、父岡嘉知は旧佐賀藩士。東京府尋常中学を経て、慶應義塾大学卒業。1893年に時事新報に入社、1895年報知新聞に移り、鬼太郎の名で厳しい劇評(歌舞伎)を書く。岡本綺堂と親しく、その影響で花柳小説や戯曲も書いた。ほか二六新報などの新聞記者もつとめた。 1908年記者をやめ、永井荷風とともに二代目市川左團次の演劇革新運動に加わる。かたわらで、戯曲の創作、辛口の批評で人気を集め『鬼言冗語』などの歌舞伎関係の批評随筆を多く残した。
黒川 幹太郎(くろかわ かんたろう、1872年9月1日(明治… 黒川 幹太郎(くろかわ かんたろう、1872年9月1日(明治5年7月29日)- 1930年(昭和5年)10月27日)は、明治から昭和期の農林技官、政治家、華族。貴族院男爵議員。 陸軍省出仕・黒川通軌の長男として生まれる。父の死去に伴い、1903年(明治36年)3月28日に男爵を襲爵した。 1899年(明治32年)東京帝国大学農科大学林学科実科を卒業した。1902年(明治35年)営林技手に就任。その後、帝室林野管理局技師、同東京支局東京出張所長などを務めた。 1918年(大正7年)7月10日、貴族院男爵議員に選出され、公正会に所属して活動し死去するまで2期在任した。
山室 軍平(やまむろ ぐんぺい、1872年9月1日(明治5年… 山室 軍平(やまむろ ぐんぺい、1872年9月1日(明治5年7月29日。戸籍上は8月20日) - 1940年(昭和15年)3月13日)は、日本の宗教家、説教者。日本人初の救世軍士官(牧師)で、日本人初の日本軍国司令官(日本軍国初代司令官ではない)。最終階級は中将。岡山県哲多郡則安村(現在の新見市)生まれ。石井十次、アリス・ペティ・アダムス、留岡幸助とともに「岡山四聖人」と呼ばれる。 哲多郡則安村(新見市哲多町)で農業を営む山室佐八、登毛(とも)の三男として生まれた。実家が貧しく、明治14(1881年)年には賀陽郡上足守村の親戚筋の杉本家の養子に出された。漢学者の松浦黙の塾で儒学を学んだ。 14歳で上京して築地活版製造所の職工となり、東京専門学校や英吉利法律学校の講義録を入手して独学する。
川原林 順治郎(かわらばやし じゅんじろう、1872年(明治… 川原林 順治郎(かわらばやし じゅんじろう、1872年(明治5年)9月 - 1945年(昭和20年)4月)は、日本の実業家。元明治生命保険会長。 滋賀県出身。父は滋賀県議の川原林徳明。妻は御師蔵田国治元豊川炭鉱馬車鉄道社長の五女。1896年高等商業学校(現一橋大学)卒業、日本鉄道入社。1899年明治生命保険入社。明治生命保険仙台支店長心得、明治生命保険名古屋支店長、明治生命保険京都支店長、明治生命保険大阪支店長を歴任し、1925年、明治生命保険取締役に昇格。1927年全国支店出張所を東西に分けたことに伴い、西部監督となる。1935年常務取締役制新設により、明治生命保険常務取締役に昇格。1936年からは明治生命保険専務取締役を務めた。
安田 伊左衛門(やすだ いざえもん、安田 伊左衞門、1872… 安田 伊左衛門(やすだ いざえもん、安田 伊左衞門、1872年8月31日(明治5年7月28日) - 1958年(昭和33年)5月18日)は、日本の陸軍軍人、政治家。位階勲等は正五位勲三等旭日中綬章。軍人としての最終階級は陸軍騎兵大尉。衆議院議員ののち貴族院議員。他に日本競馬会理事長、日本中央競馬会理事長を務める。 安田は「日本競馬の父」「日本ダービーの生みの親」と呼ばれる。 陸軍騎兵大尉として中央馬廠戸山厩舎長であった1904年、競馬会設立の議に加わる。 1908年に馬券の発売が禁止されると、馬券発売を合法化すべく旧競馬法の制定に奔走した。 1936年の競馬倶楽部統合、日本競馬会創設に関与。同会初代理事長松平頼寿の退任を受け、第2代理事長を勤めた。
大庭 柯公(おおば かこう、1872年8月30日〈明治5年7… 大庭 柯公(おおば かこう、1872年8月30日〈明治5年7月27日〉 - 没年不詳)は、日本の新聞記者・随筆家。本名は景秋()。山口県長府(現・下関市)出身。 白石正一郎の弟である大庭傳七(景明)の三男として生まれる。傳七は長府大年寄大庭家の養子で長府藩士であったが、明治維新後、太政官に出仕したため、養父に従って上京した。しかし、傳七は1884年に死去。大庭は小学校卒業後は太政官の給仕などの仕事をしながら夜学で英語やロシア語を学ぶ。これらの学習を通じて二葉亭四迷と交際を持った。 1896年にウラジオストクに渡航し、商館で通訳を務めた。帰国後、第11師団のロシア語教官や陸軍参謀本部の通訳官を歴任する。
杉村 楚人冠(すぎむら そじんかん、明治5年7月25日〈18… 杉村 楚人冠(すぎむら そじんかん、明治5年7月25日〈1872年8月28日〉 - 1945年〈昭和20年〉10月3日)は、日本の新聞記者、随筆家、俳人。本名は廣太郎、広太郎(こうたろう)。別号は縦横、紀伊縦横生、四角八面生、涙骨など多数。朝日新聞社本社記事審査部長、取締役、監査役。 明治5年7月25日(1872年8月28日)、和歌山県和歌山市にて出生。父は和歌山藩士の杉村庄太郎。3歳の時に父と死別し、以来、母の手で育てられる。小学校を終え、1883年(明治16年)に11歳で和歌山の自修学校(当時統合されて徳修学校になっていたと思われる)に入学し、英・漢・数学を学ぶ。自修学校は旧藩主の徳川茂承の財政援助を受けて運営される私立の中等学校で、慶應義塾の出身者が英語教師を務めた。
大谷 幸四郎(おおたに こうしろう、1872年8月28日(明… 大谷 幸四郎(おおたに こうしろう、1872年8月28日(明治5年7月25日) - 1937年(昭和12年)6月24日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 高知県安芸郡土居村(現・安芸市)出身。大谷猪太郎の二男として生まれ、大谷彦左衛門の養子となる。高知県尋常中学海南学校を経て、1896年(明治29年)12月、海軍兵学校(23期)を卒業し、1898年(明治31年)1月、少尉任官。日露戦争には、第16艇隊艇長、第21艇隊艇長、第19艇隊艇長として参戦した。 以後、「雷」駆逐艦長、「如月」駆逐艦長、佐世保鎮守府副官、「千早」水雷長を歴任。1906年(明治39年)9月、海軍少佐に昇進。同年11月、第5艇隊司令兼7艇隊司令に発令され、「出雲」水雷長、第2艇隊司令、海軍教育本部出仕、「鞍馬」水雷長などを務めた。