岡崎 平内(おかざき へいない、1848年4月3日(嘉永元年… 岡崎 平内(おかざき へいない、1848年4月3日(嘉永元年2月28日)- 1917年(大正6年)8月12日)は、日本の政治家。7代目平内。衆議院議員。初代鳥取県会議長。初代鳥取市長。 明治の鳥取士族、政治界の指導者として、明治の100年式典の時、県政功労者となった。幼名は兵太郎、長じて可観と改め、後1880年(明治13年)9月父の名を継ぎ平内と改める。 因幡国邑美郡馬場町(現在の鳥取県鳥取市馬場町)、鳥取藩御用係500石の藩士の家に生まれた。平内の嫡男。明治元年に若くして家督を継ぎ、また鳥取藩大砲隊長となった。 1874年(明治7年)「愛国社」に入り自由民権運動に参加したが、一転して1877年(明治10年)に陸軍省に入省。
日比谷 平左衛門(ひびや へいざえもん、弘化5年2月21日(… 日比谷 平左衛門(ひびや へいざえもん、弘化5年2月21日(1848年3月25日) - 大正10年(1921年)1月9日)は、明治期の紡績実業家。東京富士瓦斯紡績や日清紡績など紡績業に深く関わり、東京商業会議所副会頭を務めた。鐘淵紡績、東京毛織物各社長。 越後国蒲原郡裏館村(現・三条市)の旅宿営業者・大島栄造の3男として生まれる。万延元年(1860年)より江戸日本橋堀留の綿糸棉花問屋松本屋・斎藤弥助のもとで奉公し、のち日比谷家の養子となる。明治11年(1878年)に独立して浅草区茅町に綿糸染糸店を開くが、松本屋廃業によりそれを受け継ぎ、事務所を堀留に移して 綿糸・綿花を扱う卸商・日比谷商店を設立。
木原 章六(きはら しょうろく、嘉永元年2月17日(1848… 木原 章六(きはら しょうろく、嘉永元年2月17日(1848年3月21日) - 1889年(明治22年)9月30日)は明治時代の日本の裁判官。諱は祐之。従五位勲六等。旧広島藩士。兵庫裁判所検事、東京控訴裁判所検事、宮城控訴裁判所検事長、大阪控訴裁判所検事、函館控訴裁判所判事、東京重罪裁判所長、東京控訴院評定官等を歴任。
金田一 勝定(きんだいち かつさだ、1848年3月16日(弘… 金田一 勝定(きんだいち かつさだ、1848年3月16日(弘化5年2月12日) - 1920年(大正9年)12月31日)は、日本の実業家、和算家。 陸奥国岩手郡仁王村四ツ家町(現・岩手県盛岡市本町通二丁目)にて豪商「大豆屋」金田一伊門とリセの長男として生まれる。金田一京助は勝定の妹やすの子。金田一國士の養父。 1868年(慶応4年)、戊辰戦争鹿角口の戦いに従軍して足を負傷した。明治から大正初期の岩手県内実業界で盛岡銀行頭取、盛岡電気株式会社、岩手軽便鉄道株式会社など多くの企業を創立して社長となり、金田一財閥と呼ばれるまでに成長させ、県会議員、盛岡市会議員を務めた。勝定は幼少より学問を好み、盛岡和算に通じた最後の人で、和算書の収集に努力し、多大な費用をかけて和算家の阿部家、鬼柳家の蔵書を購入し、1912年(明治45年)、松原正固の蔵書とともに東北大学に寄贈した。
小野田 元熈(おのだ もとひろ、1848年3月15日(弘化5… 小野田 元熈(おのだ もとひろ、1848年3月15日(弘化5年2月11日) - 1919年(大正8年)6月12日)は、幕末の館林藩士、明治から大正期の警察・内務官僚、政治家。官選県知事、貴族院議員、錦鶏間祗候。旧姓・藤野、幼名・貞治。 館林藩下士・藤野逸平の二男として生まれ、同藩の小野田安兵衛の養子となる。館林藩では、徒士格大納戸役、家老付日記役心得、藩内監察、少属などを歴任。 明治4年11月(1871年末頃)、東京府取締組羅卒小頭となり、さらに司法省少警部となり1873年2月に退官。1874年1月、警視庁少警部として再度、警察官となる。1877年2月、内務省警視局三等大警部兼陸軍歩兵中尉として、別働第3旅団第1大隊副官として西南戦争に従軍した。
吉村 寅太郎(よしむら とらたろう、弘化5年2月5日(184… 吉村 寅太郎(よしむら とらたろう、弘化5年2月5日(1848年3月9日) - 大正6年(1917年)1月14日)は、日本の教育者。 但馬国豊岡(兵庫県豊岡市)出身。1869年(明治2年)から4年間慶應義塾で英学を学んだ。1873年(明治6年)、文部省に出仕し、広島外国語学校校長、広島英語学校長、広島県英学校長、広島県師範学校校長、広島県医学校長、広島県博物館長などを務めた。1879年(明治12年)からは文部一等属、文部省御用掛、同権少書記官、太政官御用掛、文部省視学官、同参事官を歴任。1887年(明治20年)、第二高等中学校(のち第二高等学校)校長に就任した。1897年(明治30年)に退官した後は、成女学校を創設し、校長に就任した。
園田 孝吉(そのだ こうきち、弘化5年1月19日(1848年… 園田 孝吉(そのだ こうきち、弘化5年1月19日(1848年2月23日) - 大正12年(1923年)9月1日)は、日本の外交官、実業家。男爵。 1848年、薩摩藩士・宮内健吉の長男として大隅国太良村(現・鹿児島県伊佐市)に生まれる。藩内のお家騒動(平佐崩れ)により父親が処罰を受けたため、同藩士・園田沢右衛門の養子となる。鹿児島の洋学校「開成所」で、有島武らとともに英学を学ぶ。維新後は大学南校に学んだ後、1871年10月に外務省に出仕。翌1874年から約15年もの間、外交官としてイギリスに派遣された。1879年には一旦帰国し、卿補付書記心得として井上馨外務大臣の秘書となり、井上の紹介で富永銈子と結婚。
福井 直吉(ふくい なおきち、1848年2月19日(弘化5年… 福井 直吉(ふくい なおきち、1848年2月19日(弘化5年1月15日)- 1917年(大正6年)11月13日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 相模国大住郡小嶺村(現神奈川県平塚市)で、素封家・名主、福井源兵衛の長男として生まれる。宮崎拡堂の成器塾で漢学を修めた。 小嶺村総代人、神奈川県第二十二大区議員、神奈川県会議員、同常置委員、同議長などを務め、板垣退助に共鳴し自由民権運動に加わり民選議院設立運動に尽力した。1892年2月、第2回衆議院議員総選挙に神奈川県第六区から出馬して当選。さらに第3回総選挙でも再選され、衆議院議員を連続二期務めた。議員在任中、治水対策に取り組んだ。 衆議院議員当選後に実業界に入り、神奈川県農工銀行頭取、江ノ島電気鉄道取締役、東亜火災保険監査役などを務めた。
野波 令蔵(野波 令藏、のなみ れいぞう、1848年2月17… 野波 令蔵(野波 令藏、のなみ れいぞう、1848年2月17日〈嘉永元年1月13日〉 - 1917年〈大正6年〉12月)は、日本の醸造家、実業家、政治家、地主。鳥取県会議員(憲政党系中立)。野波商店。幼名は安太郎。族籍は鳥取県平民。 鳥取県西伯郡米子町法勝寺町(現・米子市法勝寺町)の人。常重の長男。生家は紺屋業を営む。幼時、村夫子に従い、漢学句読を受け、算数習字を修学する。家督を継承し、令蔵と改め、7代の主となる。1872年以来公職公事に就いたが、1872年に法勝寺町肆長を申付けられたのを初めとする。 1886年に紺屋業を廃止し、醤油醸造業を開始する。醤油醸造業を営み、また米子米綿取引所監査役、西伯家畜会社社長、鳥取県会議員・同副議長、米子町会議員、学務委員、米子銀行監査役、米子町名誉助役などをつとめる。
肥塚 龍(こいづか りゅう、嘉永元年1月10日(1848年2… 肥塚 龍(こいづか りゅう、嘉永元年1月10日(1848年2月14日) - 大正9年(1920年)12月3日)は、東京府知事、新聞記者の民権活動家。 自由民権運動に関し、大胆で新しい言論活動で注目を集めていた。 中島村(現・たつの市)の農家に生まれるが、武士たちが農民・町人を罵倒する現実に疑問を感じ、僧侶として身を立てるため14歳で網干にある大覚寺に入り、小坊主になり山空和尚の指導を受ける。後に京都に行き、賀茂神社の宮司の山本硯儒、高倉西念寺の諦導和尚に師事するが、明治維新の社会変動を目の当たりにする中で、東京に出ることを決意する。 東京曙新聞を経て横浜毎日新聞で急進的な民権論を訴え言論活動で注目を集めると、国会開設に伴い代議士を志す。
熱海 孫十郎(あずみ / あたみ まごじゅうろう、1848年… 熱海 孫十郎(あずみ / あたみ まごじゅうろう、1848年2月13日(嘉永元年1月12日)- 1924年(大正13年)3月19日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員(1期)。貴族院多額納税者議員。 陸奥国栗原郡文字村(栗駒町を経て現:栗原市)に千葉忠蔵の子として生まれる。のち、一迫の熱海多藏の養子になる。1879年宮城県会が発足するとその議員になる。その後、栗原、志田、玉造の各郡長となり、1890年の第1回衆議院議員総選挙に宮城県第4区(当時)から立候補して当選した。1892年の第2回衆議院議員総選挙で落選。1897年9月29日に貴族院議員に就任し、1900年8月29日まで在職した。 この他七十七銀行頭取や宮城県農会副会長なども歴任した。
青山 庄兵衛(あおやま しょうべえ、1848年2月6日(嘉永… 青山 庄兵衛(あおやま しょうべえ、1848年2月6日(嘉永元年1月2日)- 1912年(明治45年)6月4日)は、明治時代の政治家、銀行家。自由民権運動家。衆議院議員(1期)。幼名は伝太郎。 先代青山庄兵衛の長男として越前国足羽郡東郷村(福井県足羽郡東郷二ヶ村、東郷村、足羽村、足羽町を経て現福井市東郷二ケ町)に生まれる。14、5歳にして儒学を志す。1873年(明治6年)戸長に就任し、在任中に発生した足羽川大洪水では飢餓に苦しむ農民を救うなど復旧に尽力した。1879年(明治12年)県制発布とともに石川県会議員に当選し、のち福井県会議員、足羽郡会議員と歴任した。1882年(明治15年)に杉田定一が北陸自由新聞を発刊すると100余円に及ぶ私財を投じ、1889年(明治22年)には南越倶楽部の代表となり自由民権を唱えた。
末弘 直方(すえひろ なおかた、1848年1月30日(弘化4… 末弘 直方(すえひろ なおかた、1848年1月30日(弘化4年12月25日) - 1920年(大正9年)1月16日)は、幕末の薩摩藩士、明治期の内務・警察官僚。官選県知事、函館区長、小倉市長、福岡県八幡市長。 薩摩国薩摩郡平佐郷平佐村(現薩摩川内市平佐町)で、薩摩藩士・末弘直温の三男として生まれる。藩校造士館で学んだ。 慶応3年9月10日(1867年10月7日)、薩摩藩組頭に就任。その後、役人、半隊長を務めた。明治4年8月(1871年)、御親兵の補充として上京し第三大隊一番小隊に編入され、明治5年8月10日(1872年9月12日)、伍長に任官。1873年10月、病のため除隊して帰郷した。同年11月、鹿児島県に奉職し、二等教授第二十八郷校掛となる。
渡辺 洪基(わたなべ ひろもと / こうき、1848年1月2… 渡辺 洪基(わたなべ ひろもと / こうき、1848年1月28日〈弘化4年12月23日〉- 1901年〈明治34年〉5月24日)は、江戸時代末期(幕末)から明治時代の日本の官僚、政治家。帝国大学初代総長。幼名は静寿、のち孝一郎。号は浩堂、旦堂。 越前国南条郡府中(のち福井県南条郡武生町、現越前市)にて蘭方医渡辺静庵の長男として生まれる。母の名は蔦埜(つたの)。 府中の立教館、福井藩医学校済世館で学んだ後、下総国佐倉の佐藤舜海の下で医学を修め、江戸で開成所(箕作麟祥)、福沢諭吉の蘭学・英学塾(後の慶應義塾)等で英学を学ぶ。次いで幕府医学所の句読師となったが、戊辰戦争勃発で失職。会津藩へ赴き英学を教授したが、会津戦争の敗北に伴い庄内藩へ向かう途上、米沢藩に招かれ、洋学校開設に尽力した。
国沢 新九郎(くにさわ しんくろう、旧字体: 國澤 新九郎、… 国沢 新九郎(くにさわ しんくろう、旧字体: 國澤 新九郎、1848年1月27日(弘化4年12月22日) - 1877年(明治10年)3月12日)は、土佐藩士。明治維新後に洋画家・洋画塾の長。弟に衆議院議員や南満州鉄道理事長を務めた国沢新兵衛がいる。母方の従兄弟に大町桂月がいる。 土佐藩の幡多郡奉行、父国沢四郎右衛門好古、母たつの長男として、小高坂村(現・高知市新屋敷)に生まれた。幼名は熊太郎。 母の甥に大町桂月がいる。 1867年(慶応3年)(19歳)、土佐藩の小隊司令を命じられ、翌年の戊辰戦争にかけて京都・大阪・中国・松山を巡った。明治に改元した1868年11月に海軍局頭取、翌年2月に海軍指揮役兼大監寮となり、夕顔丸の船将として箱館戦争中の函館を往復した。
臼井 儀兵衛(うすい ぎへえ、1848年1月25日(弘化4年… 臼井 儀兵衛(うすい ぎへえ、1848年1月25日(弘化4年12月20日)- 1904年(明治37年)11月9日)は明治時代の政治家、実業家、銀行家。貴族院多額納税者議員。幼名・嘉吉。 相模国三浦郡西浦賀村(浦賀村、浦賀町を経て現横須賀市)で生まれ、同村の米穀商先代臼井儀兵衛の養子となる。養父の死後、17歳で家督を相続した。22歳の時、同村紺屋町に大黒屋を開業し食塩を商い、巨万の富を得た。1879年(明治12年)浦賀町会議員に当選。ほか、浦賀船渠監査役、浦賀銀行頭取、神奈川県農工銀行設立委員などを歴任した。 1899年(明治32年)神奈川県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年5月8日から翌年の9月5日まで在任した。
福西志計子(ふくにし しげこ、弘化4年12月13日(1848… 福西志計子(ふくにし しげこ、弘化4年12月13日(1848年1月18日) - 明治31年(1898年)8月21日)は、日本の教育者、キリスト教信徒。幼名(本名)は福西繁(ふくにし しげ)であり、信仰者・教育者として職に携わるにあたっては名を読み替えて志計(しげ)ないしは志計子(しげこ)と名乗る。岡山県高梁市において岡山県初の女学校である順正女学校を設立した事により、同地において女子中等教育の実践を通し高等教育普及の礎を築いた人物。 幼少時、隣家の儒学者・山田方谷に漢学をはじめとした種々の教養を学び、17歳にて婿養子を迎えて結婚。のち29歳にて岡山裁縫伝習所において裁縫の伝習術を修め、高梁小学校附属裁縫所の教師となる。
長尾 義連(ながお よしつら、1848年1月18日(弘化4年… 長尾 義連(ながお よしつら、1848年1月18日(弘化4年12月13日) - 1928年(昭和3年)6月17日)は、幕末の弘前藩士。明治から大正時代の政治家。青森県弘前市長。 弘前藩士長尾定八の長男として生まれ、1873年(明治6年)9月に家督を相続する。明治に入り、戸長や北津軽郡長を歴任し、1888年(明治21年)青森県会議員に当選する。翌年の1889年(明治22年)弘前市助役の時に菊池九郎市長の辞任に伴い第2代市長に当選するが、後任の助役選出による派閥争いで市会は紛糾し、翌年辞任した。 1896年(明治29年)赤石行三市長の病死に伴い、菊池九郎の推薦により市長に返り咲き、1902年(明治35年)再選し、1905年(明治38年)まで務めた。
鳥尾 小弥太(とりお こやた、弘化4年12月5日〈1848年… 鳥尾 小弥太(とりお こやた、弘化4年12月5日〈1848年1月10日〉- 明治38年〈1905年〉4月13日)は、日本の陸軍軍人、政治家。陸軍中将正二位勲一等子爵。諱は照光、のち敬高(孝)。幼名は一之助。通称は百太郎、鳳輔など。号は得庵居士、不識道人など。 弘化4年12月5日(1848年1月10日)、萩城下川島村に長州藩士(御蔵元付中間)・中村宇右衛門敬義の長男として生まれる。安政5年(1858年)に父とともに江戸へ移り、江川英龍に砲術を学ぶ。万延元年(1860年)に帰藩して家督を相続。文久3年(1863年)に奇兵隊に入隊。乱暴者なので、親から勘当され、自ら鳥尾と名を定めた。長州征伐や薩摩藩との折衝などの倒幕活動に従事した。
布施 孫一郎(ふせ まごいちろう、1848年1月6日(弘化4… 布施 孫一郎(ふせ まごいちろう、1848年1月6日(弘化4年12月1日) - 1911年(明治44年)3月10日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 滋賀県出身。庄屋役、唐川村(のち七郷村、高月町を経て、現・長浜市)日吉社祠掌、同教導職試補、伊香郡教導職取締役、唐川村戸長、所得税調査委員、滋賀県勧業諮問会員、滋賀県会議員、伊香郡徴兵参事員、七郷村長、県蚕糸業取締所頭取、同蚕種検査所監督となる。 1902年の第7回衆議院議員総選挙において滋賀県郡部から立憲政友会公認で立候補して当選した。衆議院議員を1期務め、1903年の第8回衆議院議員総選挙は不出馬。1911年に死去した。
桂 太郎(かつら たろう、旧字体: 桂 太郞、1848年1月… 桂 太郎(かつら たろう、旧字体: 桂 太郞、1848年1月4日〈弘化4年11月28日〉- 1913年〈大正2年〉10月10日)は、日本の陸軍軍人、政治家。内閣総理大臣(第11代、13代、15代:第1次桂内閣、第2次桂内閣、第3次桂内閣)、台湾総督(第2代)、陸軍大臣(第5代)、内務大臣(第18代)、文部大臣(第23代)、大蔵大臣(第13代)、貴族院議員、内大臣、外務大臣(第17代)などを歴任。日露戦争時の内閣総理大臣で、西園寺公望と交互に総理職を務めた期間は「桂園時代」と呼ばれた。軍人としての階級は陸軍大将で、栄典は、従一位大勲位功三級公爵。「元老の一人であった」という説もある。元老の井上馨とは義理の親子の関係であり、児玉源太郎、川上操六とともに「明治陸軍の三羽烏」と称された[要出典]。
坂本 則美(さかもと のりみ、または のりよし、1848年1… 坂本 則美(さかもと のりみ、または のりよし、1848年1月2日(弘化4年11月26日) - 1913年9月15日)は、明治時代の日本の実業家、政治家。土佐藩出身。貧困児童救育事業で明治初頭に活躍し、高知県会議員を務めた。その後、琵琶湖疏水建設事業に携わり、さらに衆議院議員を務めた。さらにその後、実業界に転身し、総武鉄道社長、夕張炭鉱社長などを務めた。 1848年1月2日(弘化4年11月26日)、高知県土佐郡一宮村(現在の高知市)に生まれる。高知藩士坂本覚次郎の三男。明治7、8年ごろから貧児救育事業を始め、貧児救育事業団体の詵々社の社長となり、高知慈善協会の設立にも関わった。1879年に高知県会議員に当選し、議会副議長などに選ばれ、1882年まで議員を務めた。
森島 修太郎(もりしま しゅうたろう、1848年 - 191… 森島 修太郎(もりしま しゅうたろう、1848年 - 1910年)は、日本の会計学者、教育者。商法講習所(現一橋大学)の第1期卒業生であり、後身の高等商業学校教授を務めた。 和歌山県出身の東京府士族で、慶應義塾を経て、明治8年(1875年)に商法講習所(現一橋大学)に入学し、明治10年(1877年)3月に成瀬隆蔵とともに同所の第1回卒業生となった。ウィリアム・コグスウェル・ホイットニーの門下生として、卒業翌月の同年4月には同期の成瀬とともに商法講習所の助教心得に就任し、簿記を担当し、同年9月には助教となった。 明治11年(1878年)3月、助教を辞職し、同期の成瀬が助教となった。同年4月、三菱に入社。
三輪 光五郎(みわ みつごろう、1848年(嘉永元年) - … 三輪 光五郎(みわ みつごろう、1848年(嘉永元年) - ?)は、明治期の武士(中津藩士)、恵比寿麦酒会社(恵比寿ビール)支配人。 豊前国中津生まれ。進脩館に入り漢籍を学ぶ。1864年(元治元年)福澤諭吉と共に上京し築地福沢塾(慶應義塾)に入り洋学を修める。1866年(慶応2年)長州征伐が起こると奥平氏と同じく徳川氏に与して参戦。海軍兵学寮の教授となり英学を教授する。1876年(明治9年)東京大学医科大学の事務局に入る。のちに退職し東京府目黒村の副支配人となる。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
浅井国幹(あざい こっかん、1848年 - 1903年)は、… 浅井国幹(あざい こっかん、1848年 - 1903年)は、明治時代に漢方復興運動に奔走した日本の医師。名は正典。 国幹の略歴と医師資格制度・漢方復興運動の略史を以下に示す。 この項目は、医療関係者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:医学と医療、PJ:医学、PJ:歯学)。
国吉 真吉(くによし しんきち、1848年 - 1926年)… 国吉 真吉(くによし しんきち、1848年 - 1926年)は、琉球王国時代から明治期にかけて活躍した沖縄県の武術家。 国吉真吉(琉球方言で、クニシ シンキチ)は、1848年、父・国吉真善、母・マチの長男として那覇・久茂地村に生まれた。あだ名は、のちに名護間切(現・名護市)に転居した事から“久茂地の山原国吉(やんばる・くにし、やんばるは名護など国頭郡の俗称)” と呼ばれた。因みに、廃藩置県以前の沖縄本島には「山原」という名字(家名)は存在しないので、これは山原国吉(やまはら・くにきち)という姓名ではない。他に“国吉のタンメー”、“武士国吉”とも呼ばれた。国吉家は、査姓国吉親雲上真元を元祖とし、その七世国吉筑登之親雲上五男真一を系祖として分かれた琉球士族であったとされる。
高橋 お伝(たかはし おでん、高橋お傳、本名:でん、嘉永元年… 高橋 お伝(たかはし おでん、高橋お傳、本名:でん、嘉永元年(1848年) - 明治12年(1879年)1月31日)は、日本の殺人犯、女性死刑囚。仮名垣魯文の「高橋阿伝夜刃譚」のモデルとなり、「明治の毒婦」と呼ばれた。戒名:榮傳信女。 嘉永元年(1848年)、上野国利根郡下牧村(現:群馬県利根郡みなかみ町)に高橋勘左衛門、きのの娘として生まれるが、同村の高橋九右衛門、はつの養女となった。お伝の生まれについては、きのは嫁入り時点で妊娠しており、実父は沼田藩家老広瀬半右衛門とする話がある。 慶応2年12月(1867年1月)、同郷の高橋浪之助と結婚し横浜へと移る。明治5年(1872年) 9月17日、浪之助が病死。
高間 省三(たかま しょうぞう、嘉永元年(1848年) - … 高間 省三(たかま しょうぞう、嘉永元年(1848年) - 慶応4年8月1日(1868年9月16日))は、江戸時代末期(幕末)の広島藩士。戊辰戦争で活躍。名は正忠。
山腰 天鏡(やまごし てんきょう、1848年(嘉永元年3月)… 山腰 天鏡(やまごし てんきょう、1848年(嘉永元年3月) - 1914年(大正3年)6月28日)は、日本の仏教学者、曹洞宗の僧侶。第5代曹洞宗大学(現・駒澤大学)学長。曹洞宗会議長。別名号=浄円。 越前国(福井県)に生まれる。石川県竜淵寺の谷浄天のもとで得度・嗣法。諸岳奕堂、森田悟由に師事し、曹洞宗専門本校(のち駒澤大学)に学ぶ。石川県金沢市の松山寺・一閑院・放生寺や鳥取県の竜徳寺住持を歴住。1888年(明治21年6月より大学林の教務学監。 1903年(明治36年)9月に第5代曹洞宗大学学長に就任。大学林の専門学校への昇格に尽力。曹洞宗会議長を務めた。 1914年6月28日死去。67歳。
海老名 リン(えびな りん、1848年(嘉永1年)- 190… 海老名 リン(えびな りん、1848年(嘉永1年)- 1909年(明治42年)4月20日)は、日本の教育者。福島県で保母の資格を取得した最初の人物であり、会津地方の幼児教育、女子教育に功績を持つ。婦人矯風会副会頭。 父は会津藩藩士日向新介。17歳で同藩士海老名季昌に嫁ぐ。季昌は戊辰戦争において家老に昇進し、北出丸の指揮官として会津若松城籠城戦を戦ったが、入城することができず高田に避難した。高田に敵来たるとの情報があった際、戦闘準備を整えていたが、この敵は別方向に向かい戦闘は生起しなかった。開城後、季昌は東京で謹慎生活を送り、リンは一家で斗南へ移住した。 季昌は紆余曲折を経て警察官、地方官の地位につき、夫の任地に従い住居を転々とした。
時岡 又左衛門(ときおか またざえもん、1848年(嘉永元年… 時岡 又左衛門(ときおか またざえもん、1848年(嘉永元年8月) - 1904年(明治37年)9月23日)は、明治時代の政治家、医師。衆議院議員(4期)。旧姓・樽木、幼名・嘉市。 若狭国遠敷郡大谷村(福井県遠敷郡宮川村を経て現小浜市)で樽木四郎左衛門の二男として生まれた。1876年(明治9年)福井県大飯郡、のちの本郷村(大飯郡大飯町を経て、現おおい町)の先代・時岡又左衛門の養子となり、又左衛門を襲名した。医師を務める傍ら、1879年(明治12年)滋賀県会議員に当選。1881年(明治14年)福井県会議員に転じ、同議長を務めた。 1894年(明治27年)3月の第3回衆議院議員総選挙では福井県郡部から自由党所属で出馬し当選。
大坪 利晋(おおつぼ りしん、1848年(嘉永元年2月) -… 大坪 利晋(おおつぼ りしん、1848年(嘉永元年2月) - 1901年(明治34年)2月4日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 肥前国松浦郡福江村(のち長崎県南松浦郡福江村→福江町→福江市、現・五島市)生まれ。福江藩育英館で学ぶ。福江藩御秘筆下書役、同側小姓となる。のち、佐賀県神埼郡長、佐賀典獄、会計検査院属を務めた。 1892年の第2回衆議院議員総選挙において長崎5区から中央交渉会で立候補して当選した。衆議院議員を1期務め、1894年3月の第3回衆議院議員総選挙は不出馬。同年9月の第4回衆議院議員総選挙では国民協会から立候補して落選した。1901年に死去した。
田村 耕平(たむら こうへい、1848年(嘉永元年1月) -… 田村 耕平(たむら こうへい、1848年(嘉永元年1月) - 1901年(明治34年)2月4日)は、明治時代の政治家。貴族院多額納税者議員。 豪商・田村太平の二男として下野国安蘇郡並木村(旗川村を経て現佐野市)に生まれ、1872年(明治5年)分家する。1875年(明治8年)並木村会議員となる。一時上京するが、1888年(明治21年)帰郷し、翌年栃木県多額納税者に列す。1892年(明治25年)村内小学校建築委員を務め、1895年(明治28年)3月、旗川村助役兼収入役に就任。 その後、安蘇郡会議員を経て、1897年(明治30年)栃木県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日から務めるが、在任中に暴漢に襲われ打撲傷を受け死去した。
本山 健治(もとやま けんじ、1848年(嘉永元年3月) -… 本山 健治(もとやま けんじ、1848年(嘉永元年3月) - 1919年(大正8年)3月14日)は、明治時代の政治家。衆議院議員(2期)。旧姓・野口。 越後国頸城郡、のちの新潟県中頸城郡津有村の野口家に生まれ、幼くして東頸城郡菖蒲村(元保倉村、大島村字菖蒲を経て現上越市)の本山家の養子となる。十一大区副長、村会議員を経て、1879年(明治12年)新潟県会議員に当選。1882年(明治15年)病を理由に議員を辞すが、1884年(明治17年)県議に返り咲く。翌年再び県議を辞し実業界に入り、新潟農工銀行監査役などを務めた。 1890年(明治23年)7月の第1回衆議院議員総選挙では新潟県第7区から出馬し当選。
初代 永田 吉右衛門(ながた きちうえもん、1848年(嘉永… 初代 永田 吉右衛門(ながた きちうえもん、1848年(嘉永元年4月) - 1901年(明治34年)6月12日)は、明治時代の政治家。銀行家。大地主。衆議院議員。岐阜県大野郡高山町(現在の高山市)長。本姓は森。名は道俊、号は五松庵。 飛騨国大野郡(岐阜県大野郡高山町を経て、現在の高山市)出身。本姓は森でのち高山の素封家永田家を継いだ。 1871年(明治4年)2月、高山町二之町に産物会所を開設し、福田吉郎兵衛らとともに産物方として飛騨の振興発展に努めた。1889年(明治22年)7月1日、市町制実施に伴い高山町長に就任した。ほか、三星製糸製織場を建設した。財界では、飛騨銀行、濃飛農工銀行、十二銀行各取締役を歴任した。
宮本 甚兵衛(みやもと じんべい、1848年(嘉永元年8月)… 宮本 甚兵衛(みやもと じんべい、1848年(嘉永元年8月) - 1932年(昭和7年)1月9日)は、明治から昭和時代初期の政治家。貴族院多額納税者議員。旧姓・小野。 小野七郎の長男として弘前城下桶屋町(弘前桶屋町を経て現弘前市桶屋町)に生まれ、のち先代宮本甚兵衛の養嗣子となる。幼少期は下学校に通い、13歳から17歳までは弘前東長町の丸金、荒関小間物店で見習奉公する。17歳の時独立し、弘前土手町に小間物店を開業。東京から品物を仕入れ、数年のうちに業績を大きく伸ばした。弘前市が発足すると第1回市会議員選挙に当選。ほか、中津軽郡町村連合会議員、弘前市参事会員、同市第4区会議員、同市所得税調査委員などを歴任した。
小豆澤 亮一(あずきざわ りょういち、1848年 - 189… 小豆澤 亮一(あずきざわ りょういち、1848年 - 1890年)は、明治時代日本の肖像画家。号は碧湖(へきこ)。 1848年(弘化5年/嘉永元年)、出雲国松江城下(現在の島根県松江市)に豪商・小豆澤浅右衛門の長男として生まれる。日本画を学んだ後に上京し、写真家・洋画家の横山松三郎に弟子入りした。横山は白黒写真に油絵具で着色してカラー化する「写真油絵」の考案者であったが、1884年(明治17年)に横山が死去した後は小豆澤がこの技法の継承者となる。 1885年(明治18年)7月1日、専売特許条例が施行された。小豆澤は7月9日に写真油絵の技法で特許を出願し、10月7日付で権利を取得する。この技法は通常の描画に比べて細密な作業が求められるため視力の低下に悩まされた。
石井 定彦(いしい さだひこ、1848年(嘉永元年3月) -… 石井 定彦(いしい さだひこ、1848年(嘉永元年3月) - 1934年(昭和9年)2月4日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 讃岐国三野郡(のち香川県三豊郡本山村→豊中村→豊中町、現・三豊市)生まれ。漢学を学ぶ。小学校教員、愛媛県会議員、大区会議員、同議長、戸長、村農会長、香川県教育会商議員、同副議長となる。 1890年の第1回衆議院議員総選挙において香川5区から立憲改進党所属で立候補するが落選した。1892年の第2回衆議院議員総選挙では議員集会所から立候補して当選した。1894年3月の第3回衆議院議員総選挙では立憲改進党から立候補して落選した。同年9月の第4回衆議院議員総選挙でも落選した(立憲改進党)。
谷 順平(たに じゅんぺい、1836年12月21日(天保7年… 谷 順平(たに じゅんぺい、1836年12月21日(天保7年11月14日)- 1921年(大正10年)8月3日)は、明治から大正期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員、富山県会議長、富山県下新川郡道下村長。幼名・義之助。 越中国新川郡仏田村(石川県新川郡仏田村、富山県下新川郡道下村を経て現魚津市)で、豪農・谷平兵衛の長男として生まれた。加賀藩士・沢田六左衛門、馬場春鴎に師事し漢学を修めた。1856年(安政3年)家督を相続し新川郡縄張役、仏田の肝煎役に就任。1872年(明治5年2月)金沢県新川郡第8区租税調役、1873年(明治6年)9月、第3大区副区長となる。その後、戸長、下新川郡書記を務めた。
対馬 嘉三郎(つしま かさぶろう、1836年12月14日(天… 対馬 嘉三郎(つしま かさぶろう、1836年12月14日(天保7年11月7日)- 1914年(大正3年)12月24日)は、幕末の弘前藩士、明治期の実業家・政治家。衆議院議員(1期)、初代札幌区長。 陸奥国津軽郡弘前城下代官町(現弘前市)で弘前藩士・対馬利助の息子として生まれる。箱館戦争に従軍。弘前藩公用人を経て、明治4年7月(1871年)青森県に出仕。明治5年4月(1872年)開拓使に転じ十一等出仕となり、同年11月(12月)開拓中主典に昇進。会計整理、教育、衛生普及、商工業振興などを担当し、1878年7月に退官した。 その後、実業界に転じ、開拓使経営の醸造場の払下げを受けて酒造業を経営。また、元開拓使官吏・堀基らと共に札幌の商社の嚆矢である「大有社」を創設し、米穀雑貨輸入販売、海産物輸入業を営んだ。
片岡 源馬(かたおか げんま、天保7年10月9日(1836年… 片岡 源馬(かたおか げんま、天保7年10月9日(1836年11月7日) - 明治41年(1908年)11月2日)は、江戸時代後期(幕末)の武士(土佐藩士)、明治時代の官僚。明治維新後は片岡 利和(としかず)と称した。爵位は男爵。位階勲等は正三位勲二等。次代は従五位男爵片岡丈人。 天保7年(1836年)10月、土佐郡潮江村(現・高知市)の土佐藩士・永野源三郎の次男として生まれたが、佐川領主の家老深尾氏の家臣・那須橘蔵利家の養子となって那須盛馬と称し、佐川の鳥之巣村に移り住む。文久元年(1861年)、武市瑞山が結成した土佐勤王党に参加するが、八月十八日の政変を契機として前藩主山内豊信が勤王党弾圧を開始したことから、謹慎に処されている。
関口 隆吉(せきぐち たかよし、天保7年9月17日〈1836… 関口 隆吉(せきぐち たかよし、天保7年9月17日〈1836年10月26日〉 - 明治22年〈1889年〉5月17日)は、幕末の幕臣で、明治時代の政治家、初代静岡県知事および第2代山口県知事。 静岡女学校(後の静岡英和女学院)の創立者の一人。字は艮輔(ごんすけ)。号は黙斎。 天保7年(1836年)、江戸本所相生町(現・東京都墨田区)に幕臣関口隆船の次男として生まれる。関口家は今川一族の関口氏広の子孫であり、父・隆船は佐倉村(現在の静岡県御前崎市佐倉)の池宮神社出身。 天保10年(1838年)、父の隆船が与力に任ぜられ、牛込赤城町へ転居。 嘉永元年(1848年)、斎藤弥九郎の練兵館に入門する。当時の塾頭は兄弟子となる桂小五郎であった。
上郎 幸八(こうろう こうはち、1836年10月18日〈天保… 上郎 幸八(こうろう こうはち、1836年10月18日〈天保7年9月9日〉 - 1916年〈大正5年〉12月29日)は、日本の資産家、実業家。族籍は神奈川県平民。 越前国南条郡白崎村(のち福井県南条郡王子保村白崎、現越前市白崎町)の農家に生まれた。新右衛門の二男。はじめ幸吉といい、後に幸八と改めた。 万延元年8月、東京日本橋木綿問屋小津清左衛門の店員となる。文久3年、横浜の西洋洗濯屋中山太郎左衛門の店員となる。仕事が終われば夜間は車の後押し、人力車夫等となり幾年か苦しい労働をつづけ、ついに両替店を開く。 国立七十四銀行取締役支配人となり、1880年には横浜正金銀行設立発起人、上信銀行顧問となる。
川田 小一郎(かわだ こいちろう、1836年10月4日(天保… 川田 小一郎(かわだ こいちろう、1836年10月4日(天保7年8月24日) - 1896年(明治29年)11月7日)は、日本の実業家、政治家。男爵。創業期の三菱の幹部であり、貴族院議員、第3代日本銀行総裁。 天保7年(1836年)8月24日 、土佐国土佐郡旭村(現在の高知県高知市)にて土佐藩の郷士・川田家に生まれた。正規の教育はまったく受けていないが、その理財の才を認められ、藩の会計方に登用される。藩営土佐商会で勧業・鉱山・通商の事務を担当。明治維新に際しては、難題であった伊予松山藩所有の別子銅山接収を平和裡に収拾している。 明治3年(1870年)、藩営の海運業社九十九商会の民営化に伴い、高級幹部(管事)として、石川七財と共に社主の岩崎弥太郎を補佐した。
北垣 国道(きたがき くにみち、1836年9月17日〈天保7… 北垣 国道(きたがき くにみち、1836年9月17日〈天保7年8月7日〉- 1916年〈大正5年〉1月16日)は、幕末期の志士、明治時代の官僚、政治家。幼名は捨蔵。通称は晋太郎。号は静屋。 高知県令(第4代)、徳島県令(第7・8代)、京都府知事(第3代)、北海道庁長官(第4代)、貴族院議員(勅選)、枢密顧問官を歴任した。 1836年(天保7年)、但馬国養父郡能座村(現:兵庫県養父市)に生まれる。6歳の時の1841年(天保12年)、池田草庵の私塾「青谿書院」で学んだ。1863年(文久2年)、公卿澤宣嘉を主将とし、河上弥市、平野国臣らと生野銀山にて挙兵(生野の変)するも敗れ、進藤俊三郎(原六郎)らと因幡(鳥取藩)、ついで京都、江戸(桶町千葉道場→赤坂桧町の長州藩邸)を経由し長州へ潜伏した。
加藤 弘之(かとう ひろゆき、1836年8月5日〈天保7年6… 加藤 弘之(かとう ひろゆき、1836年8月5日〈天保7年6月23日〉- 1916年〈大正5年〉2月9日)は、明治時代の日本の啓蒙思想家、教育者。旧幕臣・出石藩士。位階勲等は正二位勲一等、爵位は男爵、学位は文学博士・法学博士。旧名・誠之(あきゆき)、通称・弘蔵(こうぞう)。 外様大名の出石藩の藩士の子に生まれ、出石藩藩校弘道館で学んだ後、済美館や致遠館でグイド・フルベッキの門弟として学ぶ。学門一筋で精進し幕臣となり、維新後は新政府に仕える身となる。明六社会員。外務大丞、元老院議官、勅選貴族院議員などを歴任、獨逸学協会学校の第3代校長、旧東京大学法・理・文3学部の綜理を務め、のち帝国大学(現・東京大学)第2代総長を務めた。
大崎 彦助(おおさき げんすけ、天保7年〈1836〉5月27… 大崎 彦助(おおさき げんすけ、天保7年〈1836〉5月27日 - 明治28年〈1895〉11月23日)は、旧長岡藩家老・河井継之助の従者。長岡藩領来伝村の割元(大庄屋)。大崎家十三代当主。幕末に河井継之助に取り立てられ、以後、継之助が没するまで公私共に深く関わった。名の読み方として「ひこすけ」と読み仮名を振っている文献もある。実名は邦敬である。 大崎彦助は、天保7年5月27日に長岡藩領来伝村(現、新潟県長岡市来伝)に、割元(大庄屋)であった大崎家12代目当主・大崎津右衛門邦常の長男として生まれた。彦助の号は通休(つうきゅう)と称した。父・大崎津右衛門邦常は、学問の重要さを知り、子供の彦助を長岡藩の佐野家(河井継之助の姉の縁家)に、11歳から13歳まで寄宿して句読を学ばせ、その後、彦助を江戸の古賀塾で学ばせた。
岡村 貢(おかむら みつぎ、1836年5月25日(天保7年4… 岡村 貢(おかむら みつぎ、1836年5月25日(天保7年4月11日) - 1922年(大正11年)1月7日)は、明治期の政治家、実業家。第十三大区長、南魚沼郡長、衆議院議員。法師温泉創業者。その生涯から「上越線の父」と言われている。田中角栄が最も尊敬した郷土の先達と言われる。幼名は大次郎。 昭和6年には、以下のような歌が小学校で合唱されたという。 光り輝く文化の花は 上越線をば開通せしむ 花も蒔かずば咲かれもすまい 蒔いた父こそ岡村貢 明治十余のその昔より 清水、三国の草踏みわけて 一生涯と全財産を 捧げて祈る涙の跡よ
南 一郎平(みなみ いちろべえ、1836年(天保7年5月22… 南 一郎平(みなみ いちろべえ、1836年(天保7年5月22日) - 1919年(大正8年)5月13日)は、日本の建設事業者、建設指導者、実業家である。晩年は南 尚(みなみ ひさし)と改名した。豊前国宇佐郡金屋(現・大分県宇佐市)出身。 幕末から明治にかけて、大分県の広瀬井手(広瀬井路)、高森水路を開発。その後明治政府の水利開墾事業に従事し、全国の水利土木工事にあたった。とくに日本三大疏水とされる安積疏水(福島県)、琵琶湖疏水(滋賀県 ‐ 京都府)、那須疏水(栃木県)の開発や月居トンネル工事(茨城県)に取り組んでいる。疏水工事のなかで、特にトンネル工事で経験を積み、この経験を生かして、後にトンネル工事を専門とする「現業社」を創設した。
野村文夫(のむら ふみお、天保7年4月5日(1836年5月1… 野村文夫(のむら ふみお、天保7年4月5日(1836年5月19日) - 明治24年(1891年)10月27日)は、幕末の広島藩の武士、のち明治政府の官僚、のちジャーナリスト、自由民権活動家。戯画入り風刺雑誌『団団珍聞』・『驥尾団子』を発行した。幼名虎吉、通称文夫・文機。1842年から1872年まで、村田家の養子でいた。号に雨荘・簾雨・秋野人。