箕作 元八(みつくり げんぱち、文久2年5月29日〈1862… 箕作 元八(みつくり げんぱち、文久2年5月29日〈1862年6月26日〉 - 大正8年〈1919年〉8月9日)は、日本の西洋史学者。文学博士、テュービンゲン大学哲学博士。岡山県士族。 1862年(文久2年)、湯島中坂下(現・東京都文京区)にあった祖父・箕作阮甫の家で生まれた。父・秋坪が開設した私塾・三叉学舎で学び、14歳で東京英語学校に入学。1885年(明治18年)、東京大学理学部動物学科を卒業。動物学研究のためドイツ・フライブルク大学に留学するも、近眼のため顕微鏡の使用に困難を感じ、西洋史学の研究に転向した。 ハイデルベルク大学・テュービンゲン大学などでトライチュケやランケの指導を受け、1891年(明治24年)テュービンゲン大学で哲学博士ドクトル、デル、フイロソヒー、マキスデルアルチユームを取得。
加藤 重三郎(かとう じゅうさぶろう、文久2年5月29日〈1… 加藤 重三郎(かとう じゅうさぶろう、文久2年5月29日〈1862年6月26日〉 - 1933年〈昭和8年〉6月19日)は、明治後期から大正にかけての日本の弁護士・政治家である。 司法官を経て名古屋市で弁護士を開業したのち名古屋市会議員に選ばれ、市会議長や第6代名古屋市長(1906年-1911年)を歴任。その後衆議院議員にも当選した(当選1回)。 現在の名古屋市出身。文久2年5月29日(新暦:1862年6月26日)、高木鉄蔵の次男として生まれる。1880年(明治13年)に加藤成章の養子となり、1883年(明治16年)8月に加藤家を相続した。高木家・加藤家ともに尾張藩士の家である。明治維新後は一時巡査として働くが、上京して明治大学の前身である明治法律学校に学んだ。
豊辺 新作(とよべ しんさく、1862年6月23日(文久2年… 豊辺 新作(とよべ しんさく、1862年6月23日(文久2年5月26日) - 1927年(昭和2年)3月22日)は、日本の陸軍軍人。日清戦争で鳳凰城攻略一番乗りを果たし、日露戦争では沈旦堡を死守した騎兵将校である。最終階級は陸軍中将。 豊辺は長岡洋学校、陸軍幼年学校を経て1882年(明治15年)に陸軍士官学校を卒業した、旧5期生の一人である。騎兵第一大隊附、教導団騎兵中隊小隊長、三本木軍馬補充部勤務を経て騎兵第五大隊第一中隊長として日清戦争に出征する。平素の豊辺は周囲に無能と思われており、大尉に進級したものの、予備役入りは近いと考えられていた。しかし豊辺は実戦においてその評価を一変させる。 騎兵第五大隊第一中隊は大島義昌が率いる第九旅団に属したが、この旅団は日清の開戦に備えて最初に動員された部隊であり、仁川に上陸し1894年(明治27年)7月25日に行動を開始する。
相浦 多三郎(あいのうら たさぶろう、1862年6月19日(… 相浦 多三郎(あいのうら たさぶろう、1862年6月19日(文久2年5月22日)- 1942年(昭和17年)6月16日)は、明治期の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。従四位、勲三等、功四級。 佐賀藩士・相浦蕃慎の次男として生まれる。兄に海軍中将相浦紀道がいる。藩校(弘道館)を経て、1883年(明治16年)12月25日に陸軍士官学校(フランス式旧士官学校)を卒業(旧6期、騎兵)し、同日、陸軍騎兵少尉に任官。 1901年(明治34年)5月に騎兵第12連隊長に就任。1904年(明治37年)5月に騎兵大佐となる。日露戦争に出征し、鴨緑江会戦、遼陽会戦、沙河会戦、奉天会戦などに参戦した。1908年(明治41年)12月に軍馬補充部白河部長に就任後、1910年(明治43年)6月に陸軍少将に昇進と同時に予備役に編入された。
田中 正平(たなか しょうへい、1862年6月12日(文久2… 田中 正平(たなか しょうへい、1862年6月12日(文久2年5月15日) - 1945年(昭和20年)10月16日)は、純正調オルガンを発明した日本の音響学・物理学者であり、鉄道技師として要職に就いた。また三絃楽速記法を考案して約三千種を採譜した邦楽の研究家としても知られる。 淡路国三原郡八幡村(町村制後:賀集村、現:兵庫県南あわじ市賀集八幡)に生まれ、1882年(明治15年)に21歳の最年少で東京大学理学部物理学科を首席で卒業。 1884年(明治17年)8月、文部省代表として森鷗外などと共にドイツ帝国のベルリン大学へ留学。ヘルマン・フォン・ヘルムホルツの下で音響学と電磁気学について研究する。
清水 松三郎(きよみず まつさぶろう、1862年6月8日(文… 清水 松三郎(きよみず まつさぶろう、1862年6月8日(文久2年5月11日)- 1905年(明治38年)10月18日)は、明治期の農業経営者、政治家。衆議院議員、愛知県愛知郡岩崎村長。 尾張国愛知郡、のちの愛知県愛知郡岩崎村(日進村、日進町を経て現日進市)で、里正・治左衛門の息子として生まれた。志水大三郎に師事し、さらに1875年(明治8年)佐藤牧山について漢学を修めた。1879年(明治12年)上京して諸学を学んだ。帰郷して農業を営む。 1883年(明治16年)1月、岩崎村戸長に就任。以後、愛知県勧業委員、愛知郡第四高等小学校学務委員、岩崎村外二ヶ村戸長、岩崎村会議員、愛知郡米野木村外七ヶ村連合会議員などを歴任。
熊田 葦城(くまた いじょう・くまだ いじょう、文久2年(1… 熊田 葦城(くまた いじょう・くまだ いじょう、文久2年(1862年)6月 - 1940年2月12日)は、日本の歴史学者、文筆家。本名は熊田宗次郎。 福山藩藩士・熊田臨蔵の次男として、備後国福山(現在の広島県福山市)に生まれる。誠之館にて学を修めたほか、江木鰐水に漢籍を、五弓雪窓に漢作文を、藤井葦川に漢詩を学ぶ。 二十歳のころ大阪に出て大阪新報社に就職、同社で編集長をつとめたのち新潟日日新聞、北海道毎日新聞、北海新聞などを経て報知新聞に招かれた。同紙編集長の傍ら日清戦争の戦時記事を執筆して大いにその名を知られるようになる。一時同社を退いたが、日露戦争を機に再び報知の編集長に就任。自著『日本史蹟』が賞讃の的となり、のち鎌倉に居住して著述業に専念した。
小山 久左衛門(こやま きゅうざえもん、1862年5月30日… 小山 久左衛門(こやま きゅうざえもん、1862年5月30日〈文久2年5月2日〉- 1918年〈大正7年〉7月21日)は、日本の実業家、政治家、篤志家。小山家23代当主。諱は正友、幼名は邦太郎。信濃国佐久郡出身。政治家小山邦太郎・画家小山敬三の父。 出自には諸説あるが、源義光の曾孫である安田義定を祖とする説が小諸市内の小山姓において存在する。義定は甲斐源氏の一族であったため、その勢力を警戒した源頼朝により粛清されるが、子孫の安田義知が武田信虎に仕え、村上義清に備えて信濃国佐久郡に与良城を築城し、安田氏から与良氏へ改称したという。その後、その庶流の一族が同国高井郡小山郷を所領とし、与良氏から小山氏に改称したといわれている。
有本 楠太郎(ありもと くすたろう、1862年5月19日〈文… 有本 楠太郎(ありもと くすたろう、1862年5月19日〈文久2年4月21日〉 - 没年不明)は、日本の商人(皮革貿易商)・政治家・慈善家。有本商店店主。大阪市南区会議員。 和歌山県有田郡御霊村字庄(のち吉備町、現・有田川町)の農家に生まれる。15歳の時に大阪に出て、奉公先に住み込み、25歳の春までよく主家に勤める。独立して皮革貿易店を開業する。 家業に精励し成功する。博愛慈善に傾倒する。1892年に赤十字社終身社員に加入し、1905年に金200円を寄付し特別社員に推薦される。赤十字社特別社員としてよく奉公の義務を尽くす。日露戦役に際して殊に恤兵の事に意を用いて各種の公共的団体に金品を投じる。 中国及び朝鮮と特約貿易を行い、仁川、木浦、群山、京城、馬山等より原料を輸入し、これを精製して南北清の各要地、即ち天津、大連、上海、営口、香港等に取引を開始する。
中山 文樹(なかやま ふみき/ぶんじゅ、1862年5月13日… 中山 文樹(なかやま ふみき/ぶんじゅ、1862年5月13日(文久2年4月15日) - 1923年(大正12年)12月21日)は、明治から大正時代の政治家。銀行家。醸造家。大地主。貴族院多額納税者議員。 中山好樹の長子として、肥前国南高来郡島原城下(長崎県南高来郡島原町を経て現島原市)に生まれ、10歳にして家督を相続する。旧島原藩儒の白井嘉氏に文学を学ぶ。 1871年(明治4年)清酒醸造業を始める。1891年(明治24年)島原銀行、ついで島原貯金銀行を創立し各頭取を務めた。ほか、所得税調査委員、1889年(明治22年)4月、島原町会議員、南高来郡会議員、長崎県農工銀行設立委員、同農工銀行取締役、日本赤十字社特別社員を歴任した。
本田 恒之(ほんだ つねゆき、文久2年4月14日(1862年… 本田 恒之(ほんだ つねゆき、文久2年4月14日(1862年5月12日) - 昭和9年(1934年)2月4日)は、日本の衆議院議員(立憲国民党→立憲同志会→憲政会→立憲民政党)、弁護士。 肥前国高来郡島原町に下田寛平の三男として生まれる。1882年(明治15年)、本多源吉の養子となった。専修学校(現在の専修大学)法律経済科を卒業し、弁護士となった。初めは東京市日本橋区に開業したが、後に長崎市に移った。長崎市会議員、長崎県会議員を経て、1912年(明治45年)の第11回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後7回当選を重ねた。 加藤高明内閣・第1次若槻内閣で司法政務次官を務めた。
森本 確也(もりもと かくや、1862年5月11日(文久2年… 森本 確也(もりもと かくや、1862年5月11日(文久2年4月13日)- 1927年(昭和2年)2月10日)は、明治から大正期の地主、農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員。号・得堂。 志摩国英虞郡、のちの三重県志摩郡鵜方村(鵜方町、阿児町を経て現志摩市阿児町鵜方)で、大地主・森本佐左衛門、なつ の長男として生まれる。1877年(明治10年)三重県師範学校を卒業。さらに同人社英学科及び漢学科を卒業し、専修学校(現専修大学)で経済学を学んだ。帰郷して、しばらく著作業に従事した。 1891年(明治24年)3月、家督を相続して農業を営み、三重県会議員に選出され、同常置委員も務めた。また、三重県農工銀行取締役、同頭取、三重銀行取締役、津商業会議所特別議員などに在任した。
小林 勝民(こばやし かつたみ、文久2年4月5日(1862年… 小林 勝民(こばやし かつたみ、文久2年4月5日(1862年5月3日) – 昭和18年(1943年)7月7日)は、日本の衆議院議員(立憲国民党→立憲同志会→憲政会)。ジャーナリスト。弁護士。 駿河国益津郡藤枝(現在の静岡県藤枝市)出身。和漢学、英学、法学を学んだ。『朝野新聞』記者、『日刊民報』記者、『静岡民友新聞』主筆、『台湾民報』主筆、雑誌『国士』主筆、雑誌『大亜細亜』主筆などを務めた。また台北市に弁護士事務所を開いた。 1912年(明治45年)、第11回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第12回衆議院議員総選挙でも再選を果たした。 その他、台湾物産株式会社取締役、台湾石鹸株式会社監査役などを務めた。
川面 凡児(かわつら ぼんじ、1862年4月29日(文久2年… 川面 凡児(かわつら ぼんじ、1862年4月29日(文久2年4月1日) - 1929年(昭和4年)2月23日)は、日本の宗教家、神道家。禊の行法を体系化し、組織的に行なった。現在の神社神道における禊作法は、戦前に川面が行っていたものに基づいている。名は恒次(つねじ)、字は吉光。号は殿山(でんざん)。 豊前国(のち大分県宇佐郡両川村小坂、現宇佐市)に、酒造業を営む家の次男として生まれる。神職をしていた父の義弟の溝口千秋に教育のため預けられる。千秋は宇佐神社に参詣する全国各地の神道家や勤王の志士と交流があり、川面はその中のひとり、豊前の儒者・恒遠翁に漢籍を学ぶ。13歳のときに近くの霊山・馬城山(まきさん)に籠り、童仙・蓮池貞澄から仙道を学ぶ。
山宮 藤吉(やまみや とうきち、文久2年3月29日〈1862… 山宮 藤吉(やまみや とうきち、文久2年3月29日〈1862年4月27日〉 - 1933年〈昭和8年〉1月4日)は、明治から昭和時代初期の政治家。衆議院議員(3期)。号に鶴園。 山宮元右衛門の長男として、相模国高座郡萩園村(神奈川県高座郡鶴嶺村、茅ヶ崎町を経て現茅ヶ崎市)に生まれる。1882年(明治15年)3月、家督を相続する。江陽銀行取締役を務める傍ら、1893年(明治26年)鶴嶺村長に就任した。同郷の菊池小兵衛と共に1895年(明治28年)の改進党県支部創立に参加。1899年(明治32年)から1903年(明治36年)まで神奈川県会議員を務めた。この間、1900年(明治33年)県立第三中学校の藤沢への設置に尽くすも失敗。
小室 良七(こむろ りょうしち、幼名・彦次郎、文久2年3月2… 小室 良七(こむろ りょうしち、幼名・彦次郎、文久2年3月27日〈1862年4月25日〉 - 1929年〈昭和4年〉9月2日)は、日本の政治家(群馬県邑楽郡会議員、館林町会議員)、商人(砂糖商)、実業家。館林貯蓄銀行、四十銀行、八十一銀行、東海銀行各取締役。上毛モスリン監査役。族籍は群馬県平民。 群馬県邑楽郡館林町(現・館林市)に生まれた。小室良之助の長男。幼名は彦次郎。家は代々砂糖販売を営み、彦次郎は第3代に当たる。「砂糖小室」の名は遠近に聞こえていた。 善導寺住職・満成和尚に漢学や書を学んだ。1883年12月、家督を相続し家業の砂糖商を継いだ。1886年10月、襲名して良七と改めた。 1889年、新町村制が実施され、4月に町会議員の選挙が行われた。
中山 通幽(なかやま つうゆう、1862年4月19日(文久2… 中山 通幽(なかやま つうゆう、1862年4月19日(文久2年3月21日) - 1936年(昭和11年)5月17日)は、日本の宗教家。岡山県出身。宗教団体・福田海(ふくでんかい)の開祖。旧姓・薬師寺。本名・多田盛太。多田通幽とも。 備中国(現在の岡山県高梁市)に生まれる。3歳で吉備津の多田家の養子となる。[要出典] 16歳で小学校教員となる[要出典]。当山派で修験道を修する。また、井上円了の哲学館に学び、大阪に関西哲学館を開く。1895年(明治28年)、大阪市天王寺伶人町に宗教団体・無縁法界講を結成し、無縁仏の供養に取り組む[要出典]。 1908年(明治41年)、大阪で神道・儒教・仏教・道教を折衷した宗教団体・福田海を開宗し、陰徳積善を説く。
森山 儀文治(もりやま ぎぶんじ、1862年4月15日(文久… 森山 儀文治(もりやま ぎぶんじ、1862年4月15日(文久2年3月17日) - 1945年(昭和20年)2月9日)は、日本の政治家、弁護士、衆議院議員(1期)。 文久2年(1862年)、信濃国筑摩郡郷原宿(現在の長野県塩尻市広丘郷原)にて赤羽弥一(あかはねやいち)の三男として出生。生家の赤羽家は郷原宿の問屋場で、郵便制度発足後問屋業を継承して郵便物取扱所その後五等郵便局、三等郵便局となり現在は郷原簡易郵便局となっている。現在も問屋の屋号で呼ばれている。明治期のジャーナリスト、社会主義思想家の赤羽一(巌穴)は、問屋(上問屋)の赤羽家とともに郷原宿で交代で問屋をつとめた下問屋の出身で、儀文治の14歳年下の甥にあたる。
内山 吉太(うちやま きちた、1862年4月13日(文久2年… 内山 吉太(うちやま きちた、1862年4月13日(文久2年3月15日 ) - 1935年(昭和10年)12月27日)は、日本の漁業家、政治家。衆議院議員(3期)。旧姓は金田。 越後国蒲原郡、のちの新潟県北蒲原郡南浜村(現新潟市北区)で里正・金田家に生まれ、慶応元年12月(1866年)同郷の内山タケの養子となる。漢学を修めた。1877年、函館に移り北海道、樺太で遠洋漁業を経営。1895年、サガレン(樺太)漁業組合総代に選出された。 また、北海道機械網(株)監査役、東洋捕鯨(株)取締役、函館商業倶楽部会頭などを務めた。 立憲政友会の結党に参画し、同函館支部創立委員、同支部幹事となる。1902年8月、第7回衆議院議員総選挙の北海道庁函館区において平出喜三郎と戦い落選。
高橋 捨六(たかはし すてろく、1862年4月8日(文久2年… 高橋 捨六(たかはし すてろく、1862年4月8日(文久2年3月10日)- 1918年(大正7年)8月14日)は、明治時代から大正時代の弁護士、法律家。 越前国福井藩士の木内盛潔の次男として生まれ、1876年11月に高橋左十郎の養子となる。福井県より選ばれて駒場農学校に入学し、予科、大学予備門を経て東京帝国大学法科に入学する。1885年に同校を首席で卒業し、大蔵省主計局に入って数年後、弁護士に転身。1895年には東京弁護士会の会長となる。日本銀行顧問や横浜正金銀行の監査役などを務めた。また、中央大学の前身である英吉利法律学校の創立に尽力した。後の学長である林頼三郎は弁護士事務所の書生であった。 1918年の春、肺炎に罹ったため、二宮町の別荘で静養していたが、帝大病院に入院後、渋谷町下渋谷氷川裏の邸宅に戻り、同地にて没した。
青木 恒太郎(あおき つねたろう、1862年4月8日(文久2… 青木 恒太郎(あおき つねたろう、1862年4月8日(文久2年3月10日)- 1925年(大正14年)7月13日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 越後国魚沼郡、のちの新潟県南魚沼郡藪神村(大和村、大和町を経て現南魚沼市)出身。村会議員、南魚沼郡会議員。新潟県会議員、芹田耕地整理組合長、薮神信用販売購買組合理事となる。 1920年(大正9年)第14回衆議院議員総選挙において新潟10区から立憲政友会公認で立候補して当選する。衆議院議員を1期務めた。1924年(大正13年)第15回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。1925年死去。
唐端 清太郎(からはた せいたろう、1862年4月6日(文久… 唐端 清太郎(からはた せいたろう、1862年4月6日(文久2年3月8日) - 1920年(大正9年)6月10日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員(1期)。 兵庫県飾磨郡谷外村(現・姫路市)に生まれる。東京専修学校(現・専修大学)で学ぶ。青森新報社に入社するも生家の事情により帰郷し兵庫県御用掛に出仕、上司の赤穂郡長就任とともに赤穂郡役所に転勤し郡長を補佐する書記となる。 1892年(明治25年)、相生村に村長として招聘される。神戸の繁栄を見た唐端は当時寒漁村だった相生村に造船所の設立を決断、1907年(明治40年)、神戸の財界人や地元有志から出資を募って播磨船渠株式会社を創立した。これは技術の未熟さから事業は高橋為久の播磨船渠合名会社に引き継がれたが、のちに鈴木商店による買収を経て1916年(大正5年)4月、鈴木商店による株式会社播磨造船所の設立に至る。
佐伯 理一郎(さえき りいちろう、1862年4月3日(文久2… 佐伯 理一郎(さえき りいちろう、1862年4月3日(文久2年3月5日) - 1953年(昭和28年)5月30日)は、日本の産婦人科医。佐伯病院、京都産院各経営主。京都看病婦学校、京都産婆学校各校長。学会活動のほか、公衆衛生、医史学、医師会などで優れた働きをした。 文久2年3月5日、肥後国(後の熊本県)に生まれる。佐伯清次郎の長男。 1878年、県立熊本医学校に入学。1882年7月、熊本医学校卒業。上京し、東京大学で外科ユリウス・スクリバ、内科エルヴィン・フォン・ベルツ、眼科梅錦之丞 の指導をうける。1884年、海軍軍医補(横須賀海軍病院)。組合教会系のクリスチャンの佐伯はこの頃、アメリカンボードの宣教医セオダー・ギューリックに出会い、教会の設立に関わることになった。
武部 其文(たけべ きぶん、1862年3月27日(文久2年2… 武部 其文(たけべ きぶん、1862年3月27日(文久2年2月27日) - 1929年(昭和4年)4月12日)は、富山県出身の政治家、弁護士。 文久2年(1862年)2月に、旧加賀藩十村役で1883年(明治16年)に富山県会初代議長を務めた武部尚志(文政12年(1829年) - 明治44年(1911年))の二男として出生。その弟で富山県会議員であった武部堅の養子となった。 富山の岡田呉陽を経て、二松学舎(現・二松學舍大学)、明治法律学校(現・明治大学)に学び、1885年(明治18年)8月に金沢において代言免許を取得し、富山で代言活動を行った。 内務省による選挙干渉によって死者まで出したことで知られる1892年(明治25年)2月の第2回衆議院議員総選挙(富山第四区)では、北陸自由党から出馬し、立憲改進党の島田孝之を破って当選したが、その後1893年(明治26年)6月に当選無効訴訟が確定して失職。
坪谷 善四郎(つぼや ぜんしろう、文久2年2月26日(186… 坪谷 善四郎(つぼや ぜんしろう、文久2年2月26日(1862年3月26日) - 昭和24年(1949年)3月24日)は日本の出版人、編集者、政治家。号は水哉(すいさい)。 1862年、越後国南蒲原郡加茂(現・新潟県加茂市)に生まれる。東京専門学校(現・早稲田大学)邦語政治科在学中、博文館に入社。編集局長を経て1918年取締役就任。1895年には雑誌『太陽』の創刊にあたり初代主筆、編集主幹としてこれに従事した。政治家としては1901年以来7期にわたって東京市会議員を務め、1907年開館の東京市立図書館(現・日比谷図書文化館)建設につくした。1917年、大橋図書館(現・三康図書館)館長。1918年、日本図書館協会会長。
由布 武三郎(ゆふ たけさぶろう、文久2年2月24日(186… 由布 武三郎(ゆふ たけさぶろう、文久2年2月24日(1862年3月24日) - 大正15年(1926年)2月22日)は、日本の判事・弁護士。錦鶏間祗候。 福岡県出身。熊本バンドのメンバー。1881年(明治14年)、東京大学法学部を卒業。始審裁判所判事、上等裁判所判事、重罪裁判所裁判官、控訴院評定官、地方裁判所所長を歴任した。その後、文部省に転じ、参事官、視学官、高等商業学校(現在の一橋大学)校長などを務めた。1897年(明治30年)、行政裁判所評定官に任じられ、1910年(明治43年)に退官した。退官後は弁護士を開業した。1918年(大正7年)12月16日、錦鶏間祗候を仰せ付けられた。
神戸 挙一(かんべ きょういち、1862年3月21日(文久2… 神戸 挙一(かんべ きょういち、1862年3月21日(文久2年2月21日)-1926年(大正15年)11月25日)は日本の実業家。 東京電燈社長。甲州財閥の重鎮。 1862年3月21日(文久2年2月21日)、甲斐国都留郡東桂村に出まれる。生家の没落により、苦学して和仏法律学校(現法政大学)を卒業する(1888年(明治21年))。山梨県会書記となるが、若尾逸平に認められて東京馬車鉄道の支配人に抜擢される。その後、日本鉄道の専務取締役を経て、甲州財閥系の東洋モスリンの設立に参画し専務取締役に就任する。 1911年(明治44年)に東京電燈に入社し、翌年佐竹作太郎のあとを受けて社長に就任する。折から激化していた東京の電力供給の覇権を争った三電抗争で東京電燈を勝利に導き、東京電燈の黄金時代を築いた。
則元 由庸(のりもと なおつね、1862年3月21日〈文久2… 則元 由庸(のりもと なおつね、1862年3月21日〈文久2年2月21日〉 – 1931年〈昭和6年〉8月6日)は、日本の政治家、弁護士。勲等は勲三等。位階は従五位。 熊本市生まれ。明治法律学校(現・明治大学)中退。 長崎県で弁護士を開業し、1899年(明治32年)長崎市会議員となった。1901年(明治34年)3月11日から1908年(明治41年)1月14日までと、1909年(明治42年)1月21日から1910年(明治43年)4月8日までの2度に亘り、市会議長を務める。 また、国政にも進出し、1912年(明治45年)に衆議院議員となり、以後、立憲民政党などから計7回当選する。 1917年(大正6年)に長崎日日新聞社長に就任した。
小野 鵞堂(おの がどう、文久2年2月11日〈1862年3月… 小野 鵞堂(おの がどう、文久2年2月11日〈1862年3月11日〉 - 1922年〈大正11年〉12月6日)は、駿河国生まれの書家。名は鐧之助、字は間金、鵞堂は号。別号を斯華翁、斯華書屋主人という。斯華廼舎、二柳居の堂号もある。 明治、大正のかな書道界を代表する大家で、現代のかな書道の基礎を築いた一人である。平安期の草仮名を基底として独自の流麗なスタイルを案出し、その書風は鵞堂流と称され多くの門弟を得た。また「斯華会」を創設し、この組織をもって普及に努めたため、婦人たちで習字をするものはほとんど鵞堂流を習うという盛況を現出した。 文久2年(1862年)駿河国(静岡県)藤枝宿に、田中藩士の武道師範、小野清右衛門成命の長男として生まれる。
山口 鋭之助(やまぐち えいのすけ、1862年3月9日(文久… 山口 鋭之助(やまぐち えいのすけ、1862年3月9日(文久2年2月9日) - 1945年(昭和20年)3月4日)は、明治時代から大正時代にかけての日本の物理学者、官僚。理学博士。 出雲国(現・島根県)松江に、松江藩士・山口軍兵衛礼行(知行は200石)の三男として生まれる。1884年、東京大学理学部物理学科を卒業。 東京大学予備門教諭、第一高等学校教授を歴任。1897年、京都帝国大学理工科大学教授に転じ、文部省から留学生としてドイツ・フランスに派遣され3年間学んだ。1901年、理学博士号を取得した。 その後、学習院に移り次長に就任。1905年、第9代院長となり翌年まで在任。さらに、宮内省に転じ、図書頭、諸陵頭を歴任し、宮中顧問官となる。
宇尾野 藤八(うおの とうはち、1862年3月8日〈文久2年… 宇尾野 藤八(うおの とうはち、1862年3月8日〈文久2年2月8日〉 - 1928年〈昭和3年〉4月2日)は、日本の銀行家・会社役員、新潟県の大地主、篤農家、新潟県多額納税者。族籍は新潟県平民。 新潟県北蒲原郡水原町(現・阿賀野市)・宇尾野友太郞の長男。1887年、東京高等商業学校を卒業する。新潟商業学校長となる。1893年、家督を相続する。 新発田倉庫、新潟貯蓄銀行各監査役、第四銀行取締役・同専務取締役をつとめる。 宇尾野家は古着商で、平凡な一庶民階級であったが、藤八は極めて堅実な人で、よく産を為した。第四国立銀行創設当時、支配人の白勢彦次郎に知られ同行に入り、累進して専務取締役となった。 貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有した。
飯尾 麒太郎(いいお きたろう、1862年3月5日(文久2年… 飯尾 麒太郎(いいお きたろう、1862年3月5日(文久2年2月5日) - 1908年(明治41年)2月6日)は、明治時代の政治家、銀行家、実業家。貴族院多額納税者議員。 小松藩郷士・飯尾才右衛門、武川氏の長男として伊予国新居郡萩生村(中萩村、中萩町を経て現愛媛県新居浜市)に生まれる。尾埼山人について漢学を修めた。1888年(明治21年)新居郡会議員に当選したのを皮切りに、愛媛県会議員を務めた。1898年(明治31年)愛媛県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年6月8日から1904年(明治37年)9月28日まで在任した。 1888年(明治21年)5月、飯尾製糸場を設けて機械製糸を開始し、県内屈指の製糸工場となった。
宮川 久次郎(みやかわ きゅうじろう、文久2年2月3日(18… 宮川 久次郎(みやかわ きゅうじろう、文久2年2月3日(1862年3月3日) - 没年不詳)は、明治期日本の外交官、銀行家。在広東副領事、在香港副領事、在ニューヨーク一等総領などを歴任した。 東京府出身。高等商業学校(現一橋大学)卒業後、外務省入省。森有礼文部大臣による上申により、1888年に交際官試補と兼任して母校高等商業学校教諭に任じられ、統計を講じた。1889年広東副領事。同年汕頭副領事及び瓊州副領事を兼務。1890年香港副領事。1895年ニューヨーク一等領事。1897年に非職となり、のち横浜正金銀行副支配人などを務めた。1900年叙正六位。1908年の申酉事件では、成瀬隆蔵、図師民嘉、村瀬春雄、八十島親徳と大学問題実行委員に就任。
嵯峨の屋 おむろ(さがのや おむろ、文久2年1月12日(18… 嵯峨の屋 おむろ(さがのや おむろ、文久2年1月12日(1862年3月1日) - 昭和22年(1947年)10月26日)は、日本の小説家、翻訳家、評論家、詩人。 嵯峨の屋 お室、矢崎 嵯峨の舎(屋)(やざき さがのや)、北邙散子(ほくぼうさんし)、探美(たんび)などの筆名もある。 本名・矢崎 鎮四郎(しんしろう) 曾孫は、俳優・モデルの岡本竜汰。 後の東京市日本橋区(現・東京都中央区)日本橋箱崎にあった下総関宿藩邸生まれ。父親が脱藩し彰義隊(卍隊)に加わったため、貧苦の生活を送る。 1876年、東京外国語学校(現東京外国語大学)露語科の給費生となる。二葉亭四迷とは同級生だった。 卒業後統計院に勤めるが官制に伴って失職、二葉亭四迷の紹介で坪内逍遥の門下生となる。
井尻 良造(いじり りょうぞう、1862年3月1日 - 19… 井尻 良造(いじり りょうぞう、1862年3月1日 - 1925年9月11日)は、京都府船井郡世木村殿田にいた政治家・実業家。京都府会議員の在任中、八木町と富本村をつなぐ桂川(大堰川)のわたしにはじめて木橋を架設した。 1862年(文久2年)3月1日、良造は丸山小三太の三男として丹波国多紀郡栃梨村(現・兵庫県丹波篠山市栃梨)に生まれた。丸山家は篠山藩譜代の藩士で、側用人をつとめた上士の家柄であった。良造は、多紀郡篠山在の某塾(のちに鳳鳴義塾、現・兵庫県立篠山鳳鳴高等学校)で学んだ。 1878年(明治11年)11月、良造は16歳の時、船井郡殿田村(現・南丹市日吉町殿田)の井尻家に養嗣子として迎えられた。
戸井 嘉作(とい かさく、1862年2月23日〈文久2年1月… 戸井 嘉作(とい かさく、1862年2月23日〈文久2年1月25日〉 - 1945年〈昭和20年〉4月27日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員(立憲民政党)。横浜市会議員。横浜市参事会員。族籍は神奈川県平民。 甲斐国山梨郡下鍛冶屋村(のち山梨県西山梨郡山城村下鍛冶屋、現・山梨県甲府市)生まれ。戸井彦五郎の長男。3歳の時に母りんが亡くなり、専ら祖母ツネに養育される。 7歳より寺子屋に通い、9歳の時に初めて小学校が設けられて入学する。13歳の時に小学校を卒業して甲府の神道局(のち皇典講習所)に19歳まで修業する。20歳の時に神奈川県四等巡査を拝命する。 22歳の時に三浦郡役所準判任御用掛となる。
元田 作之進(もとだ さくのしん、文久2年2月22日(西暦1… 元田 作之進(もとだ さくのしん、文久2年2月22日(西暦1862年3月22日) - 1928年(昭和3年)4月16日)は、聖公会の日本人最初の監督(主教)。日本聖公会東京教区初代主教。立教大学の初代学長、英和学舎塾長。松下正寿は娘婿。 文久2年2月22日、筑後国久留米藩士(郡奉行を務めた)の第6子として出生。1877年(明治10年)、久留米師範学校の第一回卒業生になる。卒業後は小学校や中学校の教師を務めた。 1881年(明治14年)米国聖公会宣教師テオドシウス・ティングの大阪・川口の英和学舎(のちの立教大学)で学ぶ。 1882年(明治15年)に洗礼を受けてキリスト教に入信。同年、英和学舎の教師である河島敬蔵が日本で初めてシェイクスピア劇の翻訳を行う中で筆記を担当。
荘 清次郎(しょう せいじろう、1862年2月18日(文久2… 荘 清次郎(しょう せいじろう、1862年2月18日(文久2年1月20日) - 1926年(昭和元年)12月25日)は、日本の実業家。三菱合資会社専務理事。族籍は東京府士族。 肥前大村藩士・荘新右衛門の長男。若年にして東京に出て、一ッ橋英語学校に学び、後大学予備門に入る。1885年、東京大学卒業、法学士の称号を得る。1886年、米国に渡航し、エール大学に入り、1887年にマスター・オブ・ローの学位を受く。米国諸州を巡遊する。欧州に渡り実業を視察して帰朝、直に三菱会社に入る。 1892年、大阪に第百十九国立銀行の支店を設置されるとその支配人に挙げられ、1895年、三菱会社の神戸支店設置と共にその支店長に転じ、1900年、同社庶務部長となる。
多川 幾造(たがわ いくぞう、1862年2月18日〈文久2年… 多川 幾造(たがわ いくぞう、1862年2月18日〈文久2年1月20日〉- 1943年〈昭和18年〉7月2日)は、日本の教育者、聖職者。平安女学院院長(校長)、日本聖公会の聖職者・司祭。立教大学が築地から池袋に移転する際には、会計責任者として押川方義(東北学院創設者、前・東北学院院長)とともに校地の購入交渉を行った。 現在の大阪府岸和田市で生まれた。1883年(明治16年)に米国聖公会のテオドシウス・ティングより受洗し、大阪・英和学舎(立教大学の前身の一つ)でティングの薫陶を受け、1887年(明治20年)より、関西を中心として伝道師・牧師として働く。 1892年(明治25年)、大阪の川口居留地で米国聖公会が運営する照暗女学校(St.Agnes' School)を京都に移転することが決定し、京都府より「私立照暗女学校」の設立認可を受ける。
岡崎 賢次(おかざき けんじ、1862年2月18日(文久2年… 岡崎 賢次(おかざき けんじ、1862年2月18日(文久2年1月20日)- 1922年(大正11年)2月14日)は、明治から大正期の弁護士、公証人、実業家、政治家、自由民権運動家。衆議院議員、高知市会議長。 土佐国土佐郡、のちの高知県土佐郡初月村(現高知市)で、土佐藩士・岡崎賢七の長男として生まれる。1883年(明治16年)12月、家督を相続した。1885年(明治18年)東京専門学校(現早稲田大学)法律科を卒業した。 1887年(明治20年)3月、公証人となる。同年9月、代言人試験に合格し、同年11月、高知市で代言人(弁護士)を開業した。講法館、法学館の講師を務めた。自由民権運動に加わり、三大事件建白運動にも参加。
森 鷗外(もり おうがい、文久2年1月19日〈1862年2月… 森 鷗外(もり おうがい、文久2年1月19日〈1862年2月17日〉 - 大正11年〈1922年〉7月9日)は、日本の明治・大正期の小説家、評論家、翻訳家、教育者、陸軍軍医(軍医総監=陸軍中将相当)、官僚(高等官一等)。位階勲等は従二位・勲一等・功三級、医学博士、文学博士。本名は森 林太郎(もり りんたろう)。 石見国津和野(現在の島根県鹿足郡津和野町)出身。東京大学医学部卒業。大学卒業後、陸軍軍医になり、陸軍省派遣留学生としてドイツでも軍医として4年過ごした。 帰国後、訳詩編「於母影」、小説「舞姫」、翻訳「即興詩人」を発表する一方、同人たちと文芸雑誌『しがらみ草紙』を創刊して文筆活動に入った。
歌川 秋南(うたがわ しゅうなん、本名:兼太郎、文久2年1月… 歌川 秋南(うたがわ しゅうなん、本名:兼太郎、文久2年1月18日(1862年2月16日) - 昭和2年(1927年)10月18日)は、新潟県出身の教育者、政治家。 越後国蒲原郡柄目木村(現在の新潟県新潟市秋葉区柄目木)に真柄家の子として生まれた。17歳で教員となった後に上京し漢学などを学んだ。帰郷後は五泉の歌川家に養子に入り、26歳で家を継いだ。 1902年、家塾『猶興社』を開設し、小学校を卒業したのち旧制中学に進めないような貧しい子供達への教育の場となった。1898年よりは当時の五泉町議会の政治家となり、織物業の振興を図り織物同志会を組織したり、五泉銀行の頭取を務めるなどした。1923年には五泉町教育会長となり、図書館を建設した。
薄 定吉(すすき さだきち、1862年2月14日(文久2年1… 薄 定吉(すすき さだきち、1862年2月14日(文久2年1月16日) - 1927年(昭和2年)12月16日)は、日本の教育者、内務官僚。官選岐阜県知事、長崎市長。旧名・定右衛門。 備前国岡山城下門田屋敷出身。岡山藩士の家に生まれる。岡山中学校、大阪専門学校予科、築地大学校を経て、1882年7月、東京大学予備門を卒業。さらに1888年7月、帝国大学法科大学を卒業した。 1888年8月、第四高等中学校教諭に就任。さらに同校教授となる。1891年1月、内務省に転じ内務省試補となる。以後、図書局勤務、県治局勤務、鹿児島県参事官、同兼内務部第三課長、同兼内務部第一課長、長崎県参事官、同兼内務部第三課長、同兼内務部第五課長、群馬県書記官、山梨県書記官、奈良県書記官、鳥取県書記官、宮城県書記官、同事務官・第一部長、同兼第三部長などを歴任。
有栖川宮 威仁親王(ありすがわのみや たけひとしんのう、18… 有栖川宮 威仁親王(ありすがわのみや たけひとしんのう、1862年2月11日〈文久2年1月13日〉- 1913年〈大正2年〉7月10日)は、日本の皇族、海軍軍人。号は欽堂。官職は軍事参議官。称号・階級は元帥海軍大将。勲等は大勲位。功級は功三級。世襲親王家の有栖川宮第10代当主にして最後の当主。 有栖川宮幟仁親王(霊元天皇玄孫)の第四王子(男女合わせた王子女の中では八人目、ただし成人した男子は熾仁親王と威仁親王だけ)で、生母は家女房の森則子。熾仁親王は異母兄。幼称は稠宮(さわのみや)。妃は加賀金沢藩主前田慶寧の娘・慰子(やすこ)。 最後の有栖川宮であり、また最初に海軍に就職した皇族(皇族軍人)である。
岩村 茂(いわむら しげる、1862年1月30日(文久2年1… 岩村 茂(いわむら しげる、1862年1月30日(文久2年1月1日) - 1908年(明治41年)6月6日) は、日本の法律家。 1862年1月30日(文久2年1月1日)に伊勢国三重郡水沢村(三重県四日市市)で、豐田久三郎の三男として生まれる。号は冠峰。幼時に両親を亡くし、岩村定高(初代三重県令)の養子となる。普通学を修めた後、1879年(明治12年)三重県医学校に入学。明治天皇の巡行の際に選抜され、勅使の前でドイツのハルトマンの病理学書を講読し、賞品を授かる。この年12月に東京大学医学部に県費で入学を命じられる。大学予備門、第一高等中学校を卒業、県の許可を得て帝国大学法科大学に入学する。 1890年(明治23年)に学士の称号を得て卒業。
川上 俊彦(かわかみ としつね、1862年1月28日(文久元… 川上 俊彦(かわかみ としつね、1862年1月28日(文久元年12月29日) - 1935年(昭和10年)9月12日)は、明治から昭和初期にかけて活躍した外交官、実業家である。外交官時代はロシア関連の役職を歴任し、日露戦争では旅順要塞陥落時の水師営の会見で通訳を務め、ハルビン総領事時代には伊藤博文暗殺事件に遭遇した。退官後は日魯漁業社長などを務めた。 村上藩士・川上泉太郎の長男として越後国村上(現在の新潟県村上市)で生まれる。幼名は銀太郎。 新潟師範学校を中退し東京外国語学校ロシア語学科に入学。1884年に卒業後、外務省に入省。1886年在釜山領事館書記生。1889年在ウラジオストック貿易事務館領事館書記生。
3代 加藤 宇兵衛(かとう うへえ、1862年1月27日(文… 3代 加藤 宇兵衛(かとう うへえ、1862年1月27日(文久元年12月28日) - 1929年(昭和4年)8月22日)は、明治から昭和時代初期の政治家、銀行家、実業家。大地主。貴族院多額納税者議員。衆議院議員(3期)。 造酒屋「沢成 (さわなり、屋号・沢屋)」の2代・加藤成之助の長男として、陸奥黒石藩領津軽郡黒石上町(青森県南津軽郡黒石町を経て現黒石市)に生まれる。1890年(明治23年)から青森県会議員に5回、1902年(明治35年)から衆議院議員に3回当選する。さらに1906年(明治39年)には青森県多額納税者として貴族院議員に互選され、翌年1月18日から1911年(明治44年)9月28日まで在任した。
加藤 彰廉(かとう あきかど、文久元年12月27日(1862… 加藤 彰廉(かとう あきかど、文久元年12月27日(1862年1月26日) - 昭和8年(1933年)9月18日)は、衆議院議員(無所属団→公友倶楽部→公正会)、教育者。 伊予松山藩士宮城正修の二男として江戸に生まれ、加藤彰の養子となった。1884年(明治17年)、東京大学文学部を卒業。文部省御用掛、主税局御用掛、大蔵属を歴任した。1888年(明治21年)、山口高等中学校教諭となり、1894年(明治27年)に広島中学校の校長に就任した。 1895年(明治28年)に市立大阪商業学校(現在の大阪市立大学)教諭に招かれ、1899年(明治32年)に校長となり、1901年(明治34年)まで務めた(任期中に市立大阪高等商業学校に校名変更)。
島邨 俊一(しまむら しゅんいち、文久元年12月25日(18… 島邨 俊一(しまむら しゅんいち、文久元年12月25日(1862年1月24日) - 1923年(大正12年)3月11日)は戦前日本の精神病学者、神経病学者。京都府立医学専門学校長、同校附属病院長。狐憑きの研究でも知られる。 文久元年12月25日(1862年1月24日)江戸駒込片町に生まれた。本籍は東京市本郷区駒込東片町73番地。 1887年(明治20年)3月16日帝国大学医科大学医学部を卒業し、5月3日大学院に進み、精神病学室榊俶に就いたが、榊は東京府癲狂院の患者の診療を任され、精神病学室も同院に置かれており、8月3日島邨も隔日出頭し、9月2日当直医となり、6日大学院を中退、10日医科大学助手として第一医院勤務を命じられた。
安部 熊之輔(本名:熊之助、あべ くまのすけ、1862年1月… 安部 熊之輔(本名:熊之助、あべ くまのすけ、1862年1月18日(文久元年12月19日)- 1925年(大正14年)8月24日)は、明治から大正期の篤農家、政治家。衆議院議員。旧姓・岩松。 豊前国企救郡長浜浦(福岡県企救郡小倉町、小倉市を経て現北九州市小倉北区)で、庄屋岩松助左衛門の孫として生まれ、同郡、のちの西谷村高野(現小倉南区)の安部(阿部)家の養子となる。 1877年(明治10年)に上京して佐藤製缶所で職工として働きながら農書を学んだ。1881年(明治14年)長野県、山梨県の農業を視察して園芸の道に進むことを決意した。1885(明治18年)に帰郷し、遠賀郡戸畑町中原で模範果樹園を開設しようと試みたが園芸に不適な地であったため、1905年(明治38年)足立山南麓の企救郡曽根村大字湯川(現:小倉南区)に転じ果樹園(園芸模範場)を設けた。