スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
島田 謹介(しまだ きんすけ、1900年6月28日 - 19… 島田 謹介(しまだ きんすけ、1900年6月28日 - 1994年6月30日)は、日本の写真家。 長野県埴科郡松代町(後の長野市松代)に、医師の息子として生まれ、旧制長野中学(長野県長野高等学校の前身)を卒業する。中学校時代は画家志望であったが、結核にかかり療養を余儀なくされる中で、病床で目にしたシベリア出兵の報道写真をきっかけに、報道カメラマンを志すようになり、1920年に中学校を卒業して上京した。 1920年、朝日新聞東京本社に入社して社会部写真係に所属する報道カメラマンとなり、1923年に『アサヒグラフ』が創刊されるとその写真班員となった。以降、関東大震災(1923年)、五・一五事件(1932年)、二・二六事件(1936年)などの取材にあたった。
倉島 丹浪(くらしま たんろう、1899年(明治32年)4月… 倉島 丹浪(くらしま たんろう、1899年(明治32年)4月22日 - 1992年(平成4年)12月23日)は、日本画家。河童の絵を多く手掛けた。 長野県埴科郡倉科村(現・千曲市)生まれ。旧制長野中学に進む。1921年(大正10年)、上京し、本郷絵画研究所に学び、橋本静水に師事。1926年(大正15年)、横山大観に入門。1930年(昭和5年)、野木逸子と結婚。「八代宗彦」の名で漫画家として活躍。戦後、屋代町(現・千曲市屋代)の芸術家集団白炎社設立に参加。1969年(昭和44年)、創作画協会の設立に尽力、特別理事に就任。1974年(昭和49年)、紺綬褒章受章。1980年(昭和55年)、更埴市長表彰。
小林 周蔵(こばやし しゅうぞう、1899年〈明治32年〉3… 小林 周蔵(こばやし しゅうぞう、1899年〈明治32年〉3月31日 - 1984年〈昭和59年〉10月9日)は、昭和時代の日本の実業家である。信越化学工業の第5代社長を務めた。現在の長野市出身。 1899年(明治32年)3月31日、小林太一郎の三男として生まれる。出身地は長野県上水内郡朝陽村(現・長野市)。長野中学校を卒業したのち、東京商科大学(現一橋大学)大学予科を経て1924年(大正13年)3月同大学本科を卒業した。 大学卒業後は前年に設立されたばかりの電機メーカー富士電機製造(現・富士電機)へと志願入社し、川崎工場に配属された。1931年(昭和6年)秋、富士電機製造から退社し、郷里長野県の電力会社信濃電気に入社する。
宮澤 俊義(みやざわ としよし、1899年〈明治32年〉3月… 宮澤 俊義(みやざわ としよし、1899年〈明治32年〉3月6日 - 1976年〈昭和51年〉9月4日)は、日本の法学者。専攻は憲法。東京大学名誉教授。立教大学法学部元教授。貴族院議員。日本野球機構(プロ野球)コミッショナー。位階は従二位。日本国憲法の制定に寄与し、憲法学の権威と謳われた。美濃部達吉門下。弟子に佐藤功、高柳信一、小嶋和司、芦部信喜、深瀬忠一など。 1899年(明治32年)3月6日、長野県長野市に生まれる。旧制長野中学、東京府立四中、第一高等学校を卒業。 1923年、東京帝国大学法学部卒業後、美濃部達吉の助手(弟子)となり、1925年、同大学法学部助教授となる。1930年から1932年にかけて、フランス、ドイツ、アメリカへ留学。
宮澤 俊義(みやざわ としよし、1899年(明治32年)3月… 宮澤 俊義(みやざわ としよし、1899年(明治32年)3月6日 - 1976年(昭和51年)9月4日)は、日本の法学者。専攻は憲法。東京大学名誉教授。貴族院議員。長野県長野市出身。
西村 彰一(にしむら しょういち、1898年(明治31年)5… 西村 彰一(にしむら しょういち、1898年(明治31年)5月8日)- 1958年(昭和33年)11月24日)は、日本の農林官僚、教育者、政治家。富山県知事、大東文化大学教授、衆議院議員。旧姓・永井。 長野県上水内郡古牧村平林(現長野市)出身。旧制長野中学(現長野県長野高等学校)、松本高等学校理科を経て1923年、東京帝国大学農学部農業経済学科を卒業し、翌1924年、同大法学部政治学科を卒業。農林省に入り農林属となる。 以後、農林事務官、農林書記官、大阪営林局長、農林省山林局長などを歴任。1944年2月、富山県知事に就任し、同年7月まで在任。農商省農政局長に移り、さらに馬政局長官、農林省開拓局長を務めた。
今井 武夫(いまい たけお、1898年〈明治31年〉2月23… 今井 武夫(いまい たけお、1898年〈明治31年〉2月23日 - 1982年〈昭和57年〉6月12日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は少将。 長野県上水内郡朝陽村(現長野市)の自作農今井熊太郎の六子のうち末子・四男として生まれた。1915年(大正4年)、(旧制)長野中学校を卒業(15回生)。六年制になったばかりの尋常小学校初の卒業生で、早生まれのため、高等小学校卒業生の多かった長野中学卒業生の中で今井は2番目に若かった。1918年(大正7年)、陸軍士官学校(30期、兵科は歩兵)を、1928年(昭和3年)、陸軍大学校(40期)をそれぞれ卒業。 陸大卒業以降、フィリピンに出征した約1年間を除き、日中戦争期間中、和平工作に従事した。
三村 一(みむら はじめ、1897年8月21日 - 1980… 三村 一(みむら はじめ、1897年8月21日 - 1980年4月28日)は、日本の農学者。専門は畜産学。 長野県諏訪郡落合村(現富士見町)生まれ。旧制長野中学(長野県長野高等学校)、盛岡高等農林学校を経て、大正12年(1923年)京都帝国大学農学部卒業。昭和2年(1927年)九州帝国大学助手、同16年(1941年)助教授、同24年(1949年)宮崎大学教授、同30年(1955年)信州大学農学部教授、同37年(1962年)同大学長を歴任。同43年(1968年)退官、同年11月、勲二等旭日重光章受章。主な研究内容にはニワトリの人工授精や、日本在来馬に関するものがある。 弟の三村二は東京医科歯科大学歯学部教授、政治家の小川平吉は叔父、同じく政治家の小川一平、小川平二、外交官の小川平四郎は従兄弟にあたる。
山口 進(やまぐち すすむ、1897年1月25日 - 198… 山口 進(やまぐち すすむ、1897年1月25日 - 1983年11月25日)は、日本の版画家。 長野県上伊那郡箕輪町出身。1916年に長野中学を卒業した。1920年から1926年まで白馬会葵橋洋画研究所に学び、黒田清輝や中川紀元に師事した。日本美術学校にも通ったが、1922年に中退した。 1923年に日本創作版画展、日本漫画展に初入選した。1925年に旧制第一高等学校訓務部事務職員となり、一高画会で絵を指導した。 1928年には油絵で第6回春陽会展で初入選し、1937年まで同会に油絵の出品を続けた。 1932年ロサンゼルスオリンピックの芸術競技と1936年ベルリンオリンピックの芸術競技の絵画種目に出品した。
小出 隆(こいで たかし、1896年 <明治29年> 8月2… 小出 隆(こいで たかし、1896年 <明治29年> 8月21日 - 1982年 <昭和57年> 12月11日)は、日本の経営者。八十二銀行頭取を務めた。位階は従四位。 長野県更級郡稲荷山町(現・千曲市)出身。旧制長野中学(長野県長野高等学校)を経て、1918年に早稲田大学商学部を卒業し、同年に六十三銀行(のちの八十二銀行)に入行。1937年に常務を経て、1951年2月に頭取に就任。1973年5月には会長に就任。1973年5月に会長を経て、1975年12月に相談役に就任。信越化学工業監査役も務めた 1957年に黄綬褒章を受章し、1966年に勲四等瑞宝章を受章し、1975年4月に勲三等旭日中綬章を受章。
塩原 時三郎(しおばら ときさぶろう、1896年(明治29年… 塩原 時三郎(しおばら ときさぶろう、1896年(明治29年)2月18日 - 1964年(昭和39年)10月27日)は、日本の逓信官僚、政治家。衆議院議員、通信院総裁・逓信院総裁、官選清水市長。 長野県更級郡八幡村(現・千曲市)出身。和田開蔵の長男として生まれ、山林技師・塩原谷五郎の養子となる。旧制長野中学、第八高等学校を経て、1920年(大正9年)7月、東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業。在学中の1919年(大正8年)4月、国家主義的学生団体興国同志会(国本社の前身)の結成に参画した。 大学卒業後、官界に入り逓信局書記兼逓信属・東京逓信局兼電気局勤務となる。1921年(大正10年)11月、高等試験行政科試験に合格。
早川 元(はやかわ はじめ、1895年(明治28年)6月21… 早川 元(はやかわ はじめ、1895年(明治28年)6月21日 - 1970年(昭和45年)8月4日)は、日本の内務官僚。官選県知事、海軍司政長官。 長野県出身。早川繁夫の長男として生まれる。第八高等学校を卒業。1920年、東京帝国大学法学部を卒業。1921年、貴族院に入り貴族院属となる。1922年11月、高等試験行政科試験に合格。 1923年4月、内務省に転じ警視庁属となる。以後、警察署長、警視庁事務官、同消防部長、長崎県書記官・警察部長、愛知県書記官・警察部長などを経て、1939年4月、熊本県総務部長に就任。 1941年1月、沖縄県知事に就任。標準語・国民礼法励行運動、南進政策、翼賛壮年団の結成、食糧増産などを推進した。
ペトル河野通勢( - こうの みちせい、1895年6月10日… ペトル河野通勢( - こうの みちせい、1895年6月10日 - 1950年3月31日)は、日本の画家、版画家。 風景画、人物画(自画像含む)、銅版画、木版画、小説等の挿絵、装丁、山水画、南画など、その膨大な量の作品が占めるジャンルは多岐に亘っているのみならず、画風もまた題材・時期によって様々な展開をみせており、舞台美術なども手がけている。代表作には関東大震災に取材した多数の銅版画が挙げられる。 父の河野次郎(下野国足利藩士、旧姓杉本、聖名:アレクセイ)は長野師範学校の図画教師も務め、高橋由一の門下で洋画の普及・教育に尽力した洋画家であり、後に写真家となった熱心な正教徒であった。通勢も9歳の時に正教の洗礼を受けた。
近藤 壌太郎(こんどう じょうたろう、1894年11月13日… 近藤 壌太郎(こんどう じょうたろう、1894年11月13日 - 1977年8月15日)は、日本の内務官僚、弁護士。官選県知事。 長野県埴科郡屋代町(現:千曲市屋代)において、農業・旅館業、近藤万五郎・たか夫妻の長男として生まれる。4歳で母と死別。県立長野中学校、第二高等学校を経て、1920年(大正9年)7月、東京帝国大学法学部法律学科を卒業。1919年(大正8年)10月、高等試験行政科試験に合格。1920年(大正9年)8月、内務省に入り鳥取県属となり内務部に配属。以後、鳥取県警視・警察部勤務、奈良県警察部保安課長、青森県警察部保安課長、北海道庁土木部土地改良課長を歴任。北海道庁在任中の1927年(昭和2年)6月、文官分限令第11条第1項第4号により休職を命ぜられ帰郷した(逸話を参照)。
北村 勝三(きたむら かつぞう、1894年(明治27年)1月… 北村 勝三(きたむら かつぞう、1894年(明治27年)1月15日 - 1947年(昭和22年)8月15日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 長野県出身。菜種商・北村長次の長男として生まれる。長野中学校(現長野県長野高等学校)、東京陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1914年(大正3年)5月、陸軍士官学校(26期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第58連隊付となる。1916年(大正5年)9月から1917年(大正6年)1月まで陸軍戸山学校学生となる。1918年(大正7年)12月、第12師団司令部付に発令され、1919年(大正8年)1月から1920年(大正9年)3月までシベリア出兵に出征。
草川 信(くさかわ しん、1893年2月14日 - 1948… 草川 信(くさかわ しん、1893年2月14日 - 1948年9月20日)は、日本の作曲家。 長野県上水内郡長野町(現長野市)に旧松代藩士で銀行員の草川一成の四男として生まれる。長野師範学校附属小学校(信州大学教育学部附属長野小学校)で福井直秋に薫陶を受け、旧制長野中学(長野県長野高等学校の前身)を経て、東京音楽学校(東京芸術大学音楽学部の前身)に進むとヴァイオリンを安藤幸と多久寅に、ピアノを弘田龍太郎に師事する。 1917年卒業後、渋谷区立小学校訓導、東京府立第三高等女学校(東京都立駒場高等学校と東京都立芸術高等学校の前身)教諭、東京市杉並高等家政女学校(東京都立荻窪高等学校の前身)、東京音楽学校教務嘱託など教職の傍ら、東京音楽学校管弦楽団などで演奏家として活動。
小林 次郎(こばやし じろう、1891年(明治24年)8月1… 小林 次郎(こばやし じろう、1891年(明治24年)8月13日 - 1967年(昭和42年)7月2日)は、日本の内務官僚。位階は正三位。貴族院書記官長、貴族院勅選議員、参議院事務総長。 1891年長野県上水内郡高岡村(現飯綱町)に小学校教員の父小林頼利、母ときの次男として生まれる。当時小林家は家屋の一部を高岡村役場庁舎として貸していたので、次郎は「村役場に生まれた子」であった。また次郎が高岡尋常小学校(飯綱町立牟礼小学校)に通っていた9歳の時、父頼利が校長に着任したため「村の校長先生の子」ともなった。城山尋常高等小学校(長野市立城山小学校)から旧制長野中学校(長野県長野高等学校)へ進学。一年先輩には青木一男(大蔵大臣)、一年後輩には栗林忠道(陸軍大将)がいた。
栗林 忠道(くりばやし ただみち、1891年〈明治24年〉7… 栗林 忠道(くりばやし ただみち、1891年〈明治24年〉7月7日 - 1945年〈昭和20年〉3月26日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。位階勲等は従四位勲一等(旭日大綬章)。陸軍士官学校26期・陸軍大学校35期。長野県埴科郡西条村(現:長野市松代町)出身。 第二次世界大戦(太平洋戦争/大東亜戦争)末期の硫黄島の戦いにおける、日本軍守備隊の最高指揮官(小笠原兵団長。小笠原方面陸海軍最高指揮官)であり、その戦闘指揮によって敵であったアメリカ軍から「アメリカ人が戦争で直面した最も手ごわい敵の一人であった」と評された。 戦国時代以来の旧松代藩郷士の家に生まれる。1911年(明治44年)、長野県立長野中学校を卒業(第11期)。
14代 藤井 伊右衛門(ふじい いうえもん、1890年 (明… 14代 藤井 伊右衛門(ふじい いうえもん、1890年 (明治23年)2月2日 - 1974年(昭和49年)5月8日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員、長野市長。初名・邦太郎。 長野県上水内郡長野町西之門町(現長野市)で、醸造業・「吉野屋」の13代藤井伊右衛門の長男として生まれる。生家は紀伊国発祥で、慶長3年(1598年)に善光寺町に移住し、代々にわたり町年寄を務めた。 長野県立長野中学校を経て、1912年、大阪高等工業学校醸造科を卒業。1926年、家督を相続して14代藤井伊右衛門を襲名し吉野屋を継いだ。 1934年12月7日、長野市長に就任し、1937年5月23日まで在任。1942年4月の第21回衆議院議員総選挙で翼賛政治体制協議会の推薦を受け長野県第1区から出馬して当選。
青木 一男(あおき かずお、1889年〈明治22年〉11月2… 青木 一男(あおき かずお、1889年〈明治22年〉11月28日 - 1982年〈昭和57年〉6月25日)は、日本の大蔵官僚・政治家。位階は従二位、勲等は勲一等。 貴族院議員(勅選)、参議院議員(4期)、大蔵大臣、大東亜大臣などを歴任。 長野県更級郡牧郷村(現:長野市)で農家・青木善蔵の長男として生まれる。高等小学校卒業後は農業に従事して母と祖母の手助けをするつもりでいたが、出奔していた父親から「学資を送るので進学せよ」との手紙が届き、長野中学校(現:長野県長野高等学校)に進学する。のち第一高等学校を経て、1916年(大正5年)に東京帝国大学法学部を卒業し、大蔵省に入省する。 入省後、預金部運用課長、蔵相秘書官兼秘書課長、理財局国庫課長に就任。
北村 匡登(きたむら まさと、1889年(明治22年)10月… 北村 匡登(きたむら まさと、1889年(明治22年)10月15日 - 1985年(昭和60年))は、日本の政治家。長野県更埴市長。 長野県埴科郡屋代町(現千曲市)生まれ。1907年(明治40年)旧制長野中学(現長野県長野高等学校)卒業。屋代町役場に入り、税務官吏を経て1922年(大正11年)第六十三国立銀行入行。のち八十二銀行篠ノ井支店長を経て1945年(昭和20年)に退職した。 1942年(昭和17年)屋代町会議員に就任。同議長、農業協同組合監事なども務め、1953年(昭和28年)6月、屋代町長に当選。2町2村による「更埴中部市制」実現を掲げ研究協議会を設置し、更埴市の誕生に貢献した。 1959年(昭和34年)7月、初代更埴市長に就任し、1963年(昭和38年)7月まで1期在任した。
春日 篤(かすが あつし、1887年10月4日 - 1976… 春日 篤(かすが あつし、1887年10月4日 - 1976年2月11日)日本の帝国海軍提督。最終階級は海軍少将。 戦艦「陸奥」艦長。重巡洋艦「鳥海」艦長。第1潜水戦隊司令官。佐世保防備戦隊司令官。グアムの戦いにおけるグアム島攻略部隊指揮官及びマリアナ方面防衛部隊第5根拠地隊司令官。第5特別根拠地隊司令官。 長野県下高井郡穂波村佐野(現在、山ノ内町)出身。長野県会議員(第1回県議選~第4回県議選)を務めた春日与市の長男の春日喜一郎の息子として生まれる。穂波小学校から旧制長野中学(長野県長野高等学校)に進学して卒業。1909年(明治42年)11月、海軍兵学校(37期)を卒業し、翌年12月に海軍少尉任官。
高野 忠衛(たかの ただえ、1886年(明治19年)2月7日… 高野 忠衛(たかの ただえ、1886年(明治19年)2月7日 - 1970年(昭和45年)12月15日)は、大正から昭和時代前期の政治家。長野県長野市長。 長野県上水内郡高岡村(現・飯綱町高岡地区)出身。1905年(明治38年)旧制長野県立長野中学校(長野県長野高等学校の前身)を卒業後、同郡中郷小学校で代用教員を務め、1910年(明治43年)長野県庁に奉職し、1914年(大正3年)高等文官試験に合格する。 下高井郡・上伊那郡各書記を経て、1918年(大正7年)7月に長野県下水内郡長、1922年(大正11年)3月に同県東筑摩郡長、1926年(大正15年)7月に地方事務官社会課長、地方課長を歴任し、1928年(昭和3年)4月に退官。
春日 弘(かすが ひろむ、1885年(明治18年)8月8日 … 春日 弘(かすが ひろむ、1885年(明治18年)8月8日 - 1970年(昭和45年)9月12日)は、長野県下高井郡穂波村佐野(現・山ノ内町)出身の日本の実業家。 住友本社理事、取締役。住友金属工業初代社長。ダイキン工業初代会長。JOC日本オリンピック委員会委員。1964年東京オリンピック大会組織委員会委員及び同財務委員。日本陸上競技連盟2代目会長。ヘルシンキオリンピック大日本選手団総監督。ローマオリンピック日本選手団長。大阪府公安委員長。正四位勲二等瑞宝章。国際陸連IAAF功労賞。 長野県会議員(第1回県議選から第4回県議選)を務めた春日与市の長男の春日喜一郎の長男として生まれる。春日与市は、約12キロに及ぶ引き水工事である屏風堰を松代藩に一切費用を頼らず自己・有志資金のみで建造 した北信濃の名士で、その長男の春日喜一郎の代では、所有する田畑は60町歩(180000坪)、山林は現在の佐野の8割に達していた。
苫米地 英俊(とまべち ひでとし、1884年(明治17年)1… 苫米地 英俊(とまべち ひでとし、1884年(明治17年)12月1日 - 1966年(昭和41年)5月5日)は、日本の言語学者(英語学)、国際法学者、政治家、衆議院議員(4期)、参議院議員(1期)。 小樽高等商業学校(現小樽商科大学)、札幌短期大学、北海道自動車短期大学(現北海道科学大学短期大学部)などの校長や学長を歴任。 1884年現在の福井県大野市に生まれる。その後長野県長野市に移り、旧制長野中学(長野県長野高等学校)を卒業後、1904年に東京外国語学校英語科に入学。 長野時代から柔道で頭角をあらわし、東京外国語学校在学中に講道館に入門、嘉納治五郎の主催する嘉納塾の塾監として嘉納塾の子弟の指導にあたる。
南沢 宇忠治(みなみざわ うちゅうじ、明治7年(1874年)… 南沢 宇忠治(みなみざわ うちゅうじ、明治7年(1874年)3月21日 - 昭和7年(1932年)4月6日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 長野県更級郡石川村(現長野市)に旧松代藩士・南沢忠正の長男として生まれる。旧制長野県尋常中学、旧制第一高等中学を経て、明治34年(1901年)東京帝国大学工科大学電気工学科卒業。大倉組に入社したが、同38年(1905年)に日光電力に技師長として招聘され、その後は独立し 東京に八重洲商会を創立し、電気器具の販売の他、東京市電気局や東京電燈等各社の電気工事の請負を手掛けた。また藤田組と協力し、北安曇郡大町に明治水力電気を創立して重役となった。 大正6年(1917年)第13回衆議院議員総選挙に当選し、千曲川の堤防構築による治水問題に取り組んだ。
七沢 清助(ななさわ せいすけ、旧字体: 七澤 淸助、187… 七沢 清助(ななさわ せいすけ、旧字体: 七澤 淸助、1873年〈明治6年〉8月17日 - 1967年〈昭和42年〉2月28日)は、大正・昭和期に活動した日本の政治家、実業家である。長野県出身。旧姓は井口。 井口家から長野で菓子商「凮月堂」を営む七沢家に養子入り家業を継ぐ。長野市会議員(当選3回)や信濃電気支配人を務めたのち1934年(昭和9年)には第6代長野市長に選ばれた。晩年は長野信用金庫役員を長く務めた。 七沢清助は、1873年(明治6年)8月、長野県人・井口常治郎の次男として生まれた。出身地は長野県更級郡原村(後の中津村、現・長野市)。長野中学校を経て上京し東京物理学校で学んだのち、長野県に戻り北佐久郡志賀小学校で教諭となった。
水崎 基一(みずさき もといち、1871年11月10日(明治… 水崎 基一(みずさき もといち、1871年11月10日(明治4年9月28日) - 1937年(昭和12年)11月29日)は、日本の経済学者、教育者。同志社大学経済学部教授を経て、浅野綜合中学校(現・浅野中学校・高等学校)初代校長。クリスチャン。なお、書、漢詩、短歌の雅号は濃川。 1871年(明治4年)9月28日、7月の廃藩置県直後の松本県(11月に筑摩県となった)筑摩郡北深志下下町(現・松本市)に、旧松本藩士水崎好照の長男として誕生した。廃藩置県の混乱と大家族だった水崎家の困窮の中で、1878年(明治11年)、2年前に新校舎が建設された、文明開化を象徴する開智学校に入学し、松本新聞社に勤務しながら苦学して通った。
小田切 磐太郎(おたぎり いわたろう、明治2年10月3日〈1… 小田切 磐太郎(おたぎり いわたろう、明治2年10月3日〈1869年11月6日〉 - 1945年〈昭和20年〉9月22日)は、明治後期から大正初期にかけての日本の内務官僚・官選県知事、昭和戦前期にかけての弁護士・政治家・実業家である。 現在の長野県須坂市の出身で、政界では衆議院議員(当選2回)、実業界では信濃電気の副社長や長野商工会議所会頭を務めた。 小田切磐太郎は、明治2年10月3日(新暦:1869年11月6日)、小田切豊太郎の長男として生まれた。父・豊太郎は長野県上高井郡須坂町、現在の須坂市の豪商小田切家(屋号は「東糀屋」)の一族で、3代目小田切新蔵の弟にあたる。1875年(明治8年)より須坂の地場産業である製糸業(山ヨ製糸所)を経営していた。
小早川 潔(こばやかわ きよし、安政5年5月2日(1858年… 小早川 潔(こばやかわ きよし、安政5年5月2日(1858年6月12日) - 昭和2年(1927年)3月19日)は、日本の教育者。 信濃国上田城下(現長野県上田市)に上田藩士小早川維祺の次男として生まれる。明治11年(1878年)上田町常入学校首席訓導となり、上京して同人社で英学、原要義塾で数学を学び、同17年(1884年)東京高等師範学校中学師範科を卒業。長野県上水内中学校(長野県長野高等学校)校長に任命される。この頃、教育職能団体である「長野教育談会」が創設され、組織を改正し、長野教育会(信濃教育会の前身)となると、会長に選ばれた。同19年(1886年)長野県師範学校教諭に転任し、校長浅岡一を補佐し、新校舎の建築や付属小学校の開校に尽力した。
中澤 輝 は、NHKのチーフアナウンサー。
町田 明広(まちだ あきひろ、1962年 - ) は、日本の… 町田 明広(まちだ あきひろ、1962年 - ) は、日本の歴史学者。神田外語大学教授。 長野県長野市出身。長野県長野高等学校、上智大学文学部ドイツ文学科、慶應義塾大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科修士課程・同博士後期課程修了。2009年、「文久期中央政局における薩摩藩の動向」で博士(文学)(佛教大学)の学位を取得。 神田外語大学専任講師、2013年准教授となり、同日本研究所副所長を務める。 日本近現代史(明治維新史・対外認識論)、特に幕末の薩摩藩を専門とする。明治維新史学会理事などを歴任。