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笠井 智一(かさい ともかず、1926年(大正15年)3月8… 笠井 智一(かさい ともかず、1926年(大正15年)3月8日 - 2021年(令和3年)1月9日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍上等飛行兵曹。第二次世界大戦(大東亜戦争)における戦闘機パイロット。共同撃墜10機を記録。 1926年(大正15年)3月8日、兵庫県多紀郡篠山町(現・丹波篠山市)の農家に男3人女2人の兄弟の末っ子として生まれた。体は大きく運動神経も良かったが、乗り物に弱くバス酔いする体質であった。鳳鳴中学2年の時、母校の先輩であり渡洋爆撃で知られていた小谷雄二大尉の帰郷講演を聞いて感動し海軍航空隊を志す。中学4年の時、甲種予科練に合格する。同期生に神風特別攻撃隊「敷島隊」隊員となった谷暢夫がいる。
園田 晟之助(そのだ せいのすけ、1895年(明治28年)1… 園田 晟之助(そのだ せいのすけ、1895年(明治28年)12月20日 - 1942年(昭和17年)4月6日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 兵庫県出身。鳳鳴義塾塾長・園田定太郎の長男として生まれる。鳳鳴中学校(現兵庫県立篠山鳳鳴高等学校)、大阪陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1917年(大正6年)5月、陸軍士官学校(29期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第70連隊付となる。1924年(大正13年)11月、陸軍大学校(36期)を卒業した。 1925年(大正14年)12月、陸軍省軍務局付勤務となり、陸軍兵器本廠付兼整備局課員、参謀本部付(支那研究員)、整備局課員、軍務局課員を務め、1932年(昭和7年)8月、歩兵少佐に進級し整備局課員・参謀本部員を兼務した。
小林 浅三郎(こばやし あささぶろう、1891年(明治24年… 小林 浅三郎(こばやし あささぶろう、1891年(明治24年)4月1日 - 1974年(昭和49年)3月7日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 兵庫県出身。農業・小林荘助の三男として生れる。鳳鳴中学校卒を経て、1912年(明治45年)5月、陸軍士官学校(24期)を卒業。同年12月、陸軍歩兵少尉に任官し歩兵第70連隊付となる。陸士生徒隊付などを経て1922年(大正11年)11月、陸軍大学校(34期)を卒業。 1923年(大正12年)1月、歩兵第70連隊中隊長に就任。陸軍歩兵学校教官を経て、1927年(昭和2年)3月から1929年(昭和4年)6月までイギリスに駐在。この間、1927年12月、歩兵少佐に昇進した。
樋口 季一郎(ひぐち きいちろう、1888年〈明治21年〉8… 樋口 季一郎(ひぐち きいちろう、1888年〈明治21年〉8月20日 - 1970年〈昭和45年〉10月11日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。兵庫県淡路島出身。歩兵第41連隊長、第3師団参謀長、ハルビン特務機関長、第9師団長等を経て、第5方面軍司令官兼北部軍管区司令官。 第二次世界大戦前夜、ドイツによるユダヤ人迫害を逃れた避難民に満洲国通過を認めたとされ、これは「ヒグチ・ルート」と呼ばれたと言われる。[ヒグチ・ルート]からはかつて「2万人を救出した」と喧伝されたこともあったが、実態は不明な部分も多い。 太平洋戦争中、アッツ島の戦いにおいて樋口の命によりアッツ島守備隊は玉砕、その後の南方諸島で続発する日本軍守備隊玉砕の引き金となった。
磯谷 廉介(いそがい れんすけ、1886年〈明治19年〉9月… 磯谷 廉介(いそがい れんすけ、1886年〈明治19年〉9月3日 - 1967年〈昭和42年〉6月6日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。太平洋戦争期に日本占領下の香港で総督を務めた。 兵庫県出身。旧篠山藩士・磯谷次郎の三男として生れる。私立尋常中学鳳鳴義塾、大阪陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1904年(明治37年)10月、陸軍士官学校(第16期)を卒業。同期に板垣征四郎・土肥原賢二がいる。翌月、歩兵少尉に任官し歩兵第20連隊付となった。1915年(大正4年)12月、陸軍大学校(27期)を卒業し歩兵第20連隊中隊長に就任。 1916年(大正5年)8月、参謀本部付勤務となり、参謀本部員、参謀本部付(広東駐在)、歩兵第13連隊付(広東駐在)、歩兵第13連隊大隊長を歴任し、1922年(大正11年)12月に帰国。
河本 大作(こうもと だいさく、1883年〈明治16年〉1月… 河本 大作(こうもと だいさく、1883年〈明治16年〉1月24日 - 1955年〈昭和30年〉8月25日)は、昭和初期に活動した日本の陸軍軍人。陸軍大佐。張作霖爆殺事件の計画立案者として知られている。 1883年(明治16年)1月24日、兵庫県佐用郡三日月村(現:佐用町)に、地主河本参二の次男として生まれた。高等小学校、大阪陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1903年(明治36年)11月に陸軍士官学校(第15期、卒業順位97番、歩兵科)を卒業。翌年日露戦争に出征、重傷。1914年(大正3年)に陸軍大学校(第26期、修了順位24番)を卒業した。中支派遣軍参謀、参謀本部付、支那公使館付武官補佐官、陸軍大学兵学教官、1926年(大正15年)3月には大佐で関東軍参謀となる、そこで1928年(昭和3年)6月の張作霖爆殺事件により停職、待命、予備役編入。
安藤 紀三郎(あんどう きさぶろう、1879年(明治12年)… 安藤 紀三郎(あんどう きさぶろう、1879年(明治12年)2月11日 - 1954年(昭和29年)5月10日)は、日本の政治家、陸軍軍人。軍人としての最終階級は中将。 太平洋戦争時の大政翼賛会副総裁、国務大臣、内務大臣。戦後、A級戦犯容疑者として逮捕された。 兵庫県で旧篠山藩士、鳳鳴義塾長で歌人の安藤直紀(内藤中虚の次男)の次男として生まれ、鳳鳴義塾中学を卒業。 1899年(明治32年)11月、陸軍士官学校(11期)を卒業し、翌年6月、陸軍歩兵少尉となる。1901年(明治34年)台湾守備歩兵第10大隊附となり、翌年、陸軍歩兵中尉となる。1904年(明治37年)10月、歩兵第10連隊中隊長となり、同年11月、陸軍歩兵大尉となる。
本庄 繁(ほんじょう しげる、1876年〈明治9年〉5月10… 本庄 繁(ほんじょう しげる、1876年〈明治9年〉5月10日 - 1945年〈昭和20年〉11月20日)は、日本の陸軍軍人。第10師団長・関東軍司令官・侍従武官長を歴任し階級は陸軍大将正三位勲一等功一級男爵に至る。軍を退いてからは軍事保護院総裁や枢密顧問官を務める。 長男一雄は陸軍主計中佐。彼は父の死後、襲爵の手続きを行わなかった。娘は山口一太郎陸軍大尉に嫁ぐ。本庄は書を心得、剣華と号す。渾名は「たくわん石」。 1876年(明治9年)5月10日、本庄常右衛門と母ひろ子の長男として兵庫県多紀郡城南村真南条中村(現:丹波篠山市)に生まれる。生家は大地主で、本庄氏は多紀郡の有力国人酒井氏に仕えた名家であった。
羽入 三郎(はにゅう さぶろう、1873年(明治6年)4月1… 羽入 三郎(はにゅう さぶろう、1873年(明治6年)4月16日 - 1944年(昭和19年)2月23日)は、大日本帝国陸軍軍人。政治家。最終階級は陸軍少将。功四級。 兵庫県多紀郡出身。鳳鳴義塾(現・兵庫県立篠山鳳鳴高等学校)を経て、1896年(明治29年)陸軍士官学校第7期卒業。歩兵第6連隊附となり、日露戦争に出征。 戦後、名古屋陸軍幼年学校生徒監、近衛歩兵第2連隊大隊長を歴任。ついで、1917年(大正6年)8月に釧路連隊区司令官、1919年(大正8年)7月に陸軍歩兵大佐を経て、1920年(大正9年)8月に歩兵第58連隊長(第13師団、歩兵第26旅団)に補されシベリア出兵に従軍。その後、1923年(大正12年)8月に陸軍少将に昇進と同時に待命。
本郷 房太郎(ほんごう ふさたろう、万延元年1月24日(18… 本郷 房太郎(ほんごう ふさたろう、万延元年1月24日(1860年2月15日) - 昭和6年(1931年)3月20日)は、日本の陸軍軍人。軍事参議官・青島守備軍司令官や第1・第17師団長を歴任し、階級は陸軍大将勲一等功三級。軍を退いてからは久邇宮宮務監督や大日本武徳会長を務める。