間野 博行(まの ひろゆき、1959年6月1日-)は、日本の… 間野 博行(まの ひろゆき、1959年6月1日-)は、日本の医師・医学者。国立がん研究センター理事長、がんゲノム情報管理センター長。肺がん原因遺伝子EML4-ALKの発見で知られる。岡山県高梁市出身。
岡山県立高梁高等学校:23人
間野 博行(まの ひろゆき、1959年6月1日-)は、日本の… 間野 博行(まの ひろゆき、1959年6月1日-)は、日本の医師・医学者。国立がん研究センター理事長、がんゲノム情報管理センター長。肺がん原因遺伝子EML4-ALKの発見で知られる。岡山県高梁市出身。
土井 康作(どい こうさく、1953年(昭和28年)- )は… 土井 康作(どい こうさく、1953年(昭和28年)- )は、教育学者である。鳥取大学地域学部教授を務めた後、鳥取大学名誉教授となる。この他、日本産業教育学会・元理事、ものづくり文化振興協会理事長も務める。岡山県高梁市出身。 1953年(昭和28年)岡山県高梁市に生まれる。幼少期は活発であり、よく田圃でチャンバラなどをしていた。また、刃物で遊び道具やおもちゃ等もつくるなど手先が器用であった。この幼少期の田舎での体験が後に半世紀以上長くものづくりに携わる礎となった。その後、地元の岡山県立高梁高等学校へ進学し、1971年(昭和46年)に同校を卒業し、同年福岡教育大学教育学部に入学した。1975年に同大学卒業を経て、東京学芸大学大学院へ進学。
三村 哲重(みむら てつしげ、1949年(昭和24年)1月4… 三村 哲重(みむら てつしげ、1949年(昭和24年)1月4日 - )は、日本の医学者であり、教育者でもある。済生会西条病院、国立がん研究センターで研修を経て、岡山済生会総合病院に勤務。岡山大学医学部教授、日本肝胆膵外科学会の高度技能指導医となる。岡山県出身。 1949年(昭和24年)岡山県に生れる。その後、1964年(昭和39年)岡山県立高梁高等学校へ進学する。同期には、ソニー常務取締役となるFeliCaを開発した伊賀章、東芝副社長を務めた田井一郎がいる。1967年(昭和42年)同校を卒業する。同年、岡山大学医学部へ進学し、1973年(昭和48年)同大学を卒業する。 岡大医学部を卒業後、岡山済生会総合病院外科で研修医として勤務する。
孝本 貢(こうもと みつぎ、1942年〈昭和17年〉10月2… 孝本 貢(こうもと みつぎ、1942年〈昭和17年〉10月20日 - 2009年〈平成21年〉9月26日 )は、日本の教育者であり、宗教学者でもある。明治大学商学部教授、「宗教と社会」学会会長、日本宗教学会理事を務めた。岡山県出身。 1942年(昭和17年)岡山県に生れる。地元に近い岡山県立高梁高等学校へ入学。1961年(昭和36年)同校を卒業後、岡山大学教育学部へ進学する。中学校教員養成課程を専攻し、1966年(昭和41年)同大学を卒業し、岡山大学教育学部専攻科を1967年(昭和42年)に修了した。 専攻を修了後、そのまま岡山大学教育学部の副手となり、1971年(昭和46年)東京教育大学(現:筑波大学)大学院文学研究科社会学専攻の修士課程を修了し、博士課程へ進学するが、1974年(昭和49年)単位取得後退学する。
伊吹 令人(いぶき よしと、1935年(昭和10年)1月19… 伊吹 令人(いぶき よしと、1935年(昭和10年)1月19日 - 2015年(平成27年)12月19日)は、日本の医学者であり、教育者である。群馬大学医学部教授を務めた後、日本産婦人科学会名誉会員。岡山県高梁市出身。 1935年(昭和10年)岡山県上房郡高梁町(現:高梁市)に生れる。母・三千子は、漢詩人・磯部杳坡の孫であり、磯部にとって初曽孫であった。親戚にUCLAに留学後、お茶の水女子大学名誉教授の伊吹知勢がいる。 その後、1950年(昭和25年)地元の岡山県立高梁高等学校へ進学する。同期には、富士銀行頭取になる橋本徹、伊藤忠商事副社長になる森澤寛二、岡山東商を甲子園優勝に導いた向井正剛、大学教授の南智、新宿で高級和食料理店「車屋」を起業する佐藤勇がいた。
南 智(みなみ さとる、1935年(昭和10年) - )は、… 南 智(みなみ さとる、1935年(昭和10年) - )は、日本の教育者であり、歴史家である。郷土史家として活動し、岡山県教育史編集委員、岡山県文化財保護審議会会長、元ノートルダム清心女子大学文学部教授を務めた。岡山県高梁市出身。 1935年(昭和10年)岡山県高梁市で生まれる。1950年(昭和25年)岡山県立高梁高等学校へ進学する。同期には、富士銀行頭取・日本政策投資銀行社長になる橋本徹、伊藤忠商事副社長になる森澤寛二、岡山東商を甲子園優勝に導いた向井正剛、群馬大学医学部教授の伊吹令人、新宿で高級和食料理店「車屋本店」を起業する佐藤勇がいた。1953年(昭和28年)岡山県立高梁高等学校を卒業し、岡山大学法文学部へ進学する。
安本 美典(やすもと びてん、1934年2月13日 - )は… 安本 美典(やすもと びてん、1934年2月13日 - )は、日本の心理学者・日本史研究家(古代史)。文章心理学、計量比較言語学日本古代史の分野で著書及び論文がある。日本行動計量学会会員。 満洲国奉天省鞍山市に生まれ、1946年に帰国して岡山県高梁市で育つ。1949年に岡山県立高梁高等学校へ入学。同期には公正取引委員会事務局長(事務方トップ)となる植木邦之がいる。同高校を卒業。京都大学文学部(心理学)卒業を経て、京都大学大学院文学研究科(心理学)修了。国家公務員採用上級甲種試験(現在の国家公務員総合職)の心理職試験にトップで合格し、旧労働省(現在の厚生労働省)に入省。 旧労働省退官後、社会心理学者の南博(一橋大学教授)が設立した日本リサーチセンターに入社。
丸川 武志(まるかわ たけし、1925年〈大正14年〉6月1… 丸川 武志(まるかわ たけし、1925年〈大正14年〉6月18日 - 2007年〈平成19年〉2月19日)は、日本の電気工学者であり、教育者である。逓信省で電波研究を行った後、防衛大学校の教授を務めた。退官後、防衛大学校名誉教授となる。岡山県出身。位階は従四位、勲三等瑞宝章に叙されている。 1925年(大正14年)岡山県に出生する。1938年(昭和13年)旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ進学し、1943年(昭和18年)同校を卒業を経て、茨城県にある日立製作所が設立した多賀高等工業学校(現:茨城大学工学部)へ進学する。 同校では、電気通信学を専攻し、多賀高等工業学校が途中で多賀工業専門学校と名称を変更し、電気通信科が新設され、丸川はそこに所属する。
宗森 信(むねもり まこと、1923年〈大正12年〉7月27… 宗森 信(むねもり まこと、1923年〈大正12年〉7月27日 - 1995年〈平成7年〉7月13日)は、アメリカ合衆国ネバダ州リノ市出身の環境学者。生後まもなくして、両親の地元である岡山県真庭市久世町へ移住。大阪府立大学(現:大阪公立大学)工学部名誉教授。日本初の『環境』を冠とした研究室を開設したことで知られている。 1923年(大正12年)、アメリカ合衆国ネバダ州リノ市で岡山県真庭郡久世町出身の両親の元に出生する。その後、1924年、宗森が小さいときに、アメリカではアジアからの移民を排除する法律(Johnson-Reed移民法、通称:排日移民法)が施行、黄色人種差別が起こり、多くの日系人が帰郷する。
山岡 一三(やまおか いちぞう、1923年(大正12年)4月… 山岡 一三(やまおか いちぞう、1923年(大正12年)4月2日 - 1996年(平成8年)2月25日)は、日本の土木工学者であり、教育者でもある。建設省を経て関西大学工学部教授。国際ジオシンセティックス名誉会員。岡山県高梁市出身。 1923年(大正12年)、岡山県上房郡(現:高梁市)の山岡信治郎の子として出生する。1942年(昭和17年)地元の旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)を卒業し、同年、山口県にある旧制山口高等学校理科へ進学する。 その後、同校を1945年(昭和20年)に卒業し、同年、京都帝国大学工学部へ進学。その直後日本は第二次世界大戦に敗北。戦後の混乱の中、1947年(昭和22年)山岡は3年次途中で卒業扱いとなり、同大学を卒業し、建設省へ入省する。
稲神 馨(いながみ かおる、1923年(大正12年)3月19… 稲神 馨(いながみ かおる、1923年(大正12年)3月19日 - 2022年(令和4年)6月5日)は、日本の食品科学者。九州大学名誉教授。元カルピス食品工業(現:アサヒ飲料)常務取締役、元日本食品科学工業学会副会長。カネミ油症事件の原因を解明した。岡山県新見市出身。 1923年(大正12年)、岡山県新見市に生まれる。その後、地元に近い旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ進学。同期には、天野昇(日本原子力研究所副理事長)、福田正彦(新見市長)、古米初男(丸善石油副参与)、田井庄之助(大分大学教授)がいた。1940年(昭和15年)、高梁中学校を卒業、鳥取高等農業学校獣医畜産学科へ進学する。
藤岡 一男(ふじおか かずお、1911年(明治44年)1月1… 藤岡 一男(ふじおか かずお、1911年(明治44年)1月10日 - 1994年(平成6年)1月9日)は、地質学者であり、教育者でもある。北海道帝国大学理学部を卒業後、理学部助手となり、植物化石の研究に従事。秋田鉱山専門学校教授となり、秋田大学鉱山学部教授、秋田大学名誉教授となる。位階は正四位。岡山県高梁市出身。 明治44年(1911年)1月10日、川上郡落合村福地(現・高梁市落合町福地)に生まれる。旧制高梁中学校(現・岡山県立高梁高校)を経て広島高等師範学校を卒業。高等師範学校在学中から成羽地域に分布する三畳紀植物化石の研究を始め、北海道帝国大学大石三郎助教授の指導を受け、昭和9年(1934年)北海道帝国大学理学部地質学鉱物学科に入学、引き続き大石助教授に師事する。
村井 資長(むらい すけなが、1909年(明治42年)11月… 村井 資長(むらい すけなが、1909年(明治42年)11月22日 - 2006年(平成18年)3月31日)は日本の工学者、早稲田大学名誉教授、日本カナダ教育文化交流財団理事長。早稲田大学第10代総長、早稲田奉仕園第6代理事長、恵泉女学園大学初代学長。キリスト教プロテスタントである。次男村井吉敬は早稲田大学客員教授を務めた。旧姓日野西。 北海道茅部郡石倉村(現森町)濁川の広大な日野西牧場で農場を経営していた日野西長輝(日野西光善三男)の三男として生まれた。日野西家は京都の堂上華族。1916年に父親が日本統治下の朝鮮・慶尚南道の村井進永農場の農場長に就任したため翌年から一年間、現地の内地人用小学校に通う。
猶原 恭爾(なおはら きょうじ、1908年(明治41年)4月… 猶原 恭爾(なおはら きょうじ、1908年(明治41年)4月- 1987年(昭和62年)4月11日 )は、日本の植物生態学者である。資源科学研究所研究員を経て、山に牛を放牧する酪農である山地酪農を提唱し日本に広めた。岡山県高梁市出身。 1908年(明治41年)に岡山県高梁市で出生。その後、旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ進学を経て、1928年(昭和3年)に鹿児島市にある第七高等学校理科甲類へ進学する。1931年(昭和6年)同校を卒業し、1932年(昭和7年)東北帝国大学理学部生物学教室へ入学する。1935年(昭和10年)3月に同大学を卒業した。 猶原は大学卒業後、1938年(昭和13年)30歳とき、東京府大泉師範学校の設立時教諭となり、同時期に、企画院の外郭団体として設立された大日本帝国の国策調査・研究を行う機関である東亜研究所に所属する。
伊吹 知勢(いぶき ちせ、1906年(明治39年)10月2日… 伊吹 知勢(いぶき ちせ、1906年(明治39年)10月2日 - 1983年(昭和58年)4月11日)は、日本の英文学者、お茶の水女子大学名誉教授。戦前に2つの日本の大学を卒業する。その後、渡米しカリフォルニア大学ロサンゼルス校英文科に学ぶ。帰国後、大学教授としてジェイン・オースティン、ヴァージニア・ウルフなどを研究・翻訳した。位階は正四位。岡山県高梁市出身。 1906年(明治39年)岡山県上房郡高梁町(現:高梁市)の父・伊吹岩五郎、母・美志の四女として出生する。親戚には、群馬大学医学部教授の伊吹令人がいる。1923年(大正12年)3月、16歳のとき、地元の岡山県立順正高等女学校(現:岡山県立高梁高等学校家政科)を卒業する。
田村 雄一(たむら ゆういち、1904年(明治37年)9月2… 田村 雄一(たむら ゆういち、1904年(明治37年)9月27日 - 1981年(昭和56年)8月15日 )は、日本の教育者・大気電気学者。京都大学名誉教授、岡山県高梁市出身。 1904年(明治37年)に岡山県川上郡吹屋町(現:高梁市成羽町吹屋)で生まれる。その後は地元に近い旧制高梁中学(現:岡山県立高梁高校)へ進学し、1922年(大正11年)に卒業。旧制第六高等学校を経て、1925年(大正14年)京都帝国大学へ入学。同大学工学部電気工学科を1928年(昭和3年)に卒業した。卒業論文は「電光と避雷」であり、これが田村の将来を決めた。 田村は、京大卒業後、発電所か鉄道関係への就職を考えていたが、同大学理学部物理学教室から大気電気の研究助手の話があり、長谷川万吉教授の研究室に入った。
三宅 儀(みやけ ただし、1902年(明治35年)10月29… 三宅 儀(みやけ ただし、1902年(明治35年)10月29日 - 1993年(平成5年)5月18日 )は、岡山県高梁市出身の医学者。京都大学名誉教授。佳木斯医科大学講師、岐阜県立医科大学教授・学長心得(代理)を経て京大医学部教授となる。第21代京都大学医学部附属病院長、国立京都病院長を務めた。 1902年(明治35年)に岡山県川上郡大賀村(現:高梁市)で生まれる。その後、1915年(大正4年)旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高校)へ進学した。同校は、後に三宅の上司となる井上硬の出身校でもあり、三宅も井上と同じ学歴を歩むだけでなく、医者としても同じコースを歩むこととなる。 1920年(大正9年)に卒業し、旧制第六高等学校へ進学する。
川上 六馬(かわかみ むつま、1902年(明治35年)2月1… 川上 六馬(かわかみ むつま、1902年(明治35年)2月13日- 1986年(昭和61年)7月28日)は、日本の医学者であり、満州国ハンセン病療養所・同康院の初代院長を務めた後、厚生省医務局長を務めた。国立がん研究センターの設立に深く関わり、顧問となっている。岡山県高梁市出身。位階は正五位。 1902年(明治35年)岡山県川上郡成羽町吹屋(現:高梁市)の川上佐源太の三男として出生する。地元の旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ進学し、同期には、京都大学医学部名誉教授になる三宅儀、言語学者の鳴瀬恒太郎がいた。1920年(大正10年)同校を卒業し、慶應義塾大学予科へ進学する。その後、慶應義塾大学医学部へ入学し、小林六造教授に従う。
神崎 三益(かんざき さんえき/さんます、1897年(明治3… 神崎 三益(かんざき さんえき/さんます、1897年(明治30年)10月19日 - 1986年(昭和61年)7月27日)は、日本の医学者・教育者であり、日本赤十字武蔵野短期大学学長、日本赤十字常任理事、アジア病院連盟会長を務めた。また、日本病院協会会長として当時開業医中心の日本医師会に対抗した。岡山県高梁市出身。 1897年(明治30年)岡山県上房郡有漢村(現:高梁市)神崎秀甫の三男として出生する。その後、地元の旧制岡山県立高梁中学校(現・岡山県立高梁高等学校)に入学した。同期に、明治大学学長を務めた小出廉二、東京帝国大学教授で経済学の宇野学派を率いた宇野弘蔵、第一次日本共産党の西雅雄、キリスト教伝道師で内務官僚の松田享爾、関西大学法学部教授になる高木益郎がいた。
井上 硬(いのうえ かたし、1894年(明治27年)7月4日… 井上 硬(いのうえ かたし、1894年(明治27年)7月4日 - 1969年(昭和44年)10月4日 )は、岡山県出身の医学者。京都大学名誉教授。京都帝国大学医学部教授、新制京大医学部教授を経て、同大学ウィルス研究所長、第16代京都大学医学部附属病院長兼評議員。 1894年(明治27年)に岡山県児島郡宇野町(現:玉野市)で生まれる。その後、旧制高梁中学(現:岡山県立高梁高校)を1912年(明治45年)に卒業し、第六高等学校第三部(医科)へ入学する。1915年(大正4年)に同高校を卒業し、京都帝国大学医学部へ入学する。医学部では第二内科に所属し、1924年(大正13年)「胆汁排泄に関する臨床的研究」で博士号を取得した。
横屋 猷(よこや ゆう、1891年(明治24年)8月5日 -… 横屋 猷(よこや ゆう、1891年(明治24年)8月5日 - 1969年(昭和44年))は、日本の水産学者である。甲殻類の分野で大きな成果あげ、有名なボタンエビを発見した人物として知られている。長崎大学水産学部教授を務めた。長兄は、日本競馬会常務理事の横屋潤。岡山県高梁市出身。 1891年(明治24年)に岡山県上房郡高梁町(現:高梁市)の新見藩士族である横屋善次の三男として生れる。猷の祖父である横屋幸喬(読み:ゆきたか)は新見藩の槍術師南役であった。兄である長男横屋潤は日本競馬会(現:日本中央競馬会)の設立と常務理事を務め、次男横屋憲は倉敷紡績工場長・日華紡織監査役を務めた。親戚には、イェール大学卒業後、北海道拓殖銀行・十五銀行(後の三井銀行)常務取締役を務めた横山昌次郎がいる。
加藤 元一(かとう げんいち、1890年(明治23年)2月1… 加藤 元一(かとう げんいち、1890年(明治23年)2月11日 - 1979年(昭和54年)5月1日)は日本の生理学者。慶應義塾大学名誉教授。日本学士院会員、アルゼンチン生物学会・医学協会名誉会員、米国生理学会名誉会員。ノーベル生理学・医学賞の候補に3度選ばれている。岡山県新見市出身。 1890年(明治23年)、岡山県阿賀郡新見町(現:新見市)の眼科医の家に生まれる。地元に近い旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)に進学し、1909年(明治42年)に卒業。旧制第一高等学校を経て、京都帝国大学医科大学に進んだ。1916年(大正5年)、京都帝国大学医科大学を卒業。卒業時には成績優秀により恩賜の銀時計を授与された。
中島 重(なかじま しげる、1888年(明治21年)5月3日… 中島 重(なかじま しげる、1888年(明治21年)5月3日 - 1946年(昭和21年)5月29日)は、日本の法学者、社会学者、キリスト教思想家。 法学上の専門は憲法学(美濃部達吉門下)で、社会学上の専門は国家論。元同志社大学および関西学院大学の教授。 日本の政治学及び社会学に多元的国家論をもたらし、また当時のキリスト教思想に対して賀川豊彦と共に社会的基督教の論を唱えた一人として知られる。 1888年、岡山県上房郡松山村広瀬(現在の高梁市松山字新田。備中広瀬駅付近)の、大高檀紙製造家を祖に持つ柳井重宜の三男として生まれる。 三男という立場から父の弟(叔父)の養子先にして獣医家であった中島家へと養子に出された。