スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
中島 俊治(なかしま しゅんじ、1963年〈昭和37年〉 -… 中島 俊治(なかしま しゅんじ、1963年〈昭和37年〉 - )は、日本のプログラマーであり、教育者でもある。ベクター企画副部長、ジョインベスト証券エグゼクティブマネージャーを経て、サイバー大学教授を務める。岡山県高梁市出身。 1963年(昭和37年)に岡山県高梁市に生れる。その後、地元の岡山県立高梁高等学校へ進学する。同期には、クリヤマホールディングス社長になる能勢広宣がいる。部活は、電気部と音楽部に所属し、それぞれ部長を務めていた。1981年(昭和56年)同校を卒業する。この後、広島県で郵政省関係の仕事を行っていた。その頃、まだ珍しかったインターネットを中島は日頃から使用しており、この経験が後の人生に大きな影響を与える。
和田 佐規子(わだ さきこ、旧姓:藤井、1961年(昭和36… 和田 佐規子(わだ さきこ、旧姓:藤井、1961年(昭和36年)6月 - )は、日本の教育者であり、比較文学者である。二松学舎大学、江戸川大学、神奈川大学の非常勤講師を勤める傍ら、海外書籍の翻訳家として執筆している。岡山県吉備中央町出身。 1961年(昭和36年)岡山県吉備中央町の藤井家に出生する。1977年地元に近い、岡山県立高梁高等学校へ進学した。2個上の先輩に高梁高校から同じく東大へ進学し国立がん研究センター研究所長となる間野博行がいる。1980年(昭和55年)に同校を卒業。同年東京大学文科一類へ進学し、1984年(昭和59年)東京大学法学部を卒業する[要出典]。その後、同年、東京大学大学院総合文化研究科の修士課程に進学するが、1年目を終えたところで、西ドイツへ渡りその後、ミュンヘンで結婚し大学院を中退する。
石井 博康(いしい ひろやす、1952年(昭和27年)- )… 石井 博康(いしい ひろやす、1952年(昭和27年)- )は、日本の画家であり、教育者でもある。東北芸術工科大学教授を務めた後、同大学副学長となる。東北芸術工科大学名誉教授。岡山県高梁市出身。 1952年(昭和27年)岡山県高梁市に出生。地元の岡山県立高梁高等学校へ進学し美術部に所属する。1970年(昭和45年)に卒業し、東京芸術大学美術学部絵画科油画専攻へ進学する。その後、同大学卒業を経て、東京芸術大学大学院学美術研究科油画専攻に進学し、1977年(昭和52年)同大学院を卒業する。 卒業後、油絵画家となった石井は、1979年(昭和54年)に東京のギャルリー・ヴィヴァン(現在は神奈川県へ移転)で初めての個展を開く。
三村 哲重(みむら てつしげ、1949年(昭和24年)1月4… 三村 哲重(みむら てつしげ、1949年(昭和24年)1月4日 - )は、日本の医学者であり、教育者でもある。済生会西条病院、国立がん研究センターで研修を経て、岡山済生会総合病院に勤務。岡山大学医学部教授、日本肝胆膵外科学会の高度技能指導医となる。岡山県出身。 1949年(昭和24年)岡山県に生れる。その後、1964年(昭和39年)岡山県立高梁高等学校へ進学する。同期には、ソニー常務取締役となるFeliCaを開発した伊賀章、東芝副社長を務めた田井一郎がいる。1967年(昭和42年)同校を卒業する。同年、岡山大学医学部へ進学し、1973年(昭和48年)同大学を卒業する。 岡大医学部を卒業後、岡山済生会総合病院外科で研修医として勤務する。
孝本 貢(こうもと みつぎ、1942年〈昭和17年〉10月2… 孝本 貢(こうもと みつぎ、1942年〈昭和17年〉10月20日 - 2009年〈平成21年〉9月26日 )は、日本の教育者であり、宗教学者でもある。明治大学商学部教授、「宗教と社会」学会会長、日本宗教学会理事を務めた。岡山県出身。 1942年(昭和17年)岡山県に生れる。地元に近い岡山県立高梁高等学校へ入学。1961年(昭和36年)同校を卒業後、岡山大学教育学部へ進学する。中学校教員養成課程を専攻し、1966年(昭和41年)同大学を卒業し、岡山大学教育学部専攻科を1967年(昭和42年)に修了した。 専攻を修了後、そのまま岡山大学教育学部の副手となり、1971年(昭和46年)東京教育大学(現:筑波大学)大学院文学研究科社会学専攻の修士課程を修了し、博士課程へ進学するが、1974年(昭和49年)単位取得後退学する。
高杉 弘之(たかすぎ ひろゆき、1938年(昭和13年) -… 高杉 弘之(たかすぎ ひろゆき、1938年(昭和13年) - )は、日本の教育者である。国立特殊教育総合研究所研究員として勤務した後、広島大学教育学部教授となる。障害児教育を研究分野としていた。岡山県真庭市出身。 1938年(昭和13年)岡山県阿賀郡呰部村(現:真庭市)の高杉家に出生する。地元に近い岡山県立高梁高等学校へ進学する。同期には、ノンフィクション作家になる河内洋輔がいる。その後、1957年(昭和32年)に同校を卒業する。 その後、東京大学へ進学する。同大学文学部で学び、1962年(昭和37年)に同大学を卒業する。その後、東京大学大学院人文社会系研究科へ進学する。ここで、日本において盲ろう教育の草分的な存在であった梅津八三名誉教授が高杉の指導教官となる。
向井 正剛(むかい まさかた、1935年(昭和10年)2月1… 向井 正剛(むかい まさかた、1935年(昭和10年)2月11日 - )は、日本の教育者であり、高校野球監督でもある。岡山県下の高校野球監督として春夏通じて唯一の優勝経験者。岡山東商業高等学校の監督時代に、同郷のエース平松政次を擁して春の甲子園で優勝した。岡山県高梁市出身。 1935年(昭和10年)に岡山県高梁市で生まれる。戦後に地元の岡山県立高梁高等学校に進み、同期には富士銀行(現:みずほFG)頭取・日本政策投資銀行社長になる橋本徹、伊藤忠商事副社長になる森澤寛二、群馬大学医学部教授の伊吹令人、ノートルダム清心女子大学教授の南智、新宿で高級和食料理店「車屋」を起業する佐藤勇がいた。 高校時代は硬式野球部に所属したが、普通科高校であるため、野球部の人気が無く部員不足により2年秋で休部となった。
伊吹 令人(いぶき よしと、1935年(昭和10年)1月19… 伊吹 令人(いぶき よしと、1935年(昭和10年)1月19日 - 2015年(平成27年)12月19日)は、日本の医学者であり、教育者である。群馬大学医学部教授を務めた後、日本産婦人科学会名誉会員。岡山県高梁市出身。 1935年(昭和10年)岡山県上房郡高梁町(現:高梁市)に生れる。母・三千子は、漢詩人・磯部杳坡の孫であり、磯部にとって初曽孫であった。親戚にUCLAに留学後、お茶の水女子大学名誉教授の伊吹知勢がいる。 その後、1950年(昭和25年)地元の岡山県立高梁高等学校へ進学する。同期には、富士銀行頭取になる橋本徹、伊藤忠商事副社長になる森澤寛二、岡山東商を甲子園優勝に導いた向井正剛、大学教授の南智、新宿で高級和食料理店「車屋」を起業する佐藤勇がいた。
福本 晃(ふくもと あきら、1935年(昭和10年) - )… 福本 晃(ふくもと あきら、1935年(昭和10年) - )は松下電器(現・パナソニックホールディングス)の元副理事であり、教育者でもある。鳥取大学客員教授を務めた。岡山県出身。 1935年(昭和10年)に岡山県で生まれる。小学校時代から電気工作が好きであり、高梁市内にあるラジオ屋に出入りしていた。地元の岡山県立高梁高校へ進学し、高校時代には、放送機を自作し高校の友人と通信していた。1954年(昭和29年)に同校を卒業。同年、大阪大学理学部へ入学した。その後、同大学を1958年に卒業し、マサチューセッツ工科大学へ入学、Ph.D in Physics(理学博士)を取得し1960年(昭和35年)に卒業したと同時に松下電器へ入社した。
南 智(みなみ さとる、1935年(昭和10年) - )は、… 南 智(みなみ さとる、1935年(昭和10年) - )は、日本の教育者であり、歴史家である。郷土史家として活動し、岡山県教育史編集委員、岡山県文化財保護審議会会長、元ノートルダム清心女子大学文学部教授を務めた。岡山県高梁市出身。 1935年(昭和10年)岡山県高梁市で生まれる。1950年(昭和25年)岡山県立高梁高等学校へ進学する。同期には、富士銀行頭取・日本政策投資銀行社長になる橋本徹、伊藤忠商事副社長になる森澤寛二、岡山東商を甲子園優勝に導いた向井正剛、群馬大学医学部教授の伊吹令人、新宿で高級和食料理店「車屋本店」を起業する佐藤勇がいた。1953年(昭和28年)岡山県立高梁高等学校を卒業し、岡山大学法文学部へ進学する。
佐藤 巌(さとう いわお、1930年(昭和5年)2月9日 -… 佐藤 巌(さとう いわお、1930年(昭和5年)2月9日 - 2014年(平成26年)1月25日 )は、日本のフランス文学者であり教育者である。岡山大学名誉教授。岡山県高梁市出身。 1930年(昭和5年)岡山県高梁市に生まれる。1947年(昭和22年)に地元の旧制高梁中学校(現在の岡山県立高梁高校)を4年で卒業(新制中学校へ移行処置)し、旧制高等学校で最後の入学生となる1947年に第六高等学校文科へ進学した。卒業を経て、1950年(昭和25年)東京大学へ入学した。東大では文学部フランス文学科に進学し、研究テーマは、ポール・エリュアール であった。1953年(昭和28年)同大学を卒業(旧制大学3年制最後の卒業者)した。
赤木 昭治(あかぎ しょうじ、1926年(大正15年) - … 赤木 昭治(あかぎ しょうじ、1926年(大正15年) - 2019年(令和元年)5月21日)は、日本の教育者。東京都立園芸高等学校校長を経て、東京農業大学教授。位階は従五位。 岡山県新見市出身。1926年(大正15年)岡山県新見市に生まれる。地元に近い旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ進学し、1944年(昭和19年)同校を卒業した。その後、1949年(昭和24年)新制大学制度により、東京農林専門学校から国立東京農工大学に変更となった同大学へ入学する。大学では、羊の飼育法の研究を行っていた。1953年(昭和28年)同大学を卒業し、東京都立農業高等学校へ教諭として赴任した。 都立高校赴任後も東京都府中市の自然調査等や広島大学水畜産学部へ協力を行っていた。
丸川 武志(まるかわ たけし、1925年〈大正14年〉6月1… 丸川 武志(まるかわ たけし、1925年〈大正14年〉6月18日 - 2007年〈平成19年〉2月19日)は、日本の電気工学者であり、教育者である。逓信省で電波研究を行った後、防衛大学校の教授を務めた。退官後、防衛大学校名誉教授となる。岡山県出身。位階は従四位、勲三等瑞宝章に叙されている。 1925年(大正14年)岡山県に出生する。1938年(昭和13年)旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ進学し、1943年(昭和18年)同校を卒業を経て、茨城県にある日立製作所が設立した多賀高等工業学校(現:茨城大学工学部)へ進学する。 同校では、電気通信学を専攻し、多賀高等工業学校が途中で多賀工業専門学校と名称を変更し、電気通信科が新設され、丸川はそこに所属する。
山岡 一三(やまおか いちぞう、1923年(大正12年)4月… 山岡 一三(やまおか いちぞう、1923年(大正12年)4月2日 - 1996年(平成8年)2月25日)は、日本の土木工学者であり、教育者でもある。建設省を経て関西大学工学部教授。国際ジオシンセティックス名誉会員。岡山県高梁市出身。 1923年(大正12年)、岡山県上房郡(現:高梁市)の山岡信治郎の子として出生する。1942年(昭和17年)地元の旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)を卒業し、同年、山口県にある旧制山口高等学校理科へ進学する。 その後、同校を1945年(昭和20年)に卒業し、同年、京都帝国大学工学部へ進学。その直後日本は第二次世界大戦に敗北。戦後の混乱の中、1947年(昭和22年)山岡は3年次途中で卒業扱いとなり、同大学を卒業し、建設省へ入省する。
藤岡 一男(ふじおか かずお、1911年(明治44年)1月1… 藤岡 一男(ふじおか かずお、1911年(明治44年)1月10日 - 1994年(平成6年)1月9日)は、地質学者であり、教育者でもある。北海道帝国大学理学部を卒業後、理学部助手となり、植物化石の研究に従事。秋田鉱山専門学校教授となり、秋田大学鉱山学部教授、秋田大学名誉教授となる。位階は正四位。岡山県高梁市出身。 明治44年(1911年)1月10日、川上郡落合村福地(現・高梁市落合町福地)に生まれる。旧制高梁中学校(現・岡山県立高梁高校)を経て広島高等師範学校を卒業。高等師範学校在学中から成羽地域に分布する三畳紀植物化石の研究を始め、北海道帝国大学大石三郎助教授の指導を受け、昭和9年(1934年)北海道帝国大学理学部地質学鉱物学科に入学、引き続き大石助教授に師事する。
皆見 鵬三(みなみ ほうぞう、1911年(明治44年)- 1… 皆見 鵬三(みなみ ほうぞう、1911年(明治44年)- 1967年(昭和42年))は、日本の画家であり教育者。岡山県総社市出身。 1911年(明治44年)岡山県吉備郡水内村影(現・総社市)に生まれる。旧制高梁中学校(現・岡山県立高梁高等学校)を卒業した後、上京して川端画学校に学ぶ。その後、帝国美術学校油絵科に入学し牧野虎雄に師事。1933年(昭和8年)帝国美術学校油絵科卒業。 卒業後は特待研究生として同学校に残る。1933年、第1回旺玄社に「早春伊豆」を出品し入選すると、以後同会に出品を続けた。1935年(昭和10年)には多摩美術学校で助手をつとめた。戦時中に従軍画家として中国東北部に赴き、2年間のシベリア抑留を経て帰国。
赤木 五郎(あかぎ ごろう、1909年〈明治42年〉 7月7… 赤木 五郎(あかぎ ごろう、1909年〈明治42年〉 7月7日 - 1999年〈平成11年〉8月11日)は、医学博士、眼科医師であり、教育者でもある。戦後、広島県立医科大学(現・広島大学医学部)の眼科の初代教授を務めた後、岡山大学第5代学長、川崎医科大学初代学長、岡山県立短期大学(現・岡山県立大学)学長を勤めた。位階は正四位。岡山県高梁市出身。 1927年(昭和2年)旧制高梁中学校(現・岡山県立高梁高校)卒業、1931年第六高等学校卒業を経て、岡山医科大学に入学、1935年(昭和10年)に岡山医科大学卒業した。卒業後嘱託として同大眼科教室副手として勤務する。1938年(昭和13年)青森県立病院眼科部長として赴任。
横山 復次(よこやま またつぐ、1908年(明治41年)10… 横山 復次(よこやま またつぐ、1908年(明治41年)10月2日 - 1990-93年(平成2-5年) )は、日本の薬学者であり教育者でもある。長崎医科大学教授(現・長崎大学医学部)を務めた後、岐阜薬科大学教授、エーザイ研究所長 。長崎医科大学時代に長崎原爆を経験した。岡山県出身。 1908年(明治43年)に岡山県に生まれる。その後、1923年(大正12年)旧制岡山県立高梁中学校(現・岡山県立高梁高等学校)に入学、卒業を経て、1928年(昭和3年)第一高等学校理科乙類へ入学し、1931年(昭和6年)同校を卒業。同年に東京帝国大学医学部薬学科へ入学、1934年(昭和9年)3月に同大学を卒業し、助手として京都帝国大学薬学科で薬学研究を続けた。
妹尾 幹(せのお かん、1905年(明治38年)7月29日 … 妹尾 幹(せのお かん、1905年(明治38年)7月29日 - 1969年(昭和44年)8月13日)は、日本の教育者。東京音楽学校教授(現:東京藝術大学・音楽学部)を務めた後、旧制山口高等学校(山口大学経済学部の前身)・島根大学教授、岡山大学助教授、北海道大学、神奈川大学教授となる。岡山県高梁市出身。 1905年(明治38年)、岡山県上房郡高梁町(現:高梁市)の妹尾善平の子として生まれる。旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)を経て、1923年(大正12年)旧旧制松江高等学校文科乙類に進学、1926年(大正15年)、同校を卒業し、東京帝国大学文学部独文学科へ進学した。1930年(昭和4年)3月に同大学を卒業した。
田村 雄一(たむら ゆういち、1904年(明治37年)9月2… 田村 雄一(たむら ゆういち、1904年(明治37年)9月27日 - 1981年(昭和56年)8月15日 )は、日本の教育者・大気電気学者。京都大学名誉教授、岡山県高梁市出身。 1904年(明治37年)に岡山県川上郡吹屋町(現:高梁市成羽町吹屋)で生まれる。その後は地元に近い旧制高梁中学(現:岡山県立高梁高校)へ進学し、1922年(大正11年)に卒業。旧制第六高等学校を経て、1925年(大正14年)京都帝国大学へ入学。同大学工学部電気工学科を1928年(昭和3年)に卒業した。卒業論文は「電光と避雷」であり、これが田村の将来を決めた。 田村は、京大卒業後、発電所か鉄道関係への就職を考えていたが、同大学理学部物理学教室から大気電気の研究助手の話があり、長谷川万吉教授の研究室に入った。
神崎 三益(かんざき さんえき/さんます、1897年(明治3… 神崎 三益(かんざき さんえき/さんます、1897年(明治30年)10月19日 - 1986年(昭和61年)7月27日)は、日本の医学者・教育者であり、日本赤十字武蔵野短期大学学長、日本赤十字常任理事、アジア病院連盟会長を務めた。また、日本病院協会会長として当時開業医中心の日本医師会に対抗した。岡山県高梁市出身。 1897年(明治30年)岡山県上房郡有漢村(現:高梁市)神崎秀甫の三男として出生する。その後、地元の旧制岡山県立高梁中学校(現・岡山県立高梁高等学校)に入学した。同期に、明治大学学長を務めた小出廉二、東京帝国大学教授で経済学の宇野学派を率いた宇野弘蔵、第一次日本共産党の西雅雄、キリスト教伝道師で内務官僚の松田享爾、関西大学法学部教授になる高木益郎がいた。
小出 廉二(こいで れんじ、1895年10月11日 - 19… 小出 廉二(こいで れんじ、1895年10月11日 - 1994年12月14日)は、日本の法学者で、教育者。明治大学法学部の部長を務めた後、明治大学学長を勤めた。岡山県新見市出身。 生誕地は新見市中心部より約4km北に離れた地で、幼少期は中心部にある小学校まで毎日徒歩で通学したという。また農閑期に演じられる備中神楽を愛好し、自身も演じるに至った。 旧制岡山県立高梁中学校(現:岡山県立高梁高等学校)に進み、縁戚の者の家に下宿して通学した。中学卒業後は旧制第一高等学校に進学した。一高進学の理由について、小出自身は小学校OBで進学した先輩からの影響と語っているほか、教え子の一人は小出の入学前に一高校長を務めていた新渡戸稲造への憧れがあったと記している。
多胡 謙治(たご けんじ、1895年(明治28年)3月14日… 多胡 謙治(たご けんじ、1895年(明治28年)3月14日 - 1951年(昭和26年)7月14日)は、日本の歯科医師であり教育者である。東京女子歯科医学専門学校(現:神奈川歯科大学)教授。岡山県津山市出身。 1895年(明治28年)に岡山県勝田郡勝加茂村(現:津山市)の多胡又次郎の三男として生まれる。旧制高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ進学し、1916年(大正5年)に同校を卒業し、東京歯科医学専門学校(現:東京歯科大学)へ進学。1919年(大正8年)東京歯科医専を卒業し、24歳で直ちに同校の助手となる。 東京歯科医専の助手として勤務していたが、1921年(大正10年)12月に離職して、渡米する。
高木 益郎(たかぎ ますろう、1895年(明治28年)- 1… 高木 益郎(たかぎ ますろう、1895年(明治28年)- 1932年(昭和7年))は弁護士であり教育者。関西大学法学部教授、社会運動家。岡山県高梁市出身。 岡山県に生まれる。地元に近い旧制高梁中学校(現在の岡山県立高梁高等学校)へ入学する。同期に、明治大学学長を務めた小出廉二、東京帝国大学教授で経済学の宇野学派を率いた宇野弘蔵、第一次日本共産党の西雅雄、キリスト教伝道師で内務官僚の松田享爾がいる。このうち西雅雄、宇野弘蔵とは中学卒業後も親交があった。1915年(大正4年)に同校を卒業し、宇野と同じ第六高等学校文科丙類へ進学する。1918年(大正7年)同校を卒業、京都帝国大学法学部法律学科へ進学する。
中原 重樹(なかはら しげき、1893年(明治26年)7月3… 中原 重樹(なかはら しげき、1893年(明治26年)7月30日 - 1999年(平成11年))は、日本の農林官僚であり教育者でもある。農林省に勤めた後、戦後、茨城大学教授を経て明治大学教授となった。初代日本食肉科学会会長。子の中原逸郎は陸軍大尉。岡山県倉敷市出身。 1893年(明治26年)に岡山県に生まれる。その後、1914年(大正3年)、20歳で旧制岡山県立高梁中学校(現:岡山県立高梁高等学校)卒業を経て、同年、名古屋市にある第八高等学校へ入学し、1917年(大正6年)同校を卒業。同年に東京帝国大学農学部へ入学、1920年(大正9年)7月、27歳で同大学を卒業し、東京毛織会社へ技師農学士として就職した。
板野 新夫(いたの あらお、1887年(明治20年)4月11… 板野 新夫(いたの あらお、1887年(明治20年)4月11日 - 1972年(昭和47年)4月12日)は、日本の農業研究者・教育者であり、日本の農業研究の第一人者である。岡山県総社市出身。 1887年(明治20年)に岡山県下道郡秦村(現・総社市)の農家の家庭に生まれる。その後、1900年(明治33年)旧制岡山県立高梁中学校(現・岡山県立高梁高等学校)に入学した。 高梁中在学中に米国に留学した新島襄に憧れ、また、新渡戸稲造の農業経営の理念に感化され、卒業後、1905年(明治38年)すぐに単身で渡米し農学の専攻を志した。 渡米後の板野は、最初に飲食店やホテルで働いて、学費を稼ぎながらドイツ語とラテン語を勉強した。
稲本 白鵞(いなもと はくが、1887年(明治20年) - … 稲本 白鵞(いなもと はくが、1887年(明治20年) - 1920年(大正9年))は、教育者、書道家。現在の岡山県井原市出身。 1887年(明治20年)、稲本陽州の長女として岡山県後月郡山野上村(現在の井原市野上町)に生まれる。精徳尋常小学校を卒業後、父を頼って高梁へ行き、尋常小学校を出ただけであったが、順正高等女学校の編入試験に合格し、1909年(明治42年)21歳のときに女学校を卒業する。 1918年(大正7年)、31歳のとき福岡県の朝倉実科高等女学校に教諭として赴任し、1920年(大正9年)には山口県女子師範学校教諭となる。父と同じく書道に優れ、この時代の日本女流三筆とまで謳われた。和歌においても歌集を発刊するなど、文才をもって父・陽洲の志を継ぐものとして知られていたが、病に倒れ、満33歳、数え34歳で死去した。
長野 新十郎(ながの しんじゅうろう、1884年(明治17年… 長野 新十郎(ながの しんじゅうろう、1884年(明治17年)7月22日 - 1958年(昭和33年))は、教育者であり、実業家でもある。大阪高等商業学校(現:大阪公立大学)教授を経て、大阪無線電気学校の初代校長。岡山県高梁市出身。 1884年(明治17年)に岡山県上房郡高梁町(現:高梁市)で生まれる。その後、旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ入学し、同期には山発産業社長になる山本発次郎、日本競馬会(現:日本中央競馬会)常務理事になる横屋潤がいた。1904年(明治37年)同校を卒業する。 第六高等学校へ進学し第二部(工理農コース)理科乙類(医薬農学部進学コース)でドイツ語を学ぶ。