スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
田中 睦夫(たなか むつお、1911年(明治44年)7月10… 田中 睦夫(たなか むつお、1911年(明治44年)7月10日 - 1978年(昭和53年)7月22日)は、日本の英文学者。和洋女子大学教授。専門はイギリス小説で、日本におけるサマセット・モーム研究の第一人者だった。 鹿児島県谷山村(現・鹿児島市)上福元出身。1918年(大正7年)谷山男子尋常小学校入学。1924年(大正13年)鹿児島県立第二鹿児島中学校(旧制、現鹿児島県立甲南高等学校)入学、1929年(昭和4年)卒業。1930年(昭和5年)青山学院英語師範科入学。同科卒業。1934年(昭和9年)私立福山中学校(旧制、現鹿児島県立福山高等学校)教諭、1939年(昭和14年)東京府立第七中学校(旧制、現東京都立墨田川高等学校)教諭、1946年(昭和21年)東京都立第三中学校(旧制、現東京都立両国高等学校・附属中学校)教諭。
金久 好(かねひさ よしみ、1911年4月1日 - 2010… 金久 好(かねひさ よしみ、1911年4月1日 - 2010年7月13日)は、日本の実業家。日興證券役員、日興證券投資信託委託副社長、日興ビルディング社長などを歴任。「奄美大島に於ける「家人」の研究」等、奄美の史料論文著者としても知られる。 鹿児島県瀬戸内町出身。奄美群島加計呂麻島の諸鈍生まれ。旧制鹿児島県立第二鹿児島中学校(現鹿児島県立甲南高等学校)を経て、1931年旧制第七高等学校造士館(現鹿児島大学)文科卒業。1936年東京帝国大学経済学部卒業。三菱信託銀行から日興證券に転じる。日興證券本店債券部長(1957年)、金融法人部長(1959年)、取締役人事部長(1961年)、常務取締役(1963年)を歴任。
東 愛吉(ひがし あいきち、1911年〈明治44年〉1月15… 東 愛吉(ひがし あいきち、1911年〈明治44年〉1月15日-1973年〈昭和48年〉6月19日)は、日本の陸軍軍人。終戦時の階級は陸軍少佐。栄典は勲四等瑞宝章。大日本帝国陸軍第7飛行師団の参謀や陸上自衛隊第13普通科連隊長などを務めた。 1911年1月15日、鹿児島県宮之城村(現さつま町)に生まれる。盈進小学校、鹿児島県立第二中学校(現・鹿児島県立甲南高校)を経て、陸軍士官学校(45期)、陸軍大学校を卒業。陸大の同期(55期)に三笠宮崇仁親王がいる。その後、太平洋戦争時は陸軍参謀本部に勤務。 戦後、帰郷し公職追放により軍人を辞めたが、1953年、追放解除後に勧誘を受けた警察予備隊に二等陸佐として横須賀市久里浜幹部学校に入隊した。
北原 三男(きたはら かずお、1910年〈明治43年〉3月2… 北原 三男(きたはら かずお、1910年〈明治43年〉3月28日 - 1993年〈平成5年〉)は、台湾総督府官僚、鹿児島県職員、また夏目 漠(なつめ ばく)の筆名で日本の詩人、文筆家。鹿児島県職員としては、人事分野や社会福祉行政に携わった他、文化振興にも尽力し、鹿児島県文化センター初代館長を務めた。 鹿児島県鹿児島市に生まれる。旧制の鹿児島県立第二鹿児島中学校(現:鹿児島県立甲南高等学校)を経て、1930年(昭和5年)第七高等学校造士館文科(甲類)を卒業。1933年(昭和8年)10月高等試験行政科に合格し、翌年3月に東京帝国大学法学部法律学科を卒業する。1936年(昭和11年)台湾拓殖に入社し、1939年(昭和14年)に台湾総督府属となる。
久保田 尚志(くぼた たかし、1909年11月8日 - 20… 久保田 尚志(くぼた たかし、1909年11月8日 - 2004年1月1日)は、日本の化学者。理学博士。大阪市立大学名誉教授。有機化学の権威。日本化学会名誉会員。 鹿児島県鹿児島市出身。鷹師町で生まれて1914年に市内の上竜尾町に転居し、鹿児島市立大龍小学校を出る。鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)を経て、第七高等学校造士館 (旧制)理科甲類を1929年に卒業。東北帝国大学理学部化学科で真島利行に師事して1932年に卒業し、東北大の助手となって藤瀬新一郎の下で研究に従事。1936年に大阪帝国大学理学部小竹無二雄研究室の助手に転じて、1939年に大阪大学助教授。同年「白茶に含まれるフラパノール、アンペロプチンの構造研究」で理学博士。
折田 泉(おりた いずみ、1909年10月10日 - 197… 折田 泉(おりた いずみ、1909年10月10日 - 1972年1月4日)は、日本のヴァイオリニスト、作曲家。 鹿児島県旧川辺郡知覧町(現・南九州市)出身。元衆議院議員の実業家折田兼至の五男。1927年に鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)を卒業後、東洋音楽専門学校を経て東京高等音楽学院(国立音楽学校)へ進学し、アレクサンドル・モギレフスキーと芝祐孟に師事、1932年に本科卒業。新交響楽団(現・NHK交響楽団)でもヴァイオリンを弾いたが、手首を痛めて鹿児島県に帰郷。失意の中にいたが石井漠舞踊団の後援をしていた兄に誘われ、再上京して入団し舞踊に伴奏するヴァイオリニストとなる。黎明期だった洋楽界の基礎がために尽くす。
平野 春逸(ひらの しゅんいつ、1909年10月1日-199… 平野 春逸(ひらの しゅんいつ、1909年10月1日-1992年8月23日)は、日本の医学者。医学博士。専門は生理学、解剖生理学。福岡大学名誉教授。クラシック音楽レコードの愛好収集する音楽評論家でもあり、また、ツバキの愛好収集家としても知られた。 鹿児島市出身で医師の長男。鹿児島女子師範学校附属小学校から旧制鹿児島県立第二鹿児島中学校(現鹿児島県立甲南高等学校)に入学し、1927年卒業。県立鹿児島病院研究補助員を務めた後、九州医学専門学校(現・久留米大学医学部)に入学。九州医学専門学校を1933年に卒業して、一度鹿児島へ戻り県立鹿児島病院の医員を翌年まで務める。1934年には九州医学専門学校内科に入局して、1936年には放射線科へ転じ、1937年に医局長となる。
鮫島 眞男(さめしま さねお、1909年9月2日 - 199… 鮫島 眞男(さめしま さねお、1909年9月2日 - 1995年10月2日)は、日本の国会職員、日本の法学者。第4代衆議院法制局長。衆議院法制局退官後は、城西大学と近畿大学の教授を務めながら商法を研究。位階は正三位。 鹿児島県日置郡東市来村長里(現・日置市東市来町長里)にて生まれ、1922年3月鶴丸尋常小学校卒業。鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)へ入学し、2年次から修了まで首席。1926年に同中を4年修了して、第七高等学校造士館 (旧制)へ進学し同校文科でも首位の成績。1930年3月第七高等学校造士館文科卒業。同年東京帝国大学法学部法律学科に入学、1933年、同学科を卒業。 1932年の高等試験司法科に合格し、1933年大学卒業後函館地方裁判所司法官補に任じられ、1934年12月より判事(東京地方裁判所、水戸地方裁判所)。
鰺坂 二夫(あじさか つぎお、1909年2月8日 - 200… 鰺坂 二夫(あじさか つぎお、1909年2月8日 - 2005年5月12日)は、日本の教育学者。京都大学名誉教授。 鹿児島県加世田市(南さつま市)出身。教育者小原國芳の長兄の次男として誕生し、叔父國芳の養子となる。鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)を経て、國芳が校長を務めた旧制成城高等学校を卒業した。1932年京都帝国大学文学部教育学科卒業。その後國芳の娘と結婚し、國芳が養子に入っていた鰺坂家を代わって相続した。静岡県視学官、東京農業教育専門学校教授、鹿児島大学教授を経て、1959年京都大学教育学部教授。1972年に定年退官、名誉教授となる。その後、甲南女子大学学長、文部省教育職員養成審議会会長を務めた。
藤田 文江(ふじた ふみえ、1908年(明治41年)9月29… 藤田 文江(ふじた ふみえ、1908年(明治41年)9月29日 - 1933年 (昭和8年)4月24日)は、日本の詩人。ボードレールの影響を受けた耽美的な詩を書き、詩集に『夜の聲』がある。 1908年9月29日に鹿児島県大島郡名瀬村(現・奄美市)で生まれ、鹿児島市、台湾と転居し、14歳まで台湾で過ごす。台北第二高等女学校に入学。再び鹿児島に転居し、鹿児島県立第二高等女学校(現・鹿児島県立甲南高等学校)に編入。1925年に鹿児島県立第二高等女学校を卒業。鹿児島女子師範学校(現・鹿児島大学教育学部)に進学、1926年に卒業し小学校教師になるが、病弱のため退職。その後鹿児島女子師範学校の専攻科に進学。
八島 太郎(やしま たろう、1908年9月21日 - 199… 八島 太郎(やしま たろう、1908年9月21日 - 1994年6月30日)は、日本とアメリカとで活躍した日本人画家、絵本作家である。本名 : 岩松 淳(いわまつ じゅん)。鹿児島県肝属郡小根占村出身。作家の伊佐千尋、俳優のマコ岩松は息子。
四元 義隆(よつもと よしたか、明治41年(1908年)3月… 四元 義隆(よつもと よしたか、明治41年(1908年)3月8日 - 平成16年(2004年)6月28日)は日本の右翼、実業家。元三幸建設工業社長・会長。政界の指南役。血盟団のメンバーの一人。別名「一匹狼の非利権右翼」。
留岡 彬(とめおか あきら、旧姓・池畑、1908年-2002… 留岡 彬(とめおか あきら、旧姓・池畑、1908年-2002年)は、日本の洋画家。光風会会員、鹿児島市立美術館顧問。戦後光風会展や日展で活動し、京都画壇で活躍。重厚で色彩豊かな風景作品を発表した。 鹿児島県日置郡伊集院町(現日置市)生まれ。大牟礼南島が指導する鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)を経て、1928年に東京美術学校 (旧制)西洋画科へ進学し藤島武二に師事。1933年に同校を卒業。教員となり滋賀県立大津高等女学校に赴任。1941年京都市へ移る。京都市立美術工芸学校の後身京都市立日吉ヶ丘高等学校西洋画科(後の京都市立銅駝美術工芸高等学校)で教諭を務める。 1954年第40回光風会展でK氏賞を受賞。
竪山 利忠(たてやま としただ、1907年1月15日-199… 竪山 利忠(たてやま としただ、1907年1月15日-1993年12月6日)は、日本の労働運動家・社会学者(労働社会学)。創価大学名誉教授・拓殖大学元教授。戦前は社会主義運動から日本共産党で活動し、転向後は寧ろ反共・右派の労働運動の理論家となった。電機労連委員長から民間連合会長になった竪山利文は弟。 鹿児島県谷山村(現・鹿児島市の一部)松崎に生まれる。1924年3月、鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)を卒業。1926年3月に第七高等学校造士館 (旧制)文科を卒業し、同4月に東京帝国大学経済学部経済学科入学。帝大入学と同時に新人会に入り、浜松日本楽器大争議に派遣される。新人会幹事長を経て日本共産青年同盟に加盟。
島崎 千里(しまざき せんり、1906年(明治39年)3月2… 島崎 千里(しまざき せんり、1906年(明治39年)3月28日-1981年(昭和56年)12月26日)は、日本の実業家。電通顧問、日本マーケティング協会初代理事長。広告業界の実力者、アイディアマンとして知られ、広告の正常化・近代化に努めた。 鹿児島県熊毛郡南種子村生まれ。1918年(大正7年)仁川尋常小学校卒業、1923年(大正12年)鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)卒業、1926年(大正15年)第七高等学校造士館 (旧制)卒業。1929年(昭和4年)に東京帝国大学経済学部を卒業後、イギリスに留学。帰国後、日本生命保険を経て産業經済新聞に入社。戦時中は軍に3度応召され、中支、南支、ビルマ、シンガポールなどの戦線に赴き、韓国で歩兵太尉として終戦を迎える。
入鹿山 且朗(いるかやま かつろう、旧名・入鹿山 勝郎、19… 入鹿山 且朗(いるかやま かつろう、旧名・入鹿山 勝郎、1906年(明治39年)3月10日 - 1977年(昭和52年)9月27日)は、日本の医学者・衛生学者。熊本大学名誉教授。水俣病の原因物質特定に貢献した。専門は気候衛生学、疫学、食品衛生。医学博士。 1906年、鹿児島県日置郡吉利村(現・日置市)に生まれる。祖父は小松帯刀の侍医で、父も医者。鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)、静岡高等学校 (旧制)を経て、1932年京都帝国大学医学部卒業。戸田正三教授の衛生学に入室。1936年11月、「衣服の熱学的研究」で京都帝国大学より医学博士。 1936年11月、大阪市立衛生研究所に入る。1938年の厚生省発足と同時に入局して衛生局技官。
篠原鳳作(しのはら ほうさく、1906年1月7日 - 193… 篠原鳳作(しのはら ほうさく、1906年1月7日 - 1936年9月11日)は、日本の俳人。本名は篠原国堅(くにかた)。旧号は未踏、雲彦。鹿児島県出身。無季俳句で有名。 1906年(明治39年)、鹿児島市で生まれる。1923年(大正12年)鹿児島県立第二鹿児島中学校(旧制鹿児島二中、現鹿児島県立甲南高等学校)を卒業。1926年(大正15年)第七高等学校造士館(現鹿児島大学)文科卒業。1929年(昭和2年)東京帝国大学法学部を卒業。不景気のため就職口がなく、また病弱のため都会での就職を避け郷里で句作に没頭。1928年(昭和3年)、「ホトトギス」に初入選。「ホトトギス」、「京鹿子」、「馬酔木」など、初学時代は多くの俳誌に投句した 1931年(昭和6年)より沖縄県立宮古中学校 (旧制)の英語教諭を務める。
安達 真太郎(あだち しんたろう、1906年 - 1988年… 安達 真太郎(あだち しんたろう、1906年 - 1988年8月)は、日本の洋画家。元光風会会員(光風会評議員)、元日展(文展)会員。光風会、日展で最も人気の高い作家の一人と言われた。 鹿児島県鹿児島市出身(出生地は兵庫県姫路市)。鹿児島市立松原尋常小学校と大牟礼南島が指導する鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)を卒業。 代用教員となるが、画家の夢をあきらめられずに上京して川端画学校に入る。住み込みで清水良雄に師事。清水にデッサンを教わった後東京美術学校も受験予定だったが、清水からもう充分実力がありわざわざ学校に通うのはもったいないといわれて取りやめる。画業のかたわら帝大植物園にて植物標本のスケッチの仕事を手伝う。
坂元 盛愛(さかもと もりよし、1906年-1990年10月… 坂元 盛愛(さかもと もりよし、1906年-1990年10月31日)は、日本の洋画家。光風会会員。鹿児島市立美術館館長や鹿児島県歴史資料センター黎明館専門員を歴任。号は照茂。 鹿児島県鹿児島市出身、鹿児島市立清水尋常小学校と鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)を卒業。鹿児島二中では大牟礼南島に師事。 1927年、南國美術展に初出品。1928年に上京して川端画学校で学ぶ。帰郷後、第9回南國美術展で美展賞受賞。この頃から金羊会に参加。以後、黒潮、艸玄社と鹿児島県洋画壇の保守勢力で中心作家として活躍。光風会展にも出品し、1967年会員推挙。山形屋宣伝部長も務めた。 刀剣審査委員など文化財保護にも尽力。
温水 三郎(ぬくみ さぶろう、1905年(明治38年)10月… 温水 三郎(ぬくみ さぶろう、1905年(明治38年)10月3日 - 1976年(昭和51年)10月22日)は、昭和期の農業協同組合指導者、政治家。参議院議員(3期)。位階は正四位、勲等は勲二等。 宮崎県西諸県郡小林村(現小林市)で、宮崎県会議長を務めた温水実孝の息子として生まれた。その後、旧制鹿児島県立第二鹿児島中学校を経て1931年(昭和6年)法政大学法科卒業し、農業に従事した。 1942年(昭和17年)小林町会議員に選出。1946年(昭和21年)小林町農業会会長に就任。1948年(昭和23年)宮崎県農業会会長となり。1954年(昭和29年)宮崎県農業協同組合中央会会長。1963年(昭和38年)宮崎県の農協中央会、信用農協連、経済農協連、共済農協連の各会長就任。
小山 長規(こやま おさのり、1905年〈明治38年〉6月1… 小山 長規(こやま おさのり、1905年〈明治38年〉6月10日 - 1988年〈昭和63年〉1月31日)。は、日本の政治家。衆議院議員(12期)、建設大臣(第23-24代)、国務大臣環境庁長官(第3代)を歴任。 宮崎県西諸県郡小林村(後の西諸県郡小林町、小林市)に、森長興(西諸県貯蓄銀行頭取、宮崎県会議員等歴任)の息子(資料により二男や四男)として生まれる。1919年に細野小学校を卒業。旧制の鹿児島県立第二鹿児島中学校(現・鹿児島県立甲南高等学校)を1923年に、第三高等学校を1926年に卒業。第三高等学校と東京帝国大学ではボート部に所属。1928年高等文官試験司法科に合格。村上朝一最高裁判所長官は、ともに高等文官試験の勉強をした学生時代の親友。
加藤 久幹(かとう ひさもと / ひさとし、1904年(明治… 加藤 久幹(かとう ひさもと / ひさとし、1904年(明治37年)12月8日 - 1976年(昭和51年)11月21日)は、日本の洋画家、華族。光風会会員。旧名・島津 久幹。 鹿児島県出身。重富島津家(薩摩島津氏の主要分家)の男爵・島津壮之助の二男として生まれる。旧制鹿児島県立第二鹿児島中学校(現:鹿児島県立甲南高等学校)で大牟礼南島に、東京美術学校(現:東京芸術大学)西洋画科で藤島武二に師事。1928年に東京美術学校を卒業。加藤子爵家(元近江水口藩主家、加藤嘉明系)の加藤克明の婿養子となる。 1957年、光風会会員となる。橋口康雄(橋口五葉の甥)や山口長男の上杜会に加わったことや、猪熊弦一郎と三春会をつくったこともある。
福山 郷太郎(ふくやま ごうたろう、1904年8月29日 -… 福山 郷太郎(ふくやま ごうたろう、1904年8月29日 - 1982年5月27日)は日本の政治家。宮崎県串間市長(第2代、2期)、串間市議会議長などを歴任。 宮崎県出身。旧制鹿児島県立第二鹿児島中学校(現鹿児島県立甲南高等学校)にて学び、小山長規と同級で親しかった。1932年旧制第五高等学校(現熊本大学)文科卒業。1935年九州帝国大学法文学部法科(現九州大学法学部)政治専攻卒業。満洲綿花協会勤務を経て、1936年4月から1937年12月まで満洲国産業部農政課嘱託。 1959年4月串間市議会議員に当選し、1962年5月まで務める。そのうち1960年5月23日から1962年5月30日は、串間市議会議長の任にあった。
太田 淳昭(おおた じゅんしょう、諡・浄徳院、本名・太田淳照… 太田 淳昭(おおた じゅんしょう、諡・浄徳院、本名・太田淳照(あつてる)、旧姓・井上、幼名・淳麿、1904年2月15日-1985年8月4日)は、日本の宗教家、浄土真宗の僧。浄土真宗本願寺派総長、全日本仏教会理事長、日本宗教連盟理事長を歴任。光接寺(阿久根市)住職。 鹿児島県谷山町和田(現・鹿児島市内)の妙行寺の生まれ(次男)。鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)を経て、第七高等学校造士館 (旧制)文科を1924年3月に卒業。1928年東京帝国大学法学部政治学科卒業。1929年鹿児島県阿久根町の光接寺の養子となる。1950年から1974年まで宗会議員(7期)。浄土真宗本願寺派内局総務(1952年~1953年)、築地別院輪番(1956年~1960年)を経て、1962年~1965年と1969年~1974年に本願寺派総長。
赤崎 兼義(あかざき かねよし、1903年3月8日-1989… 赤崎 兼義(あかざき かねよし、1903年3月8日-1989年10月12日)は、日本の医学者。病理学が専門。医学博士、ドイツ名誉医学博士。東北大学名誉教授。愛知県がんセンター研究所名誉所長。 宮崎県西諸県郡加久藤村(現・えびの市)にて生誕。鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)を経て、1923年3月に第七高等学校造士館 (旧制)理科乙類を卒業。1927年3月東京帝国大学医学部医学科を卒業し、9月20日より同医学部病理学教室嘱託。1931年4月同大学院入学特選給費生に選定され、1934年9月に医学博士の学位を取得し大学院退学。同年10月13日に新潟医科大学 (旧制)助教授となる。1935年1月29日より2年間ドイツに病理学研究の留学をし、1937年3月26日に帰国。
棈松 源一(あべまつ げんいち、1903年2月7日 - 19… 棈松 源一(あべまつ げんいち、1903年2月7日 - 1993年2月18日)は、日本のモンゴル語学・モンゴル文化学者。日本におけるモンゴル語研究の先駆者で、大阪外国語学校(現:大阪大学外国語学部)初の日本人モンゴル語専任教員。大阪外国語大学名誉教授。 鹿児島県鹿児島市小川町生まれ。鹿児島市立名山小学校から鹿児島市立清水小学校に移り卒業した後、鹿児島県立第二鹿児島中学校(旧制、現:鹿児島県立甲南高等学校)を1921年に卒業。官立大阪外国語学校(現:大阪大学外国語学部)に進み本科蒙古語部第1期生として1925年3月に卒業。 1927年、鹿児島県の花岡村立古江商業実務学校勤務。1929年、母校・大阪外国語学校蒙古語部講師となり、1935年に助教授に就任し、後に教授に昇任。
山本 祐二(やまもと ゆうじ、1903年(明治36年)1月1… 山本 祐二(やまもと ゆうじ、1903年(明治36年)1月17日 - 1945年(昭和20年)4月7日)は、日本の海軍軍人(海兵51期卒)。戦艦「大和」を旗艦とする第二艦隊の沖縄海上特攻作戦(坊ノ岬沖海戦)で戦死。戦死による一階級昇進で最終階級は海軍少将。
入佐 俊家(いりさ としいえ、1902年(明治35年)4月2… 入佐 俊家(いりさ としいえ、1902年(明治35年)4月26日 - 1944年(昭和19年)6月19日)は、日本の海軍軍人(海兵52期卒)。戦死による二階級特進で最終階級は海軍少将。 鹿児島県出身。郵便局長・入佐俊祥の息子として生れる。鹿児島二中を経て、1924年(大正13年)7月、海軍兵学校(52期)を卒業。翌年12月、海軍少尉に任官。1928年(昭和3年)12月から翌年11月まで第19期飛行学生として学んだ。 日中戦争時から陸攻隊を率いて多大な戦果をあげ、その技量と用兵から陸攻の神様 海軍の至宝と言われた。常に指揮官先頭を実践し、部下からも上司からも絶大な信頼を寄せられた。 鹿屋空飛行長で太平洋戦争開戦を迎え、南方進攻作戦に活躍、その後、海軍兵学校教官として内地へ帰還するが、1944年(昭和19年)3月、再建された機動部隊(第一機動艦隊)の第六〇一海軍航空隊司令兼空母大鳳の飛行長として新鋭空母大鳳に乗り組むことになる。
中村 威(なかむら たけし、1902年3月11日 - 198… 中村 威(なかむら たけし、1902年3月11日 - 1986年3月27日)は、日本の生物学者、植物学者。京都学芸大学教授、関西女子短期大学教授を歴任。理学博士。専門は植物細胞学。 熊本県飽託郡内田村(後の天明村、天明町、熊本市南区の一部)出身。1912年から鹿児島県鹿児島市に住み、1914年に旧制 鹿児島県立第二鹿児島中学校(現 鹿児島県立甲南高等学校)へ入学。1919年に、第二鹿児島中学校から鹿児島高等農林学校(現 鹿児島大学)へ進学。専門学科では、動植物学を主とする農学科第三部で、岡嶋銀次、河越重紀、中村治房らに師事。1922年3月に鹿児島高等農林学校農学科を卒業し、ただちに京都帝国大学理学部植物学教室助手となり、桑田義備教授に師事して細胞学の研究に従事。
平瀬 實武(実武、ひらせ さねたけ、1901年11月17日 … 平瀬 實武(実武、ひらせ さねたけ、1901年11月17日 - 1994年1月18日)は、日本の政治家、革新首長。第15代鹿児島市長、第2代鹿児島県串木野市長、第6代串木野町長。鹿児島県議会(鹿児島県会)議員、鹿児島市会議員、同副議長も歴任した。串木野市名誉市民。位階は従五位。 鹿児島市下荒田町の旧家・最上家に生まれる(平瀬は養子先の姓)。旧制鹿児島県立第二鹿児島中学校(現:鹿児島県立甲南高等学校)を経て、1922年旧制第七高等学校造士館(現:鹿児島大学)文科卒業、1926年に東京帝国大学農学部農業経済学科卒業。同じ下荒田町出身で後輩の佐多忠隆とは、旧制中学生(通う中学は別)と旧制七高生のとき、ともに社会主義について勉強した。
滿尾 君亮(みつお きみすけ、1901年(明治34年)9月5… 滿尾 君亮(みつお きみすけ、1901年(明治34年)9月5日 - 1994年(平成6年)8月3日)は、日本の政治家、衆議院議員、運輸官僚。 満尾彦吉の長男として、鹿児島県鹿児島市上之園町で生まれ。4年生まで中洲尋常小学校に通い、鹿児島県師範学校附属小学校に転校し卒業する。鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)を経て第七高等学校造士館 (旧制)文科甲類卒業する。旧制鹿児島二中では、のちの鹿児島市長平瀬實武と同級となる。1922年(大正11年)東京帝国大学法学部政治学科に入学し。在学中の1925年(大正13年)11月高等文官試験外交科に合格する。1925年(大正14年)に卒業し。鉄道省に奉職する。その年の月に高等文官試験行政科にも合格する。
有馬 知機(ありま ちき / ともき、1901年2月25日 … 有馬 知機(ありま ちき / ともき、1901年2月25日 - 1970年12月11日)は、日本の経営者。共栄火災海上保険社長、日本損害保険協会副会長を務めた。 鹿児島県日置郡伊集院町(後の日置市の一部)出身。旧制鹿児島県立第二鹿児島中学校(現鹿児島県立甲南高等学校)を経て、1924年3月に旧制山口高等学校文科乙類を卒業。旧制山口高校以来の友人に武安千春(日本セメント社長、会長、相談役)がいる。1927年3月、京都帝国大学法学部法律学科を卒業。 1927年4月、信託株式会社大信社へ入社。1930年3月に大信社を退職して、4月に共同火災保険株式会社へ入社。福岡支店長、関東営業部参事兼本店企画部参事、外国部長などを歴任。
葉梨 新五郎(はなし しんごろう、1901年〈明治34年〉2… 葉梨 新五郎(はなし しんごろう、1901年〈明治34年〉2月20日 - 1956年〈昭和31年〉3月27日)は、日本の政治家。衆議院議員(5期)。 茨城県稲敷郡木原村(現:美浦村木原)に葉梨伴之助の四男として生まれた。旧制鹿児島県立第二鹿児島中学校(現:鹿児島県立甲南高等学校)を卒業し、明治大学専門部法律科中退、国士舘高等部(国士舘大学の前身)中退。 中央新聞、日本電報通信社(後の電通)の記者、関東長官秘書官などを経て、1932年旧茨城1区から立憲政友会公認で第18回衆議院議員総選挙に初当選し、戦前・戦後合わせて公職追放の期間を挟み、5回当選した(第18回、第20回、第22回、第23回、第26回)。
小原 貞敏(おばら さだとし、1901年1月29日 - 19… 小原 貞敏(おばら さだとし、1901年1月29日 - 1988年7月19日)は、日本の工学者。専門は機械工学。鹿児島大学名誉教授 。鹿児島大学工学部長や鹿児島工業高等専門学校初代校長を歴任。 鹿児島県鹿児島市高麗町出身。1918年鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)卒業。1922年第七高等学校造士館 (旧制)理科卒業。1925年京都帝国大学工学部機械工学科卒業。大学卒業後に南満州鉄道へ入り機関士見習いからたたき上げ、あじあ (列車)の設計に携わる。終戦直前に満鉄本部運輸局長。戦後1946年から鹿児島県立工業専門学校 (旧制)でボイラー関係を教える(県立工業専門学校は学制改革で1949年2月に鹿児島県立大学工学部となる)。
入来 重盛(いりき しげもり、1900年12月10日 - 1… 入来 重盛(いりき しげもり、1900年12月10日 - 1984年2月9日)は、日本の生物学者・動物学者。東京教育大学名誉教授。専門は動物細胞学・細胞生物学。理学博士。 現在の鹿児島県鹿児島市谷山地区出身。(旧制)鹿児島県立第二鹿児島中学校、東京高等師範学校、京都帝国大学理学部卒業。「両棲類の染色体、とくに性染色体に関する研究」の論文で理学博士号取得。 東京高等師範学校および東京文理科大学の教授から学制改革によって東京教育大学理学部教授となり、1964年に定年退官。著書に『動物の解剖』(地球出版、1966年)などがあり、生物学や理科の教科書・参考書の共著をしているほか、児童向け図鑑の編著・共著が多数ある。
豊島 至(とよしま いたる、1900年10月10日-1947… 豊島 至(とよしま いたる、1900年10月10日-1947年9月20日)は、アメリカ統治下の奄美群島の首長。臨時北部南西諸島政庁知事。元は鹿児島県大島郡の教育者。 現在の鹿児島県大島郡瀬戸内町出身(奄美群島加計呂麻島芝地域生まれ)。1921年、旧制鹿児島県立第二鹿児島中学校(現:鹿児島県立甲南高等学校)卒業。管鈍尋常小学校(後の瀬戸内町立管鈍小学校)の代用教員となったのを皮切りに教育者としての道を歩み、諸鈍や小野津の校長を務める。大島郡教育会主事を経て、鹿児島県大島支庁総務課振興係主任となる。 1946年2月、奄美群島が日本と行政分離されアメリカ合衆国の統治下に入ったことに対応するため全大島連絡委員会が発足し、豊島は大島支庁振興主事として同会幹事に就任する。
内野 信二(うちの しんじ、1900年(明治33年)8月6日… 内野 信二(うちの しんじ、1900年(明治33年)8月6日 - 没年不明)は、日本の海軍軍人。太平洋戦争中に第二次遣独潜水艦作戦を完遂した伊号第八潜水艦長である。最終階級は海軍大佐。 鹿児島県出身。鹿児島二中を経て海軍兵学校49期を卒業。皇族2名を除いた席次は174名中29番。同期に原為一、長澤浩、鹿岡円平などがいる。1922年(大正13年)5月海軍少尉に任官した。中尉時代に5艦の呂号潜水艦に乗艦し、大尉進級。水雷学校高等科へ進み、さらに同専攻科を卒業。伊号潜水艦水雷長、潜水学校教官を務め、1933年(昭和8年)11月、少佐へ進級。以後潜水学校甲種学生(潜水艦長養成過程)をはさみ5艦の潜水艦長を歴任。
丸野 弥高(まるの やこう、1900年3月20日-1976年… 丸野 弥高(まるの やこう、1900年3月20日-1976年3月22日)は、日本の国文学者。明治大学名誉教授。 鹿児島県鹿児島市平之町に生まれ、鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)を1918年3月に卒業。同校3年次に1年休学しており、その間、文学書を読みあさっていた。また、当時の校長の方針で旧制第二鹿児島中では国語の副読本に田山花袋の随筆「椿」が使われており、この頃から自然主義文学に興味を抱く。 1926年3月に第七高等学校造士館 (旧制)を、1930年に東京帝国大学文学部国文学科をそれぞれ卒業。旧制第七高校では文芸部に入っていた。また、学生時代から「潮騒」主宰の太田水穂に師事して短歌をつくる。
本田 親男(ほんだ ちかお、1899年11月21日 - 19… 本田 親男(ほんだ ちかお、1899年11月21日 - 1980年7月30日)は、鹿児島県出身のジャーナリスト、実業家。毎日新聞社社長、会長、最高顧問、毎日放送会長、相談役を歴任した他、日本新聞協会会長を2期務めた。 本田の祖先は、武蔵国本田郷の領主・本田左衛門尉貞親で、島津忠久夫人の父。 1899年11月21日、鹿児島市下荒田町生まれ。鹿児島師範学校附属幼稚園を経て、1906年に鹿児島市立八幡小学校へ入学。このころ本田の人間形成に与えた訓育がある。旧薩摩藩独自の教育制度・郷中制度の精神を受け継いだ学舎「研明舎」での教育がそれで、本田は5歳ごろより小学校の放課後にここへ通い、先輩舎生の監督下で諸学科の復習や予習をした。
堀 豊彦(ほり とよひこ、1899年9月24日 - 1986… 堀 豊彦(ほり とよひこ、1899年9月24日 - 1986年4月9日)は、日本の政治学者。東京大学名誉教授。日本基督教団の会員。オランダ通詞・堀達之助の曾孫。子に倫理学者・英学者の堀孝彦がいる。 山口県赤間に村田豊作、ナリの三男として生まれる。1912年に母方の姓の堀になる。1913年鹿児島のバプテスト教会で青木澄十郎から洗礼を受ける。鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)および第七高等学校造士館 (旧制)卒業。1924年東京帝国大学法学部を卒業する。1926年よりイギリスのオックスフォード大学とドイツに留学し、1929年帰国後に台北帝国大学教授に就任する。 1942年より九州帝国大学教授になる。
島津 忠彦(しまづ ただひこ、1899年(明治32年)8月3… 島津 忠彦(しまづ ただひこ、1899年(明治32年)8月30日 - 1980年(昭和55年)5月12日)は、昭和期の日本の実業家、政治家、華族(男爵)。貴族院男爵議員、参議院議員(2期)。重富島津家第8代当主(越前島津家第23代当主)。 鹿児島県鹿児島市清水町出身。男爵・島津壮之助の長男として生まれる。父の死去に伴い、1925年(大正14年)4月15日、男爵を襲爵した。 鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制) を経て、1923年(大正12年)成蹊実業専門学校本科を卒業。三菱銀行に勤務(約10年間)。以後、三和電機社長、鈴木商店代表者、鹿児島製紙興業社長などを務めた。 1939年(昭和14年)7月10日、貴族院男爵議員に選出され、公正会に所属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任。
伊東 隆治(いとう りゅうじ、1898年7月8日 - 196… 伊東 隆治(いとう りゅうじ、1898年7月8日 - 1968年3月28日)は、日本の政治家。衆議院議員(3期)。参議院議員(1期)。 鹿児島県大島郡龍郷村(現龍郷町)生まれ。鹿児島県立第二鹿児島中学校・第一高等学校を経て、東京帝国大学法学部に進学。帝大在学中の1921年(大正10年)に高等試験行政科・外交科で合格し、卒業後に外務省入りし、在漢口総領事館領事官補。同期入省に井口貞夫(駐米大使、外務事務次官)、田尻愛義(外務次官、大東亜次官、政務局長)、安東義良(駐ブラジル大使、欧亜局長)、西村熊雄(駐フランス大使、条約局長)などがいる。 外務省では通商局第五課長・漢口総領事・興亜院華中連絡部文化局長を歴任し、中華民国大使館参事官を最後に退官する。
鈴木 秀夫(すずき ひでお、1898年(明治31年)7月4日… 鈴木 秀夫(すずき ひでお、1898年(明治31年)7月4日 - 1986年(昭和61年)9月17日)は、昭和時代前期の台湾総督府官僚。弁護士。 愛知県蒲郡市出身(北海道生まれ)。鈴木又治郎の長男。1912年(明治44)4月愛知県立第四中学校(現愛知県立時習館高等学校)入学。1913年(大正2年)鹿児島県立第二鹿児島中学校(現鹿児島県立甲南高等学校)へ転校し、1917年(大正6年)3月卒業。1917年(大正6年)9月第一高等学校入学、1920年(大正9年)6月卒業。1920年(大正9年)9月東京帝国大学法学部英法科に入学し、在学中の1922年(大正11年)11月高等試験行政科に合格。1923年(大正12年)3月に東京帝国大学法学部を卒業し、4月5日に台湾総督府属に任ぜられ財務局勤務となる。
永野 芳辰(ながの よしたつ、1898年(明治31年)2月2… 永野 芳辰(ながの よしたつ、1898年(明治31年)2月20日 - 1984年(昭和59年))は、日本の内務官僚・実業家。高知県知事。1953年(昭和28年)12月25日の奄美群島本土復帰立役者のひとり。 鹿児島県大島郡笠利村の佐仁(奄美大島、現奄美市)で、永野孫七の長男として誕生。1918年(大正七年)旧制鹿児島県立第二鹿児島中学校卒業、1922年(大正11年)旧制第七高等学校造士館卒業、1925年(大正14年)京都帝国大学法学部政治学科卒業。 愛知県属を振り出しに沖縄県、福島県、北海道、東京府各課長、北海道拓殖部長を経て1941年(昭和15年)大政翼賛会地方部長に就任。その後秋田県総務部長兼学務部長、広島県部長・経済部長、同内政部長を経て、1945年(昭和20年)10月、高知県知事に就任。
小倉 静三(おぐら せいぞう、1898年-1987年)は、日… 小倉 静三(おぐら せいぞう、1898年-1987年)は、日本の洋画家。谷口午二主宰の金羊会の結成メンバー。 鹿児島県鹿児島市出身。鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)卒業。在学時期から大牟礼南島の指導を受けたと推定されている。 旧制中学卒業後は東京美術学校や川端画学校で学び、藤島武二、岡田三郎助らに師事したといわれているが定かではない。鹿児島に帰郷後は山下兼秀のすすめで、大嵩双山とともに谷口午二に師事し、金羊会を結成。 南國美術展の創設にも関わったとされる。その後、上京し、松坂屋宣伝部などに勤め、光風会展や日展に出品。また、示現会に所属。 優れた描写力を生かして戦争画も多く残した。
加世田 哲彦(かせだ てつひこ、1897年〈明治30年〉11… 加世田 哲彦(かせだ てつひこ、1897年〈明治30年〉11月11日 - 1971年〈昭和46年〉7月25日)は、日本の海軍軍人。成績優秀な将校であったが、神政龍神会の結成にかかわり、不敬罪に問われ失官となる。最終階級は海軍中佐。 鹿児島県出身。鹿児島二中より海軍兵学校47期に首席入校。在学中も学術優等章を2度授与され、次席及び恩賜で卒業した。同期生に光延東洋、横山一郎、城英一郎などがいる。 1920年(大正9年)、少尉任官。尉官時代は霞ヶ浦海軍航空隊附としてセンピル教育団に関わり、第一遣外艦隊参謀、練習艦隊副官、戦艦「長門」分隊長、財部彪副官などを歴任。1930年(昭和5年)12月1日、海軍少佐へ進級し海軍大学校甲種30期へ進む。
高田 雅夫(たかた まさお、1895年9月30日 - 192… 高田 雅夫(たかた まさお、1895年9月30日 - 1929年5月24日)は、日本の舞踊家である。浅草オペラの時代(1917年 - 1923年)に、赤坂のローヤル館、松竹の新星歌舞劇団、根岸興行部の根岸大歌劇団等で活躍した。本名は中村 輝義。石井漠と並ぶ日本洋舞界の開拓者。 鹿児島県鹿児島市新屋敷通町出身。父・軍助は、欧州航路で初の機関長になった人物。鹿児島市立松原小学校在学中に父が死亡し、姉妹とともに母一人によって育てられる。鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)卒業。中学の同窓の友人に安藤照や谷口午二がいる。 旧制中学卒業の頃に上京し、1913年(大正2年)、試験に合格して帝国劇場歌劇部に第二期生として入る。
谷口 午二(たにぐち ごじ、1894年2月8日 - 1987… 谷口 午二(たにぐち ごじ、1894年2月8日 - 1987年1月13日)は、日本の洋画家。戦前に金羊会を主宰して南國美術展を創設し、戦後は鹿児島市立美術館初代館長や顧問として鹿児島県の洋画振興に尽力した。代表的な作品として「自画像」と「琉球風景」が挙げられる。 鹿児島県鹿児島市山之口町出身。旧姓・益山。生年月日(1894年2月8日)が午の年午の日であるのにちなみ午二と名づけられる。鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)(鹿児島二中)で大牟礼南島に学び、学外の山下兼秀からも指導をうける。1913年に上京して黒田清輝の葵橋洋画研究所でデッサンを修練し、貴族院議員千頭清臣(元鹿児島県知事)の書生をしながら東京美術学校西洋画科に入学。
平 敏孝(たいら としたか、1893年(明治26年)9月 -… 平 敏孝(たいら としたか、1893年(明治26年)9月 - 1969年(昭和44年)11月25日)は、大正後期から昭和前期の内務・警察官僚。官選県知事。 鹿児島県出身。平義光の三男として生まれた。鹿児島県立第二鹿児島中学校(現鹿児島県立甲南高等学校)を経て第一高等学校を卒業。1917年(大正6年)10月、文官高等試験行政科試験に合格。1918年(大正7年)東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。逓信省に入省し管船局属となる。その後、内務省に転じた。 1919年(大正8年)警視庁警視となる。以後、警視庁保安部保安課長、谷中警察署長、外神田警察署長、群馬県内務部地方課長、同学務課長、帝都復興院及び復興局経理部倉庫課長兼購買課長、岡山県学務部長、千葉県学務部長などを歴任。
操 坦道(みさお たんどう、1893年1月2日 - 1994… 操 坦道(みさお たんどう、1893年1月2日 - 1994年9月11日)は、日本の医学者、内科学者、感染症学者、ウイルス学者。臨床医学の日本における紹介者で、ウイルス性疾患研究の第一人者だった。九州大学名誉教授、日本感染症学会名誉会員。 鹿児島県の沖永良部島の現・和泊町出身。代々村長かつ学者の家系だった操家に生まれる。名前の由来は王陽明の「信歩行来皆坦道」。西郷隆盛が沖永良部島に流刑になった際は祖父・操坦栽が世話をし、隆盛が父の操坦勁のために書いた家族生活の心得や曾祖父の操坦晋が遺した家訓「清慎」のもと、坦道は育てられた。1906年4月に鹿児島市の鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)へ入学。同校の寄宿舎「成徳寮」で暮らす。