スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
神川 彦松(かみかわ ひこまつ、1889年12月23日 - … 神川 彦松(かみかわ ひこまつ、1889年12月23日 - 1988年4月5日)は、日本の国際政治学者。 三重県生まれ。第一高等学校卒業後、東京帝国大学法学部で国際政治学を専攻する。同じ東京帝大法学部の同期に南原繁がいる。 1923年から東京帝国大学法学部教授。1940年、皇紀2600年の記念に大正製薬創業者・初代社長の石井絹治郎らと共に皇道文化研究所を設立した。1929年、東京大学より法学博士を授与(論文タイトルは『国際聯盟政策論』)。 1947年、公職不適格と認定され、東京大学を去った。1950年に公職不適格認定が解除され、東京大学名誉教授となると同時に明治大学教授に就任。1953年に日本学士院会員となり、日本国際政治学会・日本国際問題研究所の設立にも関わりそれぞれ初代理事長・初代所長を務めた。
もっと読む
三谷 隆正(みたに たかまさ、1889年2月6日 - 194… 三谷 隆正(みたに たかまさ、1889年2月6日 - 1944年2月17日)は、日本の法学者。 京都府与謝郡弓木村(現・与謝郡与謝野町)出身で、横浜で生糸商をしていた三谷宗兵衛の長男として生まれる。 明治学院在学中、異母姉三谷民子(のち女子学院院長)の影響でクリスチャンとなった。父の事業破産によって、第一高等学校在学中から住み込みの家庭教師として自活。 東京帝国大学在学中より、内村鑑三に師事。1915年に大学を卒業すると、法制とドイツ語の教授として第六高等学校に赴任。1924年に病で長女と妻を相次いで失う。1926年に六高を辞して上京、千駄ヶ谷教会に長老として参加。1927年から第一高等学校教授となり、法制とドイツ語を担当。
もっと読む
征矢野 晃雄(そやの てるお、1889年1月22日 - 19… 征矢野 晃雄(そやの てるお、1889年1月22日 - 1929年4月26日)は、日本の神学者、哲学者である。 長野県塩尻市出身。1910年(明治43年)日本基督教会富士見町教会で植村正久に洗礼を受ける。富士見町教会有志青年の寄宿舎山上寮に材料する第一高等学校、東京帝国大学を卒業する。卒業後は、福岡高等学校教授に就任した。 1926年(大正15年)に植村正久の死後、東京に戻り東京神学社、東京女子大学で哲学を教える。東京神学社の同僚に高倉徳太郎がいる。 戸山教会(信濃町教会)に転会し、高倉の協力者になった。カント、ヤーコプ・ベーメ、トマス・アクィナス、アウグスティヌスなどの研究を進めた。 1929年(昭和4年)に神奈川県茅ヶ崎町の自宅で病死した。
もっと読む
佐久間 鼎(さくま かなえ、1888年9月7日 - 1970… 佐久間 鼎(さくま かなえ、1888年9月7日 - 1970年1月9日)は、日本の心理学者、言語学者、国語学者。 1888年、千葉県で生まれた。第一高等学校を経て、東京帝国大学文科大学哲学科に入学。心理学専修で学び、1913年に卒業、同大学大学院に進んで日本語のアクセントについて研究した。 1923年に欧州留学を命じられ、ドイツ留学中にベルリン大学のヴォルフガング・ケーラーのもとでゲシュタルト心理学を学んだ。1925年に帰国し、九州帝国大学の初代心理学講座担任教授に就いた。九州大学には、戦後1949年の退官まで奉職。1966年には日本学士院会員に選出された。 1952年、東洋大学教授に迎えられ、心理学、国語学を担当。
もっと読む
明石 和衛(あかし かずえ、1888年(明治21年)8月30… 明石 和衛(あかし かずえ、1888年(明治21年)8月30日 - 1956年(昭和31年)5月6日)は、日本の機械工学者(精密工学)、実業家。東京帝国大学卒業後、明石製作所を創業。工学博士となり、精密工学会会長を務めた。 日本の陸上競技黎明期に短距離走・中距離走・走幅跳の選手として活躍したほか、昭和初期にはゴルフに傾倒してゴルフコースの設計を行うなど、スポーツの世界にも足跡を残した。 東京生まれ。第一高等学校から東京帝国大学に進む。1913年(大正2年)東京帝国大学工科大学機械工学科を卒業。「恩賜の銀時計」を受け、大学院特選給費学生として母校に残った。 学生時代には陸上競技選手として活躍。一高在学時、英米の陸上競技書を多数読んで練習に活かしたという。
もっと読む
恩田 経介(おんだ きょうすけ、1888年4月10日 - 1… 恩田 経介(おんだ きょうすけ、1888年4月10日 - 1972年4月18日)は、日本の植物学者。旧姓は小山。 長野県北佐久郡大井村(現・小諸市)に生まれる。小諸義塾に通い、島崎藤村から国語を学ぶ。1906年(明治39年)、恩田重信の養子となる。第一高等学校を経て1916年東京帝国大学理学部植物学科卒業、同大学院中途退学。在学中は三好学の指導を受けた。水産講習所(現・東京海洋大学)非常勤講師を経て、1923年(大正12年)明治薬学専門学校教授となり、第一高等学校講師を経て明治薬科大学の初代学長となる。牧野富太郎に師事し、木本植物を研究した。
もっと読む
下元 連(しももと むらじ、1888年 - 1984年10月… 下元 連(しももと むらじ、1888年 - 1984年10月2日)は、日本の大蔵官僚、建築家、工学者(建築学)。 日本建築学会副会長、戦災復興院技監、戦災復興院営繕部部長、工学院大学工学部教授などを歴任した。 大蔵省(のちの財務省)に所属する技師として、総理大臣官邸(のちに総理大臣公邸に転用)をはじめとする多数の官公庁を設計した。退官後は、下元設計事務所の代表として活動すると同時に、工学院大学工学部の教授として後進を育成した。 1888年、福岡県小倉市(のちの福岡県北九州市)にて生まれた。大志を抱いて上京し、旧制第一高等学校を経て東京帝国大学に入学し建築学を学んだ。1914年、東京帝国大学工科大学の建築学科(のちの東京大学工学部建築学科)を卒業し、学士号を得た。
もっと読む
杉田 直樹(すぎた なおき、1887年9月3日 - 1949… 杉田 直樹(すぎた なおき、1887年9月3日 - 1949年8月29日)は、日本の医学者、精神科医。 1887年、東京府生まれ。第一高等学校に入学し、高校在学時代の友人に谷崎潤一郎がいた。その後東京帝国大学に進学し卒業する。欧米に留学。帰国後に東京帝国大学助教授となり、松沢病院副院長。1931年名古屋医科大学教授、戦後名古屋大学教授となるがほどなく死去した。 妹の息子に小田切秀雄、小田切進がいる。
もっと読む
関口 鯉吉(せきぐち りきち、1886年1月29日 - 19… 関口 鯉吉(せきぐち りきち、1886年1月29日 - 1951年8月10日)は、日本の天文学者、気象学者、東京帝国大学名誉教授。関口隆吉の四男。新村出(言語学者)は実兄。朝永振一郎の義父。 静岡県出身。旧制第一高等学校を経て、東京帝国大学理科大学星学科卒業。朝鮮総督府観測所、神戸海洋気象台、中央気象台技師などを経て、1936年東京帝大教授兼東京天文台長。1946年定年退官、1949年まで帝国女子理学専門学校(現在の東邦大学)校長。戦前の一時期、文部省専門学務局長として科学行政に携わり、科学研究費の導入に尽力した。
もっと読む
東 季彦(あずま すえひこ、1886年(明治19年)1月17… 東 季彦(あずま すえひこ、1886年(明治19年)1月17日 - 1979年(昭和54年)7月18日)は、日本の法学者。旧姓乾(いぬい)。商法の権威として知られた。佐佐木信綱門下の歌人でもある。 奈良県十津川村出身。親類東武(衆議院議員、出版事業家)の養子となり、東姓を名乗る。1889年(明治22年)8月、故郷が大水害に遭ったため、同年11月、一家で北海道新十津川村に移住。村の小学校を卒業した後、上京して旧制開成中学に入学。同校を卒業後、旧制第一高等学校から東京帝国大学法学部を卒業し、陸軍経理学校の教授に就任。 1922年(大正11年)、文部省留学生として渡欧し、英・独・仏で民法を研究。1924年(大正13年)に帰国し、九州帝国大学法文学部教授に就任。
もっと読む
大類 伸(おおるい のぶる、1884年(明治17年)2月22… 大類 伸(おおるい のぶる、1884年(明治17年)2月22日 - 1975年(昭和50年)12月27日)は、日本の西洋史学者。東北帝国大学教授、帝国学士院会員、日本学士院会員。 1884年、東京市日本橋区生まれ。神田練塀小学校から東京開成中学校、第一高等学校を経て、1906年東京帝国大学文科大学史学科を卒業。 1921年、東京帝国大学文学部助教授に採用される。1915年に東京帝国大学に日本城郭史の研究を提出して文学博士の学位を授与された。1937年5月8日、帝国学士院会員に選出。1924年、東北帝国大学教授に転任。ヤーコプ・ブルクハルトを学んで西洋中世史、ルネッサンス史に先駆的業績をあげた。1944年に東北帝国大学を退官し、日本女子大学教授となった。
もっと読む
寺尾 博(てらお ひろし、1883年(明治16年)9月2日 … 寺尾 博(てらお ひろし、1883年(明治16年)9月2日 - 1961年(昭和36年)7月16日)は、日本の農学者。東北帝国大学教授。貴族院勅選議員。参議院議員(緑風会)。農学博士。日本学士院賞受賞。 静岡県出身。1903年(明治36年)、静岡県立静岡中学校卒業。旧制第一高等学校を経て、1909年(明治42年)、東京帝国大学農科大学を卒業(恩賜の銀時計授与)、農商務省に入った。農事試験場技手、同技師、農林技師を歴任。この間、水稲の耐寒品種である陸羽132号の交配、育成を行った。1941年(昭和16年)に農事試験場長に就任。同年に東北帝国大学教授・農学研究所長を兼ねた。1944年(昭和19年)、「水稲冷害の生理学的研究」で日本学士院賞受賞。
もっと読む
鳥潟 右一(とりかた ういち、1883年4月25日 - 19… 鳥潟 右一(とりかた ういち、1883年4月25日 - 1923年6月6日)は、日本の工学者。明治から大正期の通信工学の権威である。無線電話機の発明に成功し、逓信省電気試験所長をつとめた。工学博士。 秋田県北秋田郡花岡村(現大館市)で酒造業を営む鳥潟平治の長男として生まれる。旧制第一高等学校を経て、1906年東京帝国大学工科大学電気工学科を卒業。逓信省電気試験所に入所し、通信工学(特に無線通信)の研究に従事。当時、無線通信で主流であったコヒーラ検波器は通信距離が短いうえに安定しない問題があったが、1908年にタンタラム検波器を、1909年に鉱石検波器を発明し、飛躍的に無線通信機の性能を向上させた。
もっと読む
草間 偉(くさま いさむ、1881年(明治14年)6月1日 … 草間 偉(くさま いさむ、1881年(明治14年)6月1日 - 1972年(昭和47年)5月12日)は、明治時代後期から昭和時代の土木工学者。 長野県東筑摩郡寿村(現・松本市)の草間代次郎の二男・偉瑳武として生まれる。旧制第一高等学校を経て、1906年(明治39年)東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業し、九州鉄道に入社。別府線建設に従事したのち鉄道院に転じ日豊線建設を担当する。1909年(明治42年)母校の東京帝国大学工科大学助教授に転じ、1918年(大正7年)から衛生工学の研究のため、2年間の欧米留学でイリノイ大学、コーネル大学、ハーバード大学などでに微生物学、水理学などを学び、帰国後は逝去した中島鋭治に代わり1921年(大正10年)教授に進み土木工学講座担任となり、1942年(昭和17年)退官した(名誉教授)。
もっと読む
三宅 市郎(みやけ いちろう、1881年3月24日 - 19… 三宅 市郎(みやけ いちろう、1881年3月24日 - 1964年2月15日)は、日本の植物病理学者。 1881年、岐阜県恵那郡串原村(現・恵那市)に生まれた。第一高等学校を経て、東京帝国大学農科大学農学科(現・東京大学)を1906年に卒業、1907年に同大学助手となった。 1910年に清国・北京大学教授に招かれるが、政変により1914年に帰国。東京農業大学講師を勤め、植物病理学講座を開設して担当した。1924年に教授に昇格。玉川大学教授なども務めた。
もっと読む
藤懸 静也(ふじかけ しずや、1881年2月25日 - 19… 藤懸 静也(ふじかけ しずや、1881年2月25日 - 1958年8月5日)は、日本美術史学者、東京帝国大学教授。 茨城県古河市に生まれる。号は獅埼庵、獅子庵。父方祖父の五郎左衛門は旧古河藩国家老。江戸家老鷹見泉石は母方の曾祖父である。 第一高等学校を経て、1910年東京帝国大学文科大学史学科国史科を卒業し、直ちに大学院に入つて日本絵画史を専攻した。1914年以降は同大学文学部副手となり、そのかたわら、岡倉天心らが創刊し瀧精一を主幹とする、日本および東洋古美術研究誌『國華』の編集部員を1911年から勤め、広く美術工芸品への知識を得ていった。また女子美術学校、日本大学の講師、1917年國學院大學教授となる。
もっと読む
渡辺 三郎(渡邊 三郎、わたなべ さぶろう、1880年(明治… 渡辺 三郎(渡邊 三郎、わたなべ さぶろう、1880年(明治13年)12月2日 - 1951年(昭和26年)1月8日)は、日本の工学者、実業家、政治家。工学博士、貴族院勅選議員。旧姓・大河原。「特殊鋼」の命名者。 群馬県碓氷郡松井田駅(現安中市)で、商業・大河原新七、野恵夫妻の三男として生まれる。松井田町尋常高等小学校、群馬尋常中学校、第一高等学校工科を経て、1907年(明治40年)6月、東京帝国大学工科大学採鉱冶金学科を卒業。 大学卒業後、古河鉱業所 (株)(現古河機械金属)に入社し足尾鉱業所精錬課溶鋼係長に就任。1908年(明治41年)6月、実業家・渡辺福三郎、多満子夫妻の五女で従姉妹の那べと入夫縁組して渡辺と改姓。
もっと読む
野村 伝四(のむら でんし、1880年(明治13年)10月2… 野村 伝四(のむら でんし、1880年(明治13年)10月20日 - 1948年(昭和23年)7月26日)は、日本の英文学者、方言学研究者、民俗学者、教育者。 1880年(明治13年)、鹿児島県肝属郡高山町(現・肝付町)で生まれた。父伝之助は漢学者で槍の名人、文武両道に秀でていたというが、伝四が五歳の時、西南戦争の被弾がもとで没した。1900年(明治33年)、鹿児島県中学造士館卒業、一級上に橋口五葉がいた。1903年(明治36年)7月に第一高等学校卒業し同年9月、東京帝国大学英文学科に入学、1906年(明治39年)7月卒業。同級に中川芳太郎、森田草平、栗原古城らがいた。3年先輩に皆川正禧と野間真綱がおり、野間の熊本五高時代の1年先輩に寺田寅彦がいた。
もっと読む
川村 麟也(かわむら りんや、1879年〈明治12年〉9月1… 川村 麟也(かわむら りんや、1879年〈明治12年〉9月11日 - 1947年〈昭和22年〉10月31日)は、日本の医師、病理学者。著名なツツガムシ病の研究の他、日本住血吸虫症の研究や脂肪染色法など一般病理学面での業績も残している 。 東京大学医科学研究所名誉教授の川村明義は三男。 1879年(明治12年)川村将徳の四男として山梨県北巨摩郡志田村(現・甲斐市)に生まれる。 中学校卒業後東京の独逸語学校にてドイツ語を学んだ後、第一高等学校を経て東京帝国大学医科大学に入り病理学教室の山極勝三郎に師事。1906年同大を卒業しすぐに病理学教室に入る。 1908年(明治41年)に奨学金を受けてイギリスとドイツに渡り、特にベルリンのヨハネス・オルト (Johannes Orth) とフライブルクのルードヴィッヒ・アショフ (Ludwig Aschoff) に師事した。
もっと読む
小出 満二(こいで まんじ、1879年8月13日 - 195… 小出 満二(こいで まんじ、1879年8月13日 - 1955年5月29日)は、農政学者。 兵庫県養父郡伊佐村で、9代続く医家の6人兄弟の次男として生まれる。学制尋常4年を卒業後上京し、13歳で郁文館中学校に進学。同期生に石原純、橋元昌矣(石原の妻の兄)、三宅恒方、物集高量、浮田修身らがいた。 第一高等学校に首席で合格したが、一学年期に落第して人生に悩み、読書を通じて内村鑑三とキリスト教に出会い、隣に住んでいたクリスチャンの村田勤(1866 〜1921、牧師・教育者)と親交した。村田は同志社出身で、イエール大学で教会史学者のウィリストン・ウォーカー(en:Williston Walker)に学び、日本女子大学や明治中学校で教鞭をとった人物。
もっと読む
三潴 信三(みつま しんぞうまたは みずま しんぞう、187… 三潴 信三(みつま しんぞうまたは みずま しんぞう、1879年(明治12年)5月28日 - 1937年(昭和12年)3月27日)は、日本の法学者。専門はドイツ法、民法。東京帝国大学法学部教授などを務めた。 1879年(明治12年)5月28日、東京湯島に生まれる。獨逸学協会中学校、第一高等学校を経て、東京帝国大学法科大学独逸法兼修に入学、1905年(明治38年)7月に卒業した。 東京帝国大学卒業の前から早稲田大学講師としてドイツ語を教え、卒業後の1907年(明治40年)には早稲田大学の派遣でドイツ、イタリアに留学し、民法や法理学を学んだ。1909年(明治42年)に帰国、早稲田大学教授に就任。この時期には複数のドイツ語文法書を出版している。
もっと読む
草間 滋(くさま しげる、1879年2月25日 - 1936… 草間 滋(くさま しげる、1879年2月25日 - 1936年10月8日)は、日本の病理学者、細菌学者。医学博士(東京帝国大学、1914年)。 長野県東筑摩郡寿村(現:松本市)出身。獨逸学協会学校、旧制第一高等学校を経て、1905年に東京帝国大学医科大学卒業、病理学教室にて山極勝三郎の下で病理学を専攻、1908年に伝染病研究所に移り、北里柴三郎の下で細菌学・血清学を学び、実験病理学などの論文を発表した。1910年にドイツのフライブルク大学に留学し、ルートヴィヒ・アショフに師事。ハンブルク熱帯病研究所に転じ、熱帯病学の研究に従事した。1913年に帰国、伝染病研究所技師となったが、1914年北里研究所の創立に参画して部長に就任。
もっと読む
塩谷 温(しおのや おん、1878年〈明治11年〉7月6日 … 塩谷 温(しおのや おん、1878年〈明治11年〉7月6日 - 1962年〈昭和37年〉6月3日)は、日本の漢学者。東京帝国大学名誉教授。70代で30代の元芸妓を妻にし、老いらくの恋と騒がれた。 東京市下谷区で漢学者塩谷青山の子として生まれる。号は節山。学習院、第一高等学校を経て、1902年東京帝国大学漢学科を卒業。優等賞を下賜された。一高時代は水泳部に属し、その当時、「デコンショ、デコンショ」と歌う丹波篠山の盆踊り歌をもとに、塩谷がデカルト、カント、ショーペンハウエルの頭文字をとって「デカンショ節」と名付けたとされる。 1905年学習院教授、1906年東京帝国大学助教授。同年からドイツのライプツィヒ大学、清国の北京および長沙に留学し、中国文学研究を行う。
もっと読む
木下 東作(きのした とうさく、1878年(明治11年)6月… 木下 東作(きのした とうさく、1878年(明治11年)6月27日 - 1952年(昭和27年)6月19日)は、日本の運動生理学者、スポーツ評論家。医学博士。 大阪医科大学(現在の大阪大学医学部)教授から大阪毎日新聞社運動部長に転身。日本女子スポーツ連盟を設立し、人見絹枝を育成したことで知られる。本人も旧制第一高等学校・東京帝国大学在学中には長距離走の選手として知られた。 京都市出身。木下凞の二男。兄に産婦人科学者の木下正中がいる。木下家はもと若狭小浜藩医の家で、凞は明治維新後に京都療病院(現在の京都府立医科大学)に勤務、のちに産婦人科医を開業した(父については木下正中の記事を参照)。 東京府尋常中学、旧制第一高等学校を経て東京帝国大学に進学。
もっと読む
川崎 繁太郎(かわさき しげたろう、1878年〈明治11年〉… 川崎 繁太郎(かわさき しげたろう、1878年〈明治11年〉5月 - 1940年〈昭和15年〉5月21日)は、日本の技師、理学博士。旧姓は北野。族籍は大阪府平民。従三位勲二等。日本地質学会会長。 大阪府泉南郡麻生郷村大字海塚(現・貝塚市)出身。北野長十郎の五男。北野弥之助の弟。第一高等学校を経て1902年、東京帝国大学理科大学地質学科を卒業し、農商務省鉱山監督官補に任ぜられる。 1905年、農商務省技師拝命。1907年、樺太庁技師に転じる。1910年、朝鮮総督府技師に転じる。1919年、朝鮮総督府地質調査所長となる。 1926年、理学博士号授与。1930年、正四位に叙せられ、勲二等を授けられる。
もっと読む
杉山 直治郎(すぎやま なおじろう、1878年(明治11年)… 杉山 直治郎(すぎやま なおじろう、1878年(明治11年)1月29日 - 1966年(昭和41年)2月15日)は、日本の法学者。専門は比較法学、フランス法。東京帝国大学法学部教授、日本学士院会員などを歴任した。 1878年(明治11年)、東京府平民杉山勘蔵・かねの長男として、東京市下谷区にて生まれる。私立小学校、中学校を経て、1899年(明治32年)に第一高等学校を卒業。同年、東京帝国大学法科大学仏法科に入学し、1903年(明治36年)に卒業、法学士の称号を得る。同年、同大学院に進み、翌年には学習院教授として民法、ローマ法を講じる傍ら、法政大学、早稲田大学、明治大学、日本大学で講師として教壇に立つ。
もっと読む
石坂 音四郎(いしざか おとしろう、1877年(明治10年)… 石坂 音四郎(いしざか おとしろう、1877年(明治10年)12月9日 - 1917年(大正6年)4月21日)は、日本の法学者。専門は民法。京都帝国大学法科大学教授、東京帝国大学法科大学教授を歴任。土方寧に師事。 熊本県上益城郡上島村(現:嘉島町)出身。第一高等学校在学時には同期の松平恆雄(外交官、宮相)や長島隆二(衆議院議員)と親友になり、一軒家を借りて共同生活をしていたことがある。その後、東京帝国大学に進学して、1902年(明治35年)に法科大学独法科を首席で卒業。 同年京都帝国大学講師、1903年(明治36年)助教授となり、3年間民法研究のためドイツ・フランスへ留学。帰国後の1907年(明治40年)に教授となり、臨時台湾旧慣調査委員にも就任。
もっと読む
辻本 満丸(つじもと みつまる、1877年(明治10年)12… 辻本 満丸(つじもと みつまる、1877年(明治10年)12月4日 - 1940年(昭和15年)4月24日)は、日本の応用化学者。スクアレンを発見した事で知られている。 翻訳者の辻本一貫の子として東京に生まれる。第一高等学校卒業後、東京帝国大学(現在の東京大学)に入学し応用化学を学んだ。卒業後の1901年に農商務省附属の東京工業試験所に入り、主に生物に含まれる油脂成分専門の研究助手となる。1915年(大正4年)工学博士。後に技師に就任し1915年(大正4年)から1930年(昭和5年)の退官まで、同試験所の第二部長となり、多くの生物における油脂化学研究や調査を行った。 特にフジクジラ、カラスザメ、カスミザメ等サメを中心に油脂成分の研究に没頭し、クロコザメの肝油から初めて不飽和度の高い炭化水素スクアレンC30H50 を発見、命名したが、これは動物界における炭化水素の最初の発見である。
もっと読む
柴田 桂太(しばた けいた、1877年〈明治10年〉9月20… 柴田 桂太(しばた けいた、1877年〈明治10年〉9月20日 - 1949年〈昭和24年〉11月19日)は、日本の植物生理学者・生化学者・微生物化学者。薬学者・柴田承桂の長男。弟に化学者柴田雄次がいる。薬学者・柴田承二(文化功労者)の父。 東京府出身。1899年に東京帝国大学理科大学植物学科を卒業後、第一高等学校・東北帝国大学などで教鞭をとった後、1910年に母校講師となり、直後にドイツに留学してヴィルヘルム・ペッファーに師事した。1912年に帰国して助教授となると、日本で最初の植物生理学・生化学の講座を開いた。1918年、植物界におけるフラボン体の研究で学士院恩賜賞を受賞、同年教授に昇進する。
もっと読む
根津 千治(ねず せんじ、1877年9月 - ?)は日本の数… 根津 千治(ねず せんじ、1877年9月 - ?)は日本の数学者、大学講師。雑誌「數學研究」「數學倶樂部」の刊行などを行った。明治大学講師理学士。また、中央大学、錦城中学校教授。 新潟県の平民に生まれ、1898年に第一高等学校第二部理科を卒業した。第一高等学校では、水泳部だった。1901年、東京帝国大学理科大学数学科を卒業し、東京帝国大学大学院で理学士として代数学を専攻した。一学年上に刈屋他人次郎がいた。 1902年頃、京都帝国大学で、理工大学の講師を嘱託された。1908年頃、教員免許を獲得。1911年、(同級生であった)福原統五郎の記念で、有志の理学士を代表し理科大学にクリストッフェルの論文を2冊送った。
もっと読む
田中 不二(たなか ふじ、1877年(明治10年)8月20日… 田中 不二(たなか ふじ、1877年(明治10年)8月20日 - 1922年(大正11年)11月19日)は、日本の機械工学者。 東京出身。兄はカーバイド工業を開拓した藤山常一である。 1894年(明治27年)に田中林太郎の養子となった。正則尋常中学校、第一高等学校工科を経て、1901年(明治34年)に東京帝国大学工科大学機械工学科を卒業した。同年7月に同学科の講師となった。同年11月に田中林太郎の娘の芳子と結婚した。 1902年(明治35年)に助教授となった。1904年(明治37年)に機械工学第一講座分担を命じられ、1906年に初の日本語による機械設計の教科書『機械設計及製圖』を同僚の内丸最一郎と共著で出版した。
もっと読む
木村 恵吉郎(きむら けいきちろう、1877年(明治10年)… 木村 恵吉郎(きむら けいきちろう、1877年(明治10年)1月11日 - 1945年(昭和20年)11月15日)は、日本の化学者。東京商科大学(現一橋大学)名誉教授。第2代東京写真専門学校(現東京工芸大学)校長。正三位勲一等。 東京府出身。1900年第一高等学校卒業。1904年東京帝国大学工科大学応用化学科卒業、工学士。1906年東京高等商業学校(現一橋大学)助教授。1916年から1918年までアメリカ合衆国へ留学し応用化学及び商品学を研究。1920年から東京商科大学(現一橋大学)予科教授兼大学教授として、奈佐忠行とともに商品学を担当した。1921年東京商科大学予科主事。1937年退官、東京商科大学名誉教授、東京商科大学講師、叙正三位。
もっと読む
春山 作樹(はるやま さくき、1876年(明治9年)8月13… 春山 作樹(はるやま さくき、1876年(明治9年)8月13日 - 1935年(昭和10年)12月29日)は、日本の教育学者。東京帝国大学教授。文学博士。 旧姫路藩士春山弟彦の子として大阪市上町に生まれる。姫路中学を経て、1900年(明治33年)、東京帝国大学文科大学哲学科に入学。卒業後は、大学院に学んだ。1904年(明治37年)、広島高等師範学校教授に就任。1912年(明治45年)から1915年(大正4年)まで欧米に留学。帰国後の1919年(大正8年)、東京帝国大学文学部教授に就任し、翌年に文学博士号を受けた。 その他、第一高等学校講師、東京外国語学校講師を務めた。 1935年12月29日、脳溢血のため死去。
もっと読む
河合 亀太郎(かわい かめたろう、1876年6月8日 - 1… 河合 亀太郎(かわい かめたろう、1876年6月8日 - 1959年7月19日)は、日本の薬学博士、実業家、薬剤師。肝油ドロップの創製者でもある。 静岡県豊田郡中瀬村(現浜松市浜名区中瀬)で河合八蔵の子として生まれ、1888年に豊田郡下野部村(現磐田市下野部)にある野部小学校(現磐田市立豊岡北小学校)を卒業する。その後、将来は官吏になる夢を描いていたが、父親の病死のために16歳の時に官吏になる夢を諦めて中学を中退する。中学を中退した後は、東京薬学校(現東京薬科大学)に入学する。1893年には東京薬学校(現東京薬科大学)を首席で卒業し薬剤師となり、北里研究所に入り第一高等学校教授の助手をつとめた。
もっと読む
志田 順(しだ とし、1876年5月28日 - 1936年7… 志田 順(しだ とし、1876年5月28日 - 1936年7月19日)は、日本の地球科学者。理学博士(京都帝国大学)。 千葉県佐倉出身。1895年千葉県立千葉中学校卒業。1901年東京帝国大学理科大学物理学科卒業。1909年に第一高等学校教授を経て、京都帝国大学理工科大学に着任。理学博士(京都帝国大学)。京都帝国大学名誉教授。 地震のP波初動が地表面を押し引きする向きの地理的な分布、初動分布が四象限分布することを発見した。また、和達清夫よりも早く、深発地震の存在を指摘した(観測結果から存在を完全に証明したのは和達)。また、月と太陽の引力による地球の弾性変形(地球潮汐)に関する研究でも世界の先端を走り、「志田数」にその名を残した。
もっと読む
石橋 五郎(いしばし ごろう、1876年1月5日 - 194… 石橋 五郎(いしばし ごろう、1876年1月5日 - 1946年4月19日)は、日本の地理学者。京都帝国大学名誉教授。 千葉県出身。千葉県立尋常中学校、第一高等学校卒、1901年東京帝国大学文科大学史学科卒、大学院を経て、1904年神戸高等商業学校教授、1907年京都帝国大学文学部史学地理学助教授兼任、1910-12年英国、ドイツに学ぶ。1919年京大教授。1927年から『日本地理風俗大系』などを編纂。1938年退官。 小川琢治らと京都地理学派の基礎を築いた。門下に小牧実繁などがいる。石橋雅義の岳父。
もっと読む
鈴木 重禮(すずき しげひろ、1875年(明治8年)9月 -… 鈴木 重禮(すずき しげひろ、1875年(明治8年)9月 - 1913年(大正2年)3月1日)は、日本の農芸化学者。学位は農学博士(東京帝国大学) 旧水戸藩士・鈴木重任の長男に生まれる。1893年(明治26年)茨城県尋常中学校を、1897年(明治30年)第一高等学校を卒業し、1900年(明治33年)に東京帝国大学農科大学農芸化学科を首席で卒業、優等生として銀時計を下賜された。東京帝国大学大学院に進学し、農芸化学一般特に土壌に関する事項を研究する。 1903年(明治36年)東京帝国大学農科大学助教授と農商務省農事試験場の技師を兼任し、朝鮮半島の土壌調査を行った。1907年(明治40年)東京帝国大学より農学博士を授与された。
もっと読む
武谷 廣(たけや ひろし、1875年5月 - 1941年1月… 武谷 廣(たけや ひろし、1875年5月 - 1941年1月30日)は、日本の医学者。九州帝国大学名誉教授。専門は内科学。 田中茂右衛門の四男として福岡県に生まれる。陸軍軍医監を務めた武谷水城の養嫡子となり、後にその長女長榮と結婚する。武谷水城の父(養父)は、福岡藩主黒田長溥の侍医であり、九州大学の源流とされる藩医学校賛生館の創立に尽くした武谷祐之、祖父は長崎でシーボルトに西洋医学を学んだ福岡藩御目見医武谷元立である。 1894年福岡県立尋常中学修猷館、1898年第一高等学校医科を経て、1903年東京帝国大学医科大学を卒業。1906年内科学専攻のため文部省より3年間ドイツ留学を命ぜられ、帰国後1910年医学博士の学位を受ける。
もっと読む
新見 吉治(しんみ きちじ、1874年10月9日 - 197… 新見 吉治(しんみ きちじ、1874年10月9日 - 1974年11月4日)は、日本の歴史学・教育学者。 愛知県名古屋市生まれ。実家は旧尾張藩の藩主の鉄砲を管理する御手筒同心の家柄だった。旧制第一高等学校から東京帝国大学(現 東京大学)文科大学史学科卒業。1903年に広島高等師範学校に赴任し、日本最初の「歴史教授法」を開講した。1908年にライプツィヒ大学に留学しカール・ランプレヒトに師事、1912年帰国。1916年“Die Geschichte der Buke- Herrschaft in Japan”(邦訳『日本における武家政治史』)により文学博士を取得。 1929年広島文理科大学教授、史学科初代主任教授、国史学・西洋史学を専攻。
もっと読む
徳永 重康(とくなが しげやす、1874年(明治7年)8月2… 徳永 重康(とくなが しげやす、1874年(明治7年)8月20日 - 1940年(昭和15年)2月8日)は、日本の動物学者・地質学者・古生物学者。早稲田大学教授、早稲田高等工学校校長、東京帝国大学講師などを歴任。1933年(昭和8年)に実施された第一次満蒙学術調査研究団長として熱河地方に赴き、その調査報告で1937年(昭和12年)に朝日文化賞を受賞。日本古生物学会2代会長、日本地質学会会長 を務めた。 1874年(明治7年)8月20日、芝区愛宕町にて生まれる。父親は薩摩藩士の吉原重隆。第一高等学校を経て東京帝国大学に進学する。理学部動物学科に進むもその中で古生物学に興味を持ち、地質学科への転科を希望したものの、当時その制度がなかったため受け入れられず、動物学科に籍をおいたまま地質学科の講義・実習を受けた。
もっと読む
大石 和三郎(おおいし わさぶろう、1874年〈明治7年〉3… 大石 和三郎(おおいし わさぶろう、1874年〈明治7年〉3月15日 - 1950年〈昭和25年〉12月18日)は、日本の気象学者。ジェット気流の発見者として有名。エスペランティストである。 1874年、佐賀県鳥栖市生まれ。第一高等中学校予科尋常中学科、第一高等学校第二部学科を経て、1898年(明治31年)東京帝国大学理科大学物理学科を卒業。さらに大学院で学んだ。1899年(明治32年)中央気象台に入り、地磁気、空中電気の観測を担当する。1911年(明治44年)ドイツのリンデンベルク高層気象台及びポツダム気象台に留学した。帰国後の1920年(大正9年)に高層気象台の初代台長に就任した。 1926年に刊行された「高層気象台報告第1号」で、大石は測風気球による高層気流の観測結果をエスペラントで世界に公表した(同年に「高層気象台彙報」にて日本語で報告している)。
もっと読む
立 作太郎(たち さくたろう、1874年(明治7年)3月15… 立 作太郎(たち さくたろう、1874年(明治7年)3月15日 - 1943年(昭和18年)5月13日)は、日本の法学者(国際法)。東京帝国大学教授。 東京で旧幕臣・立嘉度(よしのり)の息子として生まれ、伯父・立嘉一(広作、外務省文書権正・大蔵省大丞)の養子となる。慶應義塾幼稚舎、共立学校、第一高等学校を経て、1897年7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年10月、大学院に進み国際公法を専攻。1900年6月、外交史研究のためヨーロッパに留学。1901年3月、東京帝国大学法科大学助教授に発令され、1904年3月に帰国した。 1904年4月、東京帝国大学法科大学教授に就任し、外交史の講座を担当。
もっと読む
田原 淳(たわら すなお、たはら すなお、1873年7月5日… 田原 淳(たわら すなお、たはら すなお、1873年7月5日 - 1952年1月19日)は、日本の病理学者。 大分県東国東郡瀬戸田村(国東市安岐町)の中嶋家の長男として生まれる。1889年に上京して東京英語学校と独逸学教会学校で学ぶ。1892年、伯父の中津藩医・田原春塘の養子となる。 1898年第一高等学校卒業、1901年東京帝国大学医学部卒業。1903年に私費でドイツに留学し、小久保恵作の勧めにより、マールブルク大学の病理学教室でルードヴィッヒ・アショフ(Ludwig Aschoff)に師事した。 ここで田原は心筋について研究を行い、1905年刺激伝導系の存在を明らかにし、刺激伝導系において重要な役割を持つ「房室結節(田原結節、田原・アショフ結節)」を発見した。
もっと読む
石坂 友太郎(いしざか ともたろう、1873年(明治6年)1… 石坂 友太郎(いしざか ともたろう、1873年(明治6年)1月6日 - 1963年(昭和38年)4月29日)は、日本の医学者、九州帝国大学医学部教授。九州帝国大学名誉教授。ヘビ毒の研究で知られ、特にハブ毒の薬理学的研究については、1963年の時点で石坂以外には研究例がなかったと報告されている。 教育者であり政治家だった石坂専之介の長男として加賀国(現・石川県)で生まれる。 1891年9月、第四高等中学校予科に入学し、1894年7月に卒業すると、第一高等学校独逸専修科に進む。1897年7月に一高を卒業して東京帝国大学医科大学に入学した。 1901年12月に東京帝国大学医科大学を卒業した。卒業直後の1902年1月、薬物学教室の高橋順太郎教授のもとで助手として採用され、同2月に大学院に進んだ。
もっと読む
吉町 太郎一(よしまち たろういち、1873年-1961年)… 吉町 太郎一(よしまち たろういち、1873年-1961年)は、日本の橋梁工学者。材料工学者・研究者。代表作に旭橋など。 九州帝国大学工学部長、北海道帝国大学工学部長、室蘭工業専門学校(現・室蘭工業大学)学長を歴任した。 青森県に生まれ、弘前市新寺町出身、藩士吉町官助の子。幼にして父に随い上京。苦学力行して第一高等学校から東京帝国大学工学部に入学。金属学を専攻して、1898年に卒業。同時に同学部助教授になり、1901年に欧州へ留学。1904年に帰朝して、名古屋高等工業学校教授、転じて九州帝国大学工学部教授となった。1924年に北海道帝国大学に工学部設立のさい迎えられて同学部教授。ついで同学部長となり、1936年退官して北海道大学名誉教授の称号をうけた。
もっと読む
遠藤 源六(えんどう げんろく、1872年9月17日(明治5… 遠藤 源六(えんどう げんろく、1872年9月17日(明治5年8月15日)- 1971年(昭和46年)5月13日)は、日本の海軍文官、法制官僚、法学者。行政裁判所長官、枢密顧問官、明治大学教授、法学博士。号・虚舟。 宮城県栗原郡、後の白幡村(現栗原市)で、遠藤佐源治の三男として生まれる。第一高等学校を経て、1900年7月、東京帝国大学法科大学法律学科(仏法)を卒業し同大学院に進む。 1900年8月、海軍省に入省し主理試補・東京軍法会議附に就任。同年11月、文官高等試験に合格。以後、海軍省参事官、兼同司法局、兼海軍大学校教官、大本営附、佐世保捕獲審検所評定官、兼海軍経理学校教官などを歴任。この間、明治大学講師を務め、1908年1月15日に法学博士号を取得した。
もっと読む
宮島 幹之助(みやじま みきのすけ(かんのすけとも読む)、明… 宮島 幹之助(みやじま みきのすけ(かんのすけとも読む)、明治5年8月12日(1872年9月14日) - 昭和19年(1944年)12月11日)は、日本の寄生虫学者。 山形県米沢出身。父は宮島家久。1893年、宮島酉蔵の養子となった。第一高等中学校に入学したが、ドイツ語教師が昆虫学者のアドルフ・フリッチェであったことから、志望を医科から理科に転科した。第一高等学校を経て、1898年東京帝国大学理科大学動物学科卒(理学士)。大学院に入学。日本産無脊椎動物、特に腔腸動物を専攻した。1900年、尖閣諸島で信天翁(アホウドリ)を研究。しかし実際の目的はマラリアの研究で、東京への帰途、立ち寄った京都帝国大学医学部衛生学教室に入局を決めてしまった。
もっと読む
原 秀四郎(はら ひでしろう、明治5年7月18日(1872年… 原 秀四郎(はら ひでしろう、明治5年7月18日(1872年8月21日) - 1913年(大正2年)3月2日)は明治時代の歴史地理学者。帝国大学で坪井九馬三に学び、東北地方古代史の研究で文学博士号を得、國學院大學等で地理、歴史を教えた。 明治5年(1872年)7月18日愛媛県越智郡波止浜町(現今治市)の塩問屋来島屋原武一郎の七男五女の長男として生まれた。 愛媛県第一中学校、第三高等中学校予科を経て、1892年(明治25年)9月本科二部(工科・理科・農科)に進んだが、1893年(明治26年)本科一部(法科・文科)に転部し、1893年(明治27年)6月本科廃止により第一高等学校本科一部に移り、1895年(明治28年)7月卒業した。
もっと読む
鶴見 正四郎(つるみ しょうしろう、1872年〈明治5年〉1… 鶴見 正四郎(つるみ しょうしろう、1872年〈明治5年〉1月24日 - 1953年〈昭和28年〉2月6日)は、日本の機械工学者・教育者・実業家。官立大阪高等工業学校の教授を務め、退官後に家庭用ガス湯沸器メーカーの陽栄製作所を創業した。 1872年〈明治5年〉1月24日に栃木県で生まれた。1896年〈明治29年〉7月に旧制第一高等学校を卒業し、1899年〈明治32年〉7月に東京帝国大学工科大学(のちの東京大学工学部)機械工学科を卒業した。同年10月に東京帝国大学大学院に進んだ後、1900年〈明治33年〉に官立大阪高等工業学校(当時の名称は大阪工業学校、のちの大阪大学工学部)の教授に着任した。1901年〈明治34年〉から1907年〈明治40年〉までは大阪高等商業学校(のちの大阪商科大学、大阪市立大学の前身)の教授嘱託も務めた。
もっと読む
林 直助(はやし なおすけ、1871年3月24日 - 195… 林 直助(はやし なおすけ、1871年3月24日 - 1953年5月13日)は、明治時代から昭和時代の医学者、寄生虫学者、病理学者。ツツガムシ病研究の第一人者として知られる。 岐阜県恵那郡福岡村(現中津川市)に生まれた。1897年11月、第一高等学校医学部を卒業後、東京帝国大学医科大学衛生科選科に入学したが、翌年退学している。1900年に検疫官を命ぜられ、1901年2月に退職した。同月に京都帝国大学医科大学に入り藤浪鑑教授の助手となり、病理学、恙虫病について研究をおこなう。1906年、恙虫病調査委員を嘱託された。同年12月、愛知県立医学専門学校の教諭となり、病理学や病理解剖学などを担当した。1913年1月、論文「恙虫病病理解剖並に組織学的研究」により、医学博士の学位を授けられた。
もっと読む