スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
村田 五郎(むらた ごろう、1899年〈明治32年〉4月11… 村田 五郎(むらた ごろう、1899年〈明治32年〉4月11日 - 1982年〈昭和57年〉3月24日)は、日本の内務官僚。官選群馬県知事、情報局次長。 愛知県出身。実業家・村田義教の長男として生まれる。台北中学、第八高等学校を経て、1923年3月、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。1922年11月、高等試験行政科試験に合格。1923年5月、内務省に入り富山県警部として警察部警務課に配属された。 以後、富山県氷見郡長、東京府内務部農林課長、同学務部社会課長、同知事官房主事兼秘書兼文書課長、東京府工業組合監督官、大分県書記官・警察部長、警視庁衛生部長、同庁官房主事、厚生省体力局体育課長、内務秘書官・警保局外事課長、福岡県総務部長、内務省地方局振興課長、兼平沼騏一郎国務大臣付秘書官、内務事務官・警保局保安課長などを歴任。
福井 孝治(ふくい こうじ、1899年4月1日 - 1977… 福井 孝治(ふくい こうじ、1899年4月1日 - 1977年3月13日)は日本の経済学者・社会科学者。大阪経済大学、旧制大阪商科大学、大阪市立大学の学長を歴任。学位は経済学博士(大阪商科大学)。大阪市立大学名誉教授。 愛知県出身。第八高等学校を経て1922年京都帝国大学経済科卒、同大学院に進学、河上肇に師事した。1925年、福島高等商業学校(現・福島大学経済学部)教授。1929年に旧制大阪商科大学助教授に就任し1933年教授、経済学原論やドイツ語を講じた。戦後は学制改革に伴い1949年に大阪商科大などを母体に発足した大阪市立大学経済学部教授。翌1950年からは前年に急逝した黒正巌に代わり大阪経済大学の学長(第2代)も務めた(-1960年)。
野村 萬作(万作、のむら まんさく、1899年 - 1978… 野村 萬作(万作、のむら まんさく、1899年 - 1978年)は、初代奈良県公選知事(在任1947年 - 1951年)。 旧制第八高等学校を経て、1924年(大正13年)東京帝国大学法学部を卒業。内務省に入省し、終戦直後には官選奈良県知事を務めた。 1947年に行われた第1回公選知事選挙に立候補、社会党、日本共産党推薦の弁護士出身で同じく元官選知事の小野正一(生没年1898年 - 1978年)が5人の候補者中第1位となったが、法定得票の37.5%に達せず、決選投票に持ち込まれることになった。しかし再選挙直前、小野は突然公職追放となり、第2位の野村が初代公選知事に就任した。 在任中、自治体警察発足や県立高校新設などを手がけたが、1951年の知事選挙で同じ内務官僚出身の奥田良三に敗れた。
守屋 富次郎(もりや とみじろう、1898年6月10日 - … 守屋 富次郎(もりや とみじろう、1898年6月10日 - 1974年3月2日)は、日本の航空技術者。東京帝国大学、名古屋帝国大学、旅順工科大学教授、防衛庁技術研究所本部長、日本航空学会(現・日本航空宇宙学会)会長などを務めた。東京大学名誉教授。航空機の翼理論の権威。 岐阜県本巣郡真桑村上真桑に生誕。静岡県立静岡中学校に学ぶ。中学時代は野球部に所属。旧制第八高等学校を経て、東京帝国大学に入学。新設された同大工学部航空学科の第1期生。1923年3月、卒業論文「Die Tragflügeltheorie.」(翼理論)を提出して卒業。東京帝国大学の講師、助教授を経て、1934年、教授。1938年、万国応用力学会議に日本代表として参加、ヨーロッパの航空事情の調査・研究を行った。
鶴 友彦(つる ともひこ、1898年(明治31年)1月10日… 鶴 友彦(つる ともひこ、1898年(明治31年)1月10日 - 1960年(昭和35年)9月1日[要出典])は、大正から昭和時代前期の台湾総督府官僚、海軍司政長官。 鶴丈一郎の三男として大阪府大阪市に生まれる。第八高等学校を経て、東京帝国大学法学部政治学科に入学し、在学中の1922年(大正11年)11月に高等試験行政科に合格。1923年(大正12年)同大卒業と同時に台湾総督府殖産局農務課に奉職。 翌年12月、台南州警務局警務課長に転じ、1927年(昭和2年)台北州内務部勧業課長、1930年(昭和5年)同州地方課長、1931年(昭和6年)総督府交通局参事、逓信部庶務課長兼海事課長、1933年(昭和8年)総督府高等海員審判所審判官、1935年(昭和10年)台中州内務部長を経て、1936年(昭和11年)台南州内務部長に就任。
向井 參之充(むかい さんのじゅう、1898年(明治31年)… 向井 參之充(むかい さんのじゅう、1898年(明治31年) - 1963年(昭和38年))は、日本の化学者。熊本大学名誉教授。学位は工学博士。専門は応用化学。 本籍地は佐賀県。第八高等学校 (旧制)、九州帝国大学工学部を卒業ののち、九州帝国大学工学部助教授。京城帝国大学教授を経て、戦後は熊本大学教授。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
田中 敬吉(たなか けいきち、1897年(明治30年)10月… 田中 敬吉(たなか けいきち、1897年(明治30年)10月23日 - 1975年(昭和50年)1月13日)は、日本の機械工学者。第33期日本機械学会会長。東京帝国大学教授、千葉工業大学教授・学長、上智大学教授を歴任。東京帝国大学航空研究所で、航研機やA-26の開発に携わった。 三重県亀山市出身。第八高等学校を経て、1922年東京帝国大学機械科卒業。東京帝国大学航空研究所嘱託、助教授を務め、1929年「円錐座吸気弁の空気の流動研究(実験的研究・理論的研究)」により工学博士を取得。1930年航空原動機研究のため欧米を訪れた後、1933年教授となる。1939年より東京工業大学教授を兼任。1949年千葉工業大学学長、1957年名古屋大学教授、1961年上智大学教授・理工学部長。
柴山 博(しばやま ひろし、1897年(明治30年)5月9日… 柴山 博(しばやま ひろし、1897年(明治30年)5月9日 - 1991年(平成3年)12月29日)は、日本の鉄道・内務官僚、弁護士。官選鹿児島県知事。 愛知県出身。柴山重幸の長男として生まれる。第八高等学校を卒業。1920年10月、高等試験行政科試験に合格。1921年、東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業。鉄道省に入り鉄道局副参事となる。1924年、内務省に転じ復興局勤務となる。 以後、宮崎県事務官、埼玉県事務官、新潟県書記官・学務部長、茨城県書記官・経済部長、徳島県書記官・警察部長、山梨県書記官・総務部長、神奈川県書記官・総務部長、内務省勅任監査官などを歴任。 1943年4月、鹿児島県知事に就任。
関口 鍈太郎(せきぐち えいたろう、1896年10月30日 … 関口 鍈太郎(せきぐち えいたろう、1896年10月30日 - 1981年7月21日)は、日本の造園家。造園研究者、林学者。名古屋市生まれ。 1925年(大正14年)、京都帝国大学農学部林学科に助教授として赴任。日本で初めて造園学を名乗る講座が誕生する。戦後も京都大学農学部林学科で造園研究室を主宰。多くの人材を育成した。 1955年以降は本務の京都大学のほか、西京大学時代の京都府立大学や農科大学時代の島根大学農学部、高知大学農学部など、他大学でも講義を行っている。 第八高等学校を経て東京帝国大学林学科に入学。1912年4月 東京帝国大学農学部林学科卒業。1924年東京帝国大学農学部講師となる。1923年4月京都帝国大学農学部助教授。
久野 朔郎(くの さくろう、1896年(明治29年)8月1日… 久野 朔郎(くの さくろう、1896年(明治29年)8月1日 - 1968年(昭和43年)9月6日)は、日本の英語学者。 愛知県出身。1918年第八高等学校卒。東京帝国大学文学部英吉利文学科にて市川三喜に師事し1921年卒業。1922年4月–1946年3月学習院大学教授、1950年3月愛知女子短期大学教授、1957年4月–1965年3月愛知県立女子大学教授、1958年4月–1964年7月同学長、1965年4月–1968年立正大学大学院英文学専攻教授。久野昭、小笠原暁、久野暲は息子。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
八田 三郎(はった さぶろう、1896年(明治29年)2月 … 八田 三郎(はった さぶろう、1896年(明治29年)2月 - 没年不詳)は、日本の内務・警察官僚。官選鳥取県知事、陸軍司政長官。旧姓・和田。 三重県出身。和田綱紀の三男として生まれ、八田一精の養子となる。第八高等学校を卒業。1920年10月、高等試験行政科試験に合格。1921年、東京帝国大学法学部を卒業。内務省に入省し群馬県属となる。 以後、地方警視・大阪府警察部勤務、地方事務官・長崎県勤務、香川県書記官・学務部長、秋田県書記官・警察部長、奈良県書記官・学務部長、石川県書記官・警察部長、拓務書記官・警務課長、茨城県書記官・警察部長、長野県書記官・経済部長、奈良県総務部長、岡山県総務部長などを歴任。
森山 鋭一(もりやま えいいち、1894年(明治27年)12… 森山 鋭一(もりやま えいいち、1894年(明治27年)12月17日 - 1956年(昭和31年)6月9日)は、大正から昭和前期の法制官僚、政治家、弁護士。貴族院勅選議員、法制局長官。 現在の三重県桑名市で、伊藤伊右衛門の三男として生まれ、森山兵介の養子となる。1914年(大正3年)7月、第八高等学校一部丙を首席で卒業。1919年(大正8年)7月、東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業し、同月、内務省に入り内務属・土木局工営課に配属された。1920年(大正9年)10月、高等試験行政科試験に合格。 その後、兼警察講習所教授、埼玉県視学官、帝都復興院計画局制度課、復興局事務官・長官官房計画課などを歴任。
加藤 常賢(かとう じょうけん、1894年10月19日 - … 加藤 常賢(かとう じょうけん、1894年10月19日 - 1978年8月3日)は、中国古代学者、東京大学文学部名誉教授。東大退官後は二松学舎大学文学部中国文学科教授。号は「維軒」。 1894年、愛知県中島郡大里村で生まれた。第八高等学校を経て、東京帝国大学文学部に進んだ。支那哲学文学科で学び、1920年に卒業。 卒業後は、静岡高等学校教授に就いた。その後、京城帝国大学として勤務。1933年、広島文理科大学教授となった。1938年(昭和13年)、学位論文『爾雅釈親を通じて見たる支那古代家族制度研究』を東京帝国大学に提出して文学博士号を取得。 1947年(昭和22年)、高田眞治の公職追放による退職に伴って東京帝国大学中国哲学科教授となった。
北野 政次(きたの まさじ、1894年(明治27年)7月14… 北野 政次(きたの まさじ、1894年(明治27年)7月14日 - 1986年(昭和61年)5月17日)は、日本の陸軍軍人、医師、細菌学者。陸軍軍医中将。勲三等。東京帝国大学医学博士。博士論文は「チフス及パラチフス菌属の血清耐性に関する実験的研究」。 兵庫県出身。旧制第八高等学校を経て、東京帝国大学医学部を卒業後、大日本帝国陸軍に入隊。第2代731部隊長を務め、人体実験や細菌攻撃を推進する立場であったとされている。 第二次世界大戦後は、文部省に奉職しながら日本ブラッドバンクの創業に関わり、顧問に就任。 凍結乾燥装置を用いた乾燥血漿製造の研究成果を応用し、血液製剤の製造、販売を行った。同社設立期においては、朝鮮戦争における米軍向けの輸血用血液製造を行った。
柳生 六郎(やぎゅう ろくろう、1893年8月28日 - 1… 柳生 六郎(やぎゅう ろくろう、1893年8月28日 - 1983年5月26日)は、日本の鉱床探査技術者。愛知県名古屋市生まれ。 第八高等学校を経て、1919年東京帝国大学理科大学地質学科を卒業。日本鉱業(現JX金属)の前身である久原鉱業に入社、調査課に勤務。1929年日本鉱業の創立から同社の鉱山部勤務となり、調査部門の業務を担当。この間、長年にわたって傘下の諸鉱山の地質調査・探査・探鉱・開発などを行った。特に福島県高玉鉱山の金鉱床については、鉱床の生成と母岩の変質に関する多くの事実を明らかにし、鉱化初期の珪化作用と後期のアルカリ化(氷長石化作用)の関係を論じた。これらの研究により、東京大学より理学博士の学位を取得。
山内 義文(やまうち よしふみ、1893年(明治26年)7月… 山内 義文(やまうち よしふみ、1893年(明治26年)7月 - 1945年(昭和20年)1月19日)は、日本の内務・警察官僚。官選県知事。陸軍司政長官。旧姓・伊藤。 三重県出身。伊藤茂右衛門の四男として生まれ、山内家(本籍:愛知県)の養子となる。第八高等学校を卒業。1918年7月、京都帝国大学法科大学政治経済学科を卒業。1919年10月、高等試験行政科試験に合格。1920年、内務省に入省し警保局嘱託となる。 以後、高知県警部・警務課長、神奈川県警視・監察官、福井県警視・特別高等課長、山口県書記官・警察部長、岐阜県書記官・警察部長、熊本県書記官・警察部長、和歌山県書記官・警察部長、高知県書記官・総務部長、鹿児島県書記官・総務部長、静岡県書記官・総務部長などを歴任。
横山信二(よこやま しんじ、1893年 - 1939年)は、… 横山信二(よこやま しんじ、1893年 - 1939年)は、日本の造園家。官庁造園技師として活躍し、関東大震災後の東京の隅田・浜町・錦糸の三大復興事業公園、東京緑地計画、東京の風致地区策定等に対し大きな業績を残した。福井県生まれ。 第八高等学校 (旧制)を経て、1921年(大正10年)、東京帝国大学農学部農学科第一部を卒業し、この年10月明治神宮造営局外苑課に入局した。翌年工務課に移り、1924年、造営局技手となった。神宮内外苑工事完了後に帝都復興事業がはじまり、1925年、内務省復興局技手となる。1927年(昭和2年)には復興局技師に就任。 1930年(昭和5年)、復興局官制廃止による復興事務局設置により、1932年の復興事務局官制廃止までは内務省東京地方委員会技師兼復興事務局建築課技師を拝命し、その後内務省都市計画地方委員会技師として専念するが、1938年から病で倒れ翌年47歳で天逝した。
荒川 伸也(あらかわ しんや、1891年(明治24年)12月… 荒川 伸也(あらかわ しんや、1891年(明治24年)12月4日 - 没年不明)は、日本の医師(内科医)、実業家、政治家。旭土地、耕地整理組合各顧問。愛知中央鉄道取締役。医学博士。名古屋市会議員。 愛知県人・荒川徳右衛門の三男。後に前名松次郎を改め、1922年に兄徳次郎方より分かれて一家を創立する。第八高等学校を経て1918年に東京帝国大学医科大学医学科を卒業し、杏雲堂医院に勤務し後に郷里に帰り医を開業する。傍ら会社の重役である。 名古屋市会議員、同市参事会員に選ばれる。趣味は観劇、謡曲、芝居。宗教は真宗大谷派。住所は愛知県名古屋市中区長良町、西日置町廻間口、中村区日置通。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
伊藤 武彦(いとう たけひこ、1891年 (明治24年)11… 伊藤 武彦(いとう たけひこ、1891年 (明治24年)11月20日 - 1939年(昭和14年)10月27日)は、日本の内務官僚。県知事。 岐阜県出身。伊藤伊八郎の三男として生まれる。第八高等学校を経て、1915年、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。1914年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1915年、内務省に入り、富山県属となる。 以後、富山県警視、千葉県市原郡長、朝鮮総督府秘書官、内務省参事官、内務大臣秘書官、内務書記官、警保局庶務課長、土木局道路課長、同港湾課長、衛生局保健課長などを歴任。 1931年12月、岐阜県知事に就任。以後、滋賀県知事、福島県知事を歴任。1937年7月、岡山県知事となる。
松浦 嘉一(まつうら かいち、1891年(明治24年)9月1… 松浦 嘉一(まつうら かいち、1891年(明治24年)9月1日 - 1967年(昭和42年)8月7日)は、英文学者。 1891年、愛知県名古屋市で生まれた。第八高等学校を経て、東京帝国大学英文科に進学。大学では、夏目漱石門下として学んだ。1916年に東京帝国大学を卒業。 1920年、法政大学予科教授となった。1925年に東京高等学校教授となり、続いて第一高等学校教授となった。 1946年、学位論文『ダンの修辞的映像に現れたる彼の世界観及び将来の英帝国に対して彼の抱きたる幻想』を東京帝国大学に提出して文学博士号を取得。1949年、東京大学教養学部教授に就いた。1951年からはお茶の水女子大学教授として教鞭をとり、1956年に定年退職した。
松尾 長造(まつお ちょうぞう、1891年(明治24年)5月… 松尾 長造(まつお ちょうぞう、1891年(明治24年)5月16日 - 1963年(昭和38年)5月21日)は、日本の文部官僚。広島女子高等師範学校校長。 長崎県出身。1917年(大正6年)、東京帝国大学文科大学哲学科を卒業。1920年(大正9年)、第八高等学校教授となる。ついで文部事務官、督学官・書記官、宗教局宗教課長・保存課長、社会教育局成人教育課長・庶務課長などを歴任し、1937年(昭和12年)に宗教局長となり、1940年(昭和15年)には図書局長に転じた。同年日語文化協会内に日本語教育振興会が設置され、同協会理事長の阪谷芳郎の依嘱により、松尾が委員長に就任。 戦争末期の1945年(昭和20年)、新設された広島女子高等師範学校校長に就任した。
小林 清貞(こばやし きよさだ、1890年8月24日 - 1… 小林 清貞(こばやし きよさだ、1890年8月24日 - 1968年4月21日)は、日本の学者、弁護士。元東京外国語学校教授、正四位・勲四等・独法学者。旧姓加藤。 愛知県立第一中学校、第八高等学校を経て1917年(大正6年)3月 東京帝国大学卒業。卒業後、朝鮮総督府検事補となる。 1922年(大正11年)2月に朝鮮総督府検事退官し、従四位勲四等を贈られる。同年3月に名古屋地方検事局弁護士名簿登録される。 東京外国語学校教授となったあと、1923年(大正12年)9月に名古屋三大商家・桑名屋の娘である小林初子と結婚し、小林家に入婿した。 1925年(大正14年)6月1日から1927年(昭和2年)12月15日の間、ドイツやアメリカに留学した。
原田 三夫(はらだ みつお、1890年(明治23年)1月1日… 原田 三夫(はらだ みつお、1890年(明治23年)1月1日 - 1977年(昭和52年)6月13日)は、日本の科学ジャーナリスト、教員。科学雑誌や科学の啓蒙書の編集者・作家。『子供の科学』初代編集長。漫画家前谷惟光の父。 1890年(明治23年)1月1日、名古屋に生まれる。1907年東北帝国大学予科入学、1910年中退。第八高等学校 (旧制)を経て、東京帝国大学理科大学(後の東京大学理学部)を卒業。東京府立第一中学校で教員を務めるかたわら翻訳に携わる。教職を辞めた後、科学雑誌『子供と科学』(1917年)、『少年科学』(1917年)、『科学画報』(1923年)、『子供の科学』(1924年)を次々と創刊。
堀内 友四郎(ほりうち ともしろう、1889年(明治22年)… 堀内 友四郎(ほりうち ともしろう、1889年(明治22年)10月13日 - 1980年(昭和55年)2月13日)は日本基督教会の牧師。 堀内織三郎・亀代夫妻の六人兄弟の末子として四国・松山市に生まれる。名古屋中学時代に友人原田盟輔に誘われ名古屋教会の礼拝に出席。その後、中学(旧制)4年生の時、1909年(明治42年)1月3日の新年礼拝において、名古屋教会にて吉川逸之助牧師から洗礼を受ける。1910年(明治43年)、第八高等学校入学。1913年(大正2年)に東京帝国大学工科大学機械工学科入学。本郷千駄木町にあった東京帝国大学基督教青年会の仮寄宿舎で、3年に亘る学生生活を送った。日曜日の礼拝は植村正久の牧していた富士見町教会。
篠田 淳三(しのだ じゅんぞう、1889年2月21日 - 1… 篠田 淳三(しのだ じゅんぞう、1889年2月21日 - 1975年6月9日)は、日本の経営者、薬学博士。第一製薬社長を務めた。 愛知県海部郡蟹江町出身。第八高等学校を経て、1914年に東京帝国大学医学部薬学科を卒業し、1922年にはイギリスのマンチェスター大学に留学。 東京薬学専門学校、徳島高等工業学校で教授を務め、1934年に第一製薬に入社し、1935年に取締役に就任し、1938年に常務を経て、1947年には社長に就任。1963年に会長を経て、1966年には相談役に就任した。 1960年5月に藍綬褒章を受章し、1964年に勲三等瑞宝章を受章。 1975年6月9日、心不全のために死去。86歳没。
平林 治徳(ひらばやし はるのり、1889年1月21日 - … 平林 治徳(ひらばやし はるのり、1889年1月21日 - 1959年12月2日)は、国文学者。 愛知県出身。旧姓・佐藤。東京帝国大学国文科卒。第八高等学校教授、女子学習院教授、学習院教授、1924年大阪府女子専門学校教授、28年校長。戦後1949年学制改革で大阪女子大学学長。校長時代、生徒が谷崎潤一郎の手伝いをした関係もあり谷崎と親しかった。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
二見 直三(ふたみ なおぞう、1888年〈明治21年〉10月… 二見 直三(ふたみ なおぞう、1888年〈明治21年〉10月4日 - 1953年〈昭和28年〉12月30日)は、日本の内務・警察・台湾総督府官僚。官選滋賀県知事、盛岡市長。 岩手県盛岡市出身。二見直吉の長男として生まれる。盛岡中学、第八高等学校を卒業。1915年、東京帝国大学法科大学を卒業。1917年10月、文官高等試験行政科試験に合格。1918年2月、内務省に入省し福井県属となる。 以後、福井県警視、山口県理事官、秋田県書記官・学務部長、大分県書記官・警察部長、奈良県書記官・警察部長、京都府書記官・警察部長、宮城県内務部長、北海道庁土木部長などを歴任。 1936年4月、滋賀県知事に就任。同年9月、台湾総督府警務局長に転じた。
鼓 常良(つづみ つねよし、1887年 - 1981年)は、… 鼓 常良(つづみ つねよし、1887年 - 1981年)は、日本の独文学者。 1987年、広島県で生まれた。東京帝国大学独文科で学び、1912年に卒業。 卒業後は教員となり、第八高等学校教授。戦後は大阪市立大学教授、後に大阪電気通信大学教授をつとめた。1962年、京都・桂に幼児教育研究所を設立し、その付属「月見が丘子どもの家」(横浜梶山モンテッソーリスクールの前身)で敗戦後最初のモンテッソーリ教育実践を始めた。 専門はドイツ文学で、美学、文芸学を研究。戦前はナチス文学の影響を受け、日本での宣伝に組した。晩年はモンテッソーリの教育学の翻訳をてがけ、自らも生活教育法(モンテッソーリ教育実践の秘訣)を著した。
久保田 勉之助(くぼた べんのすけ、1885年11月3日 -… 久保田 勉之助(くぼた べんのすけ、1885年11月3日 - 1962年3月10日)は、大正から昭和時代の日本の化学者、教育者。東京帝国大学教授、立教理科専門学校(現・立教大学理学部)教授、東邦大学理学部教授、千葉商科大学教授 1885年(明治18年)11月3日生まれ。千葉県出身。千葉県士族、久松善の二男。後に先代、太郞吉の養子となる。 1910年(明治43年)、東京帝国大学理科大学化学科を卒業。第八高等学校(現・名古屋大学の前身の一つ)教授を経て、理化学研究所研究員を務める。 1919年(大正8年)から1922年(大正11年)までフランスに留学。ポール・サバティエ(ノーベル化学賞受賞者)のもとで有機化学の研究に従事。
藤塚 鄰(ふじつか ちかし、1879年〈明治12年〉6月26… 藤塚 鄰(ふじつか ちかし、1879年〈明治12年〉6月26日 - 1948年〈昭和23年〉12月24日)は、明治-昭和期の日本の漢学者・昭和天皇進講者・帝国大学教授・斯文会理事長・大東文化学院(大東文化大学)総長・位階は従二位・勲等は勲二等。号は素軒。旧姓佐々木、鄰は隣の旧字。 1879年(明治12年)、岩手県前沢村(江戸期の仙台領前沢城下、旧岩手県胆沢郡前沢町、現:奥州市前沢)の佐々木家に生まれる。 1908年(明治41年)、東京帝国大学支那哲学科卒業後、旧制第八高等学校(現:名古屋大学)教授に就任。1923年(大正10年)より中国留学。1928年(大正15年)日本領朝鮮の京城(ソウル)帝国大学新設開校と同時に教授、1931年(昭和6年)に法文学部長となり1940年(昭和15年)、京城帝国大学退職し帰国する。
石田元季(いしだ もとすえ、1877年5月17日-1943年… 石田元季(いしだ もとすえ、1877年5月17日-1943年1月9日)は、日本の国文学者。 京都出身。号は春風。平安義黌卒。愛知医科大学教授、第八高等学校(現・名古屋大学)講師。研究誌「紙魚(しみ)」を主宰する。 尾張地方の文人や芸能人を研究し、1940年「俳文学考説」で帝国学士院賞を受賞。 1930年「名古屋市行進歌」を作詞(作曲:信時潔)。 死後、蔵書のほとんどは天理図書館に入ったが、一部の手沢本は愛知県立大学図書館に収められた。