境沢 孝(さかいざわ たかし、1919年 - 2001年)は… 境沢 孝(さかいざわ たかし、1919年 - 2001年)は、日本人のインテリアデザイナー・建築家。1950年に個人アトリエを開設。以後、主に飲食店のインテリアデザインと建築デザインを手がける。家具やオブジェなどの特徴的な造形要素を一見至って自由に配置しながらも機能性を損なうことのない巧みなプランニング、親しみやすいモティーフを主題とする軽妙で詩的なデザインは、高度経済成長期において店舗事業者から広く受け入れられ、数多くの作品が発表された。国内におけるインテリアデザイナーの社会的認知を高め、その活動の場を拡げるとともに、現在に至るインテリアデザインの主要なボキャブラリーをかたち作った人物のひとりである。
千家 潔(せんげ きよし、1919年〈大正8年〉- 1994… 千家 潔(せんげ きよし、1919年〈大正8年〉- 1994年〈平成6年〉)は、日本の洋画家。詩人、千家元麿の次男として東京都に生まれる。立教大学卒。 ギリシャや日本の神話を題材にした作品を数多く遺しており、古代フレスコ画を連想させるかのような、独特の表現技法には、モネやルノワールなどの、後期印象派へと通ずるものが観られ、繊細、かつ柔和なタッチと淡くも克明なる色遣いからは、鑑賞する者に安堵なる余韻をもたらす。また、ありとあらゆる美術団体に属することを好まず、1994年に75歳で亡くなるまでの間、生涯在野の画家として活躍したことでも知られている。 千家という名からも、本家は出雲国造の出身であり、古い豪族の出に由来している点からも、彼が神話をモチーフにした作品を、数多く制作してきた背景には、由緒ある血縁にも、多少は影響されていたためではないかと考えられる。
好村 三郎(よしむら さぶろう、1919年 - 2012年)… 好村 三郎(よしむら さぶろう、1919年 - 2012年)は、日本のジャーナリスト、新聞記者、野球選手。朝日新聞社運動部長、東海大学教授。立教大学では野球部の4番・エースとして東京六大学リーグで活躍し、主将と監督も兼ね、立大野球部初の三割打者となった。日本アマ野球規則委員会顧問、日米大学野球組織委員。 1919年(大正8年)、兵庫県芦屋に生まれる。旧制灘中学校に入学し、野球部で右投げ左打ちの投手、主力打者として活躍。 1937年(昭和12年)3月、立教大学に入学。野球部で投手、主力打者としてプレーし、主将、監督も兼ねた。終身打率は3割4厘で、東京六大学野球史上13番目の終身打率三割打者となり、立教大学野球部としても初の三割打者となった。
原田憲雄(はらだ のりお/けんゆう、1919年 - )は、日… 原田憲雄(はらだ のりお/けんゆう、1919年 - )は、日本の詩人、歌人、中国文学者。弟は歌人の原田禹雄。 京都市の日蓮宗・妙徳寺の生まれ。1941年龍谷大学文学部卒、尾上柴舟門下の歌人となる。1953年雑誌『方向』を発刊。漢詩を軸に古典中国文学を多く翻訳。 唐代詩人の『李賀研究』を、個人雑誌で拠点に発刊、長年かけその作品を全訳注解した『李賀歌詩編』で、日本翻訳文化賞を1999年に受賞した。
齋藤 雅男(さいとう まさお、1919年 - 2016年)は… 齋藤 雅男(さいとう まさお、1919年 - 2016年)は、日本の鉄道技術者。 福岡県福岡市で、祖父は医学士、父はレントゲン技師という家庭に生まれる。戦時中に早稲田大学理工学部(機械工学)を卒業し、陸海軍技術将校となる。戦後、運輸省に入省するが、同省から鉄道部門が日本国有鉄道(国鉄)として独立した際そこに移籍、以降、東海道新幹線での安定化・輸送力増強に尽力したのを始め、内外の鉄道技術やシステムに深く関与。国際連合開発計画エグゼクティブ・アドバイザー、鉄道工学専門家。台湾高速鉄道では、審査官を務め、島隆とともに日本の技術供与にも尽力し、開業後もコンサルタントとして何度も台湾に渡航していた。2016年に死去。
大森 英櫻(おおもり ひでお、1919年(大正8年) - 2… 大森 英櫻(おおもり ひでお、1919年(大正8年) - 2005年(平成17年))は、マクロビオティック指導者。静岡県熱海市生まれ。普及団体である宇宙法則研究会の初代会長。マクロビオティック創始者である桜沢如一の門下生のひとり。桜沢の指導哲学である無双原理を発展させ、動物性食品を一切摂取しない完全穀菜食を実践・提唱した。夫人はマクロビオティック料理研究家の大森一慧。工学院大学建築科卒業。本名、大森英雄。 第二次世界大戦後、病弱な体で悩んでいた大森英桜は桜沢のマクロビオティックの著書と出会い、体質を改善した。 日本MI(日本CI協会の前身)で学んだ後、無双原理の正しさを自ら調べるべく、多くの病人と交流し自らも実践するなかで、桜沢の考えを修正し、小魚すら口にしない完全穀菜食が理想的な食事法であるという考えに至った。
伊予本 桃市(いよもと ももいち、1919年(大正8年) -… 伊予本 桃市(いよもと ももいち、1919年(大正8年) - 1974年(昭和49年)9月)は、日本の囲碁棋士。広島県出身、瀬越憲作門下、日本棋院所属、名誉八段。日本棋院中央会館の経営に携わり、国際囲碁協会を設立。会館の運営を巡って訴訟となり、日本棋院から退隠した。 広島県生口島に生まれる。1933年(昭和8年)瀬越憲作に入門。1935年初段。大手合で1941年前期、1943年前期第二部優勝。1952年五段。1954年六段。 1954年丸の内に日本棋院中央会館(館長岩本薫)が設立され、棋院と独立した中央会館運営委員会が運営に当たることとなると、運営委員となって運営に専念し、同年11月に開館となる。
細田 貴助(ほそだ きすけ、1919年(大正8年) - 没年… 細田 貴助(ほそだ きすけ、1919年(大正8年) - 没年不明)は、長野県茅野市出身の郷土史研究家、閉校した諏訪郡富士見町立落合小学校 の元校長。茅野市神長官守矢史料館初代館長。
有明 淑(ありあけ しず 1919年 - 1981年)は太宰… 有明 淑(ありあけ しず 1919年 - 1981年)は太宰治の短篇小説「女生徒」の題材となった日記の筆者。
宮崎 利秀(みやざき としひで、1919年 - 1982年1… 宮崎 利秀(みやざき としひで、1919年 - 1982年1月1日)は、日本の教員で俳人。 杉森久英の小説『黄色のバット』のモデルになったことで知られる。 群馬県伊勢崎市に生まれる。生後すぐに埼玉県妻沼町(現・熊谷市)に転居した。 熊谷中学校(現・埼玉県立熊谷高等学校、1937年卒業)を経て、横浜高等工業学校(現・横浜国立大学工学部)を卒業した。熊谷中学校では金子兜太と同窓だった。1942年に東京工業大学機械工学科を卒業すると、陸軍兵技将校として相模造兵廠監督課に勤務した。陸軍航空本部付技術少尉として満州派遣されている際に敗戦となる。 敗戦後は占領軍の英語通訳を務めながら、1946年に『東京ジョー』を刊行した。
櫻井慶治(さくらい けいじ、1919年 - 2016年6月6… 櫻井慶治(さくらい けいじ、1919年 - 2016年6月6日)は、日本の洋画家。弟子に三沢忠がいる。 1919年、千葉県印旛郡和田村(現千葉県佐倉市高崎)に生まれる。 千葉県立佐倉中学校(旧制、現千葉県立佐倉高等学校)、千葉師範学校(現千葉大学教育学部)を経て1949年に東京美術学校(現東京芸術大学)を卒業。東京美術学校在学中の1947年と1948年に光風会展入選。1956年から1957年文部省留学生としてフランス留学。1956年から1964年まで絵画の研究の為、ヨーロッパを中心にイタリア、スイスなど各国を歴訪。1965年、再渡欧米、フランスでル・サロン銅賞・ヴィシー国際展グランプリを受賞。 1967年(昭和42年)第10回日展、1969年(昭和44年)改組第1回日展の2回で特選を受賞した。
中島 慎三郎(なかじま しんざぶろう、1919年 - 201… 中島 慎三郎(なかじま しんざぶろう、1919年 - 2011年11月23日)は、日本の通訳者、ASEANセンター代表。本名は中島進八郎。インドネシア料理店経営者。 大工になることを志し、1938年(昭和13年)、東京府立実科工業学校(現・東京都立墨田工業高等学校)を卒業し、陸軍航空本部建築課へ勤務。 1939年(昭和14年)、日本大学在学中に徴兵で陸軍野砲兵第一連隊入隊。南支、フランス領インドシナ、中支、マレー半島、シンガポール、スラバヤ、アンボン、西部ニューギニア等を転戦。最終階級は上等兵。インドネシア独立戦争に参加することなく1946年(昭和21年)帰国。 戦後は福田赳夫の通訳を務め、東南アジア問題では様々な献策も行う。
平井 信義(ひらい のぶよし、1919年 - 2006年7月… 平井 信義(ひらい のぶよし、1919年 - 2006年7月7日)は、日本の児童心理学者・文筆家・医師。大妻女子大学名誉教授。 東京生まれ。1941年 (昭和16年) 東京帝国大学文学部独文科卒。1944年 (昭和19年) 東北帝国大学医学部卒。1957年 (昭和32年) 名古屋大学より医学博士の学位を取得。 小児科医、母子愛育会愛育研究所所員、お茶の水女子大学教授、1970年 (昭和45年) 定年退官、大妻女子大学教授(児童学)、1990年(平成2年)退任、名誉教授。 ウィーン大学でハンス・アスペルガーに学び、自閉症を研究した。『「心の基地」はおかあさん』が140万部のベストセラーとなったほか、多数の著書を著した。
宮口 美吉(みやぐち よしきち、1919年 - 戦死)は、大… 宮口 美吉(みやぐち よしきち、1919年 - 戦死)は、大阪府出身のプロ野球選手(投手、内野手、外野手)。 京阪商業学校(現:大阪府立芦間高等学校)時代には春1回(1938年),夏1回(1938年)甲子園に出場した。京阪商業時代のチームメイトに深尾文彦や加地健三郎がいる。 1938年秋、南海軍に入団。南海の初代エースとして活躍し、負けが先行しながらも6勝(当時の南海ではチーム一の勝ち頭だった)を挙げた。同シーズンには防御率2.25で防御率トップ10の5位に入っている。1939年5月6日の阪急軍戦では平野正太郎投手とのリレーで無安打に抑えるも、2点を取られるという珍記録を持っている(日本プロ野球公式戦唯一の被安打0敗戦)。
小林 吉雄(こばやし よしお、1919年 - 1997年3月… 小林 吉雄(こばやし よしお、1919年 - 1997年3月29日)は、山口県出身のプロ野球選手。晩年は佐々木姓を名乗った。 当初は親の意向や教員への憧れから、山口師範学校に通っていた。しかし同校には野球部がなく、また1933年の選抜に御園生崇男を擁する山口中学が出場したことに刺激を受け、山口師範学校附属高等小学校の卒業後、山口中学校に編入した。 1939年に大阪タイガースへ入団。同年にホームスチールを決めているが、プロ通算で得点は1のため、得点に占めるホームスチール率10割という珍記録を残している。 1941年に応召のため退団した。 戦後は宇部興産に入社。その際の縁で佐々木家の養子となり、同家が経営する佐々木モーターズの社長に就任した。
雁瀬 治貞(がんせ はるさだ 1919年 - 1946年2月… 雁瀬 治貞(がんせ はるさだ 1919年 - 1946年2月)は、日本の元アマチュア野球選手。京都府出身。
合屋 長英(ごうや ながひで、1919年 - 2001年9月… 合屋 長英(ごうや ながひで、1919年 - 2001年9月13日)は、日本の小児科学者。九州大学名誉教授。
鈴木 照雄(すずき てるお、1919年 - 2008年5月9… 鈴木 照雄(すずき てるお、1919年 - 2008年5月9日)は、日本の哲学研究者、大阪市立大学名誉教授。ギリシア哲学専攻。プラトン「饗宴」の訳者である。 静岡県生まれ。1942年、京都帝国大学卒業、大学院修了。関西大学教授。大阪市立大学教授。1981年、定年退官、名誉教授、神戸学院大学教授。1988年、『ギリシア思想論攷』で大阪市立大学より文学博士の学位を取得。1991年、神戸学院大特任教授。
河合 弘廸 (かわい ひろみち、1919年〈大正8年〉 - … 河合 弘廸 (かわい ひろみち、1919年〈大正8年〉 - 2005年〈平成17年〉4月1日) は、昭和から平成時代の化学者。京都大学名誉教授。繊維学会会長。日本化学会賞等受賞。正四位勲二等瑞宝章。 1943年東京工業大学紡織科卒業、東洋紡績入社。京都帝国大学助手、京都大学工学部講師、京都大学工学部助教授を経て、1964年京都大学工学部教授。高分子化学教室高分子力学講座を担任した。1978年繊維学会会長。1983年停年退官、京都大学名誉教授、兵庫教育大学教授。1988年文化女子大学教授。2005年正四位。専門は高分子。 ほか、繊維学会、高分子学会、日本繊維機械学会、日本材料学会、日本レオロジー学会などにおいて会長、理事、支部長等の要職を歴任した。
粟津 キヨ(あわづ きよ、1919年(大正8年) - 198… 粟津 キヨ(あわづ きよ、1919年(大正8年) - 1988年(昭和63年)9月6日)は、新潟県立高田盲学校教諭で、生涯を視覚障害者教育に捧げた人物である。旧名は金井キヨ。4歳で失明した。1977年に「失明女子を考える会」を結成した。1986年度第6回山川菊栄記念婦人問題研究奨励金を受けた。 『ふみ子の海―ある盲少女の青春』(理論社)では、高田盲学校で同僚だった市川信夫が、粟津キヨをモデルにその考えと生き方、特に少女時代を紹介している。また、2007年に新潟県上映推進委員会が結成され、『ふみ子の海』の映画版が制作された。 高田瞽女最後の親方・杉本キクイが、毎年秋金井家に泊まりに行く折、弟子の養女シズ(1916年(大正5年)生)と3つ違いだったので、よく遊んだと証言している。
立野 留志子(たての るしこ、1919年 - 2009年10… 立野 留志子(たての るしこ、1919年 - 2009年10月27日)は、フランソア喫茶室の装用者である立野正一の妻。 福井県武生(現越前市)で1919年に生まれた。兄は日本画家の佐藤晴行。兄の紹介で16歳の時に、京都のフランソア喫茶室にウエイトレスとして勤務。戦時中は物資不足でコーヒーのかわりに番茶を提供して営業を続けた。徴兵で知り合った永井東三郎(洋画家)と晴行は、結婚していた留志子に会いにフランソアへ通った。 晩年、パーキンソン病を患った。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
金城 裕(きんじょう ひろし、1919年 - 2013年10… 金城 裕(きんじょう ひろし、1919年 - 2013年10月10日)は、沖縄県出身の空手家。韓武舘において防具付き空手による組手稽古を主導し、空手における最初の全国大会である全国空手道選手権大会の開催に貢献した。多くの人物に師事した経験から評論家としての面を持ち、雑誌や著作物での執筆活動も精力的に行った。 1919年、沖縄県首里区桃原町(現那覇市首里桃原町)に生まれる。 1926年、唐手を始め奥里將現、1927年、知念三良、1932年、大城朝恕、1933年、徳田安文、1935年、真栄城朝徳、1938年、花城長茂に師事。 1939年、日本大学に入学、唐手同好会を設立。修道館の遠山寛賢に師範免状を授与される。
太田 大八(おおた だいはち、1918年12月29日 - 2… 太田 大八(おおた だいはち、1918年12月29日 - 2016年8月2日)は、日本の絵本作家・画家。 長崎県大村町(現・大村市)出身。戦時中に(旧制)多摩帝国美術学校(現・多摩美術大学)図案科を卒業。1945年8月、徴用で勤務していた会社の出張で広島県大竹に赴き8月5日に広島市に入ったものの、間一髪で原爆被爆を免れ、被爆翌日の惨状を目撃した。 戦後、大阪市で復興のための建築パネルを建てたことをきっかけに美術界に戻り、デザインの仕事をするために東京に帰って「スタヂオ・トーキョー」を設立した。さらに偶然再会した同級生の依頼で詩のイラストを描いたことがきっかけで、絵本作家となる。1949年のデビュー以来、130作の創作絵本、230作の児童書の挿絵を手掛けている。
加計 朋吉(かけ ともきち、1918年〈大正7年〉12月25… 加計 朋吉(かけ ともきち、1918年〈大正7年〉12月25日 - 没年不明)は、日本の政治家(広島県山県郡加計町長)。 広島県出身。1941年、早稲田大学商科卒業。明電舎に入社。1947年、加計町長に当選。広島町村会理事を務め、1963年、町長に再選。 芸備銀行加計支店長加計慎太郎は従兄。家族は妻、長女。宗教は神道。住所は広島県山県郡加計町。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
安達 健二(あだち けんじ、1918年12月22日 - 19… 安達 健二(あだち けんじ、1918年12月22日 - 1988年3月12日)は、日本の文部官僚。愛知県春日井市生まれ。 愛知一中、第八高校、東京帝国大学法学部卒業。1945年、文部省に入省。配属先は専門教育局。無形文化課長、教科書課長、中等教育課長、人事課長、1967年文化局長を経て、1968年 文化庁発足に伴い次長、1972年から1975年まで長官、1976年から東京国立近代美術館館長。86年5月退任。1976年大英勲章、1977年フランス芸術文化勲章受勲。
杉山 元太郎(すぎやま もとたろう、1918年12月22日 … 杉山 元太郎(すぎやま もとたろう、1918年12月22日 - 1970年4月29日)は、日本の実業家。米国ニューオーリンズ名誉市民。ホーネンコーポレーション(現J-オイルミルズ)の元取締役社長。 社団法人油脂製造業会会長。豊産業(後に子会社となる日華油脂と合併しJ-NIKKAパートナーズとなる)元取締役社長。元慶應義塾評議員。従五位勲四等。 1940年慶應義塾大学経済学部卒業後、三菱商事に入社。1945年10月に豊年製油(現・J-オイルミルズ)に入り、1948年に専務、1954年より社長を務めた。慶應義塾評議員。墓所は小平霊園。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
津久井 佐喜男(つくい さきお、1918年12月22日 - … 津久井 佐喜男(つくい さきお、1918年12月22日 - 没年不詳)は、日本の心理学者。 中央大学文学部教授、中央大学保健体育研究所長。 東京大学文学部心理学科卒業、小樽商科大学助教授、中央大学助教授を経て1942年に中央大学教授。
上田 俊二(うえだ しゅんじ、1918年12月21日- 没年… 上田 俊二(うえだ しゅんじ、1918年12月21日- 没年不明 )は、日本の経営者。ニチメン社長、会長を務めた。 大阪府出身。1942年に大阪商科大学を卒業し、同年に日本綿花に入社。1963年5月に取締役に就任し、常務、専務を経て、1974年5月に副社長に就任し、1977年4月に社長に昇格し、1985年4月に会長に就任し、1989年6月から相談役を務めた。 1979年4月に藍綬褒章を受章し、1984年3月にパキスタンからシタラ・イ・パキスタンを受章。1990年4月には勲二等瑞宝章を受章した。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
池田 淳(いけだ あつし、1918年(大正7年)12月19日… 池田 淳(いけだ あつし、1918年(大正7年)12月19日 - 1989年(平成元年)6月16日)は、昭和期の地方公務員、政治家。衆議院議員(2期、自由民主党)。 千葉県君津郡竹岡村(現富津市)で、清酒「聖泉」醸造元・池田酒造の二男として生まれた。木更津中学校(現千葉県立木更津高等学校)を経て、1947年(昭和22年)日本大学法文学部卒。 1948年(昭和23年)千葉県庁に入り、地方課長、総務課長、農林部長などを歴任し、1975年(昭和50年)出納長に就任。その後、国民保険会千葉県連合会副会長を務めた。 水田三喜男の後継者として1979年(昭和54年)の第35回衆議院議員総選挙に無所属で千葉県第3区から立候補し当選する。
小熊 孝次(こぐま こうじ、1918年12月18日 - 20… 小熊 孝次(こぐま こうじ、1918年12月18日 - 2015年7月6日)は、日本の大蔵官僚、銀行家。神奈川銀行頭取、会長を務めた。北海道出身。 1939年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、同年に大蔵省に入省。 東京税関長、会計検査院参事官などを経て、1970年2月に会計検査院事務総局次長に就任。1971年10月に住宅金融公庫理事に就任し、1972年8月から1977年11月までに副総裁を務めた。1977年12月に神奈川相互銀行社長に就任し、1989年4月には神奈川銀行頭取に就任。1989年6月から会長を務めた。 1990年4月に勲二等瑞宝章を受章。 2015年7月6日病気のために死去。96歳没。
いわさき ちひろ(本名:松本 知弘 まつもと ちひろ、旧姓:… いわさき ちひろ(本名:松本 知弘 まつもと ちひろ、旧姓:岩崎)、1918年12月15日 - 1974年8月8日、女性)は、子供の水彩画に代表される日本の画家、絵本作家。岩崎ちひろ、岩崎千尋、イワサキチヒロで発表された作品もある。父は陸軍勅任建築技師の岩崎正勝。母・文江は大日本連合女子青年団(のちの大日本青少年団)主事。前夫は東洋拓殖職員、後夫は日本共産党元衆議院議員で弁護士の松本善明。孫は絵本作家の松本春野。 1918年、雪の降る師走の朝にちひろは日本帝国陸軍築城部の建築技師の父親、女学校の教師の母親という当時としては珍しい共働き家庭における三姉妹の長女として福井県武生町(現在の越前市)橘で生まれた。
小菅 丹治(こすげ たんじ、1918年(大正7年)12月15… 小菅 丹治(こすげ たんじ、1918年(大正7年)12月15日 - 1984年(昭和59年)3月4日)は、日本の実業家。伊勢丹社長、日本百貨店協会会長を務めた。旧名:小菅利雄。 東京・神田に2代小菅丹治・ときの長男として生まれる。姉の喜子(尾上清レナウン理事長の妻)と弟振作(レナウン監査役)の3人きょうだいである。 東京女子高等師範学校の付属幼稚園に入り、小学校、中学校は東京高等師範学校の付属に通った。中学4年修了で慶應義塾大学の予科を受験して合格。慶大経済学部を卒業。1941年三井物産に入社し、1944年には東京帝国大学医学部教授細谷省吾の娘・悠と結婚した。 終戦後、三井物産がGHQの財閥解体命令で解散したため退社。
和田木 松太郎(わだぎ まつたろう、1918年12月15日 … 和田木 松太郎(わだぎ まつたろう、1918年12月15日 - 1985年9月6日)は、日本の会計学者。 東京市向島区(現・墨田区)生まれ。1941年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、千代田生命保険相互会社に入社。1948年に退社し、同年から1951年まで経営研究所に勤務。1955年慶大経済学部講師、1958年助教授、1963年教授、1980年退職。1982年松阪大学教授となる。在任中、66歳で死去した。
土田 帆山(つちだ はんざん、1918年12月15日 - 2… 土田 帆山(つちだ はんざん、1918年12月15日 - 2008年2月6日)は、日本の書家、福井県越前市出身。本名は土田 修(- おさむ)。代表作は『剛』、『驪』、『春 一生青春』、『閑古錐』、『天上十分月』。地方文化功労による文部科学大臣賞を受賞。 死去直前の役職は、独立書人団参事、毎日書道展名誉会員、全日本書道連盟評議員、洗心書道会代表、若越書道会薫事、越前市書道連盟会長、武生書作家協会名誉会長、越前市文化協議会顧問、丹南芸術家協会常任顧問。 1940年杉本長雲に師事、高志書道会に入会。1948年文部省主催の書道講習会に福井県代表として小林抱牛(独立書人団元代表)、稲村雲洞、木村蒼岳とともに受講。
馬場 移公子(ばば いくこ、1918年12月15日 - 19… 馬場 移公子(ばば いくこ、1918年12月15日 - 1994年2月17日)は、埼玉県出身の俳人。本名は新井マサ子。第25回俳人協会賞受賞。 埼玉県秩父生まれ。実家は蚕種屋。旧制秩父高等女学校(現秩父高等学校)卒。1940年結婚。1944年、夫の戦死により実家に戻り、養蚕をして暮らした。1946年、金子兜太の父、金子伊昔紅の指導を受け「馬酔木」に投句、水原秋桜子に師事。馬醉木賞を受賞。「馬酔木」を代表する女性俳人として活躍した。代表句「いなびかり生涯峡を出ず住むか」など。秩父のひそやかな暮らしのなかで独特の孤独感のある句を作った。1985年『峡の雲』により第25回俳人協会賞受賞。1994年、75歳で没。
小寺 新六郎(こでら しんろくろう、1918年12月14日 … 小寺 新六郎(こでら しんろくろう、1918年12月14日 - 1985年10月29日)は、日本の実業家。元ユニチカ社長。 兵庫県武庫郡住吉村(現・神戸市東灘区)に小寺源吾(元大日本紡績(現・ユニチカ)社長、会長)の6男として生まれる。 1941年12月、慶應義塾大学経済学部卒業と同時に父が経営していた大日本紡績に入社し、軍隊時代は満州や沖縄を転戦した。 戦後は10年以上にわたり同社の原綿課に勤務し、次いでニューヨーク駐在を経た後、ビニロン輸出課長、ビニロン化繊部長、産業資材販売部長を歴任する。1970年11月にユニチカ取締役、1972年5月に常務、1973年11月に副社長を経て、1974年3月28日に社長に就任し、父・源吾と出身大学および役職を同じくする経歴を歩んだ。
清家 清(せいけ きよし、1918年 <大正7年> 12月1… 清家 清(せいけ きよし、1918年 <大正7年> 12月13日 - 2005年 <平成17年> 4月8日)は、日本の建築家。 日本における代表的な現代建築家。戦後すぐに「森邸(1951年)」を発表し、同じ50年代に発表された、池辺陽の「立体最小限住宅(1950年)」、増沢洵の「最小限住宅」、広瀬鎌二の「SHシリーズ」、と共に機能主義による都市住宅のプロトタイプを提案し、住宅をはじめとする明瞭で軽快な作品で日本の伝統的モダン美を独自の解釈ではじめて形にした。 勲二等瑞宝章及び紫綬褒章受章。工学博士(東京工業大学)。主な称号に東京芸術大学名誉教授、東京工業大学名誉教授、日本建築学会名誉会員、東京建築士会名誉会員。
近藤 四郎(こんどう しろう、1918年12月13日 - 2… 近藤 四郎(こんどう しろう、1918年12月13日 - 2003年2月6日)は、日本の人類学者。 長崎市生まれ。大分県亀川の小学校を卒業後、台北第一中学校、福岡県中学明善校を経て、第五高等学校理科乙類を卒業。1941年、東京帝国大学理学部人類学科に入学。長谷部言人に師事した。1943年、繰り上げ卒業と同時に同学部副手、1945年助手、1960年助教授。1957年、「ヒトの姿勢及び歩行運動の人類学的研究 主として筋活動電流より見たる」により、東京大学理学博士。1967年、京都大学霊長類研究所初代所長に就任。1982年、京都大学を定年退官、大妻女子大学人間生活科学研究所教授。1993年、大妻女子大学を退任。
星 晃(ほし あきら、1918年〈大正7年〉12月13日 -… 星 晃(ほし あきら、1918年〈大正7年〉12月13日 - 2012年〈平成24年〉12月8日)は、日本の鉄道車両技術者である。元日本国有鉄道(国鉄)副技師長、元川崎重工業常務取締役車両事業本部長。富山県富山市出身。 1950年代から1960年代にかけての国鉄最盛期に、旅客車両(電車・客車)の開発に携わり、革新的な新型車両群を産み出した国鉄技術者の一人として知られる。当時の車両設計技術やデザイン、接客設備など多方面の質的向上に、大きな役割を果たした。 また鉄道趣味界にも深く携わり、この方面でも同業の後継人物にとって貴重な資料・文献とされる多くの著述がある。 1942年9月東京帝国大学第一工学部機械工学科を卒業し、鉄道省入り。
鈴木 政夫(すずき まさお、1918年12月13日 - 19… 鈴木 政夫(すずき まさお、1918年12月13日 - 1998年5月4日)は、日本の経営者。日本ペイント社長を務めた。神奈川県出身。位階は正五位。 1941年に法政大学経済学部経済学科を卒業し、同年4月に日本ペイントに入社。1966年9月に取締役に就任し、1973年6月に常務、1975年7月に専務を経て、1978年7月に副社長に就任し、1981年7月には社長に昇格。1987年7月には相談役に就任。 1985年11月に藍綬褒章を受章し、1990年11月に勲三等瑞宝章を受章した。 1998年5月4日肺炎のために死去。79歳没。死没日付をもって正五位に叙された。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
渡会 伸(わたらい しん、1918年12月13日 - 200… 渡会 伸(わたらい しん、1918年12月13日 - 2001年5月28日)は日本映画の録音技師。秋田県大館市出身。 1938年に東宝の録音助手として入社。東宝争議の際には人生労働組合の委員長を務めた。1957年より録音技師となり、岡本喜八の独立愚連隊シリーズや暗黒街シリーズにつく。『太平洋の翼』『日本のいちばん長い日』『激動の昭和史 軍閥』『トラ・トラ・トラ!』など戦争映画も多く手がけた。 2001年4月に行なわれた黒澤版『トラ・トラ・トラ!』スタッフ座談会では、黒澤明降板前後の事情について詳しく証言している。 この項目は、映画関係者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:映画/PJ映画)。
三代目 杵屋 五三郎(さんだいめ きねや ごさぶろう、191… 三代目 杵屋 五三郎(さんだいめ きねや ごさぶろう、1918年(大正7年)12月11日 - 2013年(平成25年)2月2日)は、歌舞伎の長唄三味線方。杵五派家元。位階は従四位。本名は増田 元弘(ますだ ちかひろ)。秘曲、難曲、大曲など古典の上演、継承に力を入れた。 この項目は、音楽家(演奏者・作詞家・作曲家・編曲家・バンドなど)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:音楽/PJ:音楽)。
松崎 鉄之介(まつざき てつのすけ、1918年12月10日 … 松崎 鉄之介(まつざき てつのすけ、1918年12月10日 - 2014年8月22日)は、神奈川県出身の俳人。本名・敏雄。 横浜市生まれ。横浜商業専門学校(現・横浜市立大学)卒。在学中より俳句をはじめ、「馬酔木」に投句。1939年、加藤楸邨の勧めに従って大野林火に師事し、「石楠」に入会。1947年、復員後に林火の「濱」に同人として参加。1949年、東京国税局に入局。1970年、退職し銀座で税理士事務所を経営する。 1971年、俳人協会設立に参加し理事を務め、俳句文学館建設にも寄与した。1982年、林火の死去にともない「濱」主宰を継承。同年、『信篤き国』により第22回俳人協会賞受賞。同年俳人協会会長に就任。
島谷 清(しまたに きよし、1918年12月9日 - 201… 島谷 清(しまたに きよし、1918年12月9日 - 2014年9月25日)は、日本の経営者。島根県出身。 1947年に東北帝国大学法学部を卒業し、同年に富士銀行に入行。 1968年に取締役に就任し、1973年に安田倉庫に転じ、1976年に社長に就任し、1986年には会長に就任。 2014年9月25日老衰のために死去。95歳没。
堀池 春峰(ほりいけ しゅんぽう、本名:堀池 義也(よしや)… 堀池 春峰(ほりいけ しゅんぽう、本名:堀池 義也(よしや)、1918年(大正7年)12月8日 - 2001年(平成13年)8月31日)は、東大寺の僧、職員、仏教学者、古文書研究者、大学講師・教授。東大寺史研究所長。 1918年(大正7年)12月8日、東大寺修二会の三役の一つの会計職などの「小綱」(しょうこう)を代々、務めてきた堀池家に長男として生まれる。1936年(昭和11年)3月、旧制奈良県立奈良中学校(現・奈良県立奈良高等学校)を卒業。同年4月6日、雲井春海東大寺管長のもと得度し、僧名を春峰とする。翌年2月に東大寺小綱職となり、1980年までほぼ毎年、同寺二月堂の修二会(お水取り)に42回参籠する。
田中 隆尚(たなか たかひさ、1918年12月7日 - 20… 田中 隆尚(たなか たかひさ、1918年12月7日 - 2002年10月21日)は、歌人、ギリシャ文学者。 山口県豊浦郡長府町(現下関市)生まれ。1947年東京帝国大学文学部卒。群馬大学教養部にてドイツ語教授を務めた。歌人としては斎藤茂吉に師事し、1957年文芸誌「ももんが」を創刊、主宰。独学でギリシャ語を習得し、ギリシアやイタリアで日本の歴史や上代文化について講演活動を行った。1991年11月、ギリシャ政府のフェニックス勲章を受章。
青沼 吉松(あおぬま よしまつ、1918年12月6日 - 1… 青沼 吉松(あおぬま よしまつ、1918年12月6日 - 1990年2月12日)は、日本の経営学者。慶應義塾大学名誉教授。 東京生まれ。1943年慶應義塾大学経済学部卒。同年、短期現役海軍主計科士官(10期)を志願。同年9月、海軍経理学校に入学。1944年3月に経理学校を卒業し海軍主計中尉に任官。1945年3月、主計大尉に進み終戦を迎えた。 1949年慶大助教授、59年教授、60年「企業の社会的環境とその内的問題」で慶大経済学博士。84年定年、名誉教授、国際商科大学教授。
阿部 正和(あべ まさかず、1918年12月5日 - 201… 阿部 正和(あべ まさかず、1918年12月5日 - 2016年2月26日)は、日本の内科学者。 東京府で牧師阿部義宗の息子として生まれた。1936年旧制・青山学院中学部卒業、東京慈恵会医科大学予科入学。1942年9月、同大卒業。同年同月、海軍軍医となり榛名に配属。1945年11月、海軍軍医大尉として予備役に編入された。 1945年12月、国立東京第二病院などを経て、1960年東京慈恵会医科大学教授、1982年学長、1984年名誉教授、1993年学校法人慈恵大学理事長、1995年顧問。 糖尿病の病態生理学的研究などで知られ、医師の生涯教育にも取り組む。1984年日本医学会副会長、日本糖尿病学会会長を務めた。
佐藤 行通(さとう ぎょうつう、1918年12月5日 - 2… 佐藤 行通(さとう ぎょうつう、1918年12月5日 - 2018年3月1日)は、日本山妙法寺の僧侶、社会運動家。日弘とも。俗名は 佐藤 弘 (さとう ひろし)。 以後、平和運動に参画し、藤井日達の側近として「世界宗教者平和会議」や「アジア仏教徒平和会議」の設立に奔走する。成田空港問題(三里塚闘争)、立川基地反対闘争、ベトナム人民支援運動にも参加。 原水爆禁止日本協議会の設立にも深く関わったが、運動方針を巡って日本平和委員会、日本共産党と意見対立し、ついには原水協を追放される。更に、妙法寺の不正経理の責任を取る形で妙法寺からも離れることとなった。 晩年は茨城県内に草庵を結び、国際平和ビューロー等、世界平和のための活動と情報発信を続けてきた。
鈴木 竹柏(すずき ちくはく、1918年12月4日 - 20… 鈴木 竹柏(すずき ちくはく、1918年12月4日 - 2020年2月7日)は、日本画家、日本芸術院会員。日展の事務局長や理事長、会長を歴任。神奈川県生まれ。