有住 直介(ありずみ なおすけ、1918年7月11日 - 2… 有住 直介(ありずみ なおすけ、1918年7月11日 - 2007年12月6日)は、日本の気象技官。気象庁長官を務めた。 東京都出身。1942年に東京帝国大学理学部物理学科を卒業し、同年に気象庁に入庁。1973年に福岡管区気象台長、1974年に観測部長を経て、1976年から1978年までに長官を務めた。1980年に芝浦工業大学講師、1984年に宇宙開発事業団理事を歴任。 2007年12月6日に虚血性心疾患のために死去。89歳没。
人見 鐵三郎 (ひとみ てつさぶろう、1918年(大正7年)… 人見 鐵三郎 (ひとみ てつさぶろう、1918年(大正7年)7月10日 - 2008年(平成20年))は、日本の外交官、翻訳家。 昭和16年(1941年)に東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、同年外務省に入省。 1953年ユネスコ臨時総会政府代表団、1955年ハンブルク領事、1958年在スイス大使館一等書記官、1960年法務省入国管理局資格審査課長、1962年外務省移住局振興課長、1965年在ケニア大使館参事官、在アイルランド大使館参事官などを経て、1968年ボンベイ総領事。 その後、駐コスタリカ・グアテマラ・フィンランド特命全権大使などを歴任。日本翻訳家協会・日本翻訳文化賞記念会会長。仏教徒。
瓜谷 良平(うりたに りょうへい、1918年7月9日 - 1… 瓜谷 良平(うりたに りょうへい、1918年7月9日 - 1993年12月1日)は、日本のスペイン語学者。拓殖大学教授を歴任。 兵庫県出身。東京外国語学校スペイン語科卒。拓殖大学助教授、教授。1989年定年、名誉教授。子は瓜谷望(1952- )スペイン語学者、拓殖大学教授。
飯塚 毅(いいづか たけし、1918年(大正7年)7月8日 … 飯塚 毅(いいづか たけし、1918年(大正7年)7月8日 - 2004年(平成16年)11月23日)は、日本の実業家、公認会計士、税理士。TKC創業者。日本会計研究学会太田賞受賞。鹿沼市名誉市民。TKC全国会名誉会長。 栃木県上都賀郡鹿沼町(現鹿沼市)生まれ。鹿沼町立鹿沼尋常高等小学校(現鹿沼市立鹿沼中央小学校)、栃木県立鹿沼農商学校(現栃木県立鹿沼商工高等学校)を経て、1939年福島高等商業学校(現福島大学経済経営学類)卒業。1943年東北帝国大学法文学部法科(現東北大学法学部)繰り上げ卒業。大日本帝国陸軍主計少尉を経て、日本の降伏後、1946年計理士登録。1952年税理士登録。1963年紺綬褒章受章。
清水 秀雄(しみず ひでお、1918年7月8日 - 1964… 清水 秀雄(しみず ひでお、1918年7月8日 - 1964年3月23日)は、島根県出身のプロ野球選手。ポジションは投手、一塁手、外野手。
市川 慶三(いちかわ けいそう、1918年7月8日 - 20… 市川 慶三(いちかわ けいそう、1918年7月8日 - 2003年4月13日)は、日本の銀行家。 石川県羽咋郡志雄町(現宝達志水町)出身。1938年に早稲田大学専門部商科を卒業し、同年に朝鮮殖産銀行に入行。 1945年12月に宇部信用組合を経て、1952年6月には西日本相互銀行に転じ、1970年5月に取締役に就任。1973年7月に常務、1975年12月に専務を経て、1978年2月に副社長に就任し、1982年10月には社長に昇格。1984年4月には普通銀行に転換した西日本銀行頭取に就任。1988年6月に会長に就任し、1995年6月に常任相談役を経て、1996年6月には相談役に就任。 1988年4月に勲三等旭日中綬章を受章。
芦原 義信(蘆原、あしはら よしのぶ、1918年 <大正7年… 芦原 義信(蘆原、あしはら よしのぶ、1918年 <大正7年> 7月7日 - 2003年 <平成15年> 9月24日)は、日本の建築家。ソニービル、東京芸術劇場などの作品で知られる。『街並みの美学』で、いち早く都市景観の重要性を述べた。位階は従三位。 東京府(現・東京都)生まれ。府立一中(現・東京都立日比谷高等学校)、旧制成城高校を経て、1942年(昭和17年)東京帝国大学工学部建築学科卒業、技術士官として海軍に入る。 1945年(昭和20年)、坂倉準三のアトリエ系建築設計事務所に入所。1953年(昭和28年)、ハーバード大学大学院で修士号(M.Arch.)取得後、マルセル・ブロイヤーの事務所に入所。
近江 俊郎(おうみ としろう、1918年7月7日 - 199… 近江 俊郎(おうみ としろう、1918年7月7日 - 1992年7月5日)は、東京都出身の歌手、作曲家、映画監督である。本名大蔵 敏彦(おおくら としひこ)。兄は新東宝、大蔵映画社長を務めた大蔵貢、姉はコロムビア専属歌手となった香取みほ子。孫にアイドルグループ「エレクトリックリボン」の元メンバー、ericaがいる。 正則中学校卒業。武蔵野音楽学校在学中に教授と進級試験の方法を巡って対立し、1936年(昭和11年)に退学した。タイヘイレコードから鮫島敏弘の芸名で「辷(すべ)ろよスキー」でレコードデビュー。ポリドール・レコード専属になるまで、マイナーレコードを転々とし、その間に大友博(リーガル)、大久良俊(アサヒ)など改名を重ねるが、ヒットに結びつく作品はなかった。
堀田 善衛(ほった よしえ、1918年〈大正7年〉7月7日 … 堀田 善衛(ほった よしえ、1918年〈大正7年〉7月7日 - 1998年〈平成10年〉9月5日)は、日本の小説家、評論家。
上坂 昇(こうさか のぼる、1918年〈大正7年〉7月6日 … 上坂 昇(こうさか のぼる、1918年〈大正7年〉7月6日 - 2013年〈平成25年〉7月2日)は、日本の政治家。 福島県いわき市出身。磐城中学校(現・福島県立磐城高等学校)を経て、早稲田大学政治経済学部を卒業。日本水素(現・日本化成)に入社し、労働組合書記長、同委員長、平市議会議員、福島県議会議員等を経て、1972年(昭和47年)の第33回衆議院議員総選挙で、旧福島3区より日本社会党公認で初当選。連続6回当選し1990年(平成2年)の総選挙では立候補しなかった。その後、いわき市長選に立候補するが、岩城光英に敗北する。 1989年4月の春の叙勲で勲二等に叙され旭日重光章を受章する。 2013年7月2日、肺炎のため死去。
伴 吉夫(ばん よしお、1918年7月6日 - 没年不明)は… 伴 吉夫(ばん よしお、1918年7月6日 - 没年不明)は、愛知県出身のプロ野球選手(二塁手、三塁手)。
望月潤一(もちづき じゅんいち、1918年7月6日 - 19… 望月潤一(もちづき じゅんいち、1918年7月6日 - 1993年10月10日)は、東京府出身のプロ野球選手(投手)。
小尾 知愛(おび ともちか、1918年7月5日 - 201… 小尾 知愛(おび ともちか、1918年7月5日 - 2014年12月31日)は、日本の経営者。大分銀行頭取を務めた。 山梨県出身。1941年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、同年に日本銀行に入行した。1971年10月に大分銀行専務に就任し、1973年6月には頭取に昇格。1984年6月に会長に就任し、1992年4月には特別顧問に就任。日銀政策委員も務めた。 1981年11月に藍綬褒章を受章し、1992年4月に勲三等旭日中綬章を受章。 2014年12月31日、老衰のために死去。96歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
和田 英夫(わだ ひでお、1918年7月4日 - 2001年… 和田 英夫(わだ ひでお、1918年7月4日 - 2001年3月10日、82歳没)は、日本の法学者。専攻は、憲法・行政法。 第3代駿河台大学学長、明治大学名誉教授、駿河台大学名誉教授。 1918年に山形県西村山郡河北町で生まれる。旧制寒河江中学校(現:山形県立寒河江高等学校)を経て、東京帝国大学(現:東京大学)法学部政治学科を卒業。 1946年に北海道大学農学部副手、1948年講師、1950年北海道大学法文学部助教授、1954年から明治大学教授を務める。1989年に、設立準備委員として参画していた駿河台大学法学部教授となった。同大学では法学部長、1991年比較法研究所初代所長、法学研究科長を歴任した後、1994年に第3代学長となる(在任 : 1994年-1999年)。
八木 一夫(やぎ かずお、1918年(大正7年)7月4日 -… 八木 一夫(やぎ かずお、1918年(大正7年)7月4日 - 1979年(昭和54年)2月28日)は日本の陶芸家である。戦後復興期に前衛陶芸家集団「走泥社」を結成、器としての機能を持たない「オブジェ焼」と呼ばれる作品を発表し、現代陶芸に新分野を確立した。陶芸家八木一艸の長男。長男は陶芸家の八木明。 京都市五条坂に陶芸家八木一艸の長男として生まれる。1937年京都市立美術工芸学校彫刻科卒業の後、商工省設置の国立陶磁器試験所の伝習生となり、沼田一雅の「日本陶彫協会」に入会し陶彫を学んだ。1939年兵役で南支広東方面へ派遣されたが、病気のため翌年除隊。帰国後、日本画の前衛団体「歴程美術協会」などと関わりを持つなかでシュルレアリスムや抽象美術などの西洋の最先端美術への親しみを深めるが、戦時下の社会で前衛を否定して古典回帰を求める風潮が高まり、八木もまたしばらくは陶芸を中断して神戸や京都で教員として生活した。
堀 文子(ほり ふみこ、1918年7月2日 - 2019年2… 堀 文子(ほり ふみこ、1918年7月2日 - 2019年2月5日)は、日本画家。東京市麹町区平河町(現・東京都千代田区麹町)生まれ。 洋画家の内海信彦は甥である。 アルビレックスチアリーダーズに2003年から2010年まで所属していた堀文子は、同姓同名の別人である。 永田町小学校(現・千代田区立麹町小学校)、東京府立第五高等女学校(現・都立富士高等学校)、女子美術専門学校師範科日本画部(現・女子美術大学芸術学部美術学科日本画専攻)を卒業。府立第五高等女学校時代に自宅近くで二・二六事件に遭遇した。 在学中の1939年に第2回新美術人協会展入選。1940年に女子美術専門学校を卒業し、新美術人協会会員。
千 炳圭(チョン・ビョンギュ、朝鮮語: 천병규、1918年7… 千 炳圭(チョン・ビョンギュ、朝鮮語: 천병규、1918年7月1日 - 1993年7月19日)は、大韓民国の金融官僚、外交官、政治家、実業家。韓国銀行副総裁、第14代財務部(現・企画財政部)長官、第10代韓国国会議員。本貫は潁陽千氏。号は東栢(トンベク、동백)。日本名は千田 圭一。 元検察総長、法務部長官の呉鐸根は妻の兄弟。 慶尚北道安東に生まれた。1931年に大邱公立普通学校を卒業し、1936年大邱高等普通学校(現・慶北高等学校)を修了した。1939年に大阪商科大学(のちの大阪公立大学)予科を卒業し、1941年に大阪商科大学を卒業した。1942年に朝鮮銀行に入行し、1950年に韓国銀行初代東京支店長を務め、その後は大阪、香港の支店長および外務部長、調査部長を務めた。
西河 克己(にしかわ かつみ、1918年〈大正7年〉7月1日… 西河 克己(にしかわ かつみ、1918年〈大正7年〉7月1日 - 2010年〈平成22年〉4月6日)は、日本の映画監督。鳥取県出身。 西河が生まれたのは鳥取県東部の土師村 で現在の智頭町。父親の就職で一家が東京へ移るまで、4年余りをこの地で過ごした。小説家志望であったが、次善の途として映画監督を志し、松竹大船撮影所に監督助手として入社。当時は日本映画の第1期黄金時代ともいえる時代だった。 大学を卒業したのが日中戦争真っ只中であったため、松竹入社後1年を経ずして召集(結局2度応召した)されて旧満州やビルマへ出征、捕虜収容所生活も経験した。戦後復員して1946年(昭和21年)復職。原研吉、渋谷実、中村登らの名匠に師事し、1952年(昭和27年)助監督待遇のまま『伊豆の艶歌師』(主演:佐田啓二)を初監督。
久野 昌輝(ひさの まさてる、1918年(大正7年)7月1日… 久野 昌輝(ひさの まさてる、1918年(大正7年)7月1日 - 1989年(平成元年)9月21日)は、日本の経営者。テレビ西日本元社長。 東京都出身。1944年に早稲田大学法学部を卒業し、1951年に文化放送に入社した。1961年にフジテレビジョンの総務部長に就任し、取締役、常務、専務を歴任した。 1973年にテレビ西日本の専務に就任し、1979年から1985年までに社長を務めた、1985年以降、取締役相談役、顧問、フジテレビジョン監査役を歴任した。日本民間放送連盟副会長も務めた。 1983年に藍綬褒章を受章し、1989年に勲三等旭日中綬章を受章した。 1989年9月21日腎不全のために死去。
中瀬 正幸(なかせ まさゆき、1918年(大正7年)7月1日… 中瀬 正幸(なかせ まさゆき、1918年(大正7年)7月1日 - 1942年(昭和17年)2月9日)は、大日本帝国海軍の軍人、海軍航空隊戦闘機搭乗員。最終階級は一等飛行兵曹、2階級特進により、飛行特務少尉。いわゆるエース・パイロットと呼ばれる撃墜王(撃墜数18)。 1918年(大正7年)、徳島県徳島市生まれ。1934年(昭和9年)6月1日、「第5期飛行予科練習生」(乙飛)を志願し横須賀海軍航空隊に入隊。 1938年(昭和13年)3月、飛行練習生課程を修了し三空曹昇進、大村海軍航空隊に配属された。同年末、第14航空隊に配属。日中戦争(支那事変、日華事変)に出動するが空戦の機会はなかった。その後横須賀航空隊に移る。
關屋 實(せきや みのる、1918年〈大正7年〉6月29日 … 關屋 實(せきや みのる、1918年〈大正7年〉6月29日 - 1996年〈平成8年〉1月29日)は、日本の薬学者(薬品製造化学)。勲等は勲三等。学位は薬学博士(東京大学・1950年)。静岡薬科大学名誉教授、社団法人日本薬学会有功会員。姓の「關」は「関」の旧字体、名の「實」は「実」の旧字体のため、関屋 實(せきや みのる)、關屋 実(せきや みのる)、関屋 実(せきや みのる)とも表記される。 武田化学薬品株式会社、和光純薬工業株式会社を経て、神戸女子薬科大学薬学部助教授、静岡薬科大学薬学部教授、静岡薬科大学学長事務取扱などを歴任した。 薬品製造化学を専攻する薬学者である。蟻酸アンモニウムによる還元反応の研究では、日本における先駆者とされている。
松本 旭(まつもと あさひ、1918年6月29日 - 201… 松本 旭(まつもと あさひ、1918年6月29日 - 2015年10月30日)は、日本の俳人、俳句研究家、国文学者、作詞家。埼玉大学名誉教授、城西大学女子短期大学部教授。従四位。 埼玉県大石村(現・上尾市)出身。本名の読みは「あきら」。東京文理科大学卒業後、埼玉県立浦和高等学校で教鞭を執った。埼玉大学教育学部助教授、教授、1972年から1975年まで埼玉大学教育学部附属小学校校長兼任。1983年定年退官、名誉教授、城西大学女子短期大学部教授。 加藤楸邨、角川源義に師事して俳句を詠み、1978年俳誌『橘』を創刊、主宰。妻も俳人の松本翠。「村上鬼城研究」で俳人協会評論賞受賞。連歌・近代俳句の研究家でもあった。
苧阪 良二(おさか りょうじ、1918年〈大正7年〉6月28… 苧阪 良二(おさか りょうじ、1918年〈大正7年〉6月28日 - 2018年〈平成30年〉8月12日)は、日本の心理学者。京都大学名誉教授、名古屋大学名誉教授。視空間構造の成立に係わる心理学的研究、眼球運動計測に関する研究などで知られる。長男は苧阪直行、長男の妻は苧阪満里子。 京都市左京区吉田に生まれる。旧制京都府立京都第一中学校、旧制第三高等学校理科甲類を経て、1943年(昭和18年)9月に東京帝国大学文学部心理学科を卒業(卒業論文は「視空間の異方向性 - 月の錯視について」)後、海軍予備学生として応召され海軍兵学校舞鶴分校教官として電測術および心理学を担当する。終戦後、復員し1945年(昭和20年)11月より京都帝国大学大学院文学研究科部哲学専攻にて学ぶ。
陸井 三郎(くがい さぶろう、1918年(大正7年)6月28… 陸井 三郎(くがい さぶろう、1918年(大正7年)6月28日 - 2000年(平成12年)1月13日)は、日本の国際政治評論家である。『ハリウッドとマッカーシズム』などの著作で知られる。 東京出身。1940年、青山学院(のちの青山学院大学)高等商学部を卒業。第二次世界大戦中は太平洋協会、戦後は世界経済研究所に勤務し、アメリカ研究所長(1966年 - 1973年)、アジア・アフリカ研究所員(1961年 - 2000年)、「ベトナムにおける戦争犯罪調査日本委員会」事務局長(1966年 - 1975年)を歴任した。1967年、ベトナム戦争における米国の戦争犯罪を裁く民衆法廷「国際戦争犯罪法廷」(ラッセル法廷)に参加し、調査や証言を行った。
明道 博(みょうどう ひろし、1918年6月28日 - 19… 明道 博(みょうどう ひろし、1918年6月28日 - 1988年)は、日本の園芸学者。専門は環境保全学花卉・造園学。北海道大学では農学部長,農学部附属農場長,本学評議員を歴任。 昭和38年に園芸学会賞学術賞受賞。1986年第9回日本公園緑地協会北村賞受賞。 著書に『朝日園芸百科』(編集、朝日新聞社、1984年)『花卉・造園学とともに歩んで』(北大農学部,明道博先生退官記念事業会、1982年)『百合(ユリ)入門』(共著、池田書店、1976年)『北国の鉢植え』(監修、北海道協同組合通信社、1976年)『楽しい北国の庭と花づくり』(北海道農業改良普及協会、1972年)『草花』(朝倉書店、1958年)など。
塩川 優一(しおかわ ゆういち、1918年(大正7年)6月2… 塩川 優一(しおかわ ゆういち、1918年(大正7年)6月27日 - 2016年(平成28年)4月28日)は、日本の内科学者である。 兵庫県神戸市に生まれる。東京帝国大学医学部(現在の東京大学大学院医学系研究科・医学部)卒業後は、第二次世界大戦により従軍しビルマ等で軍医として活動した。戦後の1946年(昭和21年)に帰国し、その後は母校附属の第2内科に勤務した。1955年(昭和30年)には順天堂大学の助教授として活動し、1964年(昭和39年)には教授に昇格する。1969年(昭和44年)には同大学に膠原病を専門とした内科の開業に携わり、1979年(昭和54年)には順天堂大学医学部附属順天堂病院の院長も務めた。
村上 正名(むらかみ まさな、1918年6月26日 - 20… 村上 正名(むらかみ まさな、1918年6月26日 - 2002年2月9日)は、日本の教育学者、郷土史家。元広島大学附属福山中学校・高等学校教諭。勲四等旭日小綬章受章。後に従四位に叙せられた。 「東洋のポンペイ」と呼ばれる草戸千軒遺跡の発掘に尽力した。個人的な調査と資料をもとに草戸千軒集落の発掘と保存を粘り強く行政に訴えつづけ、1961年に福山市が行った発掘調査に続き、1973年に広島県により調査所が、1976年調査研究所を発足させるに至った。これ以降、1990年までに行われた全面的な調査と研究が継続され、草戸千軒遺跡の全貌が明らかになり、広島県立歴史博物館の創設をもたらすことにもなった。 また、姫谷焼について、日本陶磁協会誌『陶説』を場として、当時まだ地方窯(じかたよう)としか見られていなかった色絵姫谷焼の貴重性を広く世に広めた。
岩永 健吉郎(いわなが けんきちろう、1918年6月26日 … 岩永 健吉郎(いわなが けんきちろう、1918年6月26日 - 1998年11月22日)は、日本の政治学者。東京大学名誉教授。 福岡市に生まれる。1936年福岡県中学修猷館、1938年第一高等学校文科甲類を経て、戦争による非常時を理由に高等教育の修業年限が短縮されたことにより、1941年12月東京帝国大学法学部政治学科を3か月繰り上げて卒業。東大在学中は、戦時色が高まる中で欧米における民主政の発展過程を学ぶことに心の救いを求め、高木八尺教授のアメリカ政治史や岡義武教授のヨーロッパ政治史を熱心に聴講した。また、両教授の勧めにより、アレクシ・ド・トクヴィルやアルトゥル・ローゼンベルクの著作を熟読している。
桂 英澄(かつら ひでずみ、1918年6月26日 - 200… 桂 英澄(かつら ひでずみ、1918年6月26日 - 2001年1月28日)は、日本の小説家。父は東京帝国大学教授(金属工学)の桂弁三。姉は洋画家・桂ゆき。 東京市本郷区生まれ。1943年京都帝国大学文学部哲学科卒。在学中から太宰治に師事。卒業後NHKに入社、戦後放浪生活に入り八年ほど療養生活をしたのち、同人誌に創作を発表。1971年『早稲田文学』に「寂光」を連載、72年同作で直木賞候補となる。
染野 義信(そめの よしのぶ、1918年6月26日 - 20… 染野 義信(そめの よしのぶ、1918年6月26日 - 2007年)は、日本の法学者。専門は、民事訴訟法・裁判法。日本大学法文学部卒業。日本大学名誉教授。茨城県出身。 明治期以降の司法制度の研究で知られ、『講座 日本近代法発達史』(有斐閣)に収められた「司法制度」「裁判制度」は珠玉の業績として影響力をもった。染野の近代司法制度に関する研究業績は、東京大学より法学博士の学位が授与されている。また、日本学術会議会員に選出され、同会議第二部(法学・政治学部門)部長の要職も務めた。『民事訴訟法講義』『破産法講義』(ともに勁草書房)などの著作があり、『口語民事訴訟法』(自由国民社)の監修者でもある。 1992年、勲三等旭日中綬章を受章。
塚田 庄平(つかだ しょうへい、1918年6月25日 - 1… 塚田 庄平(つかだ しょうへい、1918年6月25日 - 1991年3月20日)は日本の政治家。日本社会党(以下、社会党)における炭鉱労組出身政治家として北海道議会議員(4期)や道議会副議長、衆議院議員(4期)を歴任した。 1918年(大正7年)6月25日、北海道浦河郡浦河町に生まれる。1942年(昭和17年)に東京帝国大学法学部を卒業後、北海道炭礦汽船(北炭)に入社した。その後水戸航空通信学校に入校。戦後は北炭職員組合連合会(北炭職連)委員長、全日本石炭労働組合(全石炭)副委員長を務めた。北炭職連委員長在任中の1950年(昭和25年)6月に行われた第2回参議院議員通常選挙に民主戦線候補として立候補したが、15名中9位で落選した。
許 南麒(허남기、ホ・ナムギ、きょ・なんき、1918年6月2… 許 南麒(허남기、ホ・ナムギ、きょ・なんき、1918年6月24日 - 1988年11月)は、在日韓国・朝鮮人の詩人。朝鮮語と日本語の両方で作品を発表。日本語で書いた叙事詩「火縄銃のうた」で有名。在日本朝鮮文学芸術家同盟委員長、朝鮮総聯中央副議長、朝鮮民主主義人民共和国最高人民会議代議員。
原 亨吉(はら こうきち、1918年6月21日 - 2012… 原 亨吉(はら こうきち、1918年6月21日 - 2012年3月20日)は、日本の数学史家、フランス文学者、翻訳家。大阪大学名誉教授。 フランス科学思想史、近世ヨーロッパ数学史を専攻し、ルネ・デカルト、ケプラー、ホイヘンス、ロベルヴァル、ライプニッツを軸に研究論文・翻訳を行い、フランス語教育にも長くたずさわった。若き日はスタンダール、アラン、ヴァレリーらの翻訳も行った。 京都市出身。姫路市に育つ。第一高等学校理科乙類を経て、1938年京都帝国大学哲学科入学、1940年退学し1942年東京帝国大学仏文科卒業。1942年入営し少尉で敗戦、1945年8月20日中尉(いわゆるポツダム中尉)で除隊、1947年同志社女子専門学校教授、1949年関東学院大学経済学部助教授。
田村 耕一(たむら こういち 1918年(大正7年)6月21… 田村 耕一(たむら こういち 1918年(大正7年)6月21日 - 1987年(昭和62年)1月3日)は、日本の陶芸家。1986年(昭和61年)に重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定。 栃木県佐野市富岡町出身。昭和16年(1941年)東京美術学校工芸科図案部を卒業し、大阪府下で楽焼を学ぶが翌年応召する。戦後の昭和20年(1945年)京都市の松風工業株式会社松風研究所に入所して陶磁器の本格的研究を開始し、富本憲吉に師事した。昭和23年(1948年)栃木県佐野市へ帰り、赤見窯の築窯に加わる。翌年新匠工芸会展に出品、昭和25年(1950年)には濱田庄司の勧めで「栃木県窯業指導所」(現在の「栃木県産業技術センター 窯業技術支援センター」)技官となり、ココ工芸の結成に参加、のち生活工芸集団結成に加わった。
高橋 晄正(たかはし こうせい、1918年6月20日 - 2… 高橋 晄正(たかはし こうせい、1918年6月20日 - 2004年11月3日)は、日本の医師。 秋田県仙北郡西木村(現仙北市)生まれ。1936年(昭和11年)旧制秋田県立角舘中學校を卒業し1941年(昭和16年)東京帝國大學医学部を卒業する。その後物療内科に入局し増山元三郎に推計学を紹介される。 漢方医学(鍼、経絡など伝統中国医学全般)を研究し、1966年(昭和41年)『漢方の認識』(NHKブックス)を出版。その後 論文「西洋医学と東洋医学-科学論の立場から-」(『保健の科学』 37(1):4-、1995年(平成7年))や著作『漢方薬Q&A』(1990年、『漢方薬は危ない』、『漢方薬は効かない』などで伝統中国医学及び漢方薬(副作用)を批判した。
迫 幸一(さこ こういち、1918年6月20日 - 2010… 迫 幸一(さこ こういち、1918年6月20日 - 2010年10月29日)は、日本の写真家。 1918年(大正7年)、広島県呉市吉浦町に生まれる。1938年(昭和13年)、広島県立広島工業学校(現・広島県立広島工業高等学校)機械科を卒業した。1945年(昭和20年)、東洋工業勤務当時に広島市内で入市被爆する。 1952年(昭和27年)、『アサヒカメラ』に年間初入選する。1954年(昭和29年)には二科展に初めて入選し、以降も連続して入選した。1955年(昭和30年)、西ドイツの「国際主観写真展」に出品。 1957年(昭和32年)、オランダ美術館の「世界写真展」に出品する。1959年(昭和34年)にはニューヨーク近代美術館に出品後、5点が同館の永久保存対象となった。
大内 力(おおうち つとむ、1918年6月19日 - 200… 大内 力(おおうち つとむ、1918年6月19日 - 2009年4月18日)は、日本の経済学者。専門は、経済理論・経済政策。学位は、経済学博士(東京大学・1961年)。東京大学名誉教授、信州大学名誉教授。日本学士院会員。勲等は勲二等。 財団法人日本農業研究所研究員、東京大学社会科学研究所助教授、東京大学経済学部教授、東京大学経済学部学部長、東京大学総長特別補佐、信州大学教授、大東文化大学教授、全国大学生活協同組合連合会会長などを歴任。 東京府出身の経済学者である。マルクス経済学の経済理論、経済政策を専攻し、宇野弘蔵理論の立場から日本の農業問題を研究。また近代経済学の成果を柔軟に取り入れ、1970年の『国家独占資本主義』では、宇野理論における現状分析として、管理通貨体制下における金融政策(インフレ政策)による賃金上昇抑制と、それによる恐慌への対処を現代国家の本質的機能であるとした。
浜田 到(はまだ いたる、1918年6月19日 - 1968… 浜田 到(はまだ いたる、1918年6月19日 - 1968年4月30日)は、日本の歌人、詩人、医師。ロサンゼルス出身。 1912年、農園を経営していた両親が移住していたロサンゼルスに生まれ、4歳のとき帰国。両親の出身地である鹿児島県国分市(現・霧島市)に育つ。鹿児島県立第一中学校(現鹿児島県立鶴丸高等学校)在学中に短歌を始め、旧制姫路高等学校、旧制岡山医科大学を卒業。 1935年に、一中の教員であった安田尚義が主宰する潮音系短歌雑誌『山茶花』に短歌作品を発表。異色ある作品として注目される。以後、『歌宴』『工人』を経由。 1944年に岡山医科大学卒業後、鹿児島市内の済生会病院に勤務(内科医)。 1951年、中井英夫に見出され『短歌研究』8月号の「モダニズム短歌特集」に塚本邦雄らとともに寄稿、1960年には塚本邦雄、寺山修司、山中智恵子、菱川善夫らとともに同人誌「極」に参加。
神田 慶也(かんだ よしや、1918年6月18日 - 201… 神田 慶也(かんだ よしや、1918年6月18日 - 2011年3月3日)は、日本の化学者。専門は分子分光学。九州大学総長や九州産業大学学長を務めた。 第五高等学校理科甲類を経て(1939年(昭和14年)卒業)、九州帝国大学理学部を卒業する。 1942年(昭和17年)より、母校の九州帝国大学理学部助手となり、助教授を経て教授に昇進、理学部長などを歴任後、1978年11月から3年間九州大学総長を務めた。その後、九州産業大学で学長を務めていた。 1994年、勲二等旭日重光章を受章。2011年3月3日、肺炎のため死去。 門下生に島田良一がいる。
村松 定孝(むらまつ さだたか、1918年6月17日 - 2… 村松 定孝(むらまつ さだたか、1918年6月17日 - 2007年10月5日)は、日本の国文学者。上智大学名誉教授。専門は近代文学。長男は名城大学人間学部教授の村松定史。 山梨県西八代郡市川大門町(現在の市川三郷町)生まれ。1941年、早稲田大学国文科卒。泉鏡花に心酔し、卒業論文の段階から鏡花本人を訪ね、親しく話を聞いた。戦争をはさんで、1949年、早稲田大学大学院博士課程修了、獨協学園高校教諭、1957年昭和女子大学講師、1960年助教授、教授を経て、1968年、上智大学教授、1989年に定年退職。 鏡花研究の権威で、その著書『泉鏡花』は何度も改訂再版されている。ほかに樋口一葉など女性作家も扱い、実証的な手法での研究で知られる。
河嶋 勝二(かわしま かつじ、1918年6月15日 - 19… 河嶋 勝二(かわしま かつじ、1918年6月15日 - 1995年4月8日)は、日本の経営者。ブラザー工業社長、会長を務めた。石川県出身。 1939年に大分高等商業学校を卒業し、1946年10月にブラザーミシン販売に入社。 1954年6月にブラザー工業に転じ、1969年7月に取締役に就任し、1975年1月に常務、1977年2月に専務を経て、1981年2月には社長に就任。1989年2月に会長に就任。 1982年11月に藍綬褒章を受章し、1988年11月に勲三等旭日中綬章を受章。。 1995年4月8日腎不全のために死去。76歳没。
津田 秀夫(つだ ひでお、1918年6月15日 - 1992… 津田 秀夫(つだ ひでお、1918年6月15日 - 1992年11月15日)は、日本の歴史学者。東京教育大学名誉教授。専攻は近世史で、社会経済史、教育史などの分野にもとりくんだ。 1918年、大阪府西成郡今宮町(現・大阪市西成区)で生まれた。1942年、東京文理科大学を卒業。 卒業後は、岐阜県中津農林学校教諭となったが、入営・召集のため休職し、1946年に復員。 戦後は大阪第一師範学校勤務した。1949年の学制改革で師範学校が大阪学芸大学となると同校講師となった。東京教育大学講師を経て、1953年より東京教育大学助教授。1962年、学位論文『封建経済政策の展開と市場構造』を東京教育大学に提出して文学博士号を取得。
戸井田 三郎(といだ さぶろう、1918年6月12日 - 1… 戸井田 三郎(といだ さぶろう、1918年6月12日 - 1996年10月13日)は、日本の政治家。衆議院議員。長男は元衆議院議員の戸井田徹。東京都出身。従三位勲一等瑞宝章。
山本 進(やまもと すすむ、1918年6月12日 - )は、… 山本 進(やまもと すすむ、1918年6月12日 - )は、日本のジャーナリスト、国際政治学者。 横浜市生まれ。1942年東京帝国大学経済学部卒、毎日新聞社に入り北米、南米特派員をへて経済部副部長を務めた。武蔵大学講師。
篠崎 年子(しのざき としこ、旧姓:村田、1918年6月12… 篠崎 年子(しのざき としこ、旧姓:村田、1918年6月12日 - 2017年10月6日)は、日本の政治家。元参議院議員(1期)。元長崎県議会議員(1期)。 長崎県佐世保市生まれ。1931年(昭和6年)、佐世保市立大久保小学校卒業、1935年(昭和10年)、佐世保高等女学校卒業後、教職をめざし、長崎県女子師範学校入学。1937年(昭和12年)に卒業後、佐世保市立吉井南小学校、佐世保市立白南風小学校、佐世保市立光園小学校(現在の佐世保市立祇園小学校)、佐世保市立大久保小学校などで勤務。1941年(昭和16年)、教師と結婚。夫の校長就任と同時に退職。その後、夫が49歳で死去したため、1963年(昭和38年)、復職した。
荒川 久壽男(あらかわ くすお、1918年〈大正7年〉6月1… 荒川 久壽男(あらかわ くすお、1918年〈大正7年〉6月11日 - 1986年〈昭和61年〉12月31日)は、日本の歴史学者。元皇學館大学教授。 大正7年(1918年)6月、茨城県に生まれる。茨城県立下妻中学校(現在の茨城県立下妻第一高等学校)、水戸高等学校を経て、昭和16年(1941年)3月に東京帝国大学文学部国史学科を卒業する。直ちに同大学の副手となる。1942年1月、海軍教授となり、土浦市地域と三重県内の海軍航空隊で教鞭をとった。 戦後は1947年(昭和22年)4月より茨城県日立市立中学校(現在の茨城県立日立工業高等学校)教諭、1948年7月より茨城県立水海道第一高等学校教諭、1958年4月より茨城県立水戸第二高等学校教諭、1964年4月より皇學館大学助教授、1968年より同大学教授にそれぞれ就任した。
河崎 晃夫(かわさき てるお、1918年6月11日 - 20… 河崎 晃夫(かわさき てるお、1918年6月11日 - 2000年7月7日)は、日本の経営者。三菱レイヨン社長を務めた。 大阪府大阪市出身。1943年に慶應義塾大学経済学部経済学科を卒業し、同年に日本化成工業に入社。1971年11月に三菱レイヨン取締役に就任し、1975年5月に常務、1979年6月に専務を経て、1982年6月に副社長に就任し、1983年6月には社長に就任。1988年6月に会長に就任し、1993年6月から相談役を務めた。 1992年4月に勲二等瑞宝章を受章。 2000年7月7日肝不全のために死去。82歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
西野 一夫(にしの かずお、1918年6月10日 - 200… 西野 一夫(にしの かずお、1918年6月10日 - 2005年2月24日)は、元・東宝代表取締役副社長、芸苑社、東宝映像美術初代代表取締役社長。岡山県生まれの熊本県熊本市育ち。東京都港区南青山在住。 1936年4月から東京芦田工業所勤務。1938年に中央大学専門部経済学科中退と同時に東宝に入社。1948年11月、撮影所製作会計課長、1955年9月20日、撮影所製作部長、1960年7月、東京映画出向、撮影所支配人。 1969年3月25日に東宝撮影所支配人・東宝取締役に昇進し、1970年3月31日には馬渕威雄副社長の命で東宝美術代表取締役社長となる。その後、1974年8月22日に東宝常務取締役、1977年5月25日に東宝専務取締役を経て、1987年10月に亡くなった佐藤一郎に代わって芸苑社代表取締役社長となり、1988年には東宝映像、東宝美術が合併し東宝映像美術初代代表取締役社長となる。
鶴見 和子(つるみ かずこ、1918年(大正7年)6月10日… 鶴見 和子(つるみ かずこ、1918年(大正7年)6月10日 - 2006年(平成18年)7月31日)は、日本の社会学者、環境思想家。上智大学名誉教授。国際関係論などを講じたが、専攻は比較社会学。南方熊楠や柳田國男の研究などでも知られる。 1918年6月10日、東京府麻布区で、父・祐輔と母・愛子(後藤新平の娘)の間に、4人きょうだいの1番目(長女)として生まれる。 牛込成城小学校から1927年4月に砧の成城学園に移り、1929年4月に女子学習院5年へ転校。1934年頃から、父と親交のあった河合栄治郎の「国家権力に対する言論闘争」に共感、影響を受ける。1936年3月、女子学習院を卒業し、同年4月、津田英学塾へ進学。
川端 佳夫(かわばた よしお、1918年6月8日 - 196… 川端 佳夫(かわばた よしお、1918年6月8日 - 1968年1月14日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 愛媛県出身。1940年青山学院文学部卒。卒業後は読売新聞記者となり、厚生省嘱託、農相秘書官となる。岩崎澱粉化学工業、内外自動車各(株)取締役、東海養魚(株)社長を務める。 1949年の第24回衆議院議員総選挙では愛媛1区から民主自由党公認で立候補して当選した。衆議院議員を1期務めた。この間、民主自由党情報部副部長、自由党人事、遊説の各副部長となった。1952年の第25回衆議院議員総選挙では自由党公認で立候補して落選。1953年の第26回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。 このほか東京馬主協会会長にもなった。