岩澤 靖(いわさわ おさむ、1919年(大正8年)5月20日… 岩澤 靖(いわさわ おさむ、1919年(大正8年)5月20日 - 1993年(平成5年)1月12日)は日本の実業家。金星自動車、札幌トヨペット(現:AGHトヨタ札幌)、札幌観光、北海道テレビ放送の社長を務めた。許認可事業を手掛けることによって商機を見出し、政治力をつけることで事業を一気に拡大、北海道の政商と呼ばれた。 ほかに日本民間放送連盟、北海道乗用自動車協会の副会長、全国乗用自動車協会の常任理事、札幌地区乗用自動車協会、札幌ハイヤー協会の顧問、トヨタ自動車販売店協会、札幌第一高等学校の理事なども務めた。 岩澤弥衛八の次男として香川県で生まれる。1942年(昭和17年)明治大学商学部を卒業。 20代半ばで、姉が嫁いだ先が北海道拓殖銀行副頭取だったことを頼り、北海道に渡る。
大岩山 大五郎(おおいわざん だいごろう、1919年5月20… 大岩山 大五郎(おおいわざん だいごろう、1919年5月20日 - 1980年12月5日)は、東京都中央区(入門時は東京府東京市京橋区)入船出身で立浪部屋に所属した大相撲力士。本名は船橋 金次(ふなばし きんじ)。最高位は西前頭9枚目(1948年10月場所)。現役時代の体格は179cm、120kg。得意手は右四つ、上手投げ。 17歳の時に立浪部屋へ入門し、1937年5月場所で初土俵を踏んだ。 序ノ口当初より「大岩山」を名乗り、以降は「東岩」や「羽衣」に改名した時期もあったが、いずれも短期間で元の「大岩山」に戻している。 その前後、1944年11月場所で新十両昇進、1946年11月場所で入幕と順調に出世。
大蛇潟 金作(おろちがた きんさく、1919年5月20日 -… 大蛇潟 金作(おろちがた きんさく、1919年5月20日 - 1986年3月21日)は、秋田県平鹿郡平鹿町(現在の横手市)出身で錦島部屋に所属した大相撲力士。本名は斎藤 金作(さいとう きんさく)。最高位は西前頭筆頭(1954年1月場所)。現役時代の体格は179cm、120kg。得意手は左四つ、寄り。引退後は、一時期年寄として日本相撲協会に在籍していた。 17歳の時に上京して錦島部屋へ入門し、1937年1月場所で初土俵を踏んだ。序ノ口に付いた時の四股名は、「十文字」。 間も無く、「矢留石(やとめいし)」に四股名を改め、1944年1月場所にて十両昇進を果たした。その後一時期幕下に陥落したものの、1947年6月場所で十両に復帰した際に錦島部屋ゆかりの「大蛇潟」と改名してからは上昇気流に乗り、1948年5月場所に於いて新入幕を果たした。
西垣 脩(にしがき しゅう、1919年5月19日 - 197… 西垣 脩(にしがき しゅう、1919年5月19日 - 1978年8月1日)は、俳人、国文学者。 大阪市東区住吉町に生まれる。帝塚山学院小学校から大阪府立旧制住吉中学校(現在の大阪府立住吉高等学校)に進む。1937年、旧制松山高等学校(現在の愛媛大学)に入学。このとき、教授の一人川本臥風の指導を受け、松山高校俳句会で活躍。1940年に松山高校を卒業して東京帝国大学文学部国文科に入学。在学中は臼田亜浪に学び、二五会において大野林火、中村草田男、加藤楸邨らと句作に励んだ。1942年、大学を繰上卒業して出征するも、病気入院中に所属部隊がサイパンで玉砕し、九死に一生を得る。 復員後、帝塚山学院女学部教諭、東京都立武蔵丘高等学校教諭を経て、1954年に明治大学助教授。
田中 秀穂(たなか ひでほ、1919年5月17日 - )は、… 田中 秀穂(たなか ひでほ、1919年5月17日 - )は、日本の外交官。外務省中近東アフリカ局長、在フィリピン特命全権大使等を務めた。1993年4月勲二等旭日重光章受章。 北海道札幌市出身。北海道庁立札幌第二中学校(現北海道札幌西高等学校)を経て、1943年旧制東京商科大学(一橋大学の前身)を卒業し、外務省入省。 1974年にパレスチナゲリラ及び日本赤軍の和光晴生と山田義昭の混成部隊が、シンガポール沖にあったシェル石油傘下のシンガポール・イースタン・ペトローリアム社ブクム島製油所を爆破し、警官隊と銃撃戦を展開、さらにその6日後、パレスチナ解放人民戦線が在クウェート日本大使館を占拠、石川良孝(大使)らを人質にして、和光らを送還し南イエメンへ脱出させることを日本政府に要求した事件(シンガポール・クウェート事件)に、中近東アフリカ局長として対応にあたり、人質解放後、日本政府が派遣した特別機に、犯人グループが南イエメンのアデンに脱出するまで人質の身代わりとして同乗した。
前ノ山 政三(まえのやま せいぞう、1919年5月17日 -… 前ノ山 政三(まえのやま せいぞう、1919年5月17日 - 没年不明)は、秋田県平鹿郡平鹿町(現在の横手市)出身で高砂部屋に所属した大相撲力士。本名は佐藤 政三(さとう せいぞう)。得意技は左四つ、寄り。 秋田県平鹿郡平鹿町(現在の横手市)出身。16歳の時に上京して高砂部屋へ入門し、1937年1月場所で初土俵を踏んだ。 1944年5月、幕下上位で勝ち越し、新十両昇進を決めた。だが、すぐに応召、翌11月場所は休場した。まもなく復帰し、1945年6月には十両格で出場した。 戦時中、天皇と同じ名は畏れ多いと、「前ノ山」に改名。 その後、1946年11月場所で新入幕。左四つの体勢からの挟み付けるような寄りが得意だったが、勝ち味が遅く、幕内上位には上がれず、最高位は西前頭13枚目にとどまった。
国久 松一(くにひさ しょういち、1919年5月15日 - … 国久 松一(くにひさ しょういち、1919年5月15日 - 戦死)は、大阪府出身のプロ野球選手。ポジションは二塁手、外野手。
安 東濬(アン・ドンジュン、朝鮮語: 안동준、1919年5月… 安 東濬(アン・ドンジュン、朝鮮語: 안동준、1919年5月15日 - 2010年11月16日)は、大韓民国の陸軍軍人、政治家、教育者。陸軍大領、第3・5・6・7代韓国国会議員、国際観光公社(現・韓国観光公社)総裁などを歴任した。 本貫は順興安氏(朝鮮語版)、号は中山(チュンサン、중산)。儒教の信者。 日本統治時代の忠清北道槐山郡出身。牧渡公立普通学校(現・牧渡初等学校(朝鮮語版))、清州公立農業学校(現・清州教育大学校)を経て、1942年中央大学法科卒。1944年中央大学大学院研究科修了。1948年陸軍士官学校第7期卒。1949年陸軍参謀学校、1952年陸軍大学、1953年アメリカ合衆国陸軍歩兵学校卒。
布目 潮渢(ぬのめ ちょうふう、1919年5月13日 - 2… 布目 潮渢(ぬのめ ちょうふう、1919年5月13日 - 2001年1月17日)は、日本の東洋史学者・中国学者。専門は唐代史。大阪大学名誉教授。茶の文化と歴史の研究、陸羽『茶経』の翻訳で知られる。 1919年、日蓮宗の宣教師としてハワイに滞在していた父の任地であったハワイで四人兄弟の長男として生まれた。愛知県名古屋市中川区出身。東京帝国大学文学部東洋史学科で学び、1943年に卒業。卒業後は海軍予備学生として軍務につき、中尉で敗戦を迎えた。 戦後は東洋文庫研究員となり、東方文化研究所助手に採用された。その後関西に移って教諭となり、京都府立京都第一女学校、鴨沂高等学校などに勤務。1950年12月、西京大学助教授に就いた。
生駒 勘七(いこま かんしち、1919年5月13日 - 19… 生駒 勘七(いこま かんしち、1919年5月13日 - 1987年5月16日)は日本の郷土史家、教育者。 長野県西筑摩郡福島町(現木曽町)生まれ。法政大学卒業。1941年に代用教員となり、1949年から木曽郡各地の小学校で教諭を務める傍ら、木曽谷の近世史や民俗学について広範な研究活動を展開し、一志茂樹らと木曽の中山道宿駅の調査にあたり、木曽馬や木曽の山林、御嶽山等に関する研究に従事する。また「木曽福島町史」や「三岳村誌」の編纂に当たる。 1963年に郷土文化研究会を設立して会長となり、会誌「木曽」を創刊。また木曽福島郷土館の建設に尽力し、同町文化財審議委員会委員長を務めた。1975年中日教育賞受賞。
大木 英子(おおき ひでこ、1919年5月10日 - 200… 大木 英子(おおき ひでこ、1919年5月10日 - 2008年8月3日)は、日本の作曲家である。北海道小樽市出身。日本現代音楽協会会員。夫は大木正夫。旧姓:谷藤。 小樽高等女学校を経て、帝国高等音楽院ピアノ科を卒業。マリオ・パッチにピアノを、夫の大木正夫に作曲を師事する。 1956年に『ピアノ協奏曲第1番』が日本放送協会の芸術祭管弦楽部門に入選する。1957年には、上田仁指揮による東京交響楽団の日本人作曲家の作品初演シリーズで『雪のふるさと』が演奏された。1958年にピアノ作品発表会を開いている。この時期には、1958年の『ピアノと電子音響による協奏的四章』(ラジオ東京で放送された)や「ピアノソナタ」などの作品がある。
清川 泰次(きよかわ たいじ、1919年5月6日 - 200… 清川 泰次(きよかわ たいじ、1919年5月6日 - 2000年8月6日 )は、日本の洋画家。 1919年(大正8年)5月6日、静岡県浜松市にて生誕。1936年、浜松第一中学(現浜松北高校)4年修了後、慶應義塾大学経済学部予科に入学し、油彩画を始めていく。大学在学中は写真部に所属していた。 1944年に慶應義塾大学を卒業し、戦後はアメリカやヨーロッパ、アジア各地を訪問していく。1947年に二科展に初入選し、浜松市で初の個展を開催する。 1949年には世田谷区の成城にアトリエ兼住居を構え、1951年に渡米しシカゴの画廊で個展を開催し、1954年にタイやエジプト、インドなどを周遊後、帰国。帰国後は、「今日の新人展」(神奈川県立近代美術館)や読売アンデパンダン展等に出品していった。
桑田 三郎(くわだ さぶろう、1919年5月6日 - 201… 桑田 三郎(くわだ さぶろう、1919年5月6日 - 2013年9月14日)は、日本の法学者。専門は、国際私法・商標法・工業所有権法。中央大学名誉教授。高岡法科大学初代学長。弁護士。 1919年、広島県生まれ。1939年、兵役に就く。一方で、八杉貞利に学んでロシア語を習得した。1945年に太平洋戦争が終結すると、復員。1947年、高等試験司法科試験に合格。弁護士試補。1948年、弁護士登録(第一東京弁護士会所属)。1949年、中央大学法学部法律学科を卒業した。 卒業後は、中央大学法学部助手に着任。中央大学助手時代には学外指導教授として江川英文に師事した。1953年に同法学部助教授、1961年に同法学部教授に昇進。
飯塚 小玕斎(いいづか しょうかんさい、1919年5月6日 … 飯塚 小玕斎(いいづか しょうかんさい、1919年5月6日 - 2004年9月4日)は、日本の竹工芸家。東京市本郷区生まれ。本名は成年。1942年、東京美術学校油画科を卒業。同じく竹工芸家の飯塚琅玕斎の次男であり、彼に師事。1982年、竹工芸で人間国宝 (重要無形文化財保持者) となった。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
酒井 日慈(さかい にちじ、1919年(大正8年)5月6日 … 酒井 日慈(さかい にちじ、1919年(大正8年)5月6日 - 2019年(令和元年)5月28日)は、日蓮宗の僧侶。日蓮宗第51代管長、大本山池上本門寺第82世貫首。 東京市浅草区に生まれる。1941年(昭和16年)に法政大学文学部国文学科を繰り上げ卒業し、学徒出陣で東部101連隊に入隊する。復員後、東京池上の實相寺住職、池上本門寺執事長を経て、1991年(平成3年)に千葉市川の弘法寺貫首、2000年(平成12年)に池上本門寺第82世貫首に晋山、2006年(平成18年)に日蓮宗第51代管長に就任する。また、日蓮宗新聞部長、立正大学法華経文化研究所参与、日蓮宗講学職、日蓮宗布教研修所所長などを歴任。
高妻 安幸(こうづま やすゆき、1919年5月5日 - 19… 高妻 安幸(こうづま やすゆき、1919年5月5日 - 1981年1月30日)は、日本の経営者。ダイハツ自動車販売社長を務めた。宮崎県出身。 1943年に東京帝国大学法学部を卒業し、1946年11月にトヨタ自動車工業に入社。1950年7月にトヨタ自動車販売に転じ、1966年11月に取締役に就任し、1975年6月に参与、1975年9月にダイハツ自動車販売取締役を経て、同年9月にダイハツ自動車販売副社長に就任し、1976年9月には社長に昇格。 1981年1月30日心不全のために死去。61歳没。
和田 農夫也(わだ のぶや、1919年5月5日- 2005年… 和田 農夫也(わだ のぶや、1919年5月5日- 2005年1月10日 )は、日本の経営者。興亜火災海上保険社長、会長を務めた。 秋田県出身。1940年に名古屋高等商業学校を卒業し、同年に満鉄に入社した。1952年4月に興亜火災海上保険に転じ、1970年6月に取締役に就任し、1974年3月に常務、1978年7月に専務を経て、1982年7月には社長に就任。1983年6月までに務め、1984年7月には相談役に就任。 2005年1月10日、胆管癌のために死去。85歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
戸沢 政方(戸澤 政方、とざわ まさかた、1919年5月4日… 戸沢 政方(戸澤 政方、とざわ まさかた、1919年5月4日 - 2005年2月14日)は、日本の政治家、厚生官僚。衆議院議員(4期)。 1919年(大正8年)、現在の神奈川県小田原市に生まれる。小田原中学校(現:小田原高等学校)を経て、1944年(昭和19年)、東京帝国大学法学部卒。同年、内務省に入る。翌年厚生省に転じる。1970年(昭和45年)保険局長。1972年(昭和47年)社会保険庁長官。1973年(昭和48年)厚生事務次官。翌1974年(昭和49年)厚生省を退官。翌年、神奈川県知事選挙に立候補するが落選。1976年(昭和51年)から神奈川3区から立候補して4回当選した。1990年(平成2年)の第39回衆議院議員総選挙で落選。
沢田 敏男(さわだ としお、1919年〈大正8年〉5月4日 … 沢田 敏男(さわだ としお、1919年〈大正8年〉5月4日 - 2017年〈平成29年〉10月18日)は、日本の農学者(農業農村工学)。農学博士(京都大学・論文博士・1955年)。京都大学名誉教授、国立工科大学名誉教授、福井県立大学名誉教授、仁愛大学名誉教授。階級は陸軍技術中尉。勲一等瑞宝章受章。日本学士院会員、文化功労者、文化勲章受章。 京都帝国大学農学部研究嘱託、岡山農業専門学校教授、京都大学農学部教授、京都大学農学部学部長、京都大学総長、農業土木学会会長、滋賀総合研究所理事長、日本学術振興会会長、国際高等研究所所長などを歴任した。 農業土木・ダム工学を専攻する農学者・工学者である。三重県伊賀市出身。
角谷 三四郎(すみや さんしろう、1919年5月3日 - 没… 角谷 三四郎(すみや さんしろう、1919年5月3日 - 没年不明)は、日本の経営者。中山製鋼所社長を務めた。 大阪府出身。1940年に大阪商科大学を卒業し、同年に中山製鋼所に入社。1941年3月から1946年7月までに兵役に従事し、終戦時には関東軍中尉となり、後にシベリア収容所で収容された。1964年11月に取締役に就任し、1973年11月に常務、1977年6月に専務を経て、1983年3月には社長に就任。1991年6月に会長に就任し、1997年6月から相談役を務めた。 1990年11月に勲三等旭日中綬章を受章。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
李 相冕(イ・サンミョン、朝鮮語: 이상면、1919年5月3… 李 相冕(イ・サンミョン、朝鮮語: 이상면、1919年5月3日 - 2002年1月10日)は、大韓民国の政治家。第5代韓国国会議員。 号は松庵(ソンアム、송암)。 日本統治時代の慶尚北道迎日郡出身。立教大学文学部2年修了後に学徒兵として出陣した。1960年の第5代総選挙で国会議員に当選したが、大法院による選挙無効判決を受けて再選挙でまた当選したものの、5・16軍事クーデターにより辞退した。ほかには民主党浦項市党委員長・中央委員、国会商工委員を務めた。
小勝郷右(おがつ きょうすけ、1919年5月2日 - 199… 小勝郷右(おがつ きょうすけ、1919年5月2日 - 1993年8月2日)は、日本の花火師。 東京府(現府中市)生まれ。本名・小勝恭亮。東京府立府中農蚕学校(現東京都立農業高等学校)卒。幼少より実家の花火製造に従事し、19歳で火薬類作業主任試験合格。兵役ののち、国内外で花火師として活動。丸玉屋小勝煙火店代表取締役社長。花火に関するものや自伝などの著作がある。
宗 左近(そう さこん、1919年5月1日 - 2006年6… 宗 左近(そう さこん、1919年5月1日 - 2006年6月20日)は、日本の詩人・評論家・仏文学者・翻訳家。本名は古賀 照一(こが てるいち)。法政大学名誉教授。文芸誌『同時代』同人。 福岡県遠賀郡戸畑町(後の北九州市戸畑区)に生まれる。天籟寺小学校、戸畑小学校、宮崎第二小学校、宮崎中学(現・宮崎県立宮崎大宮高等学校)、小倉中学(現・福岡県立小倉高等学校)を経て上京。旧制一高を卒業後、1942年、東京帝国大学哲学科に入学した。1945年4月、召集により横須賀海兵隊に入隊したが、精神錯乱を装い除隊というエピソードもある。 同年5月25日の東京大空襲により、母を亡くす。母と一緒に逃げ込んだ墓地の中で炎に取り囲まれた彼が「炎の一本道」(『絆――ドキュメント・わが母』)を通って脱出しようと走り去った時、母が転倒。
小島 直記(こじま なおき、1919年5月1日 - 2008… 小島 直記(こじま なおき、1919年5月1日 - 2008年9月14日)は、福岡県八女郡福島町(現・八女市福島)の生まれの小説家。経済人などの伝記小説で知られる。本名は小嶋直記。作家・小島英記は長男。 旧制福岡高等学校卒業。東京帝国大学経済学部商業学科を卒業。短期現役海軍主計科士官(10期)を志願し、1943年9月、海軍経理学校に入学し、1944年(昭和19年)3月に卒業して海軍主計中尉に任官。河和海軍航空隊に配属。1945年(昭和20年)3月、海軍主計大尉に昇進し、名古屋監督官事務所監査官付として終戦を迎えた。 戦後、私立八女津女子高等学校(現在の八女学院高等学校)や、母校でもある八女中学校(現在の福岡県立八女高等学校)で社会科の教師として教鞭を取り、詩人の松永伍一を教えたこともある。
岩猿 敏生(いわさる としお、1919年4月30日 - 20… 岩猿 敏生(いわさる としお、1919年4月30日 - 2016年4月9日)は、図書館学者。 福岡県田方郡方城町(現:福智町)生まれ。1943年京都帝国大学文学部哲学科卒業。1948年福岡県立高校教諭、1950年九州大学図書館司書官、1956年京都大学図書館事務長・事務部長、1976年関西大学文学部教授、1990年同大学退職。1995年から2013年まで日本図書館協会顧問。
竹村 令(たけむら れい、1919年(大正8年)4月29日 … 竹村 令(たけむら れい、1919年(大正8年)4月29日 - 生没不明)は、昭和時代の競泳選手。 京都府立第一高等女学校在学中、1936年ベルリンオリンピックに競泳日本代表として女子100m自由形に出場したが予選落ちに終わった。女子4×100mフリーリレーにも出場したが予選落ちに終わった。
黒田 靖之助(くろだ やすのすけ、1919年4月29日 - … 黒田 靖之助(くろだ やすのすけ、1919年4月29日 - 1989年8月8日)は、日本の経営者。大阪府出身。黒田善太郎の三男。 1942年に慶応義塾大学経済学部を卒業し、1946年に黒田国光堂(のちのコクヨ)に入社。1949年に常務に就任し、1964年に専務を経て、1970年に副社長に就任し、1985年12月に社長に昇格した。 1989年8月8日出張先の福岡市で心不全のために死去。70歳没。
宮内 裕(みやうち ひろし、1919年4月29日 - 196… 宮内 裕(みやうち ひろし、1919年4月29日 - 1968年2月25日)は、日本の法学者(刑事法)。元京都大学教授。東京都出身。 旧制松本高校に在学中にマルクス主義的思想を問題視され退学する。その後、立命館大学の予科に入学し、竹田直平に師事する。竹田は宮内を素晴らしい学生であると他の学者に自慢しており、佐伯千仭や滝川幸辰に見出される。なかでも滝川は宮内を高く評価して直に指導するようになり、平場安治、滝川春雄とともに滝川門下の三羽烏と称されるようになる。 戦後は立命館で刑法講座を担当していたが、師の竹田が教職追放により立命館を去り、また京都大学では佐伯の教職追放などによる教員不足のため刑事法研究者を補充する必要が生じ、滝川門下の平場(刑事訴訟法講座担当)とともに刑事学講座担当として迎えられ京都大学助教授に就任した。
成川 武夫(なるかわ たけお、1919年4月28日 - )は… 成川 武夫(なるかわ たけお、1919年4月28日 - )は、日本の哲学者、東京藝術大学名誉教授。 京都府生まれ。東京帝国大学文学部哲学科卒。同大学院修士課程修了。東京藝術大学教授、83年定年退官、名誉教授。
中村保雄(なかむら やすお、1919年4月26日 - 199… 中村保雄(なかむら やすお、1919年4月26日 - 1996年2月6日)は、日本の能面研究家。 東京出身。父は能面作家・中村直彦。1940年東京物理学校数学科卒。高校教師となり、京都府立鴨沂高等学校校長、京都文化短期大学教授。1965年京都新聞社文化賞、80年「能面」で芸術選奨文部大臣賞受賞。
重松 明久(しげまつ あきひさ、1919年4月26日 - 1… 重松 明久(しげまつ あきひさ、1919年4月26日 - 1989年4月4日)は、日本文化史の研究者。 大分県出身。1943年広島文理科大学国史学専攻卒業、1962年名古屋大学大学院博士課程修了、「日本浄土教成立過程の研究」で名大文学博士。福井大学教授、広島大学教授を経て、福山市立女子短期大学学長。主として浄土真宗の歴史を研究した。 1972年、丹羽文雄が連載中の『蓮如』に、重松の『覚如』からの盗用があるとして問題になったが、和解した。 息子はウォシュレット開発者の重松俊文。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
内海 洋一(うつみ よういち、1919年4月24日 - 20… 内海 洋一(うつみ よういち、1919年4月24日 - 2009年5月5日)は、日本の経済学者。大阪大学名誉教授。 1919年、兵庫県生まれ。京都帝国大学経済学部を卒業。 大阪大学経済学部助教授となり、後に教授昇進。1962年に大阪大学にて経済学博士号を取得。1982年に大阪大学を定年退官し、名誉教授となった。その後は大阪学院大学教授として教鞭をとり、1995年に退職した。 学界では、1988年~1990年、1992年~1994年の2期にわたって経済社会学会会長を務めた。また、「憂国忌」発起人にも加わった。
野村 芳太郎(のむら よしたろう、1919年(大正8年)4月… 野村 芳太郎(のむら よしたろう、1919年(大正8年)4月23日 - 2005年(平成17年)4月8日)とは、日本の映画監督。父は映画監督の野村芳亭、祖父は浮世絵師の二代目野村芳国。 父・芳亭は日本の映画監督の草分け的存在で、松竹蒲田撮影所の所長も務めた。その関係で、京都と東京を行き来して育つ。京都市生まれで、生後まもなく東京市浅草区に移った。蒲田小学校から暁星小学校、暁星中学校を経て慶應義塾大学文学部芸術学科卒業。大学卒業後の1941年、松竹大船撮影所に入社。 1946年に復員。黒澤明作品の『醜聞』『白痴』では助監督を務め、黒澤からは「日本一の助監督」と評価された。1952年の『鳩』で監督デビュー。
斎藤 義光(さいとう よしみつ、1919年4月23日 - 1… 斎藤 義光(さいとう よしみつ、1919年4月23日 - 1997年4月20日)は、日本の国文学者。 北海道生まれ。東京文理科大学国文科卒。東京都立白鷗高等学校教諭、小山台高等学校校長。大妻女子大学教授。1990年定年退任、名誉教授。
奈良林 祥(ならばやし やすし、1919年(大正8年)4月2… 奈良林 祥(ならばやし やすし、1919年(大正8年)4月22日-2002年(平成14年)9月12日)は、日本の医学者・医学博士。性の研究者。東京生まれ。
建畠 覚造(たてはた かくぞう、1919年4月22日 - 2… 建畠 覚造(たてはた かくぞう、1919年4月22日 - 2006年2月16日)は日本の彫刻家。第二次世界大戦後の日本で抽象彫刻制作を推し進めた第一人者であった。 1919年東京生まれ。彫刻家・建畠大夢の長男で、1941年に東京美術学校(現・東京藝術大学)彫刻科を卒業。同年、第4回新文展には「黙」を出品して特選を受賞するなど若い時期から期待された。将来の留学に備えてアテネフランスでフランス語を習っていたことから、昭和19年(1944年)に、仏領インドシナのサイゴン日本文化会館の派遣職員に任命され、新妻とともに赴任、敗戦後現地で4か月の抑留生活ののち、1946年に帰国した。 彼は彫刻を構成する実体とそれをとりかこむ何もない空間との関係に関心を持ち、アカデミックな具象彫刻から前衛的な抽象彫刻へ移行していった。
佐藤 助雄(さとう すけお、1919年(大正8年)4月22日… 佐藤 助雄(さとう すけお、1919年(大正8年)4月22日 - 1987年(昭和62年)10月19日)は、日本の彫刻家。山形県山形市出身。 初め木彫り彫刻を志し、後にブロンズ像に転向した。おおらかで詩的な人物像を得意とした。 長男は日本画家の佐藤良助。次男は彫刻家で長崎大学名誉教授の佐藤敬助。 1919年(大正8年)4月22日、仏師の父親の息子として山形県山形市に生まれる。父に木彫りを学んだ後、1936年(昭和11年)上京し木彫り彫刻家後藤良の内弟子となる。 1939年(昭和14年)、日本美術協会展出品作「ことり」が銅賞受賞。1941年(昭和16年)、第4回新文展出品作「後庭菜果」が初入選。1943年(昭和18年)、第6回新文展で「従軍看護婦」が特選受賞、政府買い上げ。
岡村 孝雄(おかむら たかお、1919年4月17日 - 20… 岡村 孝雄(おかむら たかお、1919年4月17日 - 2009年2月8日)は、高知県出身のプロ野球選手(投手)。 高知県立高知城東中学校(現・高知県立高知追手前高等学校)在学中は甲子園出場なし。その後、南満洲工業専門学校(戦後、大連理工大学に改組),土佐電気鉄道でプレーした。 1948年に阪急ブレーブスに入団。翌1949年まで在籍した。1950年に新球団・広島カープが創設されるに当たり、初代監督を務める事となった石本秀一の誘いで、阪急時代のチームメイトだった内藤幸三,武智修,竹村元雄と共に広島に入団した。しかし、広島では一軍の出場機会はなく、シーズン途中に森井茂が入団してくると背番号を変更させられる有様だった。
井上 和子(いのうえ かずこ、1919年4月17日 - 20… 井上 和子(いのうえ かずこ、1919年4月17日 - 2017年5月3日)は、日本の言語学者。日本語の分析を通した生成文法理論の研究で知られる。神田外語大学名誉教授、第2代学長。Ph.D.(ミシガン大学、1964年)。勲三等宝冠章(1996年春)。 1919年(大正8年)、大阪府生まれ。津田英学塾(現・津田塾大学)卒業後、米国ミルズ大学(英語版)を経て、米国ミシガン大学大学院博士課程修了。国際基督教大学教授、津田塾大学教授、神田外語大学教授を歴任。この間、日本言語学会会長、神田外語大学学長、神田外語大学言語科学研究センター顧問、日本言語学会顧問、日本英語学会顧問、社団法人全国外国語教育振興協会理事長なども務めた。
内海 喩(うつみ さとり、1919年4月16日 - 2003… 内海 喩(うつみ さとり、1919年4月16日 - 2003年3月15日)は、日本の化学者。理学博士。専門は分析化学。特に微量陰イオンの定量法の研究で知られる。元東京工業大学理工学部分析化学教室教授。日本大学名誉教授。 香川県出身。旧制千葉県立佐倉中学校(現在の千葉県立佐倉高等学校)を経て東京文理科大学(現在の筑波大学)卒業。1992年、勲四等旭日小綬章を受章。2003年3月15日、急性心筋梗塞のため83歳で死去。
上杉 佐一郎(うえすぎ さいちろう、1919年4月16日 -… 上杉 佐一郎(うえすぎ さいちろう、1919年4月16日 - 1996年5月10日)は、福岡県出身の部落解放運動家。部落解放同盟中央執行委員長。 福岡県三井郡御原村大道(現・小郡市二タ)の被差別部落で貧農の家庭に生まれる。農業だけでは食べていけないため、父は靴修理の行商に出、母は廃品回収業で生計を支えた。御原尋常小学校(現・小郡市立御原小学校)高等科卒業後、国鉄への就職試験に3度失敗し、家出生活を送っていたところ、騙されて北海道のタコ部屋に売り飛ばされ、重労働を経験。1934年、松本治一郎に救われて九州鉄道(西鉄)に入社。出征と復員の後、西鉄労働組合の役員となる。1940年4月、福岡二十四連隊第二機関銃隊に入隊。
大森 朔衞(おおもり さくえ、1919年(大正8年)4月16… 大森 朔衞(おおもり さくえ、1919年(大正8年)4月16日 - 2001年(平成13年)6月9日)は、日本の洋画家。風景を幻想的に描く作風で知られた。 大森朔衞 (おおもりさくえ) 1919年香川県小豆島、高松市で育つ。幼少期より絵に親しみ、石井柏亭が審査員の中国四国少年水彩画展で金賞受賞。12歳で画家になる決意をする。13歳の夏休みの早暁、屋島で五剣山の日の出を描く藤島武二に遭遇。14歳で大原美術館を訪問した。 親は画家になることを反対したが、17歳で上京、日本美術学校に入学。親の援助がないため、学費や生活費を稼ぎながらでは続かず中退する。1940年の独立展をはじめとして、次々と団体展に入選する。
鹿野 琢見(かの たくみ、1919年4月15日 - 2009… 鹿野 琢見(かの たくみ、1919年4月15日 - 2009年10月23日)は、日本の弁護士。1969年、東京第二弁護士会副会長。弥生美術館および竹久夢二美術館を創設し理事長を務めた。また立原道造記念館の創設にも関わり同館理事長を務めた。 1929年(昭和4年)発行の雑誌『日本少年』の巻頭口絵は高畠華宵の「さらば故郷!」であった。当時10歳であった鹿野は強烈に感動し、出征するまで勉強部屋に保管しておいたが、敗戦により復員したときには失われていた。 1965年(昭和40年)3月に華宵(当時77歳)が兵庫県の明石愛老園にいることを知り、「『さらば故郷!』のような絵を再び描いていただければ…」と手紙を送る。
24代 式守 伊之助(にじゅうよんだい しきもり いのすけ、… 24代 式守 伊之助(にじゅうよんだい しきもり いのすけ、1919年(大正8年)4月15日 - 2013年(平成25年)2月1日)は、大相撲の立行司。式守伊之助としての在位期間は1977年11月~1984年3月。朝日山部屋所属。香川県大川郡志度町(現さぬき市)出身。本名は尾崎信雄。 父親は高砂部屋の元三段目力士。 23代木村庄之助(2代木村正直)の弟子。1935年1月場所に初代木村正義の名で初土俵。兵役で一時相撲界を離れたが、1947年6月場所に十両格最下位で復帰した。その後、木村正信時代の1961年11月場所、三役格行司に昇進。翌1962年1月場所、3代木村正直を襲名。立行司24代式守伊之助を襲名するまで16年間(96場所)も三役格行司を務めた。
小池 欣一(こいけ きんいち 1919年4月14日- 200… 小池 欣一(こいけ きんいち 1919年4月14日- 2008年7月4日)は、日本の官僚。元内閣官房副長官(事務担当)。従三位勲一等。東京府出身。
松本 盛二(まつもと せいじ、1919年4月13日 - 20… 松本 盛二(まつもと せいじ、1919年4月13日 - 2009年5月17日)は、日本の放送事業家。大阪朝日新聞編集局長、朝日新聞西部本社代表、朝日ビルディング社長、九州朝日放送社長、日本民間放送連盟副会長などを歴任。 1919年、京都府で生まれる。以下のようにメディアの人間として創価学会と関係が深く、配偶者も創価学会員であった。 旧制甲陽中学校(現・甲陽学院中学校・高等学校)の生徒の時分に創価教育学会の講演会に参加したことがある。 1966年9月18日、大阪朝日新聞編集局長だった頃に創価学会関西文化祭(兵庫県西宮市)に来賓として参加し、池田大作に会った。当時この「雨の文化祭」について朝日新聞上で特集しようとしたが叶わなかった。
加藤 智男(かとう ともお, 1919年4月13日 - 没年… 加藤 智男(かとう ともお, 1919年4月13日 - 没年不明)は、長野県出身のプロ野球選手(投手)。
長谷川 仁(はせがわ じん、1919年(大正8年)4月13日… 長谷川 仁(はせがわ じん、1919年(大正8年)4月13日 - 1994年(平成6年)3月11日)は、昭和期のジャーナリスト、政治家。参議院議員(2期、自由民主党)。 茨城県出身。1938年(昭和13年)上智大学新聞学科卒業。卒業後は同盟通信社記者となり、東亜部南京支局、広東支局で勤務し、陸軍報道班員を務めた。戦後の1946年(昭和21年)に産経新聞社に入る。産経新聞では香港支局長、台湾支局長、東南アジア総局長、北京特派員、東京本社論説委員などを歴任する。 1962年(昭和37年)7月の第6回参議院議員通常選挙で自由民主党公認で全国区から立候補して当選する。1968年(昭和43年)7月の第8回通常選挙(全国区)でも再選され、参議院議員に連続2期在任した。
奥山 道郎(おくやま みちろう、大正8年(1919年)4月1… 奥山 道郎(おくやま みちろう、大正8年(1919年)4月10日 - 昭和20年(1945年)5月24日) は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍大佐。陸士53期。義烈空挺隊長。三重県出身。 陸軍砲兵中佐・奥山春次郎(陸士18期)の長男として神奈川県で出生。 千葉中学(現:千葉県立千葉中学校・高等学校)、津中学(現:三重県立津高等学校)を経て、東京陸軍幼年学校に入校。
甲木 清実(かつき きよみ、旧字体: 甲木 淸實、1919年… 甲木 清実(かつき きよみ、旧字体: 甲木 淸實、1919年(大正8年)4月10日 - )は、日本海軍の水上機操縦員。「ジェロニモ」の異名を持つエース・パイロットで、日本海軍で2名しかいない水上機エースのうちの1人。 零式観測機に搭乗し、南方戦線で戦果を挙げた。実戦部隊では零式観測機を皮切りに幾多の機種に搭乗した。各地を転戦しつつ太平洋戦争を生き延びた。 1919年(大正8年)4月10日、福岡県三潴郡蒲池村大字東蒲池(現:柳川市東蒲池)で生まれる。 1938年(昭和13年)6月、海軍佐世保海兵団に入団。1941年(昭和16年)5月、第54期操縦練習生を卒業。同期生に山崎市郎平(撃墜数14)。二座水上機の操縦員となる。