ミッキー・カーチス(Mickey Curtis、1938年7… ミッキー・カーチス(Mickey Curtis、1938年7月23日 - )は、イギリス系日本人のロック・ミュージシャン。 ロック歌手、音楽プロデューサー、ハーモニカ奏者、俳優でもある。 東京府東京市赤坂区(現在の東京都港区)出身。 出生名はマイケル・ブライアン・カーチス(Michael Brian Curtis)、帰化後の本名は加千須 ブライアン(かちす ぶらいあん)。 作詞家としては川路 美樹(かわじ みき)、レーサーとしてはブライアン・カーチス、落語家としてはミッキー亭 カーチス、華道家としては加千須 岩水(かちす がんすい)を名乗る。主演作品である『ロボジー』出演時に使用した五十嵐 信次郎(いがらし しんじろう)は、出生名が英語であり、また、ハーフであることから戦時中に非国民とされ、いじめを受け、日本語の名前と日本人に憧れて子供の頃に作ったもの。
三船 忠志(みふね ただし、1938年7月23日 - )は、… 三船 忠志(みふね ただし、1938年7月23日 - )は、日本の機械工学者。大阪工業大学工学部機械工学科元教授、工学博士(大阪大学)。大阪工業大学校友会参与。 専門は、機械力学・材料力学・構造工学、機械計測工学。 1963年大阪工業大学工学部機械工学科(「計測研究室」; 増尾竜一研究室)卒業。同大学大学院工学研究科機械工学専攻修士課程修了。のちに、大阪大学大学院にて工学博士号を取得。大阪工業大学工学部機械工学科助手・講師・助教授などを経て、同学科教授。大阪工業大学校友会参与。 30年近くの長きに渡り大阪工業大学機械工学科にて教鞭を執り、特に高専(奈良工業高等専門学校、阿南工業高等専門学校)との共同研究など高大連携に貢献した。
浜田 光正(はまだ みつまさ、1938年7月23日 - )は… 浜田 光正(はまだ みつまさ、1938年7月23日 - )は、日本の騎手(国営競馬、日本中央競馬会)、調教助手(日本中央競馬会)、調教師(日本中央競馬会)。 2009年に定年のため引退し、2012年現在は競馬評論家。栗東トレーニングセンター所属であった。 JRAにおける表記では浜田となっているが、濱田が正しい。 東京都荒川区の千住大橋付近で生まれる。競馬との出会いは1951年の東京優駿(日本ダービー)を父の友人である馬主に招待され観戦したことによるという。トキノミノルが優勝したこのレースを見たことをきっかけに騎手を目指すようになり、その馬主の紹介で18歳のときに騎手見習いとなった。 1957年3月1日に騎手免許を取得し、東京競馬場の内藤潔厩舎所属でデビューした。
布垣 豊(ぬのがき ゆたか、1938年7月22日 - 202… 布垣 豊(ぬのがき ゆたか、1938年7月22日 - 2021年1月12日)は、日本の経営者。京都中央信用金庫理事長を務めた。 京都府京都市出身。立命館中学校・高等学校を経て、1961年に立命館大学法学部を卒業。両親や親戚が京都中央信用金庫の原型である京都市中央市場組合で働いていたこともあり、同年に京都中央信用金庫に入社した。1989年に理事に就任し、1997年に副理事長を経て、2002年6月に理事長に就任。理事長就任の半年後に、京都中央信用金庫立てこもり事件を経験した。2015年11月に会長を経て、2018年6月には名誉会長に就任。 2021年1月12日に死去。79歳没。
山本 一義(やまもと かずよし、1938年7月22日 - 2… 山本 一義(やまもと かずよし、1938年7月22日 - 2016年9月17日)は、広島県広島市出身のプロ野球選手(外野手)・監督、野球評論家。
福田 雅章(ふくだ まさあき、1938年7月22日 - )は… 福田 雅章(ふくだ まさあき、1938年7月22日 - )は、日本の法学者、弁護士。専門は犯罪学、刑事政策。一橋大学名誉教授。
第24代 田部 長右衛門(たなべ ちょうえもん、1938年(… 第24代 田部 長右衛門(たなべ ちょうえもん、1938年(昭和13年)7月22日 - 1999年(平成11年)11月7日)は、日本の実業家。「たたら御三家」田部家の第24代当主で、株式会社田部代表取締役社長、山隂中央テレビジヨン放送株式会社代表取締役社長、有限会社松陽印刷所代表取締役社長、日新林業株式会社代表取締役社長を歴任した。出生名は田部 智久(たなべ ともひさ)。位階は従四位。勲二等瑞宝章。 父は島根県知事を務めた第23代田部長右衛門朋之。 島根県飯石郡吉田村(現・雲南市)出身。父の知事就任に伴い、慶應義塾大学学生の身分でいくつかの企業の社長に就任した。 1967年(昭和42年)のUHF開放時、島根をカバーしていたテレビ局は、鳥取県米子市に本社を置くVHFの山陰放送(BSS)だけだった。
川地 民夫(かわち たみお、1938年〈昭和13年〉7月21… 川地 民夫(かわち たみお、1938年〈昭和13年〉7月21日 - 2018年〈平成30年〉2月10日)は、日本の俳優。神奈川県逗子市出身。本名は河地猛。 1938年、神奈川県逗子市に生まれる。逗子開成高等学校卒業、関東学院大学工学部中退。 大学1年の頃に逗子の家の隣に石原裕次郎が住んでいたのが縁で裕次郎の勧めもあり日活に入社する。1958年、『陽のあたる坂道』でデビュー。小林旭、沢本忠雄と「三悪トリオ」として売り出し、アクション物、青春物に次々と主演する。その後、脇役に転じてから独特の個性に磨きがかかり、特に1963年の『野獣の青春』以来、鈴木清順監督に重用された。 日活退社後は、東映への出演が多く、特に1971年から9本作られた『まむしの兄弟』シリーズで見せたユーモラスな演技は、大いに人気を博した。
則定 衛(のりさだ まもる、1938年7月21日 - )は、… 則定 衛(のりさだ まもる、1938年7月21日 - )は、日本の元検察官、弁護士。大阪府出身。 1999年、月刊誌「噂の眞相」5月号が「高検検事長が愛人ホステスを公費出張に同伴し偽名で宿泊、愛人と別れる際には慰謝料をパチンコ業者に肩代わりさせた」という女性スキャンダルをスクープとして報道し、朝日新聞が同年4月9日付でこれを引用する形で一面トップ記事としたことから主要新聞、スポーツ紙、週刊誌も大々的にこの問題を報じ、混乱の責任をとらされる形で辞任に追い込まれた。女性スキャンダルがここまで大きくなった背景には、時の法相・中村正三郎が指揮権を発動しようとするなど権力の私的行使により辞職するなど法務省・捜査当局に対する世間の厳しい風当たりや、ゴシップ誌の「噂の真相」を新聞が引用する形で一面記事にするという極めて異例な報道展開であったことも一因にある。
田村 滋美(たむら しげみ、1938年7月20日 - )は、… 田村 滋美(たむら しげみ、1938年7月20日 - )は、公益財団法人東電記念財団理事長。東京電力会長(2002年-2008年)、東京電力自然学校校長、ビューティフル・エージング協会理事長、産業創造研究所理事長などを歴任した。 岡山県出身。岡山県立岡山朝日高等学校、東北大学工学部卒業。東北大学時代に1960年ローマオリンピックのボート競技(エイト)に出場した経験を持つ。2002年、東京電力原発トラブル隠し事件で退任した経営陣の後を受けて会長に就任、2008年まで務めた。 三菱重工業長崎造船所の世界最大級の容量を誇る液化天然ガス運搬船「アルト アクルクス」を命名した人物でもある。
三宅 興子(みやけ おきこ、1938年7月20日- 2022… 三宅 興子(みやけ おきこ、1938年7月20日- 2022年10月21日)は、日本の英国児童文学研究者、梅花女子大学名誉教授。大阪生まれ。 大阪市立大学大学院修士課程修了。大谷女子短期大学講師、梅花女子大学教授、2007年定年、名誉教授。絵本学会会長などを歴任。一般財団法人大阪国際児童文学振興財団の設立に関わり2010~2015年に理事長、その後は特別顧問を務めた。 1983年『児童文学はじめの一歩』(共著)で日本児童文学学会賞奨励賞受賞。1996年『イギリスの絵本の歴史』で日本児童文学学会賞受賞。2019年国際グリム賞受賞。 2022年10月21日、悪性リンパ腫のため死去。84歳没。
尾崎 洋二(おさき ようじ、1938年7月20日 - )は、… 尾崎 洋二(おさき ようじ、1938年7月20日 - )は、日本の天文学者。専門は恒星物理学。学位は、理学博士。東京大学名誉教授。海野和三郎に師事。 愛知県出身。1961年、東京大学理学部物理学科卒業。1964年東京大学大学院数物系研究科天文学専攻博士課程中退。 1964年東京大学理学部天文学科助手、のち助教授を経て、1985年東京大学教授。 この間コロンビア大学、コロラド大学、ニース天文台、マックス・プランク天体物理研究所の研究員として海外生活を送った。1999年に退官、長崎大学教育学部教授に就任。 京都大学基礎物理学研究所教授の嶺重慎は尾崎の弟子にあたる。 南山大学教授の尾崎俊治(工学博士)は実弟である。
坂田 貞二(さかた ていじ、1938年7月20日 - )は、… 坂田 貞二(さかた ていじ、1938年7月20日 - )は、ヒンディー語・文学者、拓殖大学名誉教授。 1938年、東京で生まれた。東京外国語大学インド・パーキスターン語学科で学び、1963年に卒業。1963年から1965年まで、バナーラス・ヒンドゥー大学(英語版)に留学。 1974年、拓殖大学専任講師に就いた。1976年に助教授、1983年に教授昇格。2001年、デリー大学客員教授として在外研究。2009年に拓殖大学を定年退職し、名誉教授となった。 専門はインドの文学で、ヒンディー語地域で方言調査、民話採録、宗教行事の観察などを進めた。民話や昔ばなしの翻訳も多く、親しまれている。
山本 順之(やまもと のぶゆき、YAMAMOTO Nobuy… 山本 順之(やまもと のぶゆき、YAMAMOTO Nobuyuki 1938年(昭和13年)7月19日 - 2024年(令和6年)7月8日)は、観世流能楽師(シテ方)。重要無形文化財保持者(総合認定)。公益社団法人「銕仙会」理事。能楽協会会員。「山本順之の会」「順扇会」主宰。 大阪府大阪市生まれ、東京都在住。大阪府立清水谷高等学校卒業。早稲田大学文学部卒業。父である山本博之(観世流能楽師、山本能楽堂創立者)および八世観世銕之亟(人間国宝)に師事。1942年(昭和17年)4歳の時、仕舞「老松」で初舞台。1945年「花月」で初シテ。 2024年7月8日、肝細胞癌のため死去。85歳没。 曲趣を正確に捉え観客の想像力に訴えかける、幅の広い地謡作りの「地頭(リーダー)」として定評があり、銕仙会の地謡を支える重鎮だが、若手や斬新な作品にも数多く出演している。
高木 仁三郎(たかぎ じんざぶろう、1938年7月18日 -… 高木 仁三郎(たかぎ じんざぶろう、1938年7月18日 - 2000年10月8日)は、日本の物理学者。専門は核化学。理学博士(東京大学)。 群馬県前橋市出身。群馬県立前橋高等学校、東京大学理学部化学科卒業。 父は開業医。幼少時の仇名は「ジンザ」でエスペラントに関心を持っていた。 宮沢賢治文学を愛好した。群馬大学学芸学部附属小・中学校時代の同級生には、日本銀行で要職を務めたあとOECD経済総局長、ついでOECD副事務総長に栄進した重原久美春、SF作家の豊田有恒、がいる。 『高木仁三郎著作集』(全12巻)など多数の著書を七つ森書館より刊行。同社の中里英章社長(当時)は高木に師事した。 政府の原子力政策について自由な見地からの分析・提言を行う為、原子力業界から独立したシンクタンク・原子力資料情報室を設立して代表を務めた。
内藤 武宣(ないとう たけのぶ、1938年7月17日 - )… 内藤 武宣(ないとう たけのぶ、1938年7月17日 - )は、日本の政治家秘書、新聞記者。福岡県出身。
井原 まなみ(いはら まなみ、1938年7月17日 -)は日… 井原 まなみ(いはら まなみ、1938年7月17日 -)は日本の推理作家。夫は同じく推理作家の石井竜生。 満洲国新京出身。中学1年で終戦を迎え、引き揚げ後、広島県などで育った[要出典]。中央大学法学部卒業後、文部省事務官として東京大学に勤務。7年間の結婚生活と離婚の後、1971年8月に裁判所事務官上級職の試験場で石井竜生と出会い、1972年に再婚。主婦のかたわら文筆活動を行う。宅地建物取引士(当時は宅地建物取引主任者)として不動産会社に勤務したこともある。[要出典] 1976年、石井竜生との夫婦合作「アルハンブラの想い出」で第15回オール讀物推理小説新人賞。1985年、同じく石井との合作「見返り美人を消せ」で第5回横溝正史賞受賞。
柘植 光彦(つげ てるひこ、1938年7月17日 - 201… 柘植 光彦(つげ てるひこ、1938年7月17日 - 2011年11月15日)は、日本の文芸評論家。専修大学名誉教授。 東京府出身。東京大学仏文科在学中の1960年、小説『大きな赤い太陽』を『文學界』に発表。1961年第16次『新思潮』創刊。1964年第17次『新思潮』創刊(第17次『新思潮』同人郷正文小説集『愛の家族』(審美社刊)の<あとがき>に「郷正文作品の現代的意味 ― 解説に代えて」を書く)。 東京大学大学院人文科学研究科国語国文学専攻修士課程修了。専修大学助教授、1981年教授、2009年定年退職、名誉教授。 大学院博士課程在学中に東大闘争に遭遇し、ノンセクトの思想に共鳴した。以後、学問論や研究者論を展開するとともに、現代日本文学研究者として活動。
二瓶 剛男(にへい たけお、1938年7月17日 - 200… 二瓶 剛男(にへい たけお、1938年7月17日 - 2009年9月10日)は、日本の経済学者。東京大学名誉教授・元北海学園大学教授。専門は理論経済学、経済政策。東京都出身。 この項目は、経済学者(経済評論家を含む)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ウィキポータル 経済学、ウィキプロジェクト 経済)。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
田主 智彦(たぬし としひこ、1938年〈昭和13年〉7月1… 田主 智彦(たぬし としひこ、1938年〈昭和13年〉7月17日 - 2019年〈令和元年〉10月29日)は、日本の政治家、元岡山県浅口市長(1期)。位階は従五位。旭日小綬章受章。 岡山県出身。早稲田大学教育学部卒業、同大学院商学研究科中退。1994年鴨方町長に初当選、4期務める。2006年、鴨方町・金光町・寄島町が合併し、浅口市が発足。合併後の市長選挙に立候補し、元岡山県議会議員の栗山康彦を破って当選した。浅口市長を1期務め、2010年に市長を退任した。2017年秋の叙勲で旭日小綬章を受章。2019年10月29日死去。死没日付をもって従五位に叙された。
大野 慶人(おおの よしと、1938年〈昭和13年〉7月15… 大野 慶人(おおの よしと、1938年〈昭和13年〉7月15日 - 2020年〈令和2年〉1月8日)は、舞踏家、演出家、ダンスセラピスト、教育者。大野一雄の次男。1986年以降、大野一雄の全作品を演出している。 ソロ作品「花と鳥」(2013年)はヨーロッパ(2014年)ブラジル(2015年)中国 (2016年2017年)を巡演。
金田 晉(かなた すすむ、1938年7月15日 - )は、日… 金田 晉(かなた すすむ、1938年7月15日 - )は、日本の美学者。広島大学名誉教授。蘭島閣美術館名誉館長。専門は現象学的美学、造形美学の現象学。元広島県博物館協議会会長。 大阪府出身。大阪府立三国丘高等学校を経て、1962年東京大学文学部美学美術史学科卒業。1969年同大学院美学専攻博士課程単位修得退学。2004年「形態と価値の現象学-フッセルの美学思想を弾機として-」で東京大学文学博士。1969年広島大学教養部講師、1974年同総合科学部助教授、1983年教授。2000年定年退官、名誉教授、東亜大学総合人間・文化学部教授・同学部長、特任教授、広島大学監事。ひろしま美術館理事。財団法人蘭島文化振興財団顧問。
平光 清(ひらこう きよし、1938年7月15日 - 201… 平光 清(ひらこう きよし、1938年7月15日 - 2011年8月9日)は、東京都大田区出身の元プロ野球審判員、野球解説者。大学野球、プロ野球選手経験は無い。通称「先生」「審判先生」。
茅原 郁生(かやはら いくお、1938年7月14日 - )は… 茅原 郁生(かやはら いくお、1938年7月14日 - )は陸上自衛官、拓殖大学名誉教授。専門は、中国の安全保障。山口県出身。
棟方 宏一(むなかた こういち、1938年7月13日 - 2… 棟方 宏一(むなかた こういち、1938年7月13日 - 2019年2月11日)は、日本のアナウンサー(NETテレビ・テレビ朝日→フリー)。またテレビ朝日アスクの講師を歴任した。秋田県大曲市出身。 報道・ワイドショー番組
石岡 瑛子(いしおか えいこ、1938年7月12日 - 20… 石岡 瑛子(いしおか えいこ、1938年7月12日 - 2012年1月21日)は、東京府出身のアートディレクター、テキスタイルデザイナー。 妹は同じくアートディレクター、イラストレーターの石岡怜子。米国映画芸術科学アカデミー協会 (Academy of Motion Picture Arts and Sciences) 会員。 お茶の水女子大学附属中学校・ お茶の水女子大学附属高等学校を経て、東京藝術大学美術学部図案計画科を卒業後、資生堂宣伝部に入社。村瀬秀明、中村誠らとともにグラフィックデザイナー、アートディレクターとして活動した。 1970年、石岡瑛子デザイン室として独立し、パルコや角川書店などの広告で1970年代の日本で活躍。
井上 哲夫(いのうえ てつお、1938年(昭和13年)7月1… 井上 哲夫(いのうえ てつお、1938年(昭和13年)7月12日 - 2019年(平成31年)2月21日)は、日本の政治家。三重県出身で、参議院議員(1期、三重県選挙区)、第15代四日市市長(3期)を務めた。 三重県四日市市海蔵地区生まれ。三重県立四日市高等学校、名古屋大学法学部卒業。 民間企業で働きながら司法試験に26歳で合格。司法修習20期を経て、弁護士登録。司法修習の同期には高村正彦(元外務大臣)、江田五月(参議院議長)、横路孝弘(衆議院議長)、神崎武法(元公明党代表)、松尾邦弘(元検事総長)らがいる。四日市市ぜんそく公害訴訟の原告弁護団の一員を務める。 その後三重県弁護士会会長も務める。
本多 弘之(ほんだ ひろゆき、1938年〈昭和13年〉7月1… 本多 弘之(ほんだ ひろゆき、1938年〈昭和13年〉7月12日 - )は、真宗大谷派僧侶・仏教学者。専攻は真宗学。元大谷大学助教授。真宗大谷派講師。2017年現在、真宗大谷派東京教区第一組臨川山本龍寺住職、親鸞仏教センター所長、真宗大谷派董理、学仏道場相応学舎講師、朝日カルチャーセンター新宿教室講師、中村元東方研究所講師。
安藤 賢(あんどう まさる、1938年7月12日 - )は、… 安藤 賢(あんどう まさる、1938年7月12日 - )は、日本の銀行家。 鳥取県出身。1961年に京都大学法学部を卒業し、同年4月に三和銀行に入行。1988年6月に専務に就任し、1991年6月に大京専務、1996年6月に鳥取銀行専務を経て、1997年6月に副頭取に就任し、同年12月には頭取に昇格。2005年5月に会長を経て、2010年6月には相談役に退いた。
近藤 康夫(こんどう やすお、1938年(昭和13年)7月1… 近藤 康夫(こんどう やすお、1938年(昭和13年)7月11日 - )は、日本の工学者。元徳島工業短期大学学長。新居浜工業高等専門学校名誉教授。 徳島県出身。1963年(昭和38年)に徳島大学工学部を卒業。2002年(平成14年)に同大学工学研究科システム工学専攻博士課程を修了し博士(工学)を授与。 大学卒業後は新居浜工業高等専門学校の助教授・教授を経て退官後に名誉教授となる。また徳島工業短期大学の学長も務めた。これまでに電気学会・計測自動制御学会などに所属。 近藤安次郎 1943-1990 | 近藤吉克 1990-2009 | 近藤孝造 2009-2022 | 和田博文 2022-現在 近藤安次郎 | 濱田實 | 宮本俊助 | 近藤康夫 | 山本哲彦 2007-2013 | 宮城勢治 2013-2021 | 多田博夫 2021-現職 徳島工業短期大学の人物一覧 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。
荒嶋 龍一(あらしま りょういち、1938年〈昭和13年〉7… 荒嶋 龍一(あらしま りょういち、1938年〈昭和13年〉7月10日 - )は、日本の政治家、元岡山県赤磐市長(1期)。旭日双光章受章。 岡山県出身。岡山県立瀬戸高等学校卒。吉井町農業共済組合に就職後、吉井町役場に勤務し、収入役など各役職を歴任する。1998年 吉井町長に当選し、2期務める。2005年、吉井町は合併により、赤磐市が発足。合併後の赤磐市長の市長選挙に立候補し、2人を破って当選した。赤磐市長を1期務め、2009年の市長選挙に立候補し、再選を目指したが、元赤磐市議の井上稔朗に敗れて落選した。
斎藤 良雄(さいとう よしお、1938年7月9日 - )は、… 斎藤 良雄(さいとう よしお、1938年7月9日 - )は、宮城県出身の元プロ野球選手(投手→外野手)。左投左打。 宮城県白石高等学校から1957年に国鉄スワローズへ入団。同期に村田元一がいた。1年目から一軍で投げたが投手としては力量不足で勝星を挙げたことも先発したこともなかった。武器はシュート、カーブ、ドロップを武器とした。左ということもあり1961年に打者に転向したが、元投手なのに肩が弱く、打撃も非力でさしたる活躍もないまま1963年限りで引退した。なお、高校の先輩である佐藤孝夫も同年で引退している。
戸張東夫(とばり はるお、1938年7月9日 -2022年1… 戸張東夫(とばり はるお、1938年7月9日 -2022年1月9日、享年83 )は、日本の中国映画・社会・政治・外交評論家。 東京生まれ。東京外国語大学中国語科卒業。読売新聞入社、香港特派員。帰国後、東京本社編集局勤務。産業能率大学経営情報学部教授を務めた。 中国語圏の映画に関する活動は最初は愛好家としてスタートしたが、やがて評論をするようになり、最終的に山田辰雄らの理解もあり学術・研究までもっていった。
今津 光男(いまづ みつお、1938年7月8日 - 2005… 今津 光男(いまづ みつお、1938年7月8日 - 2005年11月7日)は、兵庫県尼崎市出身の元プロ野球選手(内野手)・コーチ。
小沢 さとし(おざわ さとし、1938年7月8日 - )は、… 小沢 さとし(おざわ さとし、1938年7月8日 - )は、日本の児童文学作家、小説家。本名・聰。箕輪町の資料館「美空ひばり歌の里」館長。 長野県上伊那郡箕輪町出身。立教大学文学部卒。 1983年、『黒潮物語』で第6回塚原健二郎文学賞受賞。「絵本伊那谷ものがたり」シリーズを刊行している。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
宮沢 重雄(みやざわ しげお、1938年7月7日 - )は、… 宮沢 重雄(みやざわ しげお、1938年7月7日 - )は、東京都出身の元プロ野球選手(外野手)。左投左打。 日大三高では、2年生の時エース並木輝男を擁し、外野手として1955年に夏の甲子園に出場。準々決勝に進むが坂出商に大敗。翌1956年には春の選抜にも出場。準々決勝に進出するが渡海昇二らのいた芦屋高に完封負けを喫する。同年夏は都予選準決勝で成蹊高に敗退した。 1957年に大洋ホエールズに入団、1年目から一軍で起用される。しかしあまり活躍の場はなく1958年限りで引退した。
星山 晋徳(ほしやま しんとく、1938年7月7日 - )は… 星山 晋徳(ほしやま しんとく、1938年7月7日 - )は愛知県豊橋市出身の元プロ野球選手。
木村 軍治(きむら ぐんじ、1938年7月7日 - )は、愛… 木村 軍治(きむら ぐんじ、1938年7月7日 - )は、愛知県出身の元プロ野球選手。右投右打で、ポジションは遊撃手。
中島 孝夫(なかじま たかお、1938年(昭和13年)7月7… 中島 孝夫(なかじま たかお、1938年(昭和13年)7月7日 - )は、日本の官僚。元会計検査院事務総長。
黒井 和男(くろい かずお、1938年7月7日 - )は、日… 黒井 和男(くろい かずお、1938年7月7日 - )は、日本の映画プロデューサー。キネマ旬報社、角川映画の元社長、シネマ・インヴェストメントの元会長。黒井オフィス代表。 本名は土橋寿男。父親の土橋治重は、ジャーナリスト、詩人、作家。 日本大学藝術学部映画学科卒業後、株式会社興行通信社に入社した。映画の配給・興行に精通し、映画プロデューサー・コーディネーターなどで数多くの映画製作に携わる。 また、白井佳夫時代の『キネマ旬報』に業界記事の執筆を依頼され、本名では問題があると、白井の妻の名前にちなんで「黒井和男」というペンネームをつける。のち1973年ごろから、白井とのコンビ「ビアンコ・エ・ネーレ」で海外に行き、現地の映画情報を伝える記事を作る。
中平 卓馬(なかひら たくま、1938年7月6日 - 201… 中平 卓馬(なかひら たくま、1938年7月6日 - 2015年9月1日)は、日本の写真家、写真評論家。 東京の原宿に生まれる。父は、書道家の中平南谿(本名:恵)。 東京都立小山台高等学校を経て、東京外国語大学スペイン語学科卒業。 『現代の眼』編集者時代には、柚木明の名前で作品を発表。1970年発表の写真集『来たるべき言葉のために』までは森山大道とともに「アレ、ブレ、ボケ(荒い画面、手ブレや被写体ブレ、ピント外れの意)」の作風で知られたが、1973年発表の『なぜ、植物図鑑か』では一転して「アレ、ブレ、ボケ」の作風を否定し、撮り手の情緒を排したカタログ写真や図鑑の写真のような写真を目指した。 作家の辺見庸は、2002年に出版した「永遠の不服従のために」で、「私の長く敬愛する写真家」と述べ、中平の『来たるべき言葉のために』について「その比類ない映像はほぼ三十年近くも私の胸の中に着床したままだ」と書き、自作品への影響を認めた。
金城 哲夫(きんじょう てつお、1938年〈昭和13年〉7月… 金城 哲夫(きんじょう てつお、1938年〈昭和13年〉7月5日 - 1976年〈昭和51年〉2月26日)は、日本の脚本家。沖縄県島尻郡南風原町出身。第一期ウルトラシリーズを企画し、文芸部長としてシリーズの基礎を作り上げた一人である。 1938年に東京で生まれたが、中学までを沖縄で過ごした。中学卒業後の1955年、小原国芳の玉川学園の教育方針を信頼した母親の勧めで上京して玉川学園高等部へ入学、玉川大学文学部教育学科へ進学し卒業。高校時代は金星の研究をするSFクラブ「日金友好協会」を結成したり、友人たちと結成した「沖縄慰問隊」当時の玉川学園の高等部に於ける修学旅行として、パスポートが必要なアメリカ統治時代の沖縄を訪問するなど、リーダーシップを少年時代から発揮していた。
伊吹 迪人(いぶき みちと、1938年7月5日 - 2006… 伊吹 迪人(いぶき みちと、1938年7月5日 - 2006年1月14日)は、日本の官僚。
蔦 行雄(つた ゆきお、1938年7月5日 - 2007年7… 蔦 行雄(つた ゆきお、1938年7月5日 - 2007年7月6日)は、兵庫県出身のプロ野球選手(投手)。 洲本高校では、エースとして1955年秋季近畿大会県予選準決勝に進むが、渡海昇二らのいた芦屋高に9回裏サヨナラ負け。1956年夏の甲子園県予選では決勝に進出。県尼崎高の今津光男と投げ合うが、9回裏またも1-2でサヨナラ負けを喫し、甲子園出場を逸する。高校同期に遊撃手の鎌田実がいる。 1957年に近鉄パールスへ入団。1959年にはチーム最多の50試合に登板、先発陣の一角としても起用された。翌1960年はミケンズに次ぐ23試合に先発し、7勝を記録した。1961年には開幕投手を経験。1963年に広島カープに移籍し、同年限りで引退。
平野 甲賀(ひらの こうが、1938年7月5日 - 2021… 平野 甲賀(ひらの こうが、1938年7月5日 - 2021年3月22日)は、日本のブックデザイナー。 妻の平野公子はスタジオイワト・プロデューサー。長男は写真家の平野太呂。 1938年 朝鮮・京城(現・ソウル)生まれ。 1945年 終戦を迎え、静岡に移住。 1957年 武蔵野美術学校(現・武蔵野美術大学)デザイン学科入学。 1960年 武蔵野美術学校在学中に、グラフィックデザイナーの登竜門であった「日宣美」展で、大江健三郎『見るまえに跳べ』にて特賞受賞。 1961年 髙島屋の宣伝部入社。 1963年 高島屋退社、フリーランスとなる。 1964年以降、晶文社のほぼ全ての本の装幀に携わる。また、サイをあしらった同社の書籍のロゴマークも彼の手による。
宮本 征勝(みやもと まさかつ、1938年7月4日 - 20… 宮本 征勝(みやもと まさかつ、1938年7月4日 - 2002年5月7日)は、茨城県日立市出身のサッカー選手、サッカー指導者。選手時代のポジションはディフェンダー。サッカー日本代表として44試合に出場し、1968年のメキシコシティオリンピックで銅メダルを獲得した。 茨城県立日立第一高等学校でサッカーを始め、1956年の第35回全国高等学校サッカー選手権大会で準優勝し、得点王および最優秀選手に選出された。 1957年、早稲田大学第二商学部に入学。在学中は早稲田大学ア式蹴球部に所属し、在学中の1958年にサッカー日本代表に選出され、同年12月の香港代表戦で初出場した。 大学卒業後、1961年から長沼健や大学の先輩・八重樫茂生ら代表選手の揃った古河電気工業サッカー部(現:ジェフユナイテッド市原・千葉)に入団した。
大谷 治男(おおたに はるお、1938年7月4日 - )は、… 大谷 治男(おおたに はるお、1938年7月4日 - )は、日本の元陸上競技選手。千葉県印旛郡酒々井町出身。専修大学商経学部商業学科卒業。 酒々井町立酒々井小学校、酒々井町立酒々井中学校、成田高等学校、専修大学出身。 東京都墨田区向島で生まれたが、1945年3月10日に東京大空襲があり、父の実家のある千葉県酒々井町に移り住んだ。 中学卒業後はパン屋に就職することになっていたが印旛郡の中学生ロードレース大会で優勝し、成田高等学校に進学した。高校時代には全国高校駅伝に出場した。 高校卒業後は佐倉郵便局に就職することになっていたが、長嶋茂雄の兄である長嶋武彦との縁もあり、専修大学の補欠試験を受けて合格した。
杉本 公孝(すぎもと きみたか、1938年7月4日 - )は… 杉本 公孝(すぎもと きみたか、1938年7月4日 - )は、山口県出身の元プロ野球選手。ポジションは内野手。 岩国高校ではエース金沢宏を擁し、1955年秋季中国大会県予選準決勝に進むが山口高に敗退。翌1956年春季山陽大会では決勝に進出するが、岡山東商に大敗を喫する。同年夏は県予選で敗れ、甲子園には出場できなかった。 卒業後は立教大学へ進学。東京六大学野球リーグでは長嶋茂雄の後継三塁手として立大黄金期後半を支え、在学中5回優勝、全日本大学野球選手権大会2回優勝。1959年春季リーグではリーグ史上初の5連覇が期待されたが、高校同期の金沢を主戦投手とする早大に競り負け2位に終わる。リーグ通算79試合出場、283打数72安打、打率.254、3本塁打。
雲仙山 尚敏(うんぜんやま なおとし、1938年7月3日 -… 雲仙山 尚敏(うんぜんやま なおとし、1938年7月3日 - 没年不明 )は、長崎県南高来郡加津佐町(現在の南島原市)出身で二所ノ関部屋所属の1960年代に活躍した元大相撲力士。本名は、岩永 尚敏(いわなが なおとし)。現役時代の体格は身長174cm、体重98kg。得意手は右四つ、寄り。最高位は西十両7枚目。血液型はB型。 1955年1月場所に初土俵を踏む。初土俵から負け越すことなく1958年1月場所で幕下へ昇進、幕下でも2度負け越したのみで順調に番付を上げ、1960年5月場所に21歳で新十両に昇進。その場所は3勝12敗と大きく負け越し1場所で幕下へ陥落。1962年3月場所で再度十両へ復帰し、その場所で10勝5敗と二桁勝利を挙げると以降十両へ定着する。
青木 太一郎(あおき たいちろう、1938年〈昭和13年〉7… 青木 太一郎(あおき たいちろう、1938年〈昭和13年〉7月2日 - )は、新潟県新潟市西区出身の政治家。新潟県立新潟南高等学校卒業、東京農業大学修了。新潟県議会議員(7期)、黒埼町長(1期)、黒埼町議会議員を歴任した。勲等は旭日中綬章。 新潟県立新潟南高等学校を卒業後、家業の農業に従事する傍ら、村の青年団に入り、後に団長を務める。1958年(昭和33年)に東京農業大学農学部を通信制で修了。1971年(昭和46年)から黒埼町議会議員を務め、3期目途中で辞任し、1981年(昭和56年)に行われた黒埼町長選に出馬。当時の浅妻茂一郎町長に挑んだが、落選。4年後の町長選では同じ顔合わせになり、7443票を集めて当選する。